つくられた民族国家ーメラネシア世界に於ける独立の意味ー


 我々はヴァヌアツの人間だと喜んで言おう。神がこの地を我々に与えた。我々は神に深く感謝する。我々は神の下では強く自由だ。我々は皆兄弟だ。我々はヴァヌアツの人間だと喜んで言おう。

 我々はヴァヌアツの人間だと喜んで言おう。様々な伝統的慣習がある。今も様々な考え方がある。しかし、我々は一つなのだ。これこそが我々の道だ。我々はヴァヌアツの人間だと喜んで言おう。

 我々はヴァヌアツの人間だと喜んで言おう。我々は、我々の全ての島ですべきことがたくさんあるのを知っている。神が我々みんなを助けてくれる。彼は我々の父なのだ。我々はヴァヌアツの人間だと喜んで言おう。

 これは、一九八0年独立をはたしたメラネシア地域の島嶼国家、ヴァヌアツ共和国の国歌である。太平洋地域の島々は、植民地化の歴史を経て、最近になって独立運動が活発になったところである。このような地域での独立運動は、通常脱植民地化の運動と捉えられる。確かに、この国歌の中でも白人の植民地支配から脱却した喜びが歌われている。しかし、少数の白人支配政権が、多数を占めるメラネシア人の手による政権に代わったというだけで、脱植民地化が達成されたと判断出来るであろうか。ヴァヌアツの国歌の中でしばしば登場する神というのは、キリスト教の神である。なぜ、非キリスト教世界にあったメラネシア人が、自らの民族国家建設を歌うに当たってキリスト教の神を持ち出すのだろうか。我々は、植民地化が引き起こした結果はどういうものだったのか、もう一度考え直す必要があろう。

植民地状況という特殊空間

 植民地化の問題は、成長する資本主義との関連で論じられることが多い。つまり、植民地化を目指す社会は、自らの経済的利益を追求して植民地化される社会から搾取する、というのである。そして、しばしば、こうした状況はプロレタリアートからの搾取と同一視される。しかし、植民地化された民族とプロレタリアートを同一視するという見方は、極めて一面的なものと言わざるをえない。というのは、植民地化は、経済的要素だけが切り離されて一人歩きすることにより行われるのではなく、現実には経済を初め、行政、布教活動という相互に分離して考えることが難しい三つの力によって行われるからである。従って、たとえ、植民地化の動機・目的が経済的利益の追求であったとしても、それが植民地に結果として生じた状況を一義的に規定するとは限らないのである。さらに、この点に関して抑えておく必要があるのは、植民地化は、ほとんどいつも異文化接触という出来事を伴っているという事実である。相異なる文化が全面的に接触する。その結果、当然のことながら、経済的側面だけでは割り切れない、複合した一種独得の世界が植民地に生まれる。それが、植民地状況という特殊な世界なのである。
 ジョルジュ・バランディエは、その著『黒アフリカ社会の研究』の中で植民地状況という概念を提出し、その特質を次のように列挙している。「物質的に劣る多数の原住民に対して、独断的な人種的(あるいは種族的)および文化的優越の名の下に、「人種的」および文化的に異なる少数外国人がおこなう支配。機械を基礎とした、強力な経済の、テンポの早い、キリスト教起源の文明に対して、複雑な技術のない、遅れた経済の、テンポの遅い、根本的に「キリスト教的でない」文明という、異質な文明間の関係。被支配社会は道具にされるが、その道具の役割によって理解される二つの社会の関係の対立的性格。支配を維持するために、「力」だけでなく、一連の偽りの正当化とステレオ・タイプの行動にも頼ること、などである。」
 太平洋世界での植民地状況は、バランディエの示した状況よりもっと過酷である。そこでは、彼の言う「二つの社会の関係」は、さらに偏っているからである。植民地化は、基本的に、既に述べた三つの力を通して、西欧の文化がそれ以外の文化に押し付けられて行く過程を内包している。そして、これは、強制的に、しかも西欧=植民地化する社会の文化だけが有利な条件におかれるように仕組まれた、いびつな異文化接触なのである。その結果、規模の小さな太平洋の島々に生まれた植民地状況は、植民地化する側の文化的論理が、植民地化される側の文化理論を飲み込んで行く特殊空間となったのである。
 植民地状況下では、様々な対立関係が生じる。バランディエは、道具として利用されることから生まれる「対立的性格」というものを指摘しているが、それは植民地化する側と植民地化される側との対立であり、最終的に独立運動へと結び付くものである。太平洋においてもこうした対立が生まれ、独立運動が起こった。しかし、植民地状況がつくり出す「対立関係」は、これだけではないということは、言うまでもない。植民地化される側内部での対立もまた生まれる。冒頭の国歌をつくったヴァヌアツでは、この対立が独立前夜、分離独立の暴動という劇的な形で吹き出したのである。そして、この植民地化される側内部での対立こそ、民族国家や独立の意味を問いただすのである。

メラネシアの伝統的世界

 ヴァヌアツは、メラネシア地域(つまり、太平洋の中でも赤道より南、日付変更線より西の海域)に浮かぶ島々の中では、もっとも最近独立したところである。現在、この地域には、ヴァヌアツの他にパプア・ニューギニア、ソロモン諸島、フィジーという三つの独立国がある。ヴァヌアツは、メラネシア世界の例にもれず、個々の言語・文化単位が極めて小さいところである。人口十一万人あまりしかないが、一00を越える異なる言語が存在しているのである。平均すれば、ざっと一000人で単一の言語・文化をもった社会をつくっていることになる。つまり、アジアやアフリカなら村落一つ分にもならない程の人数で、独自の文化を形成しているわけである。従って、通常同一の島の中でも異なる言語・文化を持ったいくつかの社会に分かれる。ある村から山道を歩いて二時間もゆけば、全く別の言語をしゃべり、別の社会組織、宗教体系等を持った村落に出会うことは珍しいことではない。もちろん、伝統的に、近隣する諸社会とは何等かの関係を持っていたが、基本的にそれらは外の世界であり、個々の社会に属する人々の内の世界は、極めて小さかったのである。
 人々はこうした世界の中で、基本的に自給自足の生活をしていた。メラネシア世界における経済は、いわゆる非市場経済である。つまり、利益を追求する市場経済と異なり、彼らの社会は互酬性の原理により成立していた。互酬性というのは、基本的に、交換に際して貰ったものと同等のものを返還するという原理である。市場経済における交換は、たとえ等価交換であっても自己に利益をもたらすよう仕組まれているが、互酬性に基づいた交換ではむしろ、相手に貰ったもの以上のものを与える、つまり、相手に利益を与えるような交換をしたほうが評価され、その人物の社会的地位は上昇するという仕掛が内在している。この原理にのっとり、より多く他の人に与えた者が人々の人望を得て、政治的な指導者と成ってゆくのである。ヴァヌアツの個々の社会もそれぞれ独自性はあるものの、基本的には互酬性の原理に沿った政治システムをつくり上げていた。このシステムは、個人を中心として周りに支持者を集めてゆく、というものであったため、小さな社会の中でも何人ものリーダーが存在した。つまり、権力は分散し、一点を中心として社会全体をまとめるような体系をつくってはいなかった。ましてや、言語・文化単位を越えた大きな政治的枠組みは形成されなかったのである。

植民地化が生み出したもの

 ヴァヌアツに植民地化の波が及んだのは一九世紀の終わりである。西のソロモン諸島、東のフィジーをイギリスが、南のニューカレドニアをフランスが植民地化した関係で、英仏共同統治という変則的な植民地支配を受けることになる。イギリスやフランスは、太平洋での植民地化に際して、必ずしも経済的利益の追求を最優先していたとはいえなかった。太平洋に浮かぶ島々は、当然のことながらその天然資源、労働力資源が乏しいところである。既に広大な領土と労働力を確保していたイギリスは、太平洋に進出して来たドイツの勢力を牽制するため、あるいは、自国の宣教師や個人的な入植者の突き上げによりしぶしぶ植民地化を行うことも多かった。イギリスがメラネシア地域での植民地行政に積極的でなかったことは、自らの植民地ニューギニア島南東部を、オーストラリアが独立するとすぐにそれに譲ったという事実からも推察される。また、フランスの獲得したニューカレドニアは、今日ニッケルの世界的産地として知られているが、本来はイギリスを牽制するために、政治犯のための流刑植民地として獲得されたに過ぎなかったのである。
 ヴァヌアツは太平洋の中でも、ことさら資源の乏しいところであった。そこでは、経済的搾取を目的とした植民地行政という姿勢は弱くなっていた。植民地行政府は、基本的に、自国の宣教師や入植者を保護するためにだけ活動をしていたのが事実である。しかも、お互い牽制し合いながらの共同統治であったため、行政としては決してうまく機能しているとはいいがたかった。しかし、支配する側の経済的動機が弱くても、その行政の内実が如何なるものであれ、植民地化するという事実は、過酷な植民地状況をつくりだすのである。
 キリスト教が入ると、一部の人々は抵抗したが大多数の人々は各々の持っていた伝統的な宗教体系を根底から捨ててしまった。アフリカやアジアで見られるようなシンクレティズムは、太平洋にはない。彼らは、伝統的な宗教体系を「我々は昔あんなことを信じていたのだ」と笑いとばす程のキリスト教徒になってゆく。キリスト教は同時に、学校という教育制度を持ち込んだ。ここでは、西欧的な教育が行われてゆく。つまり、キリスト教の布教活動は基本的に、植民地下にある人々の伝統的価値観を、西欧的価値観へと移行させていった。もちろん、人々の間には大きな混乱が生じ、その結果、自分達の混乱した状況を抜け出して理想の世界をつくろうとする千年王国運動が何度か起こった。
 この種の運動は、反白人的要素を含むことが多いため、こうした運動が起こるとすぐに、宣教師達や白人入植者達は行政府に訴え出た。行政府はたとえ形だけの統治であったにしても、彼らに被害が及んだと考えた場合には、行動に出た。首謀者とされる人物が逮捕されるのである。逮捕され刑務所に送られる、ということは、伝統的価値観の中では大きな意味を持たない。たとえ、殺人、殺傷事件を起こし、留置されても、刑期を終えて戻ってくれば、彼は以前となんら変わらぬ生活を送ることが出来るところなのである。にもかかわらず、多くの千年王国運動は、首謀者の逮捕を機に、衰退して行った。中には、獄中から指導するというエネルギーを持った運動もあったが、それでも、次第に骨抜きになったいったのである。
 布教活動は植民地行政と切り離せない関係にあるのは言うまでもないが、それは、さらに市場経済とも切り離して考えることが出来ないような関係にある。通常異文化の中で生活するものは、その地で出来るだけ自文化を実現しようとするものである。全ては無理だが、せめて、物質的なものだけでも自文化のそれに近い状態にしようとする。宣教師達も例外ではない。太平洋の村落には似つかわしくないような立派な家を立て、自家発電で電気をつける。トラックやボートを持ち、自らが教育した植民地下の人々を労働者として雇う。人々は、貨幣の価値を思い知らされるのである。伝統的な文化が根強い村落部でさえこうである。行政府の置かれた地では、市場経済の原理が全てをおおいつくす。
 行政府が活動を続けるためには、当然のことながら本国の制度を持ち込まざるを得ない。行政の指導の下、市場経済が動き始める。賃労働者として人々は働くことになるのである。市場原理の浸透は、植民地状況をますます堅固なものにしてゆく。しかしそれは、植民地下の人々が搾取の対象になってゆくからではない。「搾取」という視点は、市場経済の側に立って初めて生まれる概念なのである。互酬性の原理に基づいた非市場社会では、「与える」ことが評価され、それに対する見返りがないと相手の威信は落ちる。賃労働者として「与え」、それに対する見返りがないと、彼らは、相手、つまり、雇主を見限って村落へ戻って行く。村落では、自給自足の生活がまっているのだ。しかし、彼らがもしそれを、搾取と考えたとすれば、それは、自らの文化的背景を捨てて、市場経済の視点、つまり植民地化した側の文化論理を身につけたことになる。そして、現実には、村落へ戻るものも多くいると同時に、「搾取」を痛感するものも多くいる。植民地化される側の人々が、徐々に、植民地化する側の人々の文化理論を身につけてゆくということこそ、植民地状況をますます堅固にしてゆく理由なのである。
 植民地状況がつくりだしたもう一つ重要な結果がある。それは、行政が、人々の空間としての世界に対する認識を全く変えてしまったということである。一000人程の世界が今までの自分達の世界であった。それが、全く異なった言語をしゃべり、異なった考え方を持つ人々も同じ植民地の仲間となった。しかも、植民地行政を遂行するためには、中心地がいる。首都である。いままで、自分達の空間が世界の中心であった人々に、遠いところに中心があることを知らせ、いまや、かつての世界の中心は、中央である首都に対して、地方の意味しか持たなくなったのである。当然、リーダーシップの所在も変貌していった。人々をまとめ上げるためには、中央で名が知られること、そして、中央とのパイプを持つことが必要になってきたのである。

独立を巡って生まれる諸対立

 植民地状況が成熟してくると、そこから脱出しようという動きが出てくる。独立運動である。そして、その運動は中央である首都から起こってきた。しかし、ヴァヌアツでは、お互い植民地政策の全く異なるイギリスとフランスの対立が、そのまま植民地状況の中に取り入れられていたのである。イギリスは英語の学校教育及びプロテスタントと結び付き、フランスは、仏語の学校教育及びカトリックと結び付いていた。人々は、イギリス系とフランス系に分かれ、独立運動もこの点で、対立したのである。
 フランス系のグループは、白人達と共存しながら社会自体がもっと成熟してから独立を考えようと主張した。これに対してイギリス系のグループは、白人達との共存を拒み、早期に政権を譲渡させ、自分達の国家をつくろうと主張したのである。両者の対立は、まるでフランスとイギリスの植民地政策における対立をそのまま背負い込んだかのようであった。植民地状況は、同じ立場、つまり、植民地化される側にいる人々同士を、対立させたのである。しかし、この対立は、最終的に最も大きな対立にはならなかった。イギリス系のグループが次第に勢力を広げ、白人からの政権奪取にむけての独立運動が活発になっていったからである。彼らは、本拠地の首都をはじめ多くの島々で支持者を獲得し、民族主義を前面に押しだした運動を展開した。先述の、バランディエの示した、道具として利用されることを巡って、植民地化する側の人々と対立したのである。しかし、彼らが独立をかち取ろうとした時、彼らに最も激しく抵抗したのは、支配者側の人々ではなかった。同じ被支配者の立場にあるもう一つ別の同胞達のグループこそが、分離独立を企て、民族主義的独立運動の最大の敵対者となったのである。
 このグループは、いわゆる地方の一つの島を中心として活動していた。支持者達の多くは、その島の内陸部に住むブッシュ・マンと呼ばれる人々であった。彼らは、植民地全体からみればごく少数ではあったが、西欧的な教育を受けず、キリスト教に改宗することを拒んだり、あるいは、それに疑問を持つ人々であった。そして、このグループは、植民地化される以前の伝統社会に戻ることを主張して運動を展開していたのである。
 彼らは、侵害されつつある自分達の個々の世界を、もとの状態に戻したかったのである。彼らに取っては、自分達の世界は植民地全体ではなかった。しかし、民族主義を旗印とした独立運動は、植民地全体を、白人の支配から取り返そうとしていた。そこで、後者が、統治政府から独立の承認を取り付けたとき、彼らは、自分達の本拠地の島を分離独立させるための暴動を起こしたのである。では、何故そうまでして、敵対する必要があったのであろうか。それは、彼らが、民族主義的独立運動は伝統文化を重視しない、と考えたからなのである。
 民族主義と、伝統文化は両立しないのであろうか。民族主義的独立運動の実際は、如何なるものであったのだろうか。

民族国家建設の主役

 民族主義的独立運動の担い手達は、いわゆる被植民地のエリート達であった。高等教育を受け、海外にまで留学することにより視野を広げて行った人々であった。彼らもまた、ブッシュ・マン達と同じく自分達の生まれ育った伝統文化を強く意識した。そして、外国人による理不尽な支配から脱出し、自分達だけの世界を取り戻そうとしたのである。しかし、当然のことながら、両者の視点は根本的に異なっていた。
 エリートという新たな階層は、文化的に見れば被植民地の側に属さない、という点に留意する必要がある。彼らは伝統文化の枠外にあり、侵入者としての西欧的文化の価値観を身につけた人々なのである。ただし、彼らと植民地化した側の人々との違いは、前者は、西欧的文化の基盤に立っていないと自認しているという点である。彼らは、自分達と白人達との違いをはっきりと意識するが、それは、ブッシュ・マン達とは違う視点からであった。ブッシュ・マン達は、自らの伝統文化を内の世界から見るのに対して、彼らは、それを外の世界から見直したのである。西欧とは異なる文化を、西欧的視点から見れば、それは、単一のものである。白人達とは異なる自分達の同一性の発見こそ、民族主義の出発点となったのである。そして、この同一性の発見はまた、植民地全体に目を向け、伝統的な小さな境界線は無視されることになった。
 彼らの目標は、こうした同一性の認識に基づいた単一の国家の建設であった。しかし、単一でなければならない被植民地の人々が内部分裂を起こす行動に出たのである。ヴァヌアツの分離独立の暴動を鎮圧したのは、時の植民地行政府ではない。独立を宣言したばかりの、ヴァヌアツ新政府が、パプア・ニューギニアに軍隊の派遣を要請することにより、言ってみれば自らの手で鎮圧したのである。人々が単一であれば、国家の領土も単一でなければならない。彼らの言う自らの国家の領域は、ヴァヌアツに限らず他の新興独立国でも、例がいなく植民地政府が恣意的につくり上げた境界線によって成立している。西欧的視点でつくられた外枠、これが、民族国家の空間的広がりである。そして、一たび独立すれば、その空間は死守される。
 パプア・ニューギニアは、その内部にブーゲンヴィル問題を抱えている。ドイツがブーゲンヴィル島の銅山を手放さなかったため、本来はソロモン諸島の人々と文化的に近かった彼らは、そこから切り離されてニューギニア植民地にくっつけられた。これに不満を感じた人々は、パプア・ニューギニアが独立するに際して、分離独立運動を起こしたのである。しかし、パプア・ニューギニア政府は、その運動を弾圧し、あくまでパプア・ニューギニアという民族国家の単一性を主張したのである。
 独立するということは、失われた権利の復権を決して意味するものではないのである。もともとあった権利とは、小さな単位に分かれて自らの文化を保持しつつ自立していることである。ヴァヌアツでの分離独立を企てた人々が目指したのはこれであった。これに対して、民族主義的運動の目指した独立ということは、今までになかった全く新たな世界、国家という枠を設定することなのである。この国家は、メラネシア世界の伝統文化の内部から出てきたものではない。西欧の教育を受けたものが、西欧に目を見開いた結果、輸入してきた概念である。従って、当然のことながら、国家を建設するために近代化=西欧化を進めねばならないのである。
 ヴァヌアツの独立運動の担い手達は、キリスト教を肯定し、民主主義化と社会開発という二本の政策を柱とし、ヴァヌアツ人の手によるヴァヌアツという国家をつくろうとしたのである。既に見てきたように、キリスト教は、伝統的宗教体系を破壊した西欧的価値観の根底に横たわるものである。民主主義もまた、西欧的政治思想の基盤にあるもので、ヴァヌアツの伝統的政治体系と相入れないということは言うまでもない。社会開発というのは、経済開発を含む。経済開発というのは、当然、市場原理に基づいて行われるのである。どれをとっても、伝統文化のあり方を重視する政策とは言いがたい。いや、むしろ、こうした政策は、植民地状況という特殊空間の中でつくられてきた方向をそのまま引き継いだものであるというべきなのである。
 民族国家建設の隠れた主役は、植民地状況そのものだったのである。エリート階層を生み出したのもまた、植民地状況なのである。民族国家は、搾取や圧制に対する反発から自発的に生まれてきたというよりも、植民地状況下で敷かれたレールの延長線上に既に準備されていたといえる。つまり民族国家は、植民地化される側の人々がつくったのではなく、植民地化する側の人々によってつくられたものなのである。民族主義的独立運動は、自らの国家を持つことにより、政治的に脱植民地化を果たした。しかし、そのために伝統文化は再度植民化されるという矛盾した状況を生み出したのである。植民地化という現象は、通常考えられている以上に、はるかに大きな影響を人類文化に与えていると言えよう。
 メラネシアの伝統文化には、個々の小社会を越えて広がるような政体がなかったということは、既に述べた。それを一定の領土を伴った国家の単位にまとめるためには、民族主義を旗印にすることが一つの手段であると言える。しかし、太平洋で生まれた民族国家は、まず外枠である空間としての国家は出来上ったが、国民という意識がまだそれについて行かないのが現状である。アジアやアフリカの新興民族国家の中には、国民意識を形成するためのシンボルとして、伝統世界で中心的役割を演じていた王国だとか伝説的英雄などを利用するところがある。しかし、もともと中心のない世界であったメラネシアでは、国民意識を形成するためのシンボル的存在を伝統的世界からは見いだせないのである。ヴァヌアツの国歌では、白人支配からの開放の喜びと同時に、国民としてのまとまりをことさら強調しているが、その統一のシンボルとして利用されているのは、西欧から輸入されたキリスト教の神なのである。
 零から国家というものの建設を始めたヴァヌアツの人々には、その国歌に歌われている通り、「全ての島ですべきことがたくさんある」のである。しかし、このまま近代化=西欧化のレールの上を走っていって、どういう国づくりが出来るのであろうか。低開発国という、いつまでも西欧の下位につくような国を目指すというのだろうか。彼らは、かつて、人類文化の持つ多様性を実証し、誰にも支配されない独自の伝統文化の世界に生きていた。そしてこうした世界は、国家が出来た今も、その外縁、つまり地方では、まだ完全に衰退したわけではない。今こそ、自らがつくったはずの国家が実はつくられたのである、という事実を踏まえて、国家のあり方をもう一度伝統文化の内の世界から見直す必要がある。
それが、真の脱植民地化への第一歩であろう。