民族学2014(第7回)
6月12日
岡田浩樹
東アジアにおける「日本的近代」
映像資料
JAPAN
欧米から「まなざされる」側から、アジアを「まなざす」側へ
近代化と「日本的近代性」
19世紀末の朝鮮半島
1,近世体制の崩壊
2.西洋(日本)の衝撃
3.反動と改革の対立(排除か、受容か)
4.現金市場経済の浸透と農村の疲弊
5.社会的混乱、民衆反乱
6.外部勢力の干渉
以上の過程は、東アジアに共通する過程
党派抗争
16世紀に建国君臣から、儒教官僚へ権力が移行→内部権力抗争(党派抗争の激化)
儒教(朱子学)の解釈をめぐる学問的闘争の形をとった権力闘争(中央官僚の抗争であると同時に、地方に基盤を置く在地両班の中央での覇権をめぐる抗争)
17世紀 老論・少論・南人・北人の四色闘争
1722年 少論政権のもとで、老論派前議政の金昌集処刑(壬寅の獄)
1728年少論強硬派が南人と組、少論穏健派政権に対し反乱(戊申の乱)→蕩平策
勢道政治
1755年(乙亥の獄)によって老論派の優位が確立→門閥政治へ
(老論内部での権力闘争、その他の派閥と合従連衡しながら権力獲得をめざす)
英祖が荘献世子に不品行を理由に死を命じたことに対し、時派(世子に同情)と僻派(王の処分を是認)する派の対立
1806年 時派による政権掌握 →この過程で外戚の権力に依拠して権力闘争がおこなわれたため、外戚一派が政権を独占する政治形態へ(外戚政治・勢道政治)
代表的な外戚
安東金氏(慶尚北道 安東基盤)途中 豊穣趙氏の挑戦を退けて4代の王に渡り政権を掌握
→勢道政治のもとで、政権の有力者に賄賂を送り、官職を得る「売官」が盛んになる
→国家財政の疲弊・破綻(17世紀から慢性化)
→国家・地方官僚による収奪の強化(三政の弊:地税(田政)・軍政(良役)・還政(還穀)
農民の抵抗運動
1811~12年 洪景来の乱
1826年 壬戌民乱
→農民を中心に、一部の在地両班(地方貴族)も加わる
大院君政権の成立
1863年 哲宗が嗣子なく死去、幼年の高宗即位→実権を王の生父興宣君(大院君)が掌握
→安東金氏の勢道政治の打破、老論派の権力弱体化、両班の特権の一部抑制
しかし、その政策の基本は、朱子学を基盤とした「保守的」な傾向
衛正斥邪
「異端邪説」を退けて、朱子学を擁護。実学(朱子学を基盤にしつつも、社会の現実を直視し、諸制度の改革を目指す実用的・実際的学問)の抑圧、天主教、東学への弾圧。
欧米列強の開国要求に対し、断固抗戦、鎖国維持
1966年 シャーマン号事件 フランス艦隊江華島沖から漢江侵入
「斥和碑」(洋夷侵犯するに闘いを非とするは即ち和なり。和を主とするはすなわち売国奴なり)を全国に建立。
→旧来の支配体制、儒教的行動規範を維持しようとする在地両班の動き(衛正斥邪派)
→当時、フランスはベトナムに重点、アメリカは南北戦争直後、しかし対日外交においても、従来の外交関係を維持しようとする。
1873年の政変 老論派の驪興閔氏の勢道政治の開始(→王妃の兄)
対日外交の問題
1968年12月 対馬藩から日本の明治維新を通告する外交文書。その中の天皇に関し、「皇」「勅」の文字があったため、受け取った窓口の官庁(東來府)が受け取りを拒否。
→近代国家間の外交関係を結ぶ以前の段階で、交渉が途絶。
1874年 日本 台湾出兵
1874年 日本 雲揚号の江華島砲撃事件
→2月3日「日朝修好条規」
→2月7日「日朝修好条規付録」、「日本国人民貿易規則(日朝通商章程)
朝鮮が「自主の邦である」とする→従来の宗属関係を否定。元山、仁川の2港開港。不平等条約。
→日本からはイギリス綿製品が中継輸出、朝鮮からは米、大豆、金地金、牛皮。穀物の大量輸出により、「客商」や地主が利益を上げる一方で、米の供給不足、物価高騰により、都市下層民、小規模自作農、小作の生活圧迫。
財政逼迫と政権の混乱
閔氏政権の開化政策への転換(開化派:金玉均)と(大院君派の勢力と組んだ)衛正斥邪派の反発、これに対する弾圧。
一方で、急速な外交・開化政策のため、財政は完全に破綻。
→1882年6月壬午軍乱(旧式兵士の給料未払いに対し、反乱。日本公使館を襲撃)
大院君政権(懐古派・保守派)の復活
→日本と清の干渉。花房公使とともに、軍艦隻、陸軍一個大隊派遣
1886年7月 大院君政権崩壊、閔氏復活
「済物浦条約」「日朝修好条規続約」(反乱軍首謀者の処刑、賠償金支払い、公使館護衛のために日本軍の駐留権規定)(開港場から40km以内の内地旅行・通商権・日本外交官・領事官の内地旅行権)規定
甲申政変
壬午軍乱後の清軍漢城駐屯(宗主権強化)
1884年 清仏戦争。この間に日本の後ろ盾で、開化急進派がクーデター決行。しかし、清軍(袁世凱:北洋軍閥)の攻撃により、軍事衝突忌避のために日本軍撤退。3日で急進改革派は日本に亡命。
→清による宗属関係の強化。保守派(衛正斥邪派)の台頭。
しかし、一方で日本はこの間も朝鮮半島への経済的な影響力浸透(朝鮮半島からの日本への輸出、1888年から1993年まで90%以上を占める)
甲午農民闘争
1880年代に勢力拡大。1892年末から、教祖の罪名を取り消し、教団の合法化を要求する集会(公州集会)→斥和洋運動へ(報恩集会)
1984年 全羅道古阜で郡守に対する民乱(指導者:全琫準)甲午農民戦争第一次蜂起
日清両国の出兵
→農民軍は政府側と「全州和約」を締結し、撤退。
しかし、日清両国は軍隊を撤兵せず、逆に増強。
1984年7月23日 日本軍景福宮に突入、大院君政権を復活させるクーデター
1984年7月25日 豊島沖(忠清南道沖 黄海)で日本艦隊が清国艦隊を攻撃、日清戦争の開始。
→日本の植民地支配、日本的バイアスのかかった「近代化」と「近代性」との出会い
異文化の鏡としての韓国
環境や歴史的過程、東アジア中華文明圏の一部を構成してきたという歴史的過程、などの日本との共通性と相違点。
韓国という「異文化」-同質性と異質性についてのまなざし
→近代:人々が相互を認識するようになる転換点
日本による「近代化」とこれを受けとめた朝鮮社会
KEY Word
同質性、異質性についての異文化認識
「近代の福音」、植民地主義
→日本の「ねじれた近代化」:
→普遍的近代化とハイブリッドな近代性
1875 江華島事件
1876 日朝修好条規、開国
1882 壬午軍乱
1884 甲申事変
1894 甲午農民戦争(東学党の乱)・日清戦争
1895 下関条約(反日義兵闘争)
1897 大韓帝国成立
1904 第一次日韓協約
1905 第二次日韓協約(統監府設置)
1907 ハーグ密使事件、第次日韓協約
1909 安重根、伊藤博文射殺
1910 韓国併合、土地調査事業開始
1919 三・一独立運動、斉藤実総督文化政治提唱
1923 関東大震災朝鮮人虐殺
1940 創始改名
戦時体制下(労働者募集、官斡旋、徴用 )
1945 独立開放
1948 大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国成立 1950 朝鮮戦争勃発
1953 板門店で休戦協定調印
1959 在日朝鮮人帰還運動
1960 月革命、李承晩退陣
1961 朴正熙軍事クーデター
「伝統的」衣服と近代
近代における日本と朝鮮の遭遇
1895年12月7日、カルネイェフという名前の一人の大佐が汽船に乗って長崎から釜山に到着した。彼は当時朝鮮半島の権益について並々ならぬ関心をもっていたロシア帝国の軍人であり、朝鮮半島南部の踏査を命じられたのである。彼の報告書は朝鮮半島をめぐるロシアと日本の権益争いもあって、日本人についてやや厳しい目で見ているものの当時の朝鮮半島の南部の様子を伝えている。
この報告では、この当時すでに数多くの日本人が朝鮮半島へ渡っており、釜山をはじめとする各地で軍隊、商用のための一時滞在者、さらには日本人居留人が数多くいたことがわかる。1895年末の釜山でも居留日本人4,953人と短期滞在者126人、これに加えて釜山港を中継港としながら操業する日本人漁民がおよそ7,600人おり、日本領事館、2個中隊の歩兵部隊、警察署、国民学校、銀行、郵便局、そしてさまざまな商店、さらには写真店、理髪店や畳屋まであった。そして釜山とその周辺の村々には推定150,000名の朝鮮人*5が住んでいたという
「街頭には、軽装の日本紳士が素足に草履を履いて、帽子もかぶらずにせかせかと往来し、また日本婦人はサンダル(足袋?)の下に履いた下駄をリズミカルに鳴らしつつ、その小さな脚を心なしか特に曲げながら歩く」(カルネイェフ ibid:173-4。下線部は筆者)。
カルネイェフが描いた当時の釜山の日本人の様子。
「この上なく汚い幅ひろのズボンを穿き、胸を半ばはだけた朝鮮人の担ぎ屋たちが、両肩に載せた大包みの重みで前屈みになって進む。彼らのすぐ脇には、肥満した朝鮮紳士が長衣(筆者注:トルマギのことか?)を翻らせてゆったりと歩む。彼の腰には各種の小袋がぶら下がり、長衣同様に白い色のジャケットの下から見え隠れする。彼の頭には黄白色の帽子が、剥き出しの頭頂にちょこんと乗っている」(カルネイェフ ibid:174)
これは朝鮮半島の人々の庶民と上層階級(両班)の姿であろう。
そして朝鮮人の女性は、
「ゆったりとした白スカートと、胸を半分だけ覆う幅広の短い白ブラウスを纏った朝鮮婦人たち」という姿である(カルネイェフ op.cit.)。
朝鮮時代末期の常民
植民地支支配
・キス(旗手)と警官(大韓帝国)
・野蛮な日本人と「近代」
・儒教的身分秩序と衣服
朝鮮時代は、服装が身分や社会的状況に対応したものとして厳しく区別されていた時代であった。
例えばチョゴリの色は年齢によって異なり、若い女性や新婦は淡紅色か黄色で、中年女性は紫色、年長婦人は白色を用いた。未亡人はいくら若くても白または灰色の服を着る。また貴族階級である両班が色物のチマ・チョゴリを着用していたのに対し、一般庶民の多くはあくまでも白が基調となっている。
また、赤や青のチマは女性の最後を飾る衣装として葬式に用いられる場合が多く、赤のチマは子供用であった。チマの色は自由だが、黄、薄緑、紫などは使用されなかった。
妓生は気付けの時に左裾に着て下着が見えるようにせねばならず、一見してその身分があきらかであった。つまり社会の行動規範や秩序と対応した細かな服飾行動が常に女性にも要請されていた
儒教的行動規範と階層差
細かな服飾行動を要請した行動規範や秩序の根底にあったのは儒教的価値観である。儒教が本来国家の政策として導入されたものであり、国家による支配のイデオロギーであった点は韓国と日本は共通している。しかし、日本との大きな相違点は韓国の儒教が国家の支配イデオロギーや政治哲学のレベルにとどまらず、日常の家庭生活や行動規範のレベルにいたるまで一貫した社会原理として貫徹してきたことである。今日でも強調される韓国人の「東方礼儀の国」という自負は、こうした生活レベルでの儒教の浸透を物語っている。
「野蛮」と「近代(文明)」
「礼節はまず衣服から」という観念。人間は礼節を守ってこそ、人間たり得るという儒教的価値観からすれば、身につけるべき衣服を身につけていないものは卑賤な身分のものである。人前で肌をさらすことは忌むべきことであって、男性の頭髪すら冠で隠すべきものであり、しかもその冠は身分に対応したものでなければならなかった。ましてや人前で裸身をさらけだすなど「人間のなすこと」ではなかった。
このような秩序や身分を持っていた当時の朝鮮半島の人々にとって、素足に下駄を履き、しばしばはだけた浴衣で人前に出てくる日本人は秩序身分を無視した不作法ものである。その上、当時の日本の庶民は、ふんどし姿で外を歩くことは普通の光景で人前で裸身をさらすことにあまり抵抗がなかった。つまり、開国とともに大挙して現れた日本人は野蛮の代表であり、同時に近代文明をひっさげて来るという、実に奇妙な存在
黒い近代(日本)と白衣の民族