『社会人類学の可能性 I 歴史のなかの社会』

ナグリアメル運動ーヴァヌアツ独立前夜(吉岡政徳)


ナグリアメル運動ーヴァヌアツ独立前夜ー



 一九七0年代の初頭、南太平洋の英仏共同統治領ニューヘブリデスに政党が現れた。国民党(The New Hebrides National Party)は主として英語教育を受けたメラネシア人達によって支持されており、統治政府に対して一九七七年独立を要求していた。UCNH(Union dCommunautes des Nouvelles Hebrides)は国民党の台頭に脅威を感じた白人を中心に設立され、統治政府の存続を訴えた。この政党は、フランス人を中心とした白人の支持を主として首都のポート・ヴィラで獲得し、さらにフランス語教育を受けたメラネシア人達の支持をも集めた。彼らは早急な独立を主張する国民党を、共産主義者、経済的自立の方策もなしに独立を考える夢想家と呼び、統治政府による社会開発をすすめ社会がもっと成熟してから独立を考えようと主張した。これに対し国民党は、UCNHを植民地体制の代弁者と非難し、UCNHのメラネシア人指導者達をフランス行政の操り人形と見なして対立した[Kele-Keet al.1977:30]。英仏共同統治という変則的な植民地支配は、この様に独立をめぐる政党活動にも重大な影を落としたが、こうした事態に更に中央と地方という対立が加わった。ニューヘブリデスには、首都のポート・ヴィラの他に唯一の地方都市サントがある。このサントから、MANH(Mouvement Autonomiste dNouvelles Hebrides)という政党が誕生した。MANH は基本的にUCNHと同様な政策を持っていたが、その違いは、前者の政策にはポート・ヴィラに独占されている金権の平等な分配という項目があったという点である[ibid.:46]。国民党はまもなくヴァヌアアク党(VanuaakuPati)と名前を変え、より強力な独立運動を展開していった。この政党に対立する全ての政党は独立は早過ぎると考える点で一致しているため、まとめて穏健派(Moderes)と呼ばれていた。
 これら政党が誕生する一0年程前、白人が買収した土地のうち使用されていない土地をメラネシア人に返還しろ、という運動がサント島で生まれた。ジミー・スティーヴンスというサント生まれでスコットランドとトンガの血をひく混血の男に率いられたこの集団は、自らをナグリアメル (Nagriamel)と名乗っていた(1)。ジミーはカリスマ的な指導力を発揮し、サント島のブッシュマン達の絶大な支持を得ていた(2)。ナグリアメルは、白人に奪われた土地を取り戻し伝統的な生活を守ることをその運動の主要な目的としていた。そして、勢力を増してくるヴァヌアアク党は伝統的な慣習を尊重しないと考え、MANHと手を組むことになる。MANHは基本的にサント在住の白人をその支持の母体としており、メラネシア人の支持を欲していた。一方ナグリアメルは、ヴァヌアアク党に対抗するための理論的な政策を必要としていた。両者は、伝統復帰と確実な近代化という全く異なる目標を持っていたにもかかわらず、サントという一地域の人々(ブッシュマン達と都市生活者達)の利益を守るため手が組めたのである。
 一九七七年に独立を果たせなかったヴァヌアアク党はしかし、一九七九年十一月の総選挙で圧倒的多数の支持を得て勝利し、イギリス国教会の牧師でもある党首リンギを首相とする新政府を樹立し、独立の日程を決定した。ところがサント島とタンナ島の穏健派は、選挙でヴァヌアアク党が不正を働いたとし、選挙結果を認めないと主張した。ナグリアメルの支持者達は棍棒や弓矢を持ち、ヴァヌアアク党に投票したと考えられるサント在住の他島出身者達への威嚇行進を行った。タンナでも武装した穏健派の行進が行われた。ジミーは、サントはヴェマラナとしてニューヘブリデスから分離独立すると宣言し、タンナもこれに続くよう要請した。分離独立がなされないように再三に渡って交渉が行われた。しかし、最低でも連邦政体を主張するヴェマラナ側と、統一政体を主張するニューヘブリデス新政府の交渉は決裂した。英仏両政府はこの事態を収拾することが出来なかった。一九八0年五月ナグリアメルの支持者達を中心とした武装した集団がサントで暴動を起こし、主要な建物を占拠した。そしてジミーは、ヴェマラナ政府樹立を宣言した。ヴェマラナ内閣が組閣され、ジミーは首相に、その他の要職にはナグリアメル及びMANHの指導者達がついた。ニューヘブリデス新政府は英仏両政府に事態収拾を要請した。しかし、イギリス色の強い新政府を快く思っていないフランスは非協力的な態度を取り、英仏の統治上の協定があったためイギリスも何等手を打てなかった。新政府は同年七月に独立宣言をし、国名をヴァヌアツと改めた。そして、それと同時にパプア・ニューギニア政府に協力を要請した。パプア・ニューギニアの軍隊が到着し、ヴェマラナ政府の指導者達やタンナで分離活動を指導した連中が逮捕された。そしてフランス人達の多くは、ヌーメアへ逃亡した[Beasant1984,Jupp& Sawer 1979].
 分離独立運動は世界中で多数報告されているが、多くの場合はその背後に少数民族問題が横たわっている。人種的に、或は文化的に少数の立場に追い込まれた人々が分離独立を企てるのである。ナグリアメル運動はしかし、同様の行動を起こしてはいるがその背後に少数民族問題は存在していないのである。ニューヘブリデスに少数民族が存在しないわけではない。人口の大半はメラネシア人であるが、確かに少数のポリネシア人も存在している。しかし分離独立運動の主役となったサント島の人々は、ポリネシア人ではなくメラネシア人なのである。もちろんメラネシア人と一口にいっても、その言語・文化は極めて多様であることは知られている。ニューヘブリデスではピジン・イングリッシュという共通語が用いられているが、それは全体で百を越える異なる言語が存在しているからである。サント島内部でもいくつかの異なる言語集団がある。しかしこれはどの島でも同じことで、サント島民だけがニューヘブリデスの他のメラネシア人達と較べて「少数民族」であるというわけではないのである。では、いったいナグリアメルはなぜ分離独立という行動をとったのであろうか。
 外的要因に関しては既に知られている。それは、英仏共同統治という変則的な植民地統治体制の歪と、外部勢力の介入という事実に起因している。イギリスとフランスの植民地政策は全く異なっていた。イギリスは太平洋においては、出来るだけ早く近代化の手助けをした上で独立させようと考えていた。フランスは、出来るだけフランコナイズを進め最終的にはフランス領というよりむしろフランスの一部にしようとしていた。英語教育を受けたものを主体として設立された国民党=ヴァヌアアク党は、イギリスにとっては望ましい動きであったのに対し、フランスにとっては全く望ましい動きではなかった。そこでフランスは、ヴァヌアアク党に対抗するメラネシア人勢力としてのナグリアメルに注目し、これを影から援助してきたのである。こうしたフランスの動きを見ながら介入してきた外部勢力があった。それがアメリカの右翼団体・フェニックス財団であった。この財団は、政府がいっさい関与しない自由企業の存在を求めて適当な規模の独立国を作ることをもくろんでいた。一九七二年トンガ沖の珊瑚礁を埋め立てて共和国を作ろうとしたが失敗し、今度はサント島に目を付けジミーに接近したのである。そして彼に分離独立を示唆し、そのための資金援助を最後まで続けたのであった[Beasant 1984]。
 フェニックス財団の行動は特筆すべきものである。ナグリアメルが極めて有効なアジテーションの道具として用いた違法のラジオ局も、この財団の援助によって作られた。もちろん暴動のための武器その他の購入にも大きな役割を演じた。フランスはこの様な直接の援助はしなかったが、ナグリアメルの本拠地で生産された産物を購入したり、道路や送水設備を作ったりしてジミーに協力した。これらの外的要因がなければ、確かに分離独立のための暴動という行動に踏み切れなかったかもしれない。しかしそうだからといって、これらが行動の必要十分条件であったと考えるわけにもゆかない。なぜなら、こうした外的要因は主として運動の指導者に作用したのであって、運動を支持して行動に参加した名もない大多数のブッシュマンたちにはせいぜい指導者の実力を証明するものでしかなかったからである。運動というものは、いかに指導者がカリスマ的な力を発揮しようと、いかに彼の実力が証明されようとも、支持者の側からの何等かの内的要求ー内的要因ーがありそれが指導者の主張と合致しなければ成就してゆかないものなのである。そしてこの名もない支持者達の内的要因を考察しない限り、ナグリアメル運動はその全貌を明らかにしてはこないのである。では、大多数のサントのブッシュマン達はなぜこうした行動についていったのか、彼らにとってなぜ分離独立が必要だったのであろうか。ナグリアメル運動とは何だったのか、彼らにとってどういう意味を持っていたのか、ということを探ることによりこの答えは得られよう。



 ニューヘブリデス北部で話されているメラネシア諸語にほぼ共通して見いだせる単語の一つに、「平和」を意味するタマタという語がある。そして、サントのブッシュマン達はナグリアメル運動をタマタ運動と捉えていたのである[ibid.:19]。しかしタマタ運動というのは、実はナグリアメル運動一人のものではなく、それに先立つ数十年前からサントで起こっている一連の運動、いわゆるカーゴ・カルトをも含んだ運動に与えられている名称なのである。そして、そこでは既に、「サント島民のためのサント島」というスローガンを掲げた運動が展開されていたのである。従って、上述の問いに答えるための第一歩として、ナグリアメル運動に至るまでのサント島民の軌跡を考察することが必要となろう。

ロノヴロの運動ー一九二0年代ー

 今世紀に入る頃のサントでは病気が蔓延し住民の人口は減少していった。殺伐とした空気が流れ、白人が殺されるといった出来事も何件か生じた。そして二0年代に入ろうとする頃数名の予言者達が出現することとなった。彼らは洪水が起こると予言した。しかし参加費を払った選民だけが救われると述べ、また死者が復活し、シドニーから米や商品を積んだ船がやってくると約束した。こうした予言者達の中心人物とされていたのがロノヴロであった。彼は予言と同時に全ての豚を抹殺し、位階儀礼を廃止するように指示した。位階儀礼というのは、ニューヘブリデス北部の島々で広く見られるもので、この儀礼の中で男達は定められた数の豚を殺し、さらに一定の豚を支払って飾りなどの徽章を購入することにより位階を登って行く。そして位階を登りつめたものが政治的指導者となり、人々からチーフと呼ばれる存在になるのである[cf.吉岡1983](3)。こうした伝統的な政治制度を具現する儀礼を否定するということは、まさに伝統的生活を放棄することを意味していた。
 ロノヴロ・スクールと呼ばれたこの運動は、サント島中部で多くの支持者を集め、人々はロノヴロに約束された商品を受け取るための大きな倉庫を建設した。また人々は、彼が死んだ牛やダンスの時興奮して死んだ彼の信者を生き返らせたという話を聞いて、予言された死者の復活を待った。しかしそれはなかなか実現されなかった。やがて、サントにおける死は白人が原因であり、白人は死者の復活をも妨げているとされるような風潮が現れ始めた。運動は「サント島民のためのサント島」というスローガンを掲げ、白人をサントから追い出すという方向に向かって行ったのである。そしてついに一九二三年、一つの事件がタスマルムで起こった。ロノヴロは死者の復活がなされるための大きな宴を催したが、この宴の最中彼の妻が死んでしまったのである。そこで彼は、彼女を復活させるためあらゆることを試みたが効きめがなかった。そして、復活がうまく行かないのはクラプコットという白人の入植者のせいだから彼を殺さねばならない、と主張した。五人の男が殺害のため派遣され、クラプコットは殺されてしまった。ロノヴロは捕まり死刑となった [ Williams 1928:100-101,Guiart 1951a:86,1951b:228, 1958:77-78,198-202]。

アヴアヴの運動ー一九三0年代ー

 ロノヴロが逮捕されて以来しばらくのあいだめだった動きはなかったが、一九三七年、長老教会の信者達の間で次の様な噂が広がった。つまり、アヴアヴという男が死者を埋葬せずに置いておいた。そして死者を蘇らせるためにダンスを行い、もしそれが失敗すれば白人を殺すと宣言した、と。この噂には、死者の乗った船がくるという要素も付け加わった。アヴアヴは逮捕されたが、事実は違っていた。彼は確かにワイラパ川上流のモリウル村でダンスを主催したが、その目的は死者の復活ではなかった。彼は福音には反対の立場をとり、固有の運動集団を作ろうとしていた。そしてダンスのおり、過去に由来する全てのもの、内戦から生じる全てのもの、豚のふんから生じる全てのものを排除し、この地を浄化することを説いていたのである。彼は自らの運動を起こす前に逮捕されてしまい、獄中で死亡した[Guiart 1958:202-203]。

アトリの運動ー一九四0年代ー

 アヴアヴ事件がおさまり間もなくすると第二次世界大戦が勃発し、サントはアメリカ軍の基地として使われることになった。そして大戦後新たな運動が起こった。アメリカからカーゴを積んだ船がやってくるとされ、人々はそれを受け取るための準備を始めたのである。バヤロ川中流のヴィアス村の人々は、説教を聞いたり歌を歌ったりするための特別な家や、無線塔と称されるつる草の類を巻き付けた柱を作っている、と報告された。運動の指導者はタニシアという予言者であるといわれた。しかし、一九四六年事態は新たな局面を迎えた。人々が集まり白人入植者の土地内にいる動物を殺したり、そこにアメリカからのカーゴを受取るための道路や倉庫を建設したのである。倉庫は焼かれヴィアス村のチーフのアトリは逮捕されてしまった。ところが、彼は海岸にキリスト教の村を作るという約束をしたとして釈放された。アトリは逮捕された時、実際に運動を組織しようとしていたと述べたが、これがキリスト教の村作りと解釈されたのである。運動も教会も、ピジン・イングリッシュでは共に「スクール」なのである(後述)[Guiart 1951a:86,1958:204]。

ツェックの運動ー一九四0年代ー

 アトリの運動のすぐ後に、ネイキッド・カルトとして知られている運動がツェックという男を指導者として始まった。ツェックは白人の存在自体に注意を向けていたのではなく、病気のための極端な人口減少が続いていたサントで、病気の原因となる争いや摩擦を取り除くことに関心を持っていた。彼はこれを食い止めるためにはアダムとイヴの時代に戻らねばならないと考えた。彼は、伝統的なものにしろ西欧のものにしろ全て身につけているものをとり、裸になる必要を説いた。そして豚に限らずあらゆる家畜を殺すよう指示した。氏族外婚や婚資の制度が廃止され、その他多くの伝統的タブーが破壊された。また教会に対しても否定的態度がとられ、白人の所で働くことは禁止されたが、これらは反白人的な態度から出ているのではなく、運動が伝統的世界からも白人の世界からも隔離された独自の世界を作り上げようとしたところから生じていたのである。そして、その世界の中ではお互いの性を共有しあい、全く新しい言語が採用されたのである。ツェックのメッセージは、オラ川上流ランベ川上流トロ川一帯ナヴァカ川上流、ワイラパ川上流、そして西海岸で受け入れられ、この地域の約半数の人々を巻き込んだ。しかし五0年代に入ってツェックが死ぬとこの運動は自然に消えていった[ Miller 1948:331-332,Guiart 1958:209-212]。

モル・ヴァリヴの運動ー一九四0年代ー

 ナヴァカ川上流域のチーフで、ラオ村に住んでいたモル・ヴァリヴは、アトリの運動やツェックの運動に共鳴するところもあったが彼らとは違う道を進んだ。彼も人口減少が何故起こったかを考えた。彼は神話に登場するタオタエという造物主をひきあいにだし、人口が減少するのは、土地を離れミッションについて行った人間達へのタオタエからの罰であると考えた。そして宣教師が村にはいることを禁止した。さらに白人は主人ではないと主張し、白人のプランテーションで白人のために働くのではなく自分自身のために働くよう指導した。彼は人々の経済的自立を実現することをめざし、コーヒー栽培の研究のためニューカレドニアへ行ったりした。モル・ヴァリヴはこうしたことだけでなく、過去の全ての汚れ、豚の全ての汚れ、戦いの全ての汚れを取り除くことを主張し、彼の支持者達の村では豚の飼育、位階儀礼その他の伝統的な儀礼などが放棄されていった。しかしこの運動も、五0年代には衰退して行った[Guiart 1958:116, 213-216,Beasant 1984:16]。
 以上記述した諸運動は、お互い関連しあいながら全て同一地域を巻き込んだものであった。つまり運動は、サント島南西部及び中西部を中心に約十年間隔で繰り返し起こっていたのである(4)。しかもこの地域の大多数のブッシュマン達は、何等かの形でこれらの運動に関わっていたのである。もっとも大きな広がりを見せたツェックのネイキッド・カルトは住民の半数を巻き込んだが、残りの人々もこうした運動と無関係ではなかった。ネイキッド・カルトと平行する形でアトリやモル・ヴァリヴの運動もこの地域で生じていたからである。ナヴァカ川上流域でモル・ヴァリヴの影響下にあった村々では、ネイキッド・カルトは拒否され独自の運動が展開された[Guiar1958:209]。アトリの運動はどの程度の広がりを見せたのかはっきりとは報告されていないが、「アメリカのカーゴ到来」を待つ同種の運動はサント島中西部各地で起こったようである。そしてその運動はツェックの運動とは異なり、反白人色をはっきりと打ち出していたのである。宣教師ミラーは一九四八年にワイラパ川流域及びトロ川上流域を巡回し[ibid.:63]、そうした村の一つでの興味深い会話を記録している。それは、彼の同行者であったメラネシア人教師と村人との間でピジン・イングリッシュによって交わされたものである[Mille1948:338](5)。

ー 握手!
ー いやだ!我々はおまえ達と握手はしない。
ー なぜ握手したがらない?我々は友達としてここに来た。既にいくつも村を回っているのだ。
ー 我々は、ここへやってくるスクールの連中を叩きのめすようにいわれている。

ピジン・イングリッシュで言うスクールとは、既にふれたように両極端の意味を持っている。ひとつは、カルトやそれに関わる運動という意味である。「ロノヴロ・スクール」がその例である。他のひとつは、この会話におけるような意味を持っているものである。それは、文字どうり学校、教会を指すだけではなく、西欧との接触の過程で生じてきた新しいもの全てを指す概念なのである。従って、スクールには当然のことながら白人や白人に同調するニューヘブリデス人も含まれることになる。こうした意味でのスクールと対立し、スクールがやってくる以前の生活、あるいは伝統的なもの全てを包括する概念も存在している。それが「カストム」である[cf.船曳1983](6)。そして、サントで繰り返し起こった一連の運動は、潜在的にあるいは顕在的にこのスクールとカストムの対立という状況をどう整理するかというテーマと関わっていたのである。
 さて、これらの運動を整理してみよう。ロノヴロの運動の主要な要素は、洪水による浄化、カーゴの到来、死者の復活、反白人である。浄化の一環として豚が抹殺され位階儀礼が廃止された。伝統的な政治の世界を作り上げていたこの位階儀礼は、まさに人々のカストムの核となっていたものなのである。続くアヴアヴの目指そうとしていた運動では、ロノヴロ運動にある要素のうち、カーゴの到来と死者の復活というモチーフは消えている。しかし浄化というモチーフは引き継がれ、そのためには過去から引きずってきた伝統的な生活を否定する必要があると説かれている。反白人のモチーフははっきり報告されていないが、反教会的ではあった。四0年代に入って各地で起こったアメリカのカーゴ到来を待つ運動(以後アトリの運動と呼ぶ)は、二0年代のロノヴロ運動を引き継いでいるといえる。もちろん両者の間には違いがある。それは、前者では復活した死者(祖先達)が、後者ではアメリカがカーゴ到来に関わっているという点である。この相違はしかし、この種の運動は、運動の主体となる人々の民俗的時間の内だけで生じるのではなく、世界史的な時間の流れの内で生じる、ということを示しているにすぎない。世界史的時間の流れというのは、この場合、言うまでもなく第二次大戦の勃発とそれに伴うアメリカ軍のサント到来である。そして祖先とアメリカが入れ替わったとしても、両運動の骨組みは同じであると考えるべきであろう。運動の参加者達にとっては、祖先もアメリカも、現在生活している自分達や白人統治者、入植者とは異なる第三者の象徴なのである。この第三者が介入することにより、現状の混乱は打破され新たな地平が開かれると考えたのである(7)。
 現状打破という視点は、ネイキッド・カルトにおいて最も鮮烈な形をとることになる。ツェックの運動は、過去、現在のもろもろのしがらみを全て断ち切り、新たな共同体を組織し自立する方向に向かった。現状打破の姿勢は、浄化という観念から生まれているのは言うまでもない。浄化は、直接には病気による人口減少を食い止めるための行為ではあったが、その背後には、カストムの世界に現れたスクールをどう処理するかという問題が横たわっていたことは明白であろう。カストムだけの生活の中に、ある日忽然とスクールの存在が浮かんできた。カストムを脅かすスクールの存在が人々に混乱をもたらしたのである。人々はそれを整理しようとした。どの様に整理したか。重要なことは、彼らはカストムの世界に戻ることで混乱を整理しようとしたのではなかったという点である。ロノヴロとアトリの運動、アヴアヴの目指そうとした運動、そしてツェックのネイキッド・カルトとすべての運動は、カストムでもスクールでもない新たな地平を求めたのである。そのためには現状におけるスクールもカストムも共に否定することになったのである。
 スクールとカストムを共に否定することにより生まれる世界は、ロノヴロやアトリの運動では、他者の力が介在することで達成されると考えられていた。その世界は、いわば他力的自立の世界であった。そして他者の力を介在させるための手続きは、儀礼的なものであった。ここで言う儀礼的というのは、運動の中で多くの儀礼的手続きがとられたという意味ではない。運動自体が儀礼的であったということである。言い替えれば、これらの運動は、リーチのいう表現的行為で世界を変えようとしたということである[Leach 1976:9]。表現的行為は、ツェックの運動でその極致に到達する。ネイキッド・カルトに参加した人々は新しい世界を待つのではなく、自らの力で作り始めた。カストムとスクールを越えたところで新しい生活を既に始めたため、反白人(反スクール)という態度をことさら鮮明に打ち出す必要もなかったのである。彼らは、自力によって自立の道を歩んでいった。しかし、彼らの自立は極めてシンボリックなものだったのである。これらの運動に対し、アヴアヴが目指そうとして実現出来なかった運動は趣を異にしていた。彼は、病気や争いのもととなると考えられるものを具体的に取り除こうとしたようである。そして、ネイキッド・カルトを拒否したモル・ヴァリヴがその姿勢を引き継いだのである。ここに表現的行為から技術的行為への変換という出来事が起こったのである。
 モル・ヴァリヴは、作り出される新たな世界に経済的自立という基盤を与えようとした。ツェックの運動でのように、全て破壊した後実際に生きて生活してゆくためのものが残らなくなる事態を避けようとした。彼は予言者やメッセンジャーではなく何よりもチーフであった。彼はコーヒーのプランテーションを念頭に置いていたということから分かるように、その自立に対するアプローチは正しく技術的行為であった。彼の運動はこの点において、二0年代から五0年代初めにかけてサント島中・南西部で相次いで起こった一連の運動の中では独得の位置にあった。しかし、彼の運動もこれらの運動に共通してみられる指向性の枠からは抜け出ていなかった。それは、浄化という観念である。彼はスクールをしめだしカストムの核となる位階儀礼を否定することにより現状を打破しようとしたのである。
 以上考察してきたように、サントで生じた一連の運動は、アプローチの仕方こそ異なるがカストムとスクールを共に否定し、両者の対立を超越したところに新たな世界を求め、そこでのメラネシア人の自立を目指したものであった。これらの運動は、基本的にはターナーのいうコミュニタスづくりの運動だったのである[Turner 1969,1974]。これらのコミュニタス運動がおさまり六0年代に入ってから今度は今までとは異なり島の中東部で新たな運動が始まった。ナグリアメル運動である。



 一九五0年代の終わり、サント・タウンの北方にひろがる一万三千ヘクタールの通称「ルガンヴィル・エステイト」と呼ばれる白人達の購入した土地で異変が生じた。彼らはそれまで放置しておいた未開墾地を、柵をめぐらすなどして整備し始めたのである。手つかずの未開墾地で従来の生活を続けていたブッシュマン達は、結局柵をとり除くなどの行動に出るしかなかった。この行動を指導したのは、この地域のチーフであるブルックであった。そして、これとは別にほぼ同時に土地返還運動を始めたのが、ジミー・スティーヴンスであった。彼はカストム復権を唱え、メラネシアン・ウェイを強調した。そして、奪われた土地をとりかえす伝統的なメラネシアン・ウェイは占拠であると考え、ブルックと手を組み、エステイト内部の未開墾地でブルックの祖先の土地とされる所を占拠し村を作った。これが、以後のナグリアメルの活動の本拠地となるタナフォ村なのである[ Beasant 1984:17-18]。
 ところで、ヴァヌアアク党はジミーをカルティストとみなしていた。確かに彼は自分で教会の様なものを作り、自らが約束した富=土地を取り戻すための神聖な力が自分自身にあることを示そうとしたこともあった。しかし彼の指導力は、基本的に予言者のそれではなく、チーフのそれをモデルとしていた。そして、カルティストを装ったとしてもそれは彼の策略であった。巧みにピジン・イングリッシュをあやつり、支持者達に合わせた顔を幾つも持つことで広範な層の支持者を獲得していったのである[ Kele-Kele et at. 1977:33,Beasant 1984:19-20]。事実ナグリアメル運動はカーゴ・カルトと呼べるようなものではなかった。あくまでも技術的行為により、統治政府に要望書を提出するなどして約束された富=土地を取り戻そうとしたのである。その意味で、この運動は五0年代初めまでの運動のうちではモル・ヴァリヴのそれに近かったといえる。しかし根本的に違うのは、前者には浄化の観念がなかったということである。ナグリアメルはカストムを否定するのではなく、カストムの復権を唱えたのである。モル・ヴァリヴは位階儀礼を踏まえた伝統的なチーフであった。彼は浄化の視点から位階儀礼を廃止をした。ジミーはメラネシア人ではなかったが、メラネシア人と暮し彼らの生活を熟知していた。彼はカストム復権を踏まえ、また自らのチーフとしての行動を正当化するため、豚を殺して位階を登る演出を行ったのである。つまりナグリアメル運動は、カストムもスクールも否定したコミュニタス作りの運動ではなく、スクールに侵食されたカストムを復権させる運動だったのである。
 五0年代までの運動と質的に異なるナグリアメル運動を、どうしてブッシュマン達は支持したのであろうか。彼らは混乱した状態をタマタ(平和)の状態にすることを切望していたのである。コミュニタスづくりに失敗した彼らは、もし同種の運動が起こっても再びその運動について行ったかも知れない。しかし既に述べたように、これらの運動は世界史的時間の流れと密接に結び付いているのである。第二次大戦後の混乱期が終わり、六0年代は白人の入植者達が活動を起こす時期にさしかかったのである。それまで漠然とした脅威であったスクールが、現実の力として彼らの前に現れてきた。彼らにとって最も重要な土地を切り開いたり柵を作ったりして、「占拠」し始めたのである。もはや、スクールもカストムも越えたところで新しい世界を作る、といった視点は意味を為さなくなった。スクールの存在を認め現に進入してくるスクールを防ぐ必要が起こってきたのである。人々はこぞってこの新しい運動に参加しタマタを作りだそうとしたのである。このことは、タナフォ村作りを指導しナグリアメル運動を押し進めていったブルックが、かってロノヴロ・スクールに参加した経験を持っていたという事実からも理解されよう[Guiart 1958:66-67
 五0年代までの運動に参加せず、伝統的生活を維持していた島の中東部の多くのブッシュマン達にとっても、状況は同じであった。土地を奪われ、もはやカストムを守りきれなくなってきたのである。ナグリアメル運動は、サント島全土にわたって広範な支持を得ていった。白人に奪われた土地を再び「占拠」して運動の拠点を作ったという事実が、ブシュマン達の「マン・サント」の意識を鼓舞したことも確かである[Beasant 1984:18]。マン・サントというのはサント島民のことであるが、その背景にはマン・プレスという概念がある。マン・プレスとは基本的には同じ言語集団に属する人々を指すが、さらに広げて同一の島出身者達にも適用される。適用される島がサントであればマン・サントということになる。そして、これがブッシュマン達にとっての世界なのであった。
 ナグリアメル運動はカストム復権を唱えたが、指導者も支持者達もスクールを消滅させるという動きを見せなかった、という事実に注目する必要がある。ジミーは、既に第一節の記述から明らかなように、カストム復権を叫んでも決してスクール消滅を目指さなかった。むしろそれを利用しようとしてきた。フランス人入植者達に協力を依頼したり、ナグリアメル自活のためにフランス行政府の援助を受け入れたのである。自らの主張とあいいれない人々をも利用するという行動は、まさにニューヘブリデスの伝統的チーフ達がとる典型的な行動様式の一つであった。一方ブッシュマン達もジミーのチーフ的行動を支持した。スクールに侵食され始めたカストムを技術的行為で守るためには、技術的に優れていることが分かっているスクールを利用するしかないのである。カストム復権を叫びつつスクールの産物である近代的なラジオ局や武器を受け入れたという態度は、決して矛盾するものではなかったのである。彼らは、既に大きな存在となっているスクールを消滅させることをあきらめ、なんとしてもカストムをそれから守るという防衛の立場に立たざるをえなかったのであろう。ナグリアメル運動が目指したカストム復権、あるいはタマタの状態とは、この様にスクールを消滅させることによって達成されるものではなかった。ではどのようにしてか。それは、最終的にカストムとスクールを分離し、相互の干渉なしにさせることにより達成されるものだったのである。
 カストムの復権、白人の手に渡った土地の返還という点に関しては、ヴァヌアアク党も同様の政策を掲げていた。そしてこれらを実現するために党が目標としていたのが独立ということであった。ヴァヌアアク党は白人政権を徹底的に排除するという民族主義的独立運動を展開したが、ここで、「独立」の意味するものを少し考えてみる必要がある。もともと国家という概念のなかったメラネシア地域では、独立ということは失われた権利の復権を意味しない、という点に注目する必要がある。独立するということは、いままでなかった国家という枠をはめることを意味するのである。その枠は、当然のことながら西欧的政治体制の枠組を利用することになる。つまり独立とは、西欧的な政治体制を取り入れた上での白人支配からの解放を意味するのである。そしてそのための独立運動は、とりもなおさず西欧的視点の中で行動することを余儀なくされる(吉岡 1987)。ヴァヌアアク党の取った道がこれに当たるわけである。ヴァヌアアク党はキリスト教を全面的に肯定し、独立を要求することで自立への道を歩み始めたのである。従って、ある意味でこの党のカストム復権政策は、スクールの視点からカストムをみなおそうということであったのである。党の指導者達は、いわゆるエリートであった。彼らは、海外へ留学したりして西欧的な教育を受け世界に目を開いた結果、カストムを見直す必然性を感じたのである。しかし、こうした視点は、必然的にカストムとスクールを融合させて行くという方向に導くものであった。
 ナグリアメルは、イギリス国教会の牧師を党首とするヴァヌアアク党を、宣教師によって作られたものと考え、宣教師達はヴァヌアアク党を利用して一種の神政国を作ろうとしていると主張していた[Kele-Kele et al.197:40-41]。ナグリアメルは、カストムがスクールと融合し、それに飲み込まれることを最も恐れたのである。ところが、この様な視点と、白人やフランス行政府からの援助を受けるという視点は、ナグリアメル運動では矛盾なく両立した。というのは、彼らにとっては、自分達の世界でのカストムを守れれば良かったのである。フランスは白人のためにスクールの世界を守れば良いのである。MANHと手を組んだ時も同様であった。MANHは、ニューヘブリデスで暮らしている全ての人々をマン・プレスと捉えていた。つまり、白人も含めた島民を対象に、植民地統治からの独立を考えていたのである[ibid.:45]。UCNHも基本的にはこの点で同じであった。しかし、前者がサントという地方を基盤としているのに対して、後者は首都を基盤にしていた。ナグリアメルの指導者にとっては、前者と手を組む道が最上であった。既に述べたようにフェニックス財団の介入があったためである。支持者達にとっては、自分達の世界はサントであり、MANHのいうマン・プレスはまさにマン・サントを意味していたのである。MANHが白人との共存を主張していても、問題ではなかった。ブッシュマン達も、スクールはスクールで、カストムはカストムで処理されれば、共存が可能であった。
 ブッシュマン達が最も恐れたのは、タマタであった状態を破壊し混乱をもたらした原因であるスクールが勝利を納めることであった。彼らは、カストムとスクールを融合させるというヴァヌアアク党の政策の中にそれを見たのである。そのため、最後まで白人にではなくヴァヌアアク党と対立する行動をとった、と考えることが出来るであろう。ニューヘブリデスという、植民地政策によって作り出された枠組みを、そのまま国家という枠組みに置き換えて独立しようとしたヴァヌアアク党の動きに対抗するためには、分離独立という行動しかなかったのである。



 ニューヘブリデスは独立し、ヴァヌアツとなって着実に国作りを進めている。しかし、既に見てきたようにここに至るまでの西欧との接触の歴史は、人々に様々な反応を引き起こしたのであった。ニューヘブリデスでカーゴ・カルトが生じたのは二つの島においてである。それは、サント島と、サントと歩調をあわせて分離独立を支援したタンナ島である[Guiart 1956]。そして、タンナにおけるカーゴ・カルトもサントの場合と同じく、コミュニタスづくりの運動だったのである。こうしたコミュニタス運動の展開されなかった他の島々では、侵入してきたスクールをあくまで排除し、カストムをかたくなに守り続けるか、スクールはスクールとして受け入れ、カストムと奇妙な並列関係を保つかする動きが一般的であった。スクールとカストムの並列。しかし、結局は、スクールが勢力を延ばし、カストムはどんどんと捨てられて行く。ニューヘブリデスの中にあるこうした多くの地域から、ヴァヌアアク党は生まれてきたのである。一方、コミュニタス運動を展開した地域の人々は、カストムとスクールの並列を経験していなかった。そしてそれを追求するナグリアメル運動にタマタの回復を託したのであった。
 ところで、ヴァヌアアク党は、文化的に多様なニューヘブリデス諸社会をヴァヌアツという単一の民族国家に結集させるため、キリスト教の神を肯定し、また民主主義化という政策を導入した[Lini 1980:53]。つまりヴァヌアツの独立運動は、明白な近代化運動としての立場をとっていたわけである。そしてナグリアメルは、こうした視点をこそ「敵」としていたのであり、その運動はまさに反近代化運動としての位置を保持していたと言えるであろう。一方カーゴ・カルトは近代化肯定でも近代化否定でもなかった。近代化という問題はコミュニタスのレヴェルではなく、構造のレヴェルで問題になるのものだからである。従って、カーゴ・カルトは非近代化的とでも呼びうるような運動だったのである。ニューヘブリデスからヴァヌアツへと至る道程の中で生じたこれら三種の運動は、既に述べてきたことと併せて考えれば、二つの軸、つまり、技術的行為ー表現的行為という軸と、近代化ー反近代化ー非近代化という軸が交差する点の上にそれぞれ位置づけられるのである。
 ヴァヌアツの現代史を論じた北大路夫妻は、「ヴァヌアツにおける積荷儀礼は、やがて独立運動に発展した」と述べているが [1982:39]、この指摘が間違いであることは明白であろう(8)。カーゴ・カルトがナグリアメル運動へと発展したことを踏まえれば、我々はむしろ「ヴァヌアツにおける積荷儀礼は、反近代化、反独立の運動へと発展した」と言うべきなのである。



1)ナグリアメルという名称は、ナメレ(namele)とナグリア(nagria)を合成して作られた。前者はソテツであり後者はセンネンボクである。共にその葉は儀礼的な場面で重要な役割を演じ、タブーをかけたりするときにも用いられる。ジミーは、伝統文化の象徴としてこの葉の名称を用いている。
2)ブッシュマンとは、内陸部に住みキリスト教化せずに伝統的な生活をしている人々を指す。
3)チーフといっても、ポリネシアなどに見られる首長制におけるチーフとは性格を異にしていることは言うまでもない。その性格は、むしろビッグ・マン的である。
この地域の人々の大半はアケイ語圏に属する[cf.Tryon 1972:51]。
4)ミラーは、この会話をネイキッド・カルトのものとして報告しているが、彼はこの運動とアトリの運動とを混同していた[Guiart 1958:208]。ここに引用した会話は、反白人的方針を明確に打ち出していなかったネイキッド・カルトの支持者達とのものとは考えられない。
5)ニューヘブリデス全ての地域でスクール、カストムという名称で二分法がなされているわけではない。私が調査した(一九七四年、一九八一〜一九八二年、一九八五年)ラガ島北部では伝統的なもの全てはピジン・イングリッシュでカストムと呼ばれていたが、西欧から入った新しいものにスクールという名称を与えていない。しかし、伝統的なものと新しいものが概念として二分法の対象となっていることは確かである。
6)カーゴ・カルトを含めた千年王国運動については実に様々な理論が存在している[Jarvie 1963, La Barre 1972]。紙面の都合上、これらの検証は別の機会に譲ることにする。
7)サントで戦後生まれた運動もロノヴロスクールと呼ばれていたようでブルックがどちらに参加したのかははっきりと報告されていない。
8)しかし北大路夫妻は、カーゴ・カルトを近代的政治運動の萌芽とみなすワーズリー[1968]の理論を、人類学界に革新的な影響を与えたがその後批判を浴びている、と位置づけている[1983:54]。

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