オセアニアにおける公共圏、親密圏の出現

神戸大学大学院国際文化学研究科
                                                       吉岡政徳

1 公共圏、親密圏

1−1 かつてあったと想定された公共圏

○公権力に対する批判的領域としての市民的公共圏
〇公共圏=合意を形成していくための討論の空間
●ハーバーマスは、公権力に対する批判的領域としての市民的公共圏を想定し、公共圏のあるべき姿を「合意を形成していくための討論の空間」としてとらえている。
     親密圏→文芸的公共圏→政治的公共圏
●親密圏としての近代的家族において形成されるフマニテートに基づく人間関係
 →芸術についての議論の場であるサロンにおける「文芸的公共圏」へ
 →カフェでの意見交換や討論、さらには各カフェでの議論の内容を伝える政治新聞に媒介されながら、国家との対抗関係のなかでブルジョアジーが公的事柄について議論する場である「政治的公共圏」へ

1−2 かつてあったと想定された公共圏の変容

○国家権力に取り込まれ、マス・メディアによって管理される公共圏
●国家に対抗する批判の場としての公共圏は、国家権力のなかに取り込まれてしまう。その結果、かつての近代市民社会では理性が発揮される場として機能した公共圏は、大衆操作的なマス・メディアによる管理の場へと変貌を遂げていく。
●アレントによれば、大衆社会における世界への関心の喪失こそが、公共圏の消滅を意味しているという。

1−3 かつてあったと想定された親密圏

○親密圏=近代の小家族
○「愛」をメディアとする関係性としてとらえられ、多くの場合、男女のカップルとその子どもからなる小家族

1−4 かつてあったと想定された親密圏の変容

     グローバル化による親密圏の危機
●「生/生命への配慮」や「他者と自己への配慮」としての親密圏が、グローバル化によって危機に陥る。
     親密圏→「素の自分の表出」から「装った自分の表現」へとシフト(土井)
    この場合は、親密圏=私的空間
●しかし、privateな関係、privacyの空間 と intimateな関係、intimacyの空間とは異なるという視点が重要

1−5 再創造された公共圏

●ハーバーマスがかつてあったと想定した公共圏(つまり理念型としての公共圏)は、実際に過去に存在したのか、とうい疑問?
○公共圏の条件

1 オープンであること。誰でもがアクセスしうる空間。
2 人々の抱く価値が互いに異質であること。複数の価値や意見の<間>に生成する空間。
3 その統合のメディアとなるのは、人々の間にある事柄、人々の間に生起する出来事への関心である。差異を条件とする言説の空間である。
4 アイデンティティの空間ではない公共性は、共同体のように一元的・排他的な帰属を求めない。●(齋藤2000)
     ハーバーマス自身の再創造された公共圏概念 = 単一の公共圏から複数の公共圏設定へ
     ナンシー・フレイザーの「差異の政治」も基づいた批判→複数の公共圏の設定
〇再創造された公共圏の例:市民フォーラム、市民運動、非営利団体、ボランティア団体など
●理念型としての公共圏は、議論することによって合意を形成していく空間であり、国家や社会に対抗的に作用する自立した空間
●しかしハーバーマスの想定した理念型としての公共圏と、例えば、「芸術家たちの作り出すカフェにおける文芸的公共圏」という具体的な姿の間にはギャップがある。
●さらに、これらの文芸的公共圏が、再創造された公共圏の規定に合致しているとはいえない。

1−6 再創造された親密圏

〇かつてあったと想定された親密圏の幻想
●親密圏として設定された近代的な小家族 → 実は、家父長的でDVの温床であるという指摘
     再創造された親密圏

1)具体的な他者の生や生命ーとくにその不安や困難ーに対する関心配慮を媒体とる、ある程度持続的な関係性
2)社会的承認とは異なった承認を与える場としての親密圏
    ●親密圏では、社会的な承認とは異なった承認を、社会的な否認にさからにながら与えることができる。(齋藤2003)
3)対抗的公共圏としての親密圏
    ●親密圏は、社会的なものに対して一定の距離を設定することにより、社会が正常とは認めない事柄に活動の余地を与える
         →不穏なもの、秩序を攪乱するものとしてマークされる
         →例えば、ある種の宗派や運動体などが、実際に反社会的、準犯罪的な集団と目され、治安管理の対象となっている
         →親密圏は社会のあり方を問い直す「対抗的な公共圏」として機能することも  しばしばあるが、・・・(齋藤2003)
○親密圏の例
 異常、異端とされてきたある種の宗派、運動体、マイノリティや弱者の形成する運動体
●親密圏は、保守的な家族観が崩壊する中で、また、生政治が力を持つに従って、解体の危機に瀕することになったとされている。しかし、保守的な家族観が崩壊することで同時に、もともとあったとされる親密圏概念そのものの疑われることになる。つまり、親密圏はもともとあったというよりも、近代社会による近代性の進行に従って失っていったものが何かを考えた結果、もともとあったモノが解体の危機に瀕しているという整理で語られえるようになったといえる。
●新たに設定された親密圏は、支配的な文化コードをあやつる人びとの間では形成されるというよりも、あくまで、マイノリティや弱者にとってのものとして設定されている。
〇親密圏=対抗的公共圏=サバルタン対抗公共圏
●ハーバーマスの公共圏の例:市民フォーラム、市民運動、非営利団体、ボランティア団体
●フレイザーを援用した議論→複数の公共圏の設定
●差異の政治に基づいた階層ごとの公共圏→サバルタン対抗公共圏→対抗的公共圏にもなりうるとされる親密圏に限りなく近づく
●親密圏=傷をなめあう関係、社会のなかにある他者に対して抗する一枚岩的な仲間集団=異質性を基盤にはしていない
●公共圏と親密圏の差は、議論の中で、なくなりつつある(斉藤は差を設けようとしている)

1−7 議論の基点

●公共圏も親密圏も、かつて実在したと言われているものが、理念型としての公共圏(議論による合意形成の場)や親密圏(愛によって他者を包み込む場)とは異なっている。
     危機に瀕した後再創造された公共圏も親密圏も、かつて実在したと言われているものからも理念型からもズレたものとして設定されている。
〇単配列概念と多配列概念
  単配列=共通の特性に基づいてクラスが定義される =科学的定義
     =近代の厳密で排他的な枠組み、分類
  多配列=共通の特性によって定義できず、互いに類似したものがクラスを構成する
     =ヴィトゲンシュタインの家族的類似
     =近代以前のゆるやかでいい加減な枠組み、分類
     ≒レヴィ=ストロースのブリコラージュ
●かつて存在したとされた諸現象:カフェにおける芸術家のサークル、小家族など
→多配列クラスとして機能
●再創造された諸現象:公共圏の条件、ボランティア団体、ある種の反社会的宗派など
→単配列クラスとして機能
●かつて存在したとして設定されたものは、現在、問題となっている公共圏、親密圏ではない。

2 共同体と公共圏

2−1 「一種の公共圏としての共同体」論(小田編『文化人類学』の特集)

     社会科学の一般的な認識

  共同体

  公共圏

  閉じた領域
  均質な価値

  内面の情念が統合のメディア   排他的な帰属

 誰もがアクセス可能な空間
 異質な価値
 人びとの間に生起する出来事への関心が統合のメディア アイデンティティの空間ではない

「開かれた市民社会 vs 閉じた共同体」論→「閉じてはいない共同体=一種の公共圏としての共同体」論
●西洋(市民社会)と非西洋(共同体)という二分法を解決するやり方としては二つしかない。
  @西洋的な概念はローカルな概念と全く相容れない論理でできていると分析するか、
  A元々同じ論理を見いだすことができると考えるか。
●しかし、この二つは小田のいうような二分法でできあがっている。そのため、小田は第三の道をさぐる。それが、「ある種の西洋的論理はローカルにもある」という道。
○一例:共同体は、成員権などで柔軟性を見せ、枠組みをまもったままでも新たな参入を受け入れる。
●斉藤の議論は、市民社会と対立する共同体を前提にしているので、共同体と公共圏の違いを強調することになるが、斉藤を批判する小田は、そうした前提にたっていないので、議論がかみ合わない。
●小田らが探している「ある種の公共圏となる共同体」は、多配列クラスとして成立している伝統的な共同体である。それは、かつてあった公共圏の例として挙げられている文芸的公共圏などと性質を共通に持っている。
     モンマルトルのアパート「洗濯船」に集まった人々は、確かに文芸的公共圏を構成しているように見える。
→しかし、彼らは、その世界の外から見れば、ある一つのまとまりを持っている。一定の方向性を持った画家である。
→今日言われている公共圏の規定である「誰にでも開かれている」という性質が、そのまま当てはまるわけではない。
→自由に出来上がるサークルと言えばそうだが、そして、そこで様々な議論が戦わされたといえばそうだが、議論によって出て行かざるを得なかった排他性も持ち合わせており、さらには、そこに参加するためにはそれなりの条件が必要である。
●小田のいうストリート・ボーイズは、「洗濯船」ほど異質性を容認したわけではないといえる。そして反社会的なマイノリティ集団という点で、今日考えられている親密圏に近い。しかし、今日想定されている親密圏は、より組織立っており、より、単配列的カテゴリーとして想定されている。
〇「伝統的共同体は公共圏にはなりえない
  1)かつて存在した公共圏として想定された多配列的な「カフェにおけるサークル」と、柔軟な参加の仕組みを持つ「共同体」とは、その仕組みが異なっている。
●前者は、仲間集団的で自発的なまとまりをもち、それは、様々な排他的な条件はあるが、形式的には誰にでも開かれている。しかし後者は、自発的名サークルではなく既に生れ落ちるときにそこに自動的に入るということが出発点にあり、柔軟な枠組みを持っているとしても、それは誰にでも開かれているわけではない。
 2)多配列的な性質を持つローカルな社会における共同体は、理念としての、あるいは再創造された単配列的な公共圏とは異質なものである。
●再創造された公共圏が、上述の4つの条件を満たしたものとして想定されることから分かるように、それは単配列クラスを構成している。
〇「中間集団、中間カテゴリーとしての共同体」論
●小田らの議論は、公共圏としての共同体論よりもむしろ、中間カテゴリーとしての共同体論として把握すると理解が可能となる。→公共圏という概念を持ち出す必然性があるのか?

2−2 ヴァヌアツ共和国における共同体

○村落共同体≠親密圏
●集村としての村落共同体そのものが近年の産物であり、それまでは散村形態をとっていた。そこでは、同じ親族集団の成員+配偶者を中核として人々が生活していたが、村落そのものが共同体を構成すると言うよりも、親族集団が共同体を構成するというものだった。
○親族集団≠親密圏
●どの範囲の親族集団かによるが、他を排除した内輪の集団としての親族集団は成立しにくい。たとえば、ボナガ(近親相姦禁止)のルール。これは境界線があいまいで、実の親子、兄弟姉妹から半族である親族集団全体まで広がる。また、他者を繰り入れるシステムが成立しているため、外部の人間を親族関係の中へと繰り込む。これは、より周辺的であることはたしかだが、それでも多配列的な構成で出来上がっている。したがって、親密圏におけるような秘密の保持、排他性、傷のなめあい、お互いだけの理解など、単配列的構成によって生じる関係は成立しない。
○家族≠親密圏
●親族集団よりもより親密ではある同居している親族。しかし、それでも子供を訴える親がいるように、親密圏とは言いがたい。
○「村落共同体、親族集団、家族」≠公共圏
●公共圏をどう捉えるかによって意味合いがことなるが、国家に対抗する市民社会が構成する公共圏ということであれば、これら村落共同体、親族共同体は公共圏ではありえない。そもそも対抗する国家というものを想定していないから。
●こうした共同体はアイデンティティの拠りどころであり、公共圏とは違って異質性の共存を形式的には認めない。
●問題なのは、多配列クラスが単配列クラスへと変遷するプロセスにおいて生じる様々な現象。そこに、親密圏や公共圏を見ることは可能かもしれない。

3 グローバリゼーションと単配列概念の流入

3−1 グローカリゼーションについて

〇グローカリゼーション≠「グローバル」と「ローカル」が対等に二分された関係
●グローカリゼーションと呼ばれている現象は存在する。しかし、グローバルとローカルが対等の二極構造をなしているわけではない。そもそもローカルという概念はグローバルという概念によって作り出された概念でもある。したがって、グローバルな動きに対してローカルが何らかの反応を示すことはもちろん生じる現象だが、それはあくまでグローバルな動きの枠内でのものであり、その意味で、グローバリゼーションとしか言い様がない。
●ローカルが主体となって何かをするというのではなく、あくまでも、グローバルな動きを拒否できない状況のなかで、それを自分達流のやり方で受け入れていくというプロセスが、グローカリゼーションと呼ばれている現象であろう。たとえば、グローバル化の振興とともに、エスニシティ概念が導入され、それがエスニシティそのものとして入るというよりもローカルの状況に合わせてその概念を援用していくという姿が見出せる。しかし、これは、ローカル主体では決してない。

●そもそも、グローバル化の末端は、その中心で否定されだした概念が浸透していく。国民国家概念がそうであり、エスニシティ概念がそうであり、そして、現在は、親密圏、公共圏がそうなのかもしれない。
●国民国家が幻想であるということが西洋世界で自明になるころ、非西洋世界では国民国家概念に基づいて国家建設が行われることになった。それと同様に、親密圏や公共圏が過去にあったものとして想定され、現在はそれらが崩れてしまったか新たなやりかたで再創造されている、という段階で、非西洋世界にはそれらの理念に基づいたものができあがるのではないか。

3−2 単配列クラスの流入

●そもそも共同体の規定や、公共圏の規定、親密圏の規定などは近代の産物であり、どれも単配列的な規定が与えられているため、非西洋世界ではどれもが合致するようなものがない。しかし、グローバリゼーションによって近代が持ち込まれるその度合いに応じて、単配列的な仕組みが浸透し、外延を持った単配列クラスが成立する。
〇グローバリゼーションの流れのなかで親密圏や公共圏などの単配列クラスが成立
〇都市(都市部)における親密圏、公共圏の出現の可能性
     グローバリゼーション、あるいは近代化によって非西洋世界における都市、あるいは都市部が出現する。
<都市的なるもの>が新しい空間を懐妊し、不可視の都市としての公共圏を出産したということである。公界が都市を生み出したと見られるのに対して、公共圏は都市から生み出された、すなわち別の空間として都市から分化・放出されたと考えられるのである(花田)

4 オセアニアに出現した公共圏、親密圏?

4−1 理念型としての公共圏とヴァヌアツにおける都市空間

〇都市空間=オセアニアにおいて考えられる公共圏らしきもの
○公共圏の条件
 @オープンであること。誰でもがアクセスしうる空間。

    ●ヴァヌアツの都市部、ex ルガンヴィルは誰でもがアクセスしうる空間である
 A人々の抱く価値が互いに異質であること。複数の価値や意見の<間>に生成する空間。
    ●多くの価値観が交差する空間、多文化共生の場としての都市空間
    ●各島から、各文化圏から、各言語圏から人びとが集まる
 Bアイデンティティの空間ではない公共性は、共同体のように一元的・排他的な帰属を求めない。
    ●帰属先とはならない都市部。帰属先は島。(マン・プレス概念)
 Cその統合のメディアとなるのは、人々の間にある事柄、人々の間に生起する出来事への関心である。差異を条件とする言説の空間である。
    ●統合の度合いは弱い
●ヴァヌアツの都市部は、確かに多文化共生空間であるが、異質な者同士の自由な議論による一定の方向性を創出する空間といえるわけではない。
●マン・プレスによるエスニシティらしきものの自発的な出現と、それらを並置させたうえで、自発的に生み出される都市文化 →カヴァ・バーの作り出す空間

4−2 ツバルのフナフチにある各島のコミュニティについて
     フナフチ→ 各島から集まった人々が、各島出身者のコミュニティを形成。
       フナフチ出身者だけが土地所有者

○各コミュニティ≠親密圏
●ツバルのフナフチにあるコミュニティは、決して親密圏ではない。「傷をなめあうような」関係性からできあがっていないし、そこだけで許されるような関係性からできあがっているわけではないから。
○各コミュニティ≠一枚岩の「伝統的」共同体
●一枚岩的な共同体というわけでもない。これは、まさしく非西洋世界におけるコミュニティであり、それは、グローバル化とともに都市部(と呼べるだろうか、しかし、島社会とは異なっていることは確か)において出現した伝統的ではないコミュニティであり、近代的なやり方を擬したグローカル的なコミュニティである。
○各コミュニティ≠公共圏
●国民でもない、また、島民でもない、首都における出身島単位のコミュニティは、首都としてのフナフチ全体でもない、まさに中間の中間を構成するカテゴリーといえる。それは、フナフチという首都が持つほど「非排他的」ではないけれど、島社会ほど排他的ではない。しかし誰でもアクセスできるわけではないし、異質性を基盤とした空間でもない。
○中間カテゴリー≠公共圏

4−3 複数の公共圏と親密圏

〇市民フォーラム、市民運動、非営利団体、ボランティア団体の出現
●オセアニアにおいても後年のハーバーマスが公共圏の例として想定した市民フォーラム、市民運動、非営利団体、ボランティア団体は出現しつつある。しかし、国家に抗する存在でもなければ、「異質性」の共存でもない。
●どちらかといえば、国家の下部組織として国家がなし得ないことを行なうように機能する中間集団に近い ex ツバルのNPO
○親密圏の出現
 1)都市的家族
●同居世帯間での秘密保持、傷のなめあい、社会とは異なった相互の承認
 2)少数宗教会派
    ●モルモン教、エホバの承認、バハイ→ アングリカン、プレスビテリアンなどから抜け出した人びとの会派で、確かに再創造された親密圏の様相を呈している。
〇理念型としての公共圏の不在、理念型としての親密圏の出現
●ハーバーマスが想定したような理念型としての公共圏(斉藤が想定したような再創造された公共圏)はオセアニアにはないと言わざるをえない。あるのは、国家あるいは市民社会とローカルの共同体の間の中間カテゴリー
●しかし、再創造された親密圏はグローバリゼーションとともに出現していると言えなくもない。
●その親密圏を対抗的公共圏だからと言って公共圏の位置づけを与えるのは間違っている。国家や市民社会概念が、西洋型のそれからはズレがあり、親密圏から公共圏へという進化の筋道を追うとは限らないから。




文献

阿部潔
 1998『公共圏とコミュニケーション』ミネルヴァ
アレント
   『人間の条件』ちくま選書
小田亮(編)

 2004<特集>共同体という概念の脱/再構築」『文化人類学』69-2:36-312.
日下渉
 2005『フィリピン市民社会におけるヘゲモニー闘争の陥穽とディレンマー中間層による        貧困層への恐怖、啓蒙、排除ー』富士ゼロックス 小林節太郎記念基金 小林フ        ェローショップ2005年度研究助成論文
斉藤純一
  2000『公共性』岩波書店
  2003『親密圏のポリティクス』ナカニシヤ出版
土井隆義
  2004『「個性」を煽られる子どもたちー親密圏の変容を考える』岩波書店
花田達朗
 1996『公共圏という名の社会空間』木鐸社
  1999『メディアと公共圏のポリティクス』東京大学出版会
ハーバーマス、ユルゲン
 1973『公共性の構造転換』未来社
フレイザー,ナンシー
  1999「公共圏の再考:既存の民主主義の批判のために」クレイグ・キャンホール編『ハーバマスと公共圏』山本啓、新田滋訳、未来社、pp. 117-159
  2003『中断された正義ー「ポスト社会主義的」条件をめぐる批判的省察』御茶ノ水書房
Needham,Rodney.
  1975 Polythetic Classification. Man 10:349-369.