メラネシアにおけるナショナリズム:独立運動と分離運動

はじめに

 ローネンは、自決の違いに着目することで、これら自決の政治的表現を五つに分類している。一つ目は、民族=ネイション(nation) の自決を基盤としたナショナリズム、二つ目は階級の自決を基盤としたマルクス主義、三つ目は少数民族の自決を元にしたウィルソンの自決、四つ目は人種の自決に基づいた非植民地化、五つ目はエスニックの自決に基づいたエスノナショナリズムである[ローネン 1988:41]。彼はナショナリズムという用語を、19世紀ヨーロッパのドイツ人やイタリア人における民族の自決を基盤に考えており、植民地からの独立運動は、人種の自決に基づいた非植民地化として、また、分離運動は、エスニックの自決に基づいたエスノナショナリズムとして、ナショナリズム概念からは区別されている。しかし、彼自身も指摘しているように、「ナショナリズムは、さまざまな種類の自決の追求のために、最も一般的に用いられている用語」であり、「したがって、例を挙げると、アフリカの非植民地化、ナイジェリアのナショナリズム、ピアフラのエスニックの自決の追求もすべて、ナショナリズムとして言及されている」のである[ローネン 1988:81]。
 ローネンの指摘にあるように、植民地化された地域が植民地支配を脱し独立に向かう運動は、一般にはナショナリズムという概念で捉えられてきており[アンダーソン 1987, 山影 1988, 小田 1988]、本論の舞台となるオセアニアにおいても、それらはナショナリズムという枠組みで語られることが多い[Pryor 1983:164, Teiwaki 1983:5, Van Trease 1982:87]。さらに、独立国家内における分離運動や独立運動と平行して生じてきた分離運動が、ナショナリズムという概念で捉えられる事例は、オセアニアからも報告されている[Savage 1982:4, Pokawain 1982:54]。まさに「自決追求のための一般的な用語」としてナショナリズムが用いられてきたことがわかる。オセアニアにおけるナショナリズム論は、しかし、歴史的事実経過の説明として登場することが多く、ナショナリズムの性質についての議論はあまり行われてきたとは言い難い。ましてや、これら植民地から抜け出す運動が、ナショナリズムという概念で捉えることが出来るかどうかについての議論も、行われてきたわけではない。
 本論の目的は、ヴァヌアツ共和国を題材に、メラネシアにおいて言及されてきた「ナショナリズム」の性質を明らかにすることにある。結論を先取りして言えば、本論では、独立運動は、「人種の自決」にもとづいたものではなく「植民地人民族の自決」に基づいたものであり、その性質は、ローネンの言う「非植民地化」という概念で捉えることが出来ないことを明らかにした上で、ナショナリズムの発露として一括して捉えられてきた独立運動と分離運動を、ネイション・イズムとエトノス・イズムという概念を用いることで、別々の性質を持っているということを明らかにする。

1 エトニーとエトノス

 内堀は、民族イメージとしてのエトノスに関して、「同じ言葉をしゃべり、風俗習慣を共有し、しかも(あまり根拠なく)同じような風貌をもつ人間の集団がいる」というイメージにもとづいて「言語=習俗=精神共同体としてのエトノスが生まれてきたのである」と述べている[内堀 1997:16]。そして彼は、こうした規定は、内側から民族をみる視点、すなわち、エッセンシャリズムに陥っているのであり、現実に生じている、民族を超える社会的交渉の連続性や文化の連続性などの曖昧な状況を見据えることは出来ない、とも付け加えている。内堀は、民族という語が通用する上でのメカニズムの排他性と、現実に生じている民族のあり方との違いを指摘していると言える。彼は、この違いを、民族の名付けと名乗りという視点から国家以後と国家以前の違いとしても論じている[内堀 1989:34-35]。
 中川は、こうした違いを民族1と民族2という概念で説明する。彼は、ナショナリズムを論じる中で提出した民族1−国民ー民族2という図式に関して、次のように述べているのである。「構成規則(「国籍獲得」、「帰化」etc)に基づく「国民」概念が誕生することになる。その規約体系をはさんで向こう側(規約以前)にあるパターンが「民族」として解釈される。これを民族1と呼ぶ。こちら側(規約以後)に同じようなパターンが「民族」として解釈される。これを民族2と呼ぶ」[中川 1996:42]。
 彼の区分した民族1と民族2は、松田によれば、ソフトな民族とハードな民族ということになる。ソフトな民族とは、例えば、境界線が明確ではなく、異人として分類されている人々でさえ場合によっては自分達の民族に受け入れ、自分達自身もその民族であったりやめたりすることが日常茶飯事に見られるような民族意識に基づいたものである。それは、近代の分節原理としての「類化のマジック」とは異なったやり方での民族設定である。一方、ハードな民族とはこの類化のマジックに従った「0%と100%の嘘」あるいは「100%と0%の共感」というやり方で成立するものを指す。そこでは、同じ民族というだけでその人の考えや感情が100%わかると考えるのに対して、異なる民族に対しては共感の可能性を0%に閉じてしまう。こうした無条件の共感と排除の論理に基づいて成立した、いわば排他的で境界線が明確に設定されているような民族が、ハードな民族である[松田 1992:26-29]。
 これらの議論から言えることは、「エッセンシャリズムに基づいた民族」、「民族2」、「ハードな民族」は、国民国家、あるいは近代の分節原理の成立以後に産み出されているということであろう。様々な表現で指し示されているこの民族概念を、本論ではエトノスという言葉で指し示すことにする。一方、「エッセンシャリズムに基づかない民族」、「民族1」、「ソフトな民族」は、「国家以前」の民族にだけ適用されれるわけではない。内堀が言うように、国民国家が成立した後も、そして、近代の枠組みが存在している現在においても、民族間が臨界状態にあることを考えれば、国家の介入が存在していたとしても、それとは直接の応答関係をもたない柔軟で曖昧な民族概念が見いだせるということである。それは、松田の論じたマラゴリの人々の日々の戦術からも生まれ出る柔軟で曖昧な区分とも対応している。本論では、この民族概念をエトニーと呼ぶことにする。中川の言う国民はネイション(nation)のことであるので、彼の図式は、ここでは、エトニーーネイションーエトノスという形になる(1)。
 エトノスとエトニーは、内堀の言う「エッシェンシャリズム」、松田の言う「類化のマジック」があるかないかで区別出来ると言えるが、両者の違いを適切に説明する別の概念が存在する。それが、単配列分類と多配列分類という概念である。それを用いれば、エトノス(およびネイション)は単配列分類の原理に従っており、エトニーは多配列分類の原理に従っているということになるのだが、その点を以下で説明しよう(2)。
 単配列と多配列という概念は、ニーダムによって人類学に持ち込まれた概念である。彼によれば、単配列分類とは、共通の特性を持つ個体から一つのクラスが成立している場合をさし、それぞれの個体はまったく同じ特性を共有するが故に同じクラスにまとめられるというものである。それは科学的定義とも呼ばれる。それに対して多配列分類とは、互いに類似しているということでいくつかの個体が一つのクラスにまとめられるやり方である。これは、ヴィットゲンシュタインの言う「家族的類似」と同じものである、とニーダムは述べている[Needham 1975]。そして彼は、表1に見られるように、多配列と単配列を個体の特性という視点から論じようとした。つまり、多配列クラスでは、それぞれ一緒にまとめられている各個体の間には一つとして共通の特性というものがないにもかかわらず一つにまとめられるのに対して、単配列クラスとしてまとめられる各個体は、全て共通の特性を有しており、それゆえ、単配列分類によるクラスの構成に関しては、「置換の原理」が適用できるという。つまり、そのクラスに含まれている1事例(個体)についてわかっていれば他の事例(個体)についても類推する事ができるというのである[ニーダム 1986:87]。しかし多配列クラスの場合には、この原理が適用出来ない。彼は、「この場合には、置換の原理は適用できませんし、一事例について知られていることは、同じ集合に属しているということから察して別の事例に置き換えるというわけにはいかないのです」と述べているのである[ニーダム 1986;89]。

多配列クラス 単配列クラス
個体 1  2  3  4   5   6
特性 A     A  A
B  B  B
C  C     C
   D  D  D






 F   F
 G   G
 H   H

表1[長島 1982:69 より]

 しかし、彼の議論は矛盾するような言い回しによって混乱してくる。彼は言う。「西洋哲学における集合の伝統的定義においては、また辞書による定義においても、ある集合の全構成要素は最低一つの特徴を共有しています。この類似点に基づいて、各要素はその集合に属し、あるいはそれを構成しているのです。この方法は単配合(単配列)分類と呼ばれてきました(括弧は筆者)」[ニーダム 1986:3]。このことから理解されるように、ニーダムは上記の表とは異なり、単配列分類によって構成されるクラスに属する各個体は、共通の特性を少なくとも一つ持てばよいと考えている。彼は、単配列分類において見いだせる共通の特性を、種別的特性(specific feature)と呼び、これはクラスにとって決定的なものとなると述べている[ニーダム 1986:3]。そして、ここで規定されている単配列分類は、いくつもある個体の特性のうち少なくとも一つの決定的な特徴(specific feature)を共有しているものを一つのクラスにまとめるやり方、ということになる。しかし、この規定では表1から考えられたような「置換の原理」が適用出来ず、そこでの単配列分類の規定の仕方と矛盾を起こしてしまうように見えるのである。
 矛盾は、個体の特性を数え上げて、それらが共通するかどうかという視点から論じているかのような表1の議論から生じている。議論はクラス(カテゴリー)の側からする必要がある。つまり、あるクラスに複数の個体が含まれている場合、それら個体の持つ一つ以上の共通の特性によって一つにまとめられているならば、それは単配列分類の原理に従っていると考えるのでよい、ということである。その場合、それぞれの個体の特性の数とは関係なく、個体間に見られる共通の特性がクラスをつくるメルクマールに用いられているのであり、その意味では、メルクマールとして用いられた特性は、どの個体にもすべて共有されているということになるのである。この点を踏まえれば、単配列分類によって出来る単配列クラスは、そのクラスのメルクマールとなる重要な特性(これが種別的特性である)を少なくとも一つ以上共有する複数の個体からなることになる。そうした特性は、一つかもしれないし複数かもしれない。そして、後者の場合も、それらの特性はすべて各個体に共有されており、その意味で、置換の原理に従っている。しかし、個体の持つ全ての特性が共有されているわけではない。このように考えることで単配列分類の規定に見られる曖昧さは克服されることになる。そして、こう考えた単配列分類は、まさに辞書や科学的な定義で用いられてきたやり方であり、あるクラスを他のクラスから排他的に選別するための方法を提示している。その意味で、この分類は、エトノスの分類原理であるということが出来よう。
 では、多配列分類についてはどうであろうか。多配列に関するニーダムの規定は揺れを見せていない。彼は一貫して、「すべてに共通する基本的特性がただの一つもなく、また、同じ集合の各構成要素ごとに、欠けている特性が異なる場合がありうるのです。・・・この分類様式は多配合的(多配列的)と命名され、・・・(括弧内は筆者の加筆)」と捉えている[ニーダム 1986:4]。そして多配列的なまとまりにおける特性を個別的特性(characteristic feature)と呼び、それは「この特性の発生はまさに偶発的なものであって、本質的なものではありません」と説明されている[ニーダム 1986:2]。ニーダムは、この個別的特性と類似の関連については詳細な議論を展開していないが、筆者は、多配列分類における類似の構造は、当該クラスの典型ないしは中核という概念を用いることで了解することが出来ると考えている。つまり、多配列分類の場合は、あるクラスの典型とされるイメージ(ないしは個体、個体群)の諸特性が重要な意味をもち、そのクラスにまとめられる個々の個体は、この典型的なイメージの持つ諸特性と様々なやり方で類似した特性をもっていると判断されるのではないかということである[吉岡 1983, 1985, 1998、Yoshioka 1985]。それは、ある植物のクラスの典型とされる植物 x があった場合、x と葉の形が似ているということで y が同じクラスにまとめられ、x と幹が似ているということで z が同じクラスにまとめられるというやり方である[Hays 1979, Hunn 1977]。その場合、典型的なイメージと類似していることを示すために選択される特性は、コンテキストによって自在に切り替わる。場合によっては、クラスの境界線でさえ越えてしまうことがあるのである。
 ヴァヌアツの北部ラガでは、動物はその動きによって「這うもの(ginau sirabwa)」、「走るもの(ginau rovo)」、「歩くもの(ginau lago)」などに分類されている。そしてヘビは「這うもの」の中核として常に「這うもの」のクラスに含まれる。しかし、トカゲは、「這うもの」に分類されたり「走るもの」に分類されたりする。「這うもの」に分類した者は、このクラスが腹で這うという特性を持っているからをその理由に挙げる。ところが、「走るもの」に分類したものは、「這うもの」というクラスの特性として「足がない」という点をあげ、トカゲには足があるから「這うもの」ではなく「走るもの」だと主張するのである。ヘビは「這うもの」の典型的な個体(個体群)として扱われており、トカゲはその周縁部にあって、ヘビの持つ特性との類似でクラスに組み入れられたり、ヘビの他の特性故にそのクラスから排除されたりするのである。こうしたやり方こそが、松田の言うソフトな民族の在り方であり、中川の言う民族1の柔軟さであろう。従って、ここで言うエトニーの分類原理として多配列分類を考えることが出来よう。

2 ヴァヌアツにおけるエトニー

 内堀はエトノスを次のように規定している。つまり、「ほぼ共通の言語と生活習慣を持ち、こうした共通性を根拠に「他者(彼ら)」から「われわれ」を分かつ主観的意識を持っている(と想定される)人間集団」[内堀 1997:10]。彼はもちろんエトニーとエトノスという区分をしていないが、エッセンシャリズムに陥らないエトノスが本論で言うエトニーであることを考えれば、この漠然とした民族イメージで、しかも排他的な境界線を設定しないような場合は、エトニーのイメージとして位置づけることが出来よう。この規定をベースにして、ヴァヌアツにおけるエトニーをどのように捉えるのかという問題から始めることにしよう。
 ヴァヌアツは、メラネシアの島嶼国家で、1980年に英仏共同統治領から独立した。人口が20万人程度であるにもかかわらず100を越える言語が話されている、いわば多言語国家である。単純平均で2000人で1言語を話すということになるが、これらの言語単位に属する人々は、共通の言語と生活習慣を持っており(あるいは持っていると想定されており)、漠然と自分たちをまとまりのある人間集団として意識している点で、エトニーと捉えることが出来よう。筆者がフィールドワーカーとして滞在経験を持つ北部ラガ地方の人々も、そうしたエトニーを構成している人々であると言える。北部ラガというのは、ペンテコスト(ラガ)島北部を指し、そこではラガ語と呼ばれる言語が話されている。ペンテコスト島中部や南部ではそれぞれ違う言語が話されているため、ラガ語圏はペンテコスト島の一部を占めているにすぎないが、すぐ北隣のマエウォ島南部でもラガ語が話されており、ラガ語圏は二つの島に渡っていることになる。もっとも、マエウォ島南部の人々はペンテコスト島北部から移住していった人々であり、彼らは都市部に移住していった人々と同様に、ペンテコスト島北部を中核とした広がりの周辺部を構成していると言えよう。
 これらラガ語を母語とする人々は、お互い同士が話すときには「我々ラガ人(gida ata Raga:gida = 我々、ata = 人間、 Raga = ラガ)」という自称をしばしば用いる。しかし、この場合の「我々(gida)」というのは「あなた(がた)と私」という聞き手を含んだ表現であり、話し手と聞き手以外の第3者に対して用いられる表現ではない点に注意する必要がある。「聞き手を含まない我々(gimiu)」という言い方を用いて、第3者に対して「我々ラガ人(gimiu ata Raga)」という名乗りをすることがあり得るように思われるかもしれないが、これは生じない。というのは、ラガ語を話す人々は基本的に「我々ラガ人」なのだから、ラガ語を話さない聞き手に対して「(聞き手を含まない)我々ラガ人」という表現をラガ語でしても無意味になるだけだからである。つまり、現地語における「我々」という名乗りは、第3者に対してなされるものではなく、自分たち内部に向かって発信されるものであるということである。
 この「我々ラガ人」というクラスは、ラガ語を話すという共通の特性をメルクマールとして出来上がっているように見えるが、実は、極めて曖昧なやり方で構成が行われている。北部ラガ地方でこの表現が用いられるときは、「ラガ語を母語としペンテコスト島北部で生まれ育った人々」という意味合いが中核に存在するが、ラガ語を話せなくともこれらの人々と結婚して北部ラガで生活し、人々と生活を共有している人もこの概念に含まれる。そして、私のような日本というところから来ていることが明確に分かっているフィールドワーカーでさえも、この「我々ラガ人」概念に含まれることになるのである。さらに、都市部でこの表現が用いられたときは、まさに、上記のペンテコスト島北部の人々を典型として、その人々からイメージされる北部ラガの人々に類似している人々が、この「我々ラガ人」という概念にまとめられることになる。例えば、ペンテコスト島北部の母とペンテコスト島中部の父を持つ男は、首都で生活し、中部の人々と生活を共有しながらも北部の言語も話せるが、彼も「我々ラガ人」である。さらに、都市部でしばしば耳にする「我々ラガ人」には、北部だけではなく中部や南部の異言語圏の人々さえも指すことがあるのである。
 村落部(北部ラガ地方)では、同じ島でも異言語圏の人々が「我々ラガ人」のクラスに入ることはないが、都市生活者は、他の島の出身者との差異化のために、ペンテコスト島全体を一つの単位とみなすようなまとめかたをすることもある。ただし、この場合、島の北部出身なのか中部出身なのかを区別する必要があるときには、ラガ語には存在しない北部、南部という概念をピジン語から持ち込んで、「北部にいる我々ラガ人 (gida ata Raga la nos)」「南部にいる我々ラガ人 (gida ata Raga la saos)」という言い方をすることになる。こうした「我々」という自称は、北部ラガ社会の人々を典型的なイメージとして、それとの類似関係、あるいは、そのイメージの持つ特性、例えば「ラガ語を話す」、「北部ラガの人々と同じ価値観で生活している」、「北部ラガの人を親に持つ」、「ラガ(ペンテコスト)島に居住する」などの特性のどれかと関連する人々を周縁部におく多配列的カテゴリーとして成立しているのである。
 都市部で、ペンテコスト島中部や南部の異言語の人々をも「我々ラガ人」という表現で呼ぶという現象は、ビスラマ(ピジン語)での「我々」の用法と連動していると思われる。ビスラマによる我々概念は、マン・プレス(man ples) という概念によって示される。これは、マンの後に場所を指す言葉を入れることで「〜人」という言い方になるもので、例えばマン・ペンテコストは、ペンテコスト島民あるいはペンテコスト人、マン・マレクラはマレクラ島民、あるいはマレクラ人という意味合いを持つことになる。都市部では、マンの後に挿入される場所名は島単位で表現されるため、ペンテコスト島北部を指し示すようなピジン語での表現は用いられない。従って、北部の人々も中部の人々もマン・ペンテコストということになる。ただ、北部ラガの人々が自称としてこの語を用いるときは、その中核にはラガ語で言う「我々ラガ人」という概念があり、それ故、「ラガ語を話し北部ラガで生まれ育った人」というイメージを典型としてペンテコスト島出身の人々全体に拡がるようなカテゴリーが形成されることになる。
 ところで、ヴァヌアツにはエファテ島にある首都のヴィラとサント島にある地方都市・ルガンヴィルの二ヶ所の都市部が存在するが、これらの都市部はマン・プレスの対象にはならないと言われている。どういうことかと言えば、マンの後に挿入される場所名として、ヴィラやルガンヴィルという都市名が用いられることはないというのである[吉岡 2002:691]。ということは、都市部で生まれ育ちビスラマを母語としてきた人々も、マン・ヴィラやマン・ルガンヴィルではなく、どこかの島の名前をつけて呼ばれるということである。北部ラガ出身の父とアンバエ島出身の母を持ち、ルガンヴィルで生まれ育ったある男性を例にとって、この点を説明しよう。彼は、北部ラガの言葉も母の故郷の言葉も話せず、ビスラマを母語としている。彼はルガンヴィルの出身であるため、ルガンヴィルのあるサント島を自分の出身島とすることは可能である。その場合、彼はマン・サント(サント人)ということになる。しかし彼は、自称としてはマン・サントではなく、マン・ペンテコストを用いている。彼は、サントの連中はすぐ喧嘩するので嫌だという。また、母の故郷であるアンバエでは、自分には土地をもらうことが出来ないが、父の故郷である北部ラガでは自分の土地を持つことが出来るので、マン・ペンテコストを名乗るというのである(3)。
 彼がマン・ペンテコストを名乗っていることは、北部ラガ地方からルガンヴィルにやってきた人々にも知られており、彼らがこの男性と会った時は「おはよう」「こんばんは」などの簡単なラガ語での挨拶を交わすのである。この程度の簡単な挨拶は、ラガ語が話せないこの男性にももちろん可能であるが、重要なのは、北部ラガから都市部に出てきた人々が、彼にラガ語で話しかけるという点である。もちろんラガ語で言う「我々ラガ人」の中核からは遠く、そのクラスのいわば周縁部に位置していることは確かである。それは、ペンテコスト南部の人を「我々ラガ人」の周縁部に位置づけるよりも、さらに外側の位置を占めているだけかもしれない。それでも、彼は、マン・ペンテコストという多配列的クラスの一端を占めているのである。
 一方他称としてのマン・プレスは、単配列的なクラスを構成しているように見えることが多い。例えば、上記で取り上げたビスラマを母語とする男が、マン・サントはすぐ喧嘩するので嫌だ、と言うとき、彼はマン・サントを一つのまとまりとして枠づけているように聞こえる。また、それぞれの島の出身者同士の喧嘩というのは、現によく見られる。ある島の出身者が別の島の出身者にひどい目に遭わされた場合、前者は後者に対して報復行為を行うこともある。全ての人々が島単位に区分される都市部においては、他称としてのマン・プレス概念は、島内部の言語・文化の差異を無視して、島それ自体があたかも一つのまとまりであるかのように見せることも事実である。しかし、島単位の枠組みが排他的に決定しているわけではない。自らをマン・ペンテコストと自称する上記の男は、他者からはマン・ペンテコストとして扱われたり、マン・アンバエとして扱われたりしているのである。また、島単位で人々の共通の性質ないしは島民性を抽出できるわけでもない。喧嘩を嫌うマン・サントも当然存在するわけである。マン・プレスは、他称として、名付けとして用いられた場合も、周辺部は曖昧になる多配列クラスなのである。

3 植民地のエリートと「我々」の発見

 植民地を経験した地域で生じる独立運動は、植民地のエリートが運動の指導者となる。エリートとは、学校教育を徹底的に学んだ者であり、初等教育、中等教育で優秀な成績を収め、高等教育は海外に留学して修めるという経験を持つことも多い。1980年、英仏共同統治領ニューヘブリデスから独立を達成したヴァヌアツ共和国も例外ではない。表2は、1981年当時のヴァヌアツの内閣の閣僚をピックアップしてその教育歴を示したものである[Aaron et al. 1981:4-59]。初等教育校(primary school)や上級初等教育校(upper primary school)を終えてからの経歴が示してあるが、中等教育校(secondary school)から海外に留学する者も見られ、彼らの多くは高等教育機関を卒業している。英仏共同統治領という植民地形態を反映して、

閣僚                 プライマリー・スクール終了後の教育歴                                  
ソコマヌ大統領 フィジーのMethodist Lelean Memorial School、及びフィジーの Nasinu Teachers Training College
リンギ首相 ニューへブリデス内の Vureas High School 終了後、ソロモン 諸島のSt. Peter's College さらにニュージーランドのSt. Jhon's Theological College
カロ国会議長 ニューへブリデスの首都のFrench Communal School
ブレコン野党側リーダー ニューカレドニアの中等教育校卒業後、フランスで勉強
カルポカス教育相 ニューへブリデス内の Onesua High School 卒業後、ソロモン諸島のKing George VI、さらにニュージーランドの Ardmore Teachers Training College、そして南太平洋大学で勉学
カラサカウ財務相 14才からオーストラリアのScots College、その後南太平洋大学
ナプア通産相 ニューへブリデス内のOnesua High School
レーゲンヴァヌ農林水産相 ニューへブリデス内のOnesua High School 卒業後、フィジーの The Pacific Theological College
リューベン土地相 ニューへブリデス内のTangoa Teachers Training Institute.その後 オーストラリアで勉学
ティマカタ内務相 ニューへブリデス内のTangoa Teachers Training Institute.その後、フィジーのMethodist Theological Collge、さらに、フィジ ーのThe Pacific Theological College
ウォレク保健相 ソロモンの中等教育校、さらにニュージーランドのSt. Stephen's School、Ardmore Teachers College、そしてイギリスのリーズ大学

             表2[Aaron et al. 1981 より]

フランス系の学校で教育を受けた者は、ニューカレドニア、さらにはフランスへの留学を、イギリス系の学校教育を受けた者は、ソロモン諸島やフィジー、さらにはオーストラリアやニュージーランドへの留学を行っていることがわかる。また学校はミッション・スクールが基本であり、フランス系ではカトリックの学校へ、イギリス系ではアングリカンやプレスビテリアンなどの学校へ通うことが一般的だった。表2に登場するニューへブリデス内のヴレアス・ハイ・スクールはアングリカン、オネスア・ハイ・スクールはプレスビテリアンの学校である。これらイギリス系の学校では、中学課程を終えた時点で試験が行われ、それにパスした者のみが高校課程への進学を認められたが、特に成績優秀な者はソロモン諸島の中等教育校・キング・ジョージ六世校に留学することが出来た[Lini 1980:13]。
ところで、ヴァヌアツ共和国は大統領を戴いているが、それは象徴としての存在であり、実権は首相が握るという体制を敷いている。そして共和国初代首相となったウォルター・リンギが、ヴァヌアツ独立運動のリーダーだった。リンギは、アングリカンの影響下にあった北部ラガで生まれた。彼は5才の時からオーストラリア人宣教師の日曜学校に通っていたが、8才の時、北部ラガ出身のアングリカンの助祭が近くに初等教育校を新設したため、彼はその学校に入学し、4年間通う。しかし、彼の成績が良かったからか、この学校から彼も含めて3名が急にアンバエ島のヴレアス校(初等教育と中等教育を行っていた)に移るように言われる[Lini 1980:12]。彼はそこで6年間学び(詳細には述べられていないが、おそらく残りの初等教育と中等教育の前半に当たる中学課程)、18才の時に学校を出る。彼が6年間を過ごしたアンバエ島のロロワイ地域は、ニューへブリデスにおけるアングリカンの拠点であった。そこには、後の司教になる助祭長がいて、リンギの相談に乗っていた。卒業後の進路について悩んだ末、彼は、アングリカンの司祭になることを決心し、たまたまロロワイ地域にやってきた司教と話をした結果、翌年からソロモン諸島のセント・ピーター・カレッジ(St. Peter's College)で学ぶことが決まった。彼は、20才から23才までの三年間この学校で学ぶことになるが、ソロモン諸島に行く前に、3か月のニュージーランド旅行を行っており、非常に刺激的な体験だったと振り返っている[Lini 1980:13-14]。
 セント・ピーター・カレッジでは、誰よりも優秀な成績を上げたことから、彼はニュージーランドの名門・セント・ジョン神学校に留学を認められ、そこで一心不乱に勉学に努める。そしてそこでの3年間の経験が彼を政治の世界に引き込むことになったのである。彼はそのことを次のように回想している。「1967年、セント・ジョンに来て2年目の時、私は哲学や神学の本に書いてある教育内容はほとんど外国のものであることに気づき始めた。それらはヨーロッパかアメリカのどちらかの思想であった。それらの本にも講義にも、ニュージーランドや太平洋の思考がほとんど見いだせなかった。私は、ニュージーランドや太平洋の人々が全く外国の神学、倫理、哲学、観念を学ばされていることに次第に不安を増していった。こんなふうにして神学の勉強を続けていくことは間違っているように思えた。その年の終わりまでには、私はますます苛立っていった。全てが私の伝統的思考であるメラネシアの文化や太平洋の視点に言及することなく教えられていたのである」[Lini 1980:14-15]。
 神学校最後の年に、ニュージーランドにいる太平洋諸島出身の留学生たちで、西太平洋学生協会(Western Pacific Students' Association)が設立された。この協会は、ニュージーランドの都市にいても我を忘れないために互いに接触を保とうという目的で設立され、協会誌ワントク(Wantok)が発行されることになった。この雑誌は、それぞれの出身の島々にも送付されたが、それは、人々に自分たちの生活を振り返り、自分たちの地域の好ましい発展の在り方を考えさせようとするものであった。リンギはその雑誌の編集に携わっていたのである[Lini 1980:15]。同じころ、表2の教育相・カルポカス(後に首相)もニュージーランドの教員養成学校に留学していた。彼はリンギが雑誌ワントクの編集に携わっていたまさに同じ頃、ニューヘブリデスの人々はメラネシアのルールのもとにしっかりと結び付いた単一の人々にならねばならないと認識するようになっていた[Aaron et al. 1981:21]。
 ニューヘブリデスにもどったリンギは、ワントクと同じような新聞を発行することを考え、宗派を越えた教会の司祭や牧師と協議の結果、ニューへブリデス・ビユポインツ(New Hebrides Viewpoints)という新聞が発行することが決まった[Lini 1980:24]。一方カルポカスは、出身地で生じた白人とニューヘブリディアンの間で土地を巡る紛争をきっかけに、同じ出身地のもう一人仲間と共に、ニューヘブリデスでの諸問題、特に土地の問題を考える文化協会を作ることを決意していた。そして、彼はリンギと会い、両者は共に互いの考えを確認しあい、そこにニューヘブリデス文化協会(The New Hebrides Cultural Association)が設立されることになった[Aaron et al. 1981:9]。この協会が設立されて3か月後、協会は、独立を考えるニューヘブリデスで最初の政党である国民党、後のヴァヌアアク党に発展したのである[Lini 1980:25]。
 ヴァヌアアク党は、英仏共同統治体制下でイギリス系の影響のもと、英語教育を基盤とした西洋的教育を受けたニューヘブリディアン・エリート達が、西洋的世界にまで出かけてゆきそこで初めて、「西洋的世界と異なっている我々」を発見した時生まれたのであるが、こうした「我々」の発見は、国民党だけではなかった。それと対立したフランス系の諸政党の中でも最大の勢力をもっていたUCNH(Union des Communaute des Nouvelle Hebrides)もそうだったのである。当時のUCNHの副党首であったブレコン(表2参照)は次のように述べているのである。「全てのニューヘブリデスのメラネシア人は自らが植民地化された人々であることを知っている。我々はフランスとイギリスの政策や態度に被害を被ってきたが、その政策や態度は我々の抱負、心性、我々ヘブリディアンの人格、そして慣習に反していることを知っている。・・・それ故メラネシアの人々は自らの自由と独立に向けて変わってゆくことを切望する」[Kele-Kele et al. 1977:48]。彼の主張は、基本的に、ヴァヌアアク党の視点と変わりない。事実彼は「個人的には、もしヴァヌアアク党が(独立の)期日を言明してなければ私はヴァヌアアク党のメンバーになっていただろうと思う(括弧内は筆者の加筆)」とまで述べているのである[Kele-Kele et al. 1977:49]。彼もまたフランスに留学の経験を持つエリートであった。ヴァヌアアク党とUCNHのニューヘブリディアン指導者達は、イギリス系、フランス系という違いはあるにしても、「西洋とは異なる我々」の発見及びその自立という点では一致していたのである。

4 植民人民族の自決

 エリート達の発見した「我々」とは、それぞれの出身の言語・文化圏の人々、すなわちエトニーではなかった。彼らは子どもの頃から自らの出身地を離れた生活を送ってきたのである。独立運動の立て役者であるリンギにしてもカルポカスにしても、子どもの頃から寄宿制の学校で学んできた。リンギの学んだアングリカン系のヴレアス・ハイ・スクール、カルポカスの学んだプレスビテリアン系のオネスア・ハイ・スクールには、ニューへブリデス中から子どもたちが集まってきていた。彼らとは母語での会話はなかった。学校内では英語で、そして外ではビスラマでの会話が主流であった。そうした生活を経験した子ども達が、そこから故郷に帰らずに、さらにソロモン諸島、ニュージーランドへと旅立っていったのである。彼らは、自らの言語・文化圏における伝統文化を身につけ、それを自らの生活の中で体験する前に、故郷を離れ、西洋的価値観に基づいた学校教育を徹底的に受けることになるのである。リンギにとって我々は「我々ラガ人(gida ata Raga)」ではあり得なかったのである。では、これら植民地のエリート達にとっての「我々」とは誰のことであったのか。
 ヒントは、リンギが編集者となっていた雑誌ワントクの名前に隠れている。リンギ自身はワントクを、「家族や友人の間での会話」と訳しているが[Lini 1980:15]、その雑誌が、メラネシアや他の太平洋諸島から来ている学生に、自分達の故郷の政治的社会的状況を認識させようとするものであったことを考えれば[Aaron et al. 1981:8]、ワントクが、それぞの地域において植民地勢力に対抗する一つのまとまりを意味していたことは明らかだろう。アントゥファロは、後年、カルポカスがワントクを知って政治の世界に参入していく過程を論じる中で、「ピジンでは“ワントク”は“マン・プレス”を意味するが、一般的には、おそらくそれは“単一の人々のまとまり(unity of one people)”と訳すことが出来た」と述べている[Aaron et al. 1981:21]。そしてカルポカスが、独立運動へと邁進するのも、こうした「メラネシアのルールのもとにしっかりと結び付いた単一の人々」というまとまりを意識してのことであった[Aaron et al. 1981:21]。
エリート達はそれぞれの地域に帰って、「単一のまとまり」を強調することになった。リンギやカルポカスらが作ったニューへブリデス文化協会は、「ニューへブリデス文化(New Hebridean culture)を促進し、維持し、奨励すること。ニューへブリデス文化と西洋文明との関連で、ニューヘブリデス人(New Hebridean)を社会的に、教育的に、経済的に、政治的に発展させる道を探ること」を目的としていたが[Kele-Kele et al. 1979:24]、このことから分かるように、彼らはニューヘブリデスという植民地の枠組みによって成立しているニューヘブリデス人を、西洋とは異なるニューヘブリデス文化を持った「我々」と捉えていたのである。こうした「我々」は、独立前に作成されたビスラマ語による1980年憲法の冒頭でも明確に謳われている。それは、「我々はすべてマン・ニューヘブリデスである(YUMI OL MAN NIUHEBRIDES).」というものである(4)。
 マン・ニューヘブリデスという表現は、斬新なものであった。マン・プレス概念では、マンの後に地名を付加するが、島の名称を付加するのが基本で、場合によっては村が地名として用いられることもあるが、植民地全体を表すニューへブリデスを対象としたマン・プレス概念は、他称としても自称としても用いられることがなかったのである。しかも、マン・ニューヘブリデスは、通常のマン・プレス概念とは異なった性質を持っていた。つまり、マン・ニューヘブリデスという概念には、中核となるイメージがなかったのである。マン・ニューヘブリデスには沢山の島出身者が含まれており、それぞれマン・マレクラであったりマン・ペンテコストであったり、マン・サントであったりした。そのため、どの島がニューヘブリデスの中核イメージを構成するかということについては、誰も何も言えなかった。既に述べたように、通常のマン・プレス概念は多配列的に構成されており、その中核となるイメージとの類似によって周辺部が形成されていたのであるが、この点でマン・ニューヘブリデスは逸脱したものであった。さらに、マン・ニューヘブリデスには、英仏共同統治領として確立されたニューヘブリデスという明確な境界線を備えた外枠が設定されていた。この枠は排他的なもので、単配列的な枠組みに基づいたものであった。独立運動の中で提起されてきたこの概念は、さらに、内的な共通特性を探る試みによって単配列クラスとして確定したものになっていった。この共通の特性こそが、伝統文化なのである。100以上も異なる言語が話されているニューへブリデスで、単一の伝統文化が成立しているはずがなかった。しかし、西洋文化とは異なるという点で単一を装う伝統文化概念(例えばメラネシアン・ウェイ)が、この単配列クラスの共通特性として用いられたのである。
 ところで、アフリカなどに見られる植民地からの独立運動を考察してきたノイバーガーは、「植民地の自決(colonial self-determination)」という概念を提唱し、それを「植民地人民(population of colony)、つまり、通常は民族文化的統一性をなんら持たないにもかかわらず植民地分割によって恣意的に境界づけられた“国家民族(Staatsnation)”が独立を勝ち取ること」と規定している[Neuberger 1986:9]。小田は、ノイバーガーの言う国家民族という用語はマイネッケの文化民族と対比させて用いられているという解説をした後、次のように述べている。「民族自決の原理からすれば「文化民族」こそが自決権を行使する主体となるべきであろう。・・・現代アフリカについていえば、そうした事例は絶無であるといってよい。アフリカの場合には、ナショナリズム運動も「文化民族」の解放運動ないし政治的自己主張として展開されたのではなく、「所与の植民地人民の解放運動」として展開されたのであるし、独立を達成したのもくり返し述べてきたように「植民地人民」なのであった」[小田 1988:89]。
 ノイバーガーは、植民地の自決は民族(nation)ベースではなく植民地(colony)ベースであるという点で、民族の自決(national self-determination)とは決定的に異なるものとして位置づけている。つまり、民族の自決に基づいたナショナリズムは、まず「市民」という概念が生まれ、それを「媒介として結衆する人間の集合的紐帯としての民族意識を形成し、その民族を中核とする生命・財産の保証の体系として“国民”にふくらんだ人間の容器を“国家”と認識し具象化する」[内山 1982:8]というものであるが、植民地の自決は、それとは決定的に異なるものとして位置づけられていたのである。確かに、アフリカをはじめ、植民地化を経験した多くの地域では、国家の枠組みは出発点から定まっていた。つまり、新たに建設するはずの国家は、植民地という枠に規制されていたと言える。そしてその点では、ニューヘブリデスにおける独立運動も、ニューヘブリデスという植民地の枠組みの中にまとめられた「植民地住民」が独立を勝ち取っていったという点で、彼の言う「植民地の自決」に当たる。しかし、ニューヘブリデスの事例は、おそらくアフリカでも見られたであろうがノイバーガーが無視した点を、明確にしてくれる。それは、「民族文化的統一性を持たない植民地住民」を、エリート達は「西洋とは異なる伝統文化を共有する単一の人々」と捉えたという点である。
 植民地から独立した国家の多くは、植民地の境界線を踏襲した形で独立国家の国境を策定している。そのことから、これらの地域では、最初に国家の枠組みが存在していたと言われてきた。しかし、独立を推進したエリート達は、こうした恣意的な植民地の境界線を意味なく踏襲してきたのではなかった。いやむしろ、その恣意的な枠組みを積極的なまとまりと読み直すことによって、初めて独立運動が達成されていったのである。エリート達にとっては、植民地人民は、ノイバーガーの言う「国家民族」ではなく、西洋とは異なる伝統文化を持った「文化民族」であり、その意味では、擬似的な民族=ネイションとしての位置づけを与えられていたと言える。こうした文化民族としての植民地人民を、新たに「植民地人」と呼ぶとすれば、エリート達は、海外に留学する中で植民地人という民族=ネイションを発見し、「植民地人民族の自決」を目指したと言えるのである。
 植民地人民族は、彼らにとっては単一のものであったが故に、独立運動の中で生じてきた分離活動に対しては、彼らは徹底して抵抗した。植民地の一部がそこから分離すれば、この民族としての単一性が失われたからである。彼らの独立運動を単に非植民地化(あるいは反植民地的自決)とだけ捉えるならば、こうした分離活動に対する徹底した抵抗を説明することは出来ないのである。また、それを人種の自決と捉えることも出来ない。そもそも人種的なまとまりを規定することは難しいが、たとえば「メラネシアン」という人種的なまとまりが想定出来たとしても、独立はメラネシア単位で行われたわけではないのである。そして独立運動は、強調してきたように植民地の外枠の自決でもない。それは、ある種の民族=ネイションの自決であり、ナショナリズムを民族主義と訳すなら、ヴァヌアツ・ナショナリズムは植民地人民族主義とでも呼べる性質を持っていたのである。
 ただし、それはエリート達にとって、という条件がつく。この点が民族の自決と異なる点だと言えよう。植民地からの独立を目指したこのようなナショナリズムは、ごく少数のエリートの独占物となってしまい、“ナショナル”な共有のものとしては作用しなくなるという指摘の通り[矢野 1980:8-9]、確かに、ヴァヌアツにおいても、エリートのナショナリズムは人々に共有されたとは言い難い。しかしそれは、ごく少数のエリート達がそれを独占していたからではないという点も付け加えておかねばならない。エリート達はマン・ニューヘブリデスという単配列的な植民地人民族を発見し、それに基づいたナショナリズム運動を展開したのに対して、多くの人々にとっては、マン・ニューヘブリデスはマン・プレス概念の延長として位置づけられ、それは多配列的なカテゴリーとして受け入れられていた[吉岡 1994:231-232]。つまり、エリート達はマン・ニューヘブリデスを類化のマジックに従ったネイションとして想定したのに対して、多くの人々はそれを柔軟で変幻自在なエトニーとして見ていたということである。そのため、エリート達のナショナリズムは人々には共有されなかったのである。

5 エスノナショナリズム

 1980年、ヴァヌアアク党による新政府がヴァヌアツ共和国の独立宣言をする2か月前、サント島を中心とした分離独立の暴動が勃発した。ナグリアメルという団体が中心となって起こした暴動で、サント島をヴェマラナ共和国として分離独立させることを目論んだものであった。サント島には、キリスト教に改宗せずに伝統的生活を送っている人々が多くいたが、ナグリアメルは、彼らの支持を背景に、ヴァヌアアク党が主導で独立すれば伝統文化は消滅してしまうと主張して分離独立を企てたのである。この分離運動には、サント在住のフランス系白人を支持母体としたフランス系政党の一つ・MANH(Mouvemnet Autonomiste des Nouvelle Hebrides)も、首都に独占されている金権の平等な分配を主張して参加したのである[吉岡19888:158-159]。サント島の都市ルガンヴィルが占拠される中、新政府は暴動の鎮圧を英仏の統治政府に求めたが、イギリス色の強い独立を快く思っていなかったフランスは非協力的な態度を示したため、イギリスも暴動を鎮圧する行動に出ることは出来なかった。そこで、業を煮やした新政府は独立宣言をし国名をヴァヌアツと改めた後、自らの主権でパプアニューギニアに軍隊の派遣を要請しこの暴動を鎮圧したのである(5)。
 これは、独立運動が、分離活動を許さない性質を持っているということを示した一例であるが、植民地が独立する時に、同時に分離独立の運動ないし暴動が起こることは稀ではない。この点に関して矢野は、植民地からの独立を目指したナショナリズムには、ナショナリズムが高揚すればするほど、下位レベルの部族主義、地方割拠主義なども高揚し、分離運動に正当性が与えられるという問題点、即ちナショナリズムそれ自体の中に分離運動に正当性を与える論理が内在しているという問題点が存在していると指摘している[矢野 1980:9]。ナショナリズムに内在する論理から出てきた分離活動は、本来関連を持たない「部族」なり集団が植民地化と共に恣意的にまとめられることから生じる。独立運動の過程で、恣意的なまとまりであったものを単一のものとして強調すればするほど、その内部にある本来は単一であった(と想定される)エトニーが我々意識を高め、他のエトニーとの違いを意識するようになって分離独立の活動が始まると言える。エスノナショナリズムと呼ばれるこうした運動は、エトニーを基盤とした排他的なカテゴリーを形成するところに特徴があり、エトニーという多配列クラスをエトノスという単配列クラスに読み替えることによって行われる運動であると言えよう。
 ヴァヌアツの分離運動は、しかし、こうした意味でのエスノナショナリズムとは少し異なったものであった。というのは、分離独立の対象となったサント島内は、内部に多くの異質な言語・文化単位をかかえており、しかも、それらがまとまって、他のニューヘブリデスの諸言語・文化単位と何らかの対比を見せているわけでもなかったからである。つまりは、この運動は、単一のエトニーによる我々意識に基づいたものではなかった。従ってそれは、「部族主義」などの概念で捉えることの出来るようなものではなかったと言える。しかし、エスノナショナリズムが「エスニックの自決(ethnic self-determination)」[ローネン 1988, Neuberger 1984]を意味しており、ローネンの言うように、そこでのエスニックというものが必ずしも人種的・文化的実体を持っているとは限らないということであれば[ローネン 1988:72]、ナグリアメルの運動もエスノナショナリズムの発露として位置づけることができよう。というのも、エトニーを単位としていたわけではなかったが、まとまりがなかったわけでもないのである。それが、マン・サントであった[Beasant 1984:18]。
 マン・サントは、自称としては、個々のエトニーを中核にした多配列クラスを構成しており、それぞれのエトニーにとっての意味合いは異なるが、他者から見れば、それらはあたかも単一であるかのようにみえる概念であった。ナグリアメルは、このマン・サントを単一のエトノスのように読み替えたわけである。サント島では、ナグリアメルが活動を開始する前から「サント人のためのサント島」(6)というスローガンを掲げた土着主義運動が勃発していたのだが、ナグリアメルは、こうした人々のエトニーを起点とした個々の我々意識を利用して、ヴァヌアアク党主導の独立に反旗を翻したのである。
 分離運動と独立運動の違いは明白である。前者は、ニューヘブリデスを多数の異なるエトノスの集まりと見なした。前者にとっては、ヴァヌアツ共和国はいくつものエトノスが集まって出来上がっているのであって、それと利害や主張が異なるエトノスがそこから抜け出すことは当然のことであった。従って他のエトノスが抜け出すことも、了承出来た。現にナグリアメルはヴァヌアツ共和国からのサント島の分離を唱えたが、その主張に同調したニューヘブリデス南部のタンナ島の分離活動をも支持したのである。一方、後者は、既に論じたように、ニューヘブリデスを多数の異なるエトノスの集まりではなく、たとえ擬似的なものであったとしても単一のネイションと見なした。単一のネイションから一部が分離していくことは、あり得なかったのである。このネイションは、ヨーロッパにおいて生まれてきた民族の自決におけるネイションと同じものであるわけではない。しかし、民族自決が、ローネンの言うように「独裁支配者たる「彼ら」に反対する人民の「われわれ」は、19世紀に、フランス民族およびフランスという外国の支配に反対するドイツ民族およびイタリア民族の「われわれ」へとかわっていった」という意味でのものであれば[ローネン 1988:43-44]、それは植民地からの独立運動がもっていた「我々の発見」と質的に大きな開きがあるとは言えないということになるだろう。分離運動はエトノスを基盤として、そして独立運動はネイションを基盤として成立してきたと言えるであろう。
 さて、ここで問題となるのは、ネイションとエトノスの違いである。なぜマン・ニューヘブリデスはネイションでマン・サントはエトノスなのか、という問題をクリアする必要がある。そもそも、ネイションとエトノスは分かちがたいものとして想定されることも多かった。そして、(エトノスを起点とした)エスノナショナリズムは(ネイションを起点とする)ナショナリズムに類似しているとしばしば指摘されてきた[ex. Neuberger 1986:9, 内堀 1998:11-12]。またスミスは、想像された共同体としてのネイションに対抗して、エトニーを基盤としたネイション概念を提起している。彼は、近代以前に成立していた民族的なまとまりをエトニーと呼び、それには、集団の名前、共通の出自や血統に関する神話、歴史の共有、独自な文化の共有、ある特定の領域との結びつき、成員間の連帯感という六つの属性が備わっていると論じるとともに、ネイションは、こうした属性をベースとした上で、統一の法典を持ち共通の権利と義務が規定されている、統一された経済を基盤としている、緊密性の高い領域をもつ、単一の政治文化と大衆的な公教育およびメディアの制度をもつという属性が備わっていると論じている[スミス 1998:52,27-128, 1999:30-37]。スミスは、本論で言うようなエトニーとエトノスの区別を行っていないが、ネイションとエトノスの関連で言えば、もちろん、両者が極めて似通っているということをいわんとしているのである。
 しかし、スミスの意図に反して、彼のエトニーとネイションの区別が、まさに本論で言うエトノスとネイションの違いとして設定できるのである。それは、共通の法的権利義務、共有された教育システム、統一された経済、などが備わっているかどうかという点である。マン・サントは、人々の側から言えば自らのエトニーを中核とする概念で、スミスの言う六つの属性は備えていると言える。それを運動のリーダー達は、単配列的な枠組みとして捉え、人々のまとまりを促したのであるが、そうしたまとまりに欠けていたのは、まさしく共通の教育システム、経済、法的権利義務などの近代的なシステムだったのである(7)。これらは、植民地全体で実現されるものであり、サント島だけが独自のものを持っているわけではなかった。一方、マン・ニューヘブリデスは、植民地全体を枠組みとしていたため、こうした属性を備えていた。そしてマン・ニューヘブリデス概念を提出した独立運動のエリート達は、まさしく、こうした属性のなかから育ってきたのである。マン・サントを標榜する分離運動は、あくまでもエトノスを基盤とするエトノス・イズムに則っていたのに対して、マン・ニューヘブリデスを標榜する独立運動は、擬似的ではあってもネイションを基盤とするネイション・イズムに従っていたと言えるのである。

6 独立運動それとも分離運動

 分離運動は、植民地の独立の過程で、あるいは独立後に展開されているが、多くの場合は分離独立が達成されていない。独立を目前に控えた新政府、あるいは独立後の国家がそれを許さないからである。分離を許さない理由は多くあるが、主要な理由として、経済的要因が指摘されてきた。例えば、パプアニューギニアから分離独立を目指したブーゲンビル島は、世界的な銅山のある島であり、その分離をパプアニューギニア政府が許さないのは経済的な理由からである、というのは間違ってはいないだろう[豊田 2000:259-260](8)。一方、キリバス共和国が独立するとき、そこから分離独立を目指したバナバ島の場合も、リン鉱石という経済的な利点を巡っての攻防であったと言われている。バナバ島民は、リン鉱石という資源を背景に分離を主張したことは確かであり、キリバス側もそれを阻止しようとした。しかし、その攻防が煮詰まってきたころには、リン鉱石は枯渇する寸前であった。そしてキリバス共和国がバナバを含んで独立した時には、バナバのリン鉱石は完全に枯渇していたのである。それでも、キリバスはバナバを手放さなかった[Teiwaki 1983:7,20]。経済的な理由だけとは言えない状況が見えてくる。そして、ヴァヌアツのナグリアメル運動に至っては、何ら経済的な問題は絡んでいなかったと言える。サント島が分離独立しても、ヴァヌアツにはさして大きな経済的損失は生じなかった。にもかかわらず、その分離活動は押さえ込まれているのである。
 経済的な利害というモチーフがあるなしにかかわらず、植民地のエリート達が想定した「我々」としてのまとまり、すなわちネイションとしてのまとまりを、彼らは死守したという点を考えねばならないだろう。分離活動の持っているエトノス・イズムは、独立運動のネイション・イズムに押さえ込まれるのである。ところが、中には分離活動が成功し、分離独立が達成される場合が存在する。太平洋の場合で言えば、イギリスの植民地であったギルバート・アンド・エリスと、アメリカの国連信託統治領であったミクロネシアである。これらの地域では、エトノス・イズムが最終的な分離独立を達成したと言えるのであろうか?
 イギリス領であったギルバート・アンド・エリスは、主として多数派を占めるミクロネシア系の人々を擁するギルバート諸島と少数派のポリネシア系の人々を擁するエリス諸島からなっていた。当初、この植民地はまとまって独立への道を進むかに見えたが、1965年、最初に出来た政党・ギルバティーズ国民党は、ギルバート諸島民中心の排他的性質を持っており、それに反対するギルバート諸島民、そしてエリス諸島民、パート・ヨーロピアンが、キリスト教民主党を設立し対立するようになった[Teiwaki 1983:6]。ギルバートとエリスの対立関係は続き、多数を占めるギルバート諸島民の経済的・政治的支配を恐れたエリス諸島が、ついに分離独立を表明し、1974年の植民地全体投票でそれが承認されたのである。植民地全体の投票で承認されるということは、多数を占めるギルバート諸島民も、彼らの分離行動を歓迎した結果であった。ギルバート諸島民は、様々な職場で高い地位を得ているエリス諸島民を追い出すことが出来ると考えたのである[Teiwaki 1983:11]。一方、既に述べたように、ギルバート諸島はバナバ島の分離を承認しなかった[Talu et al. 1979:176-178]。そして、ギルバート諸島はバナバ島を含めて1979年にキリバス共和国として、エリス諸島は1978年ツバルとして独立したのである。
 エリス諸島の分離活動は、多数の「ミクロネシア人」に対して、不利益を被っている少数の「ポリネシア人」が分離独立を求めたエスノナショナリズムの典型的な事例として捉えられそうであるが、実は、エリス諸島の中にはギルバート諸島起源の人々がおり、エリスは「ポリネシア人」という単独のエトニーからなっていたわけではないのである[Faaniu et al. 1983:72-74]。そして、ギルバート・アンド・エリスの歴史的な在り方を見れば、それとは異なった理解の仕方が見えてくるのである。
 この地域は、1892年イギリスの保護領、1916年にはイギリスの直轄植民地となるのだが、1909年にはエリス諸島の地区行政本部がフナフチに置かれ、それ以降植民地期のほとんどの間、エリス諸島はフナフチを本部とする単一の統治区域を構成していた[Douglas and Douglas 1989:584]。つまり、ギルバート・アンド・エリスという植民地全体の影響下にあるというよりは、独自の単位を構成していたのである。現に、1915年までは地区行政官を一人が努めたが、彼が辞めてからは1932年までの間14人の行政官が入れ替わり、植民地全体を視野に修めた行政は何ら行われなかった上、シッピングが難しいため、地区行政官がいないままの状態になることも多かったと言われている[Faaniu et al. 1983:132]。エリスはまた教育においても、常にギルバート諸島と対抗する姿勢を貫いていた。1922年にギルバート諸島のタラワにキング・ジョージ五世校が出来ると、エリス諸島も同等の学校の設立を訴え、すぐにエリスにも学校が建設されたのである。この学校に教員として赴任してきたケネディは、エリス諸島民の教育レベルを格段に向上させ、後の多くのエリスの指導者を育てた。また彼はエリスの言語と文化にすぐに精通し、教育以外にも様々な事業を行った。特にエリス経済振興のために生協組織を作りだした功績は大きいと言われている。彼は後にエリスの地区行政官となるが、彼がエリスにいた1920年代、30年代は「ケネディ王国」と呼ばれ、彼の影響下でエリスは独自の発展を遂げていた[Faaniu et al. 1983:135-137]。
 ギルバートとエリスが実質的に単一の経済圏として機能し出すのは第二次大戦後であり、それまでの植民地全体の首都がバナバからタラワに移されてからである[Faaniu et al. 1983:146] 。タラワは大戦後の政治・経済の中心となり、そこにおける様々な職種における高い地位は、エリス諸島民が獲得するようになっていった。これがエリスの分離独立の引き金となったのだが、そこには、ギルバートとエリスがあたかも二つの植民地であるかのように統治されてきた歴史的背景が潜んでいたのである。エリス諸島は、ギルバートとは異なった共通の教育・経済システムを持ち、エリス独自のエリートを輩出してきた。それは、エトニーを基盤としたエトノスであったと言うよりも、ネイションとしてのまとまりを備えた姿であったと言えよう。そして、事情は、ギルバート諸島についても同じであった。これらの地域ではギルバート・アンド・エリスというネイションは発見されなかった。その代わりに発見されたのは、ギルバート諸島、エリス諸島それぞれのネイションだったのである。
 アメリカの国連信託統治領ミクロネシアの分裂についても、同様のことが言える。統治領は、北マリアナ、マーシャル、パラオ、ヤップ、トラック(チューク)、ポナペ(ポーンペイ)という六地区に分かれていたが[小林 1994:56]、宗主国アメリカが独立に向けてそれぞれの地区に別々の要求を出したことから各地区の利害の食い違いが起こり、北マリアナ連邦(アメリカの自治領)、マーシャル諸島共和国、パラオ共和国、そして残りの地区で構成するミクロネシア連邦(以上アメリカと自由連合締結)に分裂した(9)。政治・経済的な利害が分裂をもたらしたということは事実であろう。しかし、ここでは、そうした利害の対立がそのまま分裂として承認され、それを押さえ込む力が働かなかった点を問題としたいのである。1963年の調査によって書かれたソロモン・レポートでは、以下のような報告が行われている。「調査団は、信託統治領の人々の間に、彼ら自身が「ミクロネシア人」であるという意識がほとんどないこと、そしてまた、国家主義的感情も芽生えていないことを感じた。ここには地位の連合という伝統はなく、むしろ歴史的には独立した島文化が存在していたからであろう。それぞれの地区は、他の5地区についての政治やその他の分野におけるリーダーが誰かといったことにはほとんど無知であり、地域全体の発展を地区利益に優先させようとする妥協的考えもほとんどない」[小林 1994:31-32]。
 事実、ミクロネシアのエリート達は、ミクロネシアという「我々」を発見しなかった。そうしたまとまりをつくろうとしたのは、なにもしていないという国連の批判を受けて動き出した宗主国アメリカだったのである[cf. Hanlon and Eperiam 1983:86]。エリート達が見ていたのは常に地区という枠組みであり、信託統治領ミクロネシアは、現実の分裂を起こす前に、既に分離していたのである。しかもそれは、エトニーを基盤としたエトノスとしての分離ではなく、むしろ、ネイションとしての分離だったのである。それを最も端的に示しているのが、グアム島以外のマリアナ諸島を占める北マリアナ地区である。
 マリアナ諸島にはチャモロと呼ばれる人々が居住していたが、100年間の間に人口が10万人から1500人に激減し、1600年代の終わり頃には、当時の統治者・スペインは、統治上の理由から全ての島民を諸島最南端の島・グアム及びその周辺に移住させている。その後1800年代の中頃には、カロリン群島から移住があいつぎ、グアムに移った人々が他の島々に戻る頃には、これらの人々はマリアナ諸島各地に定着していたのである。そしてサイパン島などに戻ったチャモロは、フィリピン人やスペイン人やメキシコ人などとの混血していくことになる[McPhetres 1983:148-149]。その後グアムはアメリカ領に、それ以外のマリアナ諸島の島々はドイツ領になり、後者、すなわち北マリアナは、第一次大戦後は日本の国際連盟委任統治領に、第二次大戦後は、アメリカの国際連合信託統治領となったが、多様なエトニーは、チャモロ系とカロリン系という区分で存在し続けた。そして、政党活動の点でも両者の対立が持ち込まれることになった。つまり、チャモロの支持を中心とした人民党が、同じマリアナ諸島のグアムとの即時連合を主張したのに対して、グアムの企業に支配されることを恐れるビジネス界とカロリン系の人々の支持を集めた民主党は、他のカロリン系の人々(つまりヤップやトラック、ポナペなどの人々)との連帯を強めたのである。結局、地区議会が実施した1961年の投票では、62%がグアムとの連合でアメリカ国民になることに賛成したのに対して、16%の人々は別の領土の市民になることに賛成し、1%が現状維持を主張した[小林 1994:70]。しかし北マリアナは分裂していったのではなかった。多数を占めた意見に従い、北マリアナという単位でアメリカの自治領になる道へと踏み出したのである。
 そのまとまりは、まさに「植民地人民族」としてのまとまりであった。事実、北マリアナ地区はエトノスではなく、スミスのいう意味でのネイションであった。日本統治時代、中心の島・サイパンは砂糖産業で栄え、一時島民をはるかに凌駕する約4万人の日本人が居住していたと言われている[須藤 2000:329]。サイパンはまた、信託統治領の首都でもあった。サイパンを擁する北マリアナ地区は、教育、経済のレベルで他の地区から抜きんでていたのであり[McPhetres 1983:154-155]、しかも、独自の議会を持ち、法的な権利・義務においても他の地区とは異なる独自性を発揮していたのである(10)。北マリアナは独立したわけではないが、もし人々が望めば独立の方向に向かうことも出来た。そうしたまとまりを持っていたのである。

おわりに

 本論では、メラネシアのヴァヌアツ共和国におけるナショナリズムを考察の出発点として、独立運動に見られるナショナリズムの在り方と分離運動に見られるナショナリズムの在り方は異なるということを主張してきた。両者が異なる性質を持っていると主張することは、別に新しいことではない。しかし本論での議論は、多くの識者が論じてきた様な議論、つまり、後者が民族の自決に基づいたナショナリズムに類似しているが前者は特殊なナショナリズムである、という議論とは異なっている。それとは逆に、本論では、民族の自決に基づくナショナリズムに類似しているのは独立運動におけるエリート達のナショナリズムであり、そこにおける植民地人民族の発見こそが、疑似ネイションの成立であった、と論じてきた。
 さらに、分離独立を達成してきた地域における運動は、分離運動ではなく独立運動と同じ性質をもった運動であったという点も指摘してきた。この点も多くの識者の見解とは異なっている。国家からの分離を目指す運動は、どの様なものであれ、エスノナショナリズムと呼ばれることが多い。しかし、最近の例で言えば、インドネシアの強引な支配から独立を果たした東チモールの活動は、エスノナショナリズムなのであろうか?それは、ヴァヌアツにおけるサント島の分離活動と同じ性質を持っていると言えるのだろうか?答えは、もちろん否である。共にエスノナショナリズムという言葉で表現してしまえば、東チモールは長年、他のインドネシア地域とは別の単独の植民地であったという歴史的事実を見過ごしてしまうことになる。ポルトガル領であった東チモールは、オランダ領であった他のインドネシア地域とは異なったまとまりを培ってきたのであり、インドネシアからの分離独立は、ネイション・イズムに則った独立運動であったと言うべきなのである(11)。
 ネイション・イズムは、エトノスと無関係であるというわけではない。エトノスが同時にネイションとしてのまとまりをも形成してきた事例はいくらでもある。ギルバート・アンド・エリスや信託統治領ミクロネシアの場合で言えば、ギルバート諸島やマーシャル諸島などはこうした状況にあったと言えるだろう。しかし、ヴァヌアツの分離運動におけるように、エトノスがネイションとしてのまとまりを持つことがなかった事例も存在する。このような場合をエトノス・イズムに則った運動と呼んできたが、その運動は、独立を目指したというよりも分離を目指した運動であったと言えるのである。
 独立は植民地のエリート達によって達成される。エリートとは、植民地化によってもたらされた近代の分節原理を、様々な植民地経験を通じて身につけていった人々である。彼らこそが、植民地行政の仕方の相違や植民地の教育システムの相違という歴史的事実を如実に反映する存在だったのである。従って、彼らが発見する「我々」は、植民地行政によって作り出された何らかの枠組み、つまり、共通の近代的なシステムを伴った何らかのまとまりを起点としており、それらが変われば「我々」も変わったのは、必然だったのである。しかしヴァヌアツにおけるマン・サントのようなエトノスは、平等な富の配分や伝統文化の存続を訴える単位として把握されていたが、こうした植民地行政による枠組みとは異なったところに成立したものであった。その意味で、エトノス・イズムは、分離の必要性を持っていたかもしれないが、独立の必然性を内的に作り出していたとは言い難いのである。独立という統合を目指したネイション・イズムと、統合からの分離を目指したエトノス・イズムは、共にナショナリズムという概念で捉えられてきたが、異なった性質を持っているのである。



1)すでに中川が提示した民族1、民族2という区分を踏襲せず、エトニーとエトノスと  いう区分に切り替えた理由は、民族という用語がネイションの訳語として用いられる  ことがあり、そこから生じる混乱を避けたかったからである。中川はネイションを国  民と訳すことで、「民族1ー国民ー民族2」という図式を提出したが、ネイションは  常に国民と訳されるわけではない。ネイション・ステートは、国民国家と訳されたり  民族国家と訳されたりしていることは周知の事実である。また本論で重要な文献とし  ての役割を演じているローネンの著作では、ネイションは民族と訳されている[Ronen   1979]。そして彼は、「ドイツ人の民族の自決(あるいはナショナリズム)が、ナシ  ョナリズムの過程を通して、一つのドイツ人のエスニック集団を作り上げたというこ  とも、正しいであろう」[ローネン 1988:45]と述べているが、ここでの民族の自決は  ネイションの自決(原典ではnational self-determination)のことであり、ある意味でエ  スニック集団としてのネイションを想定しているローネンの意図からすれば、それを  国民の自決と訳すよりは民族の自決と訳す方が的を得ていると言えるだろう。こうし  た点も踏まえて、本論では、中川の図式を、「エトニーーネイションーエトノス」と  いう表現に変えて用いることにする。なお、エトニー(エスニー)という概念はスミ  スによってネイションの基盤となる近代以前の民族概念として用いられているが[ス  ミス 1998, 1999]、本論では、近代以前に成立していた民族概念という意味でだけ用  いることにする。
2)清水は、本論で言うエトニーとネイションを、換喩関係で成立しているものと提喩関  係で成立しているものとして区分しており、それはまさしく多配列分類と単配列分類  に対応していると言える[清水 1992]。
3)北部ラガ社会は母系であるが、母親がその地域外の出身であっても、子どもは北部ラ  ガの母系システムに組み入れられるようになっている。というのは、北部ラガには規  定婚の体系があり、原則的に、ある男性が結婚すべきカテゴリーにいる女性の親族集  団を特定することが出来る。従って、母親が北部ラガ出身者ではなくとも、その子ど  もは、父親が規定婚の体系に従って結婚すべき女性の親族集団に帰属し、その集団の  土地を使用することが出来る仕組みになっている。
4)1980年憲法では、独立する前に起草されたことに起因すると思われるが、ヴァヌアツ  ではなくニューへブリデスという表現が多用されている。共和国もニューへブリデス  共和国(Ripablik blong Nyuhebredis)と呼ばれているため、憲法の冒頭でヴァヌアツ人  を指し示す表現として「マン・ニューヘブリデス」が用いられることになったと思わ  れる。現在様々なところでヴァヌアツ人は、ニ・ヴァヌアツ(Ni-Vanuatu)と表現され  ているが、ビスラマでの表現では、マン・ヴァヌアツ(man Vanuatu)となる。2回の  改正を経た現ヴァヌアツ憲法では、当然、ニューへブリデスはヴァヌアツに変更され  ている。
5)ナグリアメルの運動は、サント生まれだがスコットランドとトンガの血を引く男(い  わば非メラネシアン)をリーダーとして行われた。そして、その活動に対しては、ア メリカの右翼団体・フェニックス財団の支援が行われていた。この団体は自らが自由 に操れる独立国家をつくることを目論んでナグリアメルに目をつけ、武器や資金を援 助してきたのである。さらにフランス行政府は、ヴァヌアアク党に対して最も大きな 批判を向けていたナグリアメルに影から支援を与え、MANHや他のフランス系政党 の関係者、ニューヘブリデス在住のフランス人なども、暴動に直接荷担した[Beasant 1984] 。
6)英語の文献からの引用で、原文はSanto for the Santoese [Williams 1928:100]。ここでの  Santoese という表現は、ビスラマでは明らかにマン・サントであると思われる。
7)ゲルナーは、ネイションの重要な特徴として教育システムに支えられた高文化を挙げ  ており、この点はスミスのネイション概念と共通している[ゲルナー 2000:97-98,230]。  一方、コナーは、エスニック・グループは外部の観察者によって区分されることはあ  るが、成員自身が自分の集団の独自性を意識してはじめてそれはネイションとなると  考えており、ネイションを自覚的なエスニック・グループと呼んでいる[Connor 1973:  3]。伊藤はこの点を踏まえて、コナーは「われわれ」という意識や感覚をネイション  の基本属性と見なしている、と論じている[伊藤 2002:100-101]。その意味では、まさ  に本論で言う植民地人民族の発見こそがネイションの発見でもあったと言える。ただ、  エトノス概念も差異化の自己意識から出来ていることを考えれば、まさに、スミスや  ゲルナーの想定した近代システムの中から育まれてきたエリートの「われわれ」意識  を、ネイションの基本要件とするのが適切であろう。
8)ブーゲンヴィルのパプアニューギニアからの分離独立の行動は、1988年のことである。  しかし、ブーゲンヴィルは、パプアニューギニアの独立時にも、やはり分離活動を展  開していた。豊田は、「その後、北ソロモン州の大部分であるブーゲンヴィル島には、  大規模な金・銅の鉱山が存在していることが分かり・・・」と述べているが[豊田 20  00:258]、ブーゲンヴィルが紛糾し出すのは、1964年に始まったオーストラリア企業  による銅鉱の探査活動からであり、鉱山に関連したもめ事や補償問題を経て、1970年  に分離を訴える組織が出来ている[Griffin, Nelson and Firth 1979:151-153] 。ただし、  ブーゲンヴィルの人々は、他のニューギニアの人々よりもソロモン諸島の人々と関連  が深く、見た目もパプアニューギニアの中では差異化されていた。つまり、ブーゲン  ヴィルの人々は他のニューギニアの人々から「ソースパンの底の様に黒い」と言われ  る一方、逆に、彼らを「赤い肌」と呼んでいたのである[Griffin, Nelson and Firth 1979  :150]。その意味では、経済的な問題だけがポイントなのではない。
9)米軍基地と観光で繁栄している(アメリカのunincorporated territoryの)グアムを目の当  たりにしていた(グアム島以外のマリアナ諸島の島々で構成される)北マリアナ地区  は、グアムのような繁栄を望んで自治領の道を選び、全体から分離することになり、  マーシャル地区は、アメリカが同地で行っていた原水爆実験の補償、迎撃用ミサイル  実験基地の継続使用の使用料などを武器に、パラオ地区は自分たちの土地を犠牲にし  てアメリカに基地を提供することに反対する立場から(さらには、全体の首都をパラ  オにおくという要求が受け入れられなかったことも含めて)、それぞれ全体から分離  独立する方向に向かった[小林 1994:134-139]。残ったヤップ地区、トラック地区、ポ  ナぺ地区、そしてコスラエ地区は、結局ミクロネシア連邦として独立する道を取った  のである。なおコスラエ地区は1976年にポナペから分かれている[Hanlon and Eperiam   1983:87]。
10)類似したことは、マーシャル地区やパラオ地区についても言える。マーシャル諸島  は他の地区がスペイン領であったときからドイツ領であり、独自の統治が行われてき  た。そして、日本領、アメリカ領を通じて、マーシャルは単一の行政地区を構成して  きている。1949年には、マーシャル諸島議会憲法が施行され、二院制の立法議会と世  襲制の首長議会が設立されている[清水 1998:108]。また、マーシャルはアメリカの原  水爆の実験場であったため、他の地区に比べてはるかにアメリカに対して強い疑惑と  反抗心を持っていると同時に[小林 1994:64]、米軍の迎撃用ミサイル実験基地の存在  は、経済流通の面でもアメリカの影響を色濃く示している。税収入は他の地区を抜い  て最も多く、また、アメリカから投入される経常費用も多い。その経済状況は、他の  地区とは異なった独自のものであったと言えよう。一方パラオは、日本統治時代の首  都が置かれたところであり、行政・教育の中心地であった。日本が各地に設置した公  学校への就学率も、他の地区は50%あまりであったが、パラオでは100%を実現して  いた[須藤 2000:326]。またこの時期、諸島民の人口をはるかに上回る15000人近くの  日本人がパラオに移住しており[Peattie 1988:161]、独自の地区を作っていた。パラオ  は単一のエトニーから成っていたわけではないが、こうした植民地経験によって、   「パラオ人」は進取の気性に富み、積極的な気質を備えているという高い評価をミク  ロネシア内部から得るようになっていた。信託統治政府では、出身地ごとの大まかな  職員雇用枠を設けていたが、それは、その枠をはずし能力本意にすると、職員はほと  んどパラオ人になってしまうからであると言われている[小林 1994:175-176]。パラオ  は、ミクロネシア全体の統合に向け、積極的なリーダーシップを発揮していたが、リ  ーダーとしての地位を確保できないことがわかった段階で離脱を表明している[小林   1994:176-177]。こうしたことが出来るのも、パラオとしての単一のまとまりを背景に  してのことであり、そのまとまりはエトニーを基盤としたエトノスというより、ネイ  ションであったと言うことが言えるだろう。
11)インドネシアは第二次大戦後独立したが、東チモールは第二次大戦後もポルトガル領 であった。1974年、ポルトガルの政権が交代したことをきっかけに、東チモールで独 立の機運が高まったが、独立を達成する前に、インドネシアは東チモールを強引に併 合したのである。東チモールは、インドネシアの一部である西チモールと文化的な差  異をあまり持たない[小池 1998:35]。にもかかわらず、東チモールが単独での独立を  目指したのは、ポルトガル領としての歴史的経験が単独のネイションとしてのまとま  りを作り出していたからということが言えるだろう。

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