2002/11/28アメリカ社会概論 7.生命・生殖・性をめぐる論争と政治

1.男女平等を目指して−日米比較−

<アメリカの動き>
1920 合衆国憲法修正第19条成立→女性参政権の確立−第1次世界大戦、第2次世界大戦期には女性の社会進出が活発化
1960  労働力人口の30%、大学生の40%が女性に
1964年 公民権法 第7条項−「人種、肌の色、宗教、出身国」に加えて、性別による差別の禁止→女性の雇用・昇進差別の撤廃に大いに貢献

1966     全米女性機構(NOW)の結成(ベティ・フリーダン会長)→フェミニズム運動(当時の言葉では「ウィメンズ・リブ」運動)の旗手となる。

「法のもとにおける平等の権利は、合衆国も州も、これを性によって否定したり制限したりしてはならない」という男女平等憲法修正条項(Equal Rights Amendment, ERA)の実現を主要な政策目標とした(ちなみに日本国憲法(1946)では第14条が「すべての国民は法のもとに平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない」と規定している)。→1971年に下院を、1972年に上院を圧倒的多数の賛成でした。しかし7年以内に4分の3の38州の承認が必要だったが、1982年に3州の承認が足りずに不成立

<ERAの敗因>@フィリス・シュラフリらの「反ERA運動」の成功→平等条項は、トイレや刑務所の男女の区別の撤廃や女性の徴兵制や家族の崩壊につながると社会不安を煽った。A1973年の「ロー対ウエイド」判決の反動→人工妊娠中絶を認めた連邦最高裁判決がかえって「女性の選択優先派(Pro Choice)」「胎児の権利を主張する派(Pro Life)」という対立を激化させたこと→保守派の勢いがかえって強力になった。→女性運動もERAの挫折後は、ドメスティック・バイオレンスやセクシャル・ハラスメントなどの社会的争点の解決に力点を転換するようになった。

<女性の政治参加の現状>- アメリカでの女性の公職参加は日本を除くと先進国では最低レベルである。

2002年中間選挙(11月)後の最新データ

州知事 50州中6州が女性知事(4人が民主党、2人が共和党)−12%
・州議会議員 7424人中1680人が女性−22.6%
連邦上院議員 100人中13人が女性−13%
 連邦下院議員 435人中59人が女性(38人が民主党、11人が共和党)−14%

過少代表underrepresentationの原因 ア.現職優位の選挙(再選率が9割)、イ.伝統的性別役割観の影響、ウ.小選挙区制選挙、エ.家事や子育てなどとの両立の困難さ→フランスのような「候補者男女同数化」の法案化などの試みが必要ともいえる。地方政治のほうが国政よりも女性にとって進出しやすい点は日本と共通しているが、比例代表をとっている日本は参議院では県議会議員よりも女性比率が高くなっている点がアメリカと異なっている。

<日本の動き>

1946年 日本国憲法−14条「法の下の平等」、24条「婚姻における両性の平等」
1956年 売春防止法制定(公娼制度の廃止)
1970年 日本の初のウーマン・リブ大会
1972年 「優生保護法」改正反対→「中絶禁止法に反対し、ピル解禁を要求する女性解放連合」(中ピ連)などリブ運動が活発→1974年「優生保護法」改正案(=「経済的理由による」中絶を非合法化しようとした)を廃案においこむ(1983年にも同様の改正案が廃案に)。
1978年 社会党男女雇用機会均等法案発表、「わたしたちの男女雇用平等法を作る会」結成
1979年 女子差別撤廃条約 国連総会で採択(日本は85年に批准)→各国の法律、制度、慣習における女性差別の撤廃の義務を各国に負わせるこの女子差別撤廃条約の影響で
1984年 国籍法改正改正以前は「1、出生のときに父が日本国民であるとき、2.出生前に死亡した父が死亡の時に日本国民であったとき、3.父が知れない場合、又は国籍を有しない場合において、母が日本国民であるとき、4.日本で生まれた場合、父母がともに知れない時、または国籍を有しないとき」子は日本国民とされたのが、1が「父または母が日本国民」に改正され、3は削除された。
1985年 男女雇用機会均等法成立(86年施行)
1980年代後半からフェミニズム運動がメディアで影響力を発揮(「行動する女性の会」)、伝統的性別役割の広告や「性の商品化」につながる表現の批判・抗議を行なう、ミスコン反対、有害コミックの追放など華々しく運動を展開。
1989年 「セクハラ」が流行語大賞
1991年 育児休業法成立→1995年 育児・介護休業法 @ 男女の労働者は一年未満の子を養育するため最低一年間の休暇を申し出ることができる、A育児休業を理由とする解雇は禁止、B介護休業期間は連続3ヶ月
1992年 日本初のセクシャル・ハラスメント訴訟、会社の責任を認める判決を福岡地裁が下す
1996年・「男女共同参画2000年プラン」、・優生保護法→母体保護法に名称変更 「不良な子孫の出生を防止する」という表現削除#「優生上の見地から不良の子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする」
・法制審議会「民法の一部を改正する法律案」答申@婚姻最低年齢を男女ともに18にするA女性の再婚禁止期間を6ヶ月から100日短縮するB選択的夫婦別姓制度の導入C離婚後の親子面接権を明文規定D離婚原因に「五年以上の別居」を加える(「破綻主義」の確立)E非嫡出子への相続差別(現行で嫡出子の半分の法定相続分)廃止
1997年 介護保険法成立
1999年・改正男女雇用機会均等法@募集、採用、配置、昇進についての男女の均等な取り扱いを努力規定から禁止規定にAポジティブ・アクションに対する国の援助Bセクハラ防止に関する配慮規定C差別禁止規定に違反する企業名の公表
同時に労働基準法の「女子保護規定」(時間外、休日・深夜労働の禁止)の廃止、時間外労働の上限年間360時間(家庭のある女性は一定期間150時間)
男女共同参画社会基本法 「性差別解消や家庭生活と職場や学校、地域での活動の両立を『国民の責務』と規定、子供の養育や介護などを男女の協力と社会の支援で行うように明記、政府は全国の取り組み状況を毎年に国会に報告する義務がある」
児童買春・ポルノ禁止法児童(18歳未満)買春をしたものを「三年以下の懲役、または百万円以下の罰金」、児童ポルノの頒布、販売、製造は、「三年以下の懲役、または三百万円以下の罰金」)
厚生省、低容量ピルの認可
2000年 ストーカー行為規制法(ストーカー行為をしたものは6ヶ月以下の懲役又は50万円以下の罰金)
2001年 配偶者からの暴力の防止及び被害者保護法(DV法)


2.人工妊娠中絶abortionをめぐって
中絶問題は文字通り国論を二分する、典型的な「文化戦争」の争点で、政治家たちも選挙で立場を明確にするの避けたがるイッシューである。

1821年 コネティカット州で最初の中絶規制(薬による危険な中絶の禁止)
1857年アメリカ医師会を通じた全米的な中絶反対運動が始める
以後、カトリック団体なども中絶反大運動大規模に展開。→全米諸州で中絶制限法が施行される(〜1960年代まで)
1959年アメリカ法曹協会が中絶規制法規の改正を提言
1965年 「グリスワルド対コネティカット州事件」判決−「避妊具の使用はプライバシーの権利」
1967年        アメリカ医師会も中絶法規の自由化を支持する声明を発表→以後、19州で中絶規正法の改正が行なわれた。
1973年 「ロー対ウェイド事件」判決−妊婦の生命を救う場合以外の中絶を禁止したテキサス州法は、修正14条で保護される「プライバシーの権利」の侵害であり、違憲であると判断。より具体的には、各州政府は、@妊娠3ヶ月以内の中絶は「医学的判断に任せねばならない」(事実上の合法化)A4ヶ月から6ヶ月については、母体の保護を理由に制限できるが、禁止してはならない。B7ヶ月から9ヶ月は、母親の生命維持に必要な場合以外、制限ないし禁止できる、とした(日本の現行の「母体保護法」では、「妊娠の継続が女性の精神的・身体的健康を害する」などの要件がある場合にのみ中絶を認めている(22週まで)−事実上は請求通り認められる、フランスは10−12週なら無条件に認められる)。

この「ロー対ウェイド判決」以後、キリスト教保守派を中心に活発な中絶反対運動を起こし、またレーガン・ブッシュ政権も中絶反対の姿勢をとった→レーガンはロー判決を支持したリベラルな判事のうち3人を保守派に入れ替えた。しかしその後のクリントン民主党政権を経て、現在、首席判事のレーンキストと、スカリア、トーマスがプロライフ派、ブライアー、ギンズバーグ、オコーナー、スーター、ケネディ、スティーブンズの6判事がプロチョイス派2004年の大統領選挙でブッシュが再選されると、プロライフ派の判事が任命され、「ロー判決」が覆される可能性もある。
中絶クリニックへの放火・爆破事件もあいつぐようになった。


<州による主な中絶規制>

・中絶を一般的に禁止する法律をもつ州
・胎児の生存可能性が出てきた後の中絶を禁止している州
・部分的出産中絶(partial birth abortion)−胎児を部分的に出産させた後に殺す方法−禁止
・薬による中絶の禁止
・胎児の生存可能性テストの義務付け
・配偶者の同意を要件
・未成年者に親の同意を要件
・待機期間の義務付け
・インフォームド・コンセント
・医師免許をもつものに限定
・クリニックへのアクセスの妨害などの禁止

16州+ワシントンDC
40州+ワシントンDC

約30州

2州
4州
10州
38州で規定(28州で実施)
18州
30州
43州
12州+ワシントンDC

1989年「ウェブスター対リプロダクティブ・ヘルス・サービス」事件判決−胎児も生命権をもつとしてミズーリ州法の前文を支持し、また州による施設や州職員により中絶を禁じた州法を支持した。
1992年「ケイシ−対南東ペンシルヴェニア家族計画協会」事件判決−ペンシルベニア州法の「配偶者告知」要件は違憲、24時間待機要件やインフォームド・コンセントについては合憲としたが、「中絶が基本的権利か否か」の判断は回避した。

ブッシュ大統領は就任早々に海外での家族計画事業を進める民間団体への連邦政府援助の打ち切りを打ち出した。また中間選挙での共和党の躍進も今後の州・連邦レベルでの中雑問題への司法判断に影響を与えるものと考えられる。一方、2000年に認可された、RU−486(商品名「Mifeprex」)−ヨーロッパや中国で使用されている経口中絶薬、アメリカでは医師の処方が必要→プロチョイス派にとって朗報となるか、州の規制が強化されるのか

以上のように、合法的に中絶出術を受ける機会は増大したが、「中絶」を「女性の基本的権利」として認めるコンセンサスはアメリカ社会においても、政策上もできていないといってよいし、連邦レベルでの政治の展開も「ロウ判決」に厳しい判断が下る方向に徐々に向っていると言えよう。

3.同性愛者の権利をめぐって

中絶問題より深刻な差別の対象となり、論争点となってきたのが同性愛者の権利の問題である。

1961年までに全米50州でソドミー法が施行
1986年「バウアーズ対ハードウィック判決」→ジョージア州のソドミー法を合憲とした。しかし「ソドミー法」の合憲性が正面から争われた事例はこの裁判を除くとほとんど存在しない。

「ソドミー法」の現状http://www.sodomylaws.org/usa/usa.htm)

異性愛・同性愛の区別なくソドミー行為を禁じた州

10州(アラバマ、フロリダ、ノースカロライナ、サウスカロライナ、アイダホ、ルイジアナ、ミシガン、ミシシッピー、ユタ、ヴァージニア)、プエルトリコ

同性愛者のソドミー行為のみを禁じている州

4州(カンザス、ミズーリ、オクラホマ、テキサス)

罰則は、アイダホ5 年〜終身、オクラホマ 20年、ミシガン 15 年、ミシシッピー10年、プエルトリコ 8 ? 20年、ルイジアナ5年又は$2000、サウスカロライナ5年または$500、ノースカロライナ 3年、ヴァージニア、1−5年、アラバマ 1年又は$2000、ミズーリ1年または$1000、カンザス、6ヶ月または$1000、ユタ 6ヶ月または$299、フロリダ  60日または$500、テキサス $500(それぞれ以下の懲役または罰金刑)しかし実際にはこれらの法律は形骸化しているといえる。

同性愛者の権利運動は1969年「ストーンウォール事件」−ニューヨーク・グリニッジ・ヴィレッジのゲイバーでの暴動に始める
1980年代のHIV蔓延の発見はさらに同性愛者への差別・迫害に拍車をかけた。また上記の全米女性機構(NOW)も、フリーダン会長のときに、フェミズム運動とレズビアンの運動の間で一線を画し、公民権運動団体の中でも同性愛者団体は「差別」された(ただしいわゆる「ラジカル・フェミニズム」の立場は、レズビアン団体と「共闘」している)。

ゲイ・ライツ・ムーブメントの争点1.職場での差別禁止、2.同性愛カップル同士の「家庭的パートナーシップ」の公認、3.2より進んだものとして同性愛者同士の結婚の合法化、4.同性愛カップルによる養子縁組の公認
1993年ハワイ州最高裁「同性愛結婚の禁止は州憲法違反」と判断
1996年 サンフランシスコ市、市の条例で同性愛結婚を認める。→全米で反響を呼び、25州で同性愛結婚禁止法が成立、1996年には連邦レベルでも「結婚防衛法」が成立、しかし2000年にヴァーモント州は、同性愛者の事実婚(civil union)を認める法案を成立させた。

1993年に同性愛者の軍隊への入隊を認めようとしたクリントン大統領は猛反対により、「性的志向性」を問わないDon’t Ask, Don’t Tell方針で妥協を余儀なくされるなど、依然、同性愛者をめぐる状況は厳しい。なおゲイ・ライツ団体としては、全米組織で70年代から活動している、National Gay and Lesbian Taskforce(http://www.ngltf.org/),より戦闘的団体である、ACT-UP(http://www.actupny.org/)、Queer Nationなどの団体がある。

<結びにかえて>
このようにアメリカの家族・性・生殖をめぐる政策は、典型的な価値論争・文化戦争の戦場となっており、全米的なコンセンサスは存在せず、政府がどの程度、この領域に介入すべきかについてもコンセンサスがない。こうした価値・モラルをめぐる政策が州によってこれほどスタンスが異なってよいのか?という批判も当然存在している。連邦最高裁−州政府−州最高裁の判断が複雑に絡み合いながら、今後も家族政策をめぐる政治的判断が推移していくものと考えられる。

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