西宮市苦楽園にありました俳人山口誓子邸は、阪神大震災で倒壊しました。氏の遺産は、御遺志により神戸大学に御寄贈いただき、俳句・俳句文学を中心とする国文学・日本文化研究の興隆発展、その蔵書を基礎とした文庫の充実、また海外との学術交流などに使われております。
 1997年3月26日、氏の命日を期して、誓子邸跡地の一角に、ご夫妻の句碑と記念碑が、「天狼」有志の方々と神戸大学誓子波津女顕彰会の手により建立され、今後西宮市の文学遺跡として、大事に保存されることになりました。

 以下、その句碑に刻まれたご夫妻の句と碑文を紹介いたします。


   

句碑及び顕彰碑銘文

 

虹の環を以て地上のものかこむ    誓 子


毛糸編み来世も夫にかく編まん     波津女

 山口誓子 俳人。明治三十四年(一九〇一)十一月 三日生れ。平成六年(一九九四)三月二十六日没。本名新比古。父新助、母岑子の長男として、京都市上京区岡崎町字福の川に生れる。幼時より外祖父脇田嘉一に育てられ、京都・東京・樺太・京都と転居を重ねた。京都一中を経て旧制三高に入学。京大三高俳句会に参加して本格的に句作を始める。大正十一年(一九二二)東大法学部に入学、東大俳句会に加わり、高浜虚子に直接指導を受けるようになった。「ホトトギス」で最初に巻頭を占めたのは大正十三年十月号。同十五年東大卒業後、住友合資会社に入社。会社では主に労務関係を担当したが、昭和十五年学生時代からの胸部疾患が悪化、昭和十五年休職して伊勢富田に転地、保養に努める。さらに同十七年には退職、療養と文筆活動に専念する。早く昭和初期に「ホトトギス」雑詠欄の新鋭として活躍、青畝、秋桜子、素十とともに「四S」の一人に数えられた。素材としては好んで近代的材料を取り上げ、方法としては写生構成を唱えて、硬質の叙情世界を開拓、いわゆる新興俳句運動に対し先導的役割を果たした。しかし無季俳句派とは常に一線を画し、昭和十年「馬酔木」に同人と して参加、秋桜子等と連携し、有季定型を遵守した。昭和二十三年「天狼」を創刊、多くの俳友・門下を糾合して、戦後の俳句復活に大いに寄与した。ことに俳句の根源を厳しく追求する一派の運動は、俳句固有の方法の開発に貢献したと高く評価されている。戦後は、天ヶ須賀・白子・鼓ヶ浦と転地を重ねたが、昭和二十八年白子で伊勢湾を襲った台風十三号にあい、ここ西宮苦楽園に転居、終の住み処とした。句集に「凍港」「黄旗」「炎昼」「七曜」「激浪」「断崖」「遠星」「光陰」「晩刻」「妻」「青女」「和服」「構橋」「方位」「青銅」「一隅」「不動」「遍境」「雪嶽」「紅日」「大洋」「新撰大洋」がある。昭和六十二年芸術院賞受賞、平成四年に文化功労者として顕彰される。

 山口波津女 俳人。明治三十九年十月二十五日生れ。昭和六十年六月十七日没。本名梅子。父浅井啼魚の影響で少女時代より句作。昭和二年より誓子の指導を受け、同三年誓子と結婚。「ホトトギス」を経て「馬酔木」同人。のち「天狼」創刊と同時に同誌同人となる。療養生活中の誓子は波津女を「妻にして母、主婦にして看護婦」と評し、深切に愛した。句集に「良人」「天楽」「紫玉」がある。

 われわれは右に掲げる誓子句の広大無辺の愛と志操の高潔を慕い、同時に波津女句の優しい夫婦愛の形見が永くこの地にとどまることを祈念して、この碑を建立するものである。


           平成九年三月二十六日  
                      「天狼」有志                    
                      神戸大学 誓子波津女顕彰会                    


神戸大学百年記念館展示ホール山口誓子展(通常展)
神戸大学 山口誓子記念館
神戸大学 誓子・波津女俳句俳諧文庫