人類学バトル「ポストコロニアル論争は人類学の自殺行為に等しかった」 於:一橋大学
神戸大学 吉岡政徳
0 自己批判と内旋化で、出口がなくなったポストコロニアル人類学
○自分がどうするのか、ばかりを問うエゴセントリックな動き
○「自分探し」の繰り返し
○「フィールドからの発想」を「自分からの発想」に変換、現場(フィールド)放棄
1 ネオコロニアルとポストコロニアル
1)1980年前後にネオコロニアリズム批判に基づいた第三世界論が衰退し、それに変わってポストコロニアル批判が登場したと捉えられるのではないか。つまり、この時期に第三世界論の基盤が崩壊し、従来の第三世界論では把握が困難となった事態が発生してきた。こうしたネオコロニアリズム批判に基づいた第三世界論の衰退と平行して、パラダイム転換を通して脱植民地化プロセスの未完によって顕在化している問題を捉える視角としてポストコロニアル批判が登場してきたと評価すべきだろう。(小倉英敬)
2)多くの植民地が政治的独立の後も、さまざまな地域で以前と変わらない、あるいはそれ以上の経済・文化的搾取にさらされ(それをネオコロニアリズムとも呼ぶ)、多国籍企業の独占支配体制や、富める国と貧しい国との格差拡大にみられるように、いまや資本主義諸国は国際的な資本・文化表象の操作によって広範な支配体制を確立しつつある。そうした現実にたいして、特に1960年代以降、植民地主義を引き継ぐ西洋中心思考に対する反発が大きくなり、かつての植民地出身者がポストコロニアリズムの展開に大きく寄与し、残存する不平等な現実をどう変革するのか問うてきた。(本橋哲也)
3)ポストコロニアリズムは、1980年代以降登場した旧植民地出身の作家によって旧宗主国の言語で書かれた文学であり、それの前提になるのは、宗主国対植民地あるいは支配/被支配という二項対立をずらしていくひとつの戦略であって、そこからディアスポラとハイブリッドという戦略を主張するような立場が出てくる。(イ・ヨンスク)
4)こうした考え方は、変わることのないエスニックな差異を、「黒人」と「白人」の歴史と経験のなかの絶対的な断絶として提示してみせる。この選択に代わるもっと困難な別の選択肢がある。すなわち、クレオール化/混血化/異種混交性を理論化するということだ(ギルロイ)
5)現在はコロニアルの時代に引き続いて起こった新たな文化的支配の時代であると捉えるのではなく、文化そのものが脱中心化されはじめ、周辺の文化が中心の支配的文化勢力とさまざまな交渉や駆け引きを通じて新たな地平へと向かう時代と捉える見方に基づいている(太田好信)
1−1 二つのポストコロニアリズム
○「文化帝国主義」論を踏まえる
○「文化帝国主義」論を批判する
1−2 ポストコロニアル人類学の特質
○本質主義批判 ・文化帝国主義という捉え方を批判
・自文化中心主義という捉え方を批判
○異種混淆論 ・文化は創造される、構築される
・真正な文化はない
○文化を語る権利 ・政治的正しさ
2 ポストコロニアル人類学批判
2−1 文化を語る権利 → 政治的正しさ
1)伝統の創造論を踏まえて「政治的アリーナで用いられている伝統概念は、もとからあった村落などにおける真正な伝統に比べて非真性である」と言うキージングに対して、「彼は、まさしく、自分の帰属していない所へ進入していく無作法な白人であり、彼の議論は、ネイティヴは自分の生活に関してさえもあまりよく知らないという考えのうえで成り立っている」と批判。(トラスク)
○自分たちで自分たちの文化を語る権利の主張
→文化を語る権利を持つのは、その文化の担い手
○他者に成り代わって代弁することが本質主義として批判されるなら、異文化についての語りは、成立しなくなる。
→問答無用の一種の暴力
ポストコロニアル人類学の陥った迷路
○これに対して、「文化を語る権利」についての言及をさけつつ、文化をめぐる議論、創造的な知のあり方へと議論がシフト。
→ 自文化を語る人々と異文化を語る人類学者の共通の視点の模索でもあった。
○二分法批判の「歴史的もつれ合い」論、さらには「異種混交論」へ。
しかし ○ポストコロニアリズムにおける異種混交論の出発はちょっとちがう。「宗主国の言語で旧植民地の文化を語る」こと
→ハイブリディティなどを武器に、宗主国対旧植民地という二分法に立ち向かった。
○しかし人類学の現場では、「宗主国の言葉で異種混交を語る人類学者」、「現地の言葉で自らの伝統を語る
旧植民地の人々」。誰がハイブリディティを語っているのか。
2)サバルタン概念は、反植民地的であるだけではなく反エリートであるという点で、政治的に正しい。(リネキン)
○文化を語る権利→サバルタンの戦略的本質主義
○しかし戦略的本質主義の主体は、誰?サバルタン?それは可能か?研究者の視点?
○戦略的本質主義と本質主義の違い?同じ穴のむじな?
2−2 歴史的もつれ合い = 土着と西洋という二分法を批判
1)「真正で多かれ少なかれ単一の伝統体で、きわめて豊かな文化的複合に満ちているもの」と「宣教師や居住者によって持ち込まれた、雑多であまり興味を引かないし問題ともならない介入や、西洋技術や換金作物などのような革新」という二分法を批判(ニコラス・トーマス)
○アーカイヴズでの研究。植民地側の資料→植民地化する側の持ち込むことが変われば、植民地化された側の
反応も変わる ←グハの批判したエリート主義的歴史記述「植民地化する側がもたらしたものに対処する形で、
現地の人々がなにかを作り出す」
○植民地化する側のヘゲモニーを証明
2−3 純粋な文化 = 本質主義的規定
1)近代人類学は文化が変化することをその消滅とみなし、世界各地の消滅しつつある文化を記述し、民族誌のなかに救出することをみずからの使命とした(クリフォード、杉島敬志)
○サルベージ人類学批判
2)過去に存在した純粋な文化が、外部の影響によって消え去っていくというエントロピックな語りは、多くの人類学者にとり違和感なく受け入れられてきたはずだ。(太田好信)
3)「調査地の社会・文化・その現状」は、「固有の社会・文化、その衰退」+「外的影響」という図式で捉えられてきた。(清水昭俊)
○「消滅の語り」批判→固定的な「真正な伝統文化」設定を批判
○文化間の相互作用が不断のものであると強調
→ どのような外的影響であっても同じような相互作用が生じると錯覚
○もっとも暴力的な介入をしている「近代」を、多くの中のひとつ として位置づけてしまう。
○変化は現実に起こっている→変化を考えるときには、前と後を設定する。それを封印することは議論の硬直化に。
○社会変化を考えるとき、消失するものという設定が必要なのでは?
○外的影響によって伝統文化が消え行くという消滅の語りは、誰がするのか?研究者だけか?
2−4 真正さ
1)民族誌的リアリズムは本質的に単声的な権威であり、住民の声に発言の余地を与えないという点で、植民地主義的な表象の様式、あるいは、オリエンタリズムと批判されてもしかたのない性質を持っている。(杉島敬志)
2)人類学の場合にはPに特定の人間集団名、Qに文化が充足されるのであり、この点で近代人類学はオリエンタリズムや人種差別主義と同じ論理を共有している(杉島敬志)
○「真正さ」の強調は本質主義的。
↓
「真正」なものはない。
○しかし、こうした視点は、リアリティが単一であることを前提。
○真正さが、あるか、ないかという問題ではない。
○人々が語る真正さは、ある、が臨機応変に移り変わる。
○リアリティは単一ではない(キージング)という現実を見落とす
○本質主義も本質主義批判も、単一のリアリティを想定している点で同じ。
2−5 政治的問題
1)しかしながら、議論の端緒を考えても、ポストコロニアル人類学から政治性への着目を除去することは不可能だろう。本書のように、客体化の議論において認識論へ向かうことは、学問の内包する政治性を隠蔽し、ポストコロニアル人類学の提起した政治的諸問題を擬似中立的な理論的問題へと転換することになる。その姿勢自体が、ある種の政治性を不可避的に含意する。(風間計博)
○そのとおり。しかし、だから?という質問をしたくなる。
○学問は政治性を内包している→あたりまえ、だからどうするのだ?
○それを追求しすぎると硬直した迷路に入る。それをどうするのだ?
2)さらに、多くのポストコロニアル人類学の論争においても、思弁性を増すにつれて、現実の政治的問題から乖離して内旋化し、非実践的な理論的場を形成していく点で、本書の方向性と近似した非政治的様相を呈する点にも留意すべきである。(風間計博)
○ポストコロニアル人類学が、非実践的な理論的場を形成することで、批判している。
現実に起こっている力関係を(植民地化の暴力など)を隠蔽すると批判している。
○研究者の持つ政治性を問題にするなら、その先は、「自分のポジショナリティを明確にする」ということか?
○自ら他者を記述することの政治性を明確に自覚すること→その後どうする?
→他者の立場から発言するのか?
→他者とは誰?サバルタンとは誰が決めるのか?
→自ら、他者を記述するものとしての立場を放棄せよ!
→閉塞状況を作り出してきたのではないか?
○自らの記述が、単一のリアリティではないことを明記する方法を提案。
政治的正しさ
○支配ー被支配の図式からぬけれない
○被支配者、あるいは弱者とは何か?
○植民地支配を受けた側=弱者:弱者の論理を支援
○植民地化した側の論理はすべて批判される=議論の硬直化
2−6 西洋人類学
1)観察者に、太平洋における伝統と近代の構築の中に対照的な関係を期待させているのは、おそらくは対立的思考に対する我々自身の性癖である。(ホワイト)
2)カーゴカルトはヨーロッパ人自らの欲求を投影したものである。(リンドストローム)
○「国家エリートによって作り出される伝統」論争(ハンソンのマオリ研究)
○マオリからパケハの人類学としての批判
○人類学の側もパケハの人類学としての自覚
○自己反省することにより、「彼ら」に投影された「我々」という視点の登場。
○最終的に、「彼ら」と「我々」の壁を取り払うことで、非西洋を論じる西洋人類学の贖罪
3)典型的なフィールドワークの状況においては、外国の人類学者は、ヨーロッパ的知識と皮肉なことにおそらくヨーロッパ的権力を必然的に体現する。・・・この点で、増えつつある非ヨーロッパで土着の人類学者の仕事が、土着の慣習と外国の人類学という伝統的な両極性を打ち破っている(リンドストローム&ホワイト)
○フィールドにやってくる外国の人類学者=ヨーロッパの人類学者
○非ヨーロッパで土着の人類学者=観察対象となってきた地域の人々
○非ヨーロッパの人類学者が、自分の土着の慣習を研究する、という前提
○非ヨーロッパの人類学者が自分の出身以外の非ヨーロッパを論じるという視点がない。
2−7 異種混淆
1)(ソロモン諸島においてチーフ制が創設されて時間がたつにもかかわらずチーフという地位が確立していないのはどうしてか、という質問に対して、)ビッグマンのような流動的で個人的なリーダーシップを基盤としているソロモン諸島のようなところでは、政府お抱えのチーフの真正性が疑問視されることになると答えることは、作られた文化と真正な文化の明確な違いという視点にもとづいているのであり、それは植民地の歴史のなかでチーフに関するさまざまな言説をはぐくんできた歴史文化過程を曖昧にする(ホワイト)
2)カスタムやカスタム・チーフという概念を植民地化への対応として解釈することは、文化的連続性に貢献する土着のモデルの力を見過ごすことになる(ホワイト)
○二分法を批判 → シンクレティックに混交した文化に着目
しかし、要素主義的:腕時計をしてティーシャツを着たキリスト教徒が行う「伝統的儀礼」→混交した文化
↓
しかし、儀礼を行っている人々はそれを「真正な伝統」と見ている
↓
誰が「混淆している」と決めるのか?
○固定した文化観を批判→文化は構築される、真正な文化はない
→島嶼のエリート達の主張する「伝統」も真正ではない→政治的に正しくない
→他者の文化を研究者が語ることは出来ない
↓
「かつての伝統と後からの近代は混淆して新たな文化を創造しており、それに意味がある」という考え
↓
島嶼のエリート達が言う「伝統」はそこには含まれる→エリート達 は自分達の言う伝統が真正なものである
と主張する必要がなくなる
↓
島嶼からの「本質主義的主張(戦略的本質主義?)」を議論する必要もなければ、誰が文化を語る権利があるのか、
という議論もする必要がない。
↓
ポストコロニアル人類学における異種混交論は、すべての念頭に置かねばならない政治的問題
(他者の記述、植民地支配、近代の暴力的介入など)を不問に付していく。
↓
西洋の学問としての人類学は、西洋世界の視点から捉える見方を自ら否定することによって、
オリエンタリズム批判に答えようとした。その結果、国家エリートの目を気にし、エリートと共同で
エリートン見た世界を復元しようとしている。しかし、これらエリートの見た世界は、
自己反省した西洋人類学の世界でもある。
↓
エリート達と共同でワークショップを開催、同じ論点を共有
↓
西洋的価値観がすべてに広がる真のオリエンタリスト
3 本質主義批判と差異性の設定
1)こうして今日、人類学者が未開という概念を疑問視しているときに、観光客はカメラのファインダーの中で未開人を再生産し続けるのだ。(山下晋司)
2)こうした現象の中に私たちが見るべきことは、現代において伝統文化が消滅していくという物語ではない。そうではなくて、文化が境界を越えて享受され、古い伝統が新しい伝統に適応し、そこに新しい文化が生成してくるという事実である(山下晋司)
3)慣習的食人の存在にお墨付きを与え、土着観光開発推進に寄与し、経済発展を促進するという立場をとることが一見政治的に正しいように見えるとしても、既に述べたように、それが逆にパプアニューギニアという周縁の西洋世界という中央への依存を固定化してしまう危険がある。それでもなお現在の状況を考えると、パプアニューギニアにかかわりを持ったものとしては、取りあえず土着観光を推進する以外にうまい方法はないと判断せざるをえない。(栗田博之)
3−1 ジレンマに陥る「創造される文化」論
○山下論:非真正とは呼べない「秘境観光文化」。しかし観光する側とされる側の力関係が顕在化した見方を温存
3−2 ジレンマに陥る「政治的正しさ」擁護論
○栗田論:観光される側がなんらかの利益をあげる
→秘境観光を否定するような見解を提出するのは政治的に正しくない
→しかし、観光する側とされる側の力関係が顕在化した見方を温存
3−3 ジレンマの解消
○観光「される側」に対する「する側」の一方的な見方を問い直す
文化的優劣ではなく文化的差異の強調
3−4 本質主義に陥らずに差異を設定する
○従来の差異の設定=他者を他者として閉じ込める
=あれかこれかの二分法を生み出す
○近代の持ち込んだ「あれ」か「これ」かの二者択一
↓
本質主義的な排他的区分
↓
それに対する批判としての混淆論、ボーダレス論
↓
カテゴリー区分、差異性の放棄
○周辺は混交していても、中心部は差異があるとみなされる現実
↓ =多配列的な世界
カテゴリーの区分、差異性の保持、しかし、排他的ではない
4 多配列思考
4−1 多配列と単配列
○単配列 --- 共通の特性を抽出する科学的定義の根幹
多配列 --- 家族的類似、チェーンの輪をつなぐように結びつく
|
|
多配列クラス |
単配列クラス |
個体 |
1 2 3 4 |
5 6 |
特
性
|
A A A
B B B
C C C
D D D
|
F F
G G
H H
|
|
|
4−2 類似に基づく関連
○典型の持つ特性との類似によって周辺が形成される
XとYは葉の形が似ている
YとZは幹の形が似ている
4−3 多配列思考
○単配列思考:明確な境界線を持つ単一のリアリティを想定
多配列思考:リアリティの重なりを認め個々のリアリティの境界線を曖昧なままにしておくという発想
↓
多声的リアリティの承認
:cf.クリフォードの「多声的」概念 = 単配列的
:「近代」以前の思考
4−4 多配列思考に基づく現実と、多配列的に捉える研究者の視点
4−5 単配列思考とポストコロニアル人類学
○本質主義的な従来の研究姿勢 → 単配列思考
それを批判しようとしたポストコロニアル人類学の議論
→ 単配列思考