5月22日comment
今回から少しコメントと評価をします。とはいえ、質問に全て答えることはしません(私はドラえもんではない)。わかった、とか、思った、感じたではなく、疑問について、自分なりに調べる姿勢、そして具体的な例で考えて欲しいところです。
ダムダム;国民国家を形成すると同時に多文化状況に陥ることをパラドクス
と授業内では言われていた。ある基準で共通項を持つか持たないかで国家という枠組みを決めたため、国家のなかは均質的であることが理想とされ、一方で現実的には「すべて同じ」人間は存在しないため、かえって差異が強調され多文化状況に陥っていることに焦点があてられるのは必然かもしれない。生活していく上で国家内で一定の共通認識は不可欠であるため、(特に日本では「常識的」であることが重要視される)学校で「公共性」の教育がなされるのだと考えた。
spirit:多文化状況と国民国家など「多」かつ「単」という近代のパラドクスはパラドクスだけあってなかなか捉えがたいなと思いました。多文化を受け入れることで一体になる感覚であるけれど、はたしてどこまで‘受け入れる’ことができているのかという部分が一つの問題になるのかもしれないと感じました。鎖国体制下の日本は、唐人屋敷をもうけるなど中国人に対しては同じ漢字圏ということもあってか割と受け入れている感じがあったけれど、オランダ人に対してはそうでもなかったと講義でおっしゃっていたのが印象的でした。
また、グローバル化のなかの公共性という問題も興味深いと思いました。グローバル化とはいっても、どういったものを公共とするのかで結局様々な差異が生じるのだなと思いました。南京町などを設けることは公共の線引きのようなものだから隔離と保護の二面性も生まれてしまうのかなと思いました。
ryu:★今回の講義で一番印象的だったのはなぜ歴史教育において文化史は暗記項目かという話です。確かに文化はその時代の社会の様子や人々の思想などを表すものなのにそれが単なる暗記項目としてあまり深く教えられないのにはなぜだろうか非常に疑問です。どのような意図があるのでしょうか。何か教えたくない理由があるのでしょうか。またほかの国においてはどのように扱われているのでしょうか。歴史教育はその国の意図を知るためのいい材料だと思いました。
→興味深いテーマです。少し自分で調べると面白いですよ。
gagaryu:高校で学ぶような大文字の歴史では学ぶことができない、在日華僑の歴史。まさにその通りで、高校ではただ開国と共に華僑が特定の地域に多く流入してきたとしか学んできませんでした。華僑の集住の背景には、その土地の華僑が住みやすいような政治的、文化的理由があったのですね。今私が住んでいる地域には韓国人が多く住んでいます。こちらは労働のために移住してきた韓国人が、韓国人にとって住みやすい地域を作ってきたとのことでした。ただ、去年この地域で韓国人による日本人を狙った通り魔事件が起こったこともあり、未だに日本人と韓国人との間で、政治的、文化的な壁があるように感じます。
称月 澪:日本においては明治維新以降、立憲政治、中央集権体制、土地制度、税制が確立した。また、立憲政治にともない憲法が制定され、政治・経済体制の近代化がおこった。さらに、政治・経済体制だけでなく、文化においても近代化がおこったが、その一方で近代化できない文化の協調がなされ、「国民文化」の生成がおこった。これからのことから、欧米化をおこしてグローバル化を促進するだけでなく、国民文化を形成するという二面性を持っているという点が、複雑であり、近代化を一概に定義することは難しいと感じた。
ライアン: 近代以降、学校は国語と歴史を教え込み、公共性を重んじる場であり、そのことが現在の"日本人"アイデンティティ形成に一役買ったのだろう。近代国民国家形成にあたり、一民族一国家を目指しながらも、国内問題の解決に植民地・貿易・移民などの国外の力を使わざるを得ず、結局多民族多文化化という矛盾したことが起こったのは、歴史の必然性を感じた。またグローバル化とよく言われるが、経済的差異から生まれる物々交換を原点とするならば、それは今では世界レベルで顕著になっただけであり、今に始まったことではないことがわかる。
Easywood★:バンクーバーのチャイナタウンの話が特に印象に残った。自分自身、バンクーバーに言ったことがあり、神戸の中華街の中華料理ほぼ一点張り(実は完全にそうでもないが)に比べ、バンクーバーチャイナタウンはまさに生活の場、という感じだった。食品スーパー、共産党批判の新聞スタンド、屋台、あちこちから聞こえてくる広東語などからこのことが伺えた。戦前や戦後の神戸南京町=人々の生活の場、だったころの写真や、詳しい話をもっと聞きたいです。特に戦後直後は、マフィア、愚連隊、暴力団という形で、文化の混合があったことをどこかで聞きました。菅谷政雄などがその例です。
→これはなかなか香ばしいテーマです。ある意味で、戦後のアンダーグランド領域のあり方に深く関わっています。
あげぱん:日本は華僑の居住方法を「雑居」から「集住」へと変え、華僑を隔離し、保護しようとした。これにより、華僑のアイデンティティはより強化された。そう考えると、この集住は、日本の中に、華僑によるある種の国民国家を作り出す結果を生み出したのではないか、と私は考えた。国民国家形成の際には、異質な文化の排除が行われてきた。こうした文化の排除が民族間の衝突の原因になる可能性も考えられるため、日本が華僑を集住という形で隔離し、国民国家に似たものを形成させたのは、正しい対応ではなかったと感じた。それに対して、唐人が長崎に雑居していた頃は、長崎市民は唐人に対し親しみ深さを覚えていたようだ。このように、他民族を隔離して差異化するのではなく、自然に民族同士を交流させる姿勢が、多文化状況を受け入れるということの鍵になると思う。
さら:多文化状況の文化的側面のトピックをきくにあたって、私たちが普段属する集団に対して持っているアイデンティティだと思っているものは何なのか、ということをもう一度考え直してみたいと感じました。また、アイデンティティというと、多くは共通して持っている価値体系や体験のことをさしますが、多文化社会ではそちらではなく、むしろ「差異」の扱い方が重要になるということも非常に興味深いことでありました。
→感じるだけでなくて・・・。
道化師:In the last class i learnt the number of gaijin in meiji era but the interesting fact about that is that half of them is chinese. And the chinese town in japan is actually very small compared to other countries china town.
Mktukemen:ナショナリズムが国家主義と民族主義の2つからなるものだとは知らなかったです。授業の時は日本を想定して、ナショナリズム=国家主義+民族主義という考えに納得したのですが、ウクライナの問題に見られるような一つの国の中に複数の対立する民族が存在する国家ではその図式が成り立たないのではと思いました。ウクライナからの独立を目指すロシア系住民は民族に誇りは持っていても、ウクライナもしくはロシアという国に対してのシンパシーは薄いのではないでしょうか。しかし彼らの独立を志向するエネルギーはナショナリズムと呼べるものではないのでしょうか。
R:グローバリゼーションというのは現代において大きく掲げられる事象の一つだが、国民国家システムにおいてそれが成り立つことが根本的に難しいということを再確認した。それは国家が国民という概念をもとに成立してるからという集団レベルの理由もあるが、その国民創出のためにつくられた学校で教育を受けてきた私たちのような個人レベルでさえ多文化ということに違和感をもたざるをえないよう影響を受けてしまってるからだ。多文化(差異)を受け入れるには、まず第一にこの個人レベルでの意識の変換を行うべきなのではないかと思う。
はにかみ工場長:外国人移民受け入れに関して言えば、労働力の確保や内需の拡大など予想されるメリットもたしかにあるが、それに伴ったデメリットがあることも認識しなければならない。例えば、他の移民受け入れ国家に見られるような治安の悪化、通貨の流出などといった問題がある。25日に投票が終わった欧州連合(EU)の欧州議会で「反EU」を掲げる政党が躍進したことにも注目したい。また、フランスやデンマークでは、外国人を敵視するような極端な民族主義を掲げる右派が与党を抑えて第一党になっていることから、移民受け入れに積極的なEU圏におけるこの一連の動きをこれから移民を受け入れる可能性のある日本としては注意深く見ていかなければならないと思われる。
カーキ:近代のパラドクスの例として、日本経済をなんとかするために外国人移民を受け入れるという話がありました。こうした巨大な人口移動による多文化化というのは、授業でも話があったように、「差異」をどう扱うのかというのが問題になると思います。例えば宗教的な儀礼や、生活様式のようなものは、集団行動や公共の場での「正しい」とされる振る舞いを要求される学校などの場では、周囲から白眼視や迫害がされがちであります。そもそも、日本語を話すことの出来ない移民の子孫が、日本において自由に教育を受けることのできる環境にあるかというと、まだまだ日本には日本語以外の言語で教育のできる施設や学校が少ないように感じられます。
なつ:私は今回の授業の中で、先生の言っていた自由・平等・博愛の中に矛盾が含まれているというところに共感した。例にとると、近年注目されているアファーマティブアクションである。男女や健常者と障がい者とのギャップを埋めるために、なされているこの運動というのは、各人が「平等」に「自由」に社会に参画するために行われているわけだが、その反面男女同じ能力でも(ましてや女の方が劣っていても)女の方が優先的に選ばれるという、ある意味で「不平等」な社会になっているなと思った。
MOOMIN★:今回の授業に登場した、バンクーバーのチャイナタウン、またその原因でもある中国人移民についてコメントします。中国人移民の流入で、カナダの経済状況は明らかに活性化したけれども、一方で悪状況も生じてしまっている、という内容がありました。自分で少し調べてみたところ、治安が悪くなり、街並みが中華を思わせる風景に変化しただけではなく、さらに、衛生状態が悪く、街が汚くなってしまったという事実もあるようです。実際、交通事故も増え、商業上の不正行為や、公共施設、特に便所の利用マナーが目立つ、ということです。中国人は大雑把であるというイメージは、幼い頃からわたし自身も抱いてしまっていますが、本当にそんなに中国人の公共マナーはひどいものなのでしょうか?また、こういった、はっきりと目に見えた問題に対し、中国移民からの何か意見等はあるのでしょうか?
トーマス:国家主義、民族主義のもと、一民族一国家主義が理想と考えられ体現されてきた近代において、一民族一国家主義と多民族、多文化の並立が近代の矛盾として挙がった。また国民国家の形成の過程において重要な役割を担っているのが学校であり、学校の中での教育によって、共通の生活様式や価値体系、集団的アイデンティティが形成されることがわかった。そこで、現在の学校の生徒の変化について注目する。グローバル化によってクラスの生徒が必ずしも日本人だけで構成されることはなく、むしろ、外国人やハーフの生徒の数も増えてきたと思う。この状況において近代国民国家の形成は困難だと考えられる。学校での教育がグローバル化によってどのように変わってきているのか気になった。
→気になるだけでなく・・・。
あいり:学校で学ぶ歴史が非常にマジョリティに偏っていると感じていたが、私がマジョリティに属していると感じることがすでに、国民を創造する教育によるものであるのかなと思った。また、多文化的状況が一つの徴候として大きな社会的変化の指標であるというのは、逆に多文化であることを感じさせないことが、人々をある意味平和に治めるための方法であるのかなと思った。女性問題に対する運動はこの矛盾に対する運動の一つのであるのだと思うが、これを突き詰めていくと個人単位で考えなければならなくなるので、全ての人に平等な社会の実現は不可能なのではないかと思った。
→もう一歩踏み込んで考えてみて下さいな。
まさ:今回の授業で印象に残ったのは、華人、朝鮮人の話だった。正直明治期の在日外国人の半数が華人だったという話は初めて聞いて、そしてその人達がインフラ整備などの重労働を担ってきたということを初めて知った。そして華僑を危惧した欧米の思惑、そしてそこから朝鮮人労働者が増えていく過程も非常に興味深く、特に戦争時の戦死者、兵力の数の想像以上の多さに衝撃を受けた。日本がお国の為にと一丸となって戦ってきた時、そんな日本では多くの朝鮮人が働いていたのだと考えると、ナショナリズムとグローバル化という矛盾がリアルに感じられた。今まで考えたことのなかった観点だったので、すごく考えさせられた。
ザキヤマ:戦前戦後の東アジア地域の人口増大という面に注目したい。人口増大と近代化は関連があると考えている。日本では明治時代以後の近代化により人口が急激に増大し、その余剰人口が農村から都市に流入、日本の農業から工業への移り変わりとともに、農村社会から都市社会へと移り変わっていった。
このように工業化が進行した日本であるが、その余剰人口の増大に伴い、華僑の経済活動制限がなされたという側面は、国内労働市場の形成と外国人労働者との関係性において現代とつながるものであった。日本における外国人の経済活動について華僑、オランダ人に関してその活動範囲に制限を加えたことは、文化的側面から考えると日本のナショナリズム形成に関しての固有文化形成を強くしたと考えられる。また日本国内経済を、商業に有能な華僑が席巻することを危惧したとも考える。
acid★★: 日本は単一民族国家ではあるが、実際には日本人だけが住んでいる国という意味ではなく、マイノリティも存在するということは今までの講義からも明らかである。今回の講義では、国外の力も必要になった近代化の中の日本の現状をみるため、国内の労働力における外国人労働者の割合を調べて見ることにした。厚生労働省のデータにhttp://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000036114.html)によると平成25年度10月末の日本における外国人労働者数は717,504人で、前年度と比べ、5.1%の増加が見られた。(平成19年に届出が義務化されて以来、過去最高)少し時期はずれるが、平成26年度3月時の日本における就業者数6298万人の約1%を占めることがわかった。割合でみればたいしたことはないように思えたが、届出がでている分しか計算に入っていないことも関係があるのかもしれない。このようなデータのとりようがないかもしれない労働者について調べるにはどうしたらいいのだろうかと思った。
→自分でデータを調べた点を評価します。最後の部分は、近代社会を把握する統計的調査の手法が万能ではないことを意味します。
ピエロ:現代は多くの国や地域で多文化状況となっていることが多いであろう。その中で「差異」をどう扱うか、すなわり、社会システムの中で「差異」にどのような位置を与えるべきかが重要になってくるということだが、これは現代の日本の労働状況についても大きな問題であるように思う。日本では、マイノリティに対して不寛容であることがよく言われる。これは生活の場面でも多くみられることではある。組織の新参者に対しては風当たりが強いことはよくみられる光景だろう。しかし、労働環境においてこのような事態はあまり好ましいことではなく、むしろ、改善しなければならない問題である。女性の社会進出が世界の中で遅れていることはたびたび言われることではあるが、改善の大きな変化は あまり見られていない。マイノリティに属される人々の視点というものは、組織に新たな風を吹き起こす。いま、日本が経済の活性化に向けて動き出す中で、必要とされるのは、マイノリティの意見や視点に注目してみることであろう。
kakikaki:近代化に伴うナショナリズムの進行において一民族一国家主義が理想とされてきた。しかし、 民族主義の進行により民族間の差異が強調されることでその理想とは相反する多民族文化化が進んだ。この矛盾から起きた問題の最たる例がナ チスによるユダヤ人迫害である。現実的に考えて一民族一国家が実現することはありえない。そこで大切なことはマイノリティの立場である。 マイノリティを軽視せずきちんと考慮した政策を行うことが結果的にマジョリティの利益にもつながるのではないだろうか。
Bob Nozomu★:私は、ある国の国民が固まって居住するスタイル、つまりチャイナタウンとか、コリアンタウンなどがなぜできるのかに疑問を持っている。たとえば、現在チャイナタウンは世界各地にあり、そこに住む人々は華僑などと呼ばれ商売をしている。鶴橋のコリアンタウンもそうだ。韓国人がたくさん暮らしている。しかし、ほかの国の人々がそのようなスタイルをとっているのはあまり聞かない。日本と深い関係にあった、オランダも日本にオランダ人街などは作っていない。これは単純に国と国との距離、地理的な問題なのだろうか。おそらく違うであろう。なぜならチャイナタウンは中国と遠く離れたアメリカにもあるからだ。これはおそらくこれは東アジア独特のエスニシティなのだろう。この ことにつ いてもっと知りたいと思った。
Haruroll★:今回の講義で最も印象に残ったことは「外国人の集住における隔離と保護の二面性」についてです。日本でも神戸や横浜にある中国人居住区、愛知県の日系ブラジル人の居住区など、共通の国出身の人々が集まって暮らし、コミュニティを形成している地域がいくつかみられる。これは一見彼らの保護に見えるが、裏を返すと一つの地域にまとめてしまうことで隔離の役割も担っているのではないかと思う。さらに職業の固定化などにもつながり、それがコミュニティの強化にも影響してしまうため、社会から孤立してしまう原因になるのではないかと思う。
→「思う」で逃げない方がいいですよ。
ライム:★グローバル化とローカリゼーションは一見正反対のもののように思えるが、この2つは補完的な関係にあると考える。そして、今回の講義で近代のパラドクスについて学習したことで、グローバル化を近代の延長線上にあるものとしてとらえることができた。近代においては国民国家が政治や経済活動の主体となるが、その活動の中では他の国民国家と関係をもつことが避けられない。これは貿易や外国人労働者の流入を見ると明らかである。しかし、このようにしてもたらされる多文化状況の中で日本が「日本」としてのアイデンティティを保持するためには、固有の「国民文化」が必要である。講義の中で「なぜ歴史教育で文化史は暗記項目なのか」という問いがあったが、それは近代化の中で国民の「日本人」としてのアイデンティティを形成するものが「日本文化」の共有以外になかったからではないだろうか。ここでの「日本文化」は大衆による文化というよりは、近代的な国民国家「日本」を維持するための装置として「作られた」文化なのではないかと思う。
pipex:私たちがこれまで暗記してきた歴史は、いわゆる大文字の歴史であるということは、高校のときの日本史のことを思い起こせばよくわかった。大衆文化の部分はあまりテストに出なかったし、ただ名前を覚えるだけという感じだったので重要視していなかった。近代国民国家の基盤となったのは国民であったということを考えれば矛盾であるのは明らかであるけど、高校のときにはなんの違和感もなく大文字の歴史を学んでいたことは、少し怖いなぁと思った。また、今日の多文化状況の中でアイデンティティの承認の問題、公共性の問題は大変むずかしい問題だと感じた。
てっぱん:★★「多文化状況の文化的側面」において、それらは「学校」で教え込まれるという解説があった。「国家」という領域を設定し、その領域内の価値体系や生活様式を教え込む場所として学校は機能してきたのだろう。「国民」を形成する上で学校は重要なファクターであることは言うまでもない。しかしながら現在は、そのような単純な役割や機能だけを兼ね備えた学校観には疑問が残る。日本のようにほぼ単一民族が占める国家では意識されにくいが、例えばアメリカなどの文化的背景や人種などの多様化が進んでいる国では、学校の役割が「共有する価値体系」を教え込むだけでは済まないだろう。なぜなら、そもそも「共有」という概念が日本よりはるかに薄いからだ。そういう意味では、まさに共有する部分に向けた教育だけでは無く、差異に寛容になるような教育も必要になってくるはずである。とは言うものの、未だに「共有部分」に焦点を当てた教育が行われている傾向が強いため、「ヒスパニック系の集住地域」「チャイニーズ系の集住地域」などといった集住地域ができあがり、その地域での教育も「その地域で共有されている文化」を教え込むものになり、「差異」がより強調された形で表出してくる現状があるのではないか。この「共有」を強調する教育のあり方が、ナショナリズムと「多民族、多文化化」を同時に促進していう大きな要因であると考える。
→ここで「アメリカン・ドリーム」と「ガラスの天井」について考えてみてください。
あんな:日本で漢字を使っていたり、鎖国時代から華僑が存在したりしており日本と中国は非常に深い関わりがあるということを実感した。日本では漢字を使用しているため中国とのコミュニケーションが可能であったが、海外と交流する上で、言語というのはとても重要な役割を果たしているのだと改めて思った。日本で日本語教育の制度が整っておらず、また日本語が書き言葉や話し言葉が異なっており外国人にとって日本語でコミュニケーションをとることは難しかったことを考えると、華僑が日本で活躍できたのは漢字という存在も大きかったのではないかと思った。
ヘロッピー:★今回の講義で最も印象的で納得させられた「矛盾」は「自由・平等・博愛」です。確かに経済・社会の主体となった個人が「自由」に振る舞えば「平等」の実現は至極困難になります。また「博愛」はもてる側の台詞、その通りだと思います。歴史的に見ても持たない側は植民地となり「博愛」を掲げる持てる側に搾取されてきました。「博愛」主義がもたらした「悲哀」の歴史を横目に、自分たちは何を掲げているのか、今一度再考すべきだと思います。そういえば、ムーミンシリーズのスナフキンの言葉に「人の涙をもてあそんだり、人の悲しみをかえりみない者が 涙を流すなんておかしいじゃないか」という言葉がありますが、「博愛」を掲げる持てる側はこの言葉をどう受け止めるのでしょうか。勿論、道徳的・倫理的観点だけでは一口に言い切れないことばかりの世の中ですので、全てをキレイゴトで丸くおさめようとするつもりではありません。外国人労働者の問題も然りです。補いきれなくなった労働力を補充するために外国人を雇っていくのは、国内の労働事情や、さらには最近は若干、下火になったように思われる外国人参政権にまで波及していきます。個人的には外国人参政権には「今のところは」反対です。これから自分の考えが変わっていく可能性は多いにあります。しかし現段階では、日本に対して風当たりが強くなる中で、自ら風通しが良くなるようなことをしてしまうのは危険だと考えています。講義で外国人参政権にアプローチする多彩な切り口を教えて頂きたいです。
→外国人参政権そのものについて講義の中で十分に言及するのは難しいですが、参政権によって変化する「近代国民国家」における公共性の問題という観点から講義の内容を参照にしてください。
なもん:私が今回気になったのは、先生も今回の授業のポイントだとおっしゃっていた単一文化的認識と多文化的認識、グローバリゼーションとローカリゼーションといった相反するものが現在存在しているということである。移民などにより単一民族国家である日本でさえも多文化化している一方で単一文化的認識が生まれてくるのは、多文化化し様々な民族の人々との接触が増える中で、自国民・自民族のアイデンティティを強く意識するようになったからではないかと考えた。しかしこのような単一民族的意識が高まることは自文化中心主義の高まりにつながってしまう恐れがあるということで、いかにして多文化状況の中で文化間の差異を認識し扱っていくのか、そして共存していくかがこれからの課題になっていくのだと思った。
トムヤムクン:★以前所属していたゼミで、多文化状況における国民の公共性を考える際には当然共通する生活体系や価値体系というものも重要な要素となり得るけれども、中でも「共属感情」、「私は◯◯人だ!」という自己認識が最も注目視されるべき要素であると感じました。それを踏まえた上で在日華僑社会を考えると、中国と日本は親交を深めようとしてきた歴史もあるが同時に日清戦争に始まる対立、拒絶の歴史も持ち合わせるという二重の側面の存在が華僑社会におけるアイデンティティ、公共性を他よりも複雑なものとしているのではないかと思いました。
JAM:★★今回の授業では「領域を設定するとともに、越境が起こってしまう」という話に興味がわいた。明治以後の国民国家体制を推し進める中で、経済の発展に伴う労働力不足や純粋な交易により、人々の移動がより活発なものなってしまう。授業の中でバンクーバーにおける中国人の例が出てきたが、まさにバンクーバーにおける日系移民こそよい例になるのではないだろうか。鎖国状態における日本では考えられなかった日本国民の越境が可能になったということ、かつ人口爆発による一時期の労働過多の状況が日本人の海外への越境を推し進めた。中国や朝鮮に対する日本側のPULL要因は存在していたが、もちろんのこと近代化の中で日本内部のPUSH要因も大きくなっていたのである。国民国家成立が進んでいく日本を出発し当時はイギリスの属国にすぎなかったカナダへ移住した日本人は現地で人種差別という辛酸を舐めさせられていくことになる。一民族一国家としての道を歩んでいく中で、世界へ越境していった日本人の存在も忘れてはいけないと考えた。
また現地の日系カナダ人は、世界中の中国移民同様日本人街を形成し、集住の道を歩んでいく。その中で自分達のアイデンティティについて一世、二世と重ねるごとに揺れ動き、カナダへの同化はすんなりとは進まなかった。しかしながら第二次世界大戦期に日系カナダ人は皆強制移住を迫られ捕虜となり、戦争終了後は離散を迫られ元の日本人街を形成することはかなわなかった。そこから一気にカナダへの同化が進んだのであるが、意図しない多民族国家においていかにハイブリットな国家を作り上げるためには、集住化を推し進め白と黒の線引きをはっきり行うのではなく混ざり合ったグラデーションの文化を作り出していく事が重要なのではないかと考えた。それが良いにせよ悪いにせよ。現在の中国を見ていると強く感じる。
→具体的な事例で考えていく(比較)、というのが民族学(人類学)の基本的視点ですから、こうしたコメントはいいですね。
pocky:今日の講義のポイントだった近代国民国家の矛盾点について、境界をつくった一方で人口移動が起き、ナショナリズムではなく多文化化が起きてしまっているということだったが、この講義を聞くまで自分にとって、多文化化はなにひとつ疑問を持たないことであった。近代化するにつれて人口は増加するが、それに対して他国に頼らなければならないことも多くなる。すべて自国だけで賄えたならば、植民地や最悪の場合の戦争なんかはおこらなかったのだろうかと疑問に思った。
ごまプリン:今回の講義で、国民国家の形成が逆に多文化化を進展させていたという点が非常に興味深かった。国家をより強固に、安定したものにするために資源や労働力を得ることが必要とされ、そのために外国人の流入が進んでいった経緯は、世界史で習っていたため知っていた。しかし、現在のようなグローバル化した社会と当時の様相に似通っているものがあるとは、思い至ることがなかったように思う。ただ、当時の外国人の活動領域が日本でも他の国においても非常に限られていたという点では、現在とは大幅に異なっているだろう。現在は、移住先の国民と同じような暮らし方をしている移民も多くいる。しかし、母国語以外の言語を話せない人々が集まって住むチャイナタウンの例を見ると、その状況は昔と変わらないのではないかと思われる。そのような町の形成の経緯や周囲の地域との関係性について、深く知ってみたいと思う。
→これはなかなか、いいテーマです。
ken76:この前の講義を聞いて一度南京町に行ってみた。私はシンガポールやアメリカの中華街に行ったことがあったが、やはり南京町は大きく違っていた。確かに、華僑の人達が大勢店を構えていたが、完全に観光名所となっていたように感じた。マイノリティの人達がどう生きて行くのか、差異をどのように捉えて行くのか、ポリティカルアイデンティティを持つべきではあるように感じるが、そこでまた差異が広がるようにも思えてしまう。差異を押し出すことによってまた別の差異が生まれるようにも感じた。
→現場に行くのは素晴らしいですね。たた、感じただけではもったいない。