アメリカ社会論特殊講義(5.24)
6.エスニック・マイノリティと教育−「アメリカ」をいかに教育するかをめぐって
6.1
移民と教育
「結局のところ、移民の経済的成功と公的財政への依存度は、彼らの教育水準にかかっている。英語能力もまた彼らの経済的成功と財政負担に影響している。貧弱な英語能力しか持たない個人は、合衆国労働市場の最低水準に留まらざるを得ない傾向を示している一方で、英会話能力は特にヒスパニック系やアジア系の成人移民の所得を顕著に向上させる要因となっている」(U.S. Commission on Immigration Reform, 1997. Becoming American.)
1965年の移民法改正以後、ヒスパニック系移民(特にメキシコ系)が急増(カリフォルニア、テキサス、ニューヨーク、フロリダ州などに集中)。
1968年「二言語教育法」−1970、1974年に改正され、英語にハンディを持つすべての児童に
二言語教育を保証することとなった。
しかし
I
ヒスパニック系の高い高校中退率など教育効果への疑問
II
地方政府への財政負担→カリフォルニアにおける提案227号(1998)
→ヒスパニック系の反発とともにヒスパニック系の中にも英語教育を望む層もでてきた。
「同化」による社会経済的地位の改善か、文化的アイデンティの保持かが争点に。
6.2 先住民と教育
先住インディアン教育政策は、
I
合衆国政府が部族と条約・協定を結んでいた時代(1770〜1820)→連邦全寮制学校
II
1830年のインディアン移動法
III 1870から1930年代の同化政策
IV
1934年のインディアン再組織法→通学制のインディアン・スクール(部族語教育も実施)
V
1953年のインディアン局の方針転換→公立学校での統合教育の推進
VI
1950年代後半〜60年代 インディアン・コミュニティ・カレッジの叢生
VII
1978年以後→公立学校に進学するか、インディアンスクールに進学するかは個人または
部族の選択に。
→1990年までに700人以上のインディアン法律家が誕生し、法廷闘争の戦力に
日常言語として部族を使用するインディアンはほとんどいなくなり、半数以上が都市人口となったインディアンにとって、部族文化・言語と英語文化との葛藤は難しい問題として残っている。(cf.抽象的な「インディアン文化」と各保留地での「部族語・部族文化」とのギャップ)
6.3 多文化主義教育とポストエスニック・アメリカ
1960年代のリースマンの「文化剥奪論」→主流文化に適応させる補償教育に重点。
→しかし70年代以降は、多様性や差異を肯定する多文化主義教育へと移行。
アメリカの多文化主義教育は、@エスニック集団、文化集団、ジェンダー集団の声、経験、戦いなどを組み込むカリキュラム改革、A低所得層の生徒、非白人生徒、女子生徒、障害生徒の学業達成、B異なった人種、文化、ジェンダー集団に属する人々の集団間教育の達成を目的とする。
アフロ・セントリズム
PC運動
各人種、文化、ジェンダー集団の自己定義を承認するか否かが争点に
多文化主義教育批判
Allan
Bloom, The Closing of American Mind. 1987
アメリカの大学カリキュラムの中心は、アメリカ共和国の実現に最も影響力が
あった西欧文明・西欧思想中心であるべきだとした。
←西欧文明コア科目も時代の産物にすぎない(Lawrence Levine, The Opening of the American Mind. 1996)
←「平等や正義に関する西欧デモクラシーの理想と、人種、ジェンダー、社会階級による差別の現実は矛盾している。そのギャップを埋めることが多元主義教育の目標」(James Banks, An Introduction to Multicultural Education, 1994)
ポスト・エスニックアメリカ
多文化主義の場合、ある個人がある「文化」集団に属しているというのが前提。
それに対して、個人は自由意志により、多数の共同体に属することができるし、多層的な
アイデンティをもつことができるという考え方もなりたつ
→David
Hollinger, Postethnic America. 1995
グローバルな相互依存が進む中での、自由意志、開放性、寛容性などを強調する立場。