開発問題をめぐって
古川絹代
第一章 近代化論の観点からの開発
今日まで世界中で様々な開発が行われてきた。そして今後も開発は徐々に変化しながら行われていきそうである。しかしながら、開発は何のために、どのような方法で行うのかということに関して一定の基準があるようには思えないし、時代によってそれは異なっている。本章では開発(development)が歴史的にどのように生まれ、どのような考えのもとに実行されてきたか考察してみたい。
まず、開発という言葉だがこれは英語でいうとdevelopmentである。訳語としては開発、発展である。西川氏によると、彼が知る限り発展・開発という言葉を社会科学で始めて使ったのはヘーゲルである。ヘーゲルは18世紀末に市民社会の勃興の時期に、今までの封建的なものから市民層が解放され、自由な活動を始めていく様を説明するべく発展・開発という言葉を用いた。(西川2000:91)この当時ヨーロッパで起こった社会の変化は素晴らしいものであると考えられ、ダーウィンの進化論の中で動物たちが原始的なものから進化して洗練されていくように、社会も原始的なものから進んだ素晴らしいヨーロッパの市民社会のように進化していくと考えられるようになっていった。つまり、全ての社会は様々な段階を経て、ヨーロッパ社会がたどり着いた至上の市民社会へと一本道を歩んでいくという考え方である。このような考え方は近代化論へとつながっていく。近代化論は1950年代に欧米でひろく受け入れられた考えであり、全ての国は一本の発展段階のいずれかに存在する。ロストウによると、どの国も5つの段階を経て経済発展するという。そこでは、それぞれの国において資源や地理的状況、歴史や文化が異なっているものの共通の成長パターンが存在する。始めに「伝統社会」、次に発展への「離陸のための先行条件期」、第3に「離陸期」、第4に「離陸から成熟への移行期」、そして最終段階は「高度大衆消費時代」である。西欧のような自由放任主義的な個人主義を伸び伸びと発揮できる高度大衆消費社会が望む形として待っているというものである。しかし、高度消費社会にいたるまでには様々な条件が存在する。まず、「伝統社会」から「離陸のための先行条件期」に至るまでに発展阻害要因である技術的拘束を克服せねばならない。近代成長のための基礎づくりがここでなされる。そのために科学的思考やビジネス思考の導入、生産のための下部構造の整備などが必要となる。しかもそれはイギリスなどの近代成長を成し遂げた外部からのショックによる伝統社会の変化を必要とする。アメリカではイギリスからの移民によって先行条件が整えられたし、日本ではペリー来航以降整えられ始めた。この段階を経て、次の離陸期の段階では、生産への投資が国民所得の5〜10%以上に達すること、製造部門の高い成長率、成長を助ける政治的・社会的・制度的枠組みの成立を要する。(ロストウ1982:301)このようにして、成長の遅い早いはあるにしろ、全ての国が西欧を至上とする発展のレールを歩んでいくと考えられた。(足立1995:121)そしてこの考えに基づき開発が行われていったのである。ここで注目したいのは、この近代化論は経済面を大きく取り扱っていることである。市民社会になり封建的な権力から開放された経済活動の変化、そしてそれによる物質的豊かさを重視し、他の社会もそれに向かうはず、向かうべきと考えたのである。こうした中で進められた開発は、しかしながらアフリカやラテンアメリカなどの多くの地で望むような結果をもたらさなかった。それどころか、貧富の差が拡大するなど弊害も出てきたのである。そこで、これらの開発がうまくいかないのが何故であるのかが問われ始めた。その問いは単に方法論の改善にはとどまらず、世界経済の仕組みへの言及にまで達した。そうした中、そもそも先進国と発展途上国は構造条件が異なっていると考えられ始めた。1950年代に工業化し始めたラテンアメリカでは、先進国と発展途上国の構造は市場経済により中心国と周辺国という関係になっていることが注目された。それを受けて従属論では、中心国・周辺国の関係が生まれるのは市場経済を通じてではなく、中心国からの搾取により支配・被支配という関係ができているからだという観点を持ち込んだ。従属論をさらに深めたフランクという人物は「低開発性の発展」を考えた。それによると、資本主義体制は正統的な国際貿易論や一国的発展理論とは反対に均整貿易を伴わず、不均衡な貿易関係に基づいているという。そして、その不均衡さは資本主義世界の中枢地域を発展させつつ衛星地域を低開発していくという。つまり、中枢が発展するのと同様に衛星は低開発状態へと発展していくのである。(フランク1980:251)。また、従属論の流れを汲む世界システム論では、今までの従属論の中枢・衛星の2つの関係を発展させ中核・半周辺・周辺という3つの搾取関係を想定した。この世界システム論では半周辺という中間層の立場が重要である。この中間層の存在は中核への統一した反対運動を妨げるだけでなく、被搾取者であると同時に搾取者である立場ゆえにシステムに安定をもたらしているという。そして、その中核・半周辺・周辺という3つの関係を持つ世界経済は、新たに周辺とするフロンティアを飲み込みながらどんどん拡大するとしている。(ウォーラーステイン1987:28)(西川2000:144)これまでの近代化論では、発展できない国があるのはその国自体に問題があるからだとされてきたが従属論や世界システム論ではその原因を先進国からの搾取構造にあるとする。(足立1995:124))ようするに先進国は発展途上国を搾取しているゆえに発展し、逆に発展途上国は搾取されているが故に発展できないのである。このような考えは今までの先進国への不満のはけ口になるとともに、開発を見直す一つのきっかけになった。しかし、先進国側とすれば、巨額の資金を投入して開発を進めているのに文句を言われる形となってしまった。こうして、成果の曖昧な開発というものに巨額の資金を投入することが先進国側にも疑問視され始めた。以上のような流れの中、新たな開発・発展の道を探そうという動きが活発になっていった。
第二章 リベラルな開発論
これまでの開発は国民総生産や、生産の増大といった経済中心のものであった。しかし、それが行き詰まり、別の道を探るようになって注目され始めたのが社会開発である。1960年台から1970年代にかけて議論され始めたこの新しい開発は、大きくいうと「経済開発以外の開発」である。初期のころには、主に道路や水道といったような社会インフラの整備に力が注がれた。この時点では社会開発は、進みつつある経済開発を補完、または社会インフラ整備などにより促すといったような意味合いが強かったといえる。しかしながら、貧富の差や環境汚染などの経済開発のもたらす歪みは拡大していった。(西川2000:221)
1970年頃から、経済開発のもたらす歪みを是正する試みとしてBHN(Basic Human Needs)「人間の基本的必要」という考えが出てきた。1976年のILOの世界雇用会議で、主に貧困層への所得分配を課題としてBHNの充足が提唱されている。BHNとは、1977年ILOによると、@家庭での一定の最低個人消費を満たすために必要なものであり、衣食住はもとより、一定の家財道具の充足も含む。ABHNには地域社会が提供すべき公共サービスも含まれ、安全な飲料水、衛生設備、公共輸送、教育施設の整備も含まれる。そして、BHNの充足は住民自身の参加(雇用や自営)と不可分の関係にある。さらに、@とAは相互作用の関係にある。(山内・大塚基本的ヒューマンニーズ論ホームページより)この頃になると社会開発は単に経済開発を補完するというよりも、社会開発なくして経済開発は望めないと考えられるようになっていった。
このBHNの考えに基づき、1990年頃から国連開発計画(UNDP)は「人間開発」(Human development)というものを打ち出し始めた。これによると、人間中心的発展(human-centered development)、つまり開発の目標を人間に置くという。人間開発の指標は保健(平均寿命)、教育(識字率と平均就学年数)、実質購買力による所得水準(所得、雇用)である。この「人間開発指標」は頭文字をとってHDI(Human Development Indicators)という。BHNが理想では住民参加を掲げてはいるものの、上からの公共政策としての福祉供与に重点が置かれているのに対し、HDIは住民参加など個々の人間の社会参加の側面をより重視していることが両者の違いである。(西川2000:225)
住民参加のことはBHNやHDIでも触れられているが、この考えが注目された経緯を説明したい。第一章でも述べたが、西欧を中心とする先進国の近代化論に基づいた開発は不振に陥っていた。そこで、新たな開発の模索が始まったわけであるが、今までの開発は経済中心であったと同時に極めてトップダウン方式であった。先進国側や発展途上国の一部のエリート達によって開発が行われてきた。そのため、住民から見れば、よそから勝手に開発計画が持ち込まれているという状況であった。そこで新たな開発としてBHNの考えの登場となってくるのだが、基本的必要というものを先進国側から一方的に策定するやり方では、今までの方法と何ら変わりがない。そこで、西欧を中心とする先進国からの押しつけでなく、自分たちの文化や宗教などを考慮してニーズを聞き出し開発を自主的にしようとする動きが出てきた。トップダウンではなく、住民参加が重視され始めたのである。マクロからミクロへと主体が変化している。
しかしながら上記の住民参加型の開発も実行に移すとなると様々な問題が出てくる。それは資金面や技術面などでどうしても先進国や国のエリートに頼らざるを得ない状況である。それゆえいくら住民参加や住民の主体性を重視したところで開発・援助をする側の影響は排除できないのである。開発プロジェクトは確かに住民の意見が取り入れられたものであるが、開発・援助する側との意見のすりあわせが行われ、それを通過したものだけが実行に移される。つまり、開発・援助する側が承諾しなければ実行には移されないのである。この点において住民参加や主体性を重んじる理想との矛盾が存在する。また、簡単に住民といっても住民も一枚岩ではない。一部の人々が権力を握り住民の代表として意見を述べていることもあるだろうし内部での対立もあるであろう。このように住民参加というもののあり方もまだまだ改良の余地がありそうである。
先ほど、私はBHNが貧困の克服を課題としていると述べたが、ここでいう貧困とは何を指しているのか。ひとつには、貧困とは、「医療、教育、清潔な生活環境へのアクセスが不十分で人間としての尊厳や選択肢が与えられていない状態」(国際協力の地平2000:38)を指すという。また、国連で貧困というときは各国の貧困線以下の所得しか得ていない人を指す。1990年の世界開発報告においては世界の貧困人口を一人当たり所得370ドル以下として約11億1600万人、途上国人口の33パーセントに上るとし、一人当たり所得275ドル以下を極度の貧困人口として6億3300万人であるとしている。(各国での生活水準を考慮して所得貧困線を換算している)しかし、この方法で決める貧困はGNPなどのマクロな視点を基準としており実質的な生活の度合いを表しているとは必ずしもいいがたい。また、その社会によっては女性と男性、地域によって大きく条件が異なるために問題はより一層複雑な状況である。(西川2000:242)そういった意味では、数値上は貧困であるとされていても飢えておらず、ゆったりとした農村生活を送っている人たちもいる。ネパールとブータンを例にとってみる。この二つの国は一人当たり所得が同じ程度であるのだが、ネパールでは社会的、環境的貧困の厳しさが実感されるのに対し、ブータンではゆったりとした暮らしぶりであるという。(西川2000:241)このように、今あげただけでも様々な問題が浮上し、簡単に貧困ということを定義したり数値化してしまうことは難しいといえる。マクロな視点での貧困を考えることに限界があるのかもしれない。こうしてみると貧困という問題も開発と同様に、国レベルのマクロな視点からミクロな視点への変化が必要となってきた。次に、ある新聞の記事を紹介したい。私がとても驚いたとともに開発や援助とはいったい何なのかを考えさせられた記事である。
『国際的な医療援助団体「国境なき医師団」が、大阪の野宿者の医療支援に乗り出し、自動車を利用した無料の医療診療を近く始める。日本での本格的な医療プロジェクトは初めて。「貧困と社会的な排除によって、命にかかわる病状になるまで医療を受けられない人が大勢いる。先進国とはいえ、人道的に大きな問題で見過ごせない」という。・・・当初は都島区都島本通一の事務所に無料診療所を開く予定だったが、地元住民から「野宿者が集まってきたら困る」などと強硬な反対があり、移動診療の形でスタートすることにした。大阪市内の野宿者は昨年の調査で約六千六百人。路上死も年間二百人前後にのぼる。西成区にある大阪社会医療センターでは事実上の無料診療が可能だが、市内北部からは遠く、重症になってから救急車で入院する人が多い。・・・』(2004.10.4読売新聞)
国境なき医師団は紛争や災害、貧困に苦しむ人々のために医師・看護士を派遣する独立・中立の立場の団体である。私は国境なき医師団が災害でないのに日本で活動を始めたことに驚いた。今までは先進国の人々が貧困撲滅や経済発展という名目のもとに、いわゆる発展途上国の人々に対し開発や援助を行ってきた。少し前の時代までは近代化論のもとで、至上の先進国のようになるために発展途上国に開発計画を持ち込んでいた。それが、今回の国境なき医師団では先進国であるはずの日本に援助の手が差し伸べられているのである。莫大な資金を発展途上国の開発・援助に割いているこの日本にである。
私は今までの開発の歴史のなかで、経済を軸とした主に国単位のトップダウン方式のマクロな開発から、BHN・HDI・人間開発のように住民参加や個人を重視するミクロな開発に移行していく様子を述べてきた。これを踏まえると、確かに大阪の野宿者に国境なき医師団が動いたことは決して不思議ではなくなってくる。日本という国全体が豊かであるかどうかが重要ではないのである。開発がミクロになってくるに従って、開発を行う側が先進国で受ける側が発展途上国だという構図も変わってくることを、この記事は語っている。そうすると、今までの開発・援助というものが非常に滑稽で矛盾に満ちたものであることが見えてくる。先進国は貧困撲滅を掲げ、身近な貧困を省みることなく、わざわざ遠くまで行って開発・援助という行為を行ってくるのである。
こうして考えると開発というものはただのイメージや自己満足のために行われているのではないかという疑問が生じてくる。私は今、開発がイメージで行われていると言ったがこれはロバートソンの考えを踏まえたものである。足立が言うところによれば、ロバートソンは開発計画を現実ではなく望むべき未来の複雑なメタファーであり、「象徴体系」であるとしている。現実的な事柄というよりは、ばら色の未来のイメージを象徴的に表現し、開発計画に対する国民の支持を得ようとする。土着の価値観や宗教が開発計画の目的と矛盾するときはさまざまなテクニックや象徴操作を行うという。(足立1995:130)
以上をまとめると、貧困やそれを克服するための開発・援助というものはイメージである部分が少なからず存在するが、以前に比べマクロからミクロへと変化している。国全体としてではなく地域・社会層ごとに、また地域のなかでも家庭ごとに、家庭の中でも男女ごとに、男女の中でも役割ごとに、といったように限りなく細分化されていく。そうして最終的には「個人」というところにたどり着く。「個人」に焦点を当てることは人間開発論のように、現在の国連やその他多くの機関で注目されていることである。貧困の定義は何なのかは複雑ゆえに別として、国や地域などではなく「個人」が貧困であるかどうかが大きな問題となってきているのである。
第三章
開発の可能性
開発についての考え方は様々なものがあるが、開発の可能性として第三章ではいくつか紹介していきたい。
開発を進めていく上で貧富の差というものが問題となってくるのだが、豊かであるとか貧しいとかは一体どういうことなのであろうか。金銭的、物質的に満たされていることを豊かであると捉えることもできるが、これとは異なる見解を持つ人物としてガンジーを挙げたい。ガンジー、その人は有名すぎるほど有名な人である。インドの独立を求める際に彼はアヒンサー(non violence=非暴力)を唱えた。彼は単なる独立運動、つまりイギリスからインドが国家として独立することを念頭に置いていたわけではない。彼の本当の目的は社会を根底から変えていくことであった。(西川2000:211)
イギリスから植民地支配を受けていたインドは、もともと綿の生産が盛んで高度な綿織物の技術を持っていた。そして、その高品質の綿織物はイギリスを含め多くの国々にも輸出されていた。一方のイギリスは緯度が高いため綿は生産できず、国内で生産される繊維は羊毛であった。しかし、当時の世界では木綿のニーズが非常に高く、イギリスの羊毛は輸出には向かなかった。そういった背景があったのだが、イギリスで綿の機織の機械が発明されたことで情勢は一変していく。機械は今までの何倍ものスピードで大量生産することを可能にした。イギリスは綿の輸入をインドに頼り、まずイギリス国内市場で売り込んだ。しかしながら、イギリスは小国ゆえにすぐに需要は減ってきた。そこで新たな市場を求めた結果、綿のニーズがあり購買力の豊かなインドがターゲットとなった。しかし、インドにはすでに高度な技術があったために、初めのうちイギリスは苦戦を強いられた。そこでイギリスは武力によってインドを植民地化し、新たな市場を得るとともに安価な原材料の仕入先としたのである。こうして、機械が可能にした大量生産システムは新たな市場と原材料仕入先を求め拡大していった。そして、機械を導入した他のヨーロッパ諸国もイギリスと同様に世界へ乗り出していった。このイギリスの植民地政策はインドの民衆の経済に大打撃を与えた。自分たちが生産する綿はイギリスに持っていかれ、出来上がった製品を買わされる。綿織物の職人は職を失い、失業者が増える一方でイギリスの搾取は続いていく。そうした中、ガンジーが登場するのである。ガンジーはジョン・ラスキンの著書「この最後の者にも」を読んで影響されたと言われているのだが、このラスキンという人物は物の豊かさに代えて人間同士の愛情や信頼関係を深めてそれを通じて人間性を発展させていく生き方を真の豊かさだとする。ガンジーはそこから、イギリスの推し進める「物の豊かさ」から「真の豊かさ」を求めるために行動に移した。ガンジーは自らチャルカという糸車を用いて糸を紡いだ。彼は糸を紡ぐことで世界を破壊へ導くシステムを根底から変えようとした。つまり、どういうことかというとイギリスから始まった機械による大量生産が破壊の原因だと捉え、自らが機会を用いずに糸を紡ぐことでシステムから抜け出そうとしたのである。(田畑1999:176)機械は労働を軽減するというよりも欲望のために用いられ、少数の人間が大多数の人を踏みつけにして栄えているのだという。人間生活の基礎の衣食住のうち「食」の革新である耕作がカルチャー、文明を生んだと言われるように機械による「衣」の革新が現在の資本主義システム世界を生み出したと考えた。そして彼はイギリスによるインド支配についてこう考えていた。「インドの独立はイギリスを追い出すことではありません。インドが惨めな状態にある原因は、近代文明を受け入れたことにあります。自分たちが近代文明から自由になれば、インドも自由になります。スワラージ(自治)は私たちの手の中にあります。」ガンジーは機械による大量生産ではなく必要なものを自分たちの手で作り日々を暮らしていく自立を意味するスワデシ、自己犠牲と精神的博愛の心(アヒンサー)を持って自分を治め、自分を支配することを意味するスワラージの重要性を説いた。そして、自分を治め自分を支配するスワラージの力を行使するためにはスワデシを実践することが不可欠であるとする。(ガンジー1999:42)そうして、イギリスなど西欧諸国のような強いものが弱いものを支配するピラミッド・モデルではなく、スワデシ・スワラージを成し遂げた地域社会が互いを尊重しつつ限りなく水平につながっていくオリンピック・モデルの実現を目指した。ガンジーのこの思想は意志を持って自分たちを変えていくことで、近代文明から解き放たれることを説く内面的な自立運動であるといえる。(西川2000:211)ガンジーの思想は「豊かさ」の視点を変えるとともに、現在の世界のシステムを根底から覆していこうとする新しい実践であった。
次にマルティア・センの開発・豊かさに関する考えを述べていきたい。マルティア・センは1998年にノーベル経済学賞を受賞したインド出身の経済学者である。センは1943年にインドで起こったベンガル飢饉の分析をきっかけとして、従来の経済学の流れとは異質のアプローチを始めた人物である。このベンガル飢饉というものは推定200〜300万の犠牲者を出したといわれる大飢饉であったが、決して食料の生産・供給の不足から起こったものではなかった。センはそこから、この飢饉の分析にあたり「交換エンタイトルメント」という仮説を提唱した。簡単にいうと、交換エンタイトルメントとは、「ある人が生まれたときから備えている様々な資質や能力」を用いた交換を通じて獲得できるものである。例えば、生まれ持った肉体を使い労働をしてその代償(交換)として賃金を得るとかいったことが交換エンタイトルメントに含まれる。そして結論として、このベンガル飢饉は異なる職業間での賃金・食料品価格の比率の変更によって交換エンタイトルメントが変動して適切な量の食料を確保できなくなったことが要因だとした。その後、センは考えをさらに発展させ、「ある人が権利として持っている量」「ある個人が支配することのできる一連の選択的な財の集まり」を「エンタイトルメント」という概念として定義した。(セン2000:40)このエンタイトルメントというものは、人間の基本活動を決める非常に重要なものである。センは、人々がそれぞれのエンタイトルメント情況の中で自らの基本的活動の選択を通じて、さまざまな可能な生の間に選択を行っていくことをケーパビリティ(capability)と呼んだ。キャパシティ(capacity)という単語が、あるものを生み出す力を指すのに対し、ケーパビリティは人間のさまざまな活動や状態を実現していく自由や能力を意味しており、capacityプラスabilityだという。そうして、人間が基本的活動の組み合わせ間での選択を行っていくことは、一つには自己のよい生活、他方ではよい生活を追及していく自由を実現していく力にほかならないと論を展開した。(西川2000:292)これまでの経済学がマクロなGNP経済成長や近代化などといった狭い見方をしていたのに対して、センはそれを社会の構成員が享受する自由を拡大する一つの手段にすぎないとしたところに彼の独自性が存在するのである。(セン2000:3)このセンのように考えると人々が自分の価値観に沿ったよい生活を送るということは、国や社会による財やサービスの利用を含め人々が自分の望む基本活動の組み合わせを選択できる状況にあるということである。幸福というものは主観的なものであり人によって様々であるので、幸福なよい生活というものを他人が勝手に決めることはできない。しかし、だからこそ自分の価値観に沿った良い生活を選択していくことのできる状況を作り出していかねばならないのではないだろうか。人間の基本的活動の達成や活動範囲の拡大を開発と考えるならば、開発/発展とは人間選択の自由の拡大を指すこととなる。(西川2000:305)センのこのケーパビィティ論は国連開発計画(UNDP)にも大きく影響を与えた。UNDPは1990年に「人間開発報告」というものを始めたのだが、人間開発について次のように述べている。「開発とは、GNP経済成長や所得や富、また財を生産したり資本を蓄積したりする以上のことを意味している。ある人が所得を得ていることは、彼の人生の選択の一つであるかもしれない。だが、それは人生の生の営みの全体を表現しているとはいえない。人間開発は、人々の選択を拡大する過程である。これら多様な選択の中でもっとも重要なものとしては、永く健康な生活を送ること、教育を受けること、人間らしい生活にふさわしい資源へのアクセス手段をもつこと、がある。さらに、政治的自由、人権の保障、自己尊厳も重要な選択である」(西川2000:290)このような考えのもとに、センとパキスタンの経済学者ハクらによって前章で少し述べた人間開発指標(HDI)が作られてきたのである。HDIは保健、教育、一人当たり実質所得に関する指標からなっている。HDIはGDPだけでは計れない領域を持つ指標であるが、一人当たり実質所得をGDPを基盤とするためにマクロであるという点は否めない。(西川2000:295)ちなみに、この指数を用いると日本の人間開発指数は0.929で世界三位であるが、政治的自由度指数限定で見ると指数82.01で29位であるという。また、国連によって定められた世界最貧国(LDC)の中に極貧というイメージとは結びつかないおおらかな南太平洋のサモアが含まれているという。(青柳2000:70)実際の指標作りの段階になると確かに問題点は出てくるものの、センは開発や発展にあたって、単なる物質的なものの充足などではなく人間の選択の拡大が重要であるとしたところに新しさがあった。
上記では新しい開発の考えとしてセンの人間開発を紹介したわけであるが、ここで二点解決しておきたい問題がある。一つ目は、指標それ自体の価値観の問題である。どういうことかというと指標の中には寿命が含まれているが人間の幸福は寿命の長短と関係ないという見方も存在する。(青柳2000:72)人間開発指標は確かに以前よりも多くの要素を重視するようになり柔軟となったが、指標を決める際にどうしても作り手の価値観に強く影響されたものとなってしまうという問題である。この点に関して私はこう考えている。人は誰しも自分の価値観で物事を判断する。それは仕方のないことなので、重要なことはできるだけ対話を用いて障害を減らしていくことである。ベストではないがベターを目指していくのである。次に二つ目の問題点である。それは、選択拡大の際にどこまでを許容できるかである。人々の望むことを可能にしていくと、そのうちにとんでもない事態になるかもしれない。例えば、伝染性の強い病気の患者が社会に出て活躍したいというかもしれない。社会がこの患者を隔離して他の人々の安全を確保しようとすることは、この患者にとっては自由の制約を受けていることに他ならない。この状況のとき、果たしてこの患者の望みを叶えることができるだろうか。私はこの問題に一点目と同じ解答を出したい。対話による解決である。選択の拡大というのは、何も望みを一方的に受け入れることではないと考えている。要求する側とされる側が話し合い打開策を探っていくことが大事なのだ。今までの植民地でも、先進国からのトップダウン方式の開発でも、相手を無視した一方的なやり方では誤解や不満、その他様々な失敗を招きやすい。話し合いが大切なのだ。受け入れるか否か、あるいはどういう打開策にするかは話し合ってから決めるという姿勢を持つことが望ましいと私は考える。
これまでは、よりよい状態にするために物質的に変化をさせたり、社会的な制約を取り除いたり(または選択肢を増やしたり)して具体的に行動に移す方法を考えてきた。しかし、ここにまたそれとは異なる考えがあることを紹介したい。ミシェル・ド・セルトーの「日常的実践としての抵抗」としての戦術について考察である。そこでは戦略と戦術が重要概念として出てくるのだが、まず戦略と戦術の違いについて触れておきたい。セルトーは戦略を意志と権力の主体が周囲から独立してはじめて可能となるような力関係の計算や操作であるとしてそこに合理性を見出した。戦略は自分に固有のものとして境界線をひけるような一定の場所を前提にしている。もう一方の戦術は、自分に固有のものがあるわけではなく、その場かぎりのとっさの計算をはかることである。戦略は「固有のもの」つまり場所が時間に勝っているが、戦術は時間に依存しており、何かうまいものがあればすかさず拾おうと機会を「とらえる」行為であるという。それは合理性に基づいてはおらず臨機応変なものである。(セルトー1987:26)戦略を用いて目的達成を成し遂げることは大きな変化をもたらすが、それには労力も必要だし危険性も伴う。また、実現させたいこと一つ一つに戦略を用いることは途方もなく大変なことである。その点、戦術はそのような大掛かりなものではない。大幅な根本的な解決は望めなくとも、それなりにやり過ごしていけるのである。具体例がないと分かりにくいので、植民地時代の黒人強制労働者を例とする。植民地時代の強制労働させられていた黒人たちは白人の雇い主からすれば怠け者が多かった。支配者から見れば、怠ける馬鹿な黒人と映ったかもしれないが、その行動は彼ら黒人たちの戦術だったと捉えることができる。戦略として解放という目的のための組織立った一揆や暴動などをしなくとも、急に病気になってみたり適当にだらけたりしてその場をやり過ごしていたと考えられる。このことは、単に植民地時代でははく現在にも通用すると私は思う。人間開発のように選択肢を拡大していくことはある程度は必要であるが、限界はあると考えられる。いくら対話をして打開策を探っても、決着がつかないこともあるだろう。そういったときに個々人が戦術的に臨機応変に対応し、やり過ごすといった考えをもっていれば問題は深刻化しないのではないだろうか。しかし、この考え方にも問題点は存在する。それは、この考えをわざわざ説明しなくとも、恐らく多くの人がすでに日常行っているということである。この考えはそういった意味で、もしかしたら無力で言うに足らないことかもしれない。また、臨機応変の戦術は支配構造などを解決しないだけでなく、それを強化しているという指摘もある。しかし、この指摘は戦術を合理性に欠ける悪循環の要因だと捉えられかねず、戦術の持つ効用を断罪してしまうことにつながってしまうという。(小田2001)このように問題は残るものの、戦略として支配構造や不満な状況を変えるのではなく戦術として自分の行動を変えていくという意味において、開発における戦略から戦術へという発想の転換を提起していることは注目に値するであろう。
以上のように第三章では、これからの開発についてのいくつかの可能性について述べてきた。一つ目は、文明を根底から覆し別の路線を進もうとしたガンジーの思想である。アヒンサーの理念のもとで自分の内面を変化させることで、近代文明の支配から解き放たれスワデシ・スワラージの水平的社会を作っていこうとしたガンジーである。ガンジーの思想は近代文明とは別の道を提案するという点において、開発の必要性やあり方を改めて考える機会を与えている。二つ目はセンの人間開発である。彼は近代化論のように経済開発のみを重視するのでなく、人間選択の自由の拡大を目指す人間開発を提唱した。最後に、「日常的実践としての抵抗」である戦術を紹介したが、戦術は戦略と違って具体的にどうこうするということではないので、これは大きな力となりこれからの開発を突き動かしてゆくことは困難であろう。ただ、何でもかんでも戦略的に変えていこうとするだけでなく臨機応変に対応するという戦術的方法もあるのだという視点を持ち込んだことは評価したい。このように、開発をめぐっては様々な考えが混在するというのが現状のようである。私は、ここまでの流れを通じて、開発には対話をもつ姿勢が必要だと思うに至った。それとともにガンジーの思想をヒントにして、今までの世界資本主義というある一時代の産物が目指してきたような物質的豊かさが多様な人々の豊かさの理念と適合しているかどうか考え直してみることと、センによる人間開発のように多様な人間の可能性を引き出すことなどを考慮して、単一的でなく多様な人間の生き方を認めていく方向性が必要ではないのかと考えるに至った。
第四章 対話と選択肢拡大
第一章ではこれまで多く行われてきた近代化論に則った開発を見てきた。西欧諸国の高度消費社会を至上のものとするために、経済面を重視して行われてきた。開発の際には、極めてトップダウン方式であるとともに、発展阻害要因だと考えられた被開発地の文化や伝統は取り払われるべきだとされてきた。しかしながら、このような開発は結果として貧富の差拡大や環境汚染など様々な問題を生み出すこととなってしまった。従属論や世界システム論では開発によって発展できない国々が存在するのは先進諸国による搾取の構造が要因であるとした。資本主義システムでは搾取する側と搾取される側があり、先進諸国は周辺地域が存在するゆえに先進諸国でいられるのであるから、すべての国が先進諸国になることはないと説明した。
第二章では、近代化論に代わって登場してきたリベラルな開発論を紹介してきた。単に経済面を追及するのではなく、その他の要素を扱う社会開発の登場である。初期の段階では社会開発はインフラ整備を中心としたが、次第に健康や教育、さらには人権といった人間の生活に関わる多くのことに着眼し始めた。また、それと同時に今までのトップダウン方式の反省から住民参加の実施など開発の担い手も徐々に多様になり始めた。このように、開発の目指すものが単に国単位の経済発展から、人間の社会生活を扱うようになるにつれて開発の担い手も、また開発の受け手もミクロなものへと変化してきた。このように開発がミクロになってくるに伴って、先進国内部にも存在する貧富の差や差別問題が浮き彫りになってきた。開発が先進国から発展途上国へもたらされるという構図は薄れ、開発の対象が先進諸国にまで及ぶようになった。その例として大阪の野宿者に国境なき医師団が派遣されたことを紹介した。開発というものが国単位から地域単位へといったようにミクロ化が進み、徐々に個人を重視する形になりつつある様子を述べた。
第三章はこれからの開発の可能性ということで、マハトマ・ガンジーの思想、マルティア・センの人間開発論、日常的実践としての抵抗としての戦術を取り上げた。ガンジーは物欲にとらわれない精神を持つことにより得られるもう一つの豊かさを説き、資本主義体制から抜け出して自治を成し遂げた水平な社会がつながっていく世界を構想した。開発は世界資本主義の中から生まれてきた。それゆえ、開発が目指すものはそのシステムに深く影響されたものとなってしまう。しかし、世界のシステムそれ自体を覆そうとするガンジーのこの思想は開発のあり方や、開発それ自体の存在意義すら疑問視する機会を与えるという意味において開発を語るにあたって重要である。マルティア・センは、人間が自分の望む選択肢を経て自分の価値観に沿った基本生活を作り上げていける環境を目指す人間開発論を提唱した。国連も、センの意見を取り入れ人間の選択肢を拡大していく開発を重視している。その実践の一つとして女性の能動的な力を認め、政治や経済活動への参加を促したりなどしている。(セン2000:231)「日常的実践としての抵抗」である戦術では、戦略から臨機応変な戦術への発想転換について考察した。
以上が、私が取り上げた開発の可能性のおおまかな流れである。一章、二章、三章を受けて私が開発の際に求められると思うのは、対話である。対話というものが、今までどう扱われてきたのかという流れをここで述べてみたい。
近代化論の開発においては開発する側と開発される側との対話というものは基本的に存在しなかった。なぜならば、西欧の価値観や近代化論は全世界に普遍的なものであり、絶対に正しいからである。そして西欧の価値基準によって理解しがたいことは野蛮であるとみなされた。このような西欧を中心とする普遍主義を持つ人々は他者との対話を必要としない。このような状況を受けて文化人類学でも盛んに言われてきた文化相対主義が出てきた。文化相対主義では、文化には優劣はなく自分の文化だけが絶対的に正しいということもない。このように文化相対主義は普遍主義への批判として登場したのである。しかしながら、この文化相対主義は次第に違う使われ方をしだした。それは、「差異への権利」としての文化相対主義である。先住民や社会で少数派の人々が「私たちはあなたたちとは違う文化をもっている。だからあなたたちの干渉は受けないし自分たちの権利を求める」と言い始めたのである。文化相対主義の立場を利用した対話の拒否である。この第二の文化相対主義の使われ方は人間の共通性を分断してそれぞれの固有文化に人間を閉じ込め、異文化間の相互理解を不可能だと決めつけるものだと批判されるようになった。しかし、文化相対主義は自文化の理念を絶対的で普遍的だとする自文化中心主義的普遍主義への批判として登場したのであり、差異への固執や他者との対話の拒否を擁護したわけではない。また、この第二の文化相対主義の使われ方は他者との対話を拒否し自文化中心主義に陥っているという点において、今まで批判されてきた普遍主義と同じ特徴を持ってしまっている。(小田1995:29)普遍主義も第二の文化相対主義も、両者には共に自分自身の相対化というものが欠けているのだ。文化相対主義の主張する「絶対的なものなどない」ということは他者との理解が不可能だということではない。他者を前にして自文化による判断を一時停止し、自己を相対化することで他者理解に向けた対話の足場を築こうとすることである。文化相対主義は普遍的なものを追求するのではなく、そのつど自己の相対化と対話の足場を必要とする。そもそも普遍主義のいうところの普遍的なものとは他者の存在を契機に相対化の中で作り上げてこられたわけであり、その普遍性に合わない他者との対話を拒否することは自己矛盾すらおこしてしまっている。(浜本1996)
近代化論での開発のようなトップダウン方式での対話の欠如は明らかだが、どの開発論で実施していくにしても対話は重要である。しかしながら、ここで注意したいことは対話は一方的に意見を取り入れろと要求することとは異なるということである。もしかしたら、結果的に要求は通らないかもしれない。しかし、互いに条件を出し合ったり譲歩したりして打開できる可能性は大いにある。ベストではないかもしれないが、ベターを目指すことは価値のあることだと思う。対話を持つ姿勢が大事だと言っておきたい。
ただ、この対話というものにも果たして誰と誰の対話なのかという問題がある。開発者と被開発者の対話だと言ってしまえば簡単だが、開発がミクロへと変化するに従って個人を重視する形になってくる。例えば国単位から地域単位へと受け手が変化しても、対話は地域の代表と開発者にもたらされるだろう。地域の代表は、以前の国単位に比べればミクロだとも言えるが地域の人々も一枚岩ではない。対話するには規模が大きすぎて、すり抜けてしまう意見も出てくるだろう。かといって開発者と地域住民すべての人と対話をするには途方もない時間を要する。仮に全ての地域住民と対話しても、多くの意見を集約するには時間がかかるし、期限がせまり中途半端な意見を提出しなければいけなくなることもあるだろう。また、意見の集約というのは、意見が多ければ多いほど切り捨てなければいけないことが多くなる。多くの人が対話というものの重要性を認識していても、いかにして対話を持つのかという問題になると途端に問題は複雑になってくる。一個人が他の一個人の何かを合意のもとに決定して変化させることは単純だが、一個人(もしかしたら一団体)が一枚岩ではない多くの人の何かをまとめて一度に決定させようとすることに問題があるのかもしれない。ある人は合意しているが、ある人は合意していないという状況が生まれてくる。このようにして考えていって私が思うには、対話の規模をできるだけ小さくしお互いに顔が見える状況で行うということである。たとえ二人の人が集まったとしても意見が食い違うかもしれないのに、顔が見えないくらい規模が大きくなると、意見の集約がますます困難になってくる。すり抜ける意見も多くなってしまう。それゆえ、抽象的になってしまうが対話は顔が見えるくらいの、できるだけ小さい規模で行うことが望まれる。根本的解決にはなっていないが、ベターを目指すことはできる。現在はまだまだ改良の余地があるであろうし、もしかしたら完璧だと言えるものは存在できないのかもしれない。しかし、繰り返し述べるが、ベターを追求する姿勢が重要なのである。
このように開発について対話が大切だと論を展開してきたわけであるが、対話を通じて出来るだけ選択肢の豊富な社会を目指し開発を進めていくべきだと思っている。つまり、マルティア・センの人間開発論の支持である。人間開発指標は寿命や教育を基準にするなど指標作成者の個人的な価値観のもとに作られているという問題もあるが、私はそれよりも人間の可能性を十分に発揮させることのできる環境を作り出していくという考えを評価している。私の解釈としては、人間開発とは選択肢をより拡大することで柔軟な生き方のできる社会を目指す開発であると認識している。選択肢が限られていたり、もしくはなかった場合に、我慢できることも多く存在するが中には行き詰まり過剰なストレスを抱え込んでしまう状況が今日では存在する。
例えば、会社をリストラされたり、借金苦を理由に自殺する人が増加しているという社会現象が日本で起きている。自殺の理由は単純ではないであろうが、一つには「もう死ぬしかない」という心理状況に陥ることがあげられる。リストラされた人の例で言えば、リストラされた人に対して今までの経験を考慮した活躍できる職場の受け皿が確保されていたり、リストラされても他の仕事を見つけて今までとは違う人生を歩みやすい環境であったならば死ぬ選択を選ぶ人は減るのではないだろうか。日本はどうも年齢やその他様々な要因からやり直しのききにくい面があるように思われる。自殺が悪いのかどうかもわからないと言われるかもしれないが、死ぬことは実質上は社会から消えてしまうことなので、少なくとも社会生活のあり方を論議する立場からは好ましいとは言えないであろう。そういった観点から見ると、日本は柔軟性が乏しく選択肢の少ない国であると見ることもできる。
私はこれまで、開発とは人間の選択肢を拡大していくことだと認識していることを述べてきた。しかしながら、時にそれは当事者以外の人々にとっては奇妙で受け入れがたく無駄なものに思われることがあるかもしれない。例えば選択肢の拡大として同姓婚を求める人々がいるとしよう。まず、それは倫理的に受け入れがたいとする人もいるだろうし、わざわざ婚姻ということにこだわらなくてもいいのではないのかという人もいることだろう。しかし、周りからは無駄でいらないと思われる選択肢であっても、当事者にとって選択肢が与えられていることは柔軟に生きるためには重要であるのだ。ここに、一見すると奇妙で無駄だと捉えられかねない制度が実は選択肢拡大ということに関して見たときに大きな意味を持っていることの例として、一つキプシギスの女性婚について紹介したい。
キプシギスはアフリカのケニア西南に住む牛牧民なのだが、ここには女性婚という風習が存在する。この地域の婚姻形態は老人政治や一夫多妻の複婚を特徴としている。女性婚といえば、一見するとレズビアンか何かだと思われるかもしれない。しかし、このキプシギスではそういった理由からではなく、ある特殊な場合においてのみ存在する。キプシギスは一夫多妻だが、それぞれの妻が同じ家に住んでいるわけではない。夫は複数の妻の家を通うという形式をとっている。夫を中心として各妻の家庭が一つの家族となるのだが、各家庭は自立している傾向がある。家産相続の面では一つの家族内の家庭が遺産を等分することになっている。子どもの数で遺産分配が異なることはない。しかし、ある家庭の娘が嫁いだ場合に相手先から婚資として支払われた家畜は排他的にその家庭の息子たち、つまり同母兄弟が自分たちの婚資とする権利を持っている。もしも息子がいなければ、その家庭で婚資がとどまることはない。息子がいなくても娘がいたならば、その娘を嫁に出さずに手元に置いておき、彼女の産んだ息子を跡取りとする方法があるが、実はもうひとつ方法がある。それが女性婚である。複雑になってくるので、元々の夫婦の夫を「古夫」、妻を「古妻」とする。女性婚では古妻は「夫」となり、新しく「妻」を得る。とはいっても、事実上「妻」の性関係は古夫の親戚が請け負う。そして、その結果生まれた息子は女性婚夫婦の跡取り息子となる。このようになると、その家庭には元々いた娘の婚資もとどまるし、「妻」の存在により労働力の手助けも得られ、老後の安心にもなるという。また、女性婚は娘を手元に置いておく方法に比べて古妻の権力が強くなるという利点もある。このように、古妻は女性婚をすることによって経済面・労働面・精神面において得をするのである。また、この女性婚は古妻にとって有利なだけでなく、古妻の新しい「妻」も歓迎するといった側面がある。女性婚の妻になれば、男女の夫婦関係のような厳しい従属関係もなく、気楽であるという理由で好んで女性婚の妻になる人も存在するという。しかしながらこの女性婚は、キリスト教会がそうするように「女性の従属性」の象徴と見なされてきた。女性同士で結婚するということへの抵抗と、女性婚の妻が従属的な地位に押しやられているという観点に基づいて批判されてきた。しかし、この批判は女性婚の利益に着眼されるにしたがって影をひそめ、女性婚は肯定的に捉えられるように変化していった。キプシギスの女性にとって女性婚の妻となることはベストではないものの、女性の正当な選択肢の一つとして認知されつつあるという。(小馬2000:176)
以上がキプシギスの女性婚についてであるのだが、この例は二つのことを提示している。一つはこの章のはじめにも述べた対話の必要性である。女性婚をレズビアンだと認識したり、女性の従属性の象徴だと決めつけたりしたのは、女性婚についてよく知らなかったためである。対話なしに一方的に判断したために、短絡的な批判につながったのだ。対話の結果、それでも批判するというのならばともかくも、単純な理解不足で齟齬が生じることは実に避けたいことである。二つ目は、選択肢の拡大による柔軟な生き方についてである。女性婚というものを選択できることにより、自分の望む生き方に近づくことが可能となるのである。
最後にもう一度結論として、これまでを通じ繰り返し述べておきたい。まず、開発には対話を持つということである。キプシギスの女性婚批判でも見られたような誤解や齟齬は、対話の欠如によって生じた。このように、相互理解のためにも対話は必要であるが、実際の開発の際に開発をする側とされる側の人々の意見・要求のすりあわせにも対話は欠かせない。近代化論に基づいたトップダウン方式では開発される側の意見・要求が無視されてきた。その反省は当然だろう。しかし、だからといって開発される側の意見・要求を鵜呑みにすることはできない。やはり、相互に対話を通じ条件を出し合ったり譲歩したりして折り合いのつくところを見つけていかなければならない。どちらが良いか悪いか、何が正しく何が悪いのかなどということは文化相対主義の立場からも存在しないといっても過言ではない。しかし、だからこそ対話を通じて相互理解し、解決策を考え出していかなければならない。そして、この対話を重視する姿勢に基づいて人間の選択肢を拡大していく開発を進めていくべきだと思っている。選択肢を拡大することで個人の価値観に沿った生き方に近づくことができる環境を作り出していく開発である。この意見に対して、選択肢を拡大しすぎると秩序が保てなくなるという人がいるかもしれない。また、ある選択肢を拡大することによって不利益を被ることになるという人もいるかもしれない。先に取り上げたキプシギスの女性婚選択ならば他の誰かの不利益になることもないだろうが、極端な例で言えば殺人の権利を選択肢として認めてしまうことは殺される側にとっては到底認められないことであろう。しかし、先ほども述べたが開発には対話が必要なのである。選択肢を拡大するといっても、相手の要求を鵜呑みにすることではない。例えば、キプシギスの女性婚のように例外的な形である条件のもとで選択できるといったようなことを考えていけばよいのだ。そうして、ある意味で抜け道のような形で選択肢を拡大していき、人生の可能性を拡大するとともに制限されることによる不満やストレスを軽減していくことが望ましいのではないかと思っている。以上が、私が開発というものに対して考えるところである。今後の開発がどのようになっていくかはわからないが、ベターを追求していく姿勢を持ち続けていってほしいと願っている。
参考文献
西川潤(2000)「人間のための経済学」岩波書店
W.W.ロストウ(1982)「大転換の時代」ダイヤモンド社
足立明(1995)「現代人類学を学ぶ人のために」世界思想社
A.G.フランク(1980)「従属論蓄積と低開発」岩波現代選書
I.ウォーラーステイン(1987)「資本主義経済」名古屋大学出版会
NGO活動教育センター編(2002)「国際協力の地平」昭和堂書店
山内太郎・大塚柳太郎「基本的ヒューマンニーズ論」
http://future.humeco.m.u.-tokyo.ac.jp/F-BHN.htm
読売新聞(2004.10.4)
田畑健(1999)「ガンジー自立の思想」地湧社
アマルティア・セン(2000)「自由と経済開発」日本経済新聞社
ミシェル・ド・セルトー(1987)「日常的実践のポイエティーク」国文社
青柳まちこ(2000)「幸福のための開発」,青柳まちこ編「開発の文化人類学」第4章,古今書院
小馬徹(2000)「キプシギスの女性自助組合運動と女性婚」,青柳まちこ編「開発の文化人類学」古今書院
小田亮(1995)「民族という物語」,合田濤/大塚和夫編「民族誌の現在」弘文堂
小田亮(2001)「生活世界の植民地化に抗するために」成城大学大学院文化研究科
浜本満(1996)「差異のとらえかた」,「思想化される周辺世界」岩波講座文化人類学第12巻