カストムとカスタムーオセアニアにおける伝統概念研究の批判的考察

はじめに

 カストム(kastom)というのは、メラネシア地域で用いられているピジン語で、伝統や慣習などを指す概念である。1982年に登場したキージングとトンキンソン編になるマンカインド誌の特集号『伝統文化再創造:島嶼メラネシアにおけるカストムの政治(Reinventing Traditional Culture:The Politics of KASTOM in Island Melanesia)』が、このカストムという概念を巡る議論、いわゆる、カストム論の先鞭をつけた。この論集のタイトルから類推されるように、この論集では、主として、ソロモン諸島とヴァヌアツにおけるカストム概念が、政治的な動きの中で如何に利用され、活用されてきたのかという議論が展開された。この特集号では、カストム概念を「真正さ」との関連で捉える論考が各所に見られ、議論は、もとからあった「生きられた真正なカストム」と、政治エリートによって「新たに創られた非真正なカストム」という対比に基づいて行われる傾向があったと言えよう[白川 1997:148-151]。
 この論集は、翌年に出版されたホブズボウムとレンジャー編の『創られた伝統』と歩調を共にしていたと言える。そこでは、伝統は絶えず新たに生成されるという認識と共に、創られた偽物の伝統という視点が暗に示される結果をももたらした。しかし、「真正なもの」と「新たに創られた非真正なもの」という対比は島嶼のエリート達から大きな批判を受けることになる。エリート達が政治の中で主張してきたカストムは決して非真正なものではない、という主張が、島嶼側から寄せられることになったのである。その結果、カストムが真正なものであるのかそうでないのかを誰が決めるのか、あるいは、誰がそれを語る権利を持つのかという議論へと発展することになった。しかしポストモダン人類学の一連の議論が登場することと相まって、この議論も決着を見ないまま、カストム論は、島嶼側からの批判をかわす形で、伝統概念が政治の場で如何に用いられるのかという当初の議論へと再び収斂されることになった。
 そうした中で、1992年には、オセアニア誌上でジョリとトーマスの共編になる『太平洋における伝統の政治(The Politics of Tradition in the Pacific)』が発表された。ポストモンダン人類学と論点を共有しながら、トーマスの主張してきた歴史人類学的な視点から、「彼ら」と「我々」、及び「真正」と「非真正」の二分法を批判し、歴史的もつれ合いに視点をあわせた形でカストム概念を議論の対象とすることが問題となった。その中で、トーマスの言う歴史的もつれ合いに基づいた議論、すなわち、植民地化の過程での植民地政府の政策の違いが伝統概念に大きな影響を与えたという議論も登場することになった。
 こうした流れの中にあって、歴史人類学からのアプローチと平行しながら、あるいは、それをさらに発展させる形で、1993年のホワイトとリンドストローム共編になる『今日のカスタム(Custom Today)』がアンソロポロジカル・フォーラム誌上に登場することになった。編者達の意図は、「彼ら」と「我々」、「西洋」と「非西洋」という二分法的に処理されるやり方を批判することから出発し、最終的に、両者の混交した姿を問題にする方向に議論を向けることにあった。すなわち、彼らは、現地語による伝統概念も、ピジン語によるそれも、さらには英語のそれさえも同列に扱う議論をしたのである。その結果、カストムというピジン語の概念とカスタムという英語の概念が区別なく用いられることになる。この視点は、彼らの編集になるその後の論集、1994年の『文化、カストム、伝統:メラネシアにおける展開する文化政策(Culture・Kastom・Tradition:Developing Cultural Policy in Melanesia)』、及び1997年の『今日のチーフ(Chiefs Today)』においても一貫しており、カストム論の現在的な一つの到達点ということが出来よう(1)。
 「西洋」と「非西洋」、あるいは「伝統」と「近代」という二分法批判は、最終的に、それらを区別しないボーダレス論へと移ってきたかのように見受けられるが、本論では、この流れとは逆に、トーマス以降の二分法批判に基づいたカストム論に異議を唱える立場をとる。というのは、トーマスが唱えるように確かに歴史的もつれ合いの視点から植民地化を捉える必要があることは言うまでもないが、伝統概念のあり方が植民地行政のあり方と密接な関連を持っているとは言えないと考えるからである。また、ことさら「伝統」と「近代」を分離して論じるのは問題であると思われるが、ホワイトやリンドストロームの議論の様に、両者の間にボーダーはないからと言って、ピジン語によるカストムと英語であるカスタムをインターチェンジャブルに用いることには大きな問題がある考えるからである。
 本論では、メラネシアのヴァヌアツ共和国における事例を具体例として議論を進める(2)。ヴァヌアツは70年あまりの英仏共同統治という特殊な植民地状況を経た後、1980年に独立した国で、人口約18万人のマイクロ・ステートである。メラネシアの例にもれず多言語国家であり、国内では110を越える異なる言語が話されている。共通語としてのピジン語(ヴァヌアツ国内ではビスラマと呼ばれている)が国家の中で、また、都市生活において重要な役割をもっていることから、ヴァヌアツは、カストム論ではしばしば主要な位置を占める地域として議論の対象になってきた。歴史的もつれ合い論を基盤とした1992年の論集の編者の一人ジョリ、及び、ボーダレス論を基盤とした1993年の論集の編者の一人リンドストロームは、ともに、ヴァヌアツでフィールドワークを実施している研究者であるということからも、そのことは了解されるであろう。なお、本論では、第1節に「歴史的もつれ合い」論をおき、それを批判することから出発し、第4節でホワイトとリンドストロームの「ボーダレス」論とでも呼べる視点を批判することにする。

1 歴史的もつれ合い

1)歴史人類学

 人類学が対象としてきた社会の多くは、かつては「未開」という形容詞で、そして現在は同じ内容で衣を変えただけの「発展途上」という形容詞で呼ばれてきたところである。この二つの形容は、植民地化という現象によって結びつけられるのであるが、人類学は、この植民地化という問題には正面から向き合ってこなかった。従来から、植民地化による西洋の影響を除いた部分だけを抜き出し、西洋世界とは異質な「異文化」の記述と分析に精力を注いできたと言えよう。こうした人類学的な視点と方法は、サイードの『オリエンタリズム』が登場することによって、厳しく批判されることになった。そして、中でも、植民地化そのものに視点を置いた歴史人類学的な研究から、人類学を批判してきたのがトーマスであった。
 彼は、従来の人類学は、真正で豊かな単一の伝統体と西洋の影響によってもたらされたとるに足りないものという二分法に基づいた視点を持っていたと指摘し[Thomas 1989b:11]、後者を除いた形での前者の提示を民族誌的記述としてきた人類学を批判した。サイード以後の人類学では、この種の批判は様々な形で見いだせることは確かだが、トーマスは歴史人類学の立場から、この様な「彼ら=非西洋」と「我々=西洋」の分離は植民地状況の中で実際に進行していた西洋と非西洋の複雑な絡み合いを見過ごしてしまっている、という独自の指摘を行ったのである[Thomas 1991b:309]。これが彼の言う「歴史的もつれ合い」であり、トーマスは、植民地化する側とされる側の力点の置き方に応じて、既に存在している制度は再評価されたり再解釈されたりすると主張したのである[Thomas 1992a:226]。
 こうした彼の主張は、フィジーにおけるケレケレ(kerekere)と呼ばれる慣行の分析で具体的に示されている。彼によれば、互酬性と再分配に基づく親族間の経済的やり取りであるケレケレは、西洋のやり方とは異なるフィジー固有の伝統的やり取りと考えられてきたが、それは植民地化の過程で登場してきたものであると言うのである。もう少し説明すると次の様なものとなる。つまり、フィジーでは統治が開始された当初、伝統文化を保存するという方針で植民地統治が行われ、親族間の経済的やり取りであるケレケレは、共同主義的なやり方に基づくフィジー人達の伝統的生活の基本要素と考えられてきた。しかし、やがてこれらのやり方は、経済的な発展の阻害要因になると考えられるようになった。そして、親族関係者の間で行われる様々な贈与交換がまとめてケレケレとして禁止されることになった。その過程でフィジー人は、このケレケレという慣行こそが西洋とは異なるフィジー独自の伝統的文化であると捉えるようになっていったというのである[Thomas 1992a]。
 さて、トーマスの論法については、すでにいくつもの問題点が指摘されている。例えば、彼の研究では現実の提示が乏しく、分析に必要な部分だけしか現実が記述されていない、という杉島の指摘は、きわめて適切なものであると言えるだろう[杉島1996:90]。しかし本論との関連で言えば、以下の点を強調しておく必要があろう。それは、トーマスの議論は、植民地行政府サイドの政策やものの見方が、そのまま被統治者の視点やものの見方に反映するという前提に立っているということである。その前提に立っているため、彼の議論では、行政官サイドの資料における記述がきわめて重要な位置を占めることになる。そして、そうした資料に書かれている統治者側の論点と、今日観察される現象とが似通っていれば、その間に何があったのか実証することなく、歴史的もつれ合いの結果生じたと論じるのである[Thomas 1989a;1991a;1992b;吉岡 2000]。言い換えれば、トーマスの言う歴史的もつれあいとは、西洋=植民地化する側が持ち込む枠組みが変われば植民地化される側の反応や創造の内容が変わるということを前提としているとも言えるのである。

2)植民地行政と伝統概念

 トーマスと歩調を共にして植民地化を論じてきたジョリは、ヴァヌアツにおける伝統概念であるカストム(kastom)とフィジーにおける伝統概念であるヴァカヴァヌア(vakavanua)を対比した比較研究を試みている[Jolly 1992]。ヴァヌアツにおけるカストムは、伝統や慣習を意味し、西洋世界から入ったものを排除するという傾向を持っている。例えば、学校や教会などはカストムとは呼ばれないし、ティーシャツやズボン、あるいはマッチなどもカストムという領域からは排除される。一方、フィジーにおけるヴァカヴァヌアというのは、土地のやり方と訳される伝統概念で、メソジストとしての今日の生活もこのヴァカヴァヌアに含まれる。こうしたことからジョリは、ヴァヌアツにおけるカストムという概念は過去と現在の間における亀裂、あるいは断絶に基づいているのに対して、フィジーにおけるヴァカヴァヌアという概念は過去と現在の連続性に基づいていると指摘し、その違いを植民地行政における差異から論じようとしたのである[Jolly 1992:330]。
それは以下の様なものである。つまり、フィジーにおける伝統保護政策は、慣習的な土地相続を認めていた。そして独立にあたって、チーフ達が土地と資源の支配において国家レベルの役割を演じる程、チーフの権限を強化することになったが、それはチーフの権威が過去から継続していることの印と考えられた。一方、ヴァヌアツでは、慣習的土地相続は認められていなかったため、土地は反植民運動やナショナリスト運動、さらには独立後のヴァヌアツ人のアイデンティティにおける重要な問題点となった。そして慣習的土地相続の法典化が検討され始めたのは、カストムを復興させようとする国家政策の一つとしてであった。こうした違いを背景に、ヴァカヴァヌアは、過去から現在までとどまることなく流れる実践の連続という視点から描かれるのに対して、カストムは、植民地化されることによって混乱させられたが、現在意識的に復興されている祖先のやり方として描かれる。それ故、フィジーではヴァカヴァヌアは連続的で、ヴァヌアツのカストムは過去と現在の間が非連続的なのだと言う[Jolly 1992:340]。
 ジョリは、端的に言えば、植民地行政のやり方が異なっていたため、より正確には土地政策が異なっていたため、ヴァヌアツとフィジーの伝統文化に対する概念化が異なる方向に向かったのだと言っているといえよう。しかし、こうした結論を導くためには、きわめて用意周到な資料固めをしなければならないのだが、ジョリがそれに成功したと言うことは難しい。例えば、ジョリはヴァヌアツでは慣習的土地相続が認められていなかったと言うが、その証拠が提示されているわけではないのである。確かに、都市部においては、あるいは白人入植者のいるところでは慣習的な土地相続は認められていなかったと言えるかも知れない。しかし、植民地統治が直接反映されない村落部では、そうした状況とは異なった状況が見いだせたのである。例えば北部ラガ地方では、植民地行政側による土地の個人登記の指導にもかかわらず、慣習的土地相続のやり方に従って日々の生活が営まれていたし、それを否定したり、それをやめさせるような行政措置はとられることがなかった。土地問題がなかったわけではない。しかし、植民地行政の介入による土地問題ということが最も重要な問題ではなかったのである。従って、そこで生活している人々の日常生活の視点からは、独立後の国家政策における慣習的な土地相続の法典化は、伝統の復興というような大きなことではなく、当たり前で普通のことだったのである。ただし、独立運動を推進したエリート達にとっては、ジョリの言うとおり、それが大きな論点であったことは否定出来ない。つまり、「誰にとっての問題なのか」という点を明確にせずにして、一括して議論を進めることは出来ないのである。
 また、ジョリの論法はトーマスのそれと同様の批判を受けることになる。つまり、もしヴァヌアツで慣習的土地相続は認められていなかったと一般的に言うことができ、フィジーでは逆に、それが認められていたと言うことが可能であったとしても、その違いが現在のヴァヌアツとフィジーの伝統概念における過去と現在の関係認識の違いを生み出したという具体的な証拠は何もないのである。彼女は、トーマスと同様に、植民地行政のやり方が人々に与える影響は多大なものであるという前提にたち、議論を進めていると思われる。しかしその前提をはずすと、「慣習的土地相続を認めない植民地の土地政策」と「過去と現在の断絶をもとにした伝統概念の形成」の間に、また「慣習的土地相続を認める植民地の土地政策」と「過去と現在が連続していると捉える伝統概念の形成」の間に、必然的な結びつきを見いだすことは難しいと言える。反例として、慣習的な土地相続のやり方が植民地統治の間に変更させられたミクロネシアのキリバスにおいて[Lundsgaarde 1974:179-183]、伝統を示す概念であるカテイ(katei)は、過去と現在の連続を基盤としているということを挙げておくだけで十分だろう。
この議論の過程で、ジョリは「(ヴァカヴァヌアの)概念はもっと加工処理的という性質を持っている。つまり、土地のやり方というのは、失われたが復興されるべき祖先の実践であるとされるよりもむしろ、歴史的な変形をうけるものであるとされているのである」(括弧内は筆者の加筆)と指摘しているが[Jolly 1992:345]、伝統や慣習は歴史的に変わっていくものだという考えた方は、なにもフィジーにだけ見いだせるものではない。筆者自身はキリバスやツバルのフィールドワークの中で経験したことであるし(3)、同様のことはサモアでも言える[Meleisea 1987:17]。サモアにおけるファーサモア(fa'a Samoa)、つまり「サモアのやり方」という概念がそうであるが、これと類似のものとして、トンガにおけるファカトンガ(faka Tonga)やツバルにおけるファカトゥバル(faka Tuvalu)という概念をあげることもできる。フィジーにおけるヴァカヴァヌアと比べてみるとすぐに分かることだが、これら伝統や慣習は変遷するという視点を持ったところにおける伝統概念は、「ファカ」ないしは「ヴァカ」という接頭辞を持ったものであることが理解されよう。ヴァカヴァヌアが過去と現在を連続したものとして捉えた概念であるのは、植民地統治の中で慣習的土地相続が認められていたからではなく、その概念そのものの持つ性質からきているという可能性を探る必要があろう。

2 モノカルチュラルとバイカルチュラル

1)ヴァカ系統の伝統概念

 ジョリ自身も述べているが、カストムはピジン語による概念であり、ヴァカヴァヌアは現地語による概念である。従って、両者を無条件に同じ平面で論じることは危険なことであろう。そこで、カストム概念を持っているところにおける現地語による伝統概念との対比において、ファカないしヴァカという接頭辞を持つ伝統概念、ここでは便宜上ヴァカ系統の伝統概念と呼ぶことにするが、それを考察することにしよう。
 ヴァヌアツの北部ラガ地方では、伝統を表す概念として二種類の概念が抽出できる。一つは「土地の法」とでも訳せるものでシロン・ファヌア(silon vanua)であり、他の一つは、「土地のやり方」と訳すことの出来るアレガン・ファヌア(alengan vanua)である。ピジン語におけるカストムは前者に対応し、後者をピジン語で言うときにはファッシン(fasin)という概念を用いることが一般的である。シロン・ファヌアに従うことがアレガン・ファヌアであると言われているが、実際には両者を明確に区別して用いているとは限らない。そしてこれらは、「昔から続いていて変わらない」、「もとからそこにあるもので、人によって解釈が異なるからそれぞれ違って見えるが、元は一つで、変わらず存在し続ける」として捉えられている。例えば、西洋との接触以前から続いていると人々が考えている結婚のあり方、およびその儀礼のあり方は「ラギアナの道(halan lagiana)」と呼ばれ、それはアレガン・ファヌアであるとされる。また、この地方では豚を殺すことによって階梯があがり、最上階梯に到達すると政治的リーダーとして活動できるという位階階梯制が存在しているが、それを具現する儀礼であるボロロリ儀礼のあり方、すなわち「ボロロリの道(halan bolololi)」もアレガン・ファヌアとされる。一方、西洋との接触以後入ってきた教会や学校、ヴァヌアツで流通している貨幣・ヴァツ、ガスなどによる料理法、牛などを食べることはシロン・ファヌアでもアレガン・ファヌアでもないとされるのである。
 シロン・ファヌアにおけるファヌア(文中の位置によって、あるいは状況によってはヴァヌアと発音される)という概念は、「土地、島、村」などを表す概念であるが、自分たちの言語に基づいた自分たち独自の生活という意味を内包しており、シロン・ファヌアもアレガン・ファヌアも、ともに、自分たちだけの小さな単位について適用可能な概念ということになる。谷を越えると別の言語圏になり、そこには別のシロン・ファヌア、アレガン・ファヌアがあるということになるのである。
 この点で、フィジーのヴァカヴァヌアにおけるヴァヌアも同様である。これもヴァヌアツと同じく「土地、島」を意味する語であるが、フィジー全体は一つのヴァヌアとして存在していたわけではなく、ヴァヌアはたくさんあるという認識は今でも人々の間で見いだせる(4)。このヴァヌアに「ヴァカ」という接頭辞がついてヴァカヴァヌアという概念ができあがる。ヴァカというのは、「〜させる」という使役を表したり「〜のように」「似ている」という意味を表したりする接頭辞であり[Capell 1991](5)、ヴァカヴァヌアは一般には「土地のやり方」と訳されるが、字義通りに訳せば「我々独自の生活圏での様に」とでもなるだろう。ただし現在、フィジーの都市部で「ヴァカヴァヌアとは何か?」という質問をすると、即座に「我々の伝統(our tradition)」という返答が返ってくることを考えると、ヴァカヴァヌア=伝統という認識は広がっていると言うことが出来るかも知れない。
 フィジーにおける「ヴァカ」は、ツバルでは「ファカ」となる。そしてフィジーのヴァカヴァヌアと同じくファカフェヌア(fakafenua)という語も存在する。しかしこれは、大きくは三つの点でフィジーとは異なった使い方をされる。一つは、ファカフェヌアという語は、「島、故郷」を意味するフェヌアに「〜の様な」を意味する「ファカ」がついたものだが、それは、ファカアリキ(fakaaliki:チーフの様な)などのように名詞にファカが接続して「〜(名詞の意味)の様な」を意味する表現の一つに過ぎず、ファカフェヌアだけで、「我々の伝統」という様な独自の意味を持たないという点である。
 二つ目は、これと関連することだが、ツバルでは伝統を意味するツー(tuu)やファイファインガ(faifainga)を用いることによってのみ伝統概念が形成されるという点である。つまり、ツー・ファカツバル(tuu fakaTuvalu)やファイファインガ・ファカツバル(faifainga fakaTuvalu)となって始めて「ツバルのやり方・伝統」という意味になるのである。ツーとファイファインガの関係は興味深い。例えば、集会所で座っているとき、チーフが立ち上がってしゃべり出すまで誰も喋ってはならないというルールはツーであり、そうしたルールを守る行為がファイファインガであるというのだ。これは、ヴァヌアツ・北部ラガ地方における二つの伝統概念、シロン・ファヌアとアレガン・ファヌアに明らかに対応しており、前者は「規範」、後者は「やり方」という視点からできあがっていると言える。しかしヴァヌアツではこのシロン・ファヌアは変化しないもの、あるいは、変化してはならないものとして位置づけられているのに対して、ツバルでは、規範としてのツーは、「古い、新しいというものではなく変化するもの」と位置づけられており、それ故、キリスト教徒もツー・ファカツバル、つまりツバルの規範として位置づけることが出来ると言う。ツバルの観光パンフレットに「伝統的日曜日(traditional Sunday)」という表現があって、そこでは、ツバルの日曜日は教会を中心とした生活が行われることがうたわれているが、それを「伝統的」と捉えるところにも、上述のツバルの視点が現れていると言えよう。
 サモアにおけるファーサモアも、ツバルのツー・ファカツバルと同じ視点を持っていると言える。サモアの歴史家メレイセアはファーサモアに関して次のように述べているのである。「体系がその本質において不変のままであるか、あるいは、根本的に変化したと認識されない程度に、新しい実践や観念や品物が受け入れられそれに取り込まれていく」[Meleisea 1987:17]。ただし、サモアの場合はアガヌウ(aganu'u)という伝統を指す概念も用いられるが、フィジーでの様に、基本的にファーサモアという語だけでサモアのやり方を指すことが出来る点が、ツバルとは異なっていると言えよう。
 さて、フィジーにおけるヴァカヴァヌアとツバルにおけるファカフェヌアの三つ目の相違点は、ツバルにおける「土地」を意味するフェヌアは、フィジー(あるいはヴァヌアツ)における土地概念とはズレを持っているという点である。ヴァヌアツでは、ファヌアは個別性の拠点であり、たとえ、ヴァヌアツという独立国家が単一の単位であるという意識を持ったエリートであっても、それは差異を持ったものが集まってできあがっているという認識を持っている。その差異を構成する単位がファヌアなのである(6)。フィジーでは、こうした個別性あるいは差異性の拠点としてのヴァヌアは、ヴァヌアツほど顕著ではないが、依然として認識されている。しかしツバルでは、ファイファインガ・ファカフェヌアと言えば、「故郷での(島での)やり方」という程度の意味を持つだけであり、フェヌアというのは個別性、差異性性を強調する単位とはなっていないのである。というのは、ツバルでは、ツバル内部での文化的差異や言語的差異はほとんどなく、全体は同質の単一体であるかのように捉えることが可能だからである。そのため、ファカフェヌアよりもファカツバルの方が遙かに意味を持つ。キリスト教徒は「規範」として認められるが、どこの規範なのかということになると、それは、フェヌアではなくツバルとなるのであり、ツー・ファカツバルという表現が用いられるのである。こうした点は、サモアでもトンガでも同様で、それぞれ全体概念としてのサモア、トンガを用いてファーサモア、ファカトンガという表現が用いられることになる。
 ところで、ミクロネシアのキリバスでは「我々のやり方」を意味する概念としてカテイ(katei)というものが存在する。通常は冠詞の役割をするテ(te)をつけて、テ・カテイと呼ばれるが、このカテイのカ(ka)が、これまで論じてきたファカやヴァカと同じ系列の接頭辞なのである。テイ(tei)は、ツバルのツーと同じく、本来は「立つ」「位置」などを意味する語である(7)。このキリバスのカテイも、変化することを前提とした概念なのである。カテイの辞書的な意味は、「慣習」[Cowell 1950]、 「仕事、記念碑、セクト、やり方、制度、慣習、方法、手続き、行動」である[Sabatier 1971]。自分たちのやり方や慣習は、テ・カテイ・ン・アオマタ(te katei n aomata:aomata = 人間)、ヨーロッパ人のやり方は、テ・カテイ・ン・イ・マタン(te katei n I-Matang)という言い方で示されてるが、独立後のキリバスという国家単位を用いて、テ・カテイ・ニ・キリバス(te katei ni Kiribati)(キリバスのやり方)という表現も頻繁に用いられる。
 さてキリバスでは、貨幣経済の流通度が高く、筆者の滞在した1983年の段階で、村落部でも商店で現金での買い物は当たり前であった。そして商店で小麦粉を購入し、それをイースト菌を用いて自らパンを製造することは日常のこととして行われていた。また人々はそれとは別に、ココヤシの液汁であるトディ(キリバスではカレヴェ: karewe と呼ばれている)を用いることによって、自分たち独自のパンを作り、販売していた。トディは糖分を多量に含むため、このトディで小麦粉を練り、それをヤシ油で揚げることによって甘みのあるキリバス流のドーナツを創り出していた。つまり、人々は、西洋から入ってきたものを自分たち流に消化し、あり合わせの材料を用いることによってそれに変革を加え流通させるという作業を行っていたのである。こうして出来上がったキリバス流のドーナツは、西洋との接触以前から食品として流通していたババイ(babai:タロイモの一種)と同じくテ・カテイなのである。この種の折衷とでも呼べるやり方は、様々なところで見いだすことが出来た。
 筆者の滞在していた村落は、キリバスの中でも歌が好きだということで定評のあるマイアナ島にあった。そこではギター伴奏による若者達の歌を初め、教会の聖歌隊による歌など、様々な歌が歌われていたが、それらはどれも多声部からなるハーモニーを伴っているものであった。しかし、ラジオ放送の「民族音楽の時間」とでも呼ぶことが出来る番組から流れてくる音楽は、単旋律による音楽であり、人々が日常的に歌う歌とは全く異なったものであった。ところが、人々はそうしたことには注意を向けない。彼らにとっては、どちらもテ・カテイなのである。
 島では、アエランド・ナイトと呼ばれるダンス・パーティがしばしば行われたが、これは教会主催のもので、そこへの入場料を教会へ寄付するという仕組みになっていた。人々はこぞってダンスに興じたが、そこで踊られるダンスは基本的にはツイスト・ダンスであった。キリバスでは、マイエー(maie)と呼ばれるダンスが存在しており、手足と腰をゆっくりと動かすこの踊りは、過去から引き継がれてきた踊りであるという点で、新しく入ってきたツイスト・ダンスとは決定的に異なっていたが、人々にとってはともにテ・カテイであったのである。

2)モノカルチュラルとバイカルチュラル

 以上のようなヴァカ系統の伝統概念の包摂する性質と、北部ラガ地方におけるシロン・ファヌアの様な概念を基盤としたカストム概念が持っている性質は、ジョリが記述したように全く異なっている。例えば、キリバスにおけるババイとドーナツ、単旋律の歌とハーモニーのある歌、マイエーとツイスト・ダンスの様な関係は、ヴァヌアツでは明確に異なったものとして位置づけられる。つまり、それぞれの組のうち前者がカストム概念で指し示されるが、後者はそうではないということなのである。ヴァヌアツでは地域によって、このカストムというピジン語の概念に対抗する概念としてスクール(skul)概念を持っている所がある。このスクールというのは、西洋世界から新しく入ってきたものを指し、学校や教会がその代表とされる。つまり、キリバスを初めとするヴァカ系統の概念を持っているところで融合されてきた要素は、ヴァヌアツではカストムとスクールという対比として分離されたままで把握されているということなのである。スクールという概念がないところでも、新しい世界として明確にカストムからは区別されており、その両者が融合するという視点は、基本的には見られない。
 例えば、人々は西洋から入ってきたものを変形して用いることはあまりなく、もし使用するとすれば、そのまま用いる。自分たちで自分たち流のナイフやフォークを創り出すのではなく、輸入品のそれをそのまま用いるのである。教会をつくる場合は、もちろん資金その他の理由でうまくいかないことはあるが、あくまでも、目指すは、コンクリート製の西洋建築による建物である。つまり人々は、新しい世界を変革することなく、そのまま受け入れるという生活を営んでいるのである。しかしその一方で、過去から続いていると人々自身が考えるものをカストムと位置づけ、それを重視した生活をも営んでいる。
 ところで、カストム概念を巡って、その排他的な性質を疑問視する議論が登場している[White 1993;Lindstrom and White 1994]。例えば、カストムは必ずしも教会を排除しないなどの指摘である。確かに人々は、過去から連続していると考えているものの中に過去とは全く異なった要素を取り入れ、なおかつそれをカストムと呼ぶときがある。ヴァヌアツ・北部ラガ地方では、位階階梯制がカストム概念の中核に据えられているが、その儀礼で人々はティーシャツやズボンを身につけて儀礼場でダンスをすることが多い。もっとも、儀礼のメインである豚を殺す場面では、それを行う人物はさすがにティーシャツ姿ではなく、裸に布のふんどしという出立ちでいることが多い。しかし、布自体が、西洋との接触によってもたらされた新しい世界の産物なのである。儀礼が終わって、集会所でカヴァの宴が始まる時、場合によっては、その最初にキリストに対するお祈りが行われることがある。また、この儀礼が過去から引き継がれたものであるとは言え、現在までの間に様々な変更を加えられており、純粋な形でそれを継続しているとは言い難いことも確かである。
 これらのことは、まさにカストムが新しい世界を完全に排除したものではないことを意味しているように見える。しかし、ここで注意せねばならないのは、人々が何を称してカストムと言っているのかという点である。例えば、ティーシャツにズボンという要素だけを取り出して人々に問えば、それらはカストムではないと言う。同様に、布のふんどし、カヴァの宴前のお祈りなどは、明確にカストムではない。しかし、それが儀礼の中で行われている場合は、人々はそうした要素を重要視した見方をしないのである。豚を殺して階梯が上がり、それによって政治的な名声をも手に入れるというその筋書きは、西洋から入ってきた新しい世界とは全く異なった世界であり、その儀礼がカストムであると人々が言うとき、その儀礼を構成している個々の要素ではなくその性質に視点を置いているという点を見逃してはならない。我々は、カストムとは何かという議論をするときに、カストム概念がどういった要素を指すのか、指さないのかということに注目してしまうが、こうした要素主義的にカストムの範囲を決定することには、注意が必要であろう。
 さて、筆者は以前、ヴァヌアツの大多数の地域におけるカストムとスクールの併存を「バイカルチュラル」という性質で特徴づけたことがある[吉岡 1994:224]。ヴァヌアツの人々は、英仏共同統治という経験上、英語かフランス語を学校で学ぶ。両言語を修得した者も少なくない。さらに、国内に110を越える言語が存在しているため、近隣の言語をも話すことが出来る者も存在する。もっとも、これらの言語を話すことが出来る人々は、高学歴の者や特別な人々に限られているとも言えるが、ほとんどの人々にとって、自分たちの地域の言語以外にピジン語であるビスラマを話すことが出来るという点を見逃してはならない。その意味で、ヴァヌアツの大多数の人々は、自分たちの言語と、自分たちの世界以外の人々とのコミュニケーションの手段としてのビスラマをバイリンガルとして活用していると言うことが出来る。
 こうした視点からキリバスをみれば、それは明確にモノリンガルの世界である。方言差はあるとは言え、基本的に単一言語によるコミュニケーションを行っているキリバスは、日常生活において他の言語を修得する必要がない。この点では、サモアやトンガ、そしてツバルも同じ条件にあると言える。そして、それを文化の面で見直せば、まさしく、これらの国々では、均質の単一文化(これはメラネシアなどにおける多文化社会と比較してという意味であるが)が見いだせるのである(8)。そこで人々が営んでいる生活は、自分たち流の単一の生活である。西洋から入ってきたものも、接触以前から存在していたと考えているものも、自分たち流に消化し、変革することで、今の生活を創り出しているのである。これを、カストムとスクールが併存するバイカルチュラルな世界に対して、両者が自分たち流という枠で混然一体となるモノカルチュラルの世界と呼ぶことが出来よう。つまり、カストムとヴァカ系統の概念の差異は、西洋世界の受け入れ方の違いから生まれてくるバイカルチュラルとモノカルチュラルという文化のあり方の違いに関わっているということになるのである
 この違いが何処から生じてくるのかということになると、簡単には解決がつかない問題である。ただ、バイカルチュラルな反応をした地域では、もともとすぐ隣の島では異なる言語、文化が見いだされており、それら「異文化」との接触が日常茶飯事であったのに対して、モノカルチュラルな反応をした地域では、周りに日常的に接する異文化が存在しなかったということは言えよう。その結果、前者の場合は、そうした多くの異文化との関わりとは異なった関わり方をした西洋世界が、いわば異界として特化されたのに対し、後者では、異文化との関わりがなかった分だけ西洋世界を他と比較することもなく、それはいわゆる異文化としての交流相手となったのではないか。交流相手としては、その文化を取り入れることは起こりうることである。メレイセアが、サモアは「根本的に変化したと認識されない程度に」西洋を受け入れていったと指摘しているが、ヴァヌアツでは、西洋世界がそれまでの他者と全く異なると判断し、それを受け入れると「根本的に変化する」と認識したと言えるのかもしれない。
 議論を整理しよう。カストム論と呼ばれる一連の議論の中では、カストムやヴァカヴァヌアのような異なった言語レベル、異なった視点をもった概念も、伝統とかかわるということで同一のレベルでの考察の対象となってきたが、両者は、異なった性質を持っているものとして議論する必要があると考えたジョリは、両者の違いを植民地の統治政策の違いに帰すことでその問題の解決を図ろうとした。しかし、両者の違いは、以上のことから分かるように、実は、伝統概念を形成する島嶼世界の側の文化のあり方と関連しているのである。つまり、カストム概念を用いるところは西洋に対してバイカルチュラルな対応をしてきたところであり、そこでは基本的に多文化性が留意されている。そして、現地語による概念化においても、アレガン・ファヌアやシロン・ファヌアの様に、表現の最後に「ホームランド」を意味する語(この場合はファヌア)を用いることで、「我々の」を意味し、個別性や差異性の強調を行っている。これに対してヴァカ系統の伝統概念を用いるところは、モノカルチュラルな反応をしてきたところであり、単一性や全体性が留意され、ヴァカの後には基本的に国家全体、あるいは、植民地行政区全体を示す語が接合される。ファアサモア、ファカトンガ、ファカツバルなどがその例なのである。
 この様に考えてくると、フィジーにおけるヴァカヴァヌアという概念は、最後に「ホームランド(この場合はヴァヌア)」を用いる点で、ヴァヌアツと同じく個別性を訴えているが、同時に、ヴァカ系統の表現を用いるという点においてポリネシアの諸地域と共通性を持ち、まさに、ヴァヌアツとトンガやサモアの中間の位置にあることを示している。フィジーでは近年、ヴァカヴィティ(vakaviti:viti とは Fiji のことであるとされている)という概念が登場してきており、ツバルでの様に、過去から現在に至るまでフィジーという単一体が様々なものを消化し変革を加えてフィジー流という単一のものを創り出してきたという視点を、たとえそれがエリート達の創造によるものであったとしても、打ち出してきている。そしてそれは、ヴァヌアツなどでエリート達が認識している、単一国家内における文化の多様性、ないしは差異性とは異なったものである[Regenvanu 1998; Lini et al. 1980; Vanuatu Government 1980]。しかし、ヴァカヴァヌア概念は、こうした単一性、過去と現在の連続性を全面に打ち出すヴァカヴィティ概念とは必ずしも一致する概念ではないということに留意しておく必要があろう(9)。
 伝統概念を巡る一連の議論は、西洋世界による非西洋世界の植民地化によって生じた状況を問い直す議論の中で生まれてきた。この議論は「伝統の創造」論から出発し、それが島嶼世界のエリート達から批判されることにより「伝統の政治」論へと姿を変えてきたのだが、宮崎が指摘するように、それは「オセアニアの人々の自文化表象における本質論の正当性を問題とすることなく・・・、文化をめぐる議論と内省という人類学者とオセアニアの人々が共有する創造的な知のあり様を強調することによって、こうした政治的挑戦を乗り越えようとした」ことから導き出されたものだった[宮崎 1999:182]。こうして島嶼世界からの政治的挑戦から逃げるために生み出された1990年代の「伝統の政治」論は、いわば、島嶼世界の側が伝統概念を如何に政治的に利用してきたのかという点を論じるものであったため、伝統概念一般の議論が求められ、伝統概念の多様性、例えば、カストムというピジン語概念とヴァカ系統の概念の違いなどは、考慮の外にあった。その結果、様々な伝統概念が様々な社会の人々の生活の中でどのように用いられ、どのように把握されているのかということは、無視されることになったのである。人類学は、過去なんども陥ってきた罠、すなわち、人類学上の概念や言説だけが抜き出されて議論の対象となり、実際の社会や生活はその議論からは抜け落ちるという罠に、再びはまってしまったのである。この点は第4節で論じることにして、我々は、次の節では、具体的に人々の間でカストム概念がどのように用いられどのように把握されていたのかを見ていくことにしよう。


3 カストムとスクール

1)カストムの村とスクールの村

 ヴァヌアツにおいては、西洋世界と接触する過程で基本的に三つの異なる反応が見いだされた。一つは、新しくやってきた世界を拒否し、自ら伝統的な世界を守ろうとした反応である。こうした地域では、自らの伝統的世界をピジン語でカストムと称し、新しく西洋からやってきた世界をスクールと呼ぶことによって区別し、後者を遠ざける生活を行おうとした。二つ目は、一つ目と同じ位置にあったが、結局はスクールの介入によって大きな混乱が生じ、土着主義運動などを起こすという反応である。三つ目は、これらとは異なり、新しい世界を比較的容易に受け入れるという反応である。これらの地域では、ことさらスクールという概念化は行われるとは限らなかったが、新しい世界はカストムとは明確に区分され、それらとの併存が日常的なこととなった[吉岡 1994:224-225]。以下では、これら三つの反応を示した地域を対象に、そこにおけるカストム概念について考察することにする(地図参照)。
 まず、第一の反応を示した地域である。この地域の例としてあげることが出来るのはペンテコスト島南部のブンラプ村周辺やマレクラ島内陸のスモール・ナンバスと呼ばれる人々の地域である。彼らは現在もキリスト教を拒否し、「伝統的な生活」を続けているところとして知られている。これらの地域では、スクールの側から徹底したカストム否定が行われた結果、徹底したスクール化が達成されると同時に、徹底した反スクールの動きも出現することになった。その結果、スクール化が徹底されたスクールの村と伝統に固執するカストムの村が併存することになった。
 これらの地域では、カストムとスクールは敵対的と見られている。つまり、「カストムは、自給自足による生産物(農産物と飼育される豚)に頼り、親族と婚姻に関する伝統的慣行を実施し、誕生や割礼や結婚や死に際しては慣習的な儀礼を行い、階梯制結社の儀礼における豚の交換や供犠を行い、祖先や創造主についての知識を学び、神話や伝説を語ることに固執することを要求する」のであり、「スクールは、これに対し、換金作物と賃労働による現金での生活、伝統的な家族的結びつきの過小評価、伝統儀礼、特に、豚に関する儀礼の消失あるいは減少、キリスト教信仰への代替、そして最後に、英語や仏語やビスラマによる西洋教育の知識の学習と口承伝承よりもむしろ書かれたテクストの使用を要求する」のである[Jolly 1992:339-340]。こうした状況を反映してペンテコスト南部のカストムの村のリーダーは次の様に述べている。「西洋の慣習はたった今我々の海岸にやってきて住み着いた鳥の様なものだ。しかし我々のカストムは、バンヤン樹の様に、世界が始まってずっとここにあった。」[Jolly 1982:338]
 もっとも、カストムの村にスクールの要素が全く入り込んでいないかというとそうではない。例えばマレクラのスモール・ナンバスでは、カストムの村でも牛の飼育や、コプラとカカオの栽培が入り込むなどしている[船曳 1983:57]。また、ペンテコスト島南部では、観光による現金収入や、わずかだがコプラ生産なども行っている[Jolly 1982:348,354]。一方、スクールの村においても儀礼をそれだけ取り出して行うなどカストムの復活が見られる[船曳 1983:47、Jolly 1982:346]。しかし、すでに指摘しておいたことであるが、こうした要素が入り込むからと言って、カストムとスクールが混交していると言うことは出来ないのである。要素主義的にこれらを考えるのではなく、人々が何に焦点を合わせているのかという点を問題とすれば、これら第一の反応を示した地域では、明確にカストムとスクールは分離されていると言うことが出来るのである。
 ところで、カストム論では、伝統がどの様に創造されるのか、あるいは、どの様に再評価されるのかということが議論の対象となってきたが、この議論はカストムの村に関してはあまり意味をなさないと言える。というのは、カストムの村では伝統を政治的に創造することや再評価することはあまり必要ではなく、しかも、独立を巡る一連の動きにも人々はほとんど関心を示さなかったからである[Jolly 1982:351]。しかしスクールの村では事情は異なっていた。カストムを完全に捨てスクールの世界で生きる方向を打ち出していた人々は、第二の反応を示した地域で生じたナグリアメル運動と呼ばれる運動(後述)に共鳴した行動をとることになったのである。ただし、そうした共感は一時的なことであり、結局、人々はこの運動に対していくつかの疑念を抱き、独立が問題となる頃にはこの運動から身を引くことになったのである[Jolly 1982:351]。

2)混乱するスクールとカストム

 第二の反応を示した地域としては、タンナ島やサント島があげられる。これらの地域では、新しい世界の侵入によって大きな混乱が生じ、結局、ジョン・フラム運動やロノブロの運動などの土着主義運動が起こったのである。そこでは、第一の反応を起こした地域と同様、スクールの側からの徹底したカストムの否定が行われた結果、カストムにとどまる人々とスクールに参入する人々とに分かれることになったが、カストムの村とスクールの村という対比は生まれなかった。その代わり、こうした地域では事態が混乱し、その混乱から抜け出すための運動が展開されることになったのである。
 土着主義運動は、通常、西洋世界を否定し土着の要素復活をもくろむという特徴を持つものとして規定されているが、運動の詳細を考察すると、この規定とは多少異なった性質が運動には存在していることが分かる。ヴァヌアツで生じたこの種の運動では、西洋の要素、すなわちスクールの側面を確かに否定し、禁止されてきた踊りなどの復活を目論むという側面を持っている。しかしよく見ると、土着の要素、すなわちカストムの側面をも否定していることが分かるのである。サント島で1920年代に起こったロノヴロの運動は西洋の物資到来を待ち望む運動であったが、白人殺害という事件を起こすほど反白人の姿勢を明確に見せる一方、カストムの中核にあった位階階梯制を否定し、そこで最も重要な位置を占めている交換財である豚をすべて殺せという指令をも出していたのである。また、1940年代同じくサント島で生じたネイキッド・カルトは、病気が蔓延し人口減少が続く同地の浄化を目的とした運動であったが、教会を否定し白人のところで働くことを禁止する一方、外婚制や婚資の制度、また様々なタブーをも廃止し、最終的には自分たちだけの村を作ることで新たな地平を切り開こうとしたのである。
 これらの運動と比べるともっと現実的な路線を歩んだ運動もあった。同じく1940年代にサント島で生まれたモル・ヴァリヴの運動がそれである。彼は、神話に登場するタオタエという神が、土地を離れて白人のミッションについていった人間達への罰として人口減少を起こしていると論じた。そして宣教師の村落内への立ち入りを禁止し、白人のためにプランテーションで働くことをやめて、自分たちで経済的自立の実現を目指し、コーヒー栽培の導入を目論んだ。この運動は、スクールの多くの側面を利用する形で運動が行われることになるが、反教会と反白人は貫かれており、しかも、豚の飼育や位階階梯制に伴う儀礼なども放棄するという反カストムの色彩も持っていたのである[吉岡 1988:162-169]。
 第二の反応を示した地域における土着主義運動は、この様に、カストムでもスクールでもない新たな地平を求めた運動であったと言えるが、第一の反応を示した地域でのあり方と決定的に異なるのが、キリスト教化した人々、すなわちスクール化した人々も、キリスト教化を拒否してきた人々、つまり、カストムの側の人々も、ともにこの運動に参加したということである。そして、この地域では、土着主義運動が収束した後、人々は特異な流れに身を置くことになる。ヴァヌアツでは、独立運動が1970年代から活発に展開されるようになったが、これらの地域の人々は独立運動に賛意を表明しなかったのである。そして、多くの人々は、反独立の運動、もっと正確には分離独立運動に参加することになるのである。
サント島で生まれたこの分離独立運動は、それを指導した団体ナグリアメルの名をとってナグリアメル運動と呼ばれた。1960年代から活動を開始したこの運動は、当時は分離独立を掲げた運動ではなく、土地返還運動という性質を持っていた。ナグリアメルという名前は、ナグリア(nagria:センネンボク)の葉とナメレ(namele:ドラセナ)の葉に由来している。ナメレの葉はタブーであり、法であり、カストムであると言われ、ナグリアは平和であると言われていることからこの名前が考案されたのであり、ナグリアメルは、尊重されるべきはカストムであるという視点に基づいて運動を開始したのである[Kele-Kele et al. 1977:36](10)。第一の反応をした地域におけるスクールの村の人々が共感したのは、この段階でのナグリアメル運動だったのであり、彼らは実質的な土地返還を求めることになった。しかし、それがなかなか実現されないにもかからわず運動費を納めねばならないことに嫌気がさしたこともあり、また、運動本部が資金を不正に流用したという噂が流れたりで、人々はその運動から遠ざかることになったのである[Jolly 1982:351]。その意味で、これらスクールの村の人々は、カストム復権という視点に共鳴したのではなかったと言える。
 ところがサント島では、このカストム復権という視点が人々を大きく動かすことになった。運動は、ロノブロの運動、あるいはその流れを汲む後年の土着主義運動に参加していた人々を再び巻き込み発展していった[吉岡 1988]。そして、1970年代から独立運動を展開していた政党・国民党(後のヴァヌア・アク党)を、ヨーロッパの宣教師によって作られたものとして批判し、「宣教師達は国民党を道具として使って、これらの島々を一種の神政国、あるいは、土着の人々の部族の慣習を全く尊重しない宗教的独裁国にしようとしている」と主張することで、独立運動に反旗を翻したのである[Kele-Kele et al. 1977:40-41]。そして、まさに独立寸前という時になってナグリアメルは暴動を起こし、タンナ島の人々も巻き込む形で分離独立を宣言することになったのである。
 カストム復権を唱える運動ではあったが、資金を調達するなどスクールの要素を取り入れたその運動は、アメリカの超保守主義集団であるフェニックス財団から武器や資金の援助を受けることになる[吉岡 1988:161]。そして、その援助と助言を背景に分離独立の暴動を起こすのであるが、運動に参加していた非キリスト教徒達は、こうしたスクールを利用することをことさら問題にしなかった。第一の反応を起こした地域でカストムの世界に生きていた人々は、このナグリアメル運動には共鳴しなかったが、サント島でカストムの世界に生きていた人々は、スクールを利用しながらもそれがカストムの世界へ結びつくと考えていたと言えよう。そして興味深いのは、この運動で想定されていたカストムの世界は、第一の反応を示した地域のカストムの村における世界よりも、純化されたものであったということである。カストムの村では、スクールを拒否することでカストムの世界を現実のものとしていたが、それは西洋世界との接触を経て、多少の変形を受けた形でのカストムであったことは否定できない。ところが、ナグリアメル運動で想定されていたカストムの世界は、西洋世界と接触する以前の状態だったのである。この分離独立運動の一翼を担ったタンナ島のタフェア・フェデレイションのあるリーダーは、次の様に述べている。「我々は、白人がやってくる前に物事があったような状態に戻らねばならない」[Lindstrom 1982:319]。
 第二の反応をした地域では、カストムとスクール双方を越えた所への到着が試みられた後、結局は、スクールを利用しつつもスクールとは最もかけ離れた接触以前のイメージによるカストム世界が追求されることになった。もちろん、運動のリーダー達とその運動についていった大勢の人々の間には、思惑にズレがあるかもしれない。しかし、サント島内陸部の人々の様にスクールを拒否し何とかカストムの世界にしがみついていた人々は、運動のリーダー達の言説から生まれるイメージにすべてを託す形で、純化されたカストムを希求する方向に向かったことも確かなのである[cf.吉岡 1988:173]。

3)新しい世界と併存するカストム

第三の反応を示した地域は、別の道を進むことになった。この地域では、新しい世界は比較的容易に受け入れられていったが、第一の反応を示した地域とは異なったやり方でカストムと併存することになった。つまり、第一の反応を示したところでは、カストムの村とスクールの村という明確な対比を伴った形でカストムとスクールが分離されたが、第三の反応をした地域では、同じ村落内で、カストムとスクールが併存することになったのである。北部ラガ地方もそうした地域の典型的な例であり、そこではスクールという概念は用いられず、カストムとそれ以外という対比が行われることになった[cf.吉岡 1994]。
 北部ラガの人々は、アングリカンやカトリックに早くから改宗し、敬虔なキリスト教徒として生活するとともに、子ども達の学校教育にも熱心で、この地方からは政府の高官が多数輩出している。そのため人々の日常の姿を見ている限り、彼らはスクールの世界で生活しているかの様である。しかし一方で、貨幣経済の流通度は低く、今も、自給自足経済が彼らの生活を支えているのである(11)。さらに、位階階梯制を具現する儀礼は生活の中で重要な位置を占め続けており、その中で交換される財は、今も伝統的な交換財である豚とパンダナス製のマットであり、現金が介在することはまずない。婚姻儀礼では、教会の結婚式とは別に、既に述べた「ラギアナの道」に則った結婚式が行われる。そこでは、新郎も新婦もズボンやスカートにティーシャツ姿であるが、儀礼の手順は、人々が昔から行っていると考えているやり方で進み、婚資として豚についての協議、その後の豚とマットの大規模な交換など、教会での結婚式と全く異なることが展開されるのである[cf.吉岡 1998]。人々の意識の中でのこうした区分は、いわゆる宴の場面にも現れる。スポーツ大会や独立記念日などに伴う宴の場合は、会場の広場に臨時に食堂が登場し、そこでは現金を支払うことで食事を食べ、現金を支払ってカヴァを飲むことが当たり前に行われるのに対して、カストムと関連すると考えている儀礼や催しの後の宴では、同じ食事とカヴァであっても、無料で振る舞われるのである。こうしたやり方を第一の反応をした地域のカストムの村の人々が見れば、それはカストムとスクールの混交だと言うかも知れないが、北部ラガの人々は、明確に新しい世界とカストムとを区別して捉えているのである。
 北部ラガでは、独立前は植民地行政の末端を担う存在としてアセッサーが指名されていた。彼は新しい世界におけるリーダーであり、植民地行政に携わる一方、独立運動においても重要な役割を演じた。筆者の滞在していた村落には大きな建造物が二つあったが、その内の一つ、西洋建築による立派な教会をこのアセッサーが村人の助けを得て建てたのである。もう一つの建造物はと言えば、それはサゴヤシの葉で屋根をふいた伝統的な建造物である男子集会所である。これは、北部ラガにおける位階階梯制の基盤ともなるもので、人々のカストムの根本にあるものである。これは、カストムに責任を持つとされるチーフ・カストムと呼ばれるリーダーが、やはり、村人の協力を得て建てたものである。そしてアセッサーはどんなに勢力があってもカストムの領域では、このチーフ・カストムにはかなわなかったのである。しかしこのチーフ・カストムも日曜日には教会にゆくし、アセッサーも男子集会所を基盤とした位階階梯制に参入していたのである。
 こうしたカストムのあり方は、基本的に教会と相補的な関係にあったと言える。人々は、教会によるカストム否定、例えば一夫多妻婚や割礼の否定を受け入れてきた。しかし、どの様なことも受け入れたわけではなかった。例えば、カストムに関する知識人として名高いあるアングリカンの北部ラガ人司祭によると、教会は儀礼をする曜日を指定しているが、彼自らそれを無視してきたし、教会は豚を殺す儀礼に参加しないように言って来ているが、自らは儀礼に参加してきたという。そして教会側も、最終的には大目に見る形でそうしたことを許容してきたのである。つまり、北部ラガにおけるカストム概念は、「もとからあった、祖先から受け継いだものそのまま」ではなく、「教会が許容する範囲で残存しているもとからあったもの」ということになるのである。それでもしかし、カストムはスクールではない。新しい世界=スクールは、こうした形でもとからあったカストムの補集合として存在しており、カストムと併存しているのである。
 人々は「もとからあった」という点に固執し、「変化する」ことを常に否定的に考える。筆者は、北部ラガを訪れるたびに「前と変わったか?」という質問を受けるが、彼らは「変わらない」という返事を期待しており、「以前のままだ」と応えると人々は納得するのである。こうしたことは都市部で生活している人々の最も重要なポイントでもあり、島の生活からどれだけ変化していないか、どれだけ島の生活を維持できるのかということが人々の関心事となる。彼らにとっては、「変わる」ということは「良くない」ことであり、カストムがスクールに浸食されずに「もとのまま」存在していることこそが重要なことなのである。第2節で触れたシロン・ファヌア(土地の法)という概念がまさにそれで、ツバルなどとは異なり、それが西洋世界の影響を受けて変化しない、あるいは変化してはならないと考えられているのである。
 人々は、シロン・ファヌアにあわない場合、それが「間違っている(シロ・シガイ(silo sigai= シロではない、シロがない)」と判断する。例えば、シロ(法)としての結婚というのは、男性はマンビ(mabi)と呼ぶ親族範疇の女性(母の兄弟の娘の娘など)と結婚し、女性はシビ(sibi)と呼ぶ親族範疇の男性(母の父の姉妹の息子など)と結婚することであり、それ以外の親族範疇の者と結婚することは「間違っている」と言われる。儀礼における支払いでは、何を購入するかでどれだけの交換財をどの様に拠出するのかその方法が決められているが、その「額」より下回ったものしか拠出しなかったり、決められた方法を踏まえないと「間違っている」と言われる。ところが、シロは、人々が「もとのまま」「変化しない」と認識しているにもかかわらず、現実には、変更されていく。つまり、「間違い」と言われたものが、やがては「黙認」され、最終的には「承認」されていくことがしばしば見いだせるのである。結婚の例で考えると、現在では男性がシビと呼ぶ女性(母の父の姉妹の娘など)と結婚することは、間違ってはいないと考える人々も現れている。また、儀礼的支払いのシロでは支払い額が定まっていると説明したが、その額や支払いのやり方自体が別の島からの影響を受けたものである場合があるのである。しかし人々は、その変更された額ややり方を「変化していないシロ」の範疇に納めるのである。一方、西洋世界から入ってきたものはシロ・シガイ、つまり、シロに算入されることはない。そのため、西洋世界からの影響が強くなっても「シロが変化してきた」とは捉えない。人々は、シロ・シガイが増えてくることにより「シロは弱くなり」、文字通りシロがなくなっていく(シロ・シガイ)と捉えるのである。この場合でも、変化するシロという視点は登場しない。そして、「もとのまま」のシロが重要であるという視点が貫かれることになるのである(12)。
 さて、こうしたカストムとスクールの併存は、実は、ヴァヌアツのほとんどの地域で見いだせる反応だったのである。そして、こうした地域から独立運動のリーダー達が排出していった。その結果、第二の反応を示した地域の人々とは逆に、人々は独立運動の大きな支持者となっていったのである。
 すでに述べたが、ヴァヌアツにおける独立運動は1970年代になって始まった。それに伴って、新しい世界とカストムが併存するこうした地域では、カストムが意識されるようになったことは確かである。北部ラガ地方は、独立運動の担い手であった国民党の党首で後のヴァヌアツ初代首相となったウォルター・リンギの出身地でもあり、人々は、熱心な国民党支持者であった。そして、独立運動の高揚と共に、人々の口からは「独立するとカストムが強くなる」という言説が頻繁に聞かれるようになった。しかし、ここで注意する必要があるのは、こうしたカストムの再評価は北部ラガの人々が自発的に行ったものではないということである。
 カストム論では、しばしば「もとからあったものを人々が再評価して自らのものとして仕上げる」という整理が行われ、まるで人々が「民衆知」とでも呼べるようなものとしてこれらを作り上げていったかの様に論じられることがある。例えば、フィジーのケレケレ慣行にしても、フィジーの人たちが自らの主体的な視点に基づいてそれを捉え直したという形での整理が行われているのである。しかし、実際には「人々」ではなく「運動のリーダー達」がこうした「伝統の創造」「伝統の再評価」を行っているということを忘れてはならない。北部ラガの場合も、いかにも人々が「独立すればカストムは強くなる」という視点を作り上げたかのように聞こえるが、リンギを初め運動のリーダー達がそうした視点を広めたのである。ナグリアメル運動によって純化されたカストム像が生まれたが、それもリーダーが創り出したものであると言えるのである。カストム論は、こうしたリーダー達の言説だけを頼りに、彼らの創り出したカストム像を論じ、そしてそれがあたかも「人々の反応」であるかのように捉えてきたのである。特に1990年代の「伝統の政治」論においては、国家エリート達の言説が分析の対象となり、カストムやスクールという現実を生きている人々の視点や捉え方は全く省みられることがなくなってしまったのである。

4 操作される伝統概念

1)今日のカスタム

 ホワイトとリンドストロームの共編になる一連の論文集『今日のカスタム』、『文化・カストム・伝統』、『今日のチーフ』は、現在のカストム論のいわば一つの到達点を示していると言うことが出来るが、大きな問題点を内包するものとなっているように筆者には思われるのである。以下では、彼らの視点を整理するとともにその問題点を指摘し、それを批判する。
 彼らの議論の特徴を、大きく整理すると以下の4点に要約できる。それらは(1)伝統と近代の二分法批判、(2)伝統に関する英語概念とピジン語概念の同一視、(3)西洋人類学と非西洋の被観察者という二分法、(4)国家の統一と共有されるカストムの間に設定される正の相関関係。それぞれについて見ていくことにしよう。まずは、最初の伝統と近代の二分法批判である。
 ホワイトとリンドストロームは、歴史人類学の場合と同様に、「伝統と近代、土着と西洋という二分法を打破する」ことを目指しているという[Lindstrom and White 1997:3]。ホワイトはこの視点をソロモンにおけるチーフ制度との関連で次の様に述べている。「それ(チーフ制が設立されて久しいのにチーフという地位がマージナルであるのはどうしてかという問題)に対する一つアプローチとして、人類学的なチーフとビッグマンの区分を用いることが考えられる。その区分を用いて言えば、ビッグマンの様な流動的で個人的なリーダーシップを基盤としている(ソロモンの様な)ところでは、政府お抱えの“チーフ”の真正性が疑問視されるということになる。つまり、制度化された“チーフ制”という問題は、現実のビッグマン制に創られたチーフ制を接ぎ木することによって生じていると考えるということである。こうした見方は、いくつかの点では考慮すべきところはあるが、しかし、チーフとビッグマンの明確な違い、“創られた”文化と“真正な”文化の明確な違いという視点に基づいており、それは、植民史のほとんどの間、チーフに関する当地の言説をはぐくんできた歴史文化過程を曖昧にする」(括弧内は筆者の追加)[White 1997:246]。
 この視点は、まさしくトーマスと同じである。トーマスは、こうした二分法を批判して、歴史的もつれ合いという視点を導入することで、結局は、植民地化という歴史過程がすべてを創ってきたという議論へと向かう。ホワイトの場合は、しかし、そうした方向へは行かない。彼は「“カスタム(custom)”や“カスタム・チーフ(custom chief)”という概念を植民地化への対応として解釈することは、文化的連続性に貢献する土着のモデルの力を見過ごすことになる」と論じる[White 1997:232-233]。彼は、土着の人々は、西洋からの影響を自らの内部に取り込み、伝統と近代、あるいは土着と西洋という二分法的な対比ではない連続した状況を創り出しているのだと捉えるのである(13)。その結果、カストムを反西洋的なものとして設定する見方を批判し、カストムと西洋的なものは混交しているのだという議論へと向かうことになる。こうしたシンクレティックな形態として「キリスト教徒チーフ」[White 1993:490]、「儀礼的イベントにおけるラヴァラヴァの着用」[Lindstrom and White 1994:5]などが指摘され、最終的に、「・・・メラネシアの人々は、発展する伝統という伝統を持っている。変化は島社会では当たり前で期待されることであり、また評価されることなのだ」と結ぶことになるのである[Lindstrom and White 1994:17]。
 彼らがシンクレティックな形態と考えているキリスト教徒チーフや儀礼でのラヴァラヴァ(腰布)の着用は、まさしく、北部ラガで生じている現象である。しかし、この点については何度も指摘してきたが、カストムと西洋的なものの要素が共に見いだせるからと言って、人々が両者を混交させているのではないのである。キリスト教徒チーフであっても、チーフと呼ばれるためにはカストムと人々が考えている手続きを経なければならず、それは西洋的なやり方とは異なったものなのである。それゆえ、キリスト教に改宗していてもチーフは、チーフ・カストム(Jif Kastom)であるし、それは、スクールにはならないのである。ラヴァラヴァについては、言うまでもなく、それを着用していることが問題なのではなく、それを着用していても(伝統的な)パンダナス製マットのふんどしを着用していても、儀礼的イベントが西洋的なものではないということが重要なのであり、その点で、この儀礼的イベントはカストムとなるのである。
 また、メラネシアの人々と「発展する伝統」の記述のところでは、この記述を裏打ちするためにヴァヌアツの初代首相のリンギの演説とサモアの歴史家メレイセアの主張を挿入している。確かに、リンギは独立に際してカスタム(後述するが、これがカストムではない点に注意)は変化することを訴えている。メレイセアはサモア人として新旧ブレンドされた創造的な「生きた文化」について論じている。しかし、リンドストロームらが間違っているのは、「発展」と「カスタム」を両立させようとしたリンギは徹底した西洋教育を受けた国家エリートであり、一般の「メラネシアの人々」を代表していたわけではないという点を無視したこと、及び、メレイセアは自らがサモア人としてメラネシアとは異なったヴァカ系統の伝統概念をもっているという点を無視したことである。第2節で述べたように、リンギの故郷である北部ラガの「メラネシアの人々」は基本的に変化することをひどく嫌う。そして、変化しないことに価値を置いているのであり、リンドストロームらの認識は、国家エリートの言説がそのまま人々の視点でもあるという根拠のない前提に基づいたものであり、到底容認するわけにはいかない。
 彼らのこうした見方は、第二の特徴、つまり、英語の「カスタム」とピジン語の「カストム」を同一視し、さらに、ピジン語の「カストム」を英語の「カルチャー」「トラディション」と同一視するという点に反映されることになる。それが直接現れるのは、「カルチャー、そしてその化身であるカストムとトラディション・・・」[Lindstrom and White 1995:207]や「カストムまたはトラディション」[White 1993:489]などの表現においてであるが、こうした直接の置き換えではない形でもしばしば現れる。例えば、次の様な場合である。「独立後の南西太平洋においては、種々の地域的、国家的な場で、カストム(kastom)について語ったりカストム(kastom)を法令化したりすることが依然として顕著である。ブーゲンビルからフィジーやカナキーに至るまでの地域を貫く政治的危機においては、カスタム(custom)のレトリックは、地域的あるいは国際的な目的に役立つ潜在的象徴資本であった。」[Lindstrom and White 1993:468]。ここでは、明らかにピジン語であるカストムを何の断りもなしに慣習を指す一般的な英語概念であるカスタムにすり替えているのである。
彼らは、また、メラネシア人の誰かの言説に英語のカルチャーやカスタムなどを見いだすだけで、その議論をピジン語概念であるカストムに関する議論として論じる。例えば、ヴァヌアツ家族健康協会の役員が語った一夫多妻婚に関する新聞記事の場合がそうである。その記事でこの役員は、「一夫多妻婚は慣習的にしてきたこと(customary practice)の一部であり、長年ヴァヌアツで存在してきたが、現在の状況は過去を説明してはおらず、家族問題への解決は、一人の夫に一人の妻ということである」と述べている。これを捉えてリンドストロームは、「新しいカストム(kastom)の創造と古いものの見直し」と述べている[Lindstrom 1994:80]。しかし、この役員は現在の一夫一婦制をカストムとみなしているという証拠はどこにもないのである。同じことはホワイトにも言える。ソロモンのパラマウント・チーフに就任したある人物は、英語の演説の中で「我々自身のカルチャーに思考や進歩の基礎を置けば、我々は先に進める。しかしそれは我々の祖父達がやってきたこととは違う」と述べているが、ホワイトはこれを、この人物のカストム観として議論していくのである[White 1993:489]。
 土着と西洋、伝統と近代の二分法を批判する彼らは、しかし、まさに自らの思考としての二分法に縛られているとも言える。「典型的なフィールドワークの状況においては、外国の人類学者は、ヨーロッパ的知識と皮肉なことにおそらくヨーロッパ的権力を必然的に体現する。・・・この点で、増えつつある非ヨーロッパで土着の人類学者の仕事が、土着の慣習と外国の人類学という伝統的な両極性を打ち破っている」といった指摘に見いだされるのは[Lindstrom and White 1995:204]、外国=西洋、人類学者=ヨーロッパ人、という彼ら自身の前提であり、「非ヨーロッパで土着の人類学者」とは、従来観察対象となってきた地域の人々だけを指すことになる。そこには、西洋=観察するもの(支配するもの)、非西洋=観察されるもの(支配されるもの)という二分法が存在し、非西洋が西洋を観察したり、非西洋が非西洋を論じるという設定は存在しない。人類学は、つくづく西洋の学問であり、植民地化する側の学問であるということが分かる。
 これとの関連で、リンドストロームとホワイトは、「国家エリートによって創り出される伝統」という議論を展開したハンソンのマオリに関する論文の例を取り上げている。つまり、彼のアメリカン・アンソロポロジスト誌上の論文がニューヨーク・タイムズに引用され、それがニュージーランドの新聞に引用され、それを読んだマオリの研究者達がニュージーランド国内で反論を開始し、それが結局は、アメリカ人類学協会の研究大会で議題となり、アメリカン・アンソロポロジスト誌上で反論が掲載されたというケースである[Lindstrom and White 1995:203]。反論するマオリのエリート達は、パケハ(ヨーロッパ人)の主張として人類学的議論を批判することになるし、人類学の側もパケハの人類学としての自覚を持っているのである。つまり、こうした宿命を背負った<西洋人類学>は、自らを巻き込まずにカストム論を展開することが出来なかったと言える。その結果、「観察者に、太平洋における伝統と近代の構築の中に対照的な関係を期待させているのは(そしてしばしば発見させているのは)、おそらくは対立的思考に対する我々自身の性癖である」というホワイトの指摘や[White 1993:492]、カーゴカルトはヨーロッパ人自らの欲求を投影したものであると言う、リンドストロームのカーゴカルト論[Lindstorom 1993a]の様な指摘が登場することになる。こうした自己投影を反省することにより、「彼ら」と「我々」という対比を乗り越えようとするのだから、最終的には「彼ら」と「我々」の境界を打破する動き以外にはなくなるのであろう。
 ホワイトとリンドストロームは、「彼ら」と「我々」のこうした乗り越えは、太平洋の人々の側にも見いだせると考えているのだが、ここで注意する必要があるのは、彼らが問題にしているのは常に島嶼社会のエリートたちの言説であるという点である。彼らの編集した『文化・カストム・伝統』を見れば明らかになるが、それに執筆している太平洋のエリート達は、西洋の人類学者達が開くミーティングに参加し、討論に参加している。彼らは、そうした場で、西洋人類学の自己反省・新たな見方を共有していくのである。そしてそこで議論されたことが、こんどは、土着のエリート達の意見として再生産される。これを受けて西洋人類学は、これが島嶼社会からの発言であると論じるのである。
 さて、こうした土着のエリートの視点を問題にする点は、「伝統の政治」論全体の問題でもあり、そこにおける議論には共通した前提が見いだせる。それが彼らの議論の第四の特徴ともなっているのだが、その前提とは、カストムを共有するから国家としての同一性を保つということである[Lindstrom 1993b:495,508;1982:319]。そして、この前提に基づいた議論であるため、国家の側は、カストムについて語ることでナショナル・アイデンティティの基礎を作ろうとしてきたという指摘が登場する。リンドストロームは、国家を統一させるためにはカストムを共有する必要があり、そのためには政治家はそれを奨励する、という前提にたって、ヴァヌアツの政治家達は、ビスラマの使用やストリング・バンドの音楽やカヴァ飲用、などのような出現しつつある国民文化を奨励してきたと論じている[Lindstrom 1993b:496]。しかし、確かにヴァヌアツでは最近外国向けにビスラマの辞書を作っていはいるが、国家として、ビスラマを国内で振興させるための努力をしてきたわけではない[吉岡 1994:215-216]。また、ストリング・バンドに関しても、他の太平洋地域における隆盛と同じ根を持つもので、ヴァヌアツ独自の国家政策などとは無縁のものである。さらに、政治家のパフォーマンスとして祝祭でカヴァを飲んだりするが、カヴァ飲用は奨励されてきたものではなく自然に行われてきたものであり、都市部におけるカヴァ・バーの大隆盛も、国家の思惑とは関係のないところから行われているのである。
 この国家統一とカストムの共有という前提は、当然、カストムの共有がなければ国家は分裂するという議論の帰結を生む。リンドストロームは次のように述べている。「一方、ナショナル・アイデンティティやナショナル・ユニティの感情を促進するために、国家言説が、共有されているカストムを一種の(メラネシアにおけるような)‘試練後の’感情として膨らませすぎたところでは、人々はナショナル・コミュニティ内部における共有されないカストムの多さを指摘し、国家を拒絶したり国家から離脱したりすることになる」[Lindstrom 1993b:508]。彼のこの議論は、ヴァヌアツにおけるナグリアメル運動などを引きあいに出して展開されたものであるが、第3節で論じたように、ナグリアメル運動はカストムを共有しないから生じた運動ではないのである。この議論は、ナグリアメル運動が何であるのかを見ることなく、あまりにも短絡的に多様なカストム=分離独立運動の発生という枠組みを当てはめた議論ということになろう。しかし、ヴァヌアツでは、国家の側が多様なカストムの存在を認識していることを示す言説が各所で見いだせるのである。
 具体的な例を挙げよう。ピジン語で書かれたヴァヌアツ憲法前文では、次の様にうたわれている。「我々は様々な膚の色、様々な言葉、様々なカストムを持っているがそのファッシンを堅持する。しかし、将来我々はみんなたった一つの道を歩むことをよく知っている」(14)。この文脈で登場するファッシンというのは、すでに紹介したが、「やり方」「方法」などを表す概念であり、ヴァヌアツの国歌にも登場する。それは以下の様なものである。「様々な昔のファッシンがある。今も様々なファッシンがある。しかし我々は一つなのだ。これこそが我々のファッシンだ」(15)。さらには、現在のヴァヌアツ文化センターの局長であるレーゲンヴァヌの次のような英語での指摘がある。「もし、言語集団を(一般にするように)文化とすれば、ヴァヌアツは、おそらく地球上で最も文化的に多様な国ということになる。・・今日、西洋との接触後の歴史においては、伝統と知識がかなり失われてしまったという特徴づけが行われるが、ヴァヌアツの文化遺産の豊富さ、多様性、活力は、いまだ現実に失われていない。まさしくそれはヴァヌアツの伝統的諸文化の継続する活力であり、それらが国家に真の特徴を与え、世界の他の国家と真に分離するのである」[Regenvanu 1998:48-49]。つまり、多様性の認識は、独立当初から現在に至るまで続いて存在しているのである。
 ところで、独立と同時にピジン語、英語、フランス語の対訳で出版された『ヴァヌアツ』という本が出版されたが、その中で、当時のラジオ・ヴァヌアツの次長であったゴドウィン・リゴが担当した「カストム(kastom)とカルチャー(kalja)」という章(ピジン語文)では次の様に述べられている。「ヴァヌアツの全てのカストムとカルチャー、つまり、言語、伝統的(kastom)ダンス、伝統的(kastom)な歌、伝統的(kastom)な遊び、食事の作り方、結婚、チーフの威信を高めること、畑を作ること、また、昔のヴァヌアツの人々の生活に見られるような様々なこと、これらは全て同じではない。全ては、島ごとに異なり、村ごとに異なり、家族ごとにさえ異なることもある。そうしたことは皆さんがしばしば見いだすことである」(16)[Lini et al. 1980:56]。しかしその後で、島々の間でカストムは似ていると述べるとともに、そうしたカストムの基盤として、言語、豚を殺す儀礼、秘密結社、結婚慣行、葬送儀礼を挙げている。そして「我々の国に一つのアイデンティティを与えるために、全てのカストム、カルチャー、そして伝統を発展させ保存せねばならない」(17)と結んでいるのである[Lini et al.1980:58-64]。
 ここには、確かに、ヴァヌアツ全土に共通するカストムを見いだし、それを西洋とは異なった自分たちのアイデンティティの基盤にしようとする姿勢が表れている。しかし、それは各島、各村ごとに異なるカストムの公約数を探ろうという姿勢であり、共有されるカストム像とはズレを持っていると言うべきだろう。というのは、こうした約数の数え上げは、西洋との違いに視点を合わせたもので、西洋とはこうした点が異なるという言い方の時には効果を持つが、内的な共通性を導き出すものにはならない。さらに、これらの約数そのものが内部に差異を持っているため、約数がないからといって、全体が分裂してしまうような性質を持たないのである。ところが、共有されるカストム像は、内的な共通性を前提とした概念である。それ故、共有されないカストムの存在は、全体の分裂という危機をもたらすという結論へと至ることになるのである(18)。

2)カスタム、カルチャー、カストム

 ホワイトやリンドストロームは、政治家達の英語のテキストを分析することによりカストム概念を論じているが、次に、独立運動に関連したエリート達の英語での言説を考察することにしよう。ヴァヌアツは、初代首相となったリンギ達が始めたニューヘブリデス文化協会の設立から独立への道を歩み始めたが、その協会の英文パンフレットでは次のことがうたわれていた。それは、協会の目的は、「ニューヘブリデスのカルチャーを促進し、保存し、復活させ、奨励することである。・・・ニューヘブリデスのカルチャーと西洋の文明と関連して、ニューヘブリデス人の社会的、教育的、経済的、政治的発展を模索することである」ということである[Kele-Kele et al. 1977:24]。そこには、ニューヘブリデスのカルチャーは保存されるべきものであると同時に、西洋文明と関連しながら発展するものであるという位置づけがされていることが読みとれる。
 また、ヴァヌアツが独立するに当たり、リンギ元首相は、次の様な英語の演説をしている。「・・・我々は、神からだけではなく、我々自身のカスタム(custom)と伝統的価値(traditional values)からの導きも必要としている。我々は荒々しい潮流に入り込んだカヌーの様に、急激な変化の時期に突入している。神とカスタム(custom)が、我々のカヌーの帆となり楫になってくれるに違いない。・・・ヴァヌアツの未来は明るい。そして我々は我々自身のメラネシアン・ウェイの基で発展することが許されているということが重要なのである」[Lini 1980:62-63]。ここに登場するメラネシアン・ウェイは、きわめて漠然とした概念で、それについての詳細な説明が行われたことはないが、上記の文面を見ても分かるように、それは、キリスト教の神と伝統文化が両立したものとして設定されていると言える[吉岡 1994:214]。
 さて、これらのカスタムやカルチャーという英語概念は、確かに伝統的価値を体現するものとして設定されているようだが、キリスト教の神と両立する性質を付与されていることに注意すべきであろう。つまり、ピジン語のカストムが排除してきたキリスト教理念を、英語のカスタム概念は包摂しようとしているのである(19)。それは、まさしくスクールの取り込みとでも呼べるものである。この点は、リンギの次の英語による言説からもわかる。彼は言う。「私は、発展(development)と対立するものとして“カスタム(custom)”を考えることには反対する。・・・私は、“カスタム(custom)”と伝統的やり方を発展への力として利用するものとして見ることを好む。結局、カスタム(custom)はダイナミックで、過去に明らかに行われてきたように、カスタム(custom)は変化し続けない理由はないし、それ自身を適応させ続けない理由はない。」[Lini 1980:30]。
 国家エリート達が描いた英語のカスタム概念は、ピジン語のカストムがスクールを取り込んでダイナミックに対応していく姿を想定しており、それはまさしくホワイトとリンドストロームの言う「発展する伝統」である。しかし、それはカストム(kastom)ではなくカスタム(custom)であることを再度確認しておこう。ヴァヌアツの独立運動を指導してきたエリート達は、西洋世界と対抗するためにカスタムあるいはカルチャーの重要性をうたったが、それは西洋と対立するものとして設定されていたのではなかったと言える。つまり、英語概念のカスタムは、西洋世界と両立しうるものとして、すなわち、ピジン語で言えばスクールと両立するカストムとして設定されていたということなのである。それは、第3節で論じた「第一の反応を示した地域」におけるカストム観とは異なったものであった。というのは、そこでは、昔から継続していると考えられているものがカストムであり、スクールとは明確に分離されていたからである。また、独立運動における視点は、「第二の反応を示した地域」でのカストム概念とも根底から異なったものであった。そこで展開されたナグリアメル運動は、最終的にスクールを利用しながらも西洋との接触以前のカストムの世界への復帰を目指す運動となったのに対して、独立運動は、同じくスクールを利用しながら、それと両立するカストムを想定する方向に向かったのである。スクールと両立するカストムの世界というのは、ある意味で、スクールとカストムの融合である。ナグリアメルはこの点を問題にし、「宣教師達は国民党を道具としてつかってこれらの島々を一種の神政国」を作ろうとしていると批判した。そしてこれこそが、分離独立運動を展開する原動力となったのである。
 第一と第二の反応を示した地域でのカストム観とは異なったエリート達のカストム概念ではあるが、それは、いわば、第三の反応を示した地域でのカストム観を巧みに利用する形で形成されたともいえる。第三の反応を示した地域ではカストムとスクールが併存する形で生活が営まれていたが、植民地化の進行とともにスクールが次第にその勢力を増し、カストムの生活に占める割合が小さくなっていた。その時、独立運動のリーダー達は、独立するとカストムが強くなると主張したのである。エリート達の論理では、スクールと両立するカストムであるため、スクールが大きな勢力を持ったとしてもカストムは消え去るものではなかった。逆に、独立すれば自分たちの視点で国家を運営することが出来るため、このカストムを自分たち流に構築していくことが出来るということだったのであろう。そして、カストムとスクールの併存する地域の人々は、エリート達の言説を支持し、独立運動を支える大きな役割を演じることになったのである。こうして、カストムとスクールの“併存”を“両立”へと変換する論理操作を経て、人々のカストム観を巧みにエリート達のカストム観に移行させていったのである(20)。
 これこそが、国家エリートの操作する伝統概念であり、そのピジン語概念と英語概念の巧みな変換の中に、彼らの「伝統の政治」が見えてくるのである。ホワイトとリンドストロームは、カストムとカスタムを同一視することによって議論をすすめたが、その結果、国家エリート達の伝統概念操作の仕組みを見誤ったてしまったと言える。しかも、彼らは、国家エリート達の主張がそのままエリートではない人々にも共有されると考えていたため、人々のカストム観をも見誤ることになったのである(21)。

おわりに

 人類学は、進化主義が一般的だった頃、自文化中心主義的なものの見方を粉砕することが出来なかった。しかし文化相対主義の出現により、異文化を自文化の視点からではなく、異文化として論じる道を模索し始めた。その過程で、マリノフスキーなどの初期の研究の様に植民地主義に貢献したオリエンタリスト人類学の姿も見られたが、それ以後の人類学の研究は、基本的に、当時の人類学以外の分野に比べて、遙かに自文化中心主義的なものの見方を批判することが出来る立場にあったし、それを実践していた。もっとも、異文化性を描き出すことに必要以上に力を注いだという事実は否定できない。その意味で人類学者は、確かに「弱者に代わって代弁する」というオリエンタリズム的視点を持っていた。しかし、それをオリエンタリストとして一括して批判の対象にすることは出来ないであろう。というのは、人類学以外の世界の人々の方が、遙かに、オリエンタリストであったからである。
 サイードのオリエンタリズム批判をいち早く自分たちへの批判として受け取った人類学は、自己反省し、その結果、本質主義的なものの見方を全般的に否定することに向かった。ある島の文化はこれこれであるという言い方そのものさえも否定の対象となった。我々と彼ら、西洋と土着という二分法が批判され、両者の相互作用が問題とされるようになった。その結果、伝統を巡って、人類学は、人類学内部の本質論を批判すると同時に、オセアニア世界の国家エリート達の自文化に対する本質論をも批判するようになった。伝統は創造されるという視点が打ち出されたが、オセアニア世界の国家エリートは、文化を表象する権利という政治的な問題を持ち込むことによって、人類学者を批判した。こうした政治的問題を避けるために、人類学は、文化の政治論へと逃げてゆく。そこでは、「・・・人類学が記述の対象としてきた実体としての「文化」や「伝統」といった概念は、政治・権力関係の力学という文脈の中で象徴として客体化され操作される対象物としての「文化」や「伝統」に置き換えられた」[宮崎 1999:182]。そして人類学は、国家エリートと同じ位置に立って議論を展開し始めた。
 人類学は、オリエンタリズム批判以前には、エリート以外の人々(サバルタンと呼べるかもしれない)に比較的近い位置で文化を見ていた。しかし、現在の人類学には、こうした非エリートの視点が全く欠落していると言えよう。西洋の学問としての人類学は、西洋世界の視点から捉える見方を自ら否定することによって、オリエンタリズム批判に応えようとした。その結果、国家エリートの目を気にし、エリートと共同でエリートの見た世界を復元しようとしている。しかし、これらエリートの見た世界は、自己反省した西洋人類学の世界でもあるのだ。その結果、再び、西洋的な視点での議論が姿を変えて世界を覆い尽くそうとしているのである。こうして人類学者は、ある意味で真のオリエンタリストになってしまった。こうした方向性を、我々は評価してはいけない。



(1)1995年にファインバーグとジンマー・タマコシ編になる論集『太平洋島嶼における文化の政治についての特集』がエスノロジー誌上で登場したが、それらは従来のカストムを巡る議論、ないしは伝統概念を巡る議論と言うよりも、文化認識を問題としたものであった。ただし、その中でリンドストロームとホワイトは共同で論文を執筆しており、そこでのスタンスはここで指摘しているものと変わっていない[Feinberg and Zimmer-Tamakoshi 1995]。
(2)ヴァヌアツでの資料は、基本的に筆者自身のフィールドワークに基づいたものである。フィールドワークは1974年、1981年〜1982年、1985年、1991年、1992年、1996年、1997年に実施している。
(3)キリバスでのフィールドワークは1983年に実施し、ツバルでのフィールドワークは1998年に実施している。
(4)筆者自身のフィジーでの聞き取り調査(1998年)による。
(5)フィジー語の辞書では vaka は三種類に区分され、最初のものが、動詞についたときには使役の意味になり、名詞についたときにはそれを形容詞化したり副詞化したりして「〜のように」という意味になる接頭辞とされている。一方、「似ている」「同様に」という意味を持つ語は第三のvakaとして第一のものから区別されている。しかし、同じ系列にあるツバルのファカの場合は辞書において、これらは共に接頭辞として一つの単語にまとめられている[Noricks 1981]。
(6)ヴァヌアツという国名は vanua + tu であり、「土地」と「立つ」の組み合わせで出来上がっている。しかし、例えば北部ラガの人々が国全体の名称はヴァヌアツであると認識していても、北部ラガの言語概念において国家全体をファヌア(ヴァヌア)と捉えているわけではない。
(7)ツバル語の辞書では「立つ」を意味するツーと「慣習」を意味するツーを別の単語として扱っている。
(8)キリバスの場合は、北部の島々には首長制が見られるのに対して、南部の島々ではそうした政治体系は見いだせない。その意味で、単一の文化とは呼べないかもしれないが、それでも、メラネシアなどの地域と比べると遙かに均質であり、単一の言語の使用と併せて考えても、全体が一つにまとまっていると言うことは可能であろう。
(9)ヴァカヴァヌアは過去と現在の連続性に基づいているとジョリは述べるが、キリスト教の到来を期にした「暗黒の時代」「光明の時代」の違いは、宣教師の影響であるとは言え、厳然としてフィジーの人々の意識の中にあると言う[春日 1993]。このことは、スヴァの博物館に展示されている「暗黒の時代」と「光明の時代」の対比を示す絵画によっても明確に示されていると言える。たとえ宣教師によってもたらされた対比であったとしても、この事例は、過去と現在が必ずしも連続線上で捉えられていない場合があることを語っていると言えよう。つまり、フィジーのヴァカヴァヌア概念は、メラネシア的なカストム概念とポリネシア的なヴァカ系統概念の中間にあって、両方の性質を持ち合わせていると考えることが自然なのかも知れない。
(10)ナグリアメルは、やがて一つの政党として活動することになったが、この部分はナグリアメルの創始者でありその党首となったジミー・スティーヴンス自身がナグリアメルについて語っている英語文からとられている。それ故、ナメレの葉についての説明は、「ナメレの葉は我々のカスタムである」と記述されており、ピジン語概念であるカストムは用いられていない。しかし、この説明をジミーにしたのは、サント島のカストムの側の人々であり、そこにおけるカスタムはピジン語概念であるカストムのことであると考えるべきであろう。また、ジミーが文中で用いているカスタムという英語概念には、「伝統的」「何年も存在し続けてきた」「部族的」という限定が付けられており、それがピジン語概念であるカストムを表したものであるということが分かる[Kele-Kele et al. 1977:35,36,40,41]。
(11)もちろん貨幣経済から隔離されているわけではなく、都市部での出稼ぎなども多い。また近年は、都市部でのカヴァ・バーの隆盛とともにカヴァの需要が高まり、換金作物としてのカヴァが注目されている。必然的に村落での貨幣の流通する度合いは年々増してきているが、それでも、村落生活は基本的に貨幣を持たなくても成立するように出来上がっているという現実が存在しているのである。
(12)北部ラガにおけるシロン・ファヌアは、ほとんどピジン語であるカストム概念と重なっているが、一つだけ違いを持っている。それは、「白人のカストム」という言い方があまり聞かれないのに対して、「白人のシロ(silon ira tuturani)」という言い方が存在するという点である。シロ概念は、それぞれのファヌアによって異なるので、白人というファヌアにもシロが存在するということになるのだろう。一方、カストムは西洋世界に対抗する形で出現したものであるという性質を全面的に持っているため、西洋以外にしか適用されない概念となる。その意味で、カストムは対抗的な概念だがシロン・ファヌアは対抗的ではないと言うことになる。
(13)こうした連続を強調する立場は、植民地化によってもたらされた「近代の類化のマジック」[松田 1992:29]を無視することと結びつく。ホワイトの挙げているサンタイサベルの例場合は、基本的にこの近代の枠組みでカストムを考えるという方向からのものであり、それは、近代の枠組みをつかわないカストムの状態とは全く異なったものを生み出しているということを認識する必要がある。またホワイトは、誰がカストム概念の担い手なのかということを問題としない。人々という概念で、エリート、チーフ、後背地の人々[cf.Keesing 1990]すべてをいっしょに論じているのである。
(14)原文は以下の通りである。 yumi stap holemtaet fasin ya we yumi gat ol
naranarafala kala mo ol naranarafala lanwis mo ol naranarafala kastom, be yumi
savegud we long fyuja bambae yumi evriwan i waokbaot long wan rod nomo.
(15)原文は以下の通りである。plante fasin blong bifo i stap, plante fasin
blong tedei, be yumi i olsem wan nomo, hemia fasin blong yumi.
(16)原文は以下の通りである。Ol kastom mo kalja blong Vnauatu - langwis,
kastom tanis, kastom singsign, kastom pleple, wei blong mekem kakae, mekem maret,
putum ap jif, mekem karen mo plante difren samting olsem long laef blong pipol
blong Vanuatu long bifo i kam, oli no semak. Oli difren long wanwan aelan,
wanwan vilij, mo iven long wanwan famle tu, samtaem yu save faenem olsem.
(17)原文は以下の通りである。yumi mas developem mo prisevem olgeta kastom,
kalja mo tradison blong givim wan aidentiti long kaontri blong yumi.
(18)リンドストロームは「カルティストは、かつて、多義的な意味でのカーゴを探し求めて、更新されたカストム(kastom)概念を構築した。一方、メラネシアのエリート達は、調和のとれた国家内部でのナショナル・アイデンティティと‘平和と統一’を求めてカストム(kastom)を構築し続けた。カーゴと、もっと最近のもっと現代の目標である文化の図案づくりとの間の距離は、おそらくそんなに大きくはない。カストム(kasotm)言説は、ナショナル・アイデンティティの表現法として、そして国家の規制と支配の機構として役立ちうるのだ。しかしそれは同様に、対立と抵抗の言語にもなる。これら三つの相反する政治的資質は、すべて、カストム(kastom)のカーゴカルトの系譜から出自しているのだ」と論じている[Lindstrom 1993b:509]。この議論は、土着主義運動におけるカストム概念、分離独立運動におけるカストム概念、そして国家エリートのカストム(あるいはカスタム)概念の違いを無視するところに成立しているということは、今や明白であろう。
(19)カストムにも北部ラガのシロン・ファヌア概念にも共通して言えることだが、学校などが明確にこれらの概念からはずれると明言する人々でも、キリスト教となるとそう断言することを躊躇する場合がある。こういう場合人々は、キリスト教はカストム(あるいはシロン・ファヌア)ではない、と言うことが出来ないと同時に、それがカストム(あるいはシロン・ファヌア)であるとも言えない。ある北部ラガ人のアングリカン司祭は、次の様に言っている。「シロでは、愛する、尊重するということが重要だが、それはキリスト教でも同じだ。しかし学校はシロではない。というのもシロン・ファヌアと違うことを教えているから」。この司祭は、しかし、キリスト教はシロン・ファヌアであるとは言わない。シロン・ファヌアに合致するとしか言わないのだ。このあたりに、たとえ司祭であっても、キリスト教をカストム(あるいはシロン・ファヌア)に含めることの難しさが表れている。
(20)第3節でナグリアメル運動のカストム観を論じているとき、「もちろん、運動のリーダー達とその運動についていった大勢の人々の間には、思惑にズレがあるかもしれない」と述べたが、そのズレとは、独立運動における指導者と人々の間に見られるズレと同様のものであった。つまり、人々は純化されたカストムを追い求めたが、例えば、「白人がやってくる前に物事があったような状態に戻らねばならない」と主張したタフェア・フェデレイションのリーダーは、フランス人居住者を党首とする政党 Union des
Communautes des Nouvelles Hebrides の副党首でもあった人物であり(Beasant 1984:30)、運動についていった大勢の人々と同じ純化されたカストムを求めていたとは言い難いのである。
(21)トーマスやジョリ、あるいはホワイトやリンドストロームは、「伝統」と「近代」、あるいは「彼ら」と「我々」の二分法を批判するところから議論を出発させることによって、従来の人類学を批判してきた。しかし、そうした批判は、従来の人類学が健全にも持っていた視点をも否定してしまった。それは、通常の異文化接触とは全く異なる異文化接触をもたらした植民地化という認識の否定と、本質主義の名の下に行われた「名もなき人々」の日常における真正さの否定である[cf.小田 1996]。これらの点については、別稿[吉岡 2000]を参照されたい。

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