2002/11/07 アメリカ社会概論
4.人種間関係の展開と現状−黒人問題を中心に−
2000年の国勢調査では、白人、黒人、アメリカン・インディアン、アジア系、ハワイアン他の太平洋島民というカテゴリーに加えて、複数カテゴリーを同時に選択するマルチレイシャルという新たなカテゴリーを採用した。これはアメリカ社会において、人種混淆が進んでいる現実に対応したものだと言えよう。しかしその一方で、アメリカの人種問題は依然として「白人−黒人」問題として語られることが多いのは何故だろうか?黒人問題(白人−黒人問題)には、他の人種関係にはない以下のような問題点が存在すると考えられる。
<黒人問題の特殊性>@自発的移民でないこと(黒人移民を除く)、A主人と奴隷関係という負の歴史を背負っていること、B外見で判別しやすいこと、C南部対北部の対立の歴史を内在していること、D文化的アイデンティティが曖昧であること(「アメリカ文化」のサブカルチュア?)→メルティング・ポット理論、文化多元主義、多文化主義理論の枠組だけでは解決しきれない問題。
1.黒人問題と人種差別解消政策(desegregation policies)の展開
表1 黒人問題略年表
年 |
事件 |
1619 |
20人の黒人奴隷、イギリスの北米初の植民地ジェームズタウンに輸入される。 |
表2 全米の黒人公選公職者数
年 |
総計 |
男性 |
女性 |
1970 |
1469 |
1309 |
160 |
1870年の憲法修正15条で黒人参政権が認められ、1909年には全米有色人種地位向上協会(NAACP)が結成されるなど、19世紀末から20世紀初頭にかけても黒人問題の法的改善に向けての進展があったが、実際には識字テストや投票税による投票参加の事実上の制限や、1896年の連邦最高裁「プレッシー対ファガソン」判決のように、「分離すれども平等(Separate, but Equal)」が原則とされ、鉄道などの公共交通や各種公共施設、住宅・教育・雇用などでの人種隔離が継続した→転機となったのは、1954年の「ブラウン対トピーカ教育委員会」判決→人種別学は違憲と判断→1957年にはリトルロックの白人高校への黒人生徒の入学に抵抗したアーカンソー州知事に対して、アイゼンハワー大統領は連邦軍を派遣して認めさせた
1955年のバスボイコット事件→M・L・キングというすぐれた指導者を得て、白人リベラル層も巻き込んだ公民権運動が盛り上がる→1963年のワシントン大行進(有名な”I have a dream”演説)→公民権運動に同情的だったケネディ大統領と彼を引きついたリンドン・ジョンソン大統領の主導で1964年の市民権法の成立―@公共的な場所における人種差別の禁止A雇用における人種・宗教・性による差別の禁止B人種共学促進のための措置C被差別者に代わって訴訟を起こす司法省の権限D黒人の投票権の保護(→65年投票権法へ)…一連の人種差別撤廃政策は、連邦最高裁など非公選エリート主導の政策過程であった。
しかし市民権法の成立にもかかわらず、1965年のロサンジェルスでのワッツ暴動など黒人暴動がクリーブランド、シカゴ、デトロイトなど全米主要都市で相次いで起こる。(←法的平等の実現による期待の高まりと現実の社会経済生活の改善の遅れのギャップの増大が一因)。
キング牧師の非暴力路線やリベラルなスタンスが、白人中産階級をも巻き込んだ公民権運動の成功の要因だったが、法制改革後もいっこうに改善されない生活に不満をもった黒人たちを葉池に、よりラジカルで、戦闘的なブラック・パンサー党(1966)や、マルコムXやモハメッド・アリで有名になった、黒人分離主義のイスラム教団ネイション・オブ・イスラム(1934〜)のようなブラック・ナショナリスト組織も登場した。
図1 黒人の政治的社会的態度
アメリカン・システムを支持(容認)
↑
黒人中産階級 ←受動的 |
黒人共和党議員 |
潜在的不満層・非有権登録者脱政治層 |
ブラック・ナショナリスト(ネイション・オブ・イスラムなど)、分離主義 |
↓
アメリカン・システムを不支持(非承認)
「ブラウン判決」以後の強制バス通学などの様々な施策によっても、黒人と白人の住み分け状況は改善されず、人種統合教育もなかなか進展しなかった。(地価などの市場原理の要因のほかに、不動産会社によるsteeringなどの差別慣行、住宅ローンの貸し出し条件における差別なども存在した)。→黒人中産階級が成長してからも混住は進まなかった(例えば現在は黒人の27%が郊外に居住、ワシントンDCでは62万人、アトランタでは50万人、ロサンジェルスでは40万人の黒人が郊外に居住しているが、白人とは別のコミュニティを作っている)⇒黒人が集住していることが、1970年代後半以降、黒人政治家の台頭をもたらす一要因となった(⇔アジア系の場合は集住してないためになかなか代表出せない)。…一方で「ショー対レノ」判決(1993)のように「人種的ゲリマンダリング(特定の人種の議員を選出できるように、人種の住み分けパターンを意識して不自然な選挙区割を行なうこと)」の合憲性が争われるようになった。
黒人市長、州知事、最高裁判事、統合参謀本部議長などのパワーエリートの登場。→実際に、黒人政策にもたらした効果以上に、象徴的効果が大きい(自尊心を高める)。
こうした黒人政治家が着実に成長した反面、60年代に白人警官による黒人に対する暴力がきっかけとなった暴動がおこった(1992年ロサンジェルス暴動←1991年ロドニー・キング事件が引き金)。
ロサンジェルス暴動では、黒人住民が韓国系のデリカテッセンなどを襲撃、黒人−韓国系住民の対立の問題がクローズアップされた。(スパイク・リー監督の映画 ”Do the Right Thing”がこの時期のコミュニティにおける人種対立をヴィヴィッドに描いている)。
2.人種問題についての現在の認識
1999年秋に行なわれた人種問題についての意識調査によると、コミュニティにおいてほとんど人種差別がないとするのが白人では75%に登るのに対して、黒人では36%に留まっており、人種間の人種問題に対する認識ギャップが大きい。ただし人種関係全般の改善については、人種を問わず悲観的な意見が大半である。また人種問題に対する白人の「無関心」がほぼ一貫していることも特徴的である。他方で、黒人内部にも全てを人種問題化するracializationに対する反発が中産階級を中心に出てきている。
3.現在の黒人問題
・<強制バス通学の功罪>−人種統合教育をめざして通学バスによって、統合学校へ黒人学生あるいは白人学生を通学させる⇒必ずしも黒人学生の学力向上につながらず、むしろ白人中産階級層の郊外への脱出(White Flight)を促進した。また黒人児童も近隣住区neighborhoodを離れて遠くの学校に通うことを必ずしも望まなかった。
・<アファーマティブ・アクション>(affirmative action 積極的差別是正措置の問題)
ニクソン政権以後、従来、過少代表されてきた少数民族や女性・障害者などに雇用・昇進・入学などの機会を積極的に与えるよう指導するアファーマティブ・アクション政策が推進された⇒黒人の社会経済的地位の向上に貢献し、黒人中産階級も幅広く形成されるようになった。←しかし具体的な数値目標を設定して少数民族を優遇するため、「逆差別」という批判も根強く起こってきた。
1978年「カリフォルニア大学評議会 対 アラン・バッキ−」判決→連邦最高裁は黒人を優遇する入学制度について違憲判断→90年代末にはカリフォルニア大学も中国系総長の下で、入学における人種枠の撤廃方針を打ち出した(後に撤回)→黒人、白人学生が減少し、アジア系学生が増えるという傾向がみられる(人種間「学力格差」の問題がからむ複雑な問題である)。
・<アンダークラス>−黒人中産階級や企業の郊外への脱出と、産業構造の転換による単純労働の喪失によって社会経済的資源を奪われた最貧層が都市中心部(インナーシティ)に取り残され、犯罪・麻薬取引などの温床になっているという議論(William J. Wilson, The Truly Disadvantaged, 1987、ウィルソンは近著The Bridge over the Racial Divide, 2001でも同様な経済構造重視の考え方を展開している。)−AFDC(要扶養児童家族補助金)などのリベラルな福祉政策が貧困母子家庭を生み出したという保守派の議論(Charles Murray, Losing Ground, 1984)に対する反論。
・ 若年(十代)出産・婚外子・母子家庭の増加・・・「結婚対象有職男性」が問題。また白人−黒人間の結婚年齢格差は大学進学率とも相関関係がある。
・ SATなどの学力格差論争 「ベル曲線論争」など
・ 「ヘイト・クライム」(人種的マイノリティや同性愛者をターゲットにした犯罪)の増加、「人種差別的取り調べ(racial profiling)」
<人種問題とアメリカ社会−諸問題はどう連関しているのか?>
現在のアメリカの人種問題の複雑さは、貧困問題と人種問題がリンクすることにより、福祉、貧困、犯罪などの問題が黒人問題として捉えられがちなことである。黒人内でも階層分化が進むことにより、アファーマティブ・アクションに批判的な、保守系のアッパーミドルの黒人も増加している。また大学入学制度に見られるように、同じマイノリティ(非白人)の中でも白人よりも高収入・高学力を示すアジア系なども増えており、人種間関係はより複雑化している。もともと個人主義志向が強いアメリカで、黒人問題の解決も含めて、貧困問題や人種問題を政策として取り組むべき社会構造全体の問題として捉えるのか、それとも個人の問題に還元するのかが政策スタンスの大きな分かれ目となっている。公民権運動期と違って、一応の法的平等や黒人中産階級の成長も見られるようになった今日、マイノリティ政策へのコンセンサス形成が困難になってきているといえよう。
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