ルガンヴィル市
ルガンヴィルは、ヴァヌアツにおいては首都・ポートヴィラに次ぐ第二の「都市」ということになるが、その人口は13,000人程度(2009年)に過ぎず、一般の通念にある都市という概念からは遠い位置にある。しかしそれでも、ルガンヴィルはヴァヌアツにおいては、様々な点で村落部とは異なる都市部を形成している。村落との違いを数え上げるならば、まず、景観的には、西洋建築のビルが集まる目抜き通りを持ち、道は舗装されているなどが指摘できるし、機能的には、電気、ガス、水道が利用でき、バスやタクシーが走り、現金雇用による仕事があり、銀行、商店、ホテル、病院、官庁舎がある、などの点を数え上げることが出来る。しかしなにより、人口が15,000人にもかかわらず、総人口が27万人というマイクロステート・ヴァヌアツにおいては、それが人々の意識の中で「タウン」として認識されており、それは、村落部に居住する人々にとっては異なった空間、イメージを持ったところとして意識されているという点が、ルガンヴィルをヴァヌアツにおける「都市」として成立させているといる。
ここがルガンヴィルと呼ばれるのは、もともと現在のサンミッシェル(St.
Michel)地区にあたる場所がフランス人居住者によってルガンヴィルと命名されていたことによる。ヴァヌアツは独立前イギリスとフランスの共同統治領であり、それぞれの行政府は各地に行政局を持っていた。このルガンヴィルにはフランスの北部地区行政局があり、その周りにはカトリック教会、診療所、木賃宿があったが、それ以外はココヤシのプランテーションに過ぎなかった。この地域が「都市」に変貌するのは、太平洋戦争の時である。ソロモン諸島に展開する日本軍を迎え撃つために、アメリカ軍はこの地を基地にすることを決めたのである。1942年からブッシュを切り開いてキャンプの建設が始まったが、それは10万人が居住可能な大規模なものであった。南西サント一帯に縦横に道路が建設され、ルガンヴィルは、無数のかまぼこ型宿舎、40以上の映画館、4つの軍病院、5つの飛行場を持つ壮大なキャンプ都市へと変貌したのである。1945年までの間に主としてアメリカ軍を中心に50万人がここを訪れたと言われているが、太平洋戦争が終わるとアメリカ軍は引き揚げ、道路とかまぼこ型宿舎が残された。これらは現在でも町のあちらこちらに見ることが出来る。
アメリカ軍が引き揚げる時に大きな問題が一つあった。それは、戦争のための膨大な装備をどう処理するかという問題であった。アメリカ本土に持ち帰ると、輸送費が莫大なものになるだけではなく、戦後のアメリカ経済の振興を鈍らせるという判断から、それらをヴァヌアツ在住のプランター達に売却しようとしたが、話し合いがうまくいかず、結局、それら膨大な戦争の装備は、ルガンヴィル東方にある岬から、海に投棄されてしまった。その岬は、今日、ミリオン・ダラー岬と呼ばれている。
ルガンヴィルは、平地と高台からなっており、戦時中のキャンプ都市は高台にあるシャピ(Sapi)地区の西方全体やさらに奥の方まで広がっていたが、現在の市街地はかなり縮小されたものになっている。高台のシャピ地区は住宅地で、カヴァ・バーの最も多い地区でもある。平地と高台の境目には病院やサンマ州の行政府があり、このあたり一帯はサンマプロヴィンス(SAMA
Province)と呼ばれている。商業地は、サラカタ(Sarakata)地区の海岸沿い、そしてカナル(Canal
de Second)地区である。カナル地区は、いわゆる高級住宅街でもあり、海岸にそって走る目抜き通りから奥に入ると、大きな立派な家が並んでいる。サラカタ地区の場合も、目抜き通り沿いにはスーパー、ホテルなどが並んでいるが、少し奥に入ればもうそこは住宅地である。しかし、カナル地区とは対照的に、こちらは高級住宅街というわけには行かない。西洋建築の一般的な住宅からバラック作りのものまで多様な住居が並んでいるが、この住宅街では多くの人々が電灯を用いずに夜はアルコールランプで明かりを取っている。電気と水道は料金が高いということでは、新聞の風刺漫画にも登場するくらいで、人々は、たとえ電線が引いてあっても、あまり使おうとはしないし、現実に、サラカタの奥では電線が引かれていないところも多い。なお、サンミッシェルまでは電線が引かれているが、そこの人々はサラカタやカナルなどをタウンと呼び、サンミッシェルとタウンは違うという認識を持っている。
参考文献
吉岡政徳『ゲマインシャフト都市ー南太平洋の都市人類学』4章、5章、6章 風響社
飛行機から見たルガンヴィル市手前がシャピ地区の南端
サンマプロヴィンス地区近辺から見たメインストリート
メインストリート
カヴァ・バー。ポートヴィラと違って、建物の形にも規制がある。
ミリオン・ダラー岬。アメリカ軍の投棄した装備品の残骸。