ホームステイに見られる観光文化ー金沢での1956-1958年を事例として

山口隆子


                目次

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2

 

第1章 「ホームステイ」という活動の考察

   1−1.ホームステイとは何か。ホームステイのことばとその定義 ・・・・・・・・5

   1−2.ホームステイの先行研究のサーヴェイ ・・・・・・・・・・・・・・・・・5

   1−3.「観光」の考察・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7

   1−4.ツーリズムの変遷から捉えるホームステイの位置 ・・・・・・・・・・・・9

   1−5.ホームステイの活動に含まれる多様な活動 ・・・・・・・・・・・・・・11

 

第2章 ホームステイの誕生と金沢におけるホームステイ検証

   2−1.ホームステイ誕生 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13

   2−2.金沢におけるホームステイの成立とその背景 ・・・・・・・・・・・・・14

   2−3.1956(昭和31)年の時代背景・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16

   2−4.準備される異文化へのまなざし ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17

   2−5.ホスト金沢における日本の伝統文化−異文化へのまなざしの対象− ・・・18

   2−6.伝統文化体験と生活レベルでの文化接触 ・・・・・・・・・・・・・・・20

 

第3章 再びホームステイについて

   3−1.マス・ツーリズムにみられる他者表象 ・・・・・・・・・・・・・・・・22

   3−2.オールタナティヴ・ツーリズムとしてのホームステイ ・・・・・・・・・23

   3−3.ゲスト・ホストの本質主義的な日本文化観 ・・・・・・・・・・・・・・25

   3−4.見せる舞台裏という視点からみたホームステイ

     1)見せる舞台裏の設定 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27

     2)観光文化から「ホームステイ文化」へ ・・・・・・・・・・・・・・・・29

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・31

 

謝辞 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34

 

文末脚注 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・35

 

表・図 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40 表はこちらをクリック

 

引用/参考文献、参考資料 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・45

 

              表・図目次

 

表−1.ホームステイの申し込み用紙 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40

表−2.ホームステイを行っている団体などの概要 ・・・・・・・・・・・・・・・・・41

表−3.観光タイプに関する変化の諸要因 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・42

     Principal Agents of Change Relating to Types of Tourism

表−4.1956 (昭和31)年 ゲストと受け入れホストの一覧表・・・・・・・・・・・・・43

表−5.EIL(国際生活体験協会)の金沢滞在と国内旅行 初期3年間の内容 ・・・・・44

 


 

 

ホームステイに関して

 

 現在、一般家庭に宿泊するホームステイが、青少年から壮年、熟年、老年層にかけての広範な年齢層に拡大して活発に行われている。また、演奏旅行や国際会議などの際にも本来の趣旨から離れて、ホームステイを滞在プログラムに組み込んでいる例が数多く見られる[1]

普段の生活で自宅に宿泊するゲストは、今までは親戚か友人、しかもかなり親密な間柄の友人に限られていた。外国からの、名前と写真の顔でしか知らないゲストを泊めることは、むしろ奇異なことであり、例えば日本人同士でも、互いに出会ったこともない人の家庭に泊まる機会はそうなかったのである[2]。しかし、ホームステイというプログラムになった時にはそれが可能になる。

ホームステイという、自分たちが住み、暮らしている地域や普段の日常生活を、外から、異国に住む人々からの異なった目でまなざされるということ、そのまなざしを注いだ人が訪れるという、その意味を考えてみる。また反対に、自分がまなざす、まなざしを注ぐに至った過程や、そのまなざしの先にある国や地域を訪れたいと思うこと、ただ旅行者として通り過ぎるだけでなく、そこに普段住み、暮らしている人たちの日常を知りたいと思い、ある期間をそこでホームステイという形で滞在することに至るまでを考える。ホームステイの場でホストとゲストになる彼らの、そこに至るまでの過程と滞在中の活動に筆者は惹きつけられる。

社会学者のJアーリは、ミッシェル・フーコーが用いたまなざしを、歴史的社会的に文化として構造化された視線のまなざしと捉えて、旅行者のまなざしを分析する。アーリはまなざしが向けられる対象として、日常から離れた異なる景色、風景や町並みをあげる。また、まなざしは写真、絵葉書、映画、模型等を通して視覚的に対象化され、把握される[アーリ1995:21-23。ゲストがそのように構築されたまなざしを持って向けた、生活体験の先にあるものは何であるのか。それは、ホストの日常の生活文化を通して、ホストやその地に暮らす人びとと交流すること、その地域にある伝統文化の体験などである。しかしながら、互いに異なる文化を持つホストとゲストの出会いには、まなざしを注いだことやそれ以外の出来事に遭遇した際の、異なる解釈や誤解、融解などが多々起きるだろう。そして、それが新たな次の交流への展開に繋がる可能性を持つ場合も起こりうるだろう。

 

本論文の目的

 

 そこで本論文の目的は二つある。

 まず、このホームステイとは何であるのか、どのような誕生経過をもって、このように人びとに認知されるようになったのであろうか。そのことを明確にすることが最初の目的である。

 つぎに、このホームステイの場における、ゲストにみられる・みせる文化に焦点を当てて考察することである。それは、ホストとゲストがともに抱く、互いの文化に対しての本質主義的な他者規定が、ホームステイという場や空間において、一面では維持されるものの、反面では、顔と顔の見える生活の場において日々を過ごすことによって、打ち破られるような出来事が生じることを考察し、ホームステイを読み解いていくものである。

 

本研究の方法論と本論文の構成

 

 本研究の方法論としては、このホームステイが行われる場を、ホストとゲストの直接的な接触領域と捉え、そこにみられる・みせる文化について、観光人類学に足場をおいて考察するという方法をとっている。本論文は序から始まり、3章から構成され結へ繋がる構成になっている。各章の概要は以下の通りである。

第1章では、そもそもホームステイとは何なのかということに着目する。ホームステイを解明する基本作業として、そのことばの意味や定義を探る。そして、実際にホームステイ活動に関わっている組織や団体などが掲げるホームステイの定義や理念、意義を見ていき、一般的にホームステイとはどのような活動なのかを概観する。次にホームステイに関する先行研究について調べ、その整理作業を行う。筆者はその後に、さらにそのホームステイを解明するために、ホームステイにおけるホストとゲストのありようを、さまざまな視点から述べて考察することを試みる。

第2章では、そのホームステイがいつ、どのように誕生したのかについて、実例に基づいて述べ、背景やほかの事象から考察を加える。その後、実質的に日本で最初のホームステイとなる金沢の事例を検証する。金沢の事例は、その都市の特殊性に規定されつつも、その後の日本におけるホームステイの原型ともいえる諸要素を見事に含んでいる。そのため、日本でのホームステイの発生と展開を歴史的に解明するためにも、避けては通れない事例研究と捉えて論じるものである。

第3章では、金沢での事例を踏まえて、もう一度ホームステイとは何なのかを、そのホームステイの場における日本文化の呈示と享受の面から捉えて論じていく。そこでは、ゲストの持つ文化相対主義的な視点と、本質主義的な他者規定について述べる。また、このホームステイは、ゲストが望む「ホストのありのままの暮らしを見ること」を、どうホストが応えているのか、そこには一時あるいは時折、ゲストが覗いてもいいように巧妙に用意された生活という「舞台裏」があるのではないかとして、このことを読み解いていく。さらに観光と伝統文化について、観光文化の議論を踏まえて論じていく。筆者は、ホームステイが生み出す場や状況は、観光文化と重なりながらも、それを超克する契機を内在しているものであり、それを「ホームステイ文化」と呼ぶことができるのではないかと考える。

 結において、筆者はこの論文のまとめを行い、そして今後の研究課題を述べる。

 なお、本論文で取り上げた金沢の事例研究は、筆者が20036月、8月、10月、20042月、8月に金沢において、20045月に東京で、のべ15日間の現地調査と図書館での収集資料、当時の担当者や関係者との面談に基づくものである。

 

筆者の問題意識

 

ところで、筆者はなぜ、このホームステイを研究対象にしたのであろうか。それは、筆者個人の、初めてのホームステイのホスト体験に端を発するものであり、筆者は今でもこの体験を教訓にしている。

それは、自治体の国際交流団体が後援しているホームステイ行事での、ホストの事前説明会場における一人の男性の質問に始まる一連のことである。その男性はこのように言ったのである。「私の処へのゲストはインドネシア出身となっていますが、彼が不法滞在者でないという保証はありますか。英語は話せるのですか。なんでもっと、こう、見栄えのいい人が当たらんかったんでしょうねえ。」彼が質問を重ねる度にみえてきたことがある。彼はゲストに、はっきりと見た目が欧米系と分かる、英語が話せるゲストを望んでいたのだった。そこには明らかに、インドネシアは貧しい国だろうから不法入国者、欧米系は裕福そうだから安心という図式が見える。そして、日本の家庭に滞在するホームステイであるのに、使われる言語は英語であると最初から規定している。その後、その男性は担当職員とやりとりを続けるも、結局、ホストになることを諦めて会場を後にした。そのやりとりをそばで聞いていた私は、自分のゲストの紹介書を見て「カナダ出身とあるがLubelskyという名前からは東欧系かな。肌の色は書いていないから判らない。インドネシアへは行った経験があるから、その男性と変わってあげようかな」と逡巡していた。そして私は、そのゲストが英語を話せなくても、どんな肌の色をしていようとも、ゲストとして引き受けようと変な覚悟をしていた。私自身もアジアの黄色い肌を持っている。英語を完璧に話せる訳ではない。そして私は、実際に会った彼に安心している自分が腹立たしく思えた。そのゲストは、英語教師のAETAssistance of English Teacher, Japan Exchange Teachers Program)として来日したばかりのカナダ・ケベック州モントリオール出身の24歳の男性であった。後に、彼の両親がハンガリーとルーマニア出身のカナダ移民であり、彼がカナダ人一世であると知った。彼は、両親がそれぞれに持つ文化規範で育てられたであろうし、当の彼は両親が新しく住むことを選択した街、モントリオールで生まれ育ってきた。彼を受け入れた当時は丁度、ケベックがカナダから独立するか否かの問題を抱えていた時であり、彼が独立を支持して望んでいる姿が印象的であった。ケベックがフランス文化圏と英語文化圏を共存させている事実を聞き、また彼や彼の友人たちがその文化を適宜選択して生活を楽しんでいると聞くに及んだ時には、彼にとって、そして生まれて以来日本以外に暮らしたことのない私にとって、いやもっと大きく捉えて、人間にとって文化とは一体何なのだろうと考える機会を与えられたのである。それから後、偶然のことであるが、私はインドネシアからの青年を、ホームステイのゲストに迎えた。彼の場合は、今までのホームステイに迎えるゲストで初めて、家庭内における使用言語は日本語だけであった。なぜなら、彼は高校時代に1年間の日本留学経験があり、日本語が堪能であったのだ。

これらのホスト体験は、筆者にさまざまな示唆を与える。つまり、ホームステイという機会が、今まで自分が自明のものと捉えていた文化に対する漠然とした考えやその時に自分が持つ「価値観」を、ひとつの踏み絵として示すことになる場合もある。最初に述べた、説明会場での男性の発言は、確かに問題を含んでいる。しかし、彼が事前に得ていたインドネシアという国のイメージは、当時の日本に流布していたイメージのインドネシアであったかもしれない。

ホームステイは、ゲストとホストの顔が直接にみえる場であるが、事前に、また滞在中にも、ゲストとホストのそれぞれが、相手の国や地域に対してのイメージでその個人を捉えて見ていることがある。そして互いが持つ相手へのイメージは、実際に暮らしていく中では、イメージのままで目の前に横たわるのか、またはイメージが覆されて、それがどのような異文化理解の機会を与えることになるのか、果たしてホームステイの場では、どのようなゲストとホストの接触が行われているのであろうか。このようにホームステイにおけるゲストとホストの接触領域での現象に、光を当てて捉え直して考えてみることがこの研究の端緒になっている。

 


第1章 「ホームステイ」という活動の考察

 

 

1−1.ホームステイとは何か。「ホームステイ」のことばとその定義

 

 最初に、日本では通常、ホームステイは片仮名で表記される。次の3つの辞書を基にその意味を捉えてみる。

 

@「家庭寄留。未成年者や女子学生などの(短期)留学の一形態で、身辺の安全と家庭的雰囲気を求め現地の一般家庭に寄留して勉強すること。」出所:三省堂コンサイスカタカナ語辞典。

A「家庭寄留。外国人の学生が家庭に滞在してその国の習慣や言葉を学ぶこと。」出所:朝日新聞『知恵蔵2003

B「留学生などが滞在地の家庭に寄宿し、家族の一員として生活すること。」出所:広辞苑、1998年度第五版に初出。

 

 上記からホームステイの一般的な概念を捉え直してみると、「留学生として訪れた学生が、一般家庭に寄留し、その国の習慣や言葉を学び、生活すること」になる。また英語では、20世紀に新たに創られた英語の単語を載せた辞書には、homestayhome stayという単語は見当たらない[3]。しかしながら実際には、このhomestayという英単語は、外国の論文や旅行会社のホームページに散見される。

次に、実際にホームステイを行っている組織や団体では、どのようにホームステイを定義づけ、またどのような目的や理念を持ってホームステイを行っているのだろうか。日本では1983年の「留学生10万人受け入れ計画[4]」政策がひとつの契機となり、当時の日本経済の好況も相まって、1986年からの10年間に全国の地方自治体に国際交流部署や国際交流団体が多く作られた[国際交流基金2001:11-13[5]。さらに現在は、数多くの旅行社がホームステイを自社の旅行商品の中に組み込んでおり、それらの一部を年代順に整理してみることにする。

表−2から、ホームステイが行われる背景には時代毎の特色が現れていることがわかる。なぜなら、第二次世界大戦後は、世界平和や国際化、国際理解のためにという言葉が多用され、その後は、国際交流や相互交流、文化の交流を通して地域社会の国際化の促進を図ろうというものが多いからである。実際に団体の掲げるこのような国際平和の理念を反映して、民間の草の根活動として、例えば旧ソ連時代のソ連の各地域へ、北朝鮮、中国、キューバなどの国交がない国へのホームステイが可能になり、人びとが出かけた事実がある[6]。しかし、戦争回避は個人の力ではどうにもならないことは周知のとおりであり、このホームステイを行ったとしても、国家間の関係改善が容易でないという国際政治の現実がある。しかしながら、諸活動団体はそれぞれにホームステイに意義を付して、ホームステイをさまざまな目的に沿った手段のひとつとして行ってきたのである。

 

 

1−2.「ホームステイ」の先行研究のサーヴェイ

 

 ここでは、ホームステイをキーワードに持つ、あるいはホームステイを取り上げている先行研究論文について、先に各研究論文の視点を示して述べ、その後に筆者の研究課題とのかかわりについて述べるものとする。

 国内の先行研究では、ホームステイを体験したゲストとホストの双方へのアンケート調査を基に考察を行っているものが多い[厨子1998][鈴木2000][鹿浦,武田2000]。厨子は、短期ホームステイにおける学びに注目して、その結果、ホストとゲストが、互いに今までの経験から抽象された異文化もしくは自文化の意味付け、イメージや既成概念、教科書の知識などを検証していくという学びの過程があることを考察している。鈴木はホームステイプログラムの成否を検証し、ホームステイにおいての言語的障害はそれほど大きなものではなく、ホストとゲストの双方が交流を楽しみ満足することができたと述べるが、その満足度に差があることがわかりその理由を分析している。鹿浦と武田は、留学生や在学生にホームステイでどのような問題を抱えているかを尋ね、異文化理解へ向けての提言を行っている。

 また、日本と海外の提携校同士の大学でのホームステイプログラムの企画について、理想的なスケジュールやプログラムの立案を提言している論文がある[Cornwell,Nakamura2002]。幸田はホームステイを、海外への研修プログラムや修学旅行とともに取り挙げて、観光を通しての異文化理解を論じている[幸田2003]。ホームステイにおいては、ゲストが家族の一員として家事の手伝いなどを行い、一方的に学ぶだけではなくゲスト側の文化を教えるなどして文化の相互交流を図るというマナーが必要だとしている。さらに観光が、異文化理解の場として今後さらに機能するための諸要因を積極論と消極論からそれぞれに述べている。後藤と岡野の二点は、ホームステイ先での留学生の健康調査を行い分析した研究や、日本語の話しことばを学ぶ場面でホームステイ先を選定して考察した言語分析の研究である[後藤,徳留2003][岡野1991]。

 海外の研究では、バルバドス島を訪れた観光者に、地元の一般家庭滞在の希望者を募り、滞在経験をさせた上でのアンケートを基に考察を行っているものがある[グラハム1996]。この観光者たちは元々、滞在している近代的で諸設備の整ったホテルからの一時的な家庭滞在を体験したもので、従来のホームステイとは形式が異なるが、一般家庭の滞在経験をしたいというゲストの動機や感想を知るという点では参考になる。また近年、オーストラリアで成長してきたホームステイをひとつの観光産業として捉え、そのホームステイ先のホストに、ゲストのケアと語学向上のためのサポートや文化の違いを教えることを意識するように提案しているものや、ホームステイを観光事業経営のひとつとして捉え、宿泊施設としてのホームステイの長所を活かし、その場をもてなしと観光経営の観点から述べている研究があるRichardson2001Lynch2003]。

 このようにみてくると、国内の先行研究では、ホームステイにおける学びや異文化交流がどのように行われたかを考察しているが、ホストが呈示した文化やゲストが求めた文化についてはそれらの事実を述べた現象面の記述だけに留まっているものがほとんどである。これらの論文は、ホームステイを、異文化理解の機会を与える場としての、「あるべき」交流の形や関係で捉えて考察しているだけなのである。また、ホームステイにおける滞在内容では、家庭滞在とともに近隣への小旅行や観光旅行が必ず含まれておりそれらを楽しんだという記述はあるが、その観光については考察の対象から外している。

 これらの国内の先行研究とは対照的に、海外の先行研究では、ホームステイを観光の中に位置づけて論じており、さらにはホームステイを観光産業としてどう運営していくかという視点まである。

 また先行研究ではないが現在までに、ホームステイ体験者による詳細な紹介や体験報告の文献、またホームステイに関する手引書が実に数多く出版されている。しかしこれらの文献は、ホームステイでホストになった体験や自身のゲストでの体験を述べて、そのホームステイの面白さや失敗談だけに終始している。さらに、ホームステイを自分探しの旅と位置付けて滞在先でのあらゆる体験を述べているものや、ホームステイを地域においての国際交流体験のひとつとして、その経過から結果までの詳細を報告しているものも多い。これらは、ホームステイの良さや意義を述べて、ホームステイを受け入れた際の交流を積極的に勧めているものが殆どである[小山内1985,川村1988,国際文化教育センター編1989,(社)青少年育成国民会議1989,1992,田村1992,平野1993,神山1993,清水1994,1999,2004,石毛2001]。

 そのような著書が多数ある中で、田淵は、自身が教える教育大学の大学生31名がアメリカで行った約1か月間のホームステイ体験記を、学生の体験談とともに考察、分析を行っている。ここで田淵はこのホームステイプログラムの目的を、「教員養成段階における異文化交流体験の重要性について指摘すること」として、その理由を国際化した社会にあって、国際的感覚・資質をもった教師教育の必要が叫ばれているが、その有効な方策や具体的実践は、ほとんど呈示されなかったからと述べる。さらにホームステイは、国際(異文化)理解の効果的な手段と方法であることを痛感したとして、その意義を唱える。ホームステイは一般家庭に入り日常生活を共にすることで、その日常生活の背後にある文化や信条(価値観・生活充実度)を知りうる最良の方法であろうとも述べている[田淵1988:2-3]。

 そこにみられるホームステイのプログラムの内容は、週のうち4日間の午前中を英語研修にあてている。午後やその他の日々は、フィールドトリップと称して近隣の消防署などへの施設訪問を行い、家族との遠出やディズニーランドなどへ出かけるなどの典型的な観光を行っている。しかし参加した学生たちは一様に、「私たちは、いわゆる観光客ではなかったということを強調しておきたい」という。その理由として、有名な観光地を着飾って買い物をする観光者とは違い、自分たちはTシャツとGパンという服装であり、ティーチャーから英語で解説を受け、英語で考えながらフィールドトリップを楽しんだからだと述べる[田淵1988:27]。しかし、そもそもその行為が、観光であるかどうかは、訪問者の服装や使用言語で区別されるものではない。学生たちは、ホームステイで滞在している自分たちは、学ぶことや地域の人びととの交流に重点を置いており、その自分たちの行動は、いわゆるありきたりの体験ではないのだと度々強調している。ところがその学生たちの意図とは異なり、実際の訪問先や楽しんだという体験内容などそれらは、観光者そのものの行動である。これら学生たちにみられる行動は、観光行動の中に体験や交流を加えているものである。

 上述してきたことからわかるように、ホームステイで滞在するゲストは、自宅に戻ることを前提に、一定の期間、非日常的な楽しみの遊ぶ、学ぶ、交流することを求めて、訪問先で滞在していると捉えることができる。これはまさしく観光空間におけるゲストの姿である。しかし現在までに、ホームステイの活動の中に「観光」という要素を見出して論じた論文が見当たらない。先に筆者は、ホームステイの一般的な概念について、「留学生として訪れた学生が、一般家庭に寄留し、その国の習慣や言葉を学び、生活すること」になると述べた。すなわち、特に日本においては、この「留学先での家庭寄留と学び」の概念がゆきわたり先行しているために、実際のホームステイの実態を捉えていない。つまり、実際のホームステイという活動は、遊びや観光の要素を実に強く持っており、それらを省いてホームステイを捉えることは、もはやホームステイの実態にそぐわないのである。

 先にホームステイ団体の活動内容を一覧表にしてみてきたように、現在は実に多様なホームステイが存在している。これらの非営利を謳うホームステイ交流団体の中には、大手旅行会社を窓口にしてホームステイの参加希望者を募集している例もあり、また旅行会社自体もホームステイを旅行商品のひとつにしている[7]。さらに、海外においてはより顕著に、ホームステイを観光商品のひとつとして明確に提示して、参加者を募集している。近年は、このように観光に実に多様な活動が取り込まれてきており、従来の観光だけの概念だけでは捉えられないとして、通勤通学以外の移動を伴ったものすべてをツーリズムということばで捉えようという動きがある[小西2003:1]。

 これらのことから筆者は、ホームステイは観光の面からの分析が可能であり、ホームステイにも観光としての位置づけが必要だと思われるのである。それでは、その観光とは何なのか、現在までにどのような定義が為されてきているのかをみてゆくことにする。

 

 

1−3.「観光」の考察

 

 この節では、先に観光の定義をみてゆき、その後、その定義に沿ってホームステイを観光という視点から捉えることが可能であることを考察していく。

 先ず、観光ということばは、江戸時代末期に当時の長崎奉行、永井尚志(玄蕃)が蒸気軍艦に「観光丸」と命名した際に、古代中国の儒教経典のひとつ、周易(易経)の一文を引用して作った造語である[麻生2001:1]。「(国の)光を観る」というところから、「観光」ということばが生み出された経緯は、観光が本来は「みる」という行為に重点がおかれていたことを示す。一方、「ツーリズム」という言葉自体は、1811年頃には近代的な人の動きを表現するために作られ、ぐるっと一巡りするというニュアンスをもち、トラバーユ(労働の意)から来ている「トラベル」という言葉より穏やかな響きをもっていた[ブレンドン1995:27-28]。さらに、この英語のtourismは「楽しみを目的とする旅行」traveling for pleasureのことである[ブーアスティン1964:97,Longman1991:708]。

 観光についてアーリは、レジャー活動であり、規則化され組織化された労働の対照物を前提にして行われ、観光での滞在期間は短期的かつ一時的という性格を持ち、家へもどるという明確な意図があるとしている[アーリ1995:4-5]。ナッシュは観光者を定義してから観光をこう論じている。それは「観光者は主要な義務から離れた余暇状態にあり、自ら所属する社会の外に移動し、日常の生活からの何らかの変化を求めるが、他社会への移住者ではない。すなわち観光者は余暇にあって旅行している者である。いかなる動機であろうとも観光者が行う行為が観光である」という[Nash1981:462]。

 日本の観光論や観光学の著作において、またそれらの分野からは、残念ながら統一された確立した観光の定義はない[鈴木編1988,前田編1978,1995,1996,2003,岡本編2001,安村2001]。それは、その複合的な内容と範囲が広範なため、それぞれの専門領域からのアプローチでその学問的規律(academic disciplines)に基づいて定義づけられているからである[津山2000:2-6]。それは例えば、地理学、経済学、経営学、マーケティング、心理学、社会学、歴史学、文化人類学、・・・等々である。そのような中で塩田は、比較的に汎用性の高い定義をおいている。それは狭義での観光を捉えて、「人が日常生活から離れて、再び戻ってくる予定で移動し、営利を目的としないで、風物等に親しむことである」としており、また、広義での観光については、「そのような行為によって生じる社会現象の総体である」としている[塩田1974:5]。

 次に行政の定義をみる。1995年に観光政策審議会が観光を、「余暇時間の中で、日常を離れて行う様々な活動であって、触れ合い、学び、遊ぶということを目的とするもの」と定義している[8]。西田は近年、観光者の観光行動の目的が増えているとして、観光行動の多様性を指摘している。それらはすなわち、従来からの、珍しい観光資源を「見て感動する」と現地の美味しいものを「食べる」、そして日常を脱して「心と体を癒す」の3要素に加えて、地域に身をもって接し、人々と交歓する「参加・体験・交流する」と、楽しみながら自己の資質を高めたり自己実現を図る「自然・歴史・文化を学ぶ」という2要素が加わって、5要素になってきているというものである[西田2001:42]。

 また、世界観光機関(WTO)はツーリズムを、「余暇、ビジネス(商用旅行)、その他の目的のため普段生活している環境を離れ、継続して一年を越えない期間の旅行をし、また滞在する人々の諸活動」としている。このWTOは、行動主体としての観光者に重点を置いて、通勤通学以外の移動を伴うものすべてをツーリズム概念で捉え、そのツーリズムをleisureレジャー(余暇活動)、businessビジネス(業務やプロフェッショナル活動)、othersその他(巡礼など)の3分野に分類している[国際観光振興会1998:4-5]。さらにツーリストの定義として「一時的にあるいは短時間の旅行の場合でも、少なくとも24時間以上住居から離れる者」としている[9]

 スミスは、観光活動の基本は、公式化できる主要な三要素が全て機能していなければならないとして、「観光活動=余暇時間+可処分所得+地域に基づいた道徳観」を挙げる。また旅行者を定義して、「非日常を体験することを目的として、自宅からはるか離れた土地を訪れる、一時的な有閑者のこと」としている[スミス1991:1]。また、観光者の類型をその数の多寡と地域規範への適応によって7段階に分類している(次頁へ)[スミス1991:17


 

    観光者類型       観光者数           地域規範への適応   

 探検者         きわめて限られている     完全に受容

  玄人観光者       めったに見られない      十分に適応

  破天荒観光者      ごくまれに見られる      かなり適応

  型破り観光者      ときおり見られる       ある程度まで適応

  初期マス・ツーリズム   一定のフロー         西洋的快適さを探索

  マス・ツーリズム     絶え間ない入り込み      西洋的快適さを要望

  団体観光者        大量の到着数         西洋的快適さを要求

 

また、人はそれぞれに異なる観光の体験を求めているとして、コーエンはツーリストのタイプを5つのモードで分類している。それらは、日常の退屈さから逃れる気晴らしモードや、心身の疲労を癒し元気を取り戻す気晴らし以上の再生(re-create)と娯楽的色彩を強く持つレクリエーションモード、観光先で生きる人々の生活様式や価値観に憧憬の念を抱きそれこそがオーセンティックな生のあり方だと考える経験モード、他者の生活に憧憬の念を持つだけでなく実際そこに参加し体験しようとする体験モード、単なる体験にとどまらず自分の生活様式や価値観を捨て去り旅で知った人々のそれらを永遠に自分のものにしようとする実存モードというものである[コーエン1998:39-40]。

みてきたことから筆者は観光をこう定義しよう。それは、観光とは「観光者が、普段の自分の日常生活圏からの移動を行い、一定の期間の中にあって、非日常的な楽しみを求めて行う活動のことである」。加えて上記の観光と観光者定義から、ホームステイで滞在するゲストを捉えると、ゲストは自宅に戻ることを前提に、一定の期間を、非日常的な楽しみすなわち、遊ぶ、学ぶ、交流することを求めて訪問先で滞在している。ホームステイをWTOの分類で考えてみれば、othersその他の活動分野にはいる。またホームステイのゲストを、スミスの観光者類型であてはめれば、初期マス・ツーリズムと型破り観光者の丁度中簡に位置し、コーエンのツーリスト分析でいえば、経験モードや体験モードのツーリストに該当する。

このようにみてくるとホームステイは、十分に観光の要素を色濃く持つ活動と捉えられる。むしろ観光の一形態として捉えることが可能である。そこで次節では、ツーリズムの変遷を辿り、ホームステイがそのいずれのツーリズムに該当するのかを検討する。

 

 

1−4.ツーリズムの変遷

 

 観光旅行は、17世紀からはじまる英国貴族階級のグランド・ツアー(大周遊旅行)にみられるように、限られた王侯貴族などの支配(有閑)階級のものであった。また、アメリカ人にとっても、19世紀の終り頃までは、外国旅行とは主としてヨーロッパ旅行のことであり、少数の特権階級のものだけが味わえる経験だった[ブーアスティン1964:95]。その後の18世紀に英国で起きた産業革命からはじまる生産労働の中での余暇時間への意義付与や、1841年のトマス・クックによる初めての団体旅行のはじまりもひとつのきっかけとなり、フランスとオーストリアの鉄道の開通に始まる鉄道網の発達や近代ホテルの成立、1851年から始まる万国博覧会の度重なる開催、スエズ運河の開通などのさまざまな要因がきっかけとなって、ツーリズムの大衆化がヨーロッパで実現された[石森2001a:6]。このように特権階級でなく、市民階級の大衆観光は、平等性と大量性を基本理念として、誰でもどこへでも行くことができるということを可能にして拡大してきた。

さらに20世紀は、大型客船や航空機の発明、ジャンボジェットの開発などによって、観光者の量的拡大が活発になった世紀であった。1960年代以降におけるマス・ツーリズムの隆盛化は、自然環境の破壊、文化遺産の劣化、伝統文化の誤用と悪用、地域社会における階層分化、犯罪と売買春の増加などのさまざまな負のインパクトを生じさせてきた[石森2001b:7]。石森は、これまでに世界および日本の各地で展開されてきた観光開発は、基本的にマス・ツーリズムの対応を主要な前提にしており、しかも観光開発の対象となる地域社会の外部の企業が開発主体になるケースが圧倒的に多かったとして、そのような外部企業による観光開発のあり方は、「外発的観光開発(exogenous tourism development)」と名付けることができるとしている。この外発的観光開発では、しばしば地域社会の意向が軽視されたり無視されることによって、各地の貴重な地域資源(自然環境や文化遺産など)の破壊や悪用や誤用などが行われてきたと述べる。外部の開発主体は、利潤追求を目的にして、地域社会の意思とはかかわりなしに地域資源の商品化を進めることが一般的であり、その結果としてマス・ツーリズムに適した観光開発が成就されてきたというわけである。要するに、外部企業やトラベル・エージェントによって観光のあり方が規制され、条件づけられるという意味で、マス・ツーリズムは他律的観光をうみだす要因になったわけであり、それが近代観光を特徴づける最も重要な要因になっているという[石森2001a:7]。

このような大量集客、大量動員の大量性志向の過程で起きてきた負のインパクトを省みる形として、ピアスは、1970年代から80年代にかけての観光プロジェクトや政策が開発途上国で実施されるようになった例を挙げる。そこでのプロジェクトは、マス・ツーリズムの弊害を配慮して政府が実施したもので、本質的に小規模で地味であり、その地域住民の参画度は高かったという。それらは、1972年のカリブ海のセント・ビンセントでの土着の統合的観光政策や、以降のプエルトリコ、ガドループ島、ポアンタピートル近郊のホテル開発、フランス領ポリネシアの例などにみられる。また、こうした地域参加による開発の目標は、地域資源を活用するなどのマス・ツーリズムへの反応やホスト−ゲスト間の接触を改善する強力かつ明確な目標によって補強され、はじめには刺激さえされたという[ピアス1996:18-20[10]1980年代にはいると、マス・ツーリズムにとって代わるという意味で、「オールタナティヴ・ツーリズム」が、新しい観光のあり方として模索されるようになった。今までの大規模な宿泊施設建設に対しての反省から、ホストの家庭を供与するツーリズム形態を模索し、また施設の実際的な開発よりも、観光者のそれぞれの特別な関心に基づいて十分に準備されるスペシャル・インタレスト・ツアーが開発された。これまでのような大規模な資本主義的な、外国占有のハード・ツーリズムに対して、地域住民とそのゲストの相互理解をもたらすソフト・ツーリズムという考えも出てきた。これは、地域住民が用いる既存のインフラストラクチャを利用するようにつとめ、環境に有害であるような贅沢な観光施設を受け入れないというものである[ピアス1996:20-22]。しかしこのように、オールタナティヴ・ツーリズムは、ホストの家庭を用いる形や、新たなスペシャル・インタレスト・ツアーやソフト・ツーリズムの開発等にみられるように、実に多義的な内容を含むようになった。それゆえ、定訳がなく曖昧で、それを用いる人びとによって、様ざまな意味を持ちうるために、この用語を用いることが難しくなった。このオールタナティヴ・ツーリズムが提唱されて後の極めて短いうちの198911月に、WTO(世界観光機関)とアルジェリア政府が、新たな観光のあり方に関する会議を開催した。そこでは参加者が、そのような曖昧な概念のオールタナティヴ・ツーリズムという語を全面的に拒絶し、次に「レスポンシィブル・ツーリズム」(責任ある観光)という用語を選択した[スミス,エディントン1996:G-ix]。

1990年代にはいっても引き続き、観光のありようを巡っての議論は続くことになる。1992年のリオ・デ・ジャネイロで開催された地球環境サミットで、グローバルな環境政策のスローガンを受けて何よりも環境保全と資源保護に基本的に配慮した、「サステイナブル・ツーリズム」(持続可能な観光)が創出された。そのサステイナブル・ツーリズムについて安村は、初期マス・ツーリズムの典型的な観光形態に内在する近代問題とそれに深くかかわる諸問題を、サステイナブル・デベロップメントの理念に基づいて改善しようとする新しい観光形態であるとして、その特徴を、ホスト社会の環境保護とホストとゲストの対等な交流の二つを導出している。WTOの定義では「サステイナブル・ツーリズム開発は、未来における向上の機会を守り、さらにはその機会を高めながら、現在の観光者とホスト地域のニーズに応える。その開発は、資源すべての管理につながるとみなされる。それらの資源管理は、文化的統合、生態系の根幹、生態系の生命維持システムなどを守り続けながら、経済的、社会的、審美的なニーズを充たすようになされる」というものである[安村2003:217-218]。

また、これらのツーリズムは、対象とするアトラクションの属性によって細分化されてくるようになった。それらのツーリズムの主なものを挙げてみることにする。エコ・ツーリズムには様ざまな定義があるがひとつには、「自然環境への負荷を最小限にしながらそれを体験し、観光の目的地である地元に対して何らかの利益や貢献のある観光」と考えることができる[敷田,森重2001:83-89]。グリーン・ツーリズムとは、アグリ・ツーリズムともいい、都会に住むゲストが、農業などを生業とするホスト宅に滞在して農業体験をし、滞在を通して地元の人々との交歓を図ることであり、会員制として事業展開しているところが多い[田平2002:105-108]。また、ヘリテージ・ツーリズムは、文化観光あるいは文化遺産観光とおよそ同意義であり、ユネスコに指定された文化遺産も含めて、世界各地の文化的遺産をめぐる観光のことである[西山2001:23-27]。さらに、観光者が自らの関心や目的に基づき、観光を通じての体験的学習を意図するスペシャル・インタレスト・ツーリズムもこの10年あまりの間に盛んになっているが、対象が料理、語学、音楽、スポーツ、民族など多岐の分野に及ぶツーリズムである[スミス,エディントン1996:20-21.105,Weiler,Hall1992:2-14]。ポスト・モダン・ツーリスト、すなわち現代の観光客は、(語学)留学やワーキング・ホリディなどの新しく社会的に公認された移動の制度も利用して観光し、時には観光先でも仕事と観光のギアチェンジをする、もしくは違う労働のスタイルを演じることが楽しみにすらなっている場合もあり、益々多様化してとらえどころがないという[神田2001:57-59]。つまり現代では、このように、観光を行う動機が実にさまざまで、ツーリズムの形も多様性に富んで、〜・ツーリズムと名を付されて展開しており、掴みきれなくなっている実態がある[11]

さて、概観したように、観光に関わる人びとは、今までマス・ツーリズムなどの観光がもたらした負のインパクトを反省の材料にして、現在までによりよいツーリズムの形を探し求めてきた。これまでのツーリズムの変遷を整理して、「オールタナティヴ・ツーリズムの範疇に、理念としてサステイナブル・ツーリズム(持続可能、責任ある)やソフト・ツーリズム(建物、宿泊施設などのハードに対して)、スモール・ツーリズムなどを挙げ、実態としてエコ・ツーリズム(環境配慮)やグリーン・ツーリズムなどを捉える」ことが筆者には妥当だと思えるのである[西田2001:41]。つまり、オールタナティヴ・ツーリズムは、マス・ツーリズムが引き起こしてきた負のインパクトに対して、それぞれに個別に対応することを可能にするという意味においては、マス・ツーリズムに代わりうる存在のツーリズムである。その意味で捉えると、オールタナティヴ・ツーリズムの定義は依然として曖昧なままで了解してオールタナティヴ・ツーリズムの位置は、これからもマス・ツーリズムに対置して存在するといえるのではないか。そして筆者は、ホームステイは、理念としても実態としても、マス・ツーリズムに代わりうるオールタナティヴ・ツーリズムに属する観光であると捉えるものである。さらにそのことは、バトラーの指摘(表−3)が、より具体的に、従来のツーリズムと新しいツーリズム(英語表記ではオールタナティヴ・ツーリズムとしてある)を比較して示しており、よりホームステイに対しては具体的であり示唆的である。

 

 

1−5.ホームステイの活動に含まれる多様な活動

 

 それでは、ゲストはこのホームステイという家庭滞在を経験しながら、どのような活動を行っているのであろう。次のようなさまざまな活動が挙げられるが、それぞれに説明を加えていく。

 1)観光:ゲストは滞在先の地域で、その地域とそこを足場に近隣への観光を行っている。

 2)交流:滞在先のホストとの交流を主軸にして、そこから拡散していく交流が見出されることがある。

 3)自己実現:「若者や女性やシルバー層を中心にして自由時間の中で生きがいを得るために自己実現を図ろうとする動きが静かに力を持ち始めている」というように、ホームステイ先において英国でガーデニングを学ぶ、フランスでケーキの学校に通う、またバリで舞踊などを学ぶなどという自分の夢を叶える例がある[石森2000:15-17][石毛2001]。

 4)異文化理解:その地に暮らす人々の生活文化や、その地域や近隣地域の伝統文化を理解して体験できる。ホストとゲストの双方が互いの異文化理解の手立てのひとつとして用いることもある[12]

 5)教育的効果:ホームステイ先は、外国語などを学ぶ実践の場でもある。ホスト家庭に同じ年頃の子どもがおり、家庭にあって子どもに異文化理解の機会を与えるという教育的副次効果がある。

 6)その他:子どもたちが巣立ったあとの空き部屋利用と人を自宅に迎えることで生活に変化が出てくる効果を期待しそれを生きがいにしている人の場合、自分たちの娘、息子がホームステイでお世話になったその返礼の意味を込めてホストを始めた場合、また、家計に少しの足しになると思ってはじめる場合などがあり、ホームステイに関わる人びとの動機は様ざまに変化している[13]

 

 このようにホームステイは、まさに複合的な活動を持ち、オールタナティヴ・ツーリズムのひとつ、新しい観光のひとつとして存在しているといえるのである。それでは次章で実際に行われたホームステイについてみていくことにしよう。

 


第2章 ホームステイの誕生と金沢におけるホームステイ検証

 

 

2−1.ホームステイ誕生

 

ホームステイは、1933年にアメリカに住む十代の青年達が、フランスとドイツの両国において「訪れた国の文化に完全に浸れるようホスト家庭と暮らす」ことによって始まった[14]。その後は1935年に英国へ、1938年にはイタリアへと出かけている。これは一民間組織のEILExperiment in International Living、以下EILと表記)によって行われた。

このホームステイという発想は、第一次世界大戦後に国際連盟が主催の「国際青少年代表キャンプ」に参加したEIL創始者、Watt,B.D(以下ワットと表記)自身の体験が下敷きになっている。このキャンプは青少年を対象にしたもので、「武力によらず相互理解に基づいて平和を維持しよう」という理念の下に、ジュネーブで実施されたものである。しかしこのキャンプは討論会と講演会を繰り返して行うだけであり、ワットには国際理解の手立てとしては不十分に感じられ、引き続きその後に国際理解を効果的に深める方法を模索して、この外国でのホームステイにいきついた[15]このホームステイ、つまり「家庭生活体験」をはじめるにあたりワットは青年たちに、1)フランスとドイツの青年たちと暮らすことによって、彼等がどのように住んで何を考えているかを学ぶこと、2)友人を作ること、3)彼等の母語を話すことを先ずはじめること、4)文化的歴史的に重要な場所を訪れること、を最も重要な点として挙げ実施した。当時のワットはニューヨーク州シラキュースに住む、博士号を持つ教育者であり、ホームステイはこのように教育的見地から十代の青年達を対象にしたものであった[Watt1967:2,78-86, 93,96-98[16]

そして、これらの訪問国と滞在内容からわかるように、ワットが考え出したホームステイはグランド・ツアーと類似している。グランド・ツアーは、17世紀から、英国貴族の御曹司たちが大学に行く代わりに、あるいは大学を出て実務につく前の時期に行われていた旅行で、家庭教師とともに主にフランス・イタリアを訪れる大周遊旅行のことであった。このツアーの目的は、遺跡やルネッサンス芸術に触れて審美眼を養うこと、並びに語学と幅広い教養の習得であった[本城1983:4-9]。EIL1名のリーダーが大学生や大学を卒業したばかりの若者を連れて、事前に語学研修やオリエンテーションを実施し、そして訪れた現地においては、学生たちがその語学の実践とともに文化に触れ、滞在日程の半分は観光に充てられていた。

 第一次世界大戦後から1920年代にかけてのアメリカでは、自動車による国内観光旅行の大衆化が進むとともに、ヨーロッパへの観光旅行ブームがおきる。第一次世界大戦によって地中海やヨーロッパ諸都市の魅力が発見され、アメリカ人が移民としての自分たちのルーツを訪ねる里帰りブームがおきたのである。1913年にはパナマ運河が開通し、客船の大型化と高速化が進んでいた。1920年代から30年代にかけては、世界的に政府観光局、国立公園、レジャー関連法などが生みだされるとともに、バリ島は「最後の楽園」として、またハワイは「太平洋の楽園」として売り出され、アフリカではサファリツアーが盛んとなった時代であった[山下1999:37-40,山中1993:91-103]。これら欧州の観光局がねらった観光客は、大戦を勝利に導き、そのうえ巨富を獲得して、イギリスを世界の王座から下ろしたアメリカの人びとで、アメリカは、当時唯一の観光輸出国だった[貴多野2002:143,石井2001:267-268,Vellas, Becherel1995:295-312[17]

また江口はアメリカの観光の歴史について、ファン・ドーレンの4期の分類を用いてその特徴を指摘している。1860年から1920年を「上流階級の時期」とし、1920年から1958年を第2期の「観光の大衆化」の時期と捉えて、ただ単に一部の社会的エリートが観光をしたのではなく、より広範な人たちが観光を楽しみ始めた時期であるとした[江口1998:217-220]。

このような背景から、ホームステイは国際観光の潮流と軌を一にしており、アメリカの海外旅行ブームと一体となって誕生したのである。

2−2.金沢におけるホームステイの成立とその背景

 

 日本において実質的に初めてのホームステイは、1956(昭和31)年に石川県金沢市において行われた[18]。これは先の節で述べたEILの創始者ワット自らが夫人と4人の女性を伴い、1か月間金沢でホームステイを実施し、その後2か月にわたり日本各地を観光旅行したものであった。当時はホームステイということばはまだ使われておらず、生活体験者(experimenter)ということばで紹介され、日本の地方都市におけるアメリカ人の家庭滞在は、地元の新聞にも連日大きく取り上げられて大変な反響を呼んだ。日本においては、ホームステイの組織とその概念が、この1956(昭和31)年の金沢から、長野市、甲府市、鹿児島市や、京阪神間の5都市などへと広がってゆき、やがて日本の人々に認知されてゆくのである。

 日本におけるホームステイの嚆矢である金沢の事例を検証することの大きな意味は、この事例が1956(昭和31)年という歴史的、社会的な状況や、金沢という都市の特殊性に規定されつつも、その後の日本におけるホームステイの原型ともいえる諸要素を、ものの見事に含んでいることである。その意味では、日本でのホームステイの発生と展開を歴史的に解明するためにも、避けては通れない事例研究なのである。

ところでなぜ、ホームステイが首都の東京で行われたのではなく、金沢で行われたのであろうか。当時からホームステイの受け入れに関わった山本は1997年に、「ホームステイという活動は、40年前は奇想天外なことであり、unthinkableなことをする団体だと思われた。それも金沢という地方都市でスタートしたと言っても信じてもらえぬことがしばしばである。」と振り返る[山本1997:2]。

 このEILは、1956(昭和31)年のホームステイの実施に先立って、外務省に生活体験の計画について相談をした。その際、東京の在日合衆国教育委員会を紹介され、そこに関わりのあった女性が金沢出身の真木雪子であった[19]。金沢市が京都、奈良とともに戦災を受けず、そのためアメリカ人を受け入れても市民の反米感情が相対的に弱いとの配慮が働いたことと、日本の伝統文化の継承が比較的よく行われていた点から、真木が自身の出身地を推したという[20]

 しかし当時、ホスト探しは困難を極めた。真木が金沢で1か月近くをかけてホスト探しをするものの、打診した日本人家庭全てから、英語が話せず引き受ける自信がないこと、洋式トイレがなく西洋料理の提供もできないことを理由にあげて拒否され、真木は落胆した[21]

そこで真木は、金沢市内にあったアメリカ文化センター(American Cultural Center、以下ACCと表記)に同年2月、ホスト探しの依頼を決心する。その後、このACCが、金沢におけるホームステイの成り立ちに深く関わっていく。そこでまず、ACCとはどのような組織で、どのような活動をしていたのかをみておきたい。

戦後、連合国総司令部の民間情報教育局(Civil Information and Education、略称CIE)が日本の文化と教育部門の任に当たった。そしてこの管轄下にあった通称CIE図書館が、人口20万以上の都市、全国23か所に置かれるようになった[22]。このCIE図書館の活動の目的は、日本の民主化遂行に協力することと、日本人にアメリカ人の考え方、生活、習慣や、アメリカ政府の方針を理解させて、第二次世界大戦の実情を知らせるための情報を提供することの二点であった。

 金沢には1948(昭和23)年6月に、CIE図書館が開かれた。当時の「図書館の読書利用率は、一日平均300人から400人、最近の月曜日には1,000人近くにのぼり、学生、インテリ婦人間に好評を博していた。」とあり、このCIE図書館が、広く市民に浸透していた様子がわかる[北国毎日新聞1948:923日]。全国に置かれたCIE図書館は、当時では珍しい開架式で、アメリカ人の図書館司書が一人ずつ常駐して運営管理に当り、23あるCIE図書館の書籍数は合計で21万冊を超え、1950(昭和25)年度の入館者総数は240万人を数えたといわれている[国際交流センター2002:2[23]

 その後CIE図書館は、日米講和条約発効後の1952(昭和27)年に国務省に移管され「アメリカ文化センター」と名称を変え、改めて13の都市に発足した。ACCは、一般図書、参考資料の、相当数に上る医学図書を揃え、英会話クラスを設け、映画会やレコード・コンサート、写真展などを定期的に催した[重乃:1985[24]1959(昭和34)年の金沢ACCの貸出映画目録には、アイゼンハワー、民主主義(自由主義を含む)、共産主義、科学・工業(電力、ダムなど)、宗教、スポーツなどがあり、実に多岐に亘る内容であった[25]。当時の金沢ACC職員が次のように回想している。

 

 センターと言えばアメリカ文化センターにきまっていたのである。名前が長過ぎるというので、アメブン、アメセンなどと新聞やラジオ、テレビ関係の人達は略称していた。・・・十六ミリの映写機とフィルムを備え、映写技術の講習会を随時開いて、映写機とフィルムの無料貸与をしていたこともACCならではの、広く一般市民へのサービスであった。北陸の人達が終戦後、最初にインクの香も真新しい洋書や、外国雑誌を見たのも、日本のレコード会社が三十三回転のLPレコードとプレーヤーを発売する数年前に、アメリカ製のクラシックやジャズのLPレコードを聴いたのも、金沢ACCにおいてであった。その他、日本の大学に招かれているフルブライト交換教授たちの各専門分野における講演会、討論会なども盛んに行われたし、英語クラス、レコード・コンサート、音楽会、英語劇、英語弁論大会なども長い間つづけられた文化行事として挙げることができよう。[宮崎1971:43-44

 

 当時、この金沢ACCは元の北陸海軍館の建物を使用しており、建物の正面にある玄関の上の壁一面に、「AMERICAN CULTURAL CENTER アメリカ文化センター」と大きな英文字と日本文字が併記で貼られた、目立つ建物であった[北陸日米文化協会編1971:口絵写真]。現在は、新たに建て直されて社会福祉会館になっている。1990年にはこの構内に、北陸日米文化協会の創立30周年記念事業により、「金沢アメリカ文化センター碑 日米文化交流発祥地19511967」と記された記念モニュメントが設置された。また、金沢駅前にある、(財)石川県国際交流協会の中の図書館には、「旧アメリカ文化センター蔵書」のコーナーが設けられ、50年近く経っても蔵書として298冊の本が置かれている[26]。このように、金沢市民と金沢ACCとの関係は、現在もまだ繋がっていると言っても過言ではないだろう。

 金沢で最初のホームステイが行われた時点でのACCは、民間情報教育局(CIE)の管轄下にはなかった。しかし、それまでの経緯と活動内容からみて、この機関の目的がひき続き、日本に対するアメリカの自国文化の浸透にあったことは容易に察しがつく。そして、ホームステイにおけるホストの成立の事情は、このACCを抜きにしては語れないのである。

 先ほどのホスト探しに難航した真木の要請に対して、ACCに勤める日本人職員が、ACC主催の英会話クラスを受講していた大学生や主婦たちを中心に先ず声をかけ、ホストの打診をした。この金沢におけるホームステイを希望している、先に述べてきたEILExperiment in International Livingという組織は民間組織であり、決してアメリカ政府の業務とは関係ないとした上でのホスト探しであったが、実際にはこのACCからの側面的援助がなければホームステイは実現できなかったと考えられる[27]。こうした交渉を経た結果、ホストが決まったのはワットらの来日直前のことであった。金沢における受け入れ家庭探しに奔走したACCの日本人職員や、地元の中学校、高等学校の英語の教師達は、当時において既に海外での生活体験者であり、英語で意思疎通ができたことも初めての受け入れが成功した要因になった[山本1997:2-3]。

 かくして、ホームステイのホストとなることを引き受けた人びとが、非常に限定的な社会層であったこと(表−4参照)、そして、それらの人びとの多くが、アメリカ政府が設置したACCを通じて、アメリカへの文化的な関心や憧憬を寄せていたことがホームステイ実現の背景にあったのである。

 しかし、より注目すべきことは、日本にアメリカからのホームステイを受け入れる素地が既に醸成されていたという事実である。つまり、EILのホームステイ実施という行為は、EILが民間機関の活動であることを、そしてそれをACCが側面的援助で支えることをお互いに強調するものの、その意図とは別のところで、これまで述べてきたようなCIE図書館やACCなどの活動が、アメリカによる占領統治政策によって行われてきたということなのである。当時の金沢のACCが活動プログラムを独自に編成して行い、その内容に柔軟性を持っていたことも、ホームステイ実現のための行動を起こしやすくした一因である[28]。しかし、その事情を考慮しても、その背景には、アメリカ政府が意図してきた、政策的な文化敷衍があることは明らかなのである。文化レベルの交流の背後に、戦後日米間の政治的色彩の強い事情が横たわっていた[29]

 したがって、このホームステイは、アメリカがその文化の優位性を示し、他方で、日本のアメリカ文化に対する親和的な態度が用意された、そうした特定の状況下での、日本という異文化との出会いなのであった。こうした構造の一端は、ワットたちが訪れた翌年の1957年のホームステイにもみられる。このときの金沢大学英語研究会主催の歓迎会での会話はすべて英語で行われ、迎えた日本人学生たちにとっては異国的雰囲気だったという[北国新聞1957:717日]。また、学生たちを迎えたホスト宅のなかには、昼間はホスト家庭の英文科専攻の女性が行動をともにし、夜には英語を話せる親戚を呼び寄せてその親戚がホスト宅に宿泊するという形がとられた家庭もある[北国新聞1957:7月20日]。これでは来日前の学生たちの日本語の勉強が活かされていない。来日後に英語が自国にいる時のように使えるという状況は、学生たちが意図していなかったものであろうが、反面、ゲストである学生たちにとっては、実に心地よい状況が出現していたといえる。筆者はここに、優位にあるアメリカと、そのアメリカに合わせて受け入れてしまう日本の、厳然とした力関係の図式を見るのである。

 

 

2−3.1956(昭和31)年の時代背景

 

 ここで、このホームステイが行われた1956(昭和31)年という年は、どのような時代であったのであろうか。この年の経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言し、日本と同じ敗戦国の当時西ドイツの復興を例に挙げて、同じく世界経済に復活した日本を強調している[経済企画庁編1956:42]。同年の12月には正式に国際連合に加盟を果たし、日本が国際社会に復帰したと言われた年でもあった。この経済白書が用いた「戦後」については、小熊が、現代でもしばしば取り上げられる「戦後、日本は豊かになった」という、その「戦後」とはいつの時代を指すものなのかと問いかける。小熊は日本の一人当たりの国民総生産を例に挙げて、日本が戦前水準を回復したのは、敗戦後10年を経た1955年であるという。戦争の被害で大幅に国民総生産が低下した1954年までを「戦後」と考えるなら、「戦後、日本は貧しくなった」と述べられねばならないとも述べる。そしてこの、当時の流行語となった「もはや戦後ではない」という言葉とはすなわち、1955年をもって「戦後」は終わったというのが当時の認識であったいう[小熊2003:11]。

 また、政治面では、1955(昭和30)年10月に左右社会党が再統一され、つづいて11月に民主・自由両党が統一されることで、保守と革新の二大政党が対抗する「五十五年体制」が誕生した。この「五十五年体制」のことばについては、升見準之輔が安定期に入った政治体制の始まりを、この1955年に見出して後の60年代に言い出したことばであった[五百旗頭2001:395-403]。日本はこの時代に、経済的そして政治的にもようやく戦後を脱却して安定した時期にはいったのであり、それはすなわち、1956年は「五十五年体制」と高度経済成長のはじまりに象徴される、もう一つの「戦後」が始まった年であったのである[小熊2003:12]。

 また一方で、1956年は、その占領期間が終了してわずか4年後の時期である。1951(昭和26)年9月に当時の吉田茂首相が講和条約に署名したが、同じ日に日米安全保障条約に署名するという、占領期間を終えても引き続き日本が日米安保体制に組み込まれていく状況でもあった。小森は、戦後の日本とアメリカについて、「政治的な次元では民主主義の国アメリカが、経済的な次元では資本主義の国アメリカが、そして文化的な次元では自由な国アメリカが、それぞれに戦後日本社会が目指すべき目標として掲げられた。その意味で、アメリカのようになることは、人々に広く共有された欲望であり目標であった。むしろ、人々の日常生活次元では、アメリカのようになることは豊かさとイコールであった。・・・戦後日本におけるアメリカは、具体的な国家としてのアメリカ合衆国のみならず、近代性/進歩性/西洋性/豊かさといった肯定的イメージのシンボルにほかならなかった」と述べる[小森2001:72-73]。

 もう一点、国際観光の観点から付け加えるとすれば、日本は1950年にGHQによる海外からの訪日制限が大幅に緩和され、その後のこの1956年に「観光事業基本要綱」が閣議決定された。これは、国際間の相互理解の促進、文化の交流、国際収支の改善、国民の厚生福祉の促進、教養の向上の5項目からなっていた[麻生2001:10-11]。尚、日本人の海外渡航自由化は1964年からで、当時は500ドル(当時1ドル360円の固定相場、18万円)の持ち出し外貨の制限が課されていた。

 つまりこれらのことから、1956年というこの時期にだからこそ、アメリカからのゲストを受け入れることができたのではないか。この時期は、実質的に、日本の市井の人びとの気持ちの中に余裕が出始めた時期だったのである。つまりそれは、ホームステイという家庭滞在、生活体験をしたいと訪れたアメリカからのゲストを迎え入れるひとつの要因といえ、この時期にこのような背景が意味するところは大きいと考えられる。

 

 

2−4.準備される異文化へのまなざし

 

1956(昭和31)年に初めて金沢を訪れたホームステイは、先に述べてきたような学生を中心とした従来のEILのホームステイとは違った形で日本を訪れている。ワット夫妻と共に来日した4人の女性は、Granma group」(筆者注:おばあちゃんグループ)とEILの中で呼ばれていた、年齢が43歳から64歳までの年長の女性たちであった。EILは事前に訪問国のことばや習慣を学んだ後にホームステイを行っているが、この女性たちはこれらの形をとらずに訪れており、滞在期間も学生の夏休みに合わせた2か月ではなかった。ワットは「日本はあまりにも遠く、そして旅費が高いことからそれに見合うように4か月は滞在したいと思い、その期間の滞在が可能な同行者を募った」のであった[Watt1967:251[30]

 ワットたちは、日本へ向かう3週間の船旅の間、毎日6時間かけて日本の参考書50冊を読み、日本語のレコードを聞いて勉強をし、まなざしをひたすら日本へ向けてきた。上野駅からの11時間半をかけての夜行列車の間にも、日本の文化に触れたいと駅弁を食べ、駅での立ち食い蕎麦も体験している。金沢駅に着いたワットが手にしていたスーツケースは二つあり、そのうちのひとつは日本に関する文献でいっぱいであった[北国新聞1956:45日]。そしてこの金沢駅では、ゲストたちは、初めての出会いに緊張しながらお辞儀の心積もりをして待ち構えていたが、出迎えの女性たちが両手を広げて自分たちに向かってくる姿に大変驚くのである[31]。しかしまもなく、ゲストたちは、自分たちが練習してきた、期待通りの深く、長いお辞儀が繰り返される習慣に携わることに満足する日々が訪れることとなる[Watt1967:252]。

 ワットの著書の中で、日本が出てくる場面が二箇所ある。ひとつはこの1956年の日本訪問の一部始終を記した章であるが、あとのひとつは1937年に自宅を建て、そこにJapanese Roomの居間を作ったというもので、1ページを割いてその部屋の写真を載せている。そこには、第一次世界大戦後に新婚旅行でウィ−ンを訪れた時に、当時強くなってきたアメリカドルで購入した壮大な源平合戦絵巻の屏風が壁一面に飾ってある。ワットは、十代の頃から古くて美しいものへの憧れがあり、この手に入れた屏風は、ボストン美術館にある日本美術品にも劣らないものだと述べており、来日の約30年前から日本への憧れを抱きつづけていたとみることができる。また、自宅には、今までに訪問した国々で購入した家具や装飾品などはたくさんあるとしながらも、他の部屋には日本以外の国名を付した部屋はない。「この部屋では、訪問客に日本人がしているように床に座るように勧めてはいるが、それは思うほど心地よくないと感じながらも、本当の日本の形と折衷しなければならなかった」と述べていることから、ワットが自国での日本追認体験を試みていることがわかる[Watt1967:226-228]。

 ワット夫妻、そしてともに訪れた女性たちが成人を迎えた頃のアメリカは、ヨーロッパでの空前の日本ブームを受けて同様の流行があった時期である[32]。アメリカにおいては日本趣味の及んだ範囲が、美術や文学にとどまらず、服飾、造園、装飾品といった生活に密着した品々にも広がり、日本風の家が建てられ、「キモノ」が流行し、「ハイク」が作られ、美しい日本のデザインがいろいろなものに使われるほど広範囲であった。1910年頃はアメリカのジャポニズムが最高潮に達した時期で、この時期に日本文化が、服飾、家具、文学、美術など、さまざまな分野でアメリカにどっと流入していった[児玉1995:@-B]。また、1909(明治42)年12月から翌年2月にかけての2回に分けて、アメリカ人を中心に計1400人もの大観光団が日本を訪れている。それまでにも欧米から観光客が日本を訪れているが、これほどの大人数は前例がなかった[有山2001:136-148]。

 来日後にゲストの一人が、金沢での生活の印象を新聞記者に問われ、「アメリカでも最近は日本ふうなシンプルな設計をとりいれ、ドアも前開きでなく、ふすまのように横開きがふえたし、庭園も窓からながめて楽しめるような形式をとりいれています」と答えている[北国新聞1956:52日]。このように彼らは、来日して初めて日本文化に触れたのではなく、自国においてジャポニズムの一端に触れ、日本へのまなざしを注いで来日したことがわかる。

 また、翌年度以降に訪れた学生たちも、アメリカで日本へのまなざしを構築して来日している。それらは例えば、日本の芸術文化紹介本を持参してきた美術科専攻の女子学生は、「金沢の彫刻、絵画、書道などを勉強し、日本人の自然に対する態度、生活様式を見ていきたい」と述べ、東洋史を専攻している男子学生は、「今まで習ってきたことを、こんどは実際に体験して肉付けする」と述べる[北国新聞1957:712,16日、北陸新聞1957:720日]。さらに、「父親が宝物のように大切にしている日本の陶器の小さな花瓶」から日本を想像してきた学生や、「日系二世の友人が多く、他の学生より日本をよく知っている」と述べる学生もおり、このように陶器や友人を通して、その先にある日本へのまなざしを向けているのである[北国新聞1958:713,6日]。表−4に見られるように、約1か月の滞在期間中、学生たちはさまざまな場所に出かけ、日本文化に慣れ親しんでいる。

 

 

2−5.ホスト金沢における日本の伝統文化−異文化へのまなざしの対象−

 

 こうした日本文化に対するまなざしを準備しつつ、彼らは日本に赴いたのだが、その対象となる金沢はどのような都市だったのであろうか。時は遡るが、18678月にミッドフォードが、英国公司のパークスらとともに金沢を訪れた時の印象を、「加賀の女性は器量のよいことで有名である。曲がりくねった道を通って宿屋に着くと、そこで我々は日本の典型的なもてなし方で迎えられたのであるが、それは極めてもったいぶって、礼儀正しく丁重な歓待であった。・・・街の見学に出かけたが、大きな町で、丘があり、美しい樹木が植えられていて、その大きさは決して誇張ではなかった。人口は五万という話であった。・・・やっとのことで非常に古い漆器をひとつと、その他二、三の貴重な品物を手に入れたが、この漆器は今まで私が手に入れた幾つかの名品の一つである。」と記している[ミッドフォード1985:53-57]。その後の1889(明治22)4月に市制がひかれ、当時の人口は94,000人で全国31都市の中で5番目に多い人口を擁した。1955(昭和30)年の国政調査では人口が27万7000人で第18位の人口であった[金沢市1969:216]。また、ホームステイが始まって4年後の1960(昭和35)年に発行の観光案内書では金沢がこのように紹介されている。「名所として、兼六園・成巽閣・尾山神社・尾崎神社・持明院の妙蓮池・西本願寺別院・東本願寺別院・天徳院・宝円寺・大乗寺・野田山・卯辰山公園・金沢能楽堂・キリシタン遺蹟・加賀千代墓・金沢城跡がある。・・・前田氏は阪神の建築家・美術家を多く招いて土木を起し、美術工芸を奨励したので、九谷焼・大樋焼の陶磁器のほか、象嵌・友禅・刺繍・製箔・銅火鉢・仏具などに優れた技術と感覚を生み出し、伝統を誇る文化の一中心として今日に至っている。また能楽・茶道・生花などの伝統芸術は市民に深く浸透し、町を歩けば武家屋敷や袋小路とともに老舗や寺や森が多く、いかにも古い典雅な感じを抱かせられる[日本旅行協会1960:38-41]。

 次に、金沢における伝統文化に重点を置いて述べてみたい。なぜならアメリカからのゲストは、家庭滞在中に生活文化とともに、これらの文化と接する機会を求めていたからである。

 金沢には、江戸時代に最大の藩であった加賀藩が培ってきた文化がある[33]。しかし、その百万石の工芸文化の本質について、田中は百万石文化の本質は武家文化にあったとして、「百万石文化とは、大名前田氏によって元和・寛永期および寛文〜元禄期に金沢と江戸屋敷において完成された文化を指し、すぐれて大名文化であり、武家(大名)、公卿・上級家臣(八家)間のサロン文化であった」と指摘する[田中1980:246-248]。さらに、加賀藩は外様大名という位置から、文武両道でも努めて「文」のほうに力をいれた。茶の湯は藩祖の前田利家が千利休や織田有楽斉から学んだことに始まり、武家のたしなみとして重視され発展した。またその茶の湯に欠かせない生け花も、藩お抱えの生け花古流の家元が金沢にあった。伝統工芸として九谷焼や輪島塗、水引細工なども有名である。藩営で工芸品を作る「御細工所」も造られたが、加賀藩が特異であったのは、この御細工所の細工人たちに太鼓、小鼓、大皷、地謡、狂言などを兼芸として習得させていたことである[羽嶋:2003]。このようにして藩の能楽行事を町人が支えていたこともあり、城下では、町人でも能を習う者が多かった。ことに謡は教養のひとつとされるようになって、金沢では「謡が空から降る町」といわれるほど庶民の間に謡曲が浸透していた[金沢経済同友会2001:90111[34]

 表−4が示すように、ホストの中には、能楽に関わっている者や金工家がいる。また翌年以降にホストになった人びとの中にも、日本舞踊の師匠、日本画や華道教授がおり、伝統文化や伝統芸能、工芸といった文化に触れる機会は必然的に用意されていたのである。ただ、金沢の伝統文化が生活の一部に根ざしていたとはいえ、それは一部の富裕層ないし教養人の間のことであった。そこに日米に共通する日本文化理解の前提がある[35]

 この当時の金沢の様子を、1958(昭和33)年に訪れた当時ハーバード大学生のダワーが、1980年に回想録のなかで、次のように述べている[36]

 

  私のEILでの体験は、爆撃をうけなかった金沢が、戦前からの伝統という特殊な面を温存していることを認識させるものであった。しかし金沢は京都のような、ユニークな美術館的資質は持ちあわせていなかった。私達は他の都市に滞在するよりも金沢に滞在したことで、たやすく日本の古い文化や礼儀作法を体験することができた。またそれと同時に私達は、経済の驚異的な復興途中にある日本を感じながら、金沢での家庭生活を体験した。私の日本における土地柄(都市、県、地方)に対する認識も金沢の夏によって育まれたのである。日本との最初の邂逅が、関東や関西以外の地であったのも端的にいってよかった。・・・金沢を通して日本との邂逅を持ち得て、私はこの国の一般的な基本となっている、地方の多様性について、よい感覚を持ち得たと信じている[DowerKANAZAWA 1958,山本1980:13-14]。

 

 ここで指摘したいことは、金沢にいわゆる伝統文化が比較的によく残されていて、市民のなかにも伝統文化を理解し実際に継承する人がいたことではない。そうではなく、この都市には、ホームステイで望まれる文化の内容や項目が、都合よく準備されていたことに重要な意味が存在する。つまり、日本の伝統文化をよく温存していたからということよりも、ゲストの要望に応えて提示できる文化を備えていたから、金沢が最適の都市として選ばれたのではないかということなのである。ダワーのいうように、ホームステイのゲストたちにとって、金沢は伝統を温存し、古い文化や礼儀作法を体験するのにはふさわしい都市であったのだ。

 こうした日本の文化に対する評釈は、実はゲストの側だけでなく、ホスト側にももたれていた可能性が高い。表−5は金沢における、初期3年間のホームステイプログラムの概要を示したものである。これらの行事は、ゲスト、真木、ACC館長や職員、そしてホストたちが、金沢に着いた翌日、ACCに集まりスケジュールを決めたのだが、既に来日前にホスト側で、日程上参加可能な行事と日本の伝統行事を予め用意していたものなのである[北国新聞1956:45日]。仲介者の真木は、戦前にアメリカ生活を体験している[37]。また、金沢ACCスタッフの中にも外国生活体験者がおり、米国と中国での生活体験がそれぞれ一人ずつ、他に英語が堪能な職員は三人いたという。金沢ACCのほかに関わった人物としては、アメリカ生まれ育ちの日系米国人である高校英語教師と、フルブライト留学経験の中学高校英語教師がいた[38]。このように、金沢に伝統文化があると最初に推した真木と、滞在中の予定を決めた金沢の人たちは、一度は日本を離れて外国、特にアメリカに住んだことがあるということである。つまりアメリカに暮らした経験から、「日本の伝統文化」を選び取る時点で、実際のアメリカ人の日本の伝統文化に対する嗜好を知っていたことも、ホームステイを成功させたひとつの要因でもあるといえる。

 

 

2−6.伝統文化体験と生活レベルでの文化接触

 

 このように伝統文化が身近にあった金沢では、ゲストたちはその伝統文化をどのように理解して接し、楽しんだのであろうか。

 1956(昭和31)年に滞在したゲストが後に回想して、能楽堂で観た能を理解できなかったと正直に述べる。ホストが説明してくれた能や歌舞伎について、「もしその能について、完璧な英語でもって十分に説明されても、私たちはまだ十分には理解できなかっただろう。・・・実際に観た能は長いもので、ホストの丁寧な説明にも関わらず理解できなかった。ても、それは驚くことではないのだ。10世紀に書かれた能や歌舞伎を現在の我々が理解できないのは当然」と著書で述べている[Watt1967:254]。しかし、同じ体験をしたもう一方のゲストは、「ホストは我々を能楽堂に連れて行き、謡のコーラスを聞かせてくれました。そのホストは、時々、夜に自宅で謡の稽古をしていましたが、私たちを呼んで、大きな謡本を前にしてその謡の稽古を見せて聞かせてくれ、これは本当にめったにない楽しみでした[39]。」と述べる[山本1980:7]。また、学生たちは、家元宅に出向いて華道を習う機会を得るが、従来3年かかる生け花を6回の機会で基本の花型だけを習うものであった。しかしそれでも、金沢滞在中に「日本人の心と生活に大きなつながりを持つ生け花」を習い、「生け花芸術の心がわかるようになりたい」と意欲的にその華道を楽しむ[40]。さらに学生たちの中には、当時、世界選手権大会が開かれるなど盛んになってきた柔道を体験する機会にも恵まれた者もあり、柔道着に着替えてしたその体験を大変おもしろいと感想を伝える[北国新聞1957:712,16日、北陸新聞1957:720日]。石川県はまた、金箔工芸が盛んで仏壇製作も日本国内で有数の産地である。学生たちは、ホスト宅の仏壇の前に座って線香をあげる体験もしているが、「仏壇の前にも座ってみましたが、・・・キリスト教との雰囲気の差はわからない」と述べる[北陸新聞1957:731日]。

 新聞記者たちは、学生たちの日常生活の姿を追い、数多くの写真を撮り記事にしている。そこには必ず、決まって浴衣姿の学生たちが写っている。また、日本手拭いで姉さんかぶりをして手に箒を持って掃除が大好きという女子学生や、毎朝、庭に打ち水の手伝いをしているという男子学生、九谷焼の窯元での絵付けを行っている学生たちは、みんな一様に着物姿である[北国新聞1958:7月13日]。このような学生たちの姿を目にした市民から地元の新聞社へ、「アメリカからの学生たちは何のために来ているのか。朝から浴衣を着ている。そして、胡坐をかいてビールを飲んでいる。」という批判的な投書が載ったこともあり、金沢入りの前に箱根で行われたオリエンテーションの際に、「浴衣は入浴後に着るもので、朝からは着ないように」と事前に伝えたという。そのような注意を与えるものの、ゲストの学生たちは、一日中着物姿で過ごしたがるのであった[41]

 それでは、毎日の生活ではどのような生活体験が行われていたのであろう。

 「茶の間が一番好き、丹前や夜具ふとんは温かい」という見出しのある新聞記事では、火鉢のある茶の間で話し合う時が一番好きだと答えるゲストが、たんぜん姿でちゃぶ台の前に座っている。傍らには、急須を手にして番茶を注ぐゲスト夫人とホストの姿があり、その談笑風景の写真を大きく載せて、日本の日常生活を楽しんでいるゲストたちを紹介している[北国新聞1956:52日][42]また、日本訪問が初めてのゲストが、習慣の違いとして最初に挙げたことが、「床の上に寝ること」sleeping on the floor)であった。その「堅い木の床の上に寝るといえば、奇妙で辛いことのように思われますが、実はその床というのは木ではなくて、圧縮された厚さ18インチもある藁でできたものなのです(筆者注:畳)。」と述べている。ゲストは、日本人が床に寝ることを事前に知識として持って訪れたが、それが一体どうようなものであるのかを、全く思い描くことができなかったのであろう。どのような堅い木の床の上に眠らされるのかと覚悟をして来てみれば、それは初めてみる畳というものであり、その上に真綿を詰めた絹製の蒲団を敷くと知るのである[山本1997:7[43]。当時、この畳の上で過ごすことは貴重な体験だったようで、翌年の学生たちも、純日本間をあてがわれて喜び、また「日本での生活は畳と米の食事にあるとの理由から西洋的なものを一切避け、家族の一員になろうと努力している。・・・夜具蒲団を(押入れに)あげるのも、はたきかけ、掃除も全部一人でしている。畳の上に敷く蒲団の寝心地は清潔でよく眠れるから大好き」と述べている[北国新聞1957:730日]。さらに、靴を脱いで家に上がることは事前にゲストも知っていたが、それ以上に驚く出来事が家庭内にあった。それは、ホスト宅で靴を脱いだばかりだというのに、ホストはすぐに「スリッパ」と称するものを履き、それはしかし、木の廊下のみでしか履かず、そのスリッパを巧みに脱いだり履いたりしていることを知る。しかし、そのことに驚きながらも、こんな清潔な廊下があるのに、そもそもそのスリッパを使う意味がよく判らないでいる[[Watt1967:253-255]。ゲストのこれらの体験は、実際に、一般家庭に泊まらないと体験できないものばかりである。

 このように毎日の生活を送りながらも、ゲストがホスト宅での食事の時に「このバターはどうしてこんなに柔らかいの?冷蔵庫に入れるのを忘れたの?」と尋ねたという[44]。ゲストにしてみれば、自国アメリカにある電気冷蔵庫が頭にあってこう尋ねたのだろうが、日本人家庭で電気冷蔵庫が氷冷蔵庫とともに一般家庭に普及し始めるのは、昭和30年代の半ば以降のことであった。ホストは当時を振り返って、「冷蔵庫もなく、水洗便所は夢物語で、お土産にいただいたインスタントコーヒーを粉薬のように大切にした時代」と述べている[朝日新聞朝刊石川版1987:519日]。それが、当時の日本人の生活の姿であった。

 学生たちはまた、一番びっくりしたとして「道路が狭くて悪いこと、人と自転車、自動車、電車(筆者注:路面電車)が無秩序に走っていて危なくて仕方ない。意外なことは日本人の学生が英語を上手に話したこと。感心したことは、子どもが親の言いつけをよく聞くこと。」を挙げる[北国新聞1957:730日]。また、事前に本などで学んだりしてきているが、「本当に知りたいことは、家庭に入って日本の家族の生活と、その本当の意見を知りたい。」と言い、日本が「想像以上に産業化しているので驚いた。」とも述べる[北国新聞1958:7月6日]。また抽象的な表現であるが、「アメリカでは目に映るもの全部が機械の歯車のように正確になっている。日本、特に金沢ではすべてが人間の努力でつくったというスバラシサに溢れている。」と感心するのである[北陸新聞1958:710日]。

 しかし一方でまた、「私たちは26日間の滞在で日本をよく理解したということは言いません。日本の人たちとわずかでも生活して、私自身の世界の目を養いたいと思うのです。」「日本に来て畳に座って箸をとって日本のものを食べたということなど、・・すばらしいということは単なる異国趣味ではなく、日本人とその家族に少しでも触れることがすばらしかったのだ。」や、「日本人の考え方で理解しにくい点もありましたが、話しているうちに互いがわかりあい、日本人の友情と賢明さに触れることができました。」と正直にも述べている[北国新聞1957:88,1958:7月13,815]。

 このようにゲストたちが述べる根底には、ゲストとホストが実際の家庭生活を暮らす中で、例えば、オリエンテーションで課されて読んだ文献や旅行案内書などから得た知識からだけでは捉えられない出来事や、互いが事前に抱いていたステレオタイプ化されたイメージや先入観とは異なることが起きたからではないのだろうか。そして、それは、実際に暮らす人びとと触れ合う機会があり、その交流を通して、互いのイメージに変化が起きたのであろうと筆者には思えるのである。次章ではそのことについてみていくことにしよう。


第3章 再びホームステイについて

 

 

 この章では、先の金沢におけるホームステイでの事例を踏まえて、さらにもう一度、ホームステイとは何なのかを考察する。ホームステイの場におけるホストとゲストの双方にとっての、みられる・みせる日本の文化にはどのような視点があるのか、そしてそれがホストとゲストのそれぞれの異文化理解にどのような接点を見いだすのかについて、文化の呈示と享受の面から捉えて論じていく。

 

 

3−1.マス・ツーリズムにみられる他者表象

 

 ホームステイで訪れるゲストは、マス・ツーリズムの観光者とは違って、異文化に対してより積極的に接してその理解を求めていることが、先の2章のホームステイの場からよみとれる。ところで、このマス・ツーリズムのひとつの問題は、ステレオタイプ化されたイメージに沿って異文化をみる、言い換えれば、ある固定的な他者規定を内包する傾向が強いことであった。それではそのマス・ツーリズムにおいて、今までどのような他者の文化規定や他者表象が行われてきたのであろうか。

 マス・ツーリズムは、先進諸国の間でも互いに行われており、その場合でも、つまり《北》同士においても文化などに対して本質主義的な他者規定が行われている。そのようななかでも、落合は、日本の旅行代理店の店頭から、特に非西洋世界への旅行パンフレットを対象にして、メッセージを読み取ることを試みる。そこには、西欧に対し経済力を除き《南》と自己規定する日本人から捉えたある見方がある。すなわち、「イギリスやフランスの旅行案内には、洗練された文化遺産が紹介されている。・・・一種の教養旅行であり、・・・《北》の「高文明」への接近を試みる巡礼の旅にほかならない。・・スペインは原色の写真がちりばめられ、視覚的に鮮烈なイメージが満ちあふれ・・いまだ飼い馴らされていない何かが息づいているらしい。・・・荒々しく原初的で未知の豊饒感覚をたたえたスペイン・・・。メキシコという《南》の魅力である」といった見方である[落合1996:56-57]。このパンフレットにみられる表現には、まさしくそれは、相手の文化を自分の文化の価値を基準において、《北》や《南》と捉える見方があるのだ。

 その中で落合は、観光の「魅力」は他国との差異性において完成されるもので、そのイメージにあふれているのは《北》の人びとを引きつける《南》の魅力にほかならないと述べていく[落合1996:56-57]。この差異については今福も、「旅」は場所のあいだに横たわる文化的「差異」の存在を一つの前提条件に行われるとして、次のように述べている。「その土地の地勢も、風土も、人間たちの暮らしも、あらゆるメディアの情報とともに、すでに彼らの想像力の中に書き込まれてしまっている」[今福1994:72]。訪れるゲストたちは、旅行パンフレットやあらゆるメディアからの出来得る限りの情報を持って、まなざしを注いで観光地を訪れる。そして、「出発前にすでにつくりあげられている安定した「差異」の感覚を現地での観察や体験のための指標としながら、その「差異」を証明するさまざまな記録や証拠を発見・収集しようとする」のである[今福1994:72]。

 つまり、これらのマス・ツーリズムでも、特に《北》から《南》へと訪問する場面においては、訪れる観光者が選ぶ訪問国や地域のイメージは、進化主義的なものの見方に基づいた、ある意味で自文化中心的な見方である。1章で述べてきたように、マス・ツーリズムは、欧州やアメリカなどが中心となり広まってきたものである。落合はそれらの国々を先進諸国、すなわち《北》と捉えてこう述べている。「《北》は見る側である。それは「まなざし」の所有者であり、《南》には見られるだけの立場を要求する。その意味で、近代観光は見るべき他者を探し続ける《北》の運動であり、文化的植民地主義に対応する異文化接触法であり続けてきた。文化的植民地主義とは、異文化単位(個人・集団)とみずからの関係を一方的に分類・概念化し、自分だけをその関係性の決定権者とみなす思想と行動である。そこでは、人間と自然、文明と未開が峻別されるのと同じように自己と他者が区別される。両者の一元化は原理的にありえない[落合1996:57-58]。マス・ツーリズムにおける《北》から訪問される《南》のイメージは、このような絶対的な力関係を前提にして生まれており、それが近代化論と歩調を共にしたツーリズムの姿なのである。

 

 

3−2.オールタナティヴ・ツーリズムとしてのホームステイ

 

ところでこのマス・ツーリズムは、政治的にも経済的にも絶対的な力を持つ先進諸国側が企画するものであり、今後もなくなることはないだろう。20019月のアメリカにおける同時多発テロやSARS、あるいはイラク戦争で、先進諸国からの観光客が一時的に減少することはあったが、時間が経てばまた増加傾向を示すのである。しかし、これらマス・ツーリズムの1960年代以降の隆盛化は、自然環境の破壊、文化遺産の劣化、伝統文化の誤用と悪用、地域社会における階層分化、犯罪と売買春の増加などのさまざまな負のインパクトを生じさせてきた[石森2001b:7]。このような大量集客、大量動員の大量性志向の過程で起きてきた負のインパクトを省みる形として、1970年代から80年代にかけて、観光プロジェクトや政策が開発途上国で実施されるようになった。それらはマス・ツーリズムの弊害を配慮して政府が実施したもので、本質的に小規模で地味であり、その地域住民の参画度は高かったという。また、こうした地域参加による開発の目標は、地域資源を活用するなどのマス・ツーリズムへのある反応やホスト−ゲスト間の接触を改善する強力かつ明確な目標によって補強され、はじめには刺激さえされたという[ピアス1996:18-20]。1980年代にはいると、マス・ツーリズムにとって代わるということで「オールタナティヴ・ツーリズム」という用語が出てくるとともに、新しい観光のあり方が模索されるようになった。今までの大規模な宿泊施設建設に対しての反省から、ホストの家庭を供与するツーリズム形態を模索し、また施設の実際的な開発よりも観光者が特別な関心に基づいて十分に準備されるスペシャル・インタレスト・ツアーが開発された。また、大規模な資本主義的な、外国占有のハード・ツーリズムに対して、地域住民とそのゲストの相互理解をもたらすソフト・ツーリズムという考えも出てきた。これは、地域住民が用いる既存のインフラストラクチャを利用するようにつとめ、環境に有害であるような贅沢な観光施設を受け入れないというものである[ピアス1996:20-22]。しかしこのように、オールタナティヴ・ツーリズムは、ホストの家庭を用いる形や、新たなスペシャル・インタレスト・ツアーやソフト・ツーリズムの開発等にみられるように、実に多義的な内容を含むようになった。それゆえ、定訳がなく曖昧で、それを用いる人びとによって、様ざまな意味を持ちうるために、この用語を用いることが難しくなった。

その後の198911月に、WTO(世界観光機関)とアルジェリア政府が、新たな観光のあり方に関する会議を開催した。そこでは参加者が、曖昧な概念のオールタナティヴ・ツーリズムという語を全面的に拒絶し、次に「レスポンシィブル・ツーリズム」(責任ある観光)という用語を選択したのである[スミス,エディントン1996:G-ix]。

ところで、このオールタナティヴ・ツーリズムの中に、環境に対しては「自然環境への負荷を最小限にしながらそれを体験し、観光の目的地である地元に対して何らかの利益や貢献のある観光」と考えることができるエコ・ツーリズムやグリーン・ツーリズムがある[敷田,森重2001:83-89]。ところがこのエコ・ツーリズについては皮相な一面、すなわち問題点を持っていることを述べておきたい。なぜなら、マス・ツーリズムを経験した観光客の、次の選択肢がこのオールタナティヴ・ツーリズムなのであり、このことがこのエコ・ツーリズムにおいてマス・ツーリズムに似た弊害を招いている側面が否めないのである。

マレーシアのサバを事例に取り上げて山下はこう述べている。「・・しかし、この森はアイロニーに満ちてもいる。鳥や動物は油ヤシのプランテーションのために森林が伐採された結果、川沿いにわずかに残された森と湿地帯に追い込まれたからではないか。「豊かな野生生物」を観光客に提供できるのは実はそのせいなのだ。さらなる皮肉は、森林破壊の産物であるそのプランテーションから採れるヤシ油である。ヤシ油はせっけんや化粧品の材料として使われるわけだが、その製品が日本やヨーロッパで売られるときは、環境にやさしい「自然派の」商品とうたわれるのである。・・・持続可能な観光を目指すエコツーリズムの考え方は、その現状がいかにアイロニーに満ち、その実現がいかに困難であっても、これからの観光開発の基本モデルになっていくだろう。」[山下2002:126-129]。これは環境に配慮することを謳うエコ・ツーリズムが、先進国からの観光客向けに自然環境の空間を設えるものの、結局は、環境への負荷を起していることを示して、環境問題を解決できなかったことを描いている。また、コスタリカのエコ・ツーリズムにおいては、主たる担い手が外国人観光客であり、北米とくにアメリカ合衆国からの入国者が過半数を占めるが、先ほどのマス・ツーリズムにおける旅行パンフレットにみられるように「・・・おびただしい媒体にコスタリカの「自然」が図像と文字によって表現されている。そこでは緑色の森林を背景に金剛インコ、・・・などの極彩色の鳥や・・・動物が配され、紋切り型のキャッチフレーズで溢れ返っている。」のである[池田2002:66-68]。そのコスタリカを含む「中央アメリカを旅行するほとんどの外国人観光客は、旅行案内書を携帯している。・・・そこにもおびただしい「自然のイメージ」と言説が登場する。エコ・ツーリストはそのようなイメージに込められた要素(鳥や蝶や草木)の多様性の中に自然の豊かさを予感する。」[池田2002:68]。この「エコツアーもまた自然を見ながら、その自然に関する言説を生産し、さらにその言説が自然の見方を規定するという自己再帰的な性格を有する」ものである[池田2002:73]。マス・ツーリズムが起こしてきたことと同じように、このエコ・ツーリズムでも「先進諸国の人たちが、低開発国の豊かな自然を求めて保養に来るが、付近の住民は依然として破壊と貧困に苦しんでいる」ように、環境破壊も起こし、さらに地元住民の生活改善までにもなかなか届かない現実がここにも横たわっている[池田200284]。このことはまた、「先進国が既に破壊した自然を、第3世界における自然で補おうとするのがエコ・ツーリズムである」と橋本も述べている[橋本2001:59]。また、エコ・ツーリズムに対する観光者と地元の認識のギャップがあるともいい、受け入れる村人に観光者が文化を異にしているという認識がどこまであるのか、さらに西洋的な文脈における「生態環境保護」の意識があるのかと問う。エコ・ツーリズム開発プロジェクトの提供者と地元との間の認識ギャップも問題に挙げている[橋本2001:61-64]。これらは開発が先行した結果であり、エコ・ツーリズムが問われる問題が依然あるのである。

またここで、学ぶという観点をもって訪問先での家庭に滞在するツアーとして、スタディツアーが挙げられる。玉置はこのスタディツアーを、多くの場合、一般の観光では観ることのできない社会の現実の姿を観ようとするもので、つまり社会・開発の「負の側面」を観ることと重なるといい、この種のツアーの主な訪問先の3点セットとされる、マニラのスモーキーマウンテンおよび隣接のスラムと飢餓が発生したネグロス島、オロンガポを挙げる[玉置1996:69]。現在でもスタディツアーは数多くあり、それらは特定非営利活動法人やNGOなどが主に主催しており、例えばアジアにおいては、バングラデシュのストリートチルドレンの支援活動やネパールでの「草の根の人びとと暮らしに学ぶ人権・開発・NGO」ツアーなど多彩である[45]。しかし、玉置はこうしたツアーが、マス・ツーリズムの作り出すステレオタイプに抗するものとして作られたにも関わらず、それらが逆のステレオタイプを作りだす危険性も否定できないと指摘する[玉置1996:70]。それらのステレオタイプとは、例えば貧しく、非衛生的で、教育を受けられず、先進諸国に搾取され続けている人びとであり、援助されるべき対象であるという見方である。こうしたステレオタイプが作り出す危険性の大きな要因は、スタディツアーが、訪問先に存在している特定の社会的な問題を前提にして、あらかじめ仕組まれ、その現実を確認するためのツアーとして成立していることにあろう。それに対してホームステイは、生活の体験ということにおいて、特定の問題意識に基づいて行おうとするものではない。このことから異文化理解の点においては、相対的にはスタディツアーよりもホームステイの方が適しているといえるだろう。

さて、このように、オールタナティヴ・ツーリズムの具体的な形態といわれてきたツーリズムには、問題が内包されていることも確かである。しかし、それを理由に、仮にこれらのツーリズムを否定してしまうならば、何をもってマス・ツーリズムのもたらした弊害に対処しようとするのか、反対に展望が閉ざされてしまうのではなかろうか。また、マス・ツーリズムに対抗する大きな「理念」としてのオールタナティヴ・ツーリズムが無効になったわけではない。1章で概観したように、観光に関わる人びとは、今までマス・ツーリズムなどの観光がもたらした負のインパクトを反省の材料にして、現在までによりよいツーリズムの形を探し求めてきた。これまでのツーリズムの変遷を整理して、「オールタナティヴ・ツーリズムの範疇に、理念としてサステイナブル・ツーリズム(持続可能、責任ある)やソフト・ツーリズム(建物、宿泊施設などのハードに対して)、スモール・ツーリズムなどを挙げ、実態としてエコ・ツーリズム(環境配慮)やグリーン・ツーリズムなどを捉える」[西田2001:41]ことが筆者には妥当だと思えるのである。つまり、オールタナティヴ・ツーリズムは、マス・ツーリズムが引き起こしてきた負のインパクトに対して、それぞれに個別に対応することを可能にするという意味においては、マス・ツーリズムに代わりうる存在のツーリズムである。さらに先進諸国が観光の決定権をほとんど持つ現在にあっては、このマス・ツーリズムがなくなることはないだろう。したがって、そのマス・ツーリズムを経験した観光客の、次の選択肢がこのオールタナティヴ・ツーリズムの中にあるさまざまなツーリズムとなるだろう。その意味で捉えると、オールタナティヴ・ツーリズムの定義は依然として曖昧なままで了解してオールタナティヴ・ツーリズムの位置は、これからもマス・ツーリズムに対置して存在するといえるのではないか。そして筆者は、ホームステイは、理念としても実態としても、マス・ツーリズムに代わりうるオールタナティヴ・ツーリズムに属する観光であると捉えるものである。

ホームステイで訪れるゲストは、滞在先の一般家庭にひとりで入り、滞在期間中はホスト宅の家事を手伝い、あてがわれた部屋の掃除を行い、ホストや地域の人びとと積極的に接して学ぼうという姿勢がみてとれる。つまり異文化の空間に身を置き、自分の目で見て、自分から接する毎日の生活がある。ホームステイはマス・ツーリズムにみられるように比較的に大人数で一過性の移動をすることはなく、観光客を収容するための宿泊施設の建設やインフラ整備を伴うわけでなく、環境破壊も起こさないことがわかる。また、ゲストが長期に日常生活をホストとともにすることにより、表面だけをみて歩く観光と違い、顔と顔のみえる生活の場で接することを可能にする。そこでは生活者の視点から捉えた文化理解の仕方がある。ホームステイはマス・ツーリズムにとって代わる部分を多く持ち、またこのホームステイを発想したワットが、自身の来日に際しても、また以降に来日する学生たちにも、ルース・ベネディクトほか日本に関する著書を読むことを課していたように、文化相対主義的な視点を重視しており、自分の文化的価値観を押し付けることを避けようとした点でも、より異文化を理解しようという姿勢がそこにはあることが覗える[46]

 

 

3.ゲスト・ホストの本質主義的な日本文化観

 

 しかし、それでもなお、このようなホームステイにも避けられない問題が生じる。それはホームステイで訪れるゲストたちや滞在中のゲストたちに、本質主義的な視点が依然あることである。この本質主義とは、人種や民族や性や階級などのカテゴリーに共通の変わらぬ性質(本質)があるとする考え方を批判的に指すものであり、例えば日本文化や日本人といったカテゴリーに、あたかも自然種のような全体的に固定された同一性のことである[小田1996:810]。

 先のベネディクトは、アメリカの人類学の父といわれたフランツ・ボアズの弟子である。ボアズは個々の文化の全体性・内的完結性を重視し、その独自の価値を強調する文化相対主義を提唱し、彼女はそのボアズを引き継ぎ、文化が本質的に地域的で相対的なものであるとし、その文化の間には優劣はないとする文化相対主義を確立したと言われる[吉田1996:50]。つまり、それぞれの地域や国が持つ文化が異なっていることを認めて、尊重しあおうという部分に、相手の文化を認めようという余地が見出されるのである。ベネディクトはこの点においては、よりよい異文化の見方を提唱したことになる。しかし、そうしたベネディクトの文化相対主義的な見方が、最近、本質主義的であるとして批判されている[47]

 例えば、ギアーツがこのベネディクトの著書の『菊と刀』について、「・・・日本人観を緩和することによってではなく逆に強調することによって日本と日本人の謎を解こうとした事実にある。「われわれが知っている文化」を「想像を絶する未知の文化」と対照させる習性が、ここでは頂点にまで押し上げられている。・・・対照化操作が、かっての『文化の型』では暗示的かつ一般的な水準にとどまっていたのに、いまでは−特定のこの習性とあの習性との対立といった具合に−明示的かつ特定的となっている[ギアーツ1996:167-168]」と指摘する。また、ベネディクトの文化相対主義には「文化が違うから仕方がないという理論のもと、自他をそれぞれの文化の内部に閉じ込める」という危険性があると浜本は述べ、それは「さらに自らの差異の中に閉じこもる一種の自文化中心主義になってしまう」という[浜本1996:76]。その指摘にみられることを松田は、具体的に最近のフランスやドイツで勃興している第三世界からの移民労働者の排除や、アフリカ諸国が独立後も引き続き旧宗主国の目に見えぬ支配下にあることなどを例に挙げながら、「異なった文化の持つ価値を尊重するという名のあらたな抑圧や差別に、ほかならぬ文化相対主義が手を貸すようになった」として、「この見方が持つ危うい罠を見逃してはならない」と言う[松田1999:6-9]。

 つまり、この文化相対主義的文献であるベネディクトに即してホームステイを試みたワットたちのやり方は、それでも自分の価値観をもって判断するという人びとの視点の傾向からは抜け出ておらず、そのような本質主義的な他者規定に基づいていたのである。

 ベネディクトの『菊と刀』の中では、例えば、桜の花、茶会、漆器で囲まれた日本人の生活などが記されている。これはワットが初めて金沢へ、共に訪れた年長女性たちを連れて来た時に好んで体験しようとした事柄であった[ギアーツ1996:181]。彼らは四月初旬に来日し、花見を行い、お茶会に参加し、輪島へ漆器を求めて出かけてもいる。また2章で述べたが、事前にオリエンテーションで注意を促すにも関わらず、学生たちは浴衣を一日中着たがるのであった。当時の新聞の記事では、学生たちに同道して側に写っている日本人学生たちやホストたちはほとんど洋服姿である。ゲストの学生たちも暮らしていく中で、当時の日本人が、普段の生活において洋装でいることは十分に理解していることであろう。しかし、学生たちはみんな一様に着物姿を選択して、しかも好んで着ている。また、ゲストたちは、日本人の深くて長いお辞儀を受けた時に、自分たちも同じように返すために、事前にお辞儀の練習をして来日している。日本人は確かにお辞儀を行う。ハリウッド映画の中でも、日本人のステレオタイプ的特徴として、必要以上にお辞儀を繰り返す日本人が大仰に表現されている[48]。さらに、ゲストはアメリカの自宅に作ったJapanese roomで、床に座ることを居心地がよくないとしながらも、日本の文化の型との折衷をしなくてはならないと言う。学生たちは、日本への船中でも豆をつまんで箸の使い方の練習をし、到着後は日本での生活は畳と米の食事にあるとの理由から、西洋的なものを一切避けて過ごし、畳の上の蒲団に休む。ここには実に、「こうあるはずだ」と規定した日本人を捉え、その日本人を演じているゲストたちが存在する。学生たちが述べる「日本人の心と生活に大きなつながりを持つ生け花」という抽象的な表現からも、伝統文化の中に日本人をとり込んで、本質主義的な見方を注いでいることがみてとれよう。

 ゲストたちは、日本の文化を能、禅、茶道などであると考え滞在中にそれらを求めるが、それは、自分の文化的基準からそれらを考えるのではなく、相手の文化の類型化を行っていることで文化相対主義的であり、つまるところ、ホストの文化であると決め付ける本質主義的な規定を行っていることに繋がる。

 そのゲストの本質主義的な規定を受けて後に、ホストの方にも同様に、自分たちの文化を本質主義的に規定している部分がある。それは、知事主催の茶の湯の席における歓待の模様である。そこでは茶の湯の席が設けられただけではなく、その場で日本舞踊、剣舞、筝曲、祭囃子を続いて見せている。最後には、文金高島田の花嫁姿の女性までも披露しており、「日本の奥座敷金沢の粋を紹介」と新聞記事は結ぶ[北国新聞1956:428日]。ここでは、あらゆる日本の伝統文化が一堂に会しているのである。しかもこれらの光景は、本来の茶席ではけっして見られることはない。これと同じような光景が16年後の1972年に、東京で持たれたこのホームステイ団体の国際大会の集いでもみられる。そこでも、筝曲演奏(琴)や日本舞踊のデモンストレーション(太鼓の踊り、三番叟、民謡メドレー、黒田節、民謡、傘踊り)、花嫁衣裳と振袖の着付けを見せ、別室で、生け花と茶道のデモンストレーションを行っている[日本国際生活体験1973:口絵写真,178-180]。そして現在においても、同じ光景がホームステイ団体の歓迎行事で繰り返し見られる。それは例えば、パーティ会場において、敷物を設えその上で能が舞われた後、ゲストに能の装束の上着と面だけを付けて舞わせたりするものや、また茶道の流儀を見せて抹茶をふるまい、着付けを見せ、着物のショーと生け花のデモンストレーションを同時に行なうといったことなどである[49]。このように長い期間を経てもみせている伝統文化は、ホームステイの場においても日本の伝統文化の特徴の差異を際立たせて、繰り返し呈示が行われている。これは伝統文化の見せ方におけるホストのもてなし方には、定型化された日本文化観が継承されていることを示すものである。

 このように見てくると、ホームステイには本質主義的な側面があることを認めざるを得ない。またそれは、ホームステイで訪れるゲストを受け入れるホストが設定する場や家庭には、文化をみせるという点で、ある種の演出がついてまわることとも密接に関係している。それはマス・ツーリズムあるいはオールタナティヴ・ツーリズムのいずれにあっても、観光という現象に共通の性格といってもよい。しかし、このような本質主義的な文化観を強化しかねない傾向は、設えられた演出の「舞台」において同時にそれ自体を打ち破る状況を生み出すことにもなっている。次にこのことをみていく。

 

 

3−4.見せる舞台裏という視点からみたホームステイ

 

 1)見せる舞台裏の設定

 ホームステイの魅力のひとつは、「ホストのありのままの暮らしを見ること」である。しかし果たしてホームステイの場で、ゲストがホストとともに過ごす空間は、本当にホストの真の姿やありのままの暮らしの空間であるのだろうか。ここではそのことを考察するために、マッカネルが観光を分析するためにゴッフマンの社会学理論から援用した、「表舞台」と「舞台裏」の概念を用いる[マッカネル2001:93]。尚、筆者はここで、マッカネルが用いる「ツーリスト」ということばを、ホームステイでの「ゲスト」ということばに置き換えて読み解く。またゴッフマンがこの理論を劇場でのパフォーマンスという視覚で捉えて論じていることも了解の上で、この論の展開をみていくことにする[ゴッフマン1974:B]。

 マッカネルは、表舞台はホストとゲストがであう場所で例えば受付、客間などであり、舞台裏とは内輪のメンバーがリラックスしたり準備したりする場所であり、キッチンやボイラールーム、専用トイレなどとしている。そして演技者はそのふたつの空間、表舞台と舞台裏の両方を行き来できる。観客が見聞きできるのは表舞台の部分だけとなるが、彼らはさらに隠されている舞台裏の領域を覗きたがるのである。なぜなら、その舞台裏には本物があると思われているからだ。マッカネルは、「社会的リアリティを確固とするためには、ある種の神秘化が必要なのだ」と言う。また、「見知らぬ者が舞台裏に入り込んでくるのは、日常生活の大きな社会的事件である。・・・見知らぬ者との社会関係がなければ、舞台裏はなくなってしまうし、舞台裏がなければ、そこでの秘密は部外者や偶然の侵入者にとって重要でなくなるであろう。まさに舞台裏があるがゆえに、そこには目にする以上の何かがあるとの信念が生じるのだ」と言う[マッカネル2001:94-95]。そして、「ツーリストたち(ゲストたち)が目にするのは、ゴッフマンの言う制度的な「舞台裏」ではない。むしろ、それは演出された舞台裏、一種の生きた博物館なのであり、舞台裏に入ったと思っていたのに、実はそこは、ツーリストたち(ゲストたち)が訪問して良いように完璧にセットが組まれた表舞台だったりする。ゴッフマンのいう舞台裏とは、ツーリストたち(ゲストたち)を駆り立ててやまない社会空間である[マッカネル2001:100-101]」。さらに、マッカネルは表舞台と舞台裏との間にいくつかの段階を設定して、観光の場や空間を説明しようとする。そこでは、舞台裏のごとく飾り立ててはいるが、雰囲気をかもし出す程度の見え透いたほとんど表舞台の段階から、ツーリスト(ゲスト)が時折、覗いてもかまわないように整頓され、ちょっとばかり変えられている舞台裏までの幅が想定されている[マッカネル2001:101]。

 ホームステイで、ホストがゲストに見せている日常生活には、このゴッフマンが述べている「見せるための舞台裏」の要素はないのだろうか。ゲストは、ホストの暮らす家庭や地域にあって、より深い交流を求めて滞在する。言い換えればそこには、自分だけが体験できる、自分だけが知る、ホストの本当の日常生活や姿を求めて訪れるのである。それはマッカネルが述べたように、自分だけが知ることのできる社会的リアリティを持った神秘性がそこにあると思い、それを見たいからであろう。つまり、ホームステイが行われる空間も、ホストがゲストに見せるための舞台裏として設定された空間の性格を持っているのだ。ただしそれは、商業的につくられたレプリカやコピーの空間ではなく、ゲストが一時覗いてもよいように片付けられ、普段の姿とは少しだけ変えられている生活の舞台裏といってよい。

 ホームステイでの舞台裏への願望は、ひとつには1956年に訪れたゲストのことばからうかがえる。彼女は、滞在中の感想を新聞記者に尋ねられて、「私たちは普通の家庭同様(ママ)にあつかってほしい。特に私は料理を実習したいのに台所さえのぞかせてくれない」と答える[北国新聞1956:415日]。一方ホストの側はといえば、記者にゲストを迎えての準備は大変だったかと尋ねられたあるホストは、「準備したことといえば、清潔をこころがけて寝具のシーツを新しくしたことぐらい」と答えるが、実際には「泊まった二部屋は、他の部屋と比べて明らかに改装されていた」とゲストが回想している[北国新聞1956:45日][Watt1967:252-253]。さらに、1957年の学生たちを迎えたホームステイでは、帰国を控えた学生が「うちのホストマザーは料理の天才。滞在した30日間の間、一度として同じスープ(筆者注:味噌汁の具)を作ったことがなかった」ということばでホストを賛辞したが、そのホストは、ゲストが帰国後寝込んだという[山本1980:8]。このスープの例は、懸命にゲストをもてなした結果であろうと思われるが、日常生活にあっては味噌汁の具の種類は限られていて、定番のように繰り返されることが普通であり、その意味ではゲストの滞在中、このホストは日常ではない部分をいわば演出してみせている。

 また、ホストの家庭生活という少し演出された舞台裏は、時折だから見せることができるのだが、この滞在期間の問題については次のようなことが指摘できる。それは、当初は4週間の滞在期間だったホームステイが、3年目は2週間ずつに期間が分割されるようになった。それ以降はこの分割のホームステイの形が続いた。期間を分割することで起きたことは、ゲストとホストが共に一旦、休息が与えられることにより、再会に意味が付与されたのである。それは、ゲストにとっては、自分の実家に戻る帰省気分が感じられ、ホストにとっては中休みの期間となって大成功だったという[山本1980:10]。ホームステイを考案した創始者は当初より、「姻戚関係にない人間が、共に暮らす限界は2週間から4週間まで」と設定していた。つまり、それ以下の短い期間では、ホストとゲストが互いに理解をすることが十分にできない。それ以上だと互いの自我が出て、更にうまくいかないという訳である[50]

 ホームステイはこのように、ホストとゲストがうまく過ごせるように想定して期間の設定をするのであった。つまり、一時あるいは時折、ゲストが覗いてもいいように巧妙に用意された生活という舞台裏が、ホームステイを成り立たせる空間なのである。

 しかし、この舞台裏を持ちつつも、ゲストとホストが日々の家庭生活を重ねる中で、互いが事前に意図したり、予想していたこととは異なることが起きるのである。例えば、後にこの金沢滞在を振り返った創始者のワットは著書の中で、「我々が犯した、それぞれが持つ文化の違いから起こる間違いは大きな問題になることはなく、しばしば大笑いのタネになっただけのことであった」と記している。また、「権威ある著書の中で、日本人は滅多に笑わないとあった。しかし滞在して数日後には、日本人はわれわれが知っているどの国民よりも、よく笑う国民であると確信した。日本人は笑わないと書いた著者は、簡単にいえば日本人の家庭に滞在したことが一度もなかったのだろう」と述べている[Watt1967:255]。また、翌年以降に訪れたゲストの学生たちは、金沢を離れるにあたって次のようなことばを残している。それらは「金沢は学ぶべき多くの日本文化を私たちに提供してくれました」や「私たちはいま、新しい日本観を持ってアメリカに帰ります」というものである[1958:7月13,815日]。これらゲストたちのことばは、ゲストが、ホストである日本人や日本の文化に対して、「こうあるはずだ」と本質主義的に規定して訪れるものの、それらの規定が破られたということになろう。ゲストが事前に豆を使ってまで練習を繰り返した箸を、実際にはうまく使えなかったり、畳の上での正座が長く続かず、立ち上がろうとして転んだりしたかもしれない。ゲストがホストと共に、毎日の生活を繰り返す中で、それら日本の文化についての解釈を間違って行い、失敗をしたとしても、ホストの日本人たちはそのことを戒めるでもなく、その代わりに滅多にみられないと思っていた笑顔を度々繰り返し、それで済んでしまったのではないのだろうか。

 つまりこのことは、ホストが、ゲストを迎え入れる日常生活の「見せる舞台裏」を設えるものの、顔と顔の見える毎日の生活の場を共有することで、時として「見せる舞台裏」が異なる働きをすることを示している。ゲストが抱いていた、ホストたちの文化に対しての本質主義的な規定に準拠した演出の空間が、実際の生活においては、ホストたちの日常生活における「文化のやりよう」を伝える空間になり、それがゲストの新たなホストの文化への理解へと繋がるのだ。

 ホームステイにみられる、このようなゲストの舞台裏での体験は、通常のマス・ツーリズムでは実現できない体験であり、ホームステイはそれを成り立たせてしまうことが往々にして起こり、それは本質主義的な他者規定を打ち破ることに繋がるのだ。そういった意味では、ホームステイにおけるゲストに「見せる舞台裏」は、両義的な、矛盾した性格を内包しているといえる。このようにしてみてくると、筆者は、観光文化と重なり合いながらも、それを超克する要素を併せ持つ文化として、ホームステイ文化と言うものを措定することができると考えるのだが、これについては後に改めて述べる。

 

 2)観光文化から「ホームステイ文化」へ

 ところで、観光に関する議論では、観光文化というものがしばしば取り上げられる。現在まで研究者たちによって、世界各地において文化が観光対象とされて不断に再構成されたり、再創造されたりする、あるいは変容するといったことについて報告がなされている[グリーンウッド1991,山下1999,橋本1999,山中1991,石森1991,太田1998]。現在これらの議論から、この観光文化については次の対立する二つの議論が見出される。

 そのひとつには、例えば山下が言う、「伝統文化は意識的に操作され、あらたに創り出され、消費されるものとして存在している。今日のヒト、カネ、モノ、情報のグローバルな文化のフローのなかで、社会の境界は薄れ、文化は社会の境界を越えて享受されている。そうしたなかで、伝統的な文化表象は一方で断片化されていき、もう一方で、とくに観光というコンテクストにおいて再構築されていく」という文化の異種混淆論で、構築主義的な捉え方である[山下1999:4]。そしてもうひとつは、マス・ツーリズムにおける観光を「(観光者にとって)異郷においてよく知られているものを、ほんの少し、一時的な楽しみとして、売買すること」と設定した上で、「観光者の文化的文脈と地元民の文化的文脈とが出会うところで、各々独自の領域を形成しているものが、本来の文脈から離れて、一時的な観光の楽しみのために、ほんの少しだけ、売買される」というもので、これは、観光と異なる場面に、真正な伝統文化が成立しているというものである[橋本1999:12]。

 一方は、伝統文化は観光の中で再構成され活かされていくとし、他方は真正な伝統文化は本来の文脈の中にあり、観光という領域にはないとする対照的な議論であるが、両者は別の点で同じ土俵に立っている。山下の主張では、観光というコンテクストにおいて文化は常に創られているということであり、それとは別に真正な伝統文化があるという議論とは相容れない。他方、橋本は、観光文化は作られたものであり、それとは別に、本来の地元民の文化的文脈における真正な伝統文化を認める。しかし、いずれの場合も、観光においては「真正」な伝統文化は否定されることになってしまっている。だが、そもそも「真正」であるか否かは何を基準として判断されるのであろうか。確かに、先進諸国の人びとが行うマス・ツーリズムにみられる典型的な《南》のイメージや、ここにみてきた日本の伝統文化に対する特定の見方は、先進諸国や米国の一方的な他者表象であって問題を孕んでいるものの、そのことと、誰がどのように文化の「真正さ」を認識するのかということは別の次元のことのように筆者には思われる。

 このことに関して小田は、ポストモダン人類学の代価を問うて、それは、「文化の「真正さ」すべてを本質主義として退けることによって、人々が生活の場においてそのつど認めている生活の文化の「真正さ」をも否定してしまうという代価」だという[小田1996:841]小田はさらに〈顔〉と〈顔〉のつながりによる「生活の場」において、人々が真正としている文化に着目すべきだと言う、まさにこの指摘がホームステイに妥当なのである。つまり、文化の「真正さ」すべてを本質主義として否定することは、ホームステイの場、すなわち舞台裏の性格を帯びながらも限りなく普段の生活に近い場において「真正さ」を志向し、認識し、感じ取るという市井の人びとの営為までもが、ひとまとめに葬り去られることになってしまうのではなかろうか。

 ここでの主張にほぼ沿う指摘が、社会学的なテクスト論の視点からもなされている。ブルーナーは先の山下と同様に、「あらゆる文化は常に創造され、また再創造され続けるものなのだ。あらゆる社会はすべて途上であり、あらゆる文化は常に進行中なのだといえよう。文化は生成し、息づき進行中である」とする構築主義的な見解を示すが、引き続いて、「テクストの意味はテクストに内在するのではなく、人びとがそのテクストをいかに読むか、いかに経験するかにかかっているということだ」と述べる[ブルーナー:117,Bruner 2004:161]。このブルーナーを踏まえて観光地におけるツーリストの状況を遠藤が捉えて、「・・・オーセンティシティのつまり、真正性の意味は、ツーリスト同士や観光地のスタッフと相互作用することを通じて構築していくものなのだ」という[遠藤2003:206-207]。さらに「構築主義的立場からすれば、観光のオーセンティシティとは何か、それは擬似的なものとどのように異なるのか、そして両者の対立はいかに越えられるのかといったことは重要でない。・・・オリジナルとコピー、オーセンティックなものとオーセンティックでないものという語彙にとらわれてしまうとその両方が実は創られるのだということを適切に認識できなくなってしまうのだ。オーセンティシティは存在するのではなく、観光地というテクストをいかに「読み解いている」のかという人びとの実践活動のなかで絶えず構築されるのである」という。[遠藤2003:207-208[51]

 つまり、ホームステイで訪れるゲストが、滞在先のホストの家庭やその地域にあって、ホストや地域の人びととの関わりの中で、その地の文化や生活文化を体験していることが大切だということがいえる。この生活の場にあっては、文化を、本質主義的あるいは構築主義的に他者規定してしまうことが問題なのではないのだ。それはつまり、その文化を実践している地域の人びとの思いを考慮に入れずに、ただ単に、伝統や真正性の如何について問い、その意味を付与することを捉えて議論することにどれほどの意味があるのだろうかということなのである。

 先のホームステイで滞在中のゲストたちが、金沢で伝統文化に接した時の様子はどうだったのであろう。この異文化(外国文化)について例えばブーアスティンが、マス・ツーリズムにおけるアメリカ人の観光客を前提にして「観光客が正真正銘の外国文化(しばしば理解しがたい)を愛好することは稀である。・・・日本でのアメリカ人観光客は、日本のものよりは、日本風のものを捜し求める。・・・独自の上演様式を持ち、日本人を長いこと楽しませて来た能・歌舞伎・文楽は観光客を退屈させる。」と述べて日本文化を理解することの難しさを言う[ブーアスティン1964:117-118]。これは確かに、2章の能が解せなかったゲストの様子と一致する。がしかし、山下晋司は、バリでのホームステイでの場面を挙げて「観光客はきわめて家庭的な雰囲気のなかで滞在し、ときには主人がガムラン音楽やダンスを教えることや、ホストと共に儀礼の見学に行くこともあり、この観光の形は参与観察に近いもので、バリに住むという感覚を与えることになる。観光客が本当に村人になれるわけはないが、バリ風を演じてみることはできる」と言う[山下1999:119-123]。このように、能に接する機会をめったにない楽しみと述べたゲストや、華道や柔道などを体験した学生たちのことばなどから読み取れるように、金沢でゲストたちが接した伝統文化に関しては、文化の理解の点においては確かに困難が伴っている。しかしながら、「〜風」とブーアスティンと山下が述べるように、ゲストたちはその異なる文化の、その地にある文化を理解するまでは及ばないが、その雰囲気を「なんとはなしに楽しむ」ことはできる。しかも、ホストやその地域に暮らす人びとから直接、伝統文化の呈示を受けることや生活文化から学ぶことで、それらの文化を楽しみ、そこから得る喜びを求めて訪れているといえる。

2章で、金沢は伝統文化を温存し、ゲストに呈示できる文化を備えていたことがこのホームステイの前提としてあったと述べた。それはまた、備えているだけでなく、実際にホストとなる人びとや地域の人びとがこれらの伝統文化である能や華道、茶道などに関わっていることが重要な要素となっている。例えば3年かかるとされた華道を、滞在中の期間に合わせて6回である形までを学べるように設定するという柔軟性をもって対処できるというようなことである。ホストたちや地域の人びとは、ホームステイで訪れるゲストたちに、これらの伝統芸能に接する機会を惜しみなく与えている。つまり、文化とはその地域に暮らしている人びとが関わってこそ活きるものだということである。伝統文化とは決してそれが続いてきた長さや、発生した論理で決められるものではない。たとえ、それらの伝統文化が、その文化的文脈から離れた場所での呈示であっても、その文化に関わっている人びとが主体となって、その時その場でのありようで、その文化と関わっていること、それが大切なのである。これらのことから、こうした観光文化とは異なる状況の文化が、このホームステイの場でみられるのであるが、筆者はこれを「ホームステイ文化」と呼ぶことができるのではないかと考えている。

 ゲストがまなざしを向けて訪れるその地で、ホストは伝統文化を含めて日常の生活を営んでいる。ゲストの投げかけるまなざしとホストが受けるそのまなざし、そして、ホストが向けるゲストへのまなざしとゲストが受けるホストや地域の人びとのまなざし。これらのまなざしが融合される場がホームステイの場であろう。そこで筆者はこのホームステイをこう定義しよう。

 

  ホームステイとは、ホストとゲストがともに抱く互いの文化に対しての本質主義的な見方

  からはじまる異文化交流が、生活の場における視点を共有することにより、互いの本質主

  義的な見方に変化を生じさせてよりよい異文化理解を招く、ツーリズムのひとつである。

 

 

 


 

 

 本論文では、金沢で1956(昭和31)年から始まった、実質的に日本で最初のホームステイである3年間の事例を基に、ホームステイを観光人類学の視点から読み解くことを試み、考察をしたものである。現在、ホームステイという活動が実に活発に行われている。そして、このホームステイはその意味を問うまでもなく、人びとに認知されてきた。しかしながら現在までに、このホームステイそのものを研究対象にした先行研究が為されてこなかったのである。それは裏を返せば、今であるからこそ、このホームステイが研究対象になり得たのだということの証左ではないかと筆者は考える。

 以下では、本論文で行ってきた議論をまとめた後で、今後の課題を述べ、本論文を終えることにする。

 

1)まとめ

 第1章では、ホームステイ、そのこと自体について、さまざまな角度から考察を行った。現在までのホームステイのことばの意味やその定義から、ホームステイの一般的な概念とはどのようなものかを述べている。また、ホームステイの先行研究では、国内においてはホームステイを、異文化理解の機会を与える場として既に設定し、そこでの「あるべき」交流の形や関係で捉えて考察しているものがほとんどであった。海外の先行研究では、ホームステイを観光の範疇に入れて論じているものがほとんどで、さらにはホームステイを観光産業としてどう運営していくかという視点までも見出された。現在までに、ホームステイに「観光」という要素を見出して論じた論文は見当たらず、これは、日本では、ホームステイの一般的な概念に「留学先での家庭寄留と学び」があり、それが先行しているために、ホームステイの実態を捉えていないためなのである。そこで次にその観光について、国内、海外の観光定義を概観して、筆者は観光の定義を行った。観光とは、「観光者が、普段の自分の日常生活圏からの移動を行い、一定の期間の中にあって、非日常的な楽しみを求めて行う活動のことである。」ホームステイでのゲストの活動はこの定義にあてはまり、観光とよんで差し支えないのである。このようにみてくるとホームステイは、十分に観光の要素を色濃く持つ活動と捉えられる。むしろ観光の一形態として捉えることが可能である。そこで、そのホームステイがどのような観光の特徴をもつのかを明らかにするために、ツーリズムの変遷を辿った。諸々の負のインパクトを生じさせたマス・ツーリズムに対抗して提唱されてきた「オールタナティヴ・ツーリズム」を概観し、ホームステイをその中に位置づけて捉えることが妥当であるとした。

 次の第2章では、このホームステイのアメリカにおける誕生の背景を探り、その後、日本におけるホームステイを事例に基づきながら考察を行った。まずこのホームステイが、1933年にアメリカで始まったのは、背景に当時の国際観光の潮流があったことを指摘した。日本で実質的に最初のホームステイは、1956(昭和31)年に石川県金沢市において行われた。これは金沢市が非戦災地域であったことと日本の伝統文化の継承が比較的よく行われていたことから、ある女性が自身の出身地であるこの金沢を推したことに始まる。この金沢におけるホームステイの成り立ちには、アメリカ文化センター(ACC)が深く関わっている。その背後には、戦後日本の連合国総司令部(GHQ)による占領施政下において、民主主義化の名のもとに、民間情報局(CIE)の図書館からアメリカ文化センターへ繋がる、アメリカの一連の文化敷衍政策があつた。当時、金沢を訪れたゲストたちが、ジャポニズムの視線を持って日本へのまなざしを構築して来日していたことと、この金沢がそれらゲストたちの要望に応えて呈示できる文化を備えていたことも、金沢でホームステイが成功した重要な要因であったとして金沢の文化的背景についても述べている。また、金沢における3年間のホームステイの滞在内容を、当時の新聞記事や回顧録を基にゲストたちの感想などを読み取り、さまざまに生活体験をしているゲストたちを描き出した。

 第3章では、金沢での事例を踏まえて、もう一度ホームステイとは何なのかを、そのホームステイの場における日本文化の呈示と享受の面から捉えて論じている。まず、マス・ツーリズムには、本質主義的な他者規定が引き続きみられる。また、このマス・ツーリズムにとって代わるとしたオールタナティヴ・ツーリズムも依然としてマス・ツーリズムが持っていた問題を孕んでいる。これらと比べて、ホームステイはマス・ツーリズムにとって代わる部分をより多く持っていることを挙げた。金沢の事例からはゲストが文化相対主義的な視点を重視し、より異文化を理解しようとする姿勢があったことがうかがえる。しかしそれでもなお、このホームステイで訪れるゲストたちに、本質主義的な視点が依然あることも認めざるをえない。こうした本質主義的な文化の捉え方は、ホームステイが演出のかかった、「見せる舞台裏」の性格をもっていることと密接に関係している。マッカネルがゴッフマンの社会学理論から援用した、「表舞台」「舞台裏」の概念に従えば、ホームステイは、一時あるいは時折、ゲストが覗いてもいいように巧妙に用意された生活という「舞台裏」である。しかし、ホストが、ゲストを迎え入れる日常生活の「見せる舞台裏」を設えるものの、顔と顔の見える毎日の生活の場を共有することで、時として「見せる舞台裏」が異なる働きをする。ゲストたちが抱いていた、ホストたちの文化に対する本質主義的な規定に準拠した演出の空間が、実際の生活においては、ホストたちの日常生活における「文化のやりよう」を伝える空間になり、それがゲストの新たなホストの文化への理解へと繋がるのである。また、これらのことから、ホームステイにおけるゲストに「見せる舞台裏」は、両義的な、矛盾した性格を内包しているといえるとして分析を行った。
また、これまで観光と伝統文化について、伝統文化は観光というコンテクストにおいて再構築されるとする立場と、真正な伝統文化は観光とは異なる、地元民の文化的文脈のなかにあるとする立場がみられるが、いずれも観光においては「真正」な伝統文化は否定されてしまうことになる。しかし、文化の真正さをすべて退けてしまうことは、ホームステイという生活の場にあって、真正さを志向し、認識し、感じ取るという市井の人々の営為までも葬り去ってしまう。その文化を実践している地域の人びとの思いを考慮に入れずに、ただ単に、伝統や真正性の如何について問い、その意味を付与することを捉えて議論することにどれほどの意味があるのだろうか。つまり、文化の真正さは人々が経験や実践を通して見出だしていくものであり、また、その地域に暮らしている人びとの日々の関わりの中にこそ成り立つものだということである。以上のことから、筆者は、ホームステイが生み出す場や状況は、観光文化と重なりながらも、それを超克する契機を内在しているものであり、それを「ホームステイ文化」と呼ぶことができるのではないかと考える。最後にホームステイの定義を提案した。

 

2)課題

 今後の研究課題として筆者は、日本と、欧米諸国などの西洋世界、そして非西洋世界での場というように、ホームステイが行われる場を三通りに設定しての考察が必要ではないかと感じている。その場合、第3章で述べたように、本質主義的な他者規定が議論の中心になるであろうと思われる。しかしこのことは、ホームステイの場においても決して避けられる問題ではなく、筆者はこれからも問い続けていく課題として考察したいと考えている。

 また視点は変わるが、日本で初めてのホームステイを体験したのは年長女性たちのグループであり、この成功が、次年度から続くことになる本来の学生たちのホームステイに繋がり、日本で根付く端緒にもなった。このことと、そして現在でも女性が、ホームステイの運営の場に関わることが多い現状がある。そこで筆者は、何が女性をホームステイに向かわせるのかということ、『女性とツーリズム、ホームステイの視点から』を考察したいと考えており、今後の研究課題のひとつにしたい。

 

 述べてきたこの金沢のホームステイでは、アメリカと日本の次のような構図が見えてくる。それは、一方のアメリカは、戦後の占領政策の指導者という政治的強者であり、ゲストの彼らアメリカ人が意図せずとも、そこには日本へのオリエンタリズムの視線があった。同時にゲストたちは、ジャポニズムという日本への憧れの視線も抱いていた。ゲストは、ホストのアメリカ生活文化への憧れやアメリカの生活様式の浸透があるなかにも、日本人を本質主義的な他者規定のなか、つまり日本の伝統文化の中に捉えようとする。他方のゲストを受け入れるホストの日本は、敗戦国であり政治的弱者であった。占領政策による、民主主義にはじまるアメリカ文化の敷衍とともに、ホストの日本人たちは近代化の手本となる国・アメリカへの憧れを抱かされ、抱いていた。こうした二側面が接触した場が、このホームステイの場であったといえる。そのようななかで行われたホームステイであるが、このホームステイという家庭滞在について、次のことを述べておきたい。それは、ゲストたちの感想にある「滞在した家庭のホストは、我々の生活体験を非常に興味深いものにしてくれたので、事前に抱いていた不安や問題を喜びに変えた。」や「私たちが金沢に来たときは、何を期待してよいかわからなかった。でもすぐに金沢の熱病にかかったようでした。」ということばから読み取れることは何だろうか[Watt1967:255][北国新聞1957:88日]。述べてきたように、ゲストは、ホストの日本文化については本質主義的な他者規定を行っており、実際の毎日の生活でもそれを準えていた。アメリカからいうところの極東の国日本で、初めて出会うホスト宅で過ごす毎日の家庭生活は、互いの文化の違いに限らず不安な要素が多々あったことであろう。1933年から行われた青年層対象のホームステイのように、事前に訪問国の言語を十分に習得して訪れるのではなく、1956年に来日したのは年長女性たちであり、日本への船中で日本語のレコードを聞いて日本語に慣れ親しむことを心がけるものの、ことばの点では問題が残ったままに訪れている[北国新聞1956:45日]。また、1956年に訪れた年長者の女性のうち一番若い女性が、食べ物が合わず体中に蕁麻疹ができて滞在途中に帰国しているようにゲストたちは食事の内容や、述べてきたような床(=畳)に寝かされることなど、家庭生活一般に対する不安もあったであろうと推察できる[山本1997:4]。ゲストたちのホームステイを終えて述べたこれらのことばが、見せる舞台裏からどのくらいの舞台裏を共有できたか否かは伺いしれないが、このような感想を残して日本を去っているのは、やはり、文化面の本質主義的な見方や他者規定以外の、「何か、何かこころに響くもの、人間としての感情の交流」がこのホームステイの場にあったのではなかろうか。それは、まだ推論の域を出ていないが、異文化理解ともやや異なる次元のホスト・ゲストの接触があるものと考えている。ところで、この問題を明らかにすることは、これまでの方法では難しい。金沢の事例は主に、新聞記事や回想録からの資料に基づいていた。したがって、新聞記事は記者の関心にも影響されて取捨選択されたものが載ったであろうことも筆者は了解している。事後に回想するということにおいては操作的客体化の過程があるだろう。こうした制約から、実際のホームステイという生活の場におけるゲストとホストの直接の声や実感を、金沢の事例だけで掴むことには限界がある。そこで、現代のホームステイの事例研究に視野を広げ、先に示した課題に取り組んでいきたい。

 

謝辞:本論文の執筆にあたっては、主任指導教官である吉岡政コ教授、および副指導教官である合田濤教授から有り難いご指導とご助言を賜ることができました。先生方はつねにご多忙な身であるにも関わらず、本論文の草稿に幾度となく目を通して頂き、また、ここに至るまで時にくじけそうになる筆者を常に励まして頂きました。ここに記して深謝の意を表します。

 

 

あとがき

 筆者は本論文中において、金沢でホームステイが成功した要因のひとつに金沢ACCの関わりを挙げた。その金沢ACCの元館長のフラーシェム氏が、当時を振り返って次のように述べて筆者への書簡を結んでいる。「当時、私は名古屋にあった領事館に相談することなく、私自身の判断で(ホスト探しに思案していた)真木夫人を助けようと決心した。・・・ホームステイが行われた後、私は親友でもあった領事館の上司に電話でこのことを報告した。彼は笑い、そして金沢ACCが真木夫人を助けたことを聞いて嬉しいと言った。そしてまた、事前にそのことを相談されたら認める訳にはいかなかったとして、私が事前に彼の許可を求めなかったことをも喜んだ。[20031028日付け]」この行間から読み取れるように、当時の人びとにとってはまったく未知の事業であった「ホームステイ」というものが、関わった市井のあらゆる人びとのホームステイへの思いが結実したからこそ、金沢で初めてホームステイが誕生したのではないだろうか。



[1] 日本では、20023月外務省が主催して世界19の国・地域からのNGONPO関係者を招聘した「グローバル・ユース・エクスチェンジ事業」、同年11月オーストラリアからのアカペラグループの来日、20048月にNPO地球市民フォーラムならがJICAの事業で受け入れたバングラデシュの青年研修など枚挙に暇がない。

[2] 中島史子、2001年「The Friendship Force of Nara 会報第2号」p.8。なお、表−1に、ゲストがホームステイを申し込む時の用紙を、JTBのパンフレットより引用して参考のために載せた。ホームステイ団体が用いている書式は様ざまであるが、だいたいこのような項目の書式を踏襲している。

[3] 例えば1900年代では、自動車・航空機関係・無線技術・映画心理学、1910年代では戦争が加わり、1920年代は若者文化・ラジオの単語が見出される[江藤編2001]。

[4] 当時の中曽根首相がASEAN諸国を訪問時に提唱したもので、実際に10万人に達成したのは2003年であった。またその後の竹下首相の「ふるさと創生一億円事業」も重ねて、地方自治体におけるホームステイ組織の誕生に拍車をかけた。

[5] その事業形態をみると「教育・研修、講演、講座・教室」と「交流会・ホームステイ」が突出して多くなっている。この国際交流基金は1992年に、ASEAN諸国に向けて日本での暮らし方を紹介する一連のビデオテープのひとつに『The Way Of Life In JapanHOMESTAY−(英語版)』(NHKインターナショナルとの共同企画・制作)を作成している。

[6] ザ・フレンドシップ・フォース(本部アメリカ・アトランタ)が実施した事例にみられるもので、当時アメリカとは冷戦状態にあった旧ソビエトおよび東欧諸国へ1982年に、1994年に北朝鮮や中国、20035月にキューバへ出かけている。尚、このプログラムへの参加者は世界各地から募集した。

[7] 日本で最大の旅行会社であるJTB1971年から自社の商品にホームステイのプログラムを取り入れている。当時、このホームステイの意義を「国際交流と異文化体験及び英会話能力の向上、国際性を将来活用してもらうこと」としており、ホームステイ対象者が青少年層という前提で行われていたことを示している。しかし現在このJTBは、実に多様な年齢層を対象にしてホームステイのプログラムを実施し、「ホームステイ&語学留学」他数種類のパンフレットの中にそれらが散見される。近畿日本ツーリスト他の旅行社などでも、ホームステイプログラムが旅行商品として多様に販売されている。

[8] 199562日に観光政策審議会が運輸大臣に答申した「今後の観光政策の基本的な方向について」の前文にある。

[9] 国連開発計画(UNDP)の実施機関として1975年に設立された組織で、World Tourism Organization の略であり、この定義はオタワ会議(1991/6/24)におけるものである。尚、24時間以内の旅行者はエクスカーショニストと定義されている。

[10] ところが、これらの観光開発のなかには、開発を推進した政権の失墜などによって成功していない例もみられ、非西洋地域での政府=政権の安定性という点から鑑みても、政府が主導する観光開発の困難さがみられる[安村2001:38]。

[11] かって温泉場でみられた湯治が、「ヘルス・ツーリズム」となって世界各地に温泉療法と観光を兼ねて出かけるものや、「メディカル・ツーリズム」「シネマ・ツーリズム」「フィルム・ツーリズム」も行われている。

[12] 例えばこういう指摘がある。「何も知らない若い学生に、伝統のある文化や芸術を理解してもらうには、大変な時間や経験が必要かと思います。しかし、ほんの少し経験させることは将来のために大変役に立つと思います。日本で茶室に入って脚が痛くなったことがあるという思い出があれば、特別な違和感がなくまた茶道に入門できると思います。その他は、家庭生活の体験を通じて、互いに自分の国を発見することに大変意義があるのではと考えます。」前出山本茂氏2004918日付け書簡。

[13] 前出山本茂氏に、アメリカにおける一般的なホームステイ受け入れ家庭の状況を尋ねての回答、聞き取り調査(2003年6月17日)と、日本のザ・フレンドシップ・フォースの23あるクラブの会報誌から抽出を行った。尚、本来のホームステイは無償提供で始まったものであるが、現在は有償のホームステイもあるという事実があり、ホームステイの受け入れ形態は多岐にわたって存在する。

[14] EILのホームページ http://www.experiment.org/70th_anniversary.htmより引用。EILはこの実施までにアメリカから欧州へ青少年を既に2回送り、ホームステイを試みた。前年の1932年には23名の青少年を最初の生活体験者としてスイス、ドイツ、フランスへ送っている。

[15] その後、ホームステイを重ねることでこのEIL12項目のホームステイの教育原則を持つに至った。東京の(社)日本国際生活体験協会の事務局次長、紙谷信子氏と面談、聞き取り調査(2004520日)。

[16] ワットは、18935月にアメリカのペンシルベニア・ランカスターで生まれた。父親は百貨店The Watt & Shand Department Store を経営していた。ワットは、成人後はこの父親の遺産で暮らし、「自分の趣味と生涯をかけた仕事、つまりこのEILの活動とは同じものだった」と、著書の中で述べている。1972年、日本政府より勲三等瑞宝章を贈与されている。197811月没、享年85歳であった。

[17] 世界で最初の政府観光局は、19104月のフランスで作られた(Office National du Tourisme)。これは中央政府の行政機構に初めて観光の名前を冠した機関であった。2番目は日本1912年に鉄道省の傘下にジャパン・ツーリスト・ビューロー(日本交通公社と国際観光振興会の共通の前身)ができた。国内観光はまだ行政の関心の対象にならず国際観光振興策が仕事であった。3番目は1917年にスイスで、半官半民の全国観光事業促進会が創設、別に事業遂行機関として中央観光局が作られた。1919年にパリに国際観光連盟(AIT)ができ、同年イタリアが政府の強力な国家統制のもとに全国観光協会が創設された。以降南アフリカが1927年、ドイツが1928年、英国とオーストラリアが1929年、オーストリアとカナダが1934年に続く。

[18] 1940(昭和15)年7月、東京においてこのEILより、アメリカの男女2名ずつの計4名の大学生が来日して家庭滞在を体験しているが、日本の国際観光局が宿泊先ほかを斡旋したもので一度きりのことであった[都新聞1940:7169面、7172面、8122面、東京朝日新聞1940:716日朝刊7面]。1956年のこの金沢での家庭滞在は、その後、長野市や甲府市などへと広がり、日本のホームステイの出発点となっていることから、この金沢が実質的に最初のホームステイである。

[19] 現在、東京にある日米教育委員会の前身である。真木は在日合衆国教育委員会において、1958年から1967年までAmerican Program Officerとして勤めていた。日米教育委員会同窓会担当スペシャリスト、伊藤智章氏に面談の上、確認した(2004520日)。

[20] 山本茂氏からの筆者聞き取りによる(2003617日)。

[21] 当時の金沢ACC館長フラーシェム(Robert. G. Frashem)氏からの書簡による(20031028日付け)。フラーシェム氏自身は、金沢に赴任以来英語の話せない、洋式トイレもなく西洋料理も提供されない日本人家庭に寄留しており、外国人が日本人家庭に滞在する事を楽観的に捉えていたという。尚、当時の金沢ACCの関係者はこのフラーシェム氏が唯一存命されており、架電においても当時の事情を話して下さり、貴重な証言を頂戴したものである。

[22] 他は東京都内2箇所、京都、名古屋、大阪、福岡、新潟、札幌、仙台、神戸、長崎、静岡、高松、横浜、函館、熊本、広島、松山、岡山、秋田、北九州である。19463月の東京での日比谷センターに始まり19516月の北九州センターが最後となる[今まど子2002]。尚、北九州は1963年に5市合併後の名であるが、参考資料では、CIE図書館の設置場所が「北九州」と表記されており、筆者はそのことを了解してそのまま載せる。

[23] 開架式について、大江健三郎がこう述べている。「・・・受験勉強に占領軍のアメリカ文化センターに通いましたが、楽しみは開架式の図書室で訳文を覚えている『ハックルベリ・フィンの冒険』の原文を書き写すことでした。」[コラム『伝える言葉』、朝日新聞 2004:68日朝刊20面]図書館の開架式が当然の現在からは、この大江のように直接本を手にする喜びは、想像に難くない。

[24] 京都アメリカ文化センターにおいての記録であるが、当時日本各地にあったアメリカ文化センターはどこも同様のことが行われていたという。駐大阪・神戸アメリカ総領事館内アメリカン・センター・レファレンス資料室への聞き取り調査(2003620日)。

[25] 石川県立歴史博物館所蔵「USIS映画目録1959年版」より。

[26] (財)石川県国際交流協会の事業企画班・佐味久子氏と面談、後日PDFにて旧アメリカ文化センターの蔵書一覧資料を送付頂いた(2003823日)。

[27] 前出、山本茂氏からの筆者聞き取りによる(2003617日)。

[28] 前出、フラーシェム氏から筆者宛の手紙。当時の金沢ACCの担当範囲は石川県、福井県、富山県や新潟県まで及んでいた。金沢ACCは、これらの地域の市役所や教育委員会、商工会議所などと協力しながら、国際文化交流や姉妹都市、日米協会などの活動に積極的に関わっていたとある。

[29] ACCと並んで、戦後の対日文化政策として重要な働きをしていたものにフルブライト委員会(Fulbright Commissions)がある。この委員会は、米国政府手持ちの余剰物資を外国で払い下げた金を、その国と米国の文化交流、特に教育のために使うことができるようにするために設けられた組織である[フルブライト1991]。1957(昭和32)年以降、金沢でのEIL受け入れ担当者となった、当時県立高校の英語教師であった前出の山本茂氏も、同組織による留学生であった。山本氏はアメリカに着いてすぐにチョコレートの自動販売機があることやその甘さに驚いたという。同じくフルブライトで1958年に渡米した、当時26歳の青年作家小田実が、飼い猫用の缶詰や、お湯が出る水道などに象徴されるアメリカの文明やその豊かさに驚愕したとある[小田実1961]。

[30] 一行は金沢駅に降りたち受けた新聞記者のインタビューに対して、「世界の平和にはお互いの理解が必要。それには同じ家に住み、同じ物を食べてともに生活してはじめて理解できるものです。」と訪問の意義を伝えるが、「われわれがヨーロッパの国へ体験に出かける時は3年間その国の言葉を勉強して出かけますが、今度の日本の場合は特別です。言葉や習慣は判らないから行かないでおこうと思っていたらいつまでたっても行けません。判ろうと努力すれば判るはずです。」と続く[北国新聞1956:45日]。また、日本滞在は実質的には1か月の金沢滞在と2か月の国内観光旅行の計3か月であるが、航路での往復は計6週間を要し、合計日数で言えば、約4か月の滞在になる。付け加えるならば、granma groupの女性たちを横浜で見送って後、ワット夫妻はアメリカ領事館に1か月の滞在延長の許可を得て金沢に戻り、次年度からの学生たちのホームステイの打ち合わせを行い、合計5か月の滞在になった。前出、山本茂氏からの筆者聞き取り(2003617日)。

[31] この二人の女性たちはいずれもアメリカ滞在や海外生活経験のある女性たちであった。金沢ACC館長フラーシェム氏夫人良子氏より筆者宛書簡(2004518日付け)

[32] 日本は1867(慶応3)年のパリ万博に初めて参加、日本の陶器と美術品を出品している。1873年のウイーン、1893年のシカゴ万博にも引き続き出品して反響を呼んだ[村田理如「海を渡った工芸美術幕末・明治2」京都新聞2004:816日朝刊7面]。

[33] 五代藩主前田綱紀の時代に百二万五千二十石の石高を誇り、支藩の富山藩十万石、大聖寺藩七万石を合わせると百二十万石もの領地を持っていた。また、江戸城では、尾張・紀伊・水戸も御三家と並んで大廊下席に控えの部屋を持ち、官位も、江戸時代中期の安定期に、尾張・紀伊の大納言、水戸の中納言に次ぐ参議(宰相)にまでのぼったとある[山本博文2001:@-A]。

[34] 加賀宝生流は1901(明治34)年から、第二次世界大戦の数か月を除いて、金沢において「定例能」を続けており、2000(平成12)年12月の時点で1088回を数え、現在も引き続き行われている。また、夏休み期間中に小、中学生を対象にした30回を数える子供謡教室や狂言・仕舞教室があり、県民や市民を対象にした能楽講座なども活発に行われている。さらに78月には、観光客も対象にして「観能の夕べ」として、計9回の公演を各1,000円で鑑賞できる行事が実施されている。2004年度は昨年を上回る2,800人が楽しみ、伝統芸能の普及が続いている。石川県立能楽堂館長北川邦昭氏より筆者聞き取り(20031028日)と書簡(2004831日付け)。

[35] ゲストが滞在する金沢では、毎年、滞在状況を追うようにして新聞などが報道しており、町中のゲストに人びとの関心が向けられた。そのような中で、「まことの日本をアメリカ学生に」との題で投書が新聞に載った。そこには「毎日の交際の人々は外人崇拝のイエスマン的人種や上流社会の方々や裕福な家庭のみなさまらで、それこそ限られた一部の日本のワンダフルの面のみをみることになってはいまいか。もしそうだと考えざるを得ない・・・。寺や神社にも農山村漁村にも工場にもワンダフルはあります。」という金沢市民の声もあった[北国新聞1958:729日朝刊(3)の読者投書欄地鳴りにおける記事]。

[36] Dr. John W. Dower1938年生まれのアメリカ人。『敗北を抱きしめて』ではアメリカでピュリッツア賞を、日本では第1回大佛次郎特別賞を受賞している。マサチューセッツ工科大学教授、作家。ダワーは1962(昭和37)に金沢を再訪して1年間、金沢女子短期大学と同左高等学校の常勤講師をした[丹羽正彦「ジョン・ダワー氏の金沢時代」、北國新聞2001:820日]。

[37] 真木雪子氏は1902年生まれ。1924年にアメリカ・マサチューセッツ州にある女子大学のWellesley College卒業後に、ワシントンにある日本大使館に勤務している。この大学は1870年に創設された、Seven Sistersと呼ばれる名門7女子大学のうちのひとつで、卒業生にはヒラリー・クリントン、マデリーン・オルブライトなど著名な女性が多い。また、真木氏は、東京在住の大学を卒業したアメリカ人女性たちのためのクラブ(東京カレッジ・ウイメンズ・クラブ、現在のCollege Women’s Association of Japan CWAJ)とも関わりがある。この協会が1999年に行った50周年記念式典には皇后美智子妃が出席して祝辞を述べている。(社)日本生活体験協会より真木の履歴書のコピー入手による(2004520日)。

[38] 金沢は明治初期から外国人英語教師が四高やミッションスクールで教え、宣教師も常住していましたから、外国人に接する機会もあり、進駐軍時代も外国人に対して余り抵抗はなかったように思います。」という背景も一部には存在した。金沢ACC館長フラーシェム氏夫人良子氏より筆者宛書簡(2004518日付け)。しかし、一方で、1958(昭和33)年に、金沢からアメリカン・フィールド・サービス(AFS)の試験に合格して1年間アメリカに留学に行く高校生が選抜されたが、この学生は「実際に外国人に会って話す機会は一度もなかった」と新聞紙上で述べる[北陸新聞1958:726日夕刊3面]。

[39] 当時、金沢大学文学部教授の密田良二氏。1971年に『金澤の能楽』の著書がある。ホストとして、また伝統文化の説明を行った際の話として、「お能の筋書きは説明出きるのですが、物語の底流となるわび、さび、幽玄となるとお手上げで、説明不可能だ」と笑っておられたことを記憶していますという、山本茂氏よりの書簡(2004年9月18日付)。このホストの笑いからホスト自身も、ゲストが伝統文化を理解することは難しいと捉えていたであろうことがわかる。

[40] 「生け花教室で、自然にない自然の美しさを創ると言っても、誰もわかってくれません。「中心の茎の副えとは、何度くらい傾けて2番目の花を立てるのですか」と言う質問には先生もお手挙げで、こうなれば自然じゃなくて、科学になってしまいます。茶道の高橋介州夫人は、興味のある学生には茶道を見せてくださいました。ゲストのアメリカ人高校生が「あんなキャベツ汁みたいな物を飲むのにそんなにルールがあるのですか」とあきれて言い、それ以後高校生はお茶にはつれてゆかないことにしました。当時、実際に伝統文化を呈示する場においてのホストや関係者の声がなく、この点を重点的に回顧願い、尋ねた回答である。同上(2004年9月18日付)。

[41] 前出、山本茂氏への聞き取りによる(2003617日)。ゲストを受け入れて行うオリエンテーションは毎年、金沢に入る前に行われた。1960(昭和35)年には、「浴衣がけで日本研究 箱根の青い目の大学生たち」の見出しで、このオリエンテーションの模様を次のように伝えている。「5人の日本人を講師にして、日本の歴史の勉強から着物の着方、ハシの上げ下ろし、フトンの敷き方、本格的なフスマのあけ立て、おじぎの仕方も教わる予定で、ホテルでの一行は浴衣に下駄をつっかけて富士山を眺めたり、刺身てんぷら味噌汁といった日本料理を箸さばきも鮮やかに味わって、おいしい、ありがとうの片言の日本語で賑やかな日々を過ごしている[朝日新聞東京版1960:74日朝刊10面]」。

[42] このゲストが好んだ茶の間で過ごす時間や、実際にその茶の間にあったちゃぶ台や火鉢は、家庭生活に入らないと経験できないものである。このちゃぶ台は、明治20年頃から使われ始め、その後日本全国に普及するようになったが、昭和30年代後半に入ると椅子式のダイニングテーブルにとって替わっていった。日本人がちゃぶ台を捨ててダイニングテーブルに変えたのは生活の近代化、洋風化をめざしたからである。[小泉和子2002:4-5,111,118-136]。この意味でも、ゲストたちは当時において実に日本らしい日常生活を経験したといえる。

[43] 畳は世界の中で日本だけのものであり、一度は畳のある部屋に泊まりたいと希望する外国人観光客が現在も多い。また、sleep on the floorとは、「ベッドも買えないほど困窮している」というニュアンスがあり、面白がってわざと茶化して観光客同士が言っている[中山幸男2004:6-9]。現在でもこのようなのだから、50年前にはこのゲストの記述にあるように、床=畳に寝るということは想像できなかったのであろう。

[44] 前出、山本茂氏への聞き取りによる(2003617日)。小型電気冷蔵庫が1952(昭和27)年に90リットル用が8万円で売りに出されたが、当時の平均的なサラリーマンの月給の10倍と高価であった。また、電気炊飯器は前年の1955年に東芝より初めて売りに出される。当時の1955(昭和30)年代以降からは冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビは三種の神器といわれて人びとの憧れの電気製品であった時代なのである。

[45] 20041230日インターネットにて検索。バングラデシュの特定非営利活動法人シャプラニール=市民による海外協力の会が主催のスタディツアーでは、他に農村開発活動や、ネパールにおいてのカトマンズ低所得層自立支援活動も含まれている。他にフィリピンでは児童養護施設訪問などが行われている。

[46] 来日後に数日間のオリエンテーションが必ず実施されていた。他には鈴木大拙、ドナルド・キーン、アーサー・ウェリー、ジョン・ウエイリー、リーチなど日本に関して書かれている著書をその期間中毎日3冊与え、レポートを課していた。前出、山本茂氏からの筆者聞き取り(2003617日)。

[47] ホームステイにもみられるこのような本質主義的な他者規定は、近年の人類学、つまりポストコロニアル人類学から言われるところの「本質主義的な他者規定」のことを指し、三つの特徴がみられる。ひとつは本質主義的視点への批判である。これは周辺のそれぞれの土着の文化は独自性・固有性を持っているが、それとは異質な中心の文化によってその独自性が侵食されるという見方であり、これはすなわち、個々の文化は純粋で真正なものであるという本質主義的な規定が前提になっていることからこそ成立するというものである。ふたつめは、文化はたえず変化しさまざまなものが混淆した状態を生成しつづけているという異種混淆性に着目することであり、最後は、他者の文化を語るという自らの研究姿勢を問い続けるということである[吉岡2002:47-49

[48] 例えばオードリー・ヘップバーン主演の『ティファニーで朝食を(1961年)』に度々出てくるアパートの階下に住む日本人は、いつも浴衣姿で眼鏡をかけそしてお辞儀をする。『ダイ・ハード(1988年)』でも主人公の妻が勤める日系企業の日本人たちもお辞儀ばかりが強調され、これらは多数の映画に散見される。このような映画での日本人像について、2003年末に公開された『ラストサムライ』での論評に次のようなものがあった。「ハリウッド映画の脚本家たちが示す日本人に対するステレオタイプな姿勢は、実に妙なものである。基本的には、大昔から変わらない“the inscrutable Oriental”(我々西洋人には結局理解できない東洋人)という固定観念がこのステレオタイプのベースにあるが、その上に、1946年に出版されたルース・ベネディクト著の『菊と刀』による「日本の恥の文化」説がまだまだ通用しているのだ。・・・一般のアメリカ人の観客にとっては、そうした陳腐な描き方こそ分かりやすく、おもしろいのである。・・・また、ハリウッドのプロデューサーの方も、評論家の意見を気にするより、従来どおりのステレオタイプにおもねた方がウケルだろうと判断する」(マーク・ピーターセン2004ASAHI WEEKLY  January 11, Thought for the Day」より)。

[49] ホームステイ団体のザ・フレンドシップ・フォース・オブ・奈良においての行事である。

[50] ()日本生活体験協会事務局長、紙谷信子氏への聞き取りにより(2004520日)。

[51] 遠藤は、観光社会学の視点からブルーナーの考察を基にアメリカ・イリノイ州のニュー・セイラムでの自身の調査と考察を加えて述べている。詳細は遠藤(2003)を参照願いたい。

 

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山本茂

 1980 『「国際生活体験」25年の歩み』(社)日本国際生活体験協会金沢地区委員会。

 1997 『「国際生活体験」40年の歩み』(社)日本国際生活体験協会金沢地区委員会。

 2001 『金沢EIL創設45周年小史(19562001)』(社)日本国際生活体験協会金沢地区委員会。

 

山中速人

 1993 『ハワイ』岩波書店。

 1996 「メディアと観光」山下晋司編『観光人類学』新曜社、pp.74-83

 

山下晋司

 1996 山下晋司編『観光人類学』新曜社。

 1999 『バリ 観光人類学のレッスン』東京大学出版会。

 2002 「観光人類学のパースペクティブ〜トランスナショナリズムの人類学(W)」江淵一公,小野

    澤正喜,山下晋司編『文化人類学研究−環太平洋地域文化のダイナミズム−』放送大学教育振

    興会pp.117-130

 

安村克己

 2001 『観光−新時代をつくる社会現象』学文社。

 

彌永信美

  1987 『幻想の東洋 オリエンタリズムの系譜』青土社。

 

吉田憲司

 1996 「「異文化」展示の系譜−もうひとつの人類学史・素描−」青木保編『岩波講座文化人類学

12巻:思想化される周辺世界』岩波書店、pp.35-67

 

吉岡政コ

 2000 「歴史とかかわる人類学」吉岡政コ・林勲男編『オセアニア近代史の人類学的研究−接触と

変貌、住民と国家−』国立民族学博物館研究報告別冊21:pp.3-34

 2002 「ネオコロニアリズムと文化人類学」江淵一公,小野澤正喜,山下晋司編『文化人類学研究−

    環太平洋地域文化のダイナミズム−』放送大学教育振興会pp.47-66

 

財団法人国際交流基金編

 2001 『日本の国際交流活動団体の現状−国際交流活動団体調査・2000年−』国際交流基金。

 

財団法人国際交流センター

 2002 「月刊情報グラスネット(草の根国際交流・協力活動メールマガジン)第5号」。

 

厨子光政

 1998 「ホームステイを通した国際交流に関する調査:カナダ人学生とホストファミリーの関係」

    『静岡大学情報学研究/静岡大学情報学部』4:pp.31-50