伝統文化の継承と観光 ―沖縄県竹富島の種子取祭を事例として― |
0446522c |
鎌田 友香 |
異文化コミュニケーション論 |
(指導教員)吉岡 政徳 教授 |
平成20年1月10日(木)提出
伝統文化の継承と観光―沖縄県竹富島の種子取祭を事例として―
目次
T、はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
U、竹富島の伝統文化
U-1、竹富島とその観光・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
U-2、種子取祭の概要・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
U-3、種子取祭における外部への対応・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14
種子取祭写真・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
竹富島地図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19
集落内地図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
V、伝統文化の継承と観光
V-1、種子取祭の継承・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21
V-2、種子取祭に見る島民としての意識・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23
V-3、種子取祭と観光との関わり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・25
W、おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29
脚注・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30
引用文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・32
T、はじめに、
現在は人やモノ、情報が世界中を行き来する時代である。そして、観光がこの流れに大きく関わっていることは確実であるだろう。人々は世界中の観光地に足を運び、また、多くの国や地域が観光を通した地域発展を目指し、世界中のあらゆる場所の観光が可能になっている。これらの観光地は、文化を異にする人々が出会う場所であり、様々な文化が交わる場所である。観光地というのは文化が変化し、新たな文化が生成される場所であるのだ。そのため、観光をする人々にとっても地域にとっても、ある地域に1つのまとまった文化が存在するという考えは通用しなくなる。
それでは、異なる文化が入り混じり、変化が余儀なくされている観光地において、観光客を迎えるホストの人々はどのように対応しているのだろうか。太田によると、観光は単なる文化変容の場ではなく、ホスト側が自己のアイデンティティをネゴシエートし構築する問題として観光を捉えている[太田1998:71]。現地の人々は自らの文化を発信して自己表現の場として観光を利用することでアイデンティティを主張し、大きな社会の中で地域として生きていく道を模索しているのである。このような中で地元民によってしばしば主張されるのが「伝統文化」である。
観光において伝統文化が強調されることは珍しいことではない。観光を通して自らのアイデンティティを主張する場合でも、単なる商業活動が目的であっても、地域社会は観光客に観光の目的地として選んでもらわなければならず、その観光地に何か観光客の目を引くものがなければならない。そこで地域社会における伝統文化が持ち出される。地域社会は自らの伝統文化を観光客に提示することで経済的な利益を得たり、社会の中での自分たちの地位を確立しようとしたりする。しかし、それらの伝統文化は観光のために創られた偽物であるといった批判や、観光化したためにそれまでの純粋な文化が失われたという批判がなされることもある[山下1999:228]。これに関して山下は、今日の民族文化や伝統文化を論じる際に私たちが採用しなければならないのは、文化動態論と結びついた「生成の語り」である、と述べている[山下1999:221]。文化は常に流動しており、絶えず創造の過程にあるのであって、伝統文化というのは近代との関わりあいの中で出来上がるものなのである[1]。
それでは、観光の現場では伝統文化と観光がどのように関わりあっているのか、また、そこにはどのような問題があるのだろうか。
中村はニューカレドニアの先住民の伝統的家屋であるカーズと観光の関わりについて、先住民がカーズという伝統文化を基盤にして当該文化の文脈から観光資源となりうる要素を切り取り、ゲスト用に仕立てられた文化が創出され観光客に提示されている、と述べている。観光化するにあたって生じるいくつかの問題を先住民たちがそれぞれの形で克服しようとする中で、伝統文化が新たに観光文化[2]へと変遷する過程に注目している[中村2003]。
また、川森は岩手県遠野を事例として、中央との力関係の中での地方の生活者の実践の様相を考察している。そこでは、外部から強力な「ふるさとイメージ」を与えられた地域社会がそれらの外部イメージを自分たちの伝統として観光に活かすことで、生活基盤につながる形のものに作り変え、そして現代社会の中で観光を通して自分の立脚点を確保していく道筋を作り出している、と述べられている。自分の生活を意味づけるために、観光を通して自分の生活を拠点にして主導権を握った形で文化を取捨選択していく地方の生活者を描いている[川森1996:174]。
白川はヴァヌアツ南部のペンテコストのナゴル儀礼と観光について述べている。ナゴル儀礼とはバンジージャンプの原型として紹介される儀礼で、男性が足に蔓性植物を結び付けてやぐらの上からダイブするというものである。その伝統的儀礼が観光の対象となることによって商品化していっており、その中で、この儀礼に関わりを持つ人々や担い手たちの間で儀礼をめぐる葛藤が生じていることを述べている。それは儀礼の保有に関する葛藤である。ここでは、観光の対象となる文化事象と人々の関係を、儀礼の解釈や表象からではなく、保有の観点から捉えている[白川2003]
観光化が進み、多様な文化を持つ人々が接触する観光の現場では、多様な文化が入り混じって変化している。そして、観光の対象となる文化を担う現地の人々は、それらの変化に直接さらされており、それに向き合っていかなければならない。上記の3つの例では、伝統文化が観光の文脈におかれることによって、それぞれの観光地で地域社会の人々が自らの伝統文化を捉えなおし、それぞれのやり方で伝統文化を現代の生活の中に位置づけている様子が伺える。伝統文化と観光との関わりは観光地によって多種多様である。そこで、ここでは、沖縄県の竹富島を事例にして、竹富島で伝統文化とされている種子取祭と観光の関係を考えたい。地域社会の伝統が観光と深く結びついていく中で、人々がそれをどのように受け止めて向き合っているのかをみていきたい。
U、竹富島の伝統文化
U-1、竹富島とその観光
竹富島は、沖縄県の最南端にある八重山諸島に位置している。八重山諸島は石垣島を中心としてその他のいくつかの離島からなる地域であり、政治・経済の中心である石垣島、東洋のガラパゴスと称される西表島、牛の放牧が盛んな黒島、多数の水田を持つ小浜島、日本最南端でサトウキビの栽培が盛んな波照間島、日本最西端で海底遺跡のある与那国島など、それぞれ異なる自然環境や文化を持っている。
その中で、竹富島は人口350人余り、周囲9.2km、面積5.42?の隆起珊瑚礁を地盤とした小さな島であり、島全体が西表国立公園に属し(1972年環境庁指定)、集落部分が町並み保存地区(1987年文化庁指定)となっている。また、島には琉球王朝の尚真王の時代に島出身の西塘が八重山群島を統治した蔵元跡や、神を祀っている数多くの聖地である御嶽など、史跡名所も多い。
集落は島の中心部に玻座間(ハザマ)と中筋(ナカスジ、ナージ)の2つの地区がある。さらに玻座間は東(アイノタ)と西(インノタ)に分けられており、これらの3つの集落は島内の行政を行う区分としてだけでなく、祭事などの伝統行事を行う区分として島民に明確に意識されている。集落内の景観は集落内部の道には白砂が敷きつめられ、家屋はほとんどが近代家屋と対比される赤瓦の屋根と珊瑚石灰岩の石垣を持つ家屋となっており、これらの町並みや美しい自然を目当てに一年中観光客が途切れることなく訪れる。
竹富島の産業は、えび養殖や牛の放牧が行われてはいるが、農業や漁業に従事する者はほとんどおらず、観光客のための民宿・旅館、商店、土産物屋、食堂・喫茶店を営んだり、ビーチなど島内の名所をまわるバスツアーや水牛者に乗って三線の弾き語りを聞きながら集落内部を巡る水牛車観光のツアーガイドの仕事、観光客向けに竹富島の歴史や文化を展示した資料館のスタッフなど、観光業に従事している者がほとんどである。
竹富島に来る観光客は日帰り客と宿泊客に分けられる。日帰り客は主に団体のツアー客で、水牛車観光やバスツアーなどで島内を見学する。宿泊客は徒歩やレンタサイクルを利用して島内やビーチをゆっくりでゆっくりと過ごしたり、島内の観光スポットを見たりする。また、宿泊客の中には一年に何度も島を訪れたり、毎年決まった時期に島を訪れたりするリピーターも多く、そのような人々は島民と顔見知りになり、民宿の簡単な仕事を手伝ったり、島民と一緒に船で漁に出かけたりもしている。
島には石垣島から3つのフェリー会社が一日に何本もの高速船を出しており、石垣島から約10分という交通の便のよさも手伝って、竹富島は今では八重山諸島の中でも一番の観光の島であり、「八重山観光のメッカ」である。竹富島には沖縄の原風景があると言われており、観光客はメディアなどを通して得られた情報によって、竹富島に沖縄っぽさ、これぞ沖縄というイメージ、すなわち「青い海、白い砂浜、赤瓦の町並み」を求めて島を訪れ、今では年間42万人を超える観光客が島に来訪している[
このように竹富島は自他共に認める観光の島である。島民たちは自分たちの島の自然や町並みなどの文化が外部の人間にとって重要であることをよく知っており、それを巧みに利用しているのである。
しかし、竹富島の観光の歴史はそれほど古くはない。島民たちが現在のように外部からの視線を意識して、自らの文化をアピールし始めたのは、1950年代からであると言う。自然と町並みを意識した現在の観光形態に至るまでには、民芸運動家による「伝統文化の発見」、外部資本による大型開発への反対運動、それに続く町並み保存運動など、島民と外部との様々な関わりがある [森田2003:184]。
竹富島の人々が初めて伝統文化を意識化したのは1950年代に外村吉之介などの民芸運動家の訪問がきっかけであった。当時は、竹富島は農業・漁業などをして生活しており、島全体が過疎化の中にあり、島の従来の生活は改善されるべきものであるとされていたと言う。今では伝統的民芸品であるミンサー織も、その当時は島内でも織れる人はほとんどいなかった。そこへ外村などの民芸家たちが島のミンサー織、赤瓦と石垣の家屋、歌や芸能を素晴らしいものであると絶賛し、これらの文化の重要性を本土と竹富島の島民の両方に訴えたことで、竹富島の伝統文化は発見されたのである。島民たちも、この時初めて自分たちの伝統文化に気づいた。これにより、本土の民芸家の援助を得ながら島の婦人たちがミンサー織の復興に尽力し、それが本土や海外からの観光客に買われることで高い経済的利潤を生み出し、その利益を資金として民宿経営に乗り出すこととなる。竹富島の観光はミンサー織の経済的利潤から発展してきたのである[森田1997: 52]。外部の者にその価値を見出され伝統文化を発見したことで、観光産業が主体の現在の生活へと変化するきっかけとなったことを考えると、民芸家による伝統文化の発見は島にとって大きな出来事であったと言える。
一方で、1970年代になると、過疎化や大旱魃、台風の襲来、本土復帰前後の混乱など島全体が不安定な状況の中で、島の土地は外部の企業によって買い上げられていき、竹富島は大型開発の危機に直面することとなる。このような大型開発に対して危機感を抱いた島民たちは、1972年に「竹富島を生かす会」を結成し、伝統文化の重要性を訴えながら開発阻止の運動を繰り広げていく。この運動は結果として実を結び、のちに島の赤瓦の家屋を残していこうという「町並み保存運動」へとつながっていくこととなる [森田1997:45]。そして、1986年には土地を売らない、景観を壊さないことなどを掲げた「竹富島憲章」[3]を制定している。また、1987年には文化庁により「重要伝統的建造物保存地区」の選定を受けている。
赤瓦の家屋の保存は、島内部のことに関して外部からコントロールされることに危機を感じた島民たちが、それを伝統文化の象徴として外部へとアピールしていった結果、その価値が外部でも認められて、さらには多くの観光客をよぶことのできる観光資源となっていった。現在の竹富島の観光の形態は、このような竹富島と外部とのかかわりの中で出来上がっていったのである。外部との関わりの中で自らの文化を捉えなおし、主体的・意識的に操作して客体化することによって伝統文化を創造して、保存していった。そしてそれが観光の文脈でも価値を持つものになっていった。竹富島の赤瓦家屋や景観は人々の解釈した結果にある伝統文化なのである。
U-2、種子取祭の概要
現在の竹富島では、豊年祭や結願祭など数多くの祭礼が行われており、その数は年間で20ほどにもなる。これらの中で最も重要であり盛大に行われるのが、旧暦9、10月の甲申から壬辰の日までの9日間を通して行われる種子取祭である。種子取祭は沖縄本島や八重山諸島のその他の離島でも行われている祭礼であり、地域的な特色はあるものの、基本的には稲の播種に当たって「稲の吉日の播種・成育・収穫」の理想的な過程を唱えたり歌ったりする祭礼で、稲作の予祝儀礼である[狩俣:2003:363]。
竹富島の種子取祭は農業における豊穣を、豊穣をつかさどる神である弥勒神に祈願する祭りであるが、竹富島の種子取祭の特色としては、もともと稲作がほとんど行われておらず粟作が中心だったために種子取祭自体も粟の播種の時期に粟の豊穣を弥勒神に願う儀式であるということ、また、80近くの芸能が奉納されることからもわかるように、農業における豊穣の祈願と芸能とを結びつけ、さらにそれを長年にわたり継承していくことで古い歴史をもった共同体としての意識を支えていく祭りとなっていることである。実際の種子取祭では祭りらしくなるのは9日間のうちの芸能を奉納する7日目(庚寅)と8日目(辛卯)の2日間であり、この2日間には石垣や沖縄本島、日本本土に移住している竹富島の出身者や観光客など様々な人が竹富島に集まって来る。島民・観光客共にこの2日間を種子取祭として呼んでいる者も多い。奉納芸能は基本的に7日目の庚寅の日に玻座間部落の芸能を、8日目の辛卯の日に中筋部落の芸能を、男性は狂言や芝居など、女性は踊りを担当する。また、玻座間部落では、男性の狂言は玻座間部落全体で行うのに対し、女性の踊りは玻座間東と玻座間西に分かれて行っている。以下、竹富島の種子取祭の日程を述べていく。
1日目:甲申(きのえさる)のこの日は種子取祭の初日でトゥルッキと呼ばれる儀式がある日である。これは、かつては島の役員、古老、有志たちが、奉納芸能が行われる世持御嶽に隣接する弥勒奉安殿(弥勒神の仮面が納められている)に集まり、今年も種子取祭に取り掛かることを弥勒神に報告し、祭りの計画、進行、予算に関することや、仕事の分担を決めるための儀式であった。現在は、奉納芸能を演じる人々や有志が、玻座間部落は国吉家、中筋村は生盛家に集まる。国吉家、生盛家はそれぞれ玻座間部落、中筋部落の芸能の統括者であるホンジャーを代々務める家である。ホンジャーとは、村や地域という意味の「フン」と、父という意味の「イイジャー」を足した「フン・イイジャー」からきている。つまり、ホンジャーは村の父という意味である。竹富島のホンジャーの場合は村の支配者・指導者といった権力を持ったものではなく、あくまで種子取祭における芸能の責任者・統括者であり、芸能の神様として君臨する[狩俣:2004][4]。そこで清めの塩と神酒をいただいて種子取祭に奉仕することを誓い、その年の芸能の演者を神前で正式に決定し、「手の誤り、足の誤りのないように演じることができるよう」にと祈願する。正式には、トゥルッキとは国吉家、生盛家で行われる儀式のことと紹介されるが、玻座間部落では、国吉家に集まっていたのは男性で、玻座間東の女性は東会館、玻座間西の女性は西会館でそれぞれ同じ事を行っており、これらの儀式もトゥルッキと呼ばれる。
また、この時に島の公民館長と玻座間部落・中筋部落の主事たちはトゥルッキを行っている場所を順番にまわり、弥勒神へ種子取祭の祈願や芸能の演者たちへ激励の挨拶を行う。尚、奉納芸能の行われる世持御嶽は弥勒神ではなく火の神を祀っている御嶽である。御嶽とは神が祀られている聖地である。種子取祭と火の神の関係については後述する。
2日目〜4日目:乙酉(きのととり)、丙戌(ひのえいぬ)、丁亥(ひのとい)であるこの3日間は奉納芸能の練習を行う日とされている。他には行事はない。現在は、島民たちはほとんどが観光業などにたずさわっているので日中は練習ができないため、午後8時ごろから各自が練習所に集まって奉納芸能の練習をする。奉納芸能の練習に関してだが、この練習は種子取祭の始まる約2ヶ月前から毎日(各集落の集まりがある毎月15日は除く)午後8時頃~11時頃までずっと行われている。種子取祭の2~4日目はこれと同じことをすると言ってよい。練習は玻座間部落の男性(狂言)は国吉家、女性(踊り)は玻座間東が東会館、玻座間西が西会館で、中筋部落の男性は生盛家、女性は羽山会館で行っている。
5日目:戊子(つちのえね)のこの日は、まずは、午前8時頃から玻座間部落・中筋部落が共同で、奉納芸能が行われる世持御嶽にて奉納芸能を行う舞台の設置や、世持御嶽やその周辺の清掃を行う。この作業は「幕舎張り」と呼ばれるもので、世持御嶽にある舞台に、舞台の背景となる大きな紅型の幕を張り、屋根にはもとから組まれている鉄骨にテントをかける。ここで奉納芸能の「舞台の芸能」が行われるのであるが、舞台は北が神を祀ってある御嶽の方向、東と南は島民や観光客などの観客の方向に向いた形で、3方向から見られるような造りになっている。紅型の幕がかけられるのは西側であり、奉納芸能の当日は幕の奥が舞台袖となり、芸能の演者はそこから出たり入ったりすることとなる。
そして、それと並行して神司[5]と公民館の男性役員は揃って玻座間御嶽、世持御嶽、清明御嶽、根原家の順番で、五穀豊穣の願いと種子取祭自体の成功の祈願を行う。その後、神司はその他の六山の御嶽に行って同様の祈願をする。
島全体で行う作業のほかに、各家では種下ろし(たにうるし)と呼ばれる儀式を行う。これは播種儀礼であり、各家の畑で、直径1mほどの円形に土を耕し、そこに粟や麦、黍などの種を蒔く。そして、種を蒔いた部分に悪魔祓いのためにススキの葉の先を結んで作ったサンと呼ばれるもの(火の神の印)を3本たてて、蒔いた種が実を結ぶように願うものである。種子取祭は本来、農業の五穀豊穣を願う祭礼である。そのため、かつてはこの種下ろしの儀式は種子取祭の全日程の中で最も重要であるとされており、各家庭で種下ろしの儀式が行われていた。しかし、現在では農業を行っている者は島内ではほとんどおらず、近年では農業を現在も行っている中筋部落の前本宅でのみ、この行事が行われていた。
また、各家庭で行う行事の中に、飯初(イイヤチ)作りがある。これは粟ともち米を1対5の割合で混ぜて蒸し、そこに小豆を適量加えてヘラで練り混ぜて作る餅のことである。普通の餅のように上から叩いて作らずに練り混ぜて作るのは、上から叩くことは蒔いた種が成長するのを妨げることになる、という理由からである。作られた飯初は長方形の形にし、ハマユウの茎の部分に乗せ、お供え物にしたり家族や観光客に振舞われたりする。
6日目:己丑(つちのとうし)のこの日はンガソージの日である。ンガは大きい、ソージは精進の意味であり、大精進の日である。かつてはこの日は全ての行為について身を慎む日とされ、物音を立てずに1日を過ごし、奉納芸能の練習も人里離れた浜辺などで行っていた。食べる物も味噌や醤油、青野菜などの色のつい物は食さなかった。また、この日の昼にはイイヤチカミの儀式といって、家長の叔母・伯母や姉妹を家に招いて飯初を差し上げて、蒔いた種子の発芽を祈る儀式を行っていた。現在ではこれらの儀式は行われていない。
また、この日は翌日から始まる奉納芸能のリハーサルが夕方頃から行われる。各練習所で練習の総仕上げの意味を込めて練習をする。玻座間東部落・玻座間西部落の女性の踊り、石垣、那覇、東京の郷友会の女性の踊りや男性の狂言など、種子取祭で行われる芸能のうちのいくつかは本番が行われる世持御嶽(V章で後述)の舞台でリハーサルが行われる。男性の公民館役員たちは初日と同様に各練習所を回り、激励の挨拶をする。
夜になると、与那国家において豊穣を司る神である弥勒神の精神を呼び覚ますための、弥勒起こしの儀式が行われる。与那国家の家長や各部落のホンジャーと楽器の演奏者など数人が参加し、太鼓・三線を鳴らして歌を歌い、翌日からの奉納芸能のために、弥勒神を目覚めさせる。この儀式が与那国家で行われているのは、弥勒の面を最初に海岸で拾ってきた大山家から与那国家が弥勒の面を譲り受けて、それを祀って保管してきたからである。
この「弥勒起こし」の儀式に関してだが、この儀式は一般公開されておらず、種子取祭を説明した資料などでは、「弥勒起こし」の儀式とは7日目(奉納芸能初日)の早朝に弥勒奉安殿で行われる、実際に弥勒の仮面を公開する儀式のことである、と説明されており、島民たちの話でも、基本的に「弥勒起こし」と言えば7日目のその儀式のことをそう呼んでいるようである。しかし、この儀式の参加者や関係者は6日目のこの儀式のことを「弥勒起こし」と呼んでいた。
7日目:庚寅(かのえとら)の日で奉納芸能の1日目。主に玻座間部落の芸能を行う。夜には各部落で世乞い(ユークイ)が行われる。(後述)
8日目:辛卯(かのとう)の日で奉納芸能の2日目。主に中筋部落の芸能を行う。(後述)
9日目:壬辰(みずのえたつ)の日で、弥勒奉安殿における種子取祭の祈願、種子取祭の後片付け、収支決算報告が行われる。また、種子取祭のために石垣、那覇、東京からの帰省してきた郷友会の人々との交歓会なども行う。
以上が現在行われている種子取祭の9日間の日程である。
補足であるが、種子取祭には現在は行われていないがかつては10日目と11日目の日程があった。10日目は「タナドゥイヌムン」(種子取物忌み)といって、各家庭の畑で作物に害虫がつかないように祈願する儀式があり、また、「浜下り」といって、神司たちによって浜辺での祈願を行う儀式があった。10日目には青年たちによる相撲大会なども開かれていたという。11日目は「クシユクイ」(腰憩い)の日と言い、安息日であった。[丸山:2004]
種子取祭の9日間の日程のうち、島出身者や観光客などの多くの人が島に来て、最も賑やかで、祭りらしくなるのが7日目と8日目の奉納芸能が行われる2日間である。奉納芸能には、「庭の芸能」と「舞台の芸能」の二種類の芸能がある。「庭」とは世持御嶽の舞台のすぐ南にある広場のような場所で、庭の芸能とはそこで行われる演目のことである。また、舞台の芸能は1日目が玻座間部落、2日目が中筋部落の芸能が中心であるが、庭の芸能では玻座間部落と中筋部落の両方の芸能が行われる。以下、その2日間の詳しい日程を説明する。
7日目・庚寅・奉納芸能の初日
午前5時半頃:世持御嶽において、黄色(粟の色)の衣をまとった5人の神司により種子の発芽を願うバルビルの願いという祈願が行われる。バルビルとは、「割る蒜」であり、蒜が割れるように種子が発芽することを意味する。それと並行して、世持御嶽の東側にある弥勒奉安殿では、与那国家・大山家の当主や公民館長、村の古老などの男性が正装して「弥勒起こし」の儀式が行われる。弥勒奉安殿の扉を開いて弥勒神の面を公開し、種子取祭のために目覚めた弥勒神に対しての祈願をして弥勒神の面を奉安殿の中から取り出す。前日の弥勒起こしでは弥勒神の精神だけを呼び覚ますためのものであり、その時は弥勒の面は公開されない。この日行われる弥勒お越しでは面を公開して人々の前に実際に姿を現すというものである。後述するが、奉納芸能の中に「弥勒」という演目があり、この演目で弥勒の面が使われる。「弥勒」に用いられる道具なども全て弥勒奉安殿の中に安置されているので、弥勒神の面と一緒にそれらも取り出し、舞台裏に移動させる。弥勒起こしを終えた男性たちは、神司に合流し、共にバルビルの願いを行う。
午前6時頃:バルビルの願いを終えると、男性たちは舞台にコの字型に整列して座り、カンタイの儀式を行う。これは「干鯛」という文字が当てられるが、「歓待」の意であろう[狩俣:2003]。一人ひとり順番に海の幸と神酒が配られ、それらを頂いていき、豊穣と健康の祈願をする。
午前8時頃:カンタイの儀式が終わると、中筋部落の責任者である主事である生盛家への「参詣」を行う。これは、神司を先頭にして公民館長などの役員、島の古老たち、有志などが、ドラや太鼓を鳴らしながら行列を作って、一家の繁栄を願うために主事宅を訪問するものである。この時、主事宅までの道のりは「道歌」を歌う。家に到着すると、家の庭を行列のまま回りながら「庭歌」である「巻き歌」、「シキドーヨ(月どう世)」が歌われ、続いてガーリと呼ばれる対面形式の踊りが踊られる。そして、座敷に入り「座敷歌」である「イニガタニ(稲が種子)」、「ニーウリ(根下り)ユンタ」が歌われる。道歌・庭歌・座敷歌とは、参詣と後述のユークイ(世乞い)で歌われる歌で、それぞれ集落内の移動の時に歌われる歌・各家の庭で歌われる歌・座敷に上がってから歌われる歌のことである。
参詣におけるこれらの行動は、1日目の奉納芸能が終了した後に行われる後述の「ユークイ」(世乞い)とほとんど同じものである。しかし、一般の観光客が行列に混じって参加することができるユークイと違い、この参詣では観光客は行列に入って参加することはできず、行列の邪魔をしないように後ろや横から見学ができるのみである。
午前10時半頃:参詣の集団が世持御嶽に戻ってくると、その集団を迎えるための「ンカイ」の儀式が行われる。これは先ほどの参詣と同様に、ユークイの巻き歌を歌ってガーリを行うものである。
その後、「庭の芸能」が始まり、さら「舞台の芸能」へと移っていく。1日目は玻座間部落の芸能を中心に行う。庭の芸能、舞台の芸能については後述する。
午後6時頃:初日の奉納芸能が終わると、御嶽の神前で「イバンカミの儀式」を行う。これは、ユークイに参加する島の有志や観光客がイバン(九年母)の葉を神司からいただき、鉢巻の中にしめこんで、一晩中ユークイをすることを誓う儀式である。イバンの葉は翌日に返還しなければならず、それまでは紛失しないように保持しておかなければならない。
その儀式を終えた後、ユークイ(世乞い)が始まる。ユー=世とは、時代や季節などの時間的な区切りを表すと同時に、実りや豊穣などを表す言葉である。つまり、ユークイとは世を乞うこと、すなわち豊穣・豊年を願うものである。
ユークイは、出身部落に関係なく5人の神司を先頭に行列を作り、ドラと太鼓を鳴らして「道歌」を歌いながら、種子取祭を戊子の日を中心として行うことを決定したとされる根原金殿(ネーレカンドゥ)の子孫宅である根原家へ向かう。根原家の門を入ると、庭の中で円を描くようにぐるぐると回りながら「庭歌」である「巻き歌」と「シキドーヨ」を歌う。そして、同じく庭で行列が半分に別れて対面し、手を上げて前進したり後退したりする「ガーリ」が行われる。続いてその家の繁栄を願って根原家の当主が胴上げされる。その後、座敷に上がって神司の祈願が済むと、清めの塩をいただき、また、神酒(泡盛)とにんにくと蛸の和え物が振舞われる。それが済むと「座敷歌」である「稲が種子アヨー」(イニガタニアヨー)と「根下りユンタ」(ニーウリユンタ)を歌い、根原家のユークイが終わる。その後、中筋部落、玻座間東部落、玻座間西部落の3つの集団に分かれて、根原家と同様のやり方でホンジャー宅や主事宅から順番に各家をまわる。この時、島の人間は自分の所属する部落のユークイに参加するが、観光客は自分の好きな部落でのユークイに参加することができる。
また、ユークイは、かつては全ての家をまわっていたというが、現在は民宿経営などを行っていたり接待の準備の大変さなどの事情から、ユークイを行わない家も多い。
2007年度の中筋部落でのユークイは、翌日の奉納芸能を担当しているということもあり、3件をまわったのみで、日付が変わる前に終了していた。
8日目・辛卯・奉納芸能の2日目
午前5時:各集落でユークイを終えた集団が再び根原家へ集まり、ユークイ止めの儀式を行う。神司により根原家の床の間の香炉への祈願が行われる。その後、世持御嶽へ移動して、イバン返還の儀式を行う。
続いて、前日同様に神司や島の役員・古老らによって御嶽での祈願が行われる。この日の祈願はムイムイヌニガイ(萌え萌えの願い)と呼び、発芽した種子が萌え出ることを祈願する。また、前日同様にカンタイの儀式が行われる。
ムイムイヌニガイと並行して、弥勒神の面が1日目の奉納芸能が終わった後に一旦弥勒奉安殿に戻され、奉安殿の扉を閉じられた状態にされていたのを、再び扉を開けて公開して舞台裏に移動させる。
午前8時頃:前日同様、主事宅への「参詣」を行う。2日目は玻座間部落の主事宅であるウネ家への参詣が行われた。
午前10時頃:参詣の集団が世持御嶽に戻ってくると、前日同様に「ンカイ」が行われる。
その後、「庭の芸能」、「舞台の芸能」が行われる。2日目は中筋部落の芸能を中心に行う。
午後5時半頃:中筋部落の「鬼狂言」という演目で、奉納芸能が終了する。その後、公民館長、玻座間・仲筋部落の両主事の挨拶が行われ、2日間の日程は終了する。
以上が奉納芸能を行う2日間の日程である。続いて、この2日間の奉納芸能について簡単に触れておく。
奉納芸能は、「庭の芸能」と、「舞台の芸能」の2種類に分けられる。庭の芸能は、舞台の前にある広場のようなところで行われる芸能である。庭の芸能は、
1、ボー(棒。男性2人1組の計5組が法螺貝、ドラ、太鼓の音に合わせて三尺棒や刀、鎌、薙刀などで戦う)2、タイク(太鼓。中学男子、男性教員、その他男性により行われる演目で、左手に持った小太鼓を右手の撥で叩く)3、マミドー(「真の女」という意味で、中筋部落婦人による働き者の女性をモデルとした踊り)4、ジッチュ(人頭税に苦しみながらも、役人たちを慕う百姓の姿を表した玻座間西部落婦人による踊り)5、マサカイ(誰もが移住を嫌がった人頭税時代に自ら進んで移住を希望した「真栄」という人物の開拓精神を表した踊り。玻座間東部落婦人による)6、祝い種子取(石垣竹富郷友会婦人による踊り)7、ウディボー(腕棒。空手を取り入れた中筋部落婦人による演技、かつては男性が行っていた)8、ンマヌシャ(馬乗者。隊列を作り馬に乗っているような仕草で練り歩く玻座間部落男性による演技)
の8つの演目があり、2日のうち両日ともに全く同じものが行われる。また、舞台の芸能は1日目が玻座間部落、2日目が仲筋部落の芸能、というように1日目と2日目で担当する部落が分かれているが、庭の芸能は両方の部落が演じることとなっている。かつては庭の芸能も舞台の芸能と同じように2日間で各部落が別れて行っていたようだが、人口の減少などの理由で、合同で行うようになったとされる。また、8つの演目のうち1つは石垣竹富郷友会婦人部による「祝い種子取」という演目が行われることも毎年の恒例となっている。
舞台の芸能は男性による狂言(キョンギン)部と女性による踊り部に分けられる。ここで言う狂言とは、本土で言う狂言とは違い、芸能全般のことを指して使われており、近代劇や組踊なども狂言の中に含まれる。2007年度に行われた舞台の芸能は以下のとおりである。
1日目・玻座間部落:1、ホンジャー(長者)2、弥勒(ミルク)3、鍛冶工(カザク)4、赤馬節5、早口説6、しきた盆7、組頭(フンガシャ)8、安里屋9、真栄節10、世持(ユームチ)11、大浦越路武士12、上原ヌ島節13、種子取節14、世曳き(ユーヒキ)15、鳩間節(正調)16、松竹梅17、貫花18、伏山敵討19、布織ユンタ20、かたみ節21、竹富ガンギ22、はやし太鼓23、ペーク漫遊記24、南洋浜千鳥25、鳩間節(早調)26、金細工27、組薙刀28、元タラクジ29、八重山下ル口説30、いじゅぬ花31、ガイジンナー32、胡蝶の舞33、一本ゼー34、働き美しゃ35、竹富口説36、曾我の夜討ち
2日目・仲筋部落:1、ホンジャー2、弥勒3、シドゥリャニ4、かぎやで節、5、揚作田節6、天人(アマンチ)7、タノリャー8、世果?9、竹富節10、種子蒔(タニマイ)11、蔵ヌ花12、揚子見13、仲良田節14、する掬い15、夏花16、高那節17、盛山ヌドッケマー18、父子忠臣19、扇子舞20、崎山節21、仲筋ヌヌベー22、夜雨節23、畑屋の願い24、江差節25、古見の浦26、サングルロ27、かたみ節28、海上節29、鬼捕り
以上の計65の舞台の芸能が2日間で行われる。
このうち、1日目の1、2、3、7、10、14、18、23、31、36、2日目の1、2、3、6、10、14、18、23、29、の演目は男性による狂言であり、それ以外が女性による踊りである。舞台の芸能では毎年、2日間とも初めに「ホンジャー」、次に「弥勒」の狂言を行うこととなっており、「ホンジャー」はそれぞれの部落のホンジャーである国吉家、生盛家の当主が、弥勒は2日とも与那国家の当主が行う。狂言について、玻座間部落の「鍛冶工」「組頭」「世持」「世曳き」と仲筋部落の「シドゥリャニ」「天人」「種子蒔」はじ呪狂言(ジーキョンギン)と呼ばれ、農耕の過程を表しながら豊穣の祈願をする狂言としてその他の狂言と区別されて重んじられ、種子取祭以外では奉納されない芸能である。その他の「伏山敵討ち」「ガイジンナー」「曾我の夜討ち」や「畑屋の願い」「鬼捕り」などの狂言は、近代劇を琉球風にアレンジしたものなどが多く、観客を笑わせたり、派手な動作で盛り上げたりする。また、1日目の「曾我の夜討ち」と2日目の「鬼捕り」の2つの狂言は各日を締めくくる演目として毎年行われるものである。踊りについては、種蒔きをテーマにした踊り、竹富島の歴史を歌った「しきた盆」や、「真栄節」「元タラクジ」「仲筋ヌヌベー」などの踊りは種子取祭だけで奉納されるものとなっている。
1日目は玻座間部落の芸能、2日目は仲筋部落の芸能が中心であると述べたが、石垣・那覇・東京には郷友会という竹富島出身者による組織があり、郷友会の人々は種子取祭で演じるために各地で練習し、奉納芸能の日には帰省して種子取祭に参加する。これらの郷友会の人々が演じる演目も1日目・2日目共にいくつかある。また、1日目の踊りは玻座間東部落の女性と玻座間西部落の女性が行うものに分かれており、毎年中心となる部落が交代する。2007年度は東部落の女性が中心となっており、10の踊りを行っていた。
また、竹富島公民館長や郷友会会長の挨拶が芸能の合間に行われていた。
以上が種子取祭の概要である。
U-3、種子取祭における外部への対応
種子取祭は9日間にわたる豊穣祈願のための祭礼であり、現在は伝統文化として種子取祭を継承していこうという意識が強く、外部へも積極的にアピールしている。そのために、毎年、種子取祭、とりわけ2日間の奉納芸能の日には観光客が芸能を目当てに数多く竹富島を訪れており、竹富島としてもそれらの観光客に対応しなくてはならない状況となっている。ここで、種子取祭において竹富島の人々がどのように観光客に対応しているのかを述べる。
まず、祭りの2日目(乙酉)の午後8時頃から、竹富島のNPO法人が主催する種子取祭の説明が行われた。この行事があるということが島内の放送や民宿内で宣伝され、実際に行事に来ていたのは観光客や竹富島外から民宿を手伝いに来ているヘルパーなどが数多く参加していた。まず、種子取祭の概要をまとめた映像を流し、次に種子取祭を見学するにあたってのマナーを説明され[6]、最後に、観光客が参加できる奉納芸能1日目の夜に行われるユークイを事前に練習するということで、ユークイの道歌、庭歌、座敷歌を一緒に歌い、また、対面形式の踊りであるガーリを行った。この説明は種子取祭について何も知識のない観光客に対して行われるものであり、祭り全体がどのようなものであるかを知ってもらおうという意図から行われている。観光客が参加することができるユークイについての説明が重点的であった。
この祭り2日目の説明とほぼ同様のものが6日目の夜、7日目(奉納芸能初日)の朝にも行われる。6日目の夜に行われるものは、観光客に対しての種子取祭の説明の外に種子取祭を外部から取材に来た人々に対する取材におけるマナーなどの説明である。ここで「奉納金」と呼ばれる代金を支払った者は腕章のようなものを与えられ、マナーを守った範囲内で種子取祭の取材ができることとなっている。観光客の個人的なカメラ撮影などは奉納金を納めなくても自由に行うことができる。
奉納芸能当日の見学は、舞台に近い場所は竹富島の島民か郷友会などの島出身者が座ることとなっている。舞台の上を中心に、大きなテントが張られているが、そのテントの中はほとんど島の関係者が占めており、観光客は「奉納金」を納めた者は2日間そのテントの中で座って芸能を見学できる。その他の一般の観光客は各自でその周りの場所を確保して、地面に座ったり立ち見で芸能を見学する。
次に、観光客が参加できるユークイであるが、島民たちはこのユークイには観光客の参加を積極的に呼びかけている。イバンカミの儀式(ユークイを夜通し行うことを誓う儀式)に参加した者は鉢巻を購入してそれを頭に締め、その時に与えられるユークイの歌の冊子を見て歌を歌いながら、それ以外の観光客は見よう見まねで、ユークイの集団に着いていきながらユークイに参加することとなる。その際島民たちから観光客に向けて、恥ずかしがらずに積極的に歌って楽しむように促されることも多い。ユークイではにんにくと蛸の和え物と神酒をいただくことになっており、島民たちは各家庭の座敷にあがってそれらをいただくことになるが、観光客は座敷には入りきらないため、庭にゴザが敷かれてその上に座って同じことを行う。各家庭を回りその家の繁栄を願うユークイでは、多くの人が家に訪ねてくることを喜ぶので、ユークイに参加している者にはもちろん、参加せずに見物のみで訪ねて来た者にも平等に神酒とにんにくと蛸の和え物を振舞い、接待する。このユークイで観光客は、最初はどのように参加して良いのかわからず戸惑っているが、2軒、3軒と回るうちに次第に要領を得ていき、島民たちと一体となってユークイを楽しみながら島を練り歩いていた。島民たち、特にその日に芸能を終えた玻座間部落の島民たちは、1日の終わりに「人々が一体となって歌って楽しみながら過ごす」という意識を強く持っており、それを重視していた。玻座間部落のユークイは夜中の2時や3時まで続くので、観光客は次第に疲れてきてしまい、最後の1軒まで参加せずに途中で抜けていってしまう者も多かった。ちなみに、このユークイにはイバンカミの儀式を行わなくても参加できるが、イバンカミの儀式を行った者は観光客であっても必ず翌日5時のユークイ止めの儀式に参加しなければならないこととなっている。
奉納芸能の2日間は、芸能の演者、演者の着付けや化粧をしたり髪を結ったりする者、その他芸能に関することに携わる者、ユークイの接待の準備をする者、など、島内の物はほとんど種子取祭関係の仕事に従事しているため、この2日間は民宿関係の仕事以外は土産物屋、食堂や水牛者観光など、いつもは観光客向けに行っている仕事を行っていない。民宿の営業ですら祭りの仕事が忙しく、民宿を休業したり、夕食が簡易なものになる、などの影響が出るところもある。このように、奉納芸能の2日間は種子取祭中で最も祭りらしくなり観光客も多く訪れる日ではあるが、観光業がおろそかになる日でもある。しかし、観光客への配慮がないわけではなく、宿の予約を取れなかった観光客など、どうしても島から出なければならない者が島に長く滞在できるようにと、フェリー会社にフェリーの最終便を遅らせてもらうなどの配慮もしている。
このように、種子取祭では島全体が祭りを中心として動いていくために、普段のような観光客への対応ができないということも数多くあるが、この時期に来る観光客は、種子取祭へは毎年来ているという者や竹富島の人々の生活を尊重したいといった態度を持った者も多く、島の事情を充分に理解している観光客が多いのでそのことに不平不満が出ることはほとんどない。また、竹富島としても観光客に自分たちの文化や伝統をより深く知ってもらおうと観光客に配慮するよう努めているようであった。
<種子取祭写真>
竹富島の赤瓦家屋 弥勒奉安殿
練習風景(玻座間部落東会館) 7日目:世持御嶽での神司の祈願
カンタイの儀式 奉納芸能・呪狂言・世曳き(玻座間部落)
奉納芸能・踊り・(玻座間東部落) 奉納芸能・踊り(玻座間東部落)
奉納芸能・狂言・ガイジンナー(玻座間部落) 奉納芸能・踊り(玻座間西部落)
ユークイに参加する人々 奉納芸能・長者(仲筋部落)
奉納芸能・弥勒(仲筋部落) 奉納芸能・踊り(仲筋部落)
<竹富島地図>
<集落内地図>
V、伝統文化の継承と観光
V-1、種子取祭の継承
竹富島で種子取祭は「640年続く祭り」とされており、現在では島の1年で最も重要な行事となり、この祭りを保存・継承していこうという動きがなされているが、これほどの長い間をかけて、種子取祭はどのようにして現在まで続けられてきたのであろうか。現在に至るまでに、伝説上の酋長たちが祭りを行っていたとされる時代、役人によって指導されていた人頭税時代、人頭税が廃止されてから島民によって芸能などが新たに改変された現在までの3つに分けられて語られる。
まず酋長時代であるが、この酋長時代は竹富島における村落共同体の始まりとされ、六山時代と呼ばれる一種の伝説的な時代であり、この時代の6人の酋長たちは竹富島では神として祀られている。伝承によると640年ほど前のこの時代に種子取祭の種蒔きの日を「戊子」にすることを決定したと言われている。竹富島には6つの村があり、村には、玻座間村は根原金殿(ネハラカンドゥ)・仲筋村は新志花重成(アラシハナカサナリ)・幸本村は幸本節瓦(コウモトフシガワラ)・久間
次に人頭税時代であるが、琉球王朝により八重山が統治されていたこの時代は、島民は石垣から赴任して来た士族に人頭税を納めていた。この人頭税は島民にとっての負担が大きく、作物の出来具合は生活に密接に関わっており非常に重要なことであった。現在行われている奉納芸能に人頭税を納めることができた喜びを表す踊りも残っていることからもそのことがわかる。そのため、この時代の種子取祭は現在よりも農作物の豊穣を神に願うという本来の意味合いに即していると言えるだろう。また、人頭税時代の種子取祭は、役人である士族が深く関わっていた。種子取祭に限らず、この時代の八重山では、士族は祭礼を取り仕切る立場にあったとされている。それは、弥勒神に豊穣を願う種子取祭を、弥勒神とは何の関係もないはずの士族が信仰していた「火の神」が祀られている世持御嶽にて行っているということに見ることができる。これは士族たちが、種子取祭を自分たちが信仰する火の神の前で行うことで、島民に火の神を弥勒神と同じ立場の神と捉えさせて信仰させようとしたためであろう。また、奉納芸能の呪狂言の多くに「役人様に芸能をする許可を頂く」というセリフや、「役人様が仰ることには」などというセリフが見られること、舞台の神を祀った方向だけでなくその他の方向も同様に正面として、士族を意識した芸能の演じ方を行っていたことなどからも、種子取祭と士族との関わりがわかる。このように、人頭税時代の種子取祭は政治的意図をもった士族と深く関わり合いながら、種子取祭を行い、継承されてきたのである。
1903年に人頭税が廃止されると、それまでの士族による支配が終わり、島民たちは旧制度から解放される。それまでは農耕の過程を表したものが多かった奉納芸能も、このころから宮廷舞踊や「曾我兄弟」などの本土からの狂言も次々に盛んに取り入れられるようになった。戦後になると、都会帰りの者たちが劇団を結成したり、玻座間部落は近代演劇を、仲筋部落は伝統芸能を得意とする傾向が現れたりした[狩俣2003:358]。1976年には種子取祭の奉納芸能が国立劇場で公演され、1977年には種子取祭が文化庁により重要無形民俗文化財に指定されている。そのころから、衣装などが華美なものになり、演出も洗練されたものになっていき、それに伴い必要経費もどんどん増加している。また、その頃から郷友会など、竹富島出身者も奉納芸能に参加するようになってきた。
以上のように竹富島の種子取祭は様々な過程を経て継承されてきた。そして、島民たちも6人の酋長時代に統一された種子取祭を長年にわたって継続してきたという意識を持っている。しかし、ここで触れておかなければならないのは、実際に種子取祭を統一したのは人頭税時代の士族であろうということだ。なぜなら、6人の酋長がいた1500年以前には八重山では干支による暦を利用して祭りの日取りを決めるということが行われておらず、干支を使用し始めたのは17世紀に入ってからであるためである[狩俣:2003.367]。よって、種子取祭が戊子の日の種蒔きを行うことを統一し、現在のような島全体で祭りを行うことを整備したのは士族が祭礼を指導していた時代であることがわかる。
それにもかかわらず、竹富島では現在の種子取祭の原型を士族の時代の出来事とはせずに伝説の6人の酋長時代の出来事として伝承されており、種子取祭でもユークイの巻き歌に酋長たちの行動が再現されるなど、村落共同体が始まったのと同じ時代に種子取祭が始められたことになっている。そのため島民には、種子取祭は村落共同体が始まった頃からずっと続くものである、という連続性を持ったものとして捉えられ、種子取祭そのものが共同体の歴史と一体となって考えられており、それが種子取祭の伝統性をより強める結果となっているのだ。
また、人頭税が廃止された後、特に国立劇場での公演が行われた頃から種子取祭は農業の豊穣を願う祭りとしてではなく、竹富島全体の繁栄を願うものという意味合いが強まっている。これは、島の生活を農業ではなく観光業に頼るようになったからであるが、農業をほとんど行わなくなった現在でも、種子取祭は農業における豊穣から島の繁栄という意味に変えられて行われており、島ではなくてはならないものとして存在している。また、国立劇場公演などの動きは竹富島全体が町並みや景観などの「伝統文化」を意識し始めて保存していこうとした流れと重なっており、やはり種子取祭もその伝統文化という枠組みの中で捉えられるようになったのである。そして、「重要無形民俗文化財」という竹富島だけなく国全体で通用する指標を獲得し、古くから続く自分たちの伝統を外部でも通用するものとすることでこの伝統をさらにこの先も継承していくことを目指しているのである。
V-2、種子取祭に見る島民としての意識
竹富島島民にとって種子取祭はなくてはならないものである。島の人間で、竹富島の1年は種子取祭に始まり種子取祭に終わると言う者もいるほどで、種子取祭はそれほど島民にとって重要な、一大イベントとなっている。この節では種子取祭を通して島民としての意識が存在するかどうか考えたい。
種子取祭は640年の昔から、共同体の始まりから続くものとされていると前述したが、島民たちはこのことにかなりの誇りを持っている。島民たちに種子取祭のことを聞くと、それがどのような祭りであるのか、どういう起源を持っているのかなどのことを詳しく教えてくれる。そして、島民たちは偉大な6人の神たちが始めた神聖で島民にとって重要なものであるから現在まで続けられてきたのであり、これからもずっと続けていくべきものだ、という意識を持っている。先に述べたように、6人の酋長時代の種子取祭の話はあくまで伝説であり、種子取祭は人頭税を納めていた時代に、島のものではない士族によって取り仕切られていたものである。それが、島内部の神が始めたとすることで、共同体の始まりを語るものとなった。島の内部だけで全てが出来上がっていったわけでないにもかかわらず、そのように伝え、島民が島民のために行うことで、島の共同体意識を支えるものとして存在するようになった。つまり、種子取祭とは竹富島の島民としての意識を確認するという機能も兼ね備えるものなのである。
種子取祭は資金などを観光客や外部からの支援に頼っているということはあるが、実際、種子取祭の長い日程のほとんど全てを自分たちで行っている。
種子取祭はこのようにして、竹富島全体で作り上げていく祭りであり、これを毎年のように行うのであるから、島民たちは自分自身の経験を通して、島にとっての祭りの重要性を感じ取り、またそれに参加することで次第に竹富島の島民としての意識を養っていくのであろう。特に芸能を舞台上で演じる者はこのことを強く感じると言う。本番である奉納芸能の日に舞台上にあがり、神に向かって、そして若い頃に同じ演目を何度も演じたり観てきたりしたであろう先輩たちに向かって、何日間も練習し続けてきたものを披露する。それによって種子取祭の歴史性・伝統性を感じ、また、自分も竹富島の人間であるのだという意識を改めて感じる、というようなことを言う者も多い。
このように、種子取祭は竹富島の島民たちが自分たちで行い、さらにそれに歴史性を持たせることによって、島民たちの竹富島島民としての意識を再確認する場となっているのである。竹富島には種子取祭がなくてはならない、種子取祭を行って竹富島の島民である自覚を高めようという祭りなのである。このことは、種子取祭の奉納芸能の日になると石垣や那覇、東京などへ出て行った島出身の者たちがこぞって島へ帰省してくるということや、祭りの間は島内の全てが祭りを中心にして動くということ、奉納芸能での公民館長のあいさつなどで、観光客などの外部の者には理解できない竹富島の方言を多用して話し、方言が理解できる竹富島の人間だけで盛り上がったりする場面が多々あったということ、などからも言えるだろう。このように、種子取祭は共同体の独自の歴史や伝統を持ったものとして認識されており、竹富島の島民や島出身の者など、島の人間にとっては、他の八重山の島ではない、竹富島の島民としての意識を確認する場であり、独自の文化を持つ共同体としてのアイデンティティを確認する場となっているのである。
また、近年ではこの種子取祭を保存・維持していこうという動きが強く、国の重要無形民俗文化財にも指定されている。竹富島には「独自の文化」とされているものが数多くあり、種子取祭以外にも「伝統的」とされる祭礼はたくさんある。しかし、それらの数多くの文化の中から種子取祭を文化財になるよう推薦したところにも、竹富島の島民にとって種子取祭が生活の中で重要な位置を占めているということがわかる。また、種子取祭が国から価値のある文化であることを認められるということは、「沖縄」や「八重山」という枠組みには入らない「竹富島」の独自の文化が価値を認められたということである。八重山や琉球だけで種子取祭が伝統文化としての地位を持つのではなく、日本国全体に誇れる文化としての地位を与えられたのである。種子取祭の持つ伝統性・歴史性や、島民が種子取祭において経験する共同体の一体感に加えて、外部のお墨付きを与えられたということが、島民の自分たちの独自の文化に対する誇りを育て、島民としてのアイデンティティをさらに強めることに役立っているのだろう。種子取祭は島民たちのアイデンティティの拠り所としての役割をさらに強め、今後もその役割を果たすことを期待されているのである。
以上のように、種子取祭とは竹富島の中では共同体のアイデンティティを確認する場となっており、島民としての意識が見られるということを述べた。そういった点からも、種子取祭は基本的には島民が島民のために行う祭りであり、生活に密着したものであるということがわかる。しかし、島民たちが誇りに思うこの伝統文化は現在ではますます外部からの視線にさらされており、種子取祭の奉納芸能の日は島出身者の他にたくさんの観光客が島を訪れる。そこで、次に種子取祭と観光との関わりを述べたい。
V-3、種子取祭と観光との関わり
種子取祭は、島民が島民のために行う祭りであり、本来、観光とは直接かかわりを持たないものである。現在でも竹富島では種子取祭と観光との距離をとっており、地域の生活に密着したものに留めておこうという姿勢がある。しかし、今日、種子取祭、特に奉納芸能の2日間には芸能を見ることを目的とした観光客が数多く島に訪れ、竹富島としても観光客への配慮をせざるをえない状況となっており、観光との関わりを無視することはできなくなっている。
観光客は竹富島の「伝統文化」を観るために遠い竹富島まで訪れている。竹富島の種子取祭は、自らの誇る伝統文化として重要無形民俗文化財として登録され、また、現在でも頻繁に石垣・那覇や東京において奉納芸能の公演を行ったり、ガイドブックに伝統文化として紹介されるなどのことを通して、積極的に外部へと発信されている。そのため、種子取祭は外部からの視線を集める存在となっている。そして、島では種子取祭に観光客がたくさん来ることが良いことである、ともされている。観光客など、島の外から大勢の人が来るということは、島の人間にとって繁栄を意味することとなるし、より多くの人間が参加すれば祭り自体も盛り上がりを見せるからである。しかし、一方で観光客が来ることをよしとしながらも、もう一方では竹富島では種子取祭はあくまで地域のために行っており、観光用の見世物として行っているわけではないとして、そうなることを拒んでいる。
観光では、文化の真正性がしばしば問われている。これについて太田は文化とは常に現在における解釈の結果として「真正な」文化という考えが主張されるのであり、文化や伝統はある価値体系によって解釈された結果、初めて「真正さ」を獲得する、と言っている[太田1998:70-73]。この点から見ると、種子取祭は竹富島にとって真正な文化であると言えるだろう。現在の種子取祭は長い歴史の中で島民によって何度も解釈し直され、変化しながら今の状態となっている。そして、竹富島独自の伝統文化として認識されて充分に真正さを獲得している。竹富島の真正な文化であるからこそ、種子取祭は竹富島としてのアイデンティティを主張する場となっているのだろう。
観光の現場では、地元の人々によって文化が客体化されて、解釈されることで真正さを獲得し、それらの文化が表象されることがある。このために、観光は自己表現になりうる場であり、さらに文化の保存に大きく役立つものであるとも言えるだろう。竹富島の種子取祭においてもそれは言えることであり、共同体の内部で自分たちのアイデンティティを確認すると同時に、観光客に見られることによってそれを共同体の外部に主張し、種子取祭の保存・継承につながっているという側面もある。竹富島では島の者とそうでないものが明確に意識されており、自文化を観光客に対して表象することは自分たちの独自性・差異を他者に強調し、認識してもらうということでもあるのだ。また、外部の者に価値があると認めら得る以外にも、現在では種子取祭を行うための費用を観光客などの外部の者からの資金に頼っている部分も大きいなど、観光がこの伝統文化の継承に深く関わっている。
しかし、これらの観光における真正な文化の表象を通してのアイデンティティの主張やそれによる文化を継承は、地域社会にとってそれほど簡単なものではないだろう。観光というのはその地を訪れる観光者がいて始めて成り立つものである。いくら地元民が真正な文化を表象してアイデンティティの主張を試みようとしても、観光者にその文化が受け入れられるものでなければそれは無意味なものとなってしまう。地元民が自らの真正性にこだわりすぎたり自分たちのために祭礼や儀礼を行ったりして、観光者の視点を無視しすぎてしまえば、その観光は成り立たなくなるだろう。観光は地元民によって文化の客体化が行われ、文化が生成される場であるというポジティブな考え方だけではなく、そのようにして生成された自らを主張するための文化であっても、観光者に受け入れられないものであれば衰退していく可能性もあり、自己表現という点では自らのアイデンティティの主張に失敗することになりうる、また、結果的にそれらの伝統文化も失われてしまう可能性があるということを頭に入れておかなければならない。
もちろん、観光を通してのアイデンティティの主張は全ての観光で行われるわけではない。多くの観光地ではアイデンティティを主張するために観光を行っているわけではないし、地元民にとっての真正な文化が観光で表象されているとも限らない。橋本は、観光地が観光客の対象となるためには観光文化の創出が不可欠だとし、その観光文化が真正かどうかは観光者にとっては問題にならない。観光では真正な文化ではなく、観光客が楽しめるような観光文化を提示しなければならない、と言っている[橋本2001:58]。しかし、竹富島では地元民にとっての真正な文化が観光客に提示され、それがアイデンティティの主張を可能にしている。真正な文化を求めるのは地元の文化にアイデンティティの拠り所を求める人々であり、観光者ではない[橋本2001:59]が、地元の人々が重要視する真正な文化を表象することが外部に対するアイデンティティの主張につながる場合もあるのだ。
竹富島の種子取祭の場合は現在も観光を目的として行われているわけでなく、もともと観光という文脈とは関係なく島民たちのアイデンティティの拠り所となる文化となっており、島民にとってそれが竹富島の伝統文化であるということが受け入れられていた。現在の祭りでは、観光客用に種子取祭についての説明を行ったり、ユークイに観光客を積極的に参加させているなど、祭りの様相は変わってきているのは事実だろう。しかし、島民たちはそれを伝統文化が観光用のものに変容しているとは捉えずに、観光客も巻き込んだ形で伝統文化としての祭礼を行っているという認識を持っている。観光客のために伝統文化を提示しているのではなく、観光客側を島民の生活の中に引き込んでいる状態だ。伝統文化は観光の対象となっても島民にとって真正なものとしてあり続けている。観光客を全く顧みずに伝統文化を行っているわけではないが、観光客が入り混じる現在の状況の中でも島民たちは生活の中に生きる伝統的な祭りとして行っているのだ。そして、それが観光客側にも受け入れられている。その結果、観光を通してさらなる竹富島の共同体としてのアイデンティティを主張すること、そして伝統文化の継承に成功していると言えるだろう。
種子取祭での観光について、島民たちと観光者の間に種子取祭に対する意識のずれがないことも種子取祭が観光としても成立している要因の1つであろう。観光者にとって、種子取祭とは竹富島がもつ独自伝統文化であり、現在でも島民の生活の中に息づく文化であると考えられている。そして、このことは島民にとっても真である。島民側も、観光者側も、種子取祭が観光化されることを拒んでいる。
観光においては「観光文化」の創出が必要だと橋本は述べている。それは、観光者と地元の複数の文化的文脈が出会うところで、各々独自の領域を形成しているものが、その本来の文脈から離れて、一時的な観光の楽しみのために、ほんの少しだけ、売買されるという特徴を持つものである[橋本1999:155]。しかし、竹富島の人々は種子取祭が彼らの生活から離れ、観光客のために見世物として提示することを拒んでおり、観光客は観光用に芸能などが提示されることを嫌がっている。島民たちは観光客のこのような考えを理解しているのは事実であろうが、しかし、そのために種子取祭が「本来の文脈から離れて、一時的な観光の楽しみのために売買される」観光文化であるとしてしまうのは無理があるだろう。種子取祭はそもそも観光という文脈の中で行われていないのである。
ここで言いたいのは、竹富島の種子取祭が観光化されずに地元民の生活に根ざしたまま続けられていることが素晴らしいといったようなことではない。「観光文化」としての伝統文化でなくても、観光の焦点になり得ることがあり、それが伝統文化を保存・継承していくことにつながることもある、ということだ。
伝統文化と観光の関わりというのは1つではない。伝統文化を観光客のために見せる場合、観光と関わることで伝統文化の破壊を恐れて観光とは距離をとる場合、観光者のもつイメージを伝統文化とする場合など、様々なパターンが考えられる。竹富島の種子取祭の場合は観光客のための配慮がなされないわけではないが、観光客のためでなく、生活から切り離されることなく島民自身のために行われている。島民が島民のために行いそれを自らが楽しむ姿勢があり、観光客もユークイなどに参加することで彼らと共に楽しむことができるからこそ、価値のあるものとして観光者の視線をひきつけ、観光の対象となっているのであろう。
W、おわりに
この論文では、伝統文化が観光と結びついた時に、現地社会には何が起こっているのか、現地の人々はその状況にどのように対応しているのかということを、竹富島の種子取祭を事例として考えてきた。祭りは9日間にわたって行うものであるが、これは長い歴史の中で陰暦にあわせて細かい日程が決まっており、7日目と8日目の奉納芸能を中心とした祭りとして行われている。奉納芸能を行うこの2日間には、この日のために帰省してくる島出身者や芸能を見るために島外から訪れる観光客で島があふれかえり、島の一大イベントである。
種子取祭はもともと農業の豊穣を祈願するための祭礼であった。現在では、農業を行う者がいなくなるにつれて本来の意味合いを失い、竹富島全体の繁栄を祈願し、祭礼を保存継承していこうとする意識が強まっている。そしてさらに、それを毎年のように実行することによって、竹富島の島民としての意識を確認・強化するという機能を兼ね備えて、現在でも島の生活の中に息づいている。奉納芸能の2日間には島の産業である観光業を休止して全てが祭り中心になるほどの行事であり、島の者が自分たちのために行っている祭りである。このため、島民たちは自らの共同体としての意識や結束を強め、種子取祭は観光の文脈とは関係なく島民のアイデンティティの拠り所となる文化となっていった。また、種子取祭には観光客も数多くやってくるが、島民は外部に見られることを利用して、自分たちで確認した共同体のアイデンティティをさらに島の外部へもアピールし、観光の文脈における共同体としてのアイデンティティの主張に成功している。そして、外部にも伝統文化が受容されることによって、さらに自分たちの伝統文化の継承を確実なものにしていると言えるだろう。
竹富島の種子取祭は、島民が島民のために行っているものであり、島民たち自身が楽しむことを第一としているために観光とは微妙に距離が保たれているが、それが観光の対象となる文化として価値を持っているのだろう。実際に、島民が伝統として種子取祭を長年継承し、今でも生活に生きている文化であるというところに価値があるとして、何年も種子取祭を見に来ている観光者もかなり多い。竹富島の種子取祭の場合、前述したように観光による伝統文化の保存という点に関しては、島民側は観光用の見世物になることを拒んでいるが、観光客側もそれを望んでいないために伝統文化の保存に成功していると言えるだろう。観光を通してそれを成しえようと思えば、自分たちの伝統文化が他者に認められなければならないからだ。また、竹富島において種子取祭はもともと島民たちのアイデンティティの拠り所となる文化であるということや、竹富島には他にも観光者を惹きつけるものがあるということで、種子取祭が観光者に受け入れられなかったとしても伝統文化の継承という点では問題がなく、それが衰退していくことにはならなかったかもしれない。しかし、伝統文化と観光の関係を考えた時に、伝統文化を観光文化として新たに創造したり、伝統文化を守るためにその観光を拒否したりするのとは別の対応の仕方もあるということが、竹富島の事例を見ればわかるだろう。山下は、観光地バリでは伝統的な祭りの最中に、バリの人々は観光客があたかも存在しないかのように振る舞い、観光客のことを忘れてしまう、そして、伝統文化が破壊されないのは観光客を「無視」するこの巧みさによるのかもしれない、と言っている[山下1999:116]。竹富島では島民たちが祭礼を楽しみ、さらにそこに観光客も積極的に巻き込むことによって、伝統文化が観光の対象となってもそれが失われずにいるのかもしれない。
<脚注>
[1]山下は観光と文化の関係について、観光が新しい文化の創造を導くこともあり、文化の生成を論じている。しかし、橋本は、観光は様々な領域の寄せ集めであり、他領域との関係の中でのみ成立している。そのためにこれまでの観光研究では何が観光独自の領域であるのか整理されておらず、本来は観光の文脈に属さない問題が観光の場で議論されている。観光とは「ほんの少しだけ、一時的な楽しみとして、消費される場」であり、観光研究で問題にすべきなのは観光者と受け入れる地元が交流可能なように作り出された新たな文化である観光文化である。そして、国家や政治、民族のアイデンティティ、文化の真正性が問題になる民族文化は別の文脈に属するものであり、観光の場での議論にはそぐわない、と述べている[橋本1999:280-289]。
[2]橋本は観光文化を「観光者の文化的文脈と地元民の文化的文脈が出会うところで、各々独自の領域を形成しているものが、本来の文脈からはなれて、一時的な観光の楽しみのために、ほんの少しだけ、売買されるもの」と定義している。観光文化は現地の人々の働きかけを必要としているが、第3世界の観光地では観光文化が創られていない。そのために観光文化の創出が急務だと述べている[橋本2001:9]。また、これらの観光文化は純粋でなく真正でないと非難されるが、文化は常に構築されるものと理解されており、観光は真正性とは無縁の行為であるために、観光の領域において民族文化の真正性に関する議論はふさわしくないと述べている。
[3](土地を)売らない、(島を)汚さない、(風紀を)乱さない、(景観を)壊さない、(伝統文化を)生かす、 の5か条からなる憲章
[4]2007年度、生盛家は、中筋部落の責任者である主事も担当していたので、この年、生盛家はホンジャーと主事を重複して担っていたということとなる。玻座間部落の主事はウネ家であった。
[5]神司とは、神に仕え神の意思を聞いたりする人物のことである。竹富島では女性が神司となり、六山と呼ばれる6つの御嶽にそれぞれ一人ずつ神司がつくこととなっている。過疎化などの影響でかつては2人までに減ってしまったこともあるが、現在、神司は5人となっている。神司は竹富島の祭礼において島民を主導する立場にもあり、種子取祭においても5人の神司が儀式などを取り仕切ったり、一般の島民たちとは別行動で神への祈りを行ったりしていた。
[6]ここでいうマナーとは、種子取祭において騒いだりしない、神聖な儀式の時などは静かに傍から邪魔にならないように眺めるにとどめること、といった基本的なものから、「参詣」や「ユークイ」などにおいて走ったり、神司の前を通ったりしないことなどである。
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伝統文化の継承と観光
―沖縄県竹富島の種子取祭を事例として―
要約
0446522c 鎌田 友香
異文化コミュニケーション論
(指導教員)吉岡 政徳 教授
現在は人やモノ、情報が世界中を行き来する時代であり、観光もこの流れに大きく関わっている。人々は世界中の観光地に赴き、世界のたくさんの地域が観光による発展を目指している。これらの観光地は文化を異にする人々が出会う場所であり、様々な文化が交わる場所である。観光地というのは文化が変化し、新たな文化が生成される場所であるのだ。
さて、観光を行う地域社会は観光客に観光の目的地として選んでもらわなければならず、その観光地に何か観光客の目を引くものがなければならない。そこで、地域社会に独自な伝統文化がしばしば持ち出される。観光は現地社会の人々が他社会との関わりの中で文化を考え直す場でもある。伝統文化が観光と結びつく場合も、伝統文化が観光の文脈におかれることによってそれぞれの観光地は地域社会の人々が自らの伝統文化を捉えなおし、それぞれのやり方で伝統文化を現代の生活の中に位置づけている。そして、この伝統文化と観光との関わりは観光地によって多種多様である。そこで、この論文では、沖縄県の竹富島を事例にして、竹富島で伝統文化とされている種子取祭と観光の関係を考えたい。地域社会の伝統が観光と深く結びついていく中で、竹富島の人々がそれをどのように受け止め、向き合っているのかをみていきたい。
竹富島は自他共に認める観光の島であり、年間を通して青い空、青い海、伝統的な赤瓦家屋が並ぶ集落の景観という沖縄っぽさを求めて多くの観光客が島を訪れる。そのような竹富島で、種子取祭は新暦10・11月の甲申から壬辰までの9日間にわたって行われる祭礼であり、島にとって最も重要な行事である。祭りは長い歴史の中で陰暦にあわせて細かい日程が決まっている。現在の祭りは7日目と8日目の奉納芸能が中心となっており、この2日間には、この日のために帰省してくる島出身者や芸能を見るために島外から訪れる観光客で島があふれかえる島の一大イベントとなっている。
種子取祭はもともと農業における豊穣を弥勒神に祈願するための祭礼であった。その起源は640年前とされ、島の神々である6人の酋長たちによって始められたとされている。そのため、種子取祭は共同体の歴史を語るものとなっており、島にとっての「伝統文化」であり真正性を持つ文化とされている。現在では、農業を行う者がいなくなるにつれて本来の農業の豊穣という意味合いを失い、竹富島全体の繁栄を祈願し、また、祭礼を保存継承していこうとする意識が強まっている。そしてさらに、それを毎年のように実行することによって、竹富島の島民としての意識を確認・強化するという機能を兼ね備えて島の生活の中に息づいている。奉納芸能の2日間には島を離れて暮らす島出身者が帰省し、島の中心産業である観光業を休止して全てが祭り中心になるほどの行事であり、島の者が自分たちのために行っている祭りである。このため、島民たちは自らの共同体としての意識や結束を強め、種子取祭は観光の文脈とは関係なく島民のアイデンティティの拠り所となる真正な伝統文化となっていった。
また、種子取祭は国立劇場で公演され、重要民俗文化財にも指定されており、自分たちの中だけでなく島民以外の他者にもその価値を認められるようになった。外部でその価値が認められ、種子取祭には観光客も数多くやってくるようになったが、島民は外部に見られることを利用して、自分たちで確認した共同体のアイデンティティをさらに島の外部へもアピールし、観光の文脈における共同体としてのアイデンティティの主張に成功していると言えるだろう。そして、外部社会にもその伝統文化が受容されることによって、さらに自分たちの伝統文化の継承を確実なものにしていると言えるだろう。
竹富島の種子取祭は、基本的に島民が島民のために行っているものであり、島民たち自身が楽しむことを第一としているために観光とは微妙に距離が保たれている。観光用の見世物として行うものではなく、あくまで日々の生活の中に存在するものなのである。だが、種子取祭はそうであるからこそ観光の対象となる文化として価値を持っているのだろう。実際、島民が伝統として種子取祭を長年継承され、今でも生活に生きている文化であるというところに価値があるとして何年も種子取祭を見に来ている観光者も多い。観光による伝統文化の保存・継承という点に関しては、それを成し得ようと思えば自分たちの伝統文化が他者にも認められなければならない。竹富島の種子取祭の場合、島民側は観光用の見世物になることを拒んでいるが、観光客側もそれを望んでいないために、伝統文化の保存に成功していると言えるだろう。竹富島において種子取祭はもともと島民たちのアイデンティティの拠り所となる文化であるということや、竹富島には他にも観光者を惹きつけるものがあるということで、種子取祭が観光者に受け入れられなかったとしても伝統文化の継承という点では問題がなく、それが衰退していくことにはならなかったかもしれない。しかし、観光を通して自らの共同体としてのアイデンティティを強め、それが伝統文化の継承へつながっているのも確かであろう。
伝統文化と観光の関係を考える時、伝統文化を観光文化として新たに創造してそれを提示する、伝統文化を守るためにその観光を拒否する、もともと地元の文脈に属さない他者のイメージを生活の中に取り込みそれを伝統として表象するなど、様々な地域社会の対応があるだろう。竹富島では自らの文化が観光の対象となってもそれをマイナスと捉えずに、観光客を引き込んだ形で真正な伝統文化として行っている。竹富島では島民たちが祭礼を楽しみ、さらにそこに観光客も積極的に巻き込むことによって、伝統文化が観光の対象となってもそれが失われずにいるのかもしれない。