選択問題(優秀答案例) 4
1969年、ニクソンはグアム・ドクトリンを発表し、ベトナムからの軍事的撤退とアジアに対する援助は続けるが、アジアの問題はアジア自身が解決すべきだという姿勢を打ち出した。アメリカの東南アジア政策は、ベトナム戦争以降、このグアム・ドクトリンによる軍事的関与の縮小を経て、安全保障から経済的関心へと移行した。ベトナムでは戦後、ドイモイ政策による市場経済化が進行し、アメリカとベトナムの経済関係の強化につながった。こうした経済関係の深化を背景として、1995年にはクリントン政権下で米越関係正常化が実現した。クリントンはAPECを通じて東南アジア地域全体との経済関係を強化し、経済面においては積極的な外交政策を展開した。しかし依然として泥沼化したベトナム戦争の後遺症がアメリカの対東南アジア政策に影響していることもあり、政治的混乱と経済的不安定を抱えたこの地域への政治的経済的コミットメントは限定されてきた。1997年にはヘッジ・ファンドによるタイ・バーツの空売りが一因となって、アジア通貨危機が起こったが、アジア市場から消えた一兆ドルはヘッジ・ファンドを中心とするアメリカ資本に流れたと考えられている。アメリカ主導のIMFはこの危機に対して、金利を上げて緊縮財政を行なうことを当事者各国に要求したため、さらなる社会不安を煽ることになった。このアジア通貨危機は、アメリカン・スタンダードの押し付け、グローバル化の弊害であるとしばしば批判されている。東ティモール問題では、アメリカは1982年の国連安保理決議まで東ティモールの自治権を認めるという決定に反対してきた。これは1975年のインドネシアの東ティモール侵攻の際に共産化を防ぐという目的でインドネシアに武器を供与していたことと、豊富な鉱物資源をもつインドネシアとの良好な経済関係を維持することを優先していたからである。しかし反共政策の重要性が薄れてからは、アメリカも東ティモール人の人権問題の改善をインドネシア政府に要求するようになったが、1999年の国民投票後の東ティモール人の虐殺に関しては,予想できることであったにもかかわらず、クリントン政権は国際部隊の派遣に消極的で、多数の犠牲者を出すに至った。現在もプノンペンの反タイ暴動やインドネシアのアチェ自治州の分離独立運動などといった問題を抱えており、東南アジアは政治的経済的に不安定な状態にある。しかしだからこそアメリカの果たす役割は大きく、アメリカが民主化や経済機会の拡大といったアメリカ外交の基本的目的に寄与し、その利益を得ることは可能である。現在、ブッシュ政権は対テロ対策を中心とした外交政策を行なっているが、イスラム教徒が多くを占めるインドネシアでは反米主義が高まっており、協力関係を結ぶことは困難である。東南アジア政策をより充実したものにするためにはASEANなどの地域的多国間協定との協力関係を維持し、その地域のコンテクストを配慮した政策が求められるのではないだろうか?
(寸評)
事実を中心に述べながら、ベトナム戦争後のアメリカの東南アジア政策を要領よくまとめている。授業レジュメなどをベースにしているが、独自の考察を行なっており、アメリカの東南アジア政策の功罪両面に言及している点も評価できる。