2010年7月1日講義レジュメ
(前回の復習)
Keyword
文化エリート、文化資本、ハビトウス、プラクシス、主体と実践
local keyword
士大夫、ソンビ、孝と礼、家族主義、両班、両班化,氏族イデオロギー
前回の講義との関係
・日本の植民地支配を受けとめた朝鮮(韓国)社会
→前近代の社会ー文化システムがどのように変質したか
・植民地支配に対する「伝統」「民族文化」の強調
【歴史的背景】
→先週配布した資料
1.士林勢力の成長と士禍
2.教育と科挙制度
3.身分制度と郷村社会
4.人口増加と身分制度の変動
1.朝鮮社会の二重構造(秋葉隆)
儒教 / 民間信仰、巫俗(シャマニズム)
両班 / 常民
男性 / 女性
公的領域 / 私的(家内的)領域
外来の文化 / 土着の文化
映像資料(金両基『韓国発見』)
両班化と日常生活:家族・親族関係の編成
両班化(氏族イデオロギー、儒教イデオロギー)と日常生活のせめぎあい
両班とは:
両班のもともと両班は高麗王朝および李氏朝鮮王朝において科挙の受験資格を有し、官僚を出すことのできた階層であり、王朝における支配者階級である[吉田 1986:419]。両班とは、王朝の公的行事で官僚が二列に並ぶその並び方を指すもので、南面した王に対して「東班」(文官)と「西班」(武官)を総称して両班と言う。つまり両班は本来李氏朝鮮時代における国家の官僚制度上の役職者の総称であった。
両班社会の形成
ただし李氏朝鮮時代中期以降は両班の意味が変容する。まず官僚の世襲化が進み、単なる官僚の総称から社会的、身分的な特権へと意味が変わる。さらに両班は特
朝鮮王朝の変容
両班社会とこれを支える李氏朝鮮王朝の社会制度は十七世紀以降に変質しはじめる。その契機は数回にわたる日本と中国の侵略(1592年と1598年の豊臣秀吉の文禄および慶長の役:壬辰、丁酉の乱、および1627年と1636年の金および清の侵入:丁卯、丙子の乱)である。このため国家財政が危機に瀕し、この解決策として政府による積極的な売位売官がおこなわれるようになった。また戦乱の中で戸籍が失われたことに乗じた虚偽の戸籍の申告や系譜の操作なども多く、李氏朝鮮時代後期には戸籍上の両班が全体人口の過半数を占めるまでに増加した。しかし、この事は両班をひとつの理想とする価値観の社会全体への拡散が起きたとも言えよう。
身分階層の変動と文化的エリートとしての両班
李氏朝鮮時代を通して特権的な階層であった両班は十九世紀末、大きな変動期に直面する。開国およびその後の近代化への胎動である。まず1894年の「甲午改革」では両班の身分の根拠であった科挙が廃止され、身分解放が宣言される。さらに軍役などの賦役・納税の免除、刑罰の優遇措置など両班が享受してきた特権の廃止宣言がなされる。これは両班の身分を支えてきた制度の全面的崩壊を意味する。一方、この時期に両班の内部での経済的格差も顕在化し、零落した両班は自作農にもとどまれず、小作人に転落する場合もあり、両班という社会階層と経済階層が一致しなくなっていく。 このように歴史学的な意味で両班を見る限り、今日制度上の両班は存在しないのである。ならば、現在でも李氏朝鮮時代から続く両班への上昇志向が根強く残っているよのはなぜだろうか。
両班の
(1)高麗、李氏朝鮮時代の特権的な身分階層、
(2)礼儀正しく善良な人、
(3)婦人が第三者に対して自分の夫を指していう言葉、
(4)男性をやや敬う語、男性をやや蔑む語などの意味があり、多様で広い概念として用いられる[油谷他編 1993]。
これらの語義のほかに、両班についての
両班の資格要件は歴史学においても明確に
これらの要件は、客観的基準と言うより、両班を自称する本人が強く主張するか否か、周囲がこれを認知するか否かによって変化しうる基準である。例えば両班的生活様式とは、儒教的倫理を守った行動、特に祖先祭祀をおこなうことや「接賓」(賓客の接待)など礼儀正しい交際をすること、学問(儒学)に励むことなどがあげられる。同時に両班的生活様式か否かが区別するのに客観的な基準があるとは言い難い。
多くの歴史学者たちは(1)の基準をもっとも重要なものと見なしているようである。筆者の調査においても現地のインフォーマントも同様の見解を共有していた。ただし、(1)が両班であるための必要十分条件というわけではなく、ある程度他の要件を満たしていると、周囲が認めていることが必要である。さらに(2)から(4)の要件のうち、どれが重要視されるかは状況に応じて違う。
一般的な傾向として、歴史学者は両班を高麗および李氏朝鮮時代の特権的な身分階層に限