1.23 アメリカ社会概論 13.変わる世界と日米関係
1.
戦後の日米関係−協調と対立の57年−
表1 第二次大戦後の日米関係と国際情勢
日米関係 |
国際情勢 |
||
194 1946
200 |
1945 |
1945 ヤルタ会談、ポツダム会談、国連発足 1946 第一回国連総会、チャーチル「鉄のカーテン」演説 1947 マーシャルプラン提唱、コミンフォルム結成 1948 OEEC結成、米州機構成立、大韓民国・北朝鮮成立 1949 NATO成立、東西ドイツ、中華人民共和国成立 1950 朝鮮戦争、インド共和国、インドネシア成立 1951 ANZUS調印、イラン石油国有化、ユーゴ・対ソ批判 1952 対共産圏戦略物資輸出禁止協定、欧州防衛共同体条約 1953 シューマン・プラン、朝鮮休戦協定成立 1954 インドシナ休戦協定、SEATO結成調印 1955 アジア・アフリカ会議、ワルシャワ条約、西欧連合 1956 スエズ動乱、ハンガリー暴動、パキスタン成立 1957 IAEA発足、欧州経済共同体・原子力共同体成立 1958 第二次台湾海峡危機、第二次ベルリン危機 1959 欧州自由貿易連合、中印国境紛争、チベット反乱 1960 アフリカの新独立国19カ国が国連加盟、OECD成立 1961 東独、ベルリンの壁構築、非同盟諸国会議 1962 アルジェリア独立、キューバ危機 1963 OAU結成、部分的核実験停止条約調印、キプロス紛争 1964 国連貿易開発会議、中ソ対立 1965 米軍、北ベトナム空爆開始、日韓基本条約調印 1966 中国、文化大革命始まる 1967 第三次中東戦争、EC発足、ASEAN結成 1968 ベトナム和平パリ会議開始、NPT条約調印、チェコ事件 1969 中ソ国境武力衝突、国連、生物化学兵器違法宣言決議 1970 カンボジア政変、国連、海底核兵器禁止条約可決 1971 中国国連加盟、スミソニアン体制発足、印パ戦争 1972 バングラディッシュ独立、生物兵器禁止条約調印 1973 東西ドイツ国連加盟、第四次中東戦争 1974 国連資源特別総会、キプロス紛争、世界食糧会議 1975 ベトナム戦争終結、ヘルシンキ宣言、サミット初開催 1976 米ソ漁業協定、IMF・世界銀行第一回合同総会 1977 国連砂漠会議、ベトナム国連加盟 1978 国連軍縮特別総会、中東和平キャンプデイビッド会談 1979 米中国交正常化、中越戦争、ソ連アフガニスタン侵攻 1980 女性差別撤廃条約署名、イラン・イラク戦争勃発 1981 韓国戒厳令解除、ポーランド戒厳令布告 1982 国連海洋法条約採択、「民主カンボジア」成立 1983 ソ連、大韓航空機撃墜、米軍グレナダ侵攻 1984 アフリカの飢餓拡大、15年振りのコメコン首脳会議 1985 ゴルバチョフ書記長誕生、米英、ユネスコ脱退 1986 国連アフリカ特別総会、米ソレイキャビック会談決裂 1987 国連安保理イラン-イラク停戦決議、INF全廃条約調印 1988 アフガン和平協定調印、イラン-イラク戦争終結 1989 天安門事件、ベルリンの壁撤去、米ソ首脳マルタ会談 1990 イラク、クウェート侵攻、東西ドイツ統一 1991 湾岸戦争,START調印,韓国,北朝鮮国連加盟,ソ連消滅 1992 アフガン内戦終結、国連地球サミット、中韓国交樹立 1993 化学兵器禁止条約調印、START II調印、EU条約発効 1994 EMI発足、NAFTA発効、イスラエル−ヨルダン平和条約 1995 WTO発足、米越国交樹立、フランス、南太平洋で核実験 1996 台湾海峡危機,国連、CTBT採択,ロシア、チェチェン攻撃1997 ボスニア共和国発足、香港復帰、地雷禁止条約調印 1998 印パ核実験、インドネシア暴動、ICC条約採択 1999 NATOユーゴ空爆→国連暫定統治,東チモール独立承認 2000 初の南北朝鮮首脳会談 2001 同時多発テロ事件、米軍アフガニスタン攻撃 2002 ユーロ流通開始,日朝首脳会談,国連イラク査察開始 2003 北朝鮮NPT脱退宣言 |
上記の年表は、第二次大戦後の日米関係の展開を主に、安全保障と経済イッシューに着目してまとめたものである。日米関係は社会文化交流の面では戦後は常に安定した関係が続いてきたが、安全保障と経済面では時期によってそれぞれの側面に力点がおかれつつ、摩擦・対立と協調を繰り返してきた。
表2 日米摩擦の緊張度と解決への協力度
緊張度−高 |
緊張度−中 |
緊張度−低 |
|
協力度−高 |
1960年日米安保条約改定 |
サンフランシスコ講和条約 |
1986年防衛予算GNP比1%突破 |
協力度−中 |
ベトナム戦争 |
1985年プラザ合意 |
1951-8 アメリカの対日技術輸出 |
協力度−低 |
1956年核兵器日本持込問題 |
1952年日中間貿易抑制 |
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出所 スティーヴン・ヴォーゲル「五十歳を迎えたサンフランシスコ体制」(スティーヴン・K・ヴォーゲル編著『対立か強調か−新しい日米パートナーシップを求めて』中央公論新社、2002より。( )のケースは筆者が追加
このようなヴォーゲルの分類に従うと、日米間の緊張緩和のための対応はケースによってまちまちであり、日米両国のそれぞれの利害や制約を反映して協力度が異なっている(例えば60年安保などのように両国政府は協力して対応する問題もあれば、ニクソン訪中やニクソンショックなどのようにいわばアメリカに「抜き打ち」的にリードされてしまったケース、またベトナム戦争や半導体危機、湾岸戦争などのように日米間で状況の認識が異なって、アメリカ主導に応ずる形で協力したケースなど、同じように緊張度が高いケースでも様々である)
2.冷戦期の日米関係
戦後のアメリカの対日占領政策は、日本を非軍事化するのみならず、軍国主義の温床となった財閥、寄生地主制度などを解体して経済の民主化をすすめ、労働組合を再開し、共産党の合法化を含む複数政党制を導入し、政治の民主化進めるものだった。
→しかし第二次大戦終盤でも既に戦後の国際秩序の形成をめぐって米ソが対立しており、戦後はこの対立構造がより明確になり、アメリカとしては日本の共産化を防ぎ、アジアにおける反共の砦とするために経済復興と対日講和を急ぐ必要が出てきた<対日政策の転換=逆コース>。
→岸信介を初めとする戦前の保守政治家が政界に復帰し、戦後政治をリードした反面、レッドパージにより共産主義者の公職からの排除が行なわれた。
さらに1950年に朝鮮戦争が勃発すると、「警察予備隊」という曖昧な装いのもとに日本の再軍備がスタートし、1954年には「自衛隊」として改組された(しかしこの自衛隊が憲法9条で否定された「戦力」にあたるのかどうかの議論が戦後政治の争点でありつづけた)。
1951年にサンフランシスコ講和会議で日本は48カ国と講和条約を結び、アメリカからの独立−主権の回復を果したが、西側陣営との「単独講和」という形を選択したために、ソ連などの東側陣営を含む「全面講和」を主張した社会党、共産党などは吉田首相を激しく批判した。
吉田外交の基本−現実主義、軽武装−経済成長優先路線→戦後の日本外交の基調となった。(⇔一方、吉田のライバルであり、1956年に首相として日ソ国交回復を行なった鳩山は再軍備・自主憲法制定(=改憲)・自主外交路線をとっていた)。
冷戦期に日本はアメリカを主とする西側陣営に組み込まれたが、憲法9条により、「専守防衛」、被爆国としての「非核三原則」、国際協調主義を柱として、軍事に経済成長を妨げられることなく、「通商国家」として高度成長を遂げることになった。一方、戦後野党として自民党に対峙していた社会党は、原則として非武装・中立路線を掲げて、政府の日米安保体制や対米一辺倒を批判しつづけ、自衛隊は憲法違反であるとする「平和主義」の立場を主張しつづけると共に、北朝鮮を含む共産圏諸国との友好関係を維持しつづけた。日本共産党は、ソ連→中国→独自路線と、時期によって友好国が異なり、関係悪化すると相手国の共産党を激しく批判していたが、反日米安保体制、親共産主義路線を一貫して保ってきた。(いってみれば国際社会における「冷戦構造」が国内政治では、「55年体制」と呼ばれる自民党対社会党・共産党などの野党の保革対立構造となった)。
1960年の日米安保条約改定に際しては、この保革対立が激しい争点になり、アイゼンハワー大統領も来日を中止せざるを得なくなった。この安保闘争の経験は、日本が逆コースのまま、順調に再軍備を進めていくことへのブレーキとなった反面、保守政権にとっても日本の反米ナショナリズム・世論の非軍事主義の根強さをアメリカに示す「手段」となり、日本が安全保障面では国際的に積極的にコミットしない(できない)「言い訳」として機能することとなった。
3.経済摩擦下の日米関係
1972年に沖縄返還を実現するまで日本の主権回復に関する戦後処理は終わってなかったといえるが、この沖縄返還交渉期には最初の日米経済摩擦である、日米繊維摩擦問題が起こり、佐藤政権は、この繊維問題でアメリカに譲歩する代わりに沖縄返還を早期実現するという選択した。
この1970年代(特にベトナム戦争が終結した中盤以降)は国際社会も「デタント」と呼ばれる米ソ緊張緩和の時期であり(−最近の研究では、むしろこの時点に「冷戦」の終わりの萌芽を求める議論が多い−)、日本が経済成長を成し遂げ、対米輸出が急増するにつれて経済摩擦が日米間の主な争点となった(表「アメリカの経済成長と貿易赤字」参照)
1971年ニクソン・ショック−アメリカが金−ドルの交換停止を一方的に発表→アメリカが国際通貨体制を寛大支える余裕がなくなってきたことを示す事例だが、日本側は対応に遅れた。
1973年石油危機→四分の三を輸入石油に頼っていた日本に大打撃→石油確保を目的として日本は独自の石油外交を展開、イスラエルの占領地からの撤退を求める国連決議への賛成や中東へ特使を派遣して経済援助策を打ち出すなど「アラブより」の外交を展開、アメリカの反発を買った。⇒このように田中外交は、経済と政治のバランスをとろうと腐心した佐藤外交と比べて、アメリカに対して日本の経済的自己主張を強めたものであった。
以後、1980年代にかけて、アメリカ経済が低迷するに伴い、カラーテレビ、VTR,自動車、鉄鋼、半導体、牛肉オレンジなど日米間で次々と貿易摩擦問題が生じて、対立することとなっていった(この間のアメリカ経済については「10.アメリカ経済の神話と実情」を参照)
またより低価格の商品の輸出・輸入をめぐっての摩擦だけでなく、1982年のIBM産業スパイ事件、1987年の東芝ココム事件、1989年に妥結したFSX(次期主力戦闘機)開発交渉など、先端技術の移転をめぐる日米間の摩擦・競争も激しくなった(実は先ごろの派遣で問題になったイージス艦にも「技術安全保障」の観点から日本への売却に反対する米議員・政府関係者も少なくなかった。)
こうした日米経済摩擦は、冷戦構造が弛緩してきたアメリカ国民にとっては、日本を経済的脅威と認識するきっかけとなった一方で、日本人にとっては、経済「大国」としての自信を深めるに従って、「輸出自主規制」を強要するようなアメリカの姿勢は激しく反発を招き、経済ナショナリズムが強まる契機となった。
4.ポスト冷戦のテストケース−湾岸戦争〜「反テロ戦争」
1989年の冷戦終結は、冷戦秩序の中で、「経済中心主義」を貫いてきた日本の国際コミットメントに大きな修正を迫るきっかけとなった。
1990年湾岸危機から1991年湾岸戦争
アメリカは、日本が中東での石油への依存度が高く、ペルシア湾での安全航行により恩恵を受けていると認識し、イラクのクウェート侵攻に対し、日本に応分の負担を期待。
⇒しかし日本としては危機認識は薄く、国民の間では「平和主義」的文化が根強く、「武力紛争」そのものにネガティブで、自衛隊による後方支援にも消極的であった(「戦争に巻き込まれたくない」という心理も世論の間には強かった)。武力行使よりも経済制裁で解決すべきだという見方も多かった。
⇒日米の認識ギャップは大きかったが、日本はPKO法案は社会党などの野党の激しい反対で廃案となったが、結局、総額130億ドルを、追加支援を繰り返す形で負担した。
→しかしこのときに、「ヒトを出さずに安全をカネで買っている」、「国際秩序の形成に経済大国として応分の負担をしていない」と激しく批判され、多額の戦費負担も評価されなかったことが、日本の国際貢献のあり方を大きく再考するきっかけとなった。→「一国平和主義」からの脱却(1992年にはPKO法案も成立、カンボジアでの選挙監視協力にPKOとして自衛隊を派遣)
戦後アメリカが国際経済秩序や安全保障秩序を比較的寛大に維持してきたのは、それがアメリカの利害にかなうからでもあり、アメリカが負担を担う経済的余裕があったからだが、アメリカ自体が双子の赤字を抱えて、経済が低迷するようになる一方で、日本が経済的に台頭し、アメリカを脅かすようになると、例えばタンカーの安全航行を防御するためのシーレインの防衛は、「国際公共財」であり、アメリカだけが「過重負担」するのはフェアではなく、また国内の安全保障に関しても日本はアメリカの「核の傘」の下で安保に「ただ乗り」しているという批判が出るようになってきた。日本からすると、日本が軍事的に国際的に大きな役割を果たすことはアジアの周辺諸国へ脅威を与えることになり、また憲法の制約上もできないということが自衛隊の海外派遣を制約する要因となってきたが、結果的には国際社会からはヒトを出さずに、カネで解決すると批判されることになった。また1998年から1999年にかけて、北朝鮮がテポドンミサイルの発射や不審船による領海侵犯などをあいついで行なうようになると、世論の中でも、「日本が攻撃しなければ攻撃されないだろう」という非武装中立的神話が説得力をもたなくなってきた。
「国際協力」と「対米協力」のジレンマ−同時多発テロ後の日本外交
2001年の同時多発テロ事件時は、日本は湾岸戦争の反省から事件発生から一ヵ月後の10月29日にはテロ対策特別措置法を成立させ、2002年にもイージス艦をインド洋に派遣するなど迅速な対応とった。しかし対イラク攻撃など正当性も疑わしい行動も含めて、軍事力を行使しながら積極的に世界秩序を再編させていこうとするブッシュ政権と歩調をあわせていくことに日本の世論が依然として抵抗が強く、「国際協力」、「国際貢献」と「対米貢献」が同義でないことが改めて明らかになっている。冷戦秩序の下では、日本国内で保革対立をしていても、日本全体がアメリカの軍事秩序の上に乗っかっていたことは否めない。しかし安全保障や外交政策で積極的な意味でも消極的な意味でも対米依存しながら、経済活動に専念できた時代はもはや過ぎ去ったといえよう。これから日本に必要なのは、日本自体が日本の「国益」とは何かをヴィジョンを持った上で、アメリカを含めた国際社会との関係を考えて、安全保障・経済政策を立案していくことであり、そのためには「反米」や「対米」自立や「非」軍事貢献といった、単なるnonの論理ではなく、例えば東アジアの経済・安全保障秩序に日本としてどのような貢献をできるのかという建設的なシナリオを描いていかなければならないだろう。