2002/10/31 アメリカ社会概論
3.移民政策とアメリカ国家の変容
1.移民・難民大国アメリカ
2001年の難民認定数 28300人(日本 26人)←同時多発テロ事件も難民認定数は世界一である。アメリカは建国以来、多数の移民・難民を受け入れてきた「移民国家」である。
移民政策の目標
@社会的目標−移民とその家族の再統合A経済的目標−生産性や生活水準の向上(労働コストの軽減、国際競争力の強化vs国内労働者の雇用確保)B文化的目標−社会における多様な価値を尊重・維持する(多文化主義)C道徳的目標−米国に居住する移民やその家族の基本的人権や社会権を保障することで世界の「人権」問題にコミットする。
移民の受け入れる社会の許容量と政治形態は@移民を受け入れようとする社会の意思、A労働市場の構造、B移民による社会への関与によって決まる。とりわけ重要なのが@である→@の中心が市民権の付与→アメリカの場合、アメリカ国民となるには、@アメリカで出生すること(出生地主義)A両親がアメリカ国民であることB5年以上居住し、英語を理解し、最低限のアメリカ史と政治制度に関する知識を有することとの要件を満たして帰化すること、の三つの方法がある。→5年以上居住する移民のほぼ三分の二が帰化(毎年約25万人)
こうした市民権に加えて憲法修正14条により、社会権も享受(福祉給付を受ける権利、公務員採用における外国人差別の禁止、雇用差別の禁止、公正労働基準法による最低賃金の保障などが連邦最高裁判決で確認されている)。不法移民についても1981年12月31日以降に残留している不法入国者にも市民権を付与している。
外国人とアメリカ国民の差−@参政権の有無A陪審員になれないことなど、政治的側面に限られている。(日本国憲法は、基本的人権の規定も、「国民」の権利の体系である−永住外国人の問題に対応できていない)
2.移民政策と移民をめぐる考え方の変遷
しかしアメリカ史における移民受入の歴史は同時に移民排斥運動の歴史でもあり、数々の衝突、摩擦が存在した。
<移民政策の変化>
・1924年移民法−移民を年間総数15万人に制限し、国籍別に受け入れ人数を割り当てた(1890年の国勢調査時点での出身国籍別人口X2%)→事実上、アジア系の移民が完全禁止に(「排日移民法」などとも呼ばれる)。
・1952年移民法−1920年時点での人口で再計算し、アジア系移民も可能になったが、国籍別割り当て制度は継続。技術・専門労働者を優先して受け入れ。
・1965年移民法−国籍別割当制度を廃止。年間受け入れ上限東半球17万人(一国あたりの上限2万人)、西半球12万人(国別の上限はなし)。ヴィザの発行は、「家族の再結合」と「移民志願者の職能と技能」によって優先枠を作る←ジョンソン政権の「偉大な社会」計画の一環で、公民権政策と連動。
・ 1980年難民法−65年では主に共産圏や独裁国家からの難民を想定していたが、ベトナム戦争によるインドシナ難民なども引き受ける必要からカーター政権下で成立(。難民とは「人種、宗教、国籍、政治的帰属や信条に関わらず、迫害や迫害の恐れがあるがゆえに自国を脱出した人」と幅広く定義←直後にキューバ、カストロ政権が約13万人の政治犯、刑事犯、病人などをフロリダにボートで「送り出す」など困難に直面。またハイチからの「経済難民」も続出。
・1990年移民法−年間総移民数を70万人まで拡大。うち48万人が「家族の再結合」枠、14万人が「職能・技能」枠、5万5000人が「多様性(diversity)」枠
・1996年「不法移民改革・移民責任法」−国境警備・麻薬取引取締りの強化、不法移民の罰則強化、取締手続きの簡略化、不法移民の3−10年の再入国禁止、不法移民に対する社会福祉給付、アファーマティブ・アクションの停止など(←2001年時点で600万人以上の不法移民が滞在していると推計されるのが背景、「1996年福祉改革法」と連動)
<移民に対する考え方の変化−アメリカにおける移民研究の展開>
クレヴクール『アメリカ農夫の手紙』(1782)「このアメリカでは、あらゆる国籍を持った個人が融合して、一つの新しい人種となっている。そしてこの人々の労働と子孫たちがいつの日にかこの世界に大きな変化を引き起こすだろう」
クレヴクール的なアメリカニゼーションという「新しい人種」理論が支配的で、同化圧力が強かった→1790年代の外国人排斥運動や1850年代のノーナッシング党の活動など
アメリカ共和国の同化能力に自信を示していた白人たちも、黒人やネイティブアメリカンとの平等な共存という発想はまったく持っておらず、多元主義的な理想をヨーロッパ系以外の人々に適用しようとしなかった。移民史研究者は、当初はアメリカが「機会の土地」であることに主に着目した。→ヨーロッパと対比して「寛容」なアメリカを賛美する見方を形成
フレデリック・ターナー(1893)「アメリカ史におけるフロンティアの意義」「フロンティアのるつぼにおいて、移民たちはアメリカ化され、解放され、一つの混合した人種へと融和されるのである」
こうした「人種のるつぼ」というレトリックは20世紀初頭においては、政治的には革新的な役割を果たし、世界からの亡命者・難民を積極的に受け入れる態度となった。
またこうした「人種のるつぼ」論を背景にした社会科学的理論も登場し、シカゴ学派の社会学においては、「人種関係サイクル論」が展開され、そこでは対立conflict→応化accomodation→同化assimilationという直線的なアメリカ化の過程を経て、移民たちが農夫から近代人へと発展するものと想定された(例 Robert E. Park and Ernest W. Burgess, 1924, Introduction to the Science of Sociology、Park, Robert E. 1950. Race and Culture, Free Pressなど)
第二次世界大戦を経て、こうした楽観的な移民同化理論が修正されることになる。
Oscar Handlin, 1951. The Uprooted, と1941. Boston Immigrants−シカゴ学派、人種の坩堝論の見方を引き継ぎつつも、「移民経験の高いコスト」を詳細に検討(社会的役割の流動性、絶えざる変化の受容、近代化への対応の過程で個人的資源に依存せざるを得ないことなど)→ハンドリンの研究は移民史研究のスタンダードとなった反面、その「共感」的アプローチや直線的な見方に対して方法論的な疑問が投げかけられた。
Horace Kallen., “Democracy versus the Melting Pot” The Nation, February 18 and 25, 1915. エスニック・アイデンティティには持続性があり、「アメリカ化」を拒否し、集団独自主義をとる移民もいた。こうした文化多元主義cultural pluralism こそアメリカの力の源になったのであると主張
1960年代の新シカゴ学派
Milton Gordon. 1964. Assimilation in American Life−構造的同化(派閥、クラブ、制度加入を通じての同化)と婚姻による同化理論を展開、同化した移民の子孫もエスニック下位文化に強い愛着を持つと主張。
1970年代に入ると、「るつぼ」仮説自体が否定されるようになった。
Nathan Glazer and Daniel Moynihan. 1963, rev. 1970. Beyond the Melting Pot−エスニシティは制約要因ではなく、政治的影響力を高める要因であり、溶解することはない不可欠のアイデンティティであると主張した。
Novack, Michael. 1972. The Rise of Unmeltable Ethnics: Politics and Culture in the Seventies. Macmillan.−エスニシティは「溶解」しないと主張。
歴史学会でも直線的な「同化」史観を否定する見方が増えてきた(Marcus Lee Hanson. 1940. The Atlantic Migration, 1607-1860., Frank Thistlethwaite, "Migration from Europe Overseas in
the Nineteenth and Twentieth Centuries, "
reprinted in Herbert Moller ed 1964. Population Movements in Modern European History.)
1950年代後半〜1960年代の公民権運動時代−アメリカにおける人種間関係の矛盾が顕在化
John Higham 1955 Strangers in the Land−1860年代から1920年代にかけての移民に対するネイティヴィズムの反発を詳述→1960年代以降の歴史家は「同質化」と権力剥奪の道具として機能してきたアメリカ「白人」文化への懐疑とエスニック多元主義への志向が強くなった。
例 Rudolph Vecoli and Suzanne M. Sinke., eds.,1991 A Century of European Migrations, 1830-1930. シカゴにおける南イタリア移民を研究し、アメリカ人としてのアイデンティばかりでなく「イタリア系アメリカ人」であることも拒否し、エスニシティというより、独自の地縁・血縁社会の枠組みの中で生活しつづける移民の姿を詳述。
1970年代以降の研究では、@アメリカ社会そのものが同質的でも単一的でもないことA 移民たちはかなりの程度,「同化」したことBしかしそれは「アメリカ」なるものに「同化」したのではなく、地域社会や社会の変化に何十年か何世代かかかって適応したこと(比較的「寛容」な環境への合理的な「応化」の結果として)を強調するようになった
1980年代の研究
Thomas Archdeacon, 1983. Becoming American
John Bodnar 1985 The Transplanted−移民の「同化」要因として、個人的要因よりも世界資本主義、家族、制度、階級、人種、ジェンダーの役割を重視、メキシコ系アメリカ人がメキシコ人、アングロアメリカンとしての要素を含んだアイデンティティを形成しつつも、階級ヒエラルヒ−の中で苦闘している現実を描く。
1980年代以降、さらにポストモダニズムの影響を受けた、エッセンシャリズム批判が登場
多文化主義学派
Ronald Takaki 1993. A Different Mirror: A History of Multicultural
America. −アングロアメリカン中心主義を排し、各グループの多様な歴史を認識することの必要性を強調→多様性の認識が逆にアメリカの統一性の神秘の認識へとつながる。
「ホワイトネス」研究
David Roedger 1991. The Wages of Whiteness: Race and the Making
of American Working Class; 1994. Toward an Abolition of Whiteness: Essays
on Race, Politics and Working Class History.−アメリカ社会における「白人であること」による社会経済・政治的優位性を歴史的に検証
「ポストエスニック・アメリカ」
David A. Hollinger 1995. Postethnic America: Beyond Multiculturalism.−人種による分裂と、「同化」理論の両方の問題点を克服しようとしたコスモポリタニズムの系譜。→しかしコスモポリタニズムの強調は、主流社会への同化圧力を強める懸念がある。また冷戦期には「同化」が国家主義的歴史家により強調された。
3.移民をめぐる論争
1970年代以降の移民の急増は様々な角度から移民の是非を問う議論が出てきた。
@人口・環境問題
移民の人口増加率が少子高齢型の白人人口より急激なため(特に産児制限をしないヒスパニック系人口)、人口問題や白人が「少数派」になるといった懸念から移民制限を主張する議論が出てきた(2050年に人口4億人になると推計)。−Federation of American Immigration Reformという団体など←しかしシエラ・クラブや地球の友といった主流派環境団体はこういった保守系団体の人口危機論を相手にしていない
A経済問題
社会福祉、教育(「二言語教育」など)、職業訓練、治安などの移民の経済コストが議論の対象に。←移民擁護派は、こうした議論は移民の税負担を過小評価していると反論。しかし移民を受入を決定するのが連邦政府であるのに対して、実際に受け入れ、様々な公共サービスを提供するのが州・地方政府であるという点も問題を複雑にしており、特に移民の入国後の国内移動も盛んなので、大量流入した自治体では摩擦が生じやすくなっている。(例えば1994 年にカリフォルニア州で通過した、「不法移民と子弟に対する公教育と緊急医療・社会福祉サービスの停止」を求めた「提案187号」など)。→アメリカのマクロ経済にはプラスでも、各地方・州のとってはプラスではないという事例もありうる。
B文化問題
Peter Brimelow, 1995. Alien Nation: Commonsense of American Immigration
Disaster−白人主流文化、英語、キリスト教文化などが脅かされていることへの危機感の表明。(こうした論争について詳しくは「多文化主義と文化戦争」の回に扱う)
<まとめにかえて>
以上のような問題点がありつつも、自分たち自身も何らかの形で「移民」の子孫である可能性が高く、「移民に開かれた国」を自負しているアメリカ人にとって、総論として「移民制限」に賛成する可能性は今後もあまり高くないといえよう。移民に対してオープンな国家であることはアメリカのアイデンティに関わる問題であり、またジョセフ・ナイのいう、アメリカの「ソフト・パワー(文化などの影響力)」(⇔「ハードパワー(軍事力)」)の源となっているのである。
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