<場>によって結びつく人々ーヴァヌアツにおける住民・民族・国民


  我々は様々な肌の色を持ち、様々な言語を持ち、様々な慣習を持っている。しかし、我々は将来全員が一つの道を歩むことを良く知っている。ここに我々はニューヘブリデスの共和国設立を宣言する。そこでは、我々住民の考えは一つにまとまり、我々は自由人となる。我々の国家は、我々の祖先達の良き伝統と、神に対する信仰及びキリスト教徒の精神に基づいている。
(ヴァヌアツ共和国憲法前文より)

 独立前は英仏共同統治領ニューヘブリデスとして知られていた南太平洋・メラネシア地域の島嶼国家ヴァヌアツは、人口一五万人足らずの小国である。しかし、国内には一一0を越える異なる言語が存在しており、人々の伝統的な生活単位はこの小さな言語圏であった(1)。多数の異なった伝統的世界から成立していたヴァヌアツは、それ故、植民地統治を経験した新興独立国の例にもれず、独立すると同時に国民としての単一性を強調する必要にせまられた。つまり国家の側から国民形成の課題に取り組むことになったのである。
 一九九0年、ヴァヌアツは独立十周年を向かえた。独立以来首相の座にあるウォルター・リンギは、この十年を振り返って次のように述べている。「・・・我々はまた、ヴァヌアツの人々が特に文化的、伝統的側面におけるアイデンティティに誇りを持つようにさせてきた。ヴァヌアツにおける価値規準と文化は、十年まえよりもはるかに国民の間で共通のものとなっている。・・・我々は英語やフランス語を知っているし、多くの異なる言語を持っているが、とりわけビスラマ語を通して、単一の文化レベルに到達し得たことに誇りを持つ。文化とビスラマ語はヴァヌアツを真に一つにまとめたのである」(2)。
 リンギ首相のこうした総括は、国家の政策としての国民形成が成功したことを誇り、ヴァヌアツは国民国家として確固たる歩みを始めたことを宣言している。これは、しかし、あくまでも国家の側からの論理である。そしてそれは、必ずしも住民の側からの論理と一致しているわけではない。以下では、国民形成のための国家政策とはどのようなものであったのか、ヴァヌアツはほんとうにまとまっているのかということを検証した後、住民の側らからのまとまりの論理を考察する。そして、国家の側の論理とは別のところで成立しているヴァヌアツの姿を抽出する。

1 文化と言語

 リンギ首相は、ヴァヌアツにおける文化は共通のものとなったと述べているが、多様な伝統文化を一つにまとめるのは容易なことではない。多くの新興独立国は、共有の文化的基盤を模索しつつ、それがなかなか達成されないのが現状なのである。ところが、ヴァヌアツの場合は、独立後十年にしてそれが達成されたというのである。国家は、そのためのどの様な政策を展開してきたのであろうか。
 独立運動が展開される過程で最も強調されたのが、伝統文化の重視ということである。西洋文化とは異なる伝統文化の存在が、独立運動の原動力であった。確かに、多様な伝統文化ではあっても、西洋文化と対比すれば一つのまとまりをなす。リンギをはじめとする指導者達は、こうして伝統文化の外縁を他との対比において見いだすことにより、人々のまとまりをつくりだそうとしたのである。独立後もこの方針に変化はなかった。彼らは、メラネシアン・ウェイという概念を携えて、文化の外枠づくりに努めたのである。メラネシアン・ウェイというのは、国家が目論だ国民文化のイメージである。それは、もちろん伝統文化に基盤をおいてはいるが、単にヴァヌアツの多様な伝統文化の総体を示すものではない。それは、キリスト教精神にのっとったメラネシアの伝統文化のあり方を意味し、さらに、キリスト教の神によって与えられた文化的な枠組みを意味していたのである。リンギ首相は次のように述べている。「我々の文化と伝統は、神によって与えられているという確信がある。そしてこのことによって、他の全ての人々の文化と伝統よりも我々のそれが、我々にとってより重要となるのである」(3)。ヴァヌアツの国民統合政策でキリスト教の演じる役割は大きい。ヴァヌアツでは、独立する段階で既に八0%以上の人々はキリスト教徒となっていたが(4)、なによりもリンギ自身がイギリス国教会の牧師であったということが、そうした政策の方向を決定していると言える。国歌においても「ヴァヌアツの人間だと喜んで言おう、神がこの地を与えた、神に深く感謝する」と唱い、国家は人々に、新たに出来た国家、国土、そしてその文化は神に与えられたというメッセージを贈ったのである。
 本来多様な伝統文化は、この様に、神を接着剤としてヴァヌアツの独自文化としてのまとまりを与えられたが、いかにイメージとしてのまとまりが強調されようと、それはあくまでも文化の外枠に関するものであることには変わりがない。そうした外枠の設定と同時に、様々な伝統文化の差異を貫くような内的な統合のシンボルを創り出すことが、多くの新興独立国の課題であることは知られている。しかし、ヴァヌアツの場合は外枠を設定することで止まるのである。ヴァヌアツの伝統世界では、政治的勢力において卓越した社会が存在したわけでもないし、文化的に他に影響を与えるほどの社会も存在しなかった。内的な統合のシンボルとして、何等かの中心的存在を利用することが出来なかったのである。
 一方、国民統合のもう一つの立て役者とされているビスラマ語に関してはどうであろうか。ビスラマ語とは、ヴァヌアツで話されているピジン・イングリッシュのことである。都市部はもちろんのこと、村落部においてもビスラマの普及はめざましく、共通語として大きな役割を演じている。多言語国家の場合、異なる言語集団をまとめるという意味を持つ共通語の存在は重要である。例えば、インドネシアが国民国家としてまとまる上で、国家の側がインドネシア語をいかに見事に作り上げていったかということはしばしば指摘されるところである(5)。しかし、ヴァヌアツはここでも通常の手続きを踏むわけではない。つまり、国家主導でビスラマの普及やその言語的な精錬を行い、それを国民語と磨き上げたわけではないのである。
 ビスラマは、十九世紀半ばに百檀採取にやってきた白人商人達とのコニュニケーションのために作り出されたリングア・フランカに端を発する。メラネシア地域では、こうした商人達の活動に続いてブラック・バーディングと呼ばれる契約労働者徴集が活発に展開されたが、多くのヴァヌアツの人々は、この労働者徴集によってオーストラリアのプランテーションで働いた。そこでは、ビスラマが白人雇用者との会話のよりどころとなり、彼らがヴァヌアツに帰ってくることにより、ビスラマは大きく発展していった。この動きは、植民地統治体制下になっても変わらなかった。植民地統治を経験すると、統治する側の言語が普及するため、その言語が植民地を貫く共通の言語となる場合がある。しかしヴァヌアツの場合は、イギリスとフランスの共同統治であった。学校教育もイギリス系とフランス系に分離されていたため、英語を話せる者とフランス語を話せる者は多くなっていったが、両者が会話をするときはこれらの西洋の言語は役に立たず、結局ビスラマが用いられることになった。そして、この統治時代の最後には、公用語である英語とフランス語と並んでビスラマでのラジオ放送が一般的になり、行政府の発行する公報誌にはビスラマでの記事が登場するようになっていた(6)。つまり独立運動が活発に展開されるころには、ビスラマは既に人々の間で共通語としての地位を十分に確立していたのである。
 国家の指導者達は、共通語としてのビスラマの重要性を十分に認識していたようで、独立と同時にビスラマは国語に指定されている。しかし、ヴァヌアツという国名には神経を使った彼らも、国語の名称にはこだわらなかった。百檀の商取引のために生まれたこのリングア・フランカは、当初、百檀英語、またはビーチ・ラ・マーと呼ばれていた。ビーチ・ラ・マーというのは、当時、白人商人が百檀と共に中国に売りさばいていたナマコを指すポルトガル語から派生した言葉である(7)。ビスラマはその名称のまま国語となったのである。また、公用語としてはビスラマ以外にも依然として英語とフランス語が用いられている。首都を歩いてみればすぐに気が付くことであるが、立ち並ぶビルには英語とフランス語の看板が多く、政府機関の建物ですら、植民地時代のままその名称が英語とフランス語で併記されているのである(8)。つまり、ヴァヌアツ国家は、国民統合のためにビスラマを操作・活用したとは言えないのである。
 国民統合のために重要な役割を担ったとされている文化と言語に関して、国家の側は強力な主導力を発揮してきたわけではない。にもかかわらず、ヴァヌアツは真に一つにまとまったとされている。本当にまとまっているのであろうか。分裂の芽は無いのであろうか。

2 分裂とまとまり

 ヴァヌアツは、一致団結して独立に邁進したわけではない。その歴史の中で分離活動を経験しているのである。リンギ率いるヴァヌアアク党がまさに独立を宣言しようという数ヶ月前、ヴァヌアツ北部にあるサント島で、分離独立の暴動が勃発した。暴動の中心となったのはナグリアメルと呼ばれる団体であり、彼らはサント島をヴァヌアツから分離独立させることを要求した。この動きに南部にあるタンナ島の人々も同調し、一時は大きな混乱が生じた。ヴァヌアアク党はこの混乱の中、独立を宣言し、パプアニューギニアに軍隊の派遣を要請することにより事態が収集されたのである(9)。
 表面上は各地の新興独立国家で生じた分離独立運動と変わりはないが、しかし、ヴァヌアツの場合は、他のそれとは異なった三つの特質を持っていた。その一つは、この運動が少数の立場にたたされたエスニック集団の起こしたものではなかったという点である。メラネシア人が多数を占めるヴァヌアツには、少数のポリネシア人も居住しているが、彼らはこの運動には関係を持たなかった。分離活動を支えたのは、サント島に居住するメラネシア人だったのである。さらに、サント島の人々だけが、他のメラネシア人とは異なる言語・文化的基盤を持っていたわけではない。サント内部でも多数の言語・文化圏にわかれており、その状況は他の島々と変わるところはなかった。だだし、彼らは一様に、西洋と接触する以前の伝統世界への復帰を願っていたという点ではまとまりを持っていた。西洋教育やキリスト教を拒否してきた彼らは、ヴァヌアアク党が独立を達成すればキリスト教が勢力を持ち、近代化が進行することにより伝統文化が消えてしまうと考え、その独立に反対したのである(10)。
 第二の特質は、基本的に反独立、反ヴァヌアアク党の運動であったナグリアメル運動に、外部勢力が介入したため、それが分離独立の暴動へと発展したことである。介入してきたのはアメリカの右翼団体・フェニックス財団であった。この財団は、政府が関与しない自由企業をつくることを目的とし、意のままに操れる適当な規模の独立国を求めていた。そして、ナグリアメルに分離独立を示唆しただけではなく、様々な財政的支援を行ったのである。こうした外部勢力の介入は、実は、フェニックス財団だけではなかった。ナグリアメルの暴動には一二七名の外国国籍者が荷担したが、その内の一一0名がフランス国籍者だったのである。暴動が鎮圧されるやいなや、彼らはニューカレドニアなどに逃亡したため、ヴァヌアツへの再入国を拒否するという形でしか裁かれなかったが、暴動に関与したかどで罪を問われた者が八百人余りであったことを考えれば、彼らの存在がどれほど大きかったかが理解されるであろう。後日、逮捕されたナグリアメルの指導者は、彼らフランス人こそが分離活動を扇動した張本人であると主張してやまなかったのである(11)。
 このことと関連するが、第三の特質は、ナグリアメルの活動は、植民地統治体制の歪から生まれた対立に利用されたということである。英仏共同統治は、統一した体制を作り上げるどころか、様々なものをイギリス系とフランス系に分かれさせる結果を生んだ。既に述べた学校教育だけではなく、キリスト教でさえ、プロテスタントはオーストラリア、ニュージーランドから、カトリックは仏領ニューカレドニアから布教されたため、プロテスタント=イギリス系、カトリック=フランス系という図式が出来上がっていた。独立を巡る政党活動もこうした区分の上に成立していたのである。ヴァヌアアク党は、リンギを初めとしてプロテスタントでイギリス系の教育を受けたエリート達が主導していたため、イギリス色が強かった。これにフランス人居住者やフランス行政府は強く反発した。彼らは、カトリックでフランス系の教育を受けたメラネシア人エリート達と共に、反ヴァヌアアク党の政党を設立して対抗した。そしてさらには、独自の反ヴァヌアアク党キャンペーンを展開していたナグリアメルとも手を組んだのである(12)。そして、植民地の独立を望まなかったフランス行政府は影からナグリアメルの活動を支援し、暴動にはフランス人だけではなくフランス系のメラネシア人議員も参加していたのである(13)。
ヴァヌアツにおける分離活動は、この様に三層構造で出来ていたが、その一つ、分離活動を示唆し、それに援助を与えたフェニックス財団はヴァヌアツを去って久しい。また、分離活動の張本人であると言われたフランス人居住者達の多くは永久追放となり、彼らがヴァヌアツに戻ることはない。フランスも、植民地ではなくなったヴァヌアツに政治的な権力を振りかざすことは出来ない。一方、暴動の主体となった大勢の西洋世界を拒否した人々は、近代化の進行やキリスト教の普及によりますますその位置を失ってきている。ナグリアメルは、指導者不在のまま政治団体として細々と存続しているが、もはや分裂の脅威とはなっていない。残るのは、英仏共同統治の歪であるイギリス系とフランス系の対立である。独立と同時に、ヴァヌアツが一つであるとことさら強調されたのは、何も多様な伝統文化が存在するからだけではなかった。このイギリス系とフランス系の対立も問題だったのである。
 ヴァヌアツがとった国民統合の政策と宣伝は、実は、こうしたイギリス系とフランス系の対立を除去するためのものであったとも言える。神に与えられたヴァヌアツ独自の伝統文化という枠組みは、イギリス色もフランス色も越えたところで成立した。独立記念日などに行われる国家儀礼では、伝統的な衣装を身につけた男達がその出身の島の伝統的な方法でタイコを叩いたりダンスをしたりする光景が見られるが、それは、多様な伝統文化を単一にまとめるための方策と言うより、人々に自らの伝統文化に対して誇りをもたせるための演出であった(14)。そうすることにより、イギリス系とフランス系を乗り越えた<メラネシア系>の存在を人々にアピールしようとしたのである。そして、国家の側が狙ったように、人々は確かにメラネシア系になりつつあるように見える。ヴァヌアツでは、伝統的嗜好品としてアルカロイド系のカヴァが飲用されているが、首都においても、植民地時代には見られなかったカヴァ・バーが多数生まれ、最近は、そこで観光客のために伝統的なダンス・ショーをおこなうところも出てきたのである(15)。
 しかし、こうした状況は必ずしも国家政策の成功によってもたらされたわけではない、という点を指摘しておく必要がある。というのは、英仏共同統治の歪をまともに受けた中央のエリート達とは異なり、地方の多くの人々は、彼らが考えるほどイギリス系とフランス系で対立していたわけではなかったからである。リンギ首相の出身地であるペンテコスト島北部にその例が見いだせる。この地域は、一部カトリックの村と大多数のイギリス国教会の村から成り立っていた。イギリス国教会の勢力が圧倒的につよく、その初代メラネシア人ビショップもこの地域を出身地としているため、政治の面でも教会の面でもイギリス色の極めて強いとされるところであった(16)。ところが、イギリス国教会の勢力範囲のところに独立前からフランス人教師が教える寄宿制の学校があり、人々は自らの子供達をイギリス系の学校だけではなくこのフランス系の学校へも通わせていたのである。人々は次のように考えていた。つまり、「子供が二人いれば、一人はイギリス系の学校へ、もう一人はフランス系の学校へ入れるのがよい。そうすれば、二つに分かれている現状をうまく渡れる」。彼らは、プロテスタント/カトリック、イギリス系教育/フランス系教育という植民地によって与えられた対立状況を、エリート達の様に分裂の方向へと向かわせなかった。彼らは、国家が強調する以前からイギリス系でもフランス系でもなく、漠然とではあるがメラネシア系だったのである。そして、植民地統治が終わると同時に、首都におけるカヴァ・バーやダンス・ショーを出現させたのである。
 さて、イギリス系とフランス系の対立は影を潜めつつあるが、依然として多様な伝統文化の壁が乗り越えられたわけではない。首都に出現したカヴァ・バーでは、同じ出身地の者同士が集まり、その地方から持ってきた道具を用いて自らの伝統的手法に従ってカヴァが作られる。それは、少なくとも形の上では村落そのものである。彼らは、首都において自らの地方の伝統文化を出現させているのであり、ヴァヌアツ文化を体現しているわけではないのである。そして、現に、地域の違いを基盤とした新たな対立の構図がヴァヌアツに現れてきたという指摘がなされるようになった。それは、ヴァヌアアク党内部における権力闘争に関するものであるが、対立した政治家達の出身地域を踏まえて、党内では<南北闘争>と呼ばれていたのである。ヴァヌアアク党の主流は、リンギ首相とその腹心である外務大臣モリッサであった。彼らはそれぞれヴァヌアツ北部の島、ペンテコスト島とサント島の出身であった。これが<北>である。これに対して反旗を翻したのが、党幹事長ソペと大統領ソコマヌであった。前者は首都を選出区としており、後者は首都のあるヴァヌアツ中部の島エファテ出身であるが、彼らは南部のタンナの支援を得ていたため、まとめて<南>とされていた(17)。この闘争は、一九八八年表面化した。幹事長ソペが首相交代宣言を行ったのである。リンギは党内投票で勝利を納めたが、ソペの勢力下にあった首都の国営地管理組織を解体したため、首都ではリンギ首相を糾弾するデモやそれに伴った騒動が起こった。それを契機として政界が混迷の度を深め、大統領によるソペを首相とした暫定内閣の設立宣言に至ったが、結局ソペとソコマヌは反逆の罪などで逮捕されることにより、事態は収集された(18)。この南北闘争は、いかにもヴァヌアツの北部と中・南部の文化的・地域的対立を背景にしているかの様に見える。しかし、この闘争で文化的なことが論点となったわけではない。また、リンギ政権打倒を叫んだ騒動さえ生まれたが、そこにはヴァヌアツを南北に分離するという視点が現れたわけでもないのである。政権を巡って対立した両者ではあるが、彼らはあくまでもヴァヌアツという国家全体の政権を対象としていたのである。
 ヴァヌアツは、見事なまとまりを持っているわけではない。様々な政争が生まれるし、騒動も起こっている。しかし、ヴァヌアツが一つであるのがあたりまえであるかのごとく、分裂することなく、なんとなくまとまっているのである。このまとまりは、既に見てきたように、国家の統合政策によって生み出されたものとは言えない。異なる言語・文化を基盤とする多数の集団は、多様なまま残されているのである。それでも、これら多様な集団が分裂の方向に向かわないのはどうしてであろうか。あまりにも単位が小さすぎるから、というのは理由にはならない。太平洋では、ツバルのように数千人の単位で分離独立を達成しているところが現に存在しているのである。結局その理由は、人々の側に存在するまとまりの論理に求めるしかないであろう。

3 バイカルチュラルな世界

 ヴァヌアツの国語ビスラマで、伝統的な慣習に関わる一切のことはカストム(kastom)と呼ばれるが、人々の本来の世界は、このカストムの世界であった。カストムの世界に西洋からの新しい世界が入ってきたとき、ヴァヌアツの各地域では三種類の異なる反応が見られた。一つは、新しい世界を断固として拒否し、かたくなにカストムの世界をまもるという反応である。現在でも、マレクラ島内陸部やペンテコスト島南部では伝統的生活を続けているごく少数の人々がいるが、彼らの反応がそれであった。二つ目は、新しい世界を拒否しても侵入を阻止することができず、大きな混乱が生じるという反応である。こうした地域では、混乱した現状をなんとか打破しようとしてカーゴ・カルトを含めた土着主義運動が生まれた。ヴァヌアツで土着主義運動が発生したのはサント島とタンナ島であったが、結果的にはこれらの島で西洋世界と接触を持った非キリスト教徒が比較的多く残り、ナグリアメルの反独立運動につながったわけである。これら二種類の反応を引き起こした地域では、新しい世界、すなわち、キリスト教や学校教育などに関わる一切のことはあくまでも異界であり、特にスクール(skul)と呼ばれて自らの世界と明確に区別されていた(19)。第三の反応は、これらとは全く異なっていた。侵入してきた新しい世界はどちらかと言うと容易に受け入れられ、カストムと並存することになったのである。こうした地域の人々はキリスト教に改宗し、西洋教育に熱心になり、しかし、自分達のカストムを自慢するといった生活を送っていた。これらの地域の人々にとって、新しい世界すなわちスクールはもはや異界ではなかった。それは、カストムの補集合としての自らの世界となっていたのである(20)。そして、これがヴァヌアツの大多数の人々の反応であり、独立運動も、こうした人々を対象として展開されたのである。
 カストムとスクールが併存するバイカルチュラルな世界。その典型的な事例が、既に紹介したペンテコスト島北部、すなわち北部ラガ地域に見られる。この地域では、かつての伝統的宗教は「我々は馬鹿なことを信じていたんだ」と笑いとばされてしまい、たとえ残っているとしてもとそれはいわゆる迷信のなかにおいてだけと言っても良いくらいである。しかし、彼らは「我々のところはカストムが強い」と自慢する。彼らの言う強いカストムとは、彼らの生活を支えている伝統的な政治体系、及びそれを具現する儀礼のことなのである。この地方には、儀礼の中で豚を殺すなどして階梯を登っていく位階階梯制が伝統的に存在している(21)。最上の階梯に到達したものはラタヒギ(ratahigi)と呼ばれたが、彼らはカストムの責任者であり、スクールが入って来るまでは村落生活全てを支配する力を持っていた。スクールが入ってきてからも、確かに位階階梯制に関する儀礼は存続し、ラタヒギ達はカストムの世界では大きな影響力を持ち続けた。しかし人々は、スクールの世界に関しては彼らに大きな力を与えなかった。独立前、この地域には白人行政官が駐在していなかったため、植民地行政の一端を担うメラネシア人アセッサーが複数任命されていた。スクールの世界で大きな力を持っていたのは、これらアセッサー達なのである。彼らの権限は、言うまでもなく、伝統的体系から生まれたものではなく、植民地行政府から与えられたものである。ところが、この地域では、その権限はそのまま人々に支持されたのである。アセッサーに任命されたある男は、任命されると同時に担当地域の人々を集め、先任のアサッサーから<力>をもらい受けるという演出をし、人々の賛同を得た上でアセッサーに就任したのである。
 植民地行政府からの通達を人々に伝えるために開かれる集会では、アセッサーが実権を握り、ラタヒギの出番はなかった。新しく導入された裁判ー刑務所という体制に関与するのもアセッサー達の仕事であった。彼らは村落生活での新しい側面、スクールでのリーダーシップを発揮し、人々はそれに従っていた。しかし、日常生活は多くの部分をカストムに負っていた。結婚、葬儀、畑仕事、豚を殺す儀礼などではアセッサーの出番はなく、彼らは自らをラタヒギと自称すれば、人々の失笑をかった。こうしたラタヒギとアセッサーの対比は、次の事例に象徴的に現れている。北部ラガのある村には、特に目だった大きな建物が二つあった。一つは、伝統的な建築様式で建てられた男子集会所で、人々の伝統的な政治体系、生活様式を支えているものである。これは、この村のラタヒギが村人の協力を得て建てた。他の一つは、コンクリート製の西洋建築によるイギリス国教会の教会であり、これはアセッサーが村人の協力を得て建てたのである。
 ところで、独立運動が展開される中、リンギは自らの党の政策を説明するため北部ラガにも足を運んだ。説明のための集会に人々を積極的に召集したのは、ラタヒギではなくアセッサーであった。アセッサーは、植民地行政府の地方における代理人として活動する一方、独立運動を推進するヴァヌアアク党の地方での代理人として行動するという矛盾する二つの役割を演じていたのである。しかし、この矛盾は人々の側でも矛盾するものとして位置づけられてはいなかった。アセッサーはどちらの場合もスクールの側面で活動していることになるからである。そして事実、ヴァヌアアク党の活動はカストムの世界とは関係のないことであると考えられていた。党首リンギは、当然のことながら既に植民地全土にその名を知られた政治家であったが、彼は北部ラガに来ても、決してラタヒギとは呼ばれなかった。彼は牧師であったため、キリスト教の牧師を呼ぶママ(mama)という名称で一貫して呼ばれていたのである。それは、ビスラマでの表現においても同様であった。ビスラマでは、カストムの世界におけるリーダーをチーフ(jif)と呼び、スクールの世界におけるリーダーをビッグマン(bigman)と呼んでいたが、リンギを含めたヴァヌアアク党の指導者達は、学校組織や教会組織に高い地位を占めたメラネシア人達と共に、ビッグマンだったのである。
 この様に人々にとって、学校組織や教会組織、植民地行政や独立運動も、すべてスクールの世界での出来事であった。しかし、彼らはスクールを異界として排除していたわけではなく、自らの生活世界の一部として受け入れていたのである。そのため、人々は二重のアイデンティティを併存させることになった。カストムの世界におけるアイデンティティは、自らの伝統的文化の拠点たる地域、例えば北部ラガという地域にあり、それはチーフに象徴された世界であった。一方、スクールの世界におけるアイデンティティは、自らの地域を越えて、最終的には首都を中心とした植民地全体であった。人々にとって首都はスクールの到達点あり、そこは、ビッグマン達が西洋世界と交わる場だったのである。しかし、この二つの世界におけるアイデンティティの間には、ギャップが存在する。それを埋めてきたのが、ビスラマで言うマン・プレス(man ples)という概念なのである。

4 住民・民族・国民

 マン・プレスというのは、「同じ場所に住む人々」ということであり、同郷人あるいは単に住民とでも訳せるような概念である。最も小さくは村落を単位とし、同一の言語・文化地域、そして、島全体へと拡大していく。プレスの代わりに特定の場所を置き換えることも多く、例えばマン・メレと言えば、メレ村の人あるいはその村出身、マン・サントと言えばサント島民あるいはその出身という具合いに用いられる。こうした使い方から理解されるように、この概念の特徴は、あくまでも場所を基盤として成立していることである。そしてそのことは、マン・プレスという概念が、言語的、文化的な結び付きに基づいたものではないということを意味しているのである。
 ヴァヌアツの個々の言語・文化集団は、一つの島内部にも複数存在している。マン・プレスが、この言語・文化単位を越えて島全体の人々に適用されたとき、それは文化的な基盤を失うことになるのである。もちろん、これら複数の単位が、同一の島内部で近縁関係を持っているならば文化的基盤を失うとはいえない。しかし、ヴァヌアツの場合は、こうした近縁関係は、同一の島内部で見いだされるよりもむしろ、狭い海峡を挟んだ隣の島の地域との間で形成されていることが多かったのである(22)。例えば、ペンテコスト島北部は、言語的にも文化的にも、同一の島の中部や南部より、北隣のマエウォ島南部や西隣のアオバ島東部とより近い関係を持っているし、ペンテコスト島南部は、その南隣のアンブリュム島北部と密接な近縁関係を持っている、という具合いである。従って、マン・プレスという概念は、逆に、こうした言語・文化的な近縁関係さえも断ち切る形で成立することになるのである。当然、政治的な枠組みが島という場全体に存在しているわけではないので、結局、マン・プレスは、場以外何も共通性を持たない人々をまとめるあいまいな概念として存在していたのである。
 独立運動が進むに連れて、こうしたマン・プレスに新たな場が与えられることになった。ニューヘブリデスという場がそれであり、「マン・ニューヘブリデス」という概念が現れてきたのである(23)。このことは、台頭してきたナショナリズムと深く関連していた。ヴァヌアツ・ナショナリズムは、ことさら独特なものではない。リンギは牧師になるためニュージーランドの神学校に留学した経験を持つが、その時のことを回想して次のように述べている。「・・・私は哲学や神学の本に書いてある教育内容は、ほとんどが外国のものであることに気づき始めた。・・・私は、ニュージーランドや太平洋の人々が全く外国の神学、倫理、哲学を学ばされていることに次第に不安を増していった。・・・全てが、私の伝統的思考であるメラネシアの文化や太平洋の視点に言及することなく、教えられた」(24)。彼は、西洋世界を学ぶにつれて、それとは異なっている<我々の世界>を発見していったのである。ここでいう<我々>とは、英仏共同統治によってまとめられることになったニューヘブリデスの住民のことであり、リンギは、そこに単一の<植民地民族>を発見したのである。そして、彼は同じ視点を持ったエリート達と共に、植民地の自決を目指して独立運動を展開したのである。ヴァヌアツ・ナショナリズムは、この意味で、まさに民族主義と訳せる内容のものであった。しかし、ここで言う民族とは、ノイバーガーの言う「通常は民族文化的統一性をなんら持たないにもかかわらず、植民地分割によって恣意的に境界づけられた国家民族」とは、若干性質を異にしていた(25)。というのは、これらまとめられた人々は、確かに民族文化的統一を持たなかったが、植民地という同一の場を共有するマン・プレスとしての位置づけを与えられていたからである。そのため、ヴァヌアツ・ナショナリズムに対する人々の対応は、<エスニシティの論理>を基盤としてではなく、マン・プレスという<場の論理>に基づいて行われることになった。
 スクールを完全に拒否し、カストムの世界に生きていたきわめて少数の人々にとっては、こうしたスクールの世界での出来事は直接影響を与えなかったかも知れない。しかし、西洋世界と接触を持った結果、スクールを異界へと押し込めようとした地域の人々、つまり、土着主義運動を経験した地域の人々にとっては、植民地民族としてのマン・プレスは受け入れられるものではなかった。ナグリアメル運動を支持したこうした地域の人々のマン・プレスは、自らの言語・文化集団を起点として、土着主義運動の広がりを持った範囲を越えることはなかった。つまり、彼らにとってのマン・プレスは、基本的にマン・サントでありマン・タンナだったのである。こうした独自の範疇化は、しかし、ナショナリズムが高揚することによって生まれてきた地方割拠主義の産物ではなかった(26)。それは、もっと以前、土着主義運動が展開される過程で現れてきたものだったのである(27)。つまり、マン・サントやマン・タンナは、マン・ニューヘブリデス全体に対する地方割拠の概念だったのではなく、スクールを排除するための概念であり、人々にとってはカストムの世界におけるアイデンティティの場として存在していたのである。そのため、ヴァヌアク党との対立点も、スクールを受け入れるのか拒否するのか、つまり近代化対伝統文化という形で現れることになったのである。
 一方、ヴァヌアツの大部分を占める地域、すなわち、カストムとスクールが併存する地域の人々にとっては、マン・プレスは容易にニューヘブリデス全体に広がることが出来た。人々のスクールの世界におけるアイデンティティの場がそれであったからである。そして、彼らのマン・プレスは変幻自在にその形を変えうるものであった。カストムにおける人々のアイデンティティの場である個々の言語・文化集団は、この<場の論理>によって島全体へと拡大し、さらには、スクールにおけるアイデンティティの場である植民地全体へと接合されていたのである。しかしこのことは、エリート達のナショナリズムが人々にも共有されたことを意味するわけではない。エリート達にとってのマン・ニューヘブリデスは、自らの国家をかち取ろうとする主体的な植民地民族であったが、人々にとっては、それは分裂を起こすほどバラバラではないが、同一の場を与えられたということでなんとなくまとまっている住民にすぎなかったのである。
 英仏共同統治領ニューヘブリデスは、独立してヴァヌアツ共和国となった。そして、それに伴い植民地民族は国民へと変換された。国家の側の論理からすれば、この変換は国民国家として成功するかどうかの鍵を握っていた。しかし、人々にとっては、植民地から独立国家への変換は、国家の側が考えるほど重大な変換ではなかった。植民地であるニューヘブリデスも新しく出来上がった国家ヴァヌアツも、どちらも同じスクールの領域に属し、しかも、それらの枠組みが作り出す場は、全く同じであったからである。そのため、植民地民族と規定された自分達と国民として規定された自分達とは、基本的に同一のものであった。今日ヴァヌアツ国民は「ニ・ヴァヌアツ」と呼ばれ、英語やフランス語においてもそれはその表現のまま用いられている。しかしビスラマでは、ニ・ヴァヌアツは訳され「マン・ヴァヌアツ」となる(28)。人々にとっては、これは結局マン・ニューヘブリデスと変わるところがなかったのである。冒頭に一部引用した共和国憲法は、独立前に作成されているためかヴァヌアツという表現はまだ登場していない。しかし、いみじくもそこで謳われている通り、ヴァヌアツの人々は現在も、ニューヘブリデスのマン・プレスであり、それは、民族でも国民でもなく、住民を意味しているのである。
 ヴァヌアツの人々は、国家の側が、植民地の上に「想像の共同体」としての国民を作り上げる努力をしようとしまいと(29)、それとは関係なく、現実に与えられた場を共有することでまとまっている。人々の側から生まれたこの<場の論理>は、自らの言語・文化圏、島、そして国家という場を、チェーンの輪をつなげる様に結び付け、それによって、同一の国家に組み入れられた多数の異なる言語・文化集団を、これといった内的な共通性を持たないまま、それでも住民としてなんとなくまとめているのである。

5 むすび

 非西洋世界に誕生した新興独立国家の統合と分裂を巡って、政治学では様々な議論が展開されてきた。そして最近は、「複数の住民集団を抱える国家のあるものは統合に向かい、あるものは分裂の向かうのはなぜなのか?」という問いに対す解を見いだすために、統合と分裂のダイナミクスを詳細に検討することの必要性が説かれている(30)。ここで言う統合とは、国民国家としての統合である。確かに、国民形成の課題は新興独立国家の最重要課題の一つとされ、国民形成が成功した国家は国家分裂には向かわないという現実がある。しかし、国民国家として成功する、さもなくば国家分裂の危機に直面するという政治学的二分法が、全ての国家についてあてはまるわけではない。ヴァヌアツは分離活動を経験しているが、それが引金となって国家分裂の方向へと向かっているわけではない。かといって人々は、国家政策の点においても自らの意識の点においても、国民としてしっかりと統合されているとも言い難いのである。つまり、国家の側が国民国家であると宣言しても、そして、分裂を起こさないと言う点でそれが国際社会の中で認められたとしても、現実には必ずしも国民国家として統合されているわけではない国家が存在するのである。統合と分裂のダイナミクスを探るためには、こうした統合と分裂のはざまに立つ国家の存在を認めることから出発する必要があろう。


(1)Vanuatu Visitors Bureau 1984:60.
(2)Mangnall 1990b:22. なお、リンギ首相は自らの名を Lini と表記しているため、日本では「リニ首相」と呼ばれている。しかし、彼の出身地であるペンテコスト島北部では、彼の名前は Lingi であり、日本的に表記するには「リニ」よりも「リンギ」に近い。従ってここではリンギ首相と呼ぶことにする。
(3)Lini et al. 1980:290-291,Lini 1980:62-63.
(4)一九七九年の国勢調査による。約一0%の無回答者の多くは洗礼前の子供と考えられるため、実質的には九0%程と考えられる。なお、伝統的宗教と回答した者は、八%である。
(5)土屋 1988:134
(6)Camden 1977:iii-v
(7)ibid.
(8)註がない限り、筆者の観察による。筆者はヴァヌアツで人類学的フィールド・ワークを実施したが、その時期は、一九七四年、一九八一年〜一九八二年、そして一九八五年である。
(9)Beasant 1984
(10)吉岡 1988
(11)Beasant 1984:141-143
(12)Kele-Kele et al. 1977
(13)MacClancy 1984:105,Beasant 1984:142
(14)cf.Mangnall 1990b:22
(15)Mangnall 1990a:18-19 
(16)Macdonald-Milne and Thomas 1981:114
(17)Premdas and Steeves 1989:115
(18)Dunn 1988,1989.Robie 1988, 1989.
(19)cf. 船曳 1983
(20)それ故、こうした地域では新しい世界を必ずしもスクールと呼んで区別していたわけではない。cf.Camden 1977のskulの項参照。
(21)吉岡 1983
(22)Tryon 1978
(23)Kele-Kele et al. 1977:24,43-45. この表現を特に強調したのは、ヴァヌアアク党の前身であるニューヘブリデス文化協会の副議長で、後に反ヴァヌアアク党の独自政党を作り、その党首となった政治家である。
(24)Lini 1980:15
(25)Neuberger 1986:7-9
(26)cf.矢野 1986:8-9
(27)cf.Williams 1928:100
(28)Lini et al. 1980:36-53
(29)アンダーソン 1983
(30)山影 1988:25

付記

 本稿脱稿(一九九一年六月十三日)直後筆者はヴァヌアツを訪れたが、偶然にも、ヴァヌアアク党内部での権力争いからウォルター・リンギが首相を解任される瞬間に遭遇した。暴動が起こる等の様々な噂がとんだが、何事も起こらず、議会での首相交代劇も見事なほど整然としたものであった。ヴァヌアアク党内の反リンギ派が政権を握ったが、その年の暮れに行われた総選挙で敗北し、結局「フランス系」の政党連合とリンギの結成した新党が連立政権を樹立することになった。これら一連の政争は、しかし、以前と同様にヴァヌアツを分裂の方向には向かわせなかった。翌年の一九九二年に筆者は再びヴァヌアツを訪れたが、そこで見いだしたものは、政争が生じる度に人々はヴァヌアツという国家の枠が存在することをますます意識していくという現実であった。

参照文献

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