ボーダーレス

ボ−ダ−レスだからといって、境界がないからと言って、AとBは同じであると言うことは間違っている。近代が持ち込んだ、あれかこれかという二者択一的なやり方、あるいは、単配列的な科学的定義は、確かに、ボ−ダ−レスとは正反対の方向性を築いてきた。しかし、単配列否定が必ずしもAとBは同じであるということに繋がるわけではない。多配列的思考は、確かに、AとBの間に明確な境界線を弾かない。しかし、それでもAとBが異なっているという認識は持ちつづけている。例えば、男と女という概念で考えてみると、男と女の境界が曖昧になってきたからといって、両者が異なっていることを否定することにはならない。典型的な男と典型的な女概念があってよいわけだ。周辺部は入り交じっているため、無理に区分けは出来ない。しかし、男女の役割区分に関する理念はあっても良いのではないか。近代以前の段階にあったと考えられる思考と近代がもたらした思考を対比し、近代を脱構築しようと思うあまり、AとBの区分を認めずその融合を唱えることは、近代以前の思考に戻ることではなく、新たな混乱をもたらすことになろう。戻ることが良いこととは限らない。しかし、カテゴリ−とカテゴリ−の区別を放棄すると、そこには、混乱した、あるいは混沌しか出現しない。我々はむしろ、カテゴリ−同志がいかに区別されているのかを考えるべきである。ボ−ダ−レスは、多配列概念の根底にある視点であるし、近代の科学的定義に対する大きな批判点である。しかし、ボ−ダ−レスは、二つのカテゴリ−の融合を意味しないという点を、しっかり頭に入れておく必要がある。

















ブリコラージュ

「実際、民俗社会における象徴分類では、象徴性が与えられるモノは、さまざまなレヴェルでの微細な差異や類似性によって選ばれている。このような類似性や語呂合わせ、エピソードの使用は、レヴィ=ストロースのいうブリコラージュ・・・・・・・によって生成される民俗象徴分類の特徴である」(『構造主義のフィールド』p42)。小田の言う「さまざまなレヴェルでの微細な差異や類似性」というのはメタファーとメトニミーによって実現されるものと考えられている。小田はブリコラージュを「単一の意味をもたせられた概念による首尾一貫した計画にもとづく仕事ではなく、限られたありあわせの材料の微細な徴候や差異を臨機応変に使い分ける器用仕事」(p42)と位置づけている。これはほとんど多配列分類の原理と同じものである。違いは、メタファーとメトニミーという戦術を用いた臨機応変な(主体的な)作業に焦点を合わせるのか、単一の意味を持たない、確定できないいい加減な作業に焦点を合わせるかであろう。後者は、ヴィットゲンシュタインの視点とつながる。「我々は、自分が使用する諸概念を明確に定義できないのである。それは、我々がそれらの真の定義を知らないからではなく、それらには真の「定義」がないから、なのである。(真の定義が)なくてはならないと思うのは、子供達がボールで遊んでいるときは何時でも、彼らは厳格な規則に従って遊んでいるのだ、と思うような(馬鹿げた)ことなのである。」「要するに、多くの語は本来漠然としているのである。しかし、これは別に欠陥ではない。これを欠陥であると考えるのは、霞のかかった景色は真の景色ではなく、太陽からの光のようにくっきりとした陰影を作らない電気スタンドからの光は真の光ではない、と考えるようなものである。そしてそれは、実に馬鹿げたことである。」(『Blue Book』p25,27)



















単配列分類と多配列分類

「西洋哲学におけるクラスの伝統的定義においては、また辞書による定義においても、あるクラスの全構成要素は最低一つの特徴を共有しています。この類似点に基づいて、各要素はそのクラスに属し、あるいはそれを構成しているのです。この方法は単配合分類と呼ばれてきました。」(『人類学随想』p3)このことから理解されるように、ニーダムは一般に知られている(多配列、単配列を説明する)図とは異なり、単配列分類によって構成されるクラスに属する各個体は、共通の特性を少なくとも一つもてばよいと考えている。この少なくとも一つの特性が、specific feature である(p3)。そしてこれはクラスにとって決定的なものとなる(p3)。一方二ーダムは、多配列を、「様々な事象はそれぞれに共通する明確な特性を多く持つことによって一つに分類されますが、すべてに共通する基本的特性がただの一つもなく、また、同じクラスの各構成要素ごとに、欠けている特性が異なる場合がありうるのです。・・・この分類様式は多配合的と命名され、・・・」(p4)と捉えている。しかし、彼の言う「共通する明確な特性を多く持つ」ということの意味が明確ではない。ここで言う特性というのは、characteristic features ということであるが、characteristic features というのは「この特性の発生は偶発的なものであって、本質的なものではありません」(p2)ということから理解されるように、クラスを考える上でもクラスの認識にとっても決定的なものとはいえないような特性である。ニーダムは、こうした非決定的な特性が複数ずれて共有されることによって一つのクラスができると考えているよう。しかしそれは、「多くの特性を持つことによって」と言えるかどうかあやしい。また、多配列分類では各構成要素ごとに、欠けている特性が異なることもあると述べているが、これはほとんど意味のない表現である。というのも、一つの specific feature を共有することによってクラスが構成される場合、それ以外の characteristic features はまちまちでもかまわないということになり、単配列でも欠けている特性は異なることがあることになるからである。どうも、この部分ではニーダムは、単配列分類で出来あがるクラスでは、そのメンバーは全ての特性が共通する(ex. A:abc, B:abc, C:abc )と考えているようである。
 ニーダムはまた別のところで、単配列分類によるクラスの構成に関しては、「置換の原理」が適用できる、と述べている。つまり、クラスの1メンバーについてわかっていれば他のメンバーについても類推する事ができる(『人類学随想』p87)というのである。「置換の原理」が適応されるとすれば、ニーダムの想定している単配列分類は、クラスを構成する全てのメンバーが全ての共通の特性を持っているのでなければならないということになる。というのは、もしもう一つの規定(つまり「一つの specific feature を共有する」ということでクラスが構成される)を採用するなら、Aはa,b,c、Bはa,d,e、Cはa,f,gというものであっても、これらはaという共通の特性を持っているが故にaという特性によって定義されるクラスに属することになる。そしてその場合は、あるメンバーの特性(例えばAの特性はabc)が分かっていても、他のメンバー、つまりBやCを類推することは出来ないのである。ニーダムはこれに続いて多配列分類についてふれ、「この場合には、置換の原理は適用できませんし、一事例について知られていることは、同じクラスに属しているということから察して別の事例に置き換えるというわけにはいかないのです。」(『人類学随想』p83)と述べている。ニーダムの言う単配列分類と多配列分類は混乱している








2001,5,10のメモの修正(「単配列分類と多配列分類」への修正)

 単配列と多配列という概念は、ニーダムによって人類学に持ち込まれた概念である。彼によれば、単配列分類とは、共通の特性を持つ個体から一つのクラスが成立している場合をさし、それぞれの個体はまったく同じ特性を共有するが故に同じクラスにまとめられるというものである。それは科学的定義とも呼ばれる。それに対して多配列分類とは、互いに類似しているということでいくつかの個体が一つのクラスにまとめられるやり方である。これは、ヴィットゲンシュタインの言う「家族的類似」と同じものである、とニーダムは述べている(1975 Polythetic Classification)。そして彼は、表に見られるように、多配列と単配列を個体の特性という視点から論じようとした。つまり、多配列クラスでは、それぞれ一緒にまとめられている各個体の間には一つとして共通の特性というものがないにもかかわらず一つにまとめられるのに対して、単配列クラスとしてまとめられる各個体は、全て共通の特性を有しており、それゆえ、単配列分類によるクラスの構成に関しては、「置換の原理」が適用できるという。つまり、そのクラスに含まれている1事例(個体)についてわかっていれば他の事例(個体)についても類推する事ができるというのである(ニーダム 1986『人類学随想』:87)。しかし多配列クラスの場合には、この原理が適用出来ない。彼は、「この場合には、置換の原理は適用できませんし、一事例について知られていることは、同じクラスに属しているということから察して別の事例に置き換えるというわけにはいかないのです」と述べているのである(『人類学随想』;89)。

 ┌──┬────────┬───────┐ 
 │    │ 多配列クラス   │単配列クラス  │
 ├──┼────────┼───────┤ 
 │個体│ 1  2  3  4  |  5    6   │
 ├──┼────────┼───────┤ 
 │ 特 │ A     A  A  │           │
 │   │ B  B   B     │           | 
 │   │ C  C     C   │           │
 │   │    D   D D   │           |
 | 性  |             |  F     F   │
 │   │            │  G     G   │
 │   │            │  H     H   │
 └──┴────────┴───────┘ 
             表

 しかし、彼の議論は矛盾するような言い回しによって混乱してくる。彼は言う。「西洋哲学におけるクラスの伝統的定義においては、また辞書による定義においても、あるクラスの全構成要素は最低一つの特徴を共有しています。この類似点に基づいて、各要素はそのクラスに属し、あるいはそれを構成しているのです。この方法は単配合(単配列)分類と呼ばれてきました(括弧は筆者)」(『人類学随想』:3)。このことから理解されるように、ニーダムは上記の表とは異なり、単配列分類によって構成されるクラスに属する各個体は、共通の特性を少なくとも一つ持てばよいと考えている。彼は、単配列分類において見いだせる共通の特性を、種別的特性(specific feature)と呼び、これはクラスにとって決定的なものとなると述べている(『人類学随想』:3)。そして、ここで規定されている単配列分類は、いくつもある個体の特性のうち少なくとも一つの決定的な特徴(specific feature)を共有しているものを一つのクラスにまとめるやり方、ということになる。しかし、この規定では表から考えられたような「置換の原理」が適用出来ず、そこでの単配列分類の規定の仕方と矛盾を起こしてしまうように見えるのである。
 矛盾は、個体の特性を数え上げて、それらが共通するかどうかという視点から論じているかのような表1の議論から生じている。議論はクラス(カテゴリー)の側からする必要がある。つまり、あるクラスに複数の個体が含まれている場合、それら個体の持つ一つ以上の共通の特性によって一つにまとめられているならば、それは単配列分類の原理に従っていると考えるのでよい、ということである。その場合、それぞれの個体の特性の数とは関係なく、個体間に見られる共通の特性がクラスをつくるメルクマールに用いられているのであり、その意味では、メルクマールとして用いられた特性は、どの個体にもすべて共有されているということになるのである。この点を踏まえれば、単配列分類によって出来る単配列クラスは、そのクラスのメルクマールとなる重要な特性(これが種別的特性である)を少なくとも一つ以上共有する複数の個体からなることになる。そうした特性は、一つかもしれないし複数かもしれない。そして、後者の場合も、それらの特性はすべて各個体に共有されており、その意味で、置換の原理に従っている。しかし、個体の持つ全ての特性が共有されているわけではない。このように考えることで単配列分類の規定に見られる曖昧さは克服されることになる。そして、こう考えた単配列分類は、まさに辞書や科学的な定義で用いられてきたやり方であり、あるクラスを他のクラスから排他的に選別するための方法を提示している。
 では、多配列分類についてはどうであろうか。多配列に関するニーダムの規定は揺れを見せていない。彼は一貫して、「クラスに共通する基本的特性がただの一つもなく、また同じクラスの各構成要素ごとに、欠けている特性が異なる場合がありうるのです。・・・この分類様式は多配合的(多配列的)と命名され、・・・(括弧内は筆者の加筆)」と捉えている(『人類学随想』:4)。そして多配列的なまとまりにおける特性を個別的特性(characteristic feature)と呼び、それは「この特性の発生は偶発的なものであって、本質的なものではありません」と説明されている(『人類学随想』:2)。ニーダムは、この個別的特性と類似の関連については詳細な議論を展開していないが、筆者は、多配列分類における類似の構造は、当該クラスの典型ないしは中核という概念を用いることで了解することが出来ると考えている。つまり、多配列分類の場合は、あるクラスの典型とされるイメージ(ないしは個体、個体群)の諸特性が重要な意味をもち、そのクラスにまとめられる個々の個体は、この典型的なイメージの持つ諸特性と様々なやり方で類似した特性をもっていると判断されるのではないかということである。それは、ある植物のクラスの典型とされる植物 x があった場合、x と葉の形が似ているということで y が同じクラスにまとめられ、x と幹が似ているということで z が同じクラスにまとめられるというやり方である。その場合、典型的なイメージと類似していることを示すために選択される特性は、コンテキストによって自在に切り替わる。場合によっては、クラスの境界線でさえ越えてしまうことがあるのである。
 ヴァヌアツの北部ラガでは、動物はその動きによって「這うもの(ginau sirabwa)」、「走るもの(ginau rovo)」、「歩くもの(ginau lago)」などに分類されている。そしてヘビは「這うもの」の中核として常に「這うもの」のクラスに含まれる。しかし、トカゲは、「這うもの」に分類されたり「走るもの」に分類されたりする。「這うもの」に分類した者は、このクラスが腹で這うという特性を持っているからをその理由に挙げる。ところが「走るもの」に分類したものは、「這うもの」というクラスの特性として「足がない」という点をあげ、トカゲには足があるから「這うもの」ではなく「走るもの」だと主張するのである。ヘビは「這うもの」の典型的な個体(個体群)として扱われており、トカゲはその周縁部にあって、ヘビの持つ特性との類似でクラスに組み入れられたり、ヘビの他の特性故にそのクラスから排除されたりするのである。













<比較主義者>としてのニーダム

 「比較主義者としてのニーダム」は何をどのように比較しているのだろうか?彼は、多配列分類がどんなもので、どうやってその概念を用いれば何が出来るか、ということに関しては具体的に議論していない。彼が現実に行っているのは、規定的縁組の比較研究と片側人間の議論に見られるような原型を追求した比較研究である。ニーダムは両者ともフォーマルな基準に基づいた比較研究であり、それは多配列的なものの比較研究への道を切り開くと考えているようだが、そうだろうか。規定的縁組の比較研究は、明らかに単配列分類に基づくものの比較研究である。関係名称というものは、単配列的に出来ている数少ないものとして捉えていると思えるからである。この時点で、彼は、「多配列的なものと単配列的なものをきちんと区分して、単配列的なものに関して詳細な比較研究をする」ということ、それと、「多配列的なものを単配列的な比較研究から考えてはいけない」、ということを主張していたように思われる。ところが primordial character の議論では、多配列カテゴリーと多配列カテゴリーを比較するための視点としてフォーマルな基準を持ち出している。フォーマルであるからこそ、多配列の状況を突破できると考えたわけだ。しかし、比較しようとする多配列カテゴリーと多配列カテゴリーの関係は、両者が共通のフォーマルな「要素」で関連付けることが出来るという点で、単配列的であると言わざるをえない。
 ただ、ニーダムが(あるいはヴィットゲンシュタインが)チェーンの輪をつなぐようにして多配列カテゴリーが出来ると考えているところは、多配列カテゴリー同士の比較を可能にするヒントであると考えられる。それを念頭に置きながら、ポリセティックなものの比較を考えることは、不可能ではない。それは「家族」や「信仰」や「親族」という概念を比較の対象に出来るという意味ではなく、北部ラガの vara とキリバスの utu はそれぞれがポリセティック・カテゴリーであるとしても、比較の対象になるということである。















ブリコラージュと多配列概念

 レヴィ=ストロースの場合は、ニーダムとは異なり単配列と多配列を意識しているわけではない。両者を区別して議論していない、という批判をしたとしても、それは、まるで、preference と prescription の違いをめぐる議論と同じ結末になってしまうだろう。つまり、レヴィ=ストロースにとっては、両者の区別はどうでも良いことなのだ。ただし、レヴィ=ストロース自身は、当初から preference と prescription の違いを意識した上で両者に違いを設ける必要は無いと考えていたのではなかったのと同様に、単配列と多配列の区別を意識的に不問にふしているわけではないだろう。つまり、レヴィ=ストロース流に言えば、多配列と単配列は変換によってつながると言うことになるのかもしれないが、彼は多配列を踏まえた比較研究を行っていると言えるわけではない。問題はここにある。preference と prescripiton の区分の問題が社会的事実から出てきたように、単配列と多配列の区分の問題もそこから出てきている。それを重視するのか、そうでないのかが分かれ目となろう。レヴィ=ストロースのブリコラージュはこうした二つのレベルの区分を意識しないところに成立しているのであり、そのことからもわかるように、多配列概念とは異なった地平に立っていると言うべきだろう。














比較研究と多配列概念

○比較されるモノ同士には共通の要素がないといけない、という発想は様々なモノを単配列カテゴリーとして想定している場合に生まれる。共通の要素がなくても比較が可能となるのは、「多配列カテゴリーは共通の要素をもたない幾つかの項が類似しているということで一つにまとめられる」という視点を踏まえれば可能となる。つまり、ある項Aは何らかの要因で他の項Bと類似していると捉えられ、その項Bは別の項Cと類似していると捉えられるから、これらは一つにまとまる。この段階で、各項は比較の対象となる。しかし各項の間に共通する要素は見いだせない。
 ところで、「世界に一つしかない花」は比較出来ないと言う意見があるが、それは、共通項目を見いだす単配列的な比較を念頭に置いているからである。世界に一つしかない花も、他の何らかの花と類似しており、その花は、また、別の花と類似している。それらの連鎖のありかたを見据えることで、比較は可能であろう。つまり、比較されるものが一つの多配列カテゴリーを構成していると捉える。そうすると、その内部における類似の仕組みを読み取ることで比較研究が成立するのだ。
○親族における比較にしても、政治組織の比較にしても、それぞれの場(いい古された言い方を用いるならば、例えば民族学的研究領域)それ自体が多配列カテゴリーであると考えて、内部にあるいくつもの項(これ自体も多配列的)相互の類似関係を考えていく。
○オセアニアにおける親族組織の比較で私が提示したリニアリティとラテラリテイというフォーマルな基準は、共通のフォーマルな基準をベースに共通点を比較するということではない。リニアリティとラテラリティは、オセアニアの諸親族組織を比較する上での共通の要素として設定してあるのではなく、ある場合には0,ある場合には100となるように設定されている。つまり、そのフォーマルな要素がない場合でも比較の対象になるわけで、ニーダムの比較研究で登場するフォーマルな基準とは異なる。親族組織の比較の場合には、リニアリティとラテラリティの組み合わせとして類似の在り方を探ってみたが、ある場合にはリニアリティが100でラテラリティが0,ある場合にはその逆ということを念頭においている。つまり、両者の間には共通のフォーマルな基準は見いだせない。しかしそれぞれが典型として配置され、その典型と典型の間に周縁をおくことで比較していくという方法を採っている。
○通常、人々がカテゴライズする場合は、そのカテゴリーが単配列的に出来上がっているかのようにしてカテゴライズする。例えば、「ユダヤ人」というカテゴリーを、「ユダヤ教を信じている人々がユダヤ人だ」という具合に共通要素の抽出によって規定していく。しかし、現実にはそうした要素を共有しないけれど「ユダヤ人」というカテゴリーに含まれる人々がいる。その場合は例えば「彼らはキリスト教徒だが、彼らの両親がユダヤ人だから、彼らもユダヤ人だ」という具合に別の要素が引き合いにだされて単配列的に規定される。こうして出来上がる「ユダヤ人」カテゴリーには、すべての個体に共通する要素が見出せないという現実が生まれる。「ユダヤ人」の特徴としてあたかも共通であるかのようにして抽出されるそれぞれの要素は、「典型的なユダヤ人イメージ」との類似関係から生まれている。この仕組みを解明していくことが比較研究ではないか。AとBは幹が似ており、BとCは葉の形が似ているから、AとBとCは同じカテゴリーであるという多配列的なカテゴライズを、親族組織では、典型的な単系出自集団と典型的な双方的キンドレッドを両極に、それぞれの持つ典型的イメージとそれからの乖離を念頭に置きつつ、リニアリティとラテラリティそれぞれの類似の度合いによって個々の親族組織が接合されている様を描くことで、典型と典型の間のずれ方を考えることができよう。