1.23  アメリカ社会概論 13.変わる世界と日米関係

1.             戦後の日米関係−協調と対立の57年−

表1 第二次大戦後の日米関係と国際情勢

日米関係

国際情勢

194

1946
19

200

1945
原爆投下、降伏文書調印、
GHQの占領政策開始
1946

公職追放、極東軍事裁判開廷、日本国憲法公布
1947
独占禁止法、地方自治法
1948
対日政策の転換(非軍事化より経済復興優先)
1949
ドッジ・ライン、1ドル=360円のレート設定
1950
対日講和7原則発表
1951
対日平和条約、日米安全保障条約調印
1952
日米行政協定調印
1953
MSA交渉開始、奄美諸島返還
1954
第5福竜丸事件、MSA協定、自衛隊法公布
1955
日本、GATT加入
1956
対米綿製品輸出自主規制措置を米国に通知
1957
ジラード事件、米地上軍撤退などを表明
1958
日米安保条約改訂交渉開始
1959
「日米安保条約改定阻止国民会議」発足
1960
新日米安保条約・協定(←安保反対闘争激化)
1961
ライシャワー駐日大使着任

1962
ケネディ大統領、沖縄返還の意思表明
1963
日本、GATT11条国に移行
1964
日本、IMF8条国に移行、OECD加盟
1965
佐藤首相沖縄訪問
1966
米原子力潜水艦(スヌーク号)、横須賀初入港
1967
佐藤首相訪米(小笠原返還などに合意)
1968
非核三原則表明、小笠原諸島返還協定調印
1969
佐藤・ニクソン共同声明(沖縄返還・安保継続)
1970
日米安保条約自動延長、日米繊維摩擦協議
1971
沖縄返還協定、ニクソンショック,$1=308円に
1972
沖縄施政権返還(沖縄県復活)
1973
日本、変動相場制に移行、第一次石油危機
1974
フォード大統領来日、昭和天皇と会談
1975
沖縄海洋博開催、昭和天皇、初の訪米
1976
田中前首相逮捕、防衛費GNP1%以内と決定
1977
日米漁業協定、TV対米輸出規制、立川基地返還
1978
「日米防衛協力の指針(旧ガイドライン)」決定
1979
東京サミット、GATT東京ラウンド議定書調印
1980
海上自衛隊、環太平洋合同演習に初参加
1981
鈴木首相シーレーン防衛表明、市場開放措置決定
1982
市場開放措置第2弾決定、IBM産業スパイ事件
1983
中曽根首相「不沈空母」発言、レーガン来日
1984
中曽根首相、「日米共同作戦計画(案)」を承認
1985
日米半導体摩擦、ドル高是正の「プラザ合意」
1986
日米半導体協定、防衛費GNP1%突破
1987
ゲッパート修正可決、東芝機械ココム違反事件
1988
ガット農産物自由化勧告、牛肉オレンジ交渉決着1989
FSX協議決着、米包括通商法で「不公正国」認定
1990
日米構造協議最終報告、中東多国籍軍支援決定
1991
多国籍軍追加支援と自衛隊掃海艇派遣
1992
PKO法案成立(→カンボジアに第一陣派遣)
1993
コメ市場部分開放決定、ウルグアイラウンド妥結
1994
細川クリントン会談決裂、日米包括協議部分合意
1995
米兵沖縄少女暴行事件→地位協定「運用改善」
1996
普天間基地返還合意、日米安全保障共同宣言
1997
駐留軍特措法改正、日米新ガイドライン発表
1998
北朝鮮テポドン発射事件、クリントン大統領来日
1999
北朝鮮「不審船」事件、新ガイドライン法成立
2000
九州・沖縄サミット
2001
えひめ丸事件,テロ対策特別措置法→自衛艦派遣
2002

鉄鋼製品に米セーフガード発動,イージス艦派遣

1945
ヤルタ会談、ポツダム会談、国連発足

1946
第一回国連総会、チャーチル「鉄のカーテン」演説

1947
マーシャルプラン提唱、コミンフォルム結成
1948
OEEC結成、米州機構成立、大韓民国・北朝鮮成立
1949
NATO成立、東西ドイツ、中華人民共和国成立
1950
朝鮮戦争、インド共和国、インドネシア成立
1951
ANZUS調印、イラン石油国有化、ユーゴ・対ソ批判

1952
対共産圏戦略物資輸出禁止協定、欧州防衛共同体条約

1953
シューマン・プラン、朝鮮休戦協定成立
1954
インドシナ休戦協定、SEATO結成調印
1955
アジア・アフリカ会議、ワルシャワ条約、西欧連合
1956
スエズ動乱、ハンガリー暴動、パキスタン成立
1957
IAEA発足、欧州経済共同体・原子力共同体成立
1958
第二次台湾海峡危機、第二次ベルリン危機
1959
欧州自由貿易連合、中印国境紛争、チベット反乱
1960
アフリカの新独立国19カ国が国連加盟、OECD成立
1961
東独、ベルリンの壁構築、非同盟諸国会議
1962
アルジェリア独立、キューバ危機
1963
OAU結成、部分的核実験停止条約調印、キプロス紛争
1964
国連貿易開発会議、中ソ対立
1965
米軍、北ベトナム空爆開始、日韓基本条約調印
1966
中国、文化大革命始まる
1967
第三次中東戦争、EC発足、ASEAN結成
1968
ベトナム和平パリ会議開始、NPT条約調印、チェコ事件
1969
中ソ国境武力衝突、国連、生物化学兵器違法宣言決議
1970
カンボジア政変、国連、海底核兵器禁止条約可決
1971
中国国連加盟、スミソニアン体制発足、印パ戦争
1972
バングラディッシュ独立、生物兵器禁止条約調印
1973
東西ドイツ国連加盟、第四次中東戦争
1974
国連資源特別総会、キプロス紛争、世界食糧会議
1975
ベトナム戦争終結、ヘルシンキ宣言、サミット初開催
1976
米ソ漁業協定、IMF・世界銀行第一回合同総会
1977
国連砂漠会議、ベトナム国連加盟
1978
国連軍縮特別総会、中東和平キャンプデイビッド会談
1979
米中国交正常化、中越戦争、ソ連アフガニスタン侵攻
1980
女性差別撤廃条約署名、イラン・イラク戦争勃発
1981
韓国戒厳令解除、ポーランド戒厳令布告
1982
国連海洋法条約採択、「民主カンボジア」成立
1983
ソ連、大韓航空機撃墜、米軍グレナダ侵攻
1984
アフリカの飢餓拡大、15年振りのコメコン首脳会議
1985
ゴルバチョフ書記長誕生、米英、ユネスコ脱退
1986
国連アフリカ特別総会、米ソレイキャビック会談決裂

1987
国連安保理イラン-イラク停戦決議、INF全廃条約調印
1988
アフガン和平協定調印、イラン-イラク戦争終結
1989
天安門事件、ベルリンの壁撤去、米ソ首脳マルタ会談
1990
イラク、クウェート侵攻、東西ドイツ統一
1991
湾岸戦争,START調印,韓国,北朝鮮国連加盟,ソ連消滅

1992
アフガン内戦終結、国連地球サミット、中韓国交樹立
1993
化学兵器禁止条約調印、START II調印、EU条約発効

1994
EMI発足、NAFTA発効、イスラエル−ヨルダン平和条約

1995
WTO発足、米越国交樹立、フランス、南太平洋で核実験

1996
台湾海峡危機,国連、CTBT採択,ロシア、チェチェン攻撃1997

ボスニア共和国発足、香港復帰、地雷禁止条約調印

1998
印パ核実験、インドネシア暴動、ICC条約採択
1999
NATOユーゴ空爆→国連暫定統治,東チモール独立承認

2000
初の南北朝鮮首脳会談

2001
同時多発テロ事件、米軍アフガニスタン攻撃
2002
ユーロ流通開始,日朝首脳会談,国連イラク査察開始

2003
北朝鮮NPT脱退宣言

上記の年表は、第二次大戦後の日米関係の展開を主に、安全保障と経済イッシューに着目してまとめたものである。日米関係は社会文化交流の面では戦後は常に安定した関係が続いてきたが、安全保障と経済面では時期によってそれぞれの側面に力点がおかれつつ、摩擦・対立と協調を繰り返してきた。

表2 日米摩擦の緊張度と解決への協力度

緊張度−高

緊張度−中

緊張度−低

協力度−高

1960年日米安保条約改定
GATTウルグアイラウンド
(テロ対策特別措置法)
(イージス艦派遣)

サンフランシスコ講和条約
沖縄返還決定
1978日米防衛ガイドライン
アジア通貨基金提案却下
1999年新ガイドライン関連法)

1986年防衛予算GNP比1%突破
2000年NTT接続料値下げ

協力度−中

ベトナム戦争
1977年テレビ輸出自主規制
1986半導体貿易協定
湾岸戦争
1995年沖縄危機

1985年プラザ合意
1988-90日米構造協議
(えひめ丸事件)

1951-8 アメリカの対日技術輸出

協力度−低

1956年核兵器日本持込問題
1971年日米繊維摩擦
ニクソン訪中
ニクソンショック
FSX共同開発
日米包括経済協議

1952年日中間貿易抑制
第5福竜丸事件
1956年輸出自主規制

出所 スティーヴン・ヴォーゲル「五十歳を迎えたサンフランシスコ体制」(スティーヴン・K・ヴォーゲル編著『対立か強調か−新しい日米パートナーシップを求めて』中央公論新社、2002より。(  )のケースは筆者が追加

このようなヴォーゲルの分類に従うと、日米間の緊張緩和のための対応はケースによってまちまちであり、日米両国のそれぞれの利害や制約を反映して協力度が異なっている(例えば60年安保などのように両国政府は協力して対応する問題もあれば、ニクソン訪中やニクソンショックなどのようにいわばアメリカに「抜き打ち」的にリードされてしまったケース、またベトナム戦争や半導体危機、湾岸戦争などのように日米間で状況の認識が異なって、アメリカ主導に応ずる形で協力したケースなど、同じように緊張度が高いケースでも様々である)

2.冷戦期の日米関係

戦後のアメリカの対日占領政策は、日本を非軍事化するのみならず、軍国主義の温床となった財閥、寄生地主制度などを解体して経済の民主化をすすめ、労働組合を再開し、共産党の合法化を含む複数政党制を導入し、政治の民主化進めるものだった。
→しかし第二次大戦終盤でも既に戦後の国際秩序の形成をめぐって米ソが対立しており、戦後はこの対立構造がより明確になり、アメリカとしては日本の共産化を防ぎ、アジアにおける反共の砦とするために経済復興と対日講和を急ぐ必要が出てきた<対日政策の転換=逆コース>
→岸信介を初めとする戦前の保守政治家が政界に復帰し、戦後政治をリードした反面、レッドパージにより共産主義者の公職からの排除が行なわれた。

さらに1950年に朝鮮戦争が勃発すると、「警察予備隊」という曖昧な装いのもとに日本の再軍備がスタートし、1954年には「自衛隊」として改組された(しかしこの自衛隊が憲法9条で否定された「戦力」にあたるのかどうかの議論が戦後政治の争点でありつづけた)。

1951年にサンフランシスコ講和会議で日本は48カ国と講和条約を結び、アメリカからの独立−主権の回復を果したが、西側陣営との「単独講和」という形を選択したために、ソ連などの東側陣営を含む「全面講和」を主張した社会党、共産党などは吉田首相を激しく批判した。

吉田外交の基本−現実主義、軽武装−経済成長優先路線→戦後の日本外交の基調となった。(⇔一方、吉田のライバルであり、1956年に首相として日ソ国交回復を行なった鳩山は再軍備・自主憲法制定(=改憲)・自主外交路線をとっていた)。

冷戦期に日本はアメリカを主とする西側陣営に組み込まれたが、憲法9条により、「専守防衛」、被爆国としての「非核三原則」国際協調主義を柱として、軍事に経済成長を妨げられることなく、「通商国家」として高度成長を遂げることになった。一方、戦後野党として自民党に対峙していた社会党は、原則として非武装・中立路線を掲げて、政府の日米安保体制や対米一辺倒を批判しつづけ、自衛隊は憲法違反であるとする「平和主義」の立場を主張しつづけると共に、北朝鮮を含む共産圏諸国との友好関係を維持しつづけた。日本共産党は、ソ連→中国→独自路線と、時期によって友好国が異なり、関係悪化すると相手国の共産党を激しく批判していたが、反日米安保体制、親共産主義路線を一貫して保ってきた。(いってみれば国際社会における「冷戦構造」が国内政治では、「55年体制」と呼ばれる自民党対社会党・共産党などの野党の保革対立構造となった)。

1960年の日米安保条約改定に際しては、この保革対立が激しい争点になり、アイゼンハワー大統領も来日を中止せざるを得なくなった。この安保闘争の経験は、日本が逆コースのまま、順調に再軍備を進めていくことへのブレーキとなった反面、保守政権にとっても日本の反米ナショナリズム・世論の非軍事主義の根強さをアメリカに示す「手段」となり、日本が安全保障面では国際的に積極的にコミットしない(できない)「言い訳」として機能することとなった。

3.経済摩擦下の日米関係

1972年に沖縄返還を実現するまで日本の主権回復に関する戦後処理は終わってなかったといえるが、この沖縄返還交渉期には最初の日米経済摩擦である、日米繊維摩擦問題が起こり、佐藤政権は、この繊維問題でアメリカに譲歩する代わりに沖縄返還を早期実現するという選択した。

この1970年代(特にベトナム戦争が終結した中盤以降)は国際社会も「デタント」と呼ばれる米ソ緊張緩和の時期であり(−最近の研究では、むしろこの時点に「冷戦」の終わりの萌芽を求める議論が多い−)、日本が経済成長を成し遂げ、対米輸出が急増するにつれて経済摩擦が日米間の主な争点となった(表「アメリカの経済成長と貿易赤字」参照)

1971年ニクソン・ショック−アメリカが金−ドルの交換停止を一方的に発表→アメリカが国際通貨体制を寛大支える余裕がなくなってきたことを示す事例だが、日本側は対応に遅れた。
1973年石油危機→四分の三を輸入石油に頼っていた日本に大打撃→石油確保を目的として日本は独自の石油外交を展開、イスラエルの占領地からの撤退を求める国連決議への賛成や中東へ特使を派遣して経済援助策を打ち出すなど「アラブより」の外交を展開、アメリカの反発を買った。⇒このように田中外交は、経済と政治のバランスをとろうと腐心した佐藤外交と比べて、アメリカに対して日本の経済的自己主張を強めたものであった。

以後、1980年代にかけて、アメリカ経済が低迷するに伴い、カラーテレビ、VTR,自動車、鉄鋼、半導体、牛肉オレンジなど日米間で次々と貿易摩擦問題が生じて、対立することとなっていった(この間のアメリカ経済については「10.アメリカ経済の神話と実情」を参照)

またより低価格の商品の輸出・輸入をめぐっての摩擦だけでなく、1982年のIBM産業スパイ事件、1987年の東芝ココム事件、1989年に妥結したFSX(次期主力戦闘機)開発交渉など、先端技術の移転をめぐる日米間の摩擦・競争も激しくなった(実は先ごろの派遣で問題になったイージス艦にも「技術安全保障」の観点から日本への売却に反対する米議員・政府関係者も少なくなかった。)

こうした日米経済摩擦は、冷戦構造が弛緩してきたアメリカ国民にとっては、日本を経済的脅威と認識するきっかけとなった一方で、日本人にとっては、経済「大国」としての自信を深めるに従って、「輸出自主規制」を強要するようなアメリカの姿勢は激しく反発を招き、経済ナショナリズムが強まる契機となった。

4.ポスト冷戦のテストケース−湾岸戦争〜「反テロ戦争」

1989年の冷戦終結は、冷戦秩序の中で、「経済中心主義」を貫いてきた日本の国際コミットメントに大きな修正を迫るきっかけとなった。

1990年湾岸危機から1991年湾岸戦争

アメリカは、日本が中東での石油への依存度が高く、ペルシア湾での安全航行により恩恵を受けていると認識し、イラクのクウェート侵攻に対し、日本に応分の負担を期待。

⇒しかし日本としては危機認識は薄く、国民の間では「平和主義」的文化が根強く、「武力紛争」そのものにネガティブで、自衛隊による後方支援にも消極的であった(「戦争に巻き込まれたくない」という心理も世論の間には強かった)。武力行使よりも経済制裁で解決すべきだという見方も多かった。
⇒日米の認識ギャップは大きかったが、日本はPKO法案は社会党などの野党の激しい反対で廃案となったが、結局、総額130億ドルを、追加支援を繰り返す形で負担した。

→しかしこのときに、「ヒトを出さずに安全をカネで買っている」、「国際秩序の形成に経済大国として応分の負担をしていない」と激しく批判され、多額の戦費負担も評価されなかったことが、日本の国際貢献のあり方を大きく再考するきっかけとなった。「一国平和主義」からの脱却(1992年にはPKO法案も成立、カンボジアでの選挙監視協力にPKOとして自衛隊を派遣)

戦後アメリカが国際経済秩序や安全保障秩序を比較的寛大に維持してきたのは、それがアメリカの利害にかなうからでもあり、アメリカが負担を担う経済的余裕があったからだが、アメリカ自体が双子の赤字を抱えて、経済が低迷するようになる一方で、日本が経済的に台頭し、アメリカを脅かすようになると、例えばタンカーの安全航行を防御するためのシーレインの防衛は、「国際公共財」であり、アメリカだけが「過重負担」するのはフェアではなく、また国内の安全保障に関しても日本はアメリカの「核の傘」の下で安保に「ただ乗り」しているという批判が出るようになってきた。日本からすると、日本が軍事的に国際的に大きな役割を果たすことはアジアの周辺諸国へ脅威を与えることになり、また憲法の制約上もできないということが自衛隊の海外派遣を制約する要因となってきたが、結果的には国際社会からはヒトを出さずに、カネで解決すると批判されることになった。また1998年から1999年にかけて、北朝鮮がテポドンミサイルの発射や不審船による領海侵犯などをあいついで行なうようになると、世論の中でも、「日本が攻撃しなければ攻撃されないだろう」という非武装中立的神話が説得力をもたなくなってきた。

「国際協力」「対米協力」のジレンマ同時多発テロ後の日本外交

2001年の同時多発テロ事件時は、日本は湾岸戦争の反省から事件発生から一ヵ月後の10月29日にはテロ対策特別措置法を成立させ、2002年にもイージス艦をインド洋に派遣するなど迅速な対応とった。しかし対イラク攻撃など正当性も疑わしい行動も含めて、軍事力を行使しながら積極的に世界秩序を再編させていこうとするブッシュ政権と歩調をあわせていくことに日本の世論が依然として抵抗が強く、「国際協力」、「国際貢献」と「対米貢献」が同義でないことが改めて明らかになっている。冷戦秩序の下では、日本国内で保革対立をしていても、日本全体がアメリカの軍事秩序の上に乗っかっていたことは否めない。しかし安全保障や外交政策で積極的な意味でも消極的な意味でも対米依存しながら、経済活動に専念できた時代はもはや過ぎ去ったといえよう。これから日本に必要なのは、日本自体が日本の「国益」とは何かをヴィジョンを持った上で、アメリカを含めた国際社会との関係を考えて、安全保障・経済政策を立案していくことであり、そのためには「反米」や「対米」自立や「非」軍事貢献といった、単なるnonの論理ではなく、例えば東アジアの経済・安全保障秩序に日本としてどのような貢献をできるのかという建設的なシナリオを描いていかなければならないだろう。


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