「マスディアが描く異文化」の嘘


「未開人」を捏造し続けるフジテレビ

フジテレビ「あいのり」のパプアニューギニア・ロケについて


1 「あいのり」とパプアニューギニア

 「あいのり」というのは、恋愛実験室とでも呼べるような状況をつくり、そこにおける男女の恋愛の生成を覗き見する番組である。若者の間には結構人気のある番組で、見知らぬ男女が、ミニバスにのって世界を旅する間に、様々な恋愛を体験するという設定になっている。この番組では、生成される恋愛を覗き見することがメインであり、世界各地の様子は、その背景にすぎない。この番組が、2002年10月21日の放送からパプアニューギニア編となり、放送初日からパプアニューギニアを「未開」と位置づける演出が始まった。放送では、まず、オーストラリアから飛行機で、いきなりニューギニア中央高地に降り立つ。そして、小さな空港を出るととたんに、裸の男たちがダンスをして一行を出迎えるという演出が行われる。そして若者たちがバスを降りて食事をするところは、マウント・ハーゲン。若者たちのパプアニューギニアの旅が、ニューギニア中央高地の地方都市マウント・ハーゲンから始まるようにセッティングされているところに、番組の趣旨が現れている。オーストラリアから飛行機でやってくると、まず、国際空港のある首都のポートモレスビーに到着する。しかし、ポートモレスビーは近代的な都市であり、若者たちの驚きの旅を演出するには、役不足なのだろう。
 マウント・ハーゲンからバスで移動し、一行は、村落部へと向かい、まず「ラルバング族」のところで儀礼に参加する。彼らは「今も山間部で昔ながらの生活を続けている少数部族」と説明される。そして、「奥地を旅する」というナレーションが入り、次に、「チンブー族」のところで行われている結婚式を見る。次第に、パプアニューギニアの人々と若者たちとの差異化が進んでいく、つまり、「未開」に向かう形の演出が行われるのである。

2 「未開人」の捏造

 最初の「ラルバング族」は、「昔ながらの生活を続けている少数部族」として紹介され、人々は、ティーシャツ姿で登場する。彼らは、「伝統文化を守りながら生活を続ける少数民族」という位置づけで描かれているため、「未開人」としては描かれない。これは、もちろん、演出上の「描き方」であり、パプアニューギニアの現実とは異なっている。パプアニューギニアでは、多数を占める民族というものはないため、「近代化した主流民族」と「伝統文化を守る少数民族」という対比は存在しないのである。次に遭遇する「チンブー族」は、奥地に行くという設定のため、未開に近づいたイメージで描かれる。人々はもはやティーシャツではなく、伝統的な衣装と思わせる格好で登場する。しかし、女性は胸を巧みに隠すいでたちで、いわゆる「裸の未開人」とは多少異なる姿として描かれる。
 28日の放送では、ついに「野蛮な未開人」が登場した。若者たちがバスで「さらに奥地へと進み」、マイルボボ山の麓でバスをおり、山頂めざして歩き出す。苦労の末たどり着いた開けた場所で、いきなりヤリを持った裸の男たちに「襲撃」されるのだ。若者たちの中の一人の女性は、恐怖で泣き始める。これまた裸のいでたちのバスの運転手が、我々は敵ではないと叫び、これら裸の未開人を説得して、一件落着。彼らは、神聖な戦士の墓を荒らしに来た連中だと勘違いされた、というナレーションとともに、白骨遺体が並んでいる映像が映し出される。
 こうした手法は、以前フジテレビで放送していた「ワレワレハ地球人ダ」の1コーナー「ジャングルクエスト」で用いた「未開人の捏造」と同じ手法だ。そこでもいきなりヤリを持った未開人に襲撃される。そして、番組進行役の芸能人やスタジオの観客は、一斉に驚きの声を挙げるのである。「あいのり」もまったく同じである。進行役の芸能人は、やはり驚きの声を挙げるし、スタジオの観客も同じ。そしてナレーションは次のように語る、「標高2000メートルの高地で今なお文明に接することなく暮らす未開の部族」。
 もちろん、現在のパプアニューギニアでこうした「襲撃」に出会うことはあり得ない。よく見れば、彼ら「未開人」がいかに演技しているのかが見えてくるのだが。
 この体験が終わったあと、一行は、学校を訪れる。「まだまだ教育制度が整っていないパプアニューギニアでは、経済的な事情から子供のおよそ2割しか学校に通えない」というナレーションが入る。何を根拠にしてこうしたナレーションを入れているのかは解らないが、田舎の風景の中にある学校を映しだし、そこで学ぶ子どもたちを描くことで、パプアニューギニア全体を「未開」としていない演出が窺える。しかし、こうした描き方は、むしろ、質が悪いと言える。というのは、パプアニューギニアのどこへ言っても「ヤリで襲ってくる未開人」ばかりであれば、独立国家として成り立たないし、オリンピックに出てくるパプアニューギニアの人たちは何なのだ、ということになる。従って、全体として「低開発」で「田舎」で「遅れている」ところなので、中には、まだ「未開人」が居るという描き方をした方が、説得力をもつのである。ちなみに、首都のポートモレスビーにあるパプアニューギニア大学には、太平洋の各地から留学生がやってきて、その卒業生の多くは故郷に戻って国家の中枢部で活躍しているが、この番組はそれを、無視しているのだろうか、あるいは、知らないのだろうか。また、中学校と高校が一緒になっているセカンダリースクールへの入学率は高くはないが、小学校へは、原則として全ての子どもたちが入学する。その意味では、入学率は10割ということになるのである。

3 風景としての未開人イメージ

 「ワレワレハ地球人ダ」という番組は、ある意味で、かつて悪名を轟かせた「川口探検隊」と同じ手法で作られていた。つまり、視聴者の側は、「ヘー、そうなのか」と思いつつも「馬鹿馬鹿しい」と思う部分もあるようなバラエティ番組なのである。「あいのり」も同じくバラエティ番組で、そこで展開される若者たちの恋愛を、わくわくして見ながらも、「やらせかもしれない」「役者が演じているかもしれない」という思いが頭の片隅にある人たちも多いと言う。こうしたバラエティ番組で捏造された「未開人」は、しかし、「ワレワレハ地球人ダ」で捏造されたそれよりも、質が悪い。というのは、後者では「未開人」が視聴者の好奇のターゲットであり、「捏造かもしれない」という意識まじりで見ることになるが、前者では、若者たちの恋愛がターゲットであり、未開人は、その背景にまわってしまうからである。「あいのり」に登場したパプアニューギニアの未開人は、「へー、こんなところがまだあるんだ」という感想だけを残して、視聴者の関心からは姿を消してしまうのである。

4 マスメディア民族誌の嘘を告発しよう

 テレビで異文化を描くことは多い。異文化体験などを中心とした番組が、花盛りである。しかし、そうした地域でフィールドワークを実施してきた人類学者は、そうしたマスメディアが描く異文化、つまり「マスメディア民族誌」に対していつも懐疑的である。どんな良心的な番組であっても、「番組制作」というフィルターが常にかかっているため、悪意でなくても、「やらせ」や「捏造」が入り込んでしまうという。こうしたマスメディア民族誌で、メラネシア地域は独特の位置を持っている。それは、とくにメラネシア地域は、バラエティ番組で取り上げられることが多く、その場合には、文明からかけ離れた秘境、未開として描かれることが多いからである。そして、バラエティ番組では、「やらせ」や「捏造」がエスカレートする。
 私は、「ワレワレハ地球人ダ」で行われた「未開人の捏造」に対してフジテレビに抗議し、担当プロデューサーと話し合った。しかし、フジテレビは、そうした意見を一切無視する形で動いている。まったく同じ「捏造」が、同じやり方の「捏造」が繰り返されているのだから。ちなみに、フジテレビのホームページには、番組の意見を聞くというところがあり、視聴者は意見を書き込むことが出来る。しかし、これは視聴者にとっては意味の無いものである。いくら抗議しても、完全に無視される。これは視聴者向けの「まやかし」にすぎない。直接苦情係に電話をして、「この描き方に抗議する」というやり方ではなく「こんな描き方をしていたら、苦情が来ますよ(あるいは国際問題になりますよ)」と言うと、番組の担当プロデューサーと連絡がとれる。しかし、直接プロデューサーと話し合いをしても、当然のことながら、マスメディア流のやり方は変わらない。「マスメディアの嘘を告発するための輪」を広げるしか、対処のしようがないかもしれない。

5 サファリ・ツアー

 11月4日、パプアニューギニア第3回目の放送があった。今回は、病気になった女性が入院するということで、都市部が中心の場面となる。ただ、マダン市に到着してからも、「奥地をゆく」というナレーションとともにバスが田舎道を走る絵が挿入される点は、番組制作上の「小さなやらせ」ということか。
 気になったのは、番組冒頭での場面。バスの一行は、突然、泥の仮面をかぶりヤリを持った連中に襲われる。が、それは、観光客をむかえるためのパフォーマンスであることが明かされる、という場面である。前の週に「未開人に実際に襲われる」場面を放映していることから、こうした場面を盛り込んで、「実はこれは演技です」というオチをつけようというのであろう。それはそれで、かまわない。ただ、バスに乗っている若者の一人が、ヤリを持ったこれらの「未開人」を見て、「窓を閉めて!」と叫ぶ場面が映し出された点が、気になった。それを見て、この場面は、サファリ・ツアーにやってきた観光客が、ライオンが車に近づいてきたので「窓を閉めて!」と叫んでいる場面と同じだ、と感じたのは私だけだろうか。(2002年11月4日 記載)

6 「笑いもの」にするための演出

 11月11日のパプアニューギニア編第4回目の放送では、ニューブリテン島のドゥクドゥクが紹介された。内容は以下のとおりである。若者達がニューブリテン島のある村に到着し、その村の「神」に会うということになる。とても神聖なので笑ってはいけない、というナレーションが入ったあと、「神」が現れる。その「神」は、人間が扮装したもので、枯葉を重ねたものを頭から全身すっぽり被った格好をしており、彼らが踊りながらやってくると若者の中の女性やそれを見ているスタジオの観客はくすくすと笑いはじめる。
 こうした放送が、恋愛実験室の背景として描かれると、そんなもんだとして受け取られる。が、これらは嘘である。ニューブリテン島の人々はキリスト教徒で、彼らの神はキリストである。しかし、伝統的な信仰体系では、精霊に対する信仰があり、それが、かつては、放映されたような姿で村落に現れるとされていたのである。テレビで放映された「神」は、確かにかつて信仰されていた精霊を示している。しかし、現在の「神」ではない。それは、まるで、『千と千尋の神隠し』に登場してくる八百万の神を指して、あるいはその中の大根のお化けのような神を指して、日本の神に合わせるから笑わないように、というのと同じである。かつての日本における、あるいは民間信仰における神々の体系は、これこれであり、その中にはお化けや妖怪なども含まれていたなどの解説があったあと紹介するのと、日本人の神はこれですが笑わないように、という形で紹介するのとは全く異なる。後者は、笑いものにするための演出である。しかも、「あいのり」で行ったこの演出は、「秘境ニューギニア」というキャッチフレーズのもとでの演出なのである。(2002年11月13日 記載)