以下の論考は、『文化人類学』に掲載された同名の論考の草稿段階でのものですので、掲載論考とは異なるところがあります。あくまで参考としてください


ルガンヴィル:アメリカ軍の建設したメラネシアのキャンプ都市

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はじめに

1 植民地化

2 太平洋戦争前のエスピリトゥ・サント島

3 アメリカ軍の到来

4 キャンプ都市

5 メラネシア人の雇用

6 軍の引き上げとミリオンダラー岬

7 戦後

8 メラネシアン・タウンへ

おわりに

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はじめに

 オセアニアでは、西洋世界と接触する以前は都市部と呼べるようなところは存在しなかった。都市は、西洋世界とともにやってきたのである。寄港地や商業活動の拠点として自然発生的に形成されたポート・タウンは、いわば白人の溜まり場としての性質をもっており、そこはオセアニア世界から隔絶された西洋の地であった(cf.熊谷・塩田 2000)。多くのポート・タウンは、やがて、植民地行政の中核を担う都市部へと変貌していった。いわゆるコロニアル・タウンの成立である。コロニアル・タウンの大きな特徴は、植民地体制の要としての位置を持つ故に、植民地化する側の権力が如実に現れる場であったということと、それと連動するが、西洋世界への入り口であったということであろう。ここでは、現地の人々が居住する周辺部と白人の居住する中心部が対照的に出来上がり、後者では建物、都市設計、サーヴィスなどの基準において西洋の都市に匹敵するものが見られたが(Oram 1976 :ix)、それはオセアニア世界から見ればまさに異界としての西洋世界そのものであった。

オラムは、このコロニアル・タウンから出発したパプアニューギニアの首都・ポートモレスビーを舞台に『コロニアル・タウンからメラネシアン・シティへ』を著し、コロニアルからメラネシアンへとその性格を変貌させていく都市の歴史的変遷過程を描いたが(Oram 1976)、この変遷は、単にメラネシア人の居住地へと移行したということのみを意味しない点に注意する必要がある。それは、異界としての西洋世界への入り口であった場が、メラネシア世界によって馴化される場へ移行したことを意味しているのである。メラネシア的な都市の最も大きな特徴は、多言語空間であるということであり、ピジン語のような共通語としてのリングア・フランカが流通する場となるということである。それは、多様な文化をもった島々の人々が、コロニアルの支配や基準によってではなく、自ら作り上げたピジン文化とでも呼べるようなものによってまとまるということを意味しているのである(cf.吉岡 2002)。

ところで、オセアニアでも他の地域と同様に、こうしたコロニアル・タウンを基点とせずに都市部が形成されたところもあった。それらの中で、特異な位置にあるのが、本論で取り上げるヴァヌアツのルガンヴィルである。ルガンヴィルは、太平洋戦争時に、アメリカ軍が建設した基地をその都市部形成の基点としているのである。いくつものキャンプから成るこの基地は、1950年当時のヴァヌアツの全人口が48,500人であったのに対して(ANGLO-FRENCH CONDOMINIUM 1951)なんと10万人規模の巨大なものであった。その規模の大きさからキャンプ都市(camp city)と呼ばれるようになったが、それは忽然と現れた植民者以外の西洋世界であり、オセアニア地域のコロニアル・タウンに比肩するものがない巨大な都市空間であり、そして、戦争終結とともに消えてしまった幻の都市ともいえる存在であった。ルガンヴィルは、戦後廃墟となったこの地に、キャンプ都市が作った都市のインフラストラクチャーを利用して出来上がったタウンであり、メラネシア人の生活が息づくメラネシアン・タウンとして再生してきたところなのである。

 オラムに倣って言えば、「キャンプ・シティからメラネシアン・タウンへ」という変遷を経たルガンヴィルは、今日、人口が11,000人程度(1999年の国勢調査)と小規模であるが、市制を敷き、コロニアル・タウンとして発展してきた首都のポートヴィラと並んで、ヴァヌアツの中で重要な都市部として機能し続けている。本論では、特異な歴史を歩んできたルガンヴィルの、居住地としてスタートした1800年代終わりから、キャンプ都市の成立、戦後の連合軍の引き上げを経て、メラネシアン・タウンとしての姿を確定する1970年代までの歴史的経緯を考察していく。

 

1 植民地化

 ヴァヌアツ共和国は、メラネシア東部のニューヘブリデス諸島を中心とした島々から成る島国で、1980年独立した人口19万人余り(1999)のマイクロ・ステートである。独立前、英仏共同統治領ニューヘブリデスとして知られており、イギリスとフランスが共同で統治する世界でもまれな植民地としての歴史を歩んできた。

ニューヘブリデスにいち早く布教を開始したのはロンドン伝道協会や長老派教会であり、それに少し遅れて、英国国教会の布教も開始されている。これら非カトリック系の布教活動は、イギリス人宣教師などによって19世紀の前半に開始された。この頃のニューヘブリデスには、しかし、イギリス人だけではなく、当時すでにフランス領となっていた隣地ニューカレドニアを経由してフランス人も入植を行っていた(吉岡 2005:29-34)。こうした入植者の中に、イギリス生まれでフランス国籍を持つジョン・ヒギンソン(JOHN HIGGINSON)という人物がいた。彼は、フランス人としての立場から、フランス本国にニューヘブリデスの植民地化を強く進言すると同時に、フランスのカトリックをニューヘブリデスに導き入れた。その結果ニューヘブリデスで、非カトリック=イギリス系、カトリック=フランス系という独特の構図が出来上がったのである(GARRET 1982:293)

 こうした状況を経て、結局イギリスとフランスは、1887年に軍による共同統治を開始することを決めた。やがて1906年には民政に移行し、正式に英仏共同統治領ニューヘブリデスが発足するのである。植民地の首都としては、エファテ島のポートヴィラが選ばれ、そこには共同統治政府(condominium)が置かれることになった。

 植民地となる直前のポートヴィラは、ニューヘブリデスの経済的中心として活動を開始し始めたばかりであった。軍による共同統治が始まる5年前の1882年に、先述したジョン・ヒギンソンの設立したニューヘブリデス・カレドニア社(Compagnie Caledonienne des Nouvelles Hebrides)の店舗がこの地で開業し、周辺に新しいプランテーションが開かれていった。この企業は、ニューヘブリデスのすべての土地の8%にも及ぶ広大な土地を買い占め、フランス本国からの移民の受入れなども行っていた企業であった。ニューカレドニアを本拠地としつつ、1885年にはポートヴィラにニューヘブリデスの拠点を置いて活動を展開したのである(TRYON 1999, BENNET 1957:118)

 植民地化されてからは、ポートヴィラは植民地の首都としての機能をも持つようになり、ニューヘブリデスの政治、行政、経済の中心地としての地位を確立していった。ポートヴィラは、コロニアル・タウンとして、また、英仏などの西洋世界への入り口として発展していくことになったが、首都を離れた地方の島々では、植民地の支配システムがそれほど強く働いてはおらず、植民地行政の中で地方は、いわば「ほったらかし」の状態であった。かろうじて、非カトリックが布教された地域はイギリス系の地方行政府の管理下に、カトリックが布教された地域はフランス系の地方行政府の管理下にという仕組みがあったが、すべての島に地方行政府が置かれているわけでもなかった。

 

2 太平洋戦争前のエスピリトゥ・サント島

 ニューヘブリデスの北部に位置し、ポートヴィラから遠く離れていたエスピリトゥ・サント島(以下サント島と表記)も、その例外ではなかった。しかし、完全に僻地、あるいは離島という位置づけではなかったようである。というのは、1889年には、島の南東端にニューヘブリデス・カレドニア社の商業店舗(trade store) があったからである。これはニューヘブリデス北部の島々に設けられた商業店舗の一つに過ぎなかったが、そこでは、輸出用にコプラなどを集積し、それと引き換えに様々な商品を提供するということが行われていた(BENNET 1957:118)。その意味で、地方の商業活動の一つの拠点であったことも確かであろう。

 1909年には、現在のサンミッシェル地区に、カトリック・ミッションが設立された。ニューヘブリデス・カレドニア社の広大なプランテーションがあるサント島南東部にカトリック・ミッションができたことで、この地はフランス色が強くなっていった。その結果、1920年代には、ニューヘブリデス北部全体を統括するフランス系地方行政府も現サンミッシェル地区に置かれることになった(BENNET 1957:123)。こうして、あたりはフランス系の施設が集まることになり、カトリック教会や病院なども作られ小さな集落が成立していった。このあたりがフランス人居住者によってルガンヴィルと呼ばれていたのである。

 1920年代にはエピ島の綿花とココヤシのプランテーションが急速に拡大していき、一時は、首都のあるエファテ島を凌駕してニューヘブリデス全体の商業活動の中心地となっていった。しかし1930年代になると、ハリケーンによるココヤシのプランテーションの破壊、綿花の継続的な安値などによって、エピ島の活動は弱体化し、それに代わってサント島が台頭してきた。この頃サント島では、ココヤシやコーヒーのプランテーションが拡大され、その重要度を高めていたのである(BENNET 1957:118)。サント島南東部のサラカタ川河口周辺は、こうした商業活動の活発化とともに、緩やかに発展していった。

ルガンヴィルと呼ばれていたところは、既にフランス系の人々の居住する小さな集落となっていたが、サラカタ川河口の西側付近にも、フランス銀行ニューヘブリデス支店(Comptoirs Francaise des Nouvelle -Hebrides)の商店(1)、倉庫、ドック、雇用人の住居などができ、こちらにも小さな集落が成立することになった(GESLIN 1956 :258-259, BONNEMAISON 1981)。こうして、サント島南東部は、サラカタ川の西側にルガンヴィル集落と河口付近の集落という二つの集落を持つことになったが、二つの小さな集落以外は依然として広大なプランテーションのままであった(2)。

 一方、島の内陸部では、原因不明の病気が蔓延して多くの人々が亡くなっていくという事態が続いていた。そうしたことを背景として、1920年代には、ロノブロという預言者を中心とする土着主義運動が大きな広がりを見せるようになった。ロノブロは、まもなく大洪水が起こると予言し、その後、祖先が復活してシドニーの港からカーゴを満載した船に乗ってニューヘブリデスに戻ってくると主張した。典型的なカーゴカルトである。しかし、祖先がなかなか復活しないことに人々はいらだちを覚えた。そこで、彼は、白人入植者がそれを妨害していると主張し、結局この白人を1923年に殺害してしまう。ロノブロは逮捕されこの運動は終焉を迎えた(吉岡 2005:49-50)。

 

3 アメリカ軍の到来

 194112月の日本軍による真珠湾攻撃の翌日、アメリカ、イギリス、オランダは日本に宣戦布告し、太平洋戦争が勃発した(KRALOVEC 1945:31)。日本軍は、19425月にソロモン諸島のツラギとガダルカナルに到着したが、日本軍の次の目標はニューヘブリデスであるとみなされるようになった(WILSON 1956:8)。やがて、日本軍が捕虜を悪く扱ったといううわさが流れるようになり、日本軍がニューヘブリデスにやってくることを恐れたポートヴィラの多くのヨーロッパ人は、ニューカレドニアやオーストラリアに避難して行った。残った人々は、現地の人々(ほとんどがマレクラ島北部の人々)とヨーロッパ人から成る自衛軍をつくり、オーストラリアの軍人に訓練を受けたという。この当時、高瀬貝などを採りにやってきていた日本人がいたが、彼らは逮捕され、財産は没収された(KRALOVEC 1945:55)

 南下して来た日本軍に対してアメリカ軍は、19423月にはニューヘブリデスのエファテ島に前線基地を作る指令を出し、同月500人のアメリカ兵が到着したが、大船団がエファテ島に到達したのは5月になってからであった(WALLIN 1967 Part 1: 16 -18,  DISCOMBE 1979:7, MACCLANCY 2000:114)。アメリカ軍がニューヘブリデスに連合軍の前線基地を作ることを決めたのは、ニューヘブリデスは、南西太平洋で軍の大規模な基地を作るのに最も適したところだと考えられたからである(GESLIN 1956:248)。アメリカ軍は、上陸してからも日本軍の侵略を恐れ、すぐに、ポートヴィラ周辺のパンゴとデヴィルズポイントに大砲を設置し、レンタバオとフォラリという所に砲台を、町の各交差点には見張りを置いた。ポートヴィラ北方のタガベには飛行場が作られ、そこから、ソロモン諸島のガダルカナルに向かう爆撃機が飛び立ったのである(MACCLANCY 2002:116)。

 アメリカ軍は、さらに、新しくソロモン諸島のツラギに基地を置いた日本軍に対峙するため、ソロモン諸島により近い位置にあるサント島に、ポートヴィラよりも大規模な空軍・海軍の基地をつくることを考えた。この計画は、驚異的な速さで実行された。194274日の会議で、729日までにB-17用の滑走路が出来上がらねばならないと告げられたが(WALLIN 1967 Part3:26)、77日の24時には、装備と人員を積んだ船がサント島に向けて出港し、翌8日サントに到着して飛行場建設を開始したという。そして、まさに突貫工事で、729日に1500メートルの滑走路が完成し、その日のうちに4機の戦闘機とB-17が到着しているのである(WALLIN 1967 Part2:29)。

 

4 キャンプ都市

 ルガンヴィルには、 三つの爆撃機用飛行場と二つの戦闘機用滑走路が作られ(MACCLANCY 2002:116)650機以上の飛行機がルガンヴィルを基地とするようになった。そして、一つの飛行場からだけで20万回の飛行が行なわれたと言われている(WILSON 1956:8-9)。一方、 大きな埠頭も作られ、1943年と1944年には、平均して毎日100隻から150隻の船がセゴンド海峡を往来した(GESLIN 1956:260-261)。そしてサント島南部で東側の海に面したパリクロ(またはパレクラ)には、当時世界一の巨大な乾ドックが作られた(MACCLANCY 2002:116)

 日本軍の攻撃がないことが分かってからは、ルガンヴィルは巨大な供給基地となった。そこには、近代戦争のほとんどの装備がそろっていた。アメリカ海軍のためだけでも、トータルで85,000立方メートルの容量をもつ倉庫が建てられ、これらの倉庫では、50,000トンの物資が貯蔵されていたという。供給基地としてのルガンヴィルは、1ヶ月に200隻以上の船の給油を行うことができた。また供給だけではなく、修理基地としても活躍した(WILSON 1956:9)。

 結局ルガンヴィルには、巨大な海軍工廠、50km以上に及ぶ道路、六つの埠頭、電話システムなどが整備された。基地はセゴンド海峡の西の端からタートル湾にいたるまで広大な空間に渡って広がっていたが(地図1参照)、それらのどの場所も、100メートルも行かないうちに1つ以上の建物、例えば事務所、宿営地、かまぼこ型宿舎、テニスコート、運動場などがあったと言われている(MACCLANCY 2002:116)。サラカタ川の河口あたりから東へ行って埠頭も含めた地域が、海軍工廠の中心で、さらに東へ数キロのところに海軍工廠の端のキャンプがあった。この間の工廠にはテントではなく、かまぼこ型住居が作られた。この鉄製のかまぼこ型住居は、現在もルガンヴィルのあちこちにその名残をとどめている。また、工廠の後ろの高台に二つの大きな病院があったが(GESLIN 1956:263)、ルガンヴィル全体では四つの巨大な病院とその他小さな病院が多数作られ、戦争で傷ついた兵士達がサント島に送られてきたという(WILSON 1956:9)。



               地図1 エスピリトゥ・サント島

 すべてのキャンプ地には電気と水道が配備された上、アオレ島には巨大なリクリエーションキャンプが作られた。それぞれのキャンプには野外映画館があり、商店は、8時から12時、そして14時半から17時まで開いていた(GESLIN 1956:263)。ちなみに映画館は実に54箇所もあったといわれている。ルガンヴィルは、ちょっとした西洋の都市の規模だった(MACCLANCY 2002:116-117)。ルガンヴィルは、1944年までに10万人以上を擁する規模になり、50 万人以上が出入りしたと言われている。最初は、人々は戦闘服を着て生活していたが、直接の戦闘の危険がなくなってから、基地は変わっていった。戦闘員部隊は多かったが、それらは訓練のため、あるいは休息のために一時的にやってきた人々であった。いたるところで遭遇する軍人の多くは、エンジニアであったり、現場監督であったり、工員であったりしたのである(GESLIN 1956:257-258)。

 アメリカ軍が到着してから、それまでニューヘブリデスで流通していたイギリス・ポンドとフランス・フランに代わって、アメリカ・ドルが流通するようになった。洗濯屋、骨董屋、レストランなどが開業していたが、アメリカ軍相手の最も重要な業種は洗濯屋であった(3)。また、貝製品、べっ甲、豚の牙などを売る個人的な商店もあった。そこでは、べっ甲のペーパーナイフや腕時計は30ドルだったが、豚の牙はもっと高かった。海軍のアメリカ人たちは、島々に豚の牙を求め歩いたが、その結果、1946年には、ニューヘブリデス中で豚の牙はほとんど見つからないくらいになってしまったと言われている。ルガンヴィルでは、また、毎火曜日の朝、サント島南部の住人がバナナや季節のフルーツを売りにきた。毎朝少なくとも3トンものバナナが売られ、共同統治政府の定めた額で取引されたという。こうして何千ドルもが住民の手に渡ることになった(GESLIN 1956:272-273)

 ルガンヴィルの軍人は、基地のよさを知っていたので、たまにやってきた他基地所属の部隊をうらやむことはなかったが、サンディエゴや本国の基地所属の部隊に対しては、あからさまなうらやみを持っていたと言われている。このうらやみの気分というのは、基地が建設された当初からあったという。というのは、ルガンヴィルは、前線基地ではあったが、結局は戦闘に巻き込まれたのではなかったのであり、兵士たちは退屈していたのである。1942年、日本軍の飛行機がやってきて爆撃をしたことがあったが、一度きりで、それもほとんど被害を出すことがなく、結局、戦争状態にあるという雰囲気を兵士たちに持たせることはなかったのである(GESLIN 1956:279)。そんな状況だったので、ほとんどの隊は退屈しホームシックにかかっていたという。自分が世界のどこにいるのかさえ知らないものもいたし、ガイドなしでブッシュに入っていって迷い、死んだものもいたと言われている(MACCLANCY 2002:117)。

 

5 メラネシア人の雇用

 ポートヴィラではニューヘブリデスの現地人、すなわちメラネシア人を雇用することになったが、彼らは主としてタンナの人々で、現地の慣習を重んじて短期の雇用だった。そのため、常に労働者が入れ替わり、多くのメラネシア人がアメリカ人と共に過ごすことになった。彼らは、ポートヴィラの入口でリーサーヴィルと名づけられたキャンプで宿営した。彼らはアメリカ人と同じ物資や装備の支給を受け、同じ食事を提供された(GESLIN 1956:277)。ルガンヴィルでのメラネシア人雇用も、ポートヴィラと同じ基準で賃金が支払われた(WALIN 1967:27)

 ニューヘブリデス全体では約10,000人のメラネシア人が、3ヶ月契約で、荷おろし、制服の洗濯、召使などとして雇用された。給与は良く、彼らはアメリカ人の富と数に驚いたと言われている(MACCLANCY 2002:117)。現地人雇用のための労働者徴集は、アメリカ軍の要請を受けて、英仏共同統治政府が行った。統治政府の労働者徴集は当初半ば強制的だったようで、嫌がって逃げようとした者が鞭でたたかれて連れて行かれたという報告もある(MOON AND MOON 1998:65)。あるアンバエ島出身者も、次のように述べている。「アメリカ人達が英仏共同統治政府に彼らのために働く男達の供給を頼んだので、政府は男達を確保するために船をよこした。彼らはきちんと説明することもなく、男達を村の中で追いかけた。警官が銃をもってやってきて、アメリカ人達のために働かせる目的で男達を船に乗せた。・・・誰も何の説明も受けなかった、つまり、彼らが殺されるのかどうかも告げられなかった」。

 しかし、それは次第にまともなものになっていったらしい。このアンバエ島民は、次にやってきたときは、きちんと説明し、行きたい者がいたらそうさせるように村長に告げていたと述べており、さらに続けて、「人々は、アメリカ人の所にいった連中は良い生活をしていることを知った。彼らはイギリスやフランスよりもアメリカが好きだということも知った。というのは、戦争前は気前の良いイギリス人の主人でさえ1日に1シリング、そうでなければ6ペンスの支払いだったが、戦時中は、1日に6シリングの支払いを受け、その後10シリングになった。・・・アンバエも含めた多くの人が、アメリカが支配することを望んだ・・・」と述べている(MOON AND MOON 1998:86)。

 戦争前の相場としては、コプラは1トン1ポンド、35キロ袋の米は10シリングという価格に対して、1日プランテーションで働いて1シリングの収入であったと言われており(MOON AND MOON 1998:111-112)、この情報と一致する。1日に1シリングということは、20日(1ヶ月の平日数)働いて1ポンド(16ペンスの場合は10シリング)に過ぎなかったわけで、それに比べれば、20日働くと10ポンドの収入があったことになる戦時中は、実にその10倍から20倍の給与が支払われていたことになる。また、別の情報では、「19歳のときアメリカがやってきた。船の荷物おろしの仕事をして、月40ドルもらい、住居や食料も供給された」。という(MOON AND MOON 1998:97)。当時の米ドルとポンドの関係は1:4程度であったことを考えれば米ドルで40ドルは10ポンドに相当することになり、これが当時の給与の相場であったと考えることができよう。もちろん、給与の額は時期や仕事の内容によってもまちまちであり、ペンテコスト島出身のある男性は、同島出身者のまとめ役として働いていて月に6ポンド、それ以外の場合は月3ポンドの支払いしか受けなかったという(MOON AND MOON 1998:65)。しかしこの場合でも、イギリスとフランスの統治下にあった時代と比べると、かなり高い給与が支給されていたということになる。

 一方、アメリカ軍にはメラネシア人と同じ黒色系の人々がいたが、彼らが、白人と並んで仕事をしている姿に人々は強い印象を受けたと言われている(MACCLANCY 2002:117)。人々は「彼らは白人のように何でも知っている・・・肌の色は私と同じなのに」と述べている(Lindstrom and Gwero 1998:259)。そして白人と黒人の対立している姿も、人々は観察しており、ホテルで白人が食事をしている時に黒人が入ってきたら、白人は「このホテルは白人専用だ」と言ったので喧嘩になった、などの話も記憶されている(LINDSTROM AND GWERO 1998:262)。

 メラネシア人は好んで黒人と交流を持ったと言われている。「彼らは我々とほとんど同じだし、彼らの歴史のいくつかは我々と同じだ」というのが理由の一つであった。そしてプランテーションで働いていた女達は、アメリカ人と関係を持ったと言われている。戦後アメリカ人の血統を引いた子供をあまり見ることはないが、いるとすれば黒人であり、ヨーロッパ人のそれは非常に少ないという認識を人々は持っている(MOON AND MOON 1998:114)。しかし一方で、メラネシアの黒人はアメリカ軍の黒人を全面的に賞賛していたわけではなく、「黒人は危険そうに見えた」という感想を持つものもいた(MOON AND MOON 1998:107)

                                                                               

6 軍の引き上げとミリオンダラー岬

 太平洋戦争が終結に向かいつつあった1944年、ポートヴィラでは装備が解体されることになった。それは、持てるものは持って帰るがそれ以外は廃棄するためであった。結局、トラック、ジープ、事務用品などメレ湾に捨てられたのである。ポートヴィラでは、1944年の11月末に参謀本部は引き上げたが(GESLIN 1956:280)、ルガンヴィルは、1945年になっても相変わらず活気や騒音に溢れ、絶えざる車の列が往来を走っていたと言われている。ただ、戦闘はフィリピンや日本の方に移っていったことは知られていた。そして、海軍の病院に患者を搬送する病院船はもはや来なくなったし、戦闘船はまれにしか通らなかった(GESLIN 1956:281-282)

 莫大な量の装備をどうするか協議され、軍事上の装備、例えば、飛行機のエンジン、飛行探査機、武器などは梱包して持って帰ることになった。戦争によるダメージの賠償を請求していたプランテーション経営者に対しては、その敷地内にあるアメリカ軍関係のものはすべて与えるということを見返りに、その賠償請求をあきらめるよう説得が行われた。「動くもの」は様々なカテゴリーに区分けされ、標準的な質のものは売られた。

1945年の8月と9月は、ルガンヴィルはくず鉄の巨大な見本市と化したと言われている。特に、東海岸側のスランダにはいくつもの野外広場があるが、それぞれで、ジープ、トラックなどが販売された。乗り物は大きいものほど、安く売られた。ジープはその状態に応じて100ドルか200ドルだが、8トントラックは25ドルで購入できたという。そして、先物買いの権利は、フランス行政府、イギリス行政府、共同統治政府に与えられた(GESLIN 1956:281-2)

 共同統治政府は、海軍工廠の巨大な二つの倉庫にある不確定のものを丸ごと購入した。その中には、多量の道具類、事務用品、冷蔵庫、洗濯機、海軍大将らが用いた銀食器などがあった。ニューカレドニア、オーストラリア、ニュージーランドなどからも買い付けにサント島にやってきたという。魚雷発射装置付きの短艇などの船も売られた。入植者の中には、海軍設営部隊のある基地をまるごと買った者もいた(GESLIN 1956:283, MACCLANCY 2002:119)

 これら売られたものもあったが、しかし、大多数の品物は廃棄された。すべてのものは海峡の東の入口にある無人の海岸に集められ、山のようになるとブルトーザーがそれらを海に押し入れたという。海面いっぱいになると、その隙間に土やサンゴをつめて乗り物が通行できるようにした。こうして土手が出来上がり、1945年の終わりには、この土手は4 ヘクタールにもなって海を埋めた。それらは、基本的に、くず鉄、機械や乗り物の残骸、砲弾の薬莢、錆びたケーソンなどからなっていた。この土手の端には、たくさんのクレーンが立てられ、数え切れないトラックの列がやってきて、クレーンの前に積んできた事務用品、冷蔵庫、工作機械などをおろし、クレーンはそれらを海に投棄した。トラックも投棄された。新品の物が投棄されはじめると、現地人労務者を乗せたトラックがやってきてそれらの物を収集していった。また、投棄物を拾うために、ボートに乗って海からやってくる人々もいた(GESLIN 1956:283-284)

  アメリカ軍が大量の物資を投棄したところは、今日ミリオンダラー岬と呼ばれている。ヴァヌアツの人々はそれについて異口同音に回想している。あるマレクラ島民は、次のように回想している。「我々はマレクラからカヌーに乗ってミリオンダラー岬に来た。何でもあった。アメリカ人は持っているものを何でも捨てた。大きなゴミの山がミリオンダラー岬にあった。トラック、木材、マットレス、ズボン、などがあり、みんな、ここで生活した。何かが足りなくなったら、ここで欲しいものは何でも見つかった。そして欲しいものを持って行くことが出来た。こんなものを見たこともない。私たちは、それがとても大きかったので、見て驚いた」(LINDSTROM AND GWERO 1998:136)。

 また、サント島民は、「戦争の終わりに何日も、アメリカのトラックはミリオンダラー岬に残り物の食料や衣類を含めた全てのものを投棄した。人々はマレクラからカヌーでサントまでやってくるし、我々はホグハーバーから歩いてやってきて、シーツやシャツやズボンを拾い集めた」という(MOON AND MOON 1998:112)。そしてアンバエ島民も、「戦争の終わりに、アメリカ人は全ての物をミリオンダラー岬の海に投げ入れたが、海岸に残ったものもあった。多くの人は、それをとりに行った。我々も何回もボートでいき、食料や衣類を手にいれた」と述べている(MOON AND MOON 1998:85)。

 

7 戦後                                                              

サント島南西部および中西部では、アメリカ軍を中心とした連合軍が去ってからすぐに複数の土着主義運動が起こった。最も大きなものは、ツェックという男が指導者となったネイキッド・カルトと呼ばれる運動であった。1940年代になってもサント島内陸部では、病気のために死者が続出していた。ツェックは浄化が必要だと考えて、人々にアダムとイヴの時代に戻ることを提唱し、裸になることを推奨した。この運動は、独自の言葉を使い自分たちだけの村落を形成するという意味でコミュニタスを目指した運動であった。これに対して、1920年代のロノブロの運動と同じく、カーゴカルトの性質を強く持つものも各地で生じた。しかしそれらの運動では、「祖先がカーゴをもたらす」というモチーフは、「アメリカからカーゴがやってくる」というモチーフに変換されていた(吉岡 2005:52-53)。太平洋戦争終結後、アメリカ軍の帰還を待ち望むカーゴカルトがメラネシア各地で起こっているが、戦時中のアメリカ軍のメラネシア人に与えたインパクトの強さを物語っていると言えよう。これらサント島内陸部の人々を広く巻き込んだ土着主義運動は、1950年代には終焉を迎えた。

 一方、これらの土着主義運動の直接の影響を受けなかった島の南東端のルガンヴィルは、既に述べたように、1945年にはまだ活気に溢れていたが、やがて部隊が去り、キャンプの出入り口が閉められると、次第に草が生えて荒れていった。1947年から1948年には、いくつかのキャンプは、藪に覆われた状態になっていたという(GESLIN 1956:284)。しかし同時にキャンプ都市の中央部を占めていた地区の土地が、1950年から1960年にかけて、それらを所有していたニューヘブリデス・フランス社(Societe Francaise des Nouvelle -Hebrides:前身はニューヘブリデス・カレドニア社) フランス銀行ニューヘブリデス支店によって分譲が開始され、主にヨーロッパ人が区画地を購入していった(BONNEMAISON 1977:66)。キャンプ都市ルガンヴィルは、全体としては廃墟となっていったが、その中心部は、小さいながらサント島在住のヨーロッパ人たちの居住地域となっていったのである。

こうしてルガンヴィルは新たな歩みをスタートさせたが、内陸部での現地人による土着主義運動とは裏腹に、ヨーロッパ人入植者たちのプランテーションは、経済的に活気を見せていた。既に述べたように、サント島は、太平洋戦争前の1930年代からココヤシとコーヒーのプランテーションによって一定の経済的な地位を持っていたが、戦後は、コプラ産業によって発展期を迎えていた。ポートヴィラまでの長い航海に不満を持っていたサント島の農園主と、船荷スペースの不足に直面していた船主はともに、1941年に連合軍がつくった埠頭を使うことを考え始めた。そして結局、英仏共同統治政府は、1951年にルガンヴィルの港からの出航許可を認め、1953年にはそれを通関手続きのできる港とした。これによって、ルガンヴィルはニューヘブリデスにおける一つの経済センターとして活動することになった(BENNET 1957:120)

 この当時のルガンヴィルは、サラカタ川を挟んで東西二つの地区から成っていた。一つは、サラカタ川の西側に伸びる広い区域で、ここには、フランス銀行ニューヘブリデス支店の商店とフランス系公立学校、倉庫、ロザリー社の埠頭、バーンズ・フィリップ社の商店があり、映画館、英仏共同統治政府のオフィス、カトリック・ミッション、フランス地区行政府、病院があった。 1909年に設立されたミッションと1920年代に開設されたフランス地区行政府、フランス銀行ニューヘブリデス支店の商店以外の家屋群は戦後作られた。労働者の宿舎や警官宿舎に住むアジア人や現地の人々を除けば、この区域には例外なくヨーロッパ人が居住していた(BENNET 1957:123 )

 サラカタ川の東側の区域は、海岸側のイギリス地区行政府、カトリック学校などの公的な地区と内陸側のベトナム人居住区に分かれており、商店や住居、カフェ、バー、銀行、ホテル、倉庫などが点在していた。連合軍の兵舎であったかまぼこ型の宿舎は、倉庫やベトナム人の居住として使われる以外は、羽目板張りの家屋に取って代わられた。西区域と違い、東区域には多くのアジア人が居住し、ヨーロッパ人やフランス領であるウォリス島からの移住者なども一緒に居住していた(BENNET 1957:123)

 表1は、1955年のルガンヴィルの人口構成を示しているが、英仏共同統治政府の首都であったポートヴィラの人口が1,340人であったので、それよりもルガンヴィルの人口の方がわずかではあるが多かったということになる(BENNET 1957:123)。その大きな原因は、ベトナム人のルガンヴィル居住である。契約労働者としてニューヘブリデスにやってきたベトナム人は、契約が切れた1946年には大量に帰還したが、それ以降も、職工、使用人自営の床屋、仕立て屋などとしてニューヘブリデスに残った人々がいた。彼らは、住宅の不足するポートヴィラではなく、連合軍のベースキャンプが大量の宿泊施設を残していたルガンヴィルに向かったのである(BENNET 1957:124, MACCLANCY 2002:127)

                    表1 1955年のルガンヴィルの人口構成                      

  

ヨーロッパ人

アジア人

オセアニア諸島民

 

 

 

 

フランス人

イギリス人

ベトナム人

 中国人

 現地人

ウォリス島民

  390

    58

    700

   46

   170

   20

          448(32%)

       746(54%)

         190(14%)

 1384

   (BENNET 1957:123 Table I より) 

 

8 メラネシアン・タウンへ

その後ルガンヴィルは、ゆっくりと発展していった。港は、コプラの積出港としての役割を堅固なものにしていった。また、1957年にはサント島南東端のパリクロに日本の南太平洋漁業会社(South Pacific Fishing Company)が設立され、多くの漁船が出入りするとともに、魚を冷凍して世界へ輸出し始めた。さらに、1963年に獣医がニューヘブリデスに来島し、家畜の健康管理が行われ、牛肉の輸出が可能となった。それに応じてポートヴィラだけではなくルガンヴィルにも蓄殺場と冷凍所が建設され、牛肉缶詰工場でコーンビーフが作られるようになった(MACCLANCY 2002:126-127, BONNEMAISON 1977:66)。これらの企業、工場、あるいはココヤシのプランテーションなどで働く労働力として、メラネシア人も次第にルガンヴィルに集まるようになった。なお、1946年以降も残留したベトナム人は、フランス行政府にベトナム帰還を要請していたが、インドシナ戦争のためそれが遅れていた。しかし、1963年にようやく帰還が実現し、ほとんどのベトナム人はニューヘブリデスを後にした(MACCLANCY 2002:127-129)

既に述べた1950年から1960年までの間分譲された332の区画地は、ルガンヴィルの中心地であるサラカタ南部、カナル、サンルイ南部であったが、そのうち203の区画地が個人所有となり(地図2参照)、ヨーロッパ人あるいはヨーロッパ人との混血によって所有された部分が64.5%、商売をしている中国人によって所有された部分が約20%であった。一方、1960年から1968年にかけて230区画が分譲された。そのうち、戦後すぐにヨーロッパ人に購入された現在のペプシ周辺の土地、およびニューヘブリデス・フランス社のもつ昔は沼地であったシャピ南部の土地が120区画あった(5)。これらの土地は安く、分割払いも効いたので、メラネシア人が購入しやすく、彼らはこれら安い土地の購入者全体の72.6%を占めた(BONNEMAISON 1977:66-68)。この当時から、彼らを対象とした安い土地の分譲が始まったが、1968年から1974年にかけて販売された土地のうち、周辺部の土地(現在のサンルイ北部、ソルウェイ、シャピなど)が373区画ニューヘブリデス・カレドニア社などによって分譲され、そのうち72.4%をメラネシア人が取得した。結局、1974年までに売り出された土地の区画のうち、現地の人々が購入した区画地は343区画となった。表2は、これらメラネシア人が購入したルガンヴィルの土地と、1974年時点での各島出身者の人数を示してある(BONNEMAISON 1977 :71-72)。彼らは、都市部での土地所有者となったのである。

 

                      表2 出身島別の購入区画地と人口                         

 出身島

   購入された区画地の数

1974年時点の人口

                                                       

1950-1968

 1968-1974

 

 パーマ

 ペンテコスト

 アンバエ

 アンブリュム―ロペヴィ

 マレクラ

 サント

 バンクス

 エファテ―シェパード

 マロ

 その他

   27

   15

   11

    9

    8

    3

    2

    3

    2

    2

     76

     49

     40

     28

     28

     18

     13

      5

      3

      1

  103

   64

   51

   37

   36

   21

   15

    8

    5

    3

      169(6.4%)       249(9.5%)

   302(11.5%)

      171(6.5%)

      233(8.9%)

      924(35.2%)

      258(9.8%)

      140(5.3%)

      129(4.9%)

       52 (2.0%)

     

   82

    261

  343

     2627(100%)

(BONNEMAISON 1977:71 Tableau 40, 72 Tableau 41 より作成) ()

 



                                   地図2 1998年当時のルガンヴィル

 すでに述べたように、1950年代の前半ではヨーロッパ人はサラカタ川の西区域、アジア人は東区域に集中して居住していたが、70年代の前半には、ヨーロッパ人もアジア人もサラカタ中央部やカナル地区に多く居住するようになった。そして、これらの地区には、彼らの2.5倍以上のメラネシア人が居住し、現在のソルウェイやマンゴやシャピなどの郊外の地区は、彼らメラネシア人のほぼ独占場となった(BONNEMAISON 1977:83)

 1967年と1972年のルガンヴィルの人口構成は、表3のとおりである。1967年には、人口の約60%がメラネシア人で占められるようになり、1972年にはそれが68%にまで増加していったのである。こうして、アメリカ軍のキャンプ都市として出発したルガンヴィルは、メラネシアン・タウンとしての道を歩むようになっていったのである。

 

            表3 ルガンヴィルの人口構成

 

メラネシア人*   ヨーロッパ人  他の太平洋諸島民    その他  アジア人

1967

1534        310           159           323        176

2564

1972

2630        358           275           366        175

3866

(BONNEMAISON 1977:62 Tableau 28より、*BONNEMAISONNeo-Hebridaisと表記)


 1974年当時のルガンヴィルは(6)、現在と同様に、サラカタ川のすぐ東側が「中心街」であった。アメリカ軍の作った四車線分ほどある広いメインストリートの両側に、中国人などの商店があり、銀行、郵便局、バーンズフィリップ社、イギリス地区行政府の建物、木賃宿などがあったが、ビルと呼べるようなものはほとんどなく、「中心街」の規模は小さく、道幅の広さとあいまってがらんとした状態であった。観光客が来ることはまずなく、木賃宿には、パリクロで働く日本人10人ほどがいて、そこを定宿としていた。

 ポートヴィラが植民地の首都として、海外からの訪問者を受け入れ、ヨーロッパ人が町を闊歩する様相を呈していたのとは対照的に、ルガンヴィルはメラネシア人の生活する姿が眼前に広がる田舎町であった。そして、前者では英語とフランス語が幅をきかせていたのに対して、後者はピジン語での会話を街角で耳にすることも多かった。ルガンヴィルは、様々な島からやってきた人々が、自らの島の文化を背景にしながらも、共通の都市生活をピジン語で媒介しながら生活するメラネシアン・タウンとなっていた。しかし、この時点で政治的にはまだタウンの主役はメラネシア人ではなく、ヨーロッパ人であり日本人も含めたアジア人であった。メラネシア人の生活する町ではあるが、彼らは被雇用者であり、ヨーロッパ人や日本人は、彼らのボスでありマスターであった。彼らが主役になるのは、もちろん、独立後のことである。

 ところで、先ほど、1955年のルガンヴィルの人口は、首都のポートヴィラの人口よりも多かったと述べたが、ベトナム人が人口の約半分を占めており、彼らがいなければ、ルガンヴィルはポートヴィラの約半分の人口だったことになる。こうした傾向はそのまま継続し、最初の国勢調査が行われた1967年、二回目の1979年でも、ルガンヴィルの人口はポートヴィラの人口の半分であった。しかし、1980年にニューヘブリデスはヴァヌアツ共和国として独立し、ポートヴィラは独立国の首都となった。その結果、1989年以降の国勢調査では、ポートヴィラはルガンヴィルの約3倍の人口を持つようになった(表4)。

表4 ルガンヴィルとポートヴィラの人口比較

 

ルガンヴィル

ポートヴィラ

1955

    1,384

       1,340

967

    2,564

       5,208

1979

    5,183

      10,601

1989

    6,965

      18,905

1999

   10,738

      29,356

   (BENNET 1957:123 VANUATU NATIONAL STATISTICS OFFICE 2000:5 より作成)


 独立運動は、
1970年代からポートヴィラを中心に展開された。早期独立を求めるイギリス色の強いヴァヌアアク党とフランス色の強い穏健派諸政党との間で論争が繰り返されたが、結局1980年にヴァヌアアク党が独立宣言をすることになった。しかし、その直前、ヴァヌアアク党の政策に反対していたナグリアメルという団体が、サント島で分離独立の暴動を起こしたのである。ヴァヌアアク党主導での独立に反対していたフランス人たちもこの暴動に参加し、ルガンヴィルは一時ナグリアメルによって占拠されたが、ヴァヌアアク党が独立宣言を行い、ヴァヌアツ共和国としてパプアニューギニアに軍隊の派遣を要請し、この暴動は鎮圧されることになった(吉岡 2005:2)。独立後は、暴動に加担したことを理由に、フランス人排斥運動が起こり、ルガンヴィルの多くのフランス人は出て行った。

 独立は、ヴァヌアツの二つの都市部をますます特徴あるものに分化している。首都のポートヴィラは、デューティ・フリーの町として海外から観光客を集め、都市機能の充実と同時に、都市そのもののグローバル化を進めているといえる。一方ルガンヴィルも、都市機能は充実してきているが、村落がタウンの中に持ち込まれ、都市と村落が混交する独特の町となっている(cf. 吉岡 2002, n.d.)。ルガンヴィルは、メラネシアン・タウンとしてますますローカル化を進めていると言えるように思える。

 

おわりに

 太平洋戦争時、太平洋の各地の島では連合軍の基地が作られたが、それらの基地とサント島のキャンプ都市の違いは以下のように整理できる。一つはその規模の大きさである。当時の太平洋で10万人規模の基地はサント島にしかなかったし、規模の大きさを維持するための都市機能の完備という点でも、他の基地の追随を許さなかった。二つ目は、ポートヴィラもそうだが、オセアニアでは、既にコロニアル・タウンとして成立していたところに本部を置いて基地作りが行われた例が多いが、ルガンヴィルの場合は、プランテーションを切り開いて作られたということである。三つ目は、二つ目と関連するが、戦後の軍の引き上げとともに基地は廃墟となり、都市のインフラストラクチャーだけが残ったということである。このインフラストラクチャーを利用して居住を再開していくという作業は、いわば、今日の宅地分譲によって出来る住宅団地と同じやり方であったということになる。これが、コロニアル・タウンとして出発したポートヴィラに比べると、より言語の異なる島ごとに出身者が分かれて居住するという現実を生み出し、多様な村落文化をそのまま都市生活の中に持ち込む余地を大幅に許す現在の状況を導いたと思われる(吉岡 2002)。

 以上のように独特の位置にあったサント島のキャンプ都市は、また、コロニアル・タウンとは異なった空間を生み出していた。後者は、既に述べたように少数の植民者によって作り出された西洋世界への入り口であったが、前者は、圧倒的な人口によって形成される西洋世界そのものであった。しかも、植民地支配の権力関係が如実に示されるコロニアル・タウンと違って、キャンプ都市は、植民支配をしている人々をも支配する別の存在、つまりアメリカ軍によって作り出され、植民地支配体制が消滅する空間だったのである。そこでは、アメリカ軍がそれまでのイギリスやフランスの賃金とは比べ物にならないくらいの高額な賃金で、そしてそれまでの通貨とは異なる米ドルで、メラネシア人を雇用した。しかも、メラネシア人と同じ黒人のアメリカ兵が、メラネシア人たちが見たこともないような「富」を白人兵と共有していたのである。

 まるでカーゴカルトが目指した理想郷が実現したかのようなこのキャンプ都市は、ミリオンダラー岬でのアメリカ軍による「富の廃棄」という行為によって終焉を迎えることになる。救世主としてのアメリカ軍を待つ運動が、戦後すぐにニューヘブリデスの各地で起こったが、キャンプ都市という存在を自分なりに理解しようとしたことの一つの帰結であったと言えよう。

 ルガンヴィルは、ヴァヌアツ共和国の小さな田舎町であり、オセアニアという地域に限定しても、決して重要な都市というわけではない。しかし、その歩んできた歴史的なプロセスは、都市部の成立という点に関して、また、太平洋戦争との関連という意味でも、興味深い事例を提示してくれるのである。

 

 

1)ニューヘブリデス・カレドニア社は一時ニューヘブリデスでの通貨を発行していたが、やがて、それがフランス銀行ニューヘブリデス支店に取って代わられることになり、フランス系の通貨はここが発行することになった。詳細はわからないが、1889年に作られたニューヘブリデス・カレドニア社の商店に代わって、あるいは、それを引き継ぐ形で、フランス銀行ニューヘブリデス支店の商店が出来たように推測される。

2)当時の海兵隊メンバーの一人は、エファテ島上陸時のポートヴィラはこぎれいなタウンであると記しているのに対して、サント島上陸時には、諸島の中で最も文明化されていないところいう印象を持っている(HEINL 1944:229,249)

3)1943年にはポートヴィラの空港であるバウアーフィールドのそばの平均的な洗濯屋の月収は平均1000ドルで、ルガンヴィルではその4-5倍の収入であったと言われている(GESLIN 1956:271)が、額が大きすぎるという嫌いはあるので、正確なところはわからない。

4)BONNEMAISONTableau 41の島ごとの人数では、「マロ」 と「その他」をあわせて52人となっている。しかし、それでは合計が2627人にはならない。合計が間違っているかMalo の人数が参入されていないかであるが、1972年のメラネシア人人口が2630人である(BONNEMAISON 1977:62)ことから類推して、合計の数があっておりマロの人数が抜けていると判断し、この表ではマロの人口を逆算して追加している。

5)バラック地区の52区画も同時に販売されたが、これらは主としてヨーロッパ人によって購入された。しかし、ほとんどは将来のためのものであり、居住しなかった。

6)筆者は、1974年に始めてニューヘブリデスを訪れたが、そのとき、ルガンヴィルにも滞在している。

 

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