カルチュラル・ハラスメント
セクシャル・ハラスメントに関する議論はしばしば取り上げられる。しかし、文化的にハラスメントを受けるような場合は、国内で問題が顕在化するような場合を除いて、しばしば無視されている。こうしたハラスメントを、今仮にカルチュラル・ハラスメントと呼ぶことにしよう。そして、ここで問題にしたいのは、セクシャル・ハラスメントの議論を推進する側に、しばしばカルチュラル・ハラスメントが生じているにもかかわらず、前者はそれを「ハラスメント」だと考えていないという現実である。セクシャル・ハラスメントの議論は、しばしば、フェミニズムに対して指摘されるのと同様の問題点、すなわち、自文化中心主義的普遍主義に陥りやすい。そして、カルチュラル・ハラスメントがもっとも現れるのは、劣位に置かれた文化、もっとはっきり言えば、「未開」というイメージで捉えられた文化に対した時である。そこでは、異文化における男女のあり方が無視されることになるのである。セクシャル・ハラスメント撲滅を訴えるあるNGOのパンフレットに、「マレーシアの熱帯雨林に移り住み、原住民の村で暮らした時」lという一文があった。「マレーシアの原住民」という表現が、こうしたカルチュラル・ハラスメントであることに、気づいていない例である。