ヴィレッジと呼ばれる超ミニ都市・フナフチ (『会報ツバル』に掲載済み)
空から見たフナフチは、予想より大きな環礁だった。大きさから言えば、キリバスのタラワ環礁と同じ位だろうか。しかし陸地部分はタラワよりも少ない・・などと想いを巡らせている間に、機はフナフチ環礁を構成する小島の一つ、フォンガファレに降り立った。私は19年前、キリバスで4ケ月程フィールドワークをしたことがあるが、その時以来、キリバスのすぐ南の珊瑚礁の国、ツバルにも行ってみたいという想いを持ち続けてきた。そんな想いがようやくかなったのが1998年。短期間ではあるが、私は、8月から9月にかけてツバルのフナフチでフィールドワークをする機会を得た。
フナフチは、約30の小島から成り立っている環礁だが、ここフォンガファレに全ての都市機能が集まっており、そこがいわば市街地を形成している。しかし、ツバルの人口そのものが少ないため、都市といっても3000人程の人口を擁するだけなのだ。超ミニ国家の超ミニ都市。それがフナフチなのだ。
約2週間の滞在予定で、ハイダウェイ・ゲストハウスを宿泊先に決めた。自炊の出来るこのゲストハウスは、島の北端に近いところにある。官舎のある中心部から北に30分程歩くと波止場に着くが、家並みはその辺りで途切れる。乗り合いバスもここまでしか来ない。ゲストハウスは、そこからさらに北に歩いて20から30分の、いわば町外れにある。経営者はドイツ人とツバル人の夫婦。2階が彼らの住居、1階が客室になっている。ツバル人の奥さんが高位のチーフの親戚で、もともと誰も住んでいなかったこの地を譲ってもらったとか。まず部屋の説明を受けた。シャワ−室の電気が切れているため、ト−チを持って入ること。次の船を待たないと注文品がこないこと。1階の廊下にある大きな冷凍庫は彼らの個人的なものだが、それを自由に使っていい、等々。さらに、ハッポウスチロ−ルのケ−スの中に冷凍庫で作った氷を入れ、それで臨時の冷蔵箱を作ってくれた。ツバルでの生活がスタートした。
私は、ハイダウェイ近辺で、ツバルについて聞き取り調査をする傍ら、フナフチという小さな都市のあり方を見るため、毎日、中心部まで歩いて通うことにした。歩くといろんなことが分かる。人々と直に接することが出来るからである。家々が集まっている市街地は、「ヴィレッジ」と呼ばれていることも知った。太平洋では、市街地をタウンと呼ぶことが多いが、ヴィレッジと呼ぶのは、恐らくツバルだけだ。
1週間も経った頃だろうか。道ですれ違う人々の反応が変わってきた。それまでは、異邦人に対する造り笑顔での対応だったが、それが「よっ!」という感じの顔つきに変わってきたのだ。「あいつ、まだいるのだ」と思うからだろうか、観光客に対する「作られた親しみ」ではなく、「馴染んできた自然な親しみ」を感じるようになってきた。そして、現実に、後ろからやってくるトラックに乗っている人々から、「ヴィレッジに行くのか、乗るか?」と声をかけられるようになった。トラックだけではなく、バイクでもそうだった。フナフチでは男女の二人乗りは珍しくはなかったが、見知らぬ女性のライダーから「後に乗る?」と声をかけられたこともあった。
ちょうど同じ頃、ゲストハウスの宿主が、病気のためフィジーの病院に入院することになった。もちろん奥さんも同行する。隣家に奥さんの親戚がいて、ゲストハウスの管理を任されたが、この建物に寝泊まりするのは私一人ということになってしまった。ある朝、呼ぶ声がするので出てみると、近所の子どもがいて「お母さんが氷が欲しいと言っている」と言う。もちろん氷を分けてやったが、客である私が、ゲストハウスの留守番をすることになったのだ。管理を任されていた隣家の女性はと言えば、宿主の代わりに客室の世話をしてくれるわけではなかった。ゴミも自分で捨てに行かねばならなかった。しかし、彼女は、ラグーンでとった魚を「食べる?」と言って持ってきてくれたのである。彼女は、客としてではなく、まさしく隣人として私に接していたのである。
ヴィレッジと呼ばれる超ミニ都市・フナフチの面白さは、こうしたところにあるのかも知れない。
エア・フィジー
ツバルに行くには、フィジーから飛んでいる飛行機に乗る必要がある。この便がエア・フィジー。フィジーの国内線である。以前は、マーシャル諸島共和国、キリバス共和国、ツバル、フィジー諸島共和国を結ぶエア・マーシャルという国際線の飛行機便があった。この便は、マーシャルからフィジーまで、太平洋を南北に飛ぶ稀有な国際線で、キリバスとツバル両方に寄るには極めて便利な飛行機だった。しかしそれも廃止になり、今は、このエア・フィジーが週3便、つまり日曜日、月曜日、木曜日に、フィジーの首都・スヴァからツバルの首都フナフチまで往復で飛んでいる。30人乗りのこのプロペラ飛行機は、実はスヴァ発というより、同じフィジーの国際空港があるナンディ発と言ったほうがいいかもしれない。つまり、ナンディからスヴァまで国内線として飛んできて、そこから今度は国際線としてツバルのフナフチまで飛ぶのだ。
エア・フィジーの評判は芳しくない。「しばしば飛ばなくなる」、「何日も、ただ待たされる」、「スケジュールが変更になっても、何の補償もない」という評価である。「しばしば飛ばない」という評判は、2−3日だけツバルを訪れようという短期の計画の旅行者にとっては、大きな不安材料となる。例えば月曜日にフナフチへ行こうと考えていた場合、その便が飛ばなかったら、それだけで次の木曜日まで3日のロスが生じるからだ。最終的にツバルに行くことが出来ずに、スヴァだけに滞在なんてことにもなりかねないのだ。
私は、1974年から太平洋路線に乗り始めたが、それから今日までの間に数多くの太平洋の旅を経験し、大幅な遅れなどは何度も経験したが、予定の国際線の飛行機が飛ばなくなる事態には、運が良かったのか、1度しか遭遇したことがなかった。従って、自身の経験が教える確率から言っても、「しばしば飛ばなくなるエア・フィジー」というのは、単なるイメージでしかない、と考えていた。そこで、2005年9月3日から23日までの予定でツバル調査に出かけることになったとき、この期間で最も長くツバルに滞在できるルートを探して、タイトなスケジュールを組んだ。つまり、この日程で最も長くツバルに滞在できるルートは、オーストラリア経由の便であり、日本を3日夜に出発して、4日にはナンディ着、翌5日の月曜日の朝には、ナンディからエア・フィジーに乗るという計画だった。予定通り月曜日に、朝8時45分ナンディ発のエア・フィジーに乗るべく、空港に7時30分に到着した。そして、私の想定が、甘いものであることを思い知らされた。「エンジントラブルのため飛行機は飛ばない」と言うのである。
「エンジン・トラブルがいつ修復されるか分からない。今日はフナフチへは飛ばない。その代わり明日、フナフチへの便が飛ぶ」という説明を聞いて、欠航した場合は、タイムスケジュールを変更して定期便以外の便を飛ばすのだ、とちょっと感心したりしていたが、ホテルもチェックアウトしたし、困ったな、と思っていると、エア・フィジーの係の者が、「スヴァまでバスを出すからそれに乗ってくれ」という。「朝食はあそこの売店で。エア・フィジーの乗客だというと無料になるから」と説明を受ける。エンジントラブルのための日程変更に落胆するよりも、エア・フィジーの側のそれなりのケアに関心したり驚いたりするほうが大きかった。
スヴァ行きのバスは8時頃に出発。マイクロバスに10人程の乗客をのせて、ぶっ飛ばして3時間。スヴァ市内に着いた。ここで、何人かは下車。残りが空港まで行った。空港では、当然エア・フィジーの係員が待機していて、その後の手配をしてくれるとばかり思っていたが、それはすっかり裏切られてしまった。誰もいない。エア・フィジーの国内便のカウンターが開いていたので、そこに行って状況を説明すると、なんと「エンジントラブルが直って、フナフチ行きは11時にこの空港を出た」と言うではないか。「次の便は、明日ではなく、木曜日にしか飛ばない」とも言う。これには、驚くばかりだった。我々がバスでスヴァ市内に着いたのが11時頃だ。それから何人かの乗客を降ろして、結局12時前に空港に着いたのだが、その1時間前に我々を残して国際線が出てしまうという事態が、理解できないまま、しばらくは呆然としていた。本来は10時初の便だった。1時間遅れるのなら、後1時間待ってくれれば、我々は予定通りツバルまで行けたのに。ナンディでのチェックインを遅くしてバスに乗らなかった人々は、エンジンの復調した便でスヴァへ、そしてフナフチへと飛んだのだ。結局、早くチェックインし、バスでスヴァまで来たツバル行きの6人だけが、取り残されてしまったことになった。
気を取り直して、木曜日までの滞在をどうするのか、聞いてみた。なんと、エア・フィジーで考えてくれるという。これまた大きな驚きだった。「何の補償もない」という評価は、実は、昔のものか、間違ったものだったのだ。それからしばらく待たされたが、昼食はどうか、など気を使ってくれたのも、愛嬌だった。我々6人は、スペシャルという張り紙をしたマイクロバスに乗って、再びスヴァ市内へ。空港から市内へは、マイクロバスだと45分程度かかる。到着したところは、ペニンスラ・ホテル。スヴァでは、中堅の立派なホテルだ。結局、木曜日の便までまるまる3日間、エア・フィジー持ちで、このホテルに滞在しスヴァ見学となってしまった。
気になっていたのは、いつも満席の30人乗りの小さな飛行機で、我々6人分の座席が確保できるのかということだった。エア・フィジーの空港の係員は、「座席の確保については、すぐに電話連絡する」というのでそれを待っていた。しかし、連絡も伝言もないまま水曜日になってしまった。たまたま、市内のエア・フィジーのオフィスの前を通りかかったので、聞いてみると、ちゃんと木曜日の便がコンファームされていた。これで一安心。結局、エア・フィジーから私個人には何の連絡も伝言もないまま、木曜日の朝7時にバスの迎えが来るということを人づてに聞いただけで、エア・フィジーの「ケア」は終わった。
ツバル滞在中の2週間、エア・フィジーは6回飛んできて帰っていった。しかし何のトラブルもなかった。帰りの便も、問題はなかった。やはり、たまたま、だったのだろうか。エア・フィジーは、評判どおりではなかった。トラブルがあったときは、ちゃんと国際線標準のケアをしてくれた。ただ、ちょっと、想定外の対応はあったけれど。(2005年10月5日記)
フィジーの田舎としてのツバル
1998年、スヴァのナウソリ空港でフナフチ行きの便を待っている間に、同じくフナフチに向かうフィジーのビジネスマンと話をした。いろいろ話したが、彼の「ツバルは初めてなんです。電気があるのだろうか?」と不安げに語った言葉が今でも印象に残っている。一国の首都であるフナフチに、電気が通っていないなどありえないことだった。私は、そうした台詞が出てくること自体に驚いたのだ。しかし、フィジーの人々にとっては、ツバルは「とんでもない田舎」だったのである。
1998年は、まだ、エア・マーシャルが飛んでいた。ツバルからは、北のキリバスと南のフィジーに直接行くことができた。その意味で、ツバルはまだ南北に解放されていた。しかし、重い病気になるとフィジーの病院に行かねばならなかった。何をするにも、キリバスではなくフィジーに向かうという状況だった。そして、エア・マーシャルが廃止になり、エア・フィジーだけがツバルの海外との連絡便となった。エア・フィジーはフナフチとスヴァとの間だけを往復する。ツバルは、フィジーの首都・スヴァに唯一の開口部を向けることになったのである。
フィジーには、国際空港としてのナンディがあり、日本など多くの海外からの飛行機は、このナンディに到着する。空港から町まではそれほど遠くなく、タクシーで10分程度。小さな町だが、日本人観光客なども大勢訪れる。それ故、日本でフィジーの話をすると、このナンディ周辺のことが話題となることが多い。しかし、このナンディから、再度国内便に乗り継ぐか、長距離バスに乗って到着するスヴァこそ、フィジーの中心であり、人口、規模、機能のどの点をとっても、太平洋諸国の中では、パプアニューギニアの首都ポートモレスビーと双璧をなす「大都会」なのである。
スヴァの喧騒を後に、飛行機に乗り込み、2時間ちょっと。降り立ったフナフチは、たしかに、スヴァから見れば、都市の景観を伴わない閑静な田舎である。1998年に比べると、スヴァはますます都市らしくなったのに対して、フナフチは、2005年でも以前とほとんど変わらない景観を呈していた。フナフチ在住の人々は、スヴァに行くときには「タウン」に行くと言う。そして自分たちのフナフチを、「ヴィレッジ」と呼ぶ。この意識は、フィジーの人々、特にスヴァ市民にとってはもっと落差のあるものとなっている。
スヴァ市内 フナフチのメインストリート
私が滞在していたフナフチのロッジに、フィジーのビジネスマンがやってきた。彼は、「どのくらい滞在する予定ですか?」と聞くので、「2週間です」と答えると、「ケッ」という感じで反応した。その反応の意味を聞きたくて「短すぎるという意味ですか、それとも、長すぎるという意味か?」と聞くと、「こんなところに、そんなになぜ長くいるのです?」という趣旨の答えが返ってきた。事実このビジネスマンは、3日ほどの滞在で、さっさと帰ってしまった。彼と一緒にやってきた、いかにも都会人ですという格好をしたフィジー人の婦人は、到着するなり、「美しいところですね」と宿の人間に話していた。その意味が、ここで明確になった。「私たち都会人が失ってしまった自然の美しさがここ田舎にはあるのですね」という意味だ。まるで、「文明社会が失ってしまった自然の美しさが、フィジーにはまだある」と言う日本人と同じ論理の上に成り立った発言なのだ。
フィジーには、国内線専用のエア・フィジーと国際線専用のエア・パシフィックがある。前者は、スヴァを中心にフィジー各地に飛んでいるが、言うまでもなく、どの行き先もスヴァよりも「田舎」で「非近代的」な「辺境」なのだ。そして、唯一例外的に海外にまで飛ぶエア・フィジーの便が、ツバル行きである。その結果、ツバルは、フィジー国内と同じ感覚で扱われることになる。現実には、国境を越えるツバルへの旅ではあっても、フィジーの側から見れば、国内の中心地から辺境に向かっての旅と同じ感覚になるのだ。ツバルは、中核としてのフィジーの辺境という位置になっていくのだろうか。(2005年10月7日記)
トラベラーズチェック
ツバル国内で流通している通貨は、オーストラリア・ドルである。コインだけに関しては、ツバルで独自のコインが製造されており、オーストラリアのコインと併用されている。このツバルに入国する場合、現金では1000オーストラリア・ドルを超えては持ち込めないことになっている。従って、長期滞在する場合は、オーストラリア・ドル以外の現金を持ち込むか、オーストラリア・ドルのトラベラーズチェックを持ち込むかということになる。トラベラーズチェックならばオーストラリア・ドルであっても制限がないのだ。
海外旅行に出かけるときは、トラベラーズチェックがよく用いられる。紛失しても再発行してもらえるなどの特典が付いている上、トラベラーズチェックを現金と全く同じようにして買い物などに使用できるところもあるので、旅行者には便利なものである。しかし、現金をトラベラーズチェックにする時には手数料を取られる。さらに、チェックをそのままお店などで使えないところでは、現地の銀行などで現金に換えないといけないが、その時にも手数料を取られることが多い。つまり、二重に手数料を取られるので、割高感が拭い去れない。そこで、現金を直接換金したほうが手数料も少なくてすむと考えがちである。しかし、旅行者の多くが気づいているように、換金のレートは、現金よりもトラベラーズチェックの方がはるかに良い。従って、手数料の少ない場合には、チェックの方が現金よりも有利な換金ができることになる。
手前がテレコム、向こうに見える黄色の建物がツバル国立銀行
ツバルでは、トラベラーズチェックでの買い物はできない。従って、現金に換金する必要がある。空港のすぐ横にあるツバル国立銀行の二階で、その換金ができる。この銀行は、チェックを現金化する手数料が極めて安い銀行である。1000オーストラリア・ドルのトラベラーズチェックに対して、なんと手数料は1ドル。つまり、999オーストラリア・ドルの現金に換金できるのだ。日本で日本円(現金)をオーストラリア・ドルのトラベラーズチェックに換えた時、1ドル=85円だった。手数料が1パーセント。つまり、1ドルのチェックを手にするのに、86円弱かかるということになる。しかし、オーストラリア・ドルの現金に換えるときは、1ドル=92円かかる。ツバルでの手数料を差し引いても、圧倒的にトラベラーズチェックのほうが得な交換ということになろう。
ところで、銀行で換金したときに、換金をしている行員が「1ドルもってませんか?」と尋ねてきた。あいにく持ち合わせていなかったが、1ドル出せば、向こうから1000ドル出そうという算段だったらしい。銀行での換金で、こうしたやりとりをしたことがないので、一瞬驚いたが、銀行は、客としてトラベラーズチェックを999ドルで買って、1000ドルだしてお釣りを1ドル貰おうとした、と考えれば、通常の店での買い物と同じことなのだ。ただし、客は誰?という問題が残るが。(2005年11月14日記)