民族誌
「・・・旅行記には匂いについての描写がよく出てくるのに民族誌にはほとんどない・・・」(『文化を書く』「序論」p20)。民族誌よりも旅行記の方が、多くの人々が持つ印象に近いものを与えるだろう。たとえば、同じ地域について書かれた民族誌と旅行記では、匂いなどの記述のある旅行記の方が、実際に現地に赴いた人々に「書いてあるとおりだ」と思わせるかもしれない。しかし匂いに関しては、人によって感じ方が異なる。この種の題材を盛り込むことによって、多くの人々は「なるほど」とおもうかも知れないが、そうではない、と感じる人達も生まれる。つまり、この種の情報は、人々の側のブリコラージュの操作の中に任される種類のものであろう。科学的言説よりも、ブリコラージュ的言説の方が、多くの人々に受け入れられている現実がある。それゆえ、旅行記のブリコラージュ的要素を盛り込んだ記述(例えば、日常で語っているようややり方での論述:自己の視点を多く入れ、きめ付けを各所に織り込み、断定、推量などを自己の主観を交えて行う)は、日常会話でのように読者には比較的すんなりと受け入れられていくだろう。しかし、こうしたブリコラージュ的な日常的論述は、漠然と「真実は一つだ」という前提に立っている。それゆえ、様々な理屈や論理が飛び交う中で、簡単に変更されつつも、一つの真実という神話がかもし出されることになる。そうしたやり方を、民族誌は、とるべきなのだろうか。確かに、民族誌よりも旅行記の方が、多くの人々に「真実らしさ」を伝え受け入れられているかもしれない。それなら、民族誌も、ブリコラージュ的な決め付け、論理の飛躍を盛り込んだ形の「真実らしさ」を装えば良いのだろうか。そうではないだろう。
民族誌2
「民族誌家は自分のメッセージの「真実性」を読者に納得させるために、手中にあるありとあらゆる説得の装置を屈指しており、こういった修辞的戦略はまるで狡猾な策略のようであるが、彼はそのことにほとんど気づかない。彼のテクストは自ずから語る真実ー修辞的補助を必要としないひとつの全体的な真実ーの様相を呈する。その言葉は透明なものだ。」(クラバンザーノ「ヘルメスのジレンマ」『文化を書く』p96)民族誌を記述するとき、それを説得させるためのあらゆる装置を屈指するのは確かだろう。そしてその言葉も透明であることは確かだ。しかし、かつての人類学ならばいざしらず、現在においては、それは「真実」を語るもの、ひとつの全体的な真実を語るものとして考えられることはないだろう。しかし、民族誌が「ひとつの真実を語っている」という考え方が否定されることにより、いきなり、民族誌は「ひとつの物語である」という結論へと向かうのは、危険である。民族誌は、ブリコラージュにもとづく「ストーリー」であってはならない。それは、「全体で単一の真実」ではなく、「多様な真実のうちのひとつ」を描いていると考えるべきものであろう。