認識人類学

神戸大学 国際文化学部 吉岡政徳


[背景]

 認識人類学は、その発想と視点において、構造主義との関連性が指摘されている。認識人類学は、終始、人類の分類操作を通した認識のあり方に関心を示してきたが、デュルケームからモースへの流れを構造主義として完成したレヴィ=ストロースも、分類という操作に着目し、自然に関する民族誌的詳細の中に人類の思考のあり方を探ったという点で、認識人類学と地平を共有していた。また、デュルケームとモースからオランダ構造主義を経てニーダムへと至った構造主義のもう一つの流れにおいても、一貫して人類の持つ分類の操作能力に関心が示されていた。しかし、当然のことではあるが、両者は出発点から似たようで異なった道を歩むことになった。
 一九世紀、ヨーロッパを中心に議論されてきたトーテミズム論は、デュルケームとモースの登場によって大きな転換点を迎えた。一九〇三年に、両者の共著で『社会学年報』に掲載された論文「分類の原初的諸形態」は、オーストラリアのトーテミズムと社会組織の関連を論じ、それまで原始宗教としてのみ議論されてきたトーテミズムを、分類体系として捉えなおす議論を展開したのである。分類体系としてのトーテミズムという視点は、その後様々な議論を経て、レヴィ=ストロースの『今日のトーテミスム』及び『野生の思考』における議論で一応の完結を見ることになるが、このことからも分かるように、分類体系としてのトーテミズムは、構造主義的思考の出発点となったと言える。
 一方、一九世紀のアメリカにおいては、トーテミズム研究とは別の流れが生まれていた。それは、トーテミズムが見出せる社会を扱いながら、トーテミズム論を展開するのではなく、そこにおける自然と人間の関係を、当該社会の人々の持つ知識、すなわち、民族植物学や民族動物学として把握し、その社会の動物相や植物相に当てられている現地語による語彙を詳細に調べ上げ、人間と動植物との関係を考えていこうとする流れであった。この研究方向は、自然科学の分野からのアプローチを中心に展開されており、必ずしも人類学からの発想というものではなかった。しかし、自然と人間の関係を考え、それに関する知識を研究しようとする方向性は、一九五〇年代になって人類学の中で大きな発展の契機を迎えることになった。認識人類学の誕生である。
 一九五五年、コンクリンがエール大学に提出した博士論文『ハヌノオ文化と植物世界の関係』は、民族植物学の流れを人類学の中で昇華発展させたものとして画期的なものであったと言われている。彼はその論文の中で、フィリピンのハヌノオの人々が、身の回りの植物をどのように分類しているかを、言語学における語彙素分析の手法を用いて詳細に論じ、そうした民俗分類の知識が、人々の生活の中でどのように用いられているのかということを明らかにしたのである。現地の人々の使う植物に対する名称とそれについての知識を探るという民族植物学の精神を生かしながら、それを人類学の領域に持ち込むことで、人々が生活と密着した自然をいかに名づけ、いかに分類するのかという問題をクローズアップさせる方向性を打ち出したのである。
 コンクリンは、言語学の方法を人類学に導入することで、民俗分類という研究領域を明確に示したが、コンクリンの博士論文が提出された一年後の一九五六年、親族名称研究の分野においても言語学の方法を導入した研究が出現した。それが、雑誌『言語』に掲載されたグッドイナフの「成分分析と意味の研究」とラウンズベリーの「パウニーにおける親族に関する語法の意味論的分析」であった。これらの論文は、親族名称が人々を分類しているものであるという位置づけのもとに、言語としての親族名称が持つ意義特徴を、成分分析の手法を用いて抽出していこうとするものであった。
 コンクリンが、人々が身の回りの自然をどう分類するのかということに視点をあわせて言語学的な分析を加えたのに対して、グッドイナフやラウンズベリーは、人々が身の回りの人間をどう分類するのかという点に視点を合わせて、言語学的な分析を行った。こうして、自然や人間を分類するということに着目した研究が、言語学的分析という枠組みを装備することで、一つの形を成すようになったのである。そして認識人類学は、民族生物学から派生してきた研究、つまり、自然と人間の相互関係に関する知識の研究であるエスノ・サイエンスと、身の回りの自然の分類を考える民俗分類と、親族名称における分類や意味を考える研究という大きな三つの射程をもって、成立することになったのである。
 認識人類学的研究は、当該社会の人々の持つ概念や知識をいかに記述し、いかに提示・記載すべきかということに大きな関心を持っていたが、それは、当時の人類学全般における民族誌のあり方に大きな批判を向けることになった。というのは、現地の概念を吟味することなく、人類学的概念を無批判に適用することで出来上がる民族誌が横行していたからである。そして認識人類学は、調査のやり方、資料の収集の仕方など徹底的に科学的な方法を探ることで、新しい民族誌記述のあり方を主張していった。こうしたことから、認識人類学はニュー・エスノグラフィー(新・民族誌)と呼ばれるようにもなった。
 ところで、認識人類学が批判の対象としていた民族誌記述、すなわち、現地の概念よりも人類学的概念を優先するような記述は、一九四九年のマードックの『社会構造』以来顕著になったということを明記しておかねばならない。マードックの開発した通文化的方法によって、世界大的な比較が可能になったが、それと共に、安易な比較が横行し、認識人類学が批判するような現地社会の概念を無視する動きも現れてきたのである。そして、こうした動きを痛烈に批判したのは、ひとり認識人類学を標榜する研究者達だけではなかった。ニーダムも、異なった視点からではあるが、安易な比較を厳しく批判したのである。ここでも、認識人類学と構造主義的な思考とは共通の基盤を持つことになった。
 しかし、あくまでも通文化的方法を否定し続けたニーダムとは対照的に、認識人類学は、最終的には、安易ではない、より厳密な通文化的研究の開発へと向かっていくことになった。その結果、一九七〇年頃からの認識人類学最盛期には、言語学との密接な共同関係を確立しながら、より完成した通文化的な比較を実行し、人類に普遍的な特徴を見出すための努力を払うようになった。

[理論の特質]

 認識人類学の特質は、認識人類学の最盛期に最も精力的に活動を展開した研究者達の研究を知ることから導き出される。ここでは、民俗分類研究の分野で認識人類学の方法論に多大な影響を与えたバーリンと、親族名称研究の分野でユニークな議論を展開したラウンズベリーを取り上げることにする。
 バーリンは、その協力者達と共同で、中央アメリカのツェルタル社会における植物分類の詳細な研究を行った。認識人類学がニュー・エスノグラフィーと呼ばれることから理解されるように、多くの研究者は個別社会の詳細なデータ収集、分析をその研究の基盤としており、バーリンもその例外ではなかった。しかし彼は、個別社会を超えて人類に普遍的な分類の仕組みの解明を目指す方向性を明確に打ち出すことに精力を傾けた。その結晶が、彼とその協力者達によって提唱されたバーリン・システムと呼ばれるものであった。
 バーリン・システムは、人類に普遍的な民俗分類のあり方を示そうとしたものであったが、そのシステム構築の背後には、言語学的な手法、特にコンクリン以来認識人類学の方法の基礎にある語彙素分析が横たわっていた。彼らによれば、語彙素は言語学的に分解不可能なものと分解可能なものに分かれるという。前者の例として、植物に関連する名称について言えば、マツやスギなどを挙げることが出来る。彼らは、このような分解不可能な語彙素を一次語彙素と名づけた。一方、分類可能な語彙素の中には、アカマツのようにアカとマツに分解可能で、しかもこれはマツの一種であるようなものがある。彼らはこうした語彙素を二次語彙素と名づけた。
 分類可能な語彙素は、しかし、さらに二種類あると彼らは言う。一つは、ヤブジラミのような語彙素で、ヤブとジラミ(シラミ)に分解可能であるが、それはシラミの一種ではないようなものである。彼らは、これらを一次語彙素として扱っている。他の一つは、クスノキのようなもので、クス・ノ・キに分解可能な上、それはキの一種であるようなものである。この語彙素は、しかし、二次語彙素として位置づけられたアカマツのようにマツの下位区分になるものとは異なり、一次語彙素であるマツと同列のものとして扱われてる。そこでバーリンらは、こうした語彙素も一次語彙素の中に含めることにした。
ところで、民俗分類は包括関係から成り立つ分類、つまり、タクソノミーとして提示されてきた。例えば「動物」の分類を考えると、その下位レベルのカテゴリーとして犬、豚、鳥などがあり、さらにその下位レベルのカテゴリーとして、例えば犬について言えば、柴犬、秋田犬などのカテゴリーが来る、という具合に、より包括関係の大きなものから下位に向かって樹状に枝分かれするような図が描かれることになる。バーリンらは、こうしたタクソノミー上の諸カテゴリーを、そのカテゴリーを構成する名称の語彙素分析によって規定していったのである。
 彼らは、一次語彙素で示されるカテゴリーで、そのすぐ下位レベルに必ず一次語彙素で示されるようなカテゴリーがくるものを生活形カテゴリーと呼んだ。そして、同じく一次語彙素で示されるカテゴリーであるが、そのすぐ下位レベルには何もないか、あるとしても二次語彙素で示されるカテゴリーが来るようなものを、属カテゴリーと命名した。また、ニ次語彙素で示されるカテゴリーで、一次語彙素で示されるカテゴリーの下位レベルにあり、自らの下位レベルには何もないか、あるとしても二次語彙素のカテゴリーが来るものを、種カテゴリーと呼び、同じく二次語彙素で示されるカテゴリーで、その下位レベルには何もなく、自らは、二次語彙素で示されるカテゴリーの下位レベルに位置するようなものを、変種カテゴリーと呼んだ。
 こうして決定された生活形、属、種、変種の各カテゴリーは図1におけるような樹上図となった。図1のユニーク・ビギナーと彼らが命名したものは、分類領域全体を包括する最も大きなカテゴリーで、日本語で言えば、動物や植物などがこれにあたる。



 以上の議論を踏まえて、バーリンらは、次の様な仮説を提唱した。それらは、@レベルOにあるユニーク・ビギナーは、多くの社会で名づけられないカヴァート・カテゴリーとなる、A生活形カテゴリーはユニーク・ビギナーのすぐ下のレベル一に現れ、その数は五から十であり、属カテゴリーは、レベル1か2に現れ、その数が五〇〇程度と考えられる、B種カテゴリーはレベル3と4に現れ、その数は属よりは少なく、変種カテゴリーの数はきわめて少ない、というものであった。
  さて、バーリンはケイと共著で一九六九年に『基本色彩名称』を著しており、これも一九七〇年代の認識人類学の研究に大きな影響を与えた。この研究は、コンクリンが一九五五年に著した先駆的な論文「ハヌノオの色彩範疇」を受けたものであったが、コンクリンがハヌノオ社会の個別事例研究として詳細な色彩に関する分類を論じたのに対して、彼らの研究は、個別社会の色彩分類を超えて、人類に普遍的な色彩分類の傾向を抽出することを目的としたものであった。
 彼らは、まず、基本色彩名称が何であるのかを決定していく。彼らによれば、基本色彩名称とは@単一の語彙素であること、Aその意味が他の色彩名称の意味には含まれていないこと、B狭い範囲に対してだけ適用されるものではないこと、C聞かれた時に最初に思いつくようなものや、誰に聞いても出てくるようなもの、すなわち、当該社会の人々にとって被認識度が高いもの、という様に語彙を基準として選定されている。さらに、バーリンとケイは、基本色彩名称とされるものに接尾辞をつけたもの、物質の名前をそのまま色彩の名前としたもの、最近の外来語、一次語彙素かどうか判定が難しいが形態論的に複合形になっているものなども、基本色彩名称からは除かれると論じている。
 こうして名称の性質を確定したのち、フィールド調査において、当該社会で基本色彩名称とされるものと実際の色との同定を実施している。彼らは、三二九の色票を用意し、当該社会の人々に、ある基本色彩名称の焦点となる色票と境界部分となる色票を指し示してもらうことで、その名称の指す色を決定していった。彼らは、こうしたフィールド調査による手続きを二〇の社会で行い、さらに七八の社会に関する文献データを分析することで、次の様な驚くべき仮説を導き出した。
 @全ての言語は、シロとクロを示す名称を持つ、Aもしその言語が三つの色彩名称を持つとすれば、この二つにアカを示す名称が加わる、Bもしその言語が四つの色彩名称をもつとすれば、これら三つに、ミドリかキのどちらかを示す名称が加わる、Cもし色彩名称が五つであれば、その中にミドリもキも両方含まれる、Dもし六つであれば、アオが加わる、Eもし七つであれば、チャを指し示す名称が加わる、Fもしその言語が八つあるいはそれ以上の色彩名称を持つならば、ムラサキかピンクかオレンジかハイイロ、またはそれらの組み合わせの色を示す名称が加わる(図2)。彼らはさらに、基本色彩名称の数は、単一の言語では、一一以下であり、色彩名称の数が増えるに従ってテクノロジーの発展した社会になるという進化論的な仮説をも提唱している。



 以上、バーリンを中心とした認識人類学的研究を紹介したが、その理論的特長は、語彙素分析に見られるような厳密な言語学的手法を用いたこと、通文化的な比較によって人類に普遍的な論理操作のあり方を探ろうとしたことであると言えよう。さらに、『基本色彩名称』で具体的に紹介したが、念入りに準備した色票を提示し、語彙素分析によって特定した名称との関係を探ることで、認識のあり方に迫るという手法は、ニュー・エスノグラフィーと呼ばれた認識人類学の特徴を良く示している。すなわち、これらの研究では、調査者の思念や視点が入り込むのを避けるために、客観的に捉えることのできる物質的なものや語彙などを手がかりに記述し分析するという手法が取られているのである。
 一方、親族名称分析の分野で活躍したラウンズベリーの研究でも、言語学的な分析によってその語彙の意義を追求するという意味論的な分析が展開された。親族名称の認識人類学的研究は、「親族名称は言語の一部であり、それ故、これらの要素は言語学的要素でなければならず、これらの関係は言語学的関係でなければならない」という立場に立脚し、言語の一部である親族名称の意義特徴を探る研究が行われた。既に紹介したように、ラウンズベリーは当初、グッドイナフらと共に成分分析による親族名称の研究を行った。成分分析とは、体系全体にわたって共通する成分を探し出し、いくつかの成分を組み合わせることで各名称を定義するものであり、一九六〇年代から七〇年代初めかけて多くの成分分析の研究が登場した。成分分析は、しかし、成分の決定の仕方が恣意的で、さらに、成分の数が多くなればなるほど異なった組み合わせの分析が可能になるという批判を受けることになったが、そうした批判が行われる頃には、ラウンズベリーの研究の重心は、形式意味分析へとシフトしていた。
形式意味分析は、まず、親族名称は多義的なものであるという立場に立つ。そして、様々な意味はその名称の中心となる意味から派生していると考え、その派生の仕方を説明するいくつかの規則を見出すことに精力が注がれた。ラウンズベリーは、親族名称の中心となる意味は、系譜的に最も近い親族型であるとし、同一の名称が指している他の親族型を派生した意味と捉えた。例えば、ある社会のαという親族名称が、F(father)、FB(father's brother)、FZS(father's sister's son)、FZDS(father's sister's daughter's son)という親族を指しているとすれば、系譜的に一番近いFという親族型がαという名称の中心的意味になり、他の親族型はそれから派生した意味と考えられるということである。
 このような親族名称の中心的意味は、言語学的に見極めることができるという。例えば英語では、オジ(uncle)は父母の兄弟だけではなく、オバの夫や祖父母の兄弟をも指す多義語であるが、後二者の場合は、それぞれ「結婚を介したオジ(uncle by marrige)」、「大オジ(great-uncle)」のように語彙標識がオジに付加される一方、中心の意味になるような場合には語彙標識がつかないという。また、中心的意味は心理的にも認識的にも優先性を持っているとも言う。これは、バーリンとケイが基本色彩名称を決定するときに用いた四番目の基準と同様のもので、中心となる意味としてすぐに思いつくなど、被認識度が高いということを意味している。
 さて、ラウンズベリーは、複雑ではあるがいくつかの限られた規則を設けることで、名称の中心的意味から他の意味への派生のあり方を説明しているが、先述のαという名称の多義性を、規則をごく単純化して説明すれば、図3のようになる。例えば、派生した意味であるFZSは、クロウ型斜行規則、片親兄弟姉妹規則と、同性兄弟姉妹規則と名付けられた三つの同等規則を適用することで、中心の意味Fへ還元されるというわけである。



 ラウンズベリーは、これらの諸規則を単一の社会の親族名称分析からだけ得たのではない。実は、これらの諸規則は、全ての人類の社会の親族名称体系に適用できるものとして想定されているのである。例えば片親兄弟姉妹規則はほとんどの人類の社会に適用できる規則であり、同性兄弟姉妹規則は、単系社会における親族分類のあり方の基本的原則でもある。また、クロウ型斜行規則というのは、そこから導き出されるサブ規則とあわせて用いると、親族名称研究の分野でクロウ型と分類されてきたすべての親族名称体系の特徴を説明する規則として用いることができるようなものであった。
 ラウンズベリー及びその研究の賛同者達は、積極的に親族名称体系の諸タイプを説明するための規則を開発して、限られたいくつかの規則を適用することで、世界中の親族名称体系における名称の分布のパターン、すなわち、人々が身の回りの親族をどのように分類しているのかということを説明する方法を考案していった。ラウンズベリーらの研究は、バーリンのそれと同様に言語学的手法を用い、人類の親族を分類する方法を、限られた数の規則の組み合わせとして提示することで、人類に普遍的な分類操作のあり方を示そうとしたと言えるのである。

[展望]

 バーリン・システムは、その後、一九七〇年代を通して、様々な個別社会での検証が行われ、通文化的比較研究のための枠組みとしての役割りを演じることになった。しかし、それは、いくつもの問題点をも内包したものであった。その一つが、語彙素分析におけるものである。バーリンらは、クスノキの様な語彙素を一次語彙素として認定しているが、それは言語学的な視点から行ったのではなく、タクソノミーの上でマツなどの一次語彙素と同じレベルとして扱われると言う理由からなされている。しかし、マツは、一次語彙素であることから属カテゴリーとしてのタクソノミー上の位置が与えられるのであるから、これは明らかに循環論に陥っていることになる。
 基本色彩名称に関する研究においても、問題がいくつも指摘されている。その一つが資料面における問題である。様々な個別社会の事例から、図2に合致しない事例がたくさん報告されてきたのである。また、バーリンとケイは、言語学的な規制を設けて基本色彩名称を決定しているが、日本語においては、そうした規制外にあたるチャ、ダイダイ(物質名由来)キミドリ(複合語)なども基本的に重要な役割りを演じていることも指摘された。
 一方、ラウンズベリーらの形式意味分析は、親族名称体系の中で親族がどのような分布パターンを持って分類されているのかという点に関して、大きな成果をあげたといえる。しかし、個々の親族名称が多義的であるという規定は、研究者の側の視点であり、しかも、中心的意味が系譜的に最も近い親族型であるという議論も、問題が多い。というのは、系譜的に遠い親族を指すときに、語彙標識が付加するような語彙を用いない社会はたくさんあるし、ある親族名称が指し示す親族の中で、心理的優先性を持っている親族は、個人の人間関係によって左右されるため、系譜的に最も近い親族が選ばれるとは限らないのである。
 ラウンズベリーらは、意味論として議論を展開したために、名称の中心的意味の位置づけにこだわったが、その研究は、むしろ、意味論としての側面を取り去ることで、さらなる展開を見ることになった。それは、形式意味分析を、限られた数の規則を適用して全体的な親族の分布のあり方を示す同等規則分析として位置づけ直すことによって達成された。多くの研究者は、この同等規則分析を通して、ドラヴィダ型、クロウ型、イロコイ型などに区分される名称体系について、さらに詳細な規則を考案していったのである。
 しかし、例えば、クロウ型の斜行規則が適用される親族分布をもつ親族名称体系がクロウ型としてまとめられたとしても、名称体系全体は全く異なった姿をしている場合が起こり得る。そもそも、複数の規則で規定された名称体系のうち一つの規則を持ち出して、それが適用されるものを何々型としてまとめるという作業は、無理があると言えよう。一つの社会の親族名称分布のあり方を同等規則分析で描き切るためには、ある規則は「ドラヴィダ型の規則の一部」、別の規則は「クロウ型の規則の一部」、また別の規則は「イロコイ型の規則の一部」とせざるを得ないような場合も生じるのであるである。
 さらに、その分析は、言語学的な視点から切り取られた側面からなされているため、他の社会的側面から切断された形で提示されることになる。そのため、親族分布は同じでも社会的なあり方が異なるような事例にもしばしば出くわすことになる。意味論的側面を取り去った同等規則分析は、パズル解きとしての面白さはあるが、一つの規則、例えば、クロウ型斜行規則が適用される諸体系をクロウ型としてまとめることに何の意味があるのかという問題に直面することになった。
バーリンらの研究も、ラウンズベリーらの研究も、大きくは同じ二つの問題点に直面したと言える。一つは、人類に普遍的な分類操作のあり方を追求するあまり、様々な偏差を持つ個別社会の事例をくまなく扱いきれなかったという点である。他の一つは、科学的に正確な方法を実施するために言語学的な「足かせ」をはめたために、それが他の社会的側面から独立して切り離され、それ内部で議論が閉じてしまったということである。つまり、認識人類学の理論的特性となっていたものが、そのまま認識人類学と呼ばれた大きな流れの限界をも示すことになったのである。
 しかし、色彩分類研究や親族名称研究に見られた共通したもう一つの視点、つまり、焦点(典型)と周辺という枠組みは、認知心理学との関連で関心を集めた。認知心理学者のロッシュは、バーリンとケイの研究を受けて、色の中でも焦点となる色がより早く習得されることを実証し、被認識度の高い典型的なものを原型として考える認識論を提起した。彼は、果物、科学、などの様々なカテゴリーにおける典型的なものと周辺的なものの間にある被認識度の違いを研究していった。彼はさらに、ヴィットゲンシュタインの言う「家族的類似」によって出来上がるカテゴリー、すなわち、共通の特性によってではなく類似によって一つにまとめられるようなカテゴリーにおいても、原型が認識の基点となることを検証した。そうした研究に触発され、一九七〇年代から一九八〇年代にかけて認識の基点としての原型をめぐる様々な議論が行われた。
 ところで、認識人類学は、人類に普遍的な認識・思考のあり方を探求したという点で、レヴィ=ストロースの構造主義と対比されるが、実は、通文化的比較を徹底的に批判してきたニーダムも、最終的には、個別社会を詳細に分析する中から、個別社会を超えた人類に普遍的な思考を見出す研究を行うようになったのである。その中で彼が持ち出した概念が、原型であった。もちろんロッシュの言う原型とニーダムの原型は異なる。しかし、人間の認識や思考は、基点としての原型、そしてそれを取り巻く周辺によって成り立つという発想で共通している点は、興味深い一致と言うべきであろう。
 認識人類学は、認知心理学だけではなく、様々な隣接科学と共同しながら、多様な分野へ進出していった。そこでは、自然の民俗分類や親族名称体系の研究は陰を潜め、婚姻や土地所有を巡る慣習や知識の研究など、人類学一般のテーマについても研究が行なわれていくようになった。そして、社会言語学やディスコース分析などとの共同作業が行われる一方、生態人類学などとも研究領域を重ね、エスノ・サイエンスの新しい地平へと向かう方向も出てきた。しかし、一九八〇年代の一連の研究は、一九七〇年代の理論的枠組みをはずした上で成り立っており、これらの動向は、認識人類学として一つの学的なまとまりとして位置づけられるには、あまりにも漠然とした結びつきしかもっていなかったと言える。その意味で、今日の状況の中では、認識人類学は発展的に分散していったと考えることができよう。

参考文献

Berlin, B. and P.Kay, Basic Color Terms. Univ. of California Press.  1969
Berlin,B., D.E.Breedlove, and P.H.Raven, General Principles of Classification and Nomenclature in Folk Biology. American Anthropologist 75-1:214-242. 1973
Conklin, H.C., The Relation o Hanunoo Culture to the Plant World. Unpublished Ph.D. dissertation. Yale Univ. 1954
Conklin, H.C., Basic Color Categories. Southwestern Journal of Anthropology 11-4. 1955
Gilmore, M.R., Importance of Ethnobotanical Investigation. American Anthropologist 34-2:320-7. 1932
Goodenough,W. , Conponentioal Analysis and the Study of Meaning. Language 32:195-216. 1956
Lounsbery,F.G., A Semantic Analysis of Pawnee Kinship Usage. Language 32:158-94. 1956
Lounsbery,F.G., A Formal Account of the Crow- and Omaha type Kinship Terminologies. In S.A.Tyler ed. Cognitive Anthropology. Holt. 1969
Roch,Cognitive Reference Points. Cognitive Psychology 7:532-547. 1975
Scheffler,H.W. and F.G.Lounsbery, A Study in Structural Semantics:The Siriono Kinship System. Prentice-Hall. 1971
グッドイナフ,W. 『文化人類学の記述と比較』寺岡学、古橋政次訳、弘文堂、一九七七
斉藤尚文「同等規則分析ー親族分類システムのタイポロジーとシリオノ親族名称体系ー」『民族学研究』四五ー三、二二二ー二四三、一九八〇
デュルケーム,E.、M. モース『人類と論理ー分類の原初的諸形態』山内貴美夫訳、せりか書房、一九六九
長野泰彦「色彩分類」合田濤編『認識人類学』至文堂、一○七ー一三六、 一九八二
ニーダム, R.『人類学随想』岩波現代選書、一九八六
マードック,G.P.『社会構造』内藤莞爾訳、新泉社、一九八六
松井健『認識人類学論考』昭和堂、一九九一
松井健『自然の文化人類学』東京大学出版会、一九九七
光延明洋「普遍的範疇と身体部位語彙」合田濤『認識人類学』至文堂, 七三ー一○六、一九八二
光延明洋「言語と認識」合田濤編『現代社会人類学』弘文堂、一二九ー一五八、一九八九
吉岡政徳「親族と関係名称」渡辺欣雄編『現代の文化人類学親族の社会人類学』至文堂、一九八二
吉岡政徳「認識人類学の地平線」『現代思想』十一ー一、一○五ー一一三、 一九八三
レヴィ=ストロース,C.『今日のトーテミスム』仲沢紀雄訳、みすず、一九七〇
レヴィ=ストロース,C.『野生の思考』大橋保夫訳、みすず、一九七六