島嶼世界の開発

サブシステンス経済を重視する視点は、いわば、すべてを近代化へと向かわせる開発とは一線を画する見方ということになる。しかしその視点は、島嶼国において、サブシステンス経済をそのまま温存する方向を探ることにもなる。政府維持を最小限可能とする条件だけを整えて、それ以外はサブシステンス経済で行くというやり方は、難しい。さらに、それは世界の動きから隔絶させるということにも繋がる。近代化を進める開発は、これらの島嶼国に豊かさではなく貧しさをもたらしたと言うことも可能である。つまり、世界の経済システムに巻き込むことに失敗したということであろう。それぞれの島嶼国の内部のあり方を重視した開発というのは、いわば、世界のメンバーから格落ちすることが確定したということでもある。そして、サブシステンス経済を温存するという方向は、まさしく、これらの地域だけは、世界の流れから特別区に指定されるということに他ならない。近代化を目指す経済開発が悪であるなら、島嶼世界を世界の特別区にすることは善だろうか。観光開発の場合と同様である。大規模なマス・ツーリズムによる観光開発は、ホストの側に大きな混乱と害をもたらしたため、ホストの側を優先した観光開発として、エコ・ツーリズムなどがオールタナティヴとして取り上げられている。しかし、エスニック・ツーリズムとエコ・ツーリズムが合わさった形で展開される島嶼国への観光は、そうした地域の伝統文化を見せ物とする特別区を設定することになっている。特別区の設定は、悪いことではないかも知れない。しかし、世界の経済、世界の視点(これらは西洋世界の価値観を規準にしていることは言うまでもないが)にとっての特別区設定は、まさしく、西洋の自文化中心主義の裏返しに過ぎないのではないか。しかし島嶼世界には、これしか生き延びる道はないのかも知れない。




















自文化中心主義

 自民族中心主義という言葉に物足りなさを覚えた人は多いだろう。その物足りなさから、自文化中心主義という表現を用いるようになったのは筆者一人ではないと思う。誰が最初にこの言葉を用いたのかは知らないが、筆者は1983年の信州大学での一般教養の講義から用いだしたように記憶している。それ以来一貫して、「自文化中心主義とは、無意識のうちに自分の文化的フィルターを通して異文化を見てしまうこと」と説明してきた。そうした説明は、他の人類学者の自文化中心主義に対する規定と異なっているかもしれない。
 自分の文化こそすべてで、積極的に自分の文化的フィルターを通して異文化を見ようとする人は、今日的状況では、あまり見出せないだろう。国際化が問題となっている現在、わざと「偏見の目」で見ることを良しとする人はないだろうということだ。しかし、どんなに、世界には様々な文化があり、様々な考え方があると頭では分かっていても、意識しないところで、自分の文化的価値観が前に出て、そうしたフィルターを通して異文化を見てしまうという現象が生じるのも事実である。それを、自文化中心主義と呼んできたのである。
 ところが、ポストコロニアルという状況の中で、こうした自文化中心主義を批判する姿勢が、問い直されている。「自文化中心主義批判」の論点は、自文化とは異なる異文化という「他者」の設定が前提となっており、その他者がどれほど自分達と異なっているかということを強調する点で本質主義的だというのである。確かに、「知らず知らずに自分の文化的フィルターを通して他の文化を見てしまう」という点を批判するのは、他の文化が「独自なもの」で、「自分達とは異なった論理で出来ている」から自分達の論理から見てはいけない、という理由からだ。それは、まさしく、サイードのオリエンタリズム批判以降、一貫して批判されてきた本質主義的な議論ということになるだろう。
 ところで、自文化進化主義批判を武器に進化主義を批判した文化相対主義が20世紀の初頭に登場してから、100年近くがたとうとしている。人類学では、この文化相対主義はいち早く受け入れられ、当然のこととして議論された後、現在は、文化相対主義をも批判して見直そうという方向が現れている。しかし、一般には、そして様々の分野における研究者も含めて、いまだに圧倒的多数が進化主義的な視点を共有していることを否定することは出来ない。「あれは絶滅寸前の動物の一種であり、人間とは思えない」という視点から「彼らも人間であるが、野蛮で未開な人間だ。やがては文明化されるだろうが今は進化が遅く、未開の段階にいる」という視点へと変貌を遂げてきた進化主義は、「発展途上」国という概念を作り出し、「彼らもようやく文明化してきた」という視点は、「彼らもようやく工業化してきた」「彼らもようやく先進国並になってきた」という議論の背景をつくってきた。そしてこの進化主義はさらに、「未開」「低級」などという否定的なイメージで「第三世界」をとらえることをやめ、新たな偽装工作をはじめている。つまり「彼らこそが、自然とのかかわりを大切にし、我々が失ってしまった真の人間らしさを持っている」という言説がそれである。様々な分野で否定的未開観に代わり、この肯定的未開観が受け入れられているが、これが進化主義的であるのは明白であろう。
 進化主義的なものの見方が、自文化中心主義的な視点に対する反省を持たなかったということから生まれていることを考えれば、こうした状況の中で、自文化中心主義批判を本質主義的だということで排除することに、どれほどの意味があるのだろうか。現在、我々がせねばならないのは、自文化中心主義的な視点で物事をみることに対する批判を、依然として、続けることではないだろうか。