<ツバル流>を生きる人々ーツバルにおける伝統と近代
1 伝統
ツバルの人々は、ヤシ酒を飲む。背の高いココヤシの上の方に、瓶などの容器がつるしてある光景を目にすることがあるが、これがヤシ酒を作るための第一歩である。つまり、ココヤシの花をつける芽の柄のところを切ることにより、そこから樹液が出てくるが、この樹液をつるしてある容器に溜めるのである。こうして溜めた樹液を、2〜3日放置しておくと自然発酵してヤシ酒になる。ヤシのあるところではどこでも、このヤシ酒を作ることが出来るがわけだが、実は、太平洋の島々でヤシ酒を嗜好品として愛飲しているところは珍しく、太平洋中央部のキリバスとツバルくらいなのである。
では、太平洋で主として愛飲されているものは何かと言えば、大きくは二つに分かれる。一つはカヴァである。これはカヴァと呼ばれるコショウ科の潅木の根の樹液を水と混ぜて作った飲み物である。もう一つは、一般にベテルチューイングと呼ばれている。ベテルというのはコショウ科のキンマのことで、ビンロウヤシの果実(ビンロウジ)を石灰にまぶしそれをキンマの葉に巻いて噛む。これがベテルチューイングである。結局、ビンロウジとキンマを噛んで潰すことでその液汁を味わうことになる。カヴァを飲む慣行は、ミクロネシアの一部、及びメラネシア東端からポリネシアにかけて広く見られ、ベテルチューイングは、ミクロネシアやメラネシアに広く見られる慣行として知られている。
これらは、しかし、アルコール類ではなくアルカロイド類なのである。アルカロイドというのは、体内に摂取されると何らかの生理作用を引き起こす有機物で、モルヒネやコカインなどの麻薬類からカフェインなど日常の飲み物に含まれているものまで、広い範囲のものを指す。カヴァ飲用やベテルチューイングによって摂取されるアルカロイドは、麻酔作用を伴うが、麻薬類の様な有毒なものとは言えず、むしろカフェインの類に近いものであると言われている。例えばカヴァ飲用は、麻酔作用と沈静作用を伴い、飲めば飲むほどに心身がリラックスし、静かな落ち着いた心理状態になっていく。これらアルカロイドに対して、ヤシ酒は正真正銘のアルコールであり、白濁した酒は我々にも馴染みのあるどぶろくの様な味わいを持っている。
ヤシは実に有用な植物である。葉は、編めばゴザになるし、乾燥するとすぐに火のつく燃料にもなる。ヤシの実の殻は、炭のような燃料として用いることができるし、若いヤシの実にはいわゆるヤシ・ジュースが多量にあり、貴重な飲料水ともなる。また、果肉は食用となるだけではなく、乾燥させるとコプラとして現金収入の源となる。そしてツバルの様にヤシ酒を作る地域では、これらの効用に上乗せする形で、ヤシ酒が追加されるのである。ヤシ酒は、既に述べたように、自然発酵した結果アルコール類へと変化したが、発酵する前は、実は、新鮮でたいへん甘い液体であり、料理にも用いるし、それを水でうすめて清涼飲料水代わりとしても用いることが出来る。また、それを煮詰めていくと最後にはカレポレポ(kalepolepo)と呼ばれる固形物が残る。これはツバル語辞書ではキャンディーと訳されている(Noricks
1981:66)。つまりは、ヤシから「飴」を作ることもできるのである。ツバルでは、ヤシを最大限利用しているといえる。
多くのヤシを所有していることは、それだけヤシの恩恵を多く受けるということであり、しかも、コプラという唯一の現金収入の道をも開くので、高く評価される。しかし、これらヤシの所有よりも高い評価を受けるものがある。それが、プラカ(pulaka)と呼ばれるタロイモの一種である。ツバルは、珊瑚焦島から成立しており、その土地面積は極めて小さい。そして四方を海に囲まれているにもかかわらず、人々の土地に対する愛着は強い。人々は伝統的に土地を非常に重視してきたし、そうした土地の中でもこのタロイモを植える耕作地はヤシの育成する土地とは別の扱いを受けてきた。このタロイモの耕作地は、一般にプラカ・ピットと呼ばれる。ピットと呼ばれるのは、この耕作地が窪地になっているからである。珊瑚礁島は土地が痩せていて農耕には適さない。しかし敢えて農耕地にするために、内陸部の土地を淡水が浸みだしてくる所まで掘って大きな窪地を作り、そこにタロイモを植えるのである。
タロイモがヤシよりも価値が高いのは、それの世話が大変であると言うことだけではなく、饗宴での用いられ方と関連している。饗宴では、どれだけ多くのタロイモが人々に分配されるかが競われ、より多く提供した者が高い評価を得る。しかし誰でもそれが出来るわけではない。一般に、ツバルの人々はヴァカルガ(vakaluga)と呼ばれる人々とヴァカラロ(vakalalo)と呼ばれる人々に大別されるが、前者は、土地とタロイモ耕地(プラカ・ピット)をたくさん持っている人、後者はこれらの土地や耕地が少ない人のことである。饗宴でタロイモを多量に提供するのは、前者のヴァカルガと呼ばれる人々であり、彼らはこうした振る舞いをすることで、その地位を維持するのである。そして、彼らは強い発言力をも手にすることが出来ると言われている(Faaniu
et.al. 1983:36)。
2 近代
現在も、地方の島に行けば行くほど、こうした伝統的な仕組みが生きていると言われているが、首都のあるフナフチをはじめとしてこれら地方の島々においても、西洋世界からの影響は大きなものがあったことは言うまでもない。
ツバルの島々の一部が最初に西洋世界に知られたのは、1568年、スペインのメンダーニャの航海によってである。しかし、このときは直接の接触はなく、ツバルの人々が初めて西洋人と接触するのは1781年のことである。それ以後、様々な国の船舶が寄港し、船員の中には島々に住み着く者、いわゆる、ビーチコーマーも現れ、1860年代には少なくとも5人の西洋人が島々に定住していたと言う。このころからヤシ油交易、続いてコプラ交易が開始され、1880年までには全ての島に少なくとも1人の西洋人交易者が常駐するようになった(Faaniu
et. al. 1983:105)。そうした過程で、人々は貨幣経済の世界に参入していくことになった。
一方、1960年代にはキリスト教への改宗が行われていった。サモアで布教活動を展開していたロンドン伝道協会から、60年代半ば、サモア人の牧師達がツバルに派遣されることになったが、これによって、ツバルのそれまでの生活は大きく変更されることになった。というのは、彼らが徹底的にキリスト教精神の布教に貢献したからである。キリスト教が布教される前は、人々は多神教的な神々の体系を持っており、マナと呼ばれる超自然的な力に対する信仰もあった。このマナと呼ばれる力は、人間ではアリキ(aliki)と呼ばれる政治的リーダーに最も強く備わっていると考えられており、そうした信仰が、ツバルにおける伝統的な政治制度を支えていた。この体系は、いわゆる首長制と呼ばれるもので、アリキは世襲的にその地位が決定され、アリキの配下には彼を補佐する役職も置かれ、小規模ではあるが中央集権体制を確立していた。しかし、キリスト教精神が浸透し、貨幣経済が流通するに連れて、これら旧来の宗教や旧来の価値観に支えられていたシステムは、次第にその力を弱めていった。
現在ツバルの人々は、そのほとんどがツバル教会という教会の信徒である。この教会は、ツバルへキリスト教をもたらしたロンドン伝道教会の流れを汲み、宗派で言えば組合派(会衆派)を基礎としている。ツバル教会以外では、同じキリスト教の教派の一つであるSDA(セヴンスデー・アドヴェンティスト)や、イスラム教シーア派の影響を受けているバハイ教がある。バハイ教は、近年とみに太平洋で活発に布教活動を展開しており、イスラム世界からは異端視されているとは言え、太平洋で一般的なキリスト教以外の宗教としてその勢力を広げてきている。しかしツバルにおけるバハイ教徒の数は極めて少なく、ツバルはやはり依然としてキリスト教の国家であると言うことが出来るだろう。
人々は敬虔なクリスチャンであり、安息日である日曜日は、休息と教会に参列する日であるとされている。人々は静かに日曜日を過ごす。もちろん、よその国からツバルを訪れた人々は、日曜日に海水浴に出かけたり観光に出かけたりすることは禁止されてはいない。しかし、ツバルの人々の日曜日の習わしを妨害しないように配慮することが部外者にとっても必要なことであるとされるほど、ツバルの人々にとっては日曜日の安息は重要なのである。人々が通うツバル教会の建物は、あまり大きな建造物のないツバルにおいてひときわ目立つ大きな建物である。特に、ニウタオやナヌメアの教会は観光パンフレットにも紹介されるほどその威容を誇っており、ナヌメアの教会は、高い尖塔、すばらしいステンドグラスを持つゴシック様式の建物として知られている。もちろん、首都が置かれているフナフチでも、都市部の中央に大きな教会が建てられており、日曜日には礼拝を行う人々であふれかえるのである。
ところで、首都フナフチはツバルで唯一の都市部である。首都機能を満たすための政府関係の官庁舎、銀行をはじめ、放送局、警察署、電話局(テレコム)、総合病院、ホテル、スーパーマーケット、学校などが配置されている。しかし、ツバル全体の人口が少ないということもあって、都市部といっても一般に言う「都市」を形成しているとは言い難い。人口4000人程のフナフチは、都市とは何かを考えさせてくれる。そもそも太平洋の都市部は、世界の他の地域から見ると「都市」とは呼べないほど規模が小さい。もっとも、首都特別区として人口25万人を数えるパプアニューギニアのポートモレスビーや、郊外も含めると人口17万人を数えるフィジーの首都・スヴァは「都市」であると言えよう。現に、ビルが林立する市中心部を持つスヴァを、人々は英語で「シティー」と呼んでいるのである。しかし、これらはむしろ例外なのである。他の太平洋の多くの国家では、譬え首都であってもその人口規模は小さく、一般には「シティー」ではなく「タウン」と表現される。そしてフナフチに至っては、人々自身が、首都機能をもったその中心部を「ヴィレッジ」と呼んでいるのである。たしかに、オフィス街と呼べる一角はなく、官庁舎と人々の人家が混在しており、店も、明らかに商業店舗の形態ではなく、人家の中に埋没している。さらに、人家が密集しているわけでもなく、ココヤシやバナナが育成し、その横にはプラカ・ピットがあったりするのである。
しかし、その景観や規模が、高層ビルの林立するイメージとしての都市からかけ離れていようと、またヴィレッジと呼ばれようとも、フナフチは、ツバル各地から人々が集まる場であり、貨幣経済による雇用が実現される場であり、西洋近代のシステムが流通する場なのである。太平洋における都市部の特性の一つが、村落部との対比に置いて、近代を体現しているということである。太平洋における都市部は、伝統世界を代表する村落部とは対照的に、西洋世界、近代世界への入り口を形成してきたのである。その意味で、フナフチは小規模ではあっても、まさに、都市部としての機能を果たしていると言えるのである。
3 伝統文化概念
太平洋の文化は、西洋世界と接触することによって、確かに大きな変更を経験することになった。そうした状況を、伝統文化が近代によって侵食されたと把握することは可能である。事実、メラネシアの島々では、自らの文化の変遷をそのように捉えている。メラネシアは言語単位の小さなところで、同一の島の内部でさえ異なった言語が複数用いられているという現実が存在する。従って、これらの個別言語の差異を超えたコミュニケーションの手段として、ピジン語というリングア・フランカを用いてきた。メラネシアには、このピジン語で、カストムとスクールという表現が各地に見出せる。
カストムというのは、西洋世界と接触するずっと以前の古来から続いてきたとされる伝統的慣習を指し、スクールというのは、この西洋世界がもたらした新しい世界、近代世界のものを指す。具体的には、キリスト教、学校、政府、西洋の工業製品、貨幣や貨幣経済などがスクールと分類される一方、キリスト教以前の信仰、昔から続いているとされている儀礼、伝統的な交換のあり方、などがカストムとして分類される。多くのメラネシアの人々は現在キリスト教徒であり、その意味では、純粋に昔から続いている生活を送っている人々を見つけるのは難しい。例えば、昔から続いているとされる儀礼をする場合でも、Tシャツにズボンという西洋世界の産物を身につけたまま儀礼場に登場することはよくある。また、伝統的な形式に則った結婚式をあげても、彼ら自身がキリスト教徒であるため、昔からの伝統からはかけ離れたものであるといえる。しかし人々はこれらをカストムと位置付けるのである。Tシャツやズボンはスクールではあっても、その儀礼は、手続きや意味の点でカストムとしての命脈を保っていると位置付けられるのである。同様に、教会で挙げる結婚式はスクールであっても、伝統的な手続きに従った結婚式は、昔のやり方が息づいているカストムなのである(
吉岡 2000)。
人々はカストムが「強い、弱い」と言う。「強い」というのは、西洋近代の影響にもかかわらず伝統的慣習が息づいていると考えられた場合に用いられる。一方「弱い」というのは、近代の影響で伝統的慣習が見られなくなった場合に対して用いられる。メラネシアでは、カストムは変化するものとして位置づけられてはいない。カストムは生き残るかさもなければ消滅するかという基準で考えられているのである。それはまさしく「消滅の語り」と呼んでも差し支えない捉え方である。しかし、「伝統」という概念には多かれ少なかれこうした「消滅の語り」が隠れており、日本語における「伝統」も、昔から受け継がれてきた風習や傾向であるが、時代が進むに従ってだんだんと消えていくもの、と位置付けられていると言えよう。
これに対して、ポリネシアでは異なった捉えられ方がされる。伝統文化は近代に侵食され消滅していくとは捉えられないのである。そこにあるのは、伝統は変化するという考え方であり、伝統と近代は連続しているという考え方が見出せるのである。例えばトンガでは、ファカトンガ(faka
Tonga)と言う概念がある。ファカというのは、「〜の様に」という意味を持つ言葉で、ファカトンガを訳せば、「トンガのやり方」あるいは「トンガ流」ということになる。この概念はトンガにおける伝統・慣習という意味に用いられているが、それは、西洋から入ってきたものもそうでないものも含めて、トンガで現在見いだせる様々な慣習を指しているのである。同じような視点はサモアにも見いだせる。サモアで「ファカ」が「ファー」に変わり「ファーサモア(fa'a
Samoa)」という概念になる。サモアの歴史家メレイセアはファーサモアに関して次のように述べている。つまり、「体系がその本質において不変のままであるか、あるいは、根本的に変化したと認識されない程度に、新しい実践や観念や品物が受け入れられそれに取り込まれていく」(Meleisea
1987:17)。要するに、ポリネシア型の伝統概念では、過去と現在、伝統と近代が融合し、あるがままの姿こそがそれぞれの国のやり方であると考えられているということなのである。そして、ポリネシアに属するツバルは、もちろんこの系列に属する考え方を貫いているのである。
4 ツバル流:連続する伝統と近代
ツバルでは、トンガと同様に「ファカ」という言葉で「〜の様に」を表す。従って、「ツバル流」というのは、ファカツバル(faka
Tuvalu)と表現される。ただ、トンガやサモアと異なって、ファカツバルというだけでは、「ツバルの伝統」という意味は出てこない。ツバルでは、伝統と関連する概念としてツー(tuu)とファイファインガ(faifainga)という言葉を用いる。従って「ツバルの伝統」は、ツー・ファカツバルと言われたり、ファイファインガ・ファカツバルと表現されたりするのである。この二つの概念の違いはどこにあるのかは難しいが、ある人は次のように説明してくれた。つまり、「アリキ(伝統的政治リーダー)が集会所で座っているときは、彼が立ち上がって喋りだすまで、誰も喋ってはならない、というのはツーだ。そしてそうした行動をファイファインガと呼ぶ」。つまり、ツーというのは規範や規則、ないしは法であり、ファイファインガがそれに従った慣習ややり方ということになるため、ツー・ファカツバルは正確には「ツバル流の法」、ファイファインガ・ファカツバルは、「ツバル流の慣習」という意味を持つことになるのである。
さて、ツバルの人々の「伝統概念」を具体的に見てみることにしよう。既に紹介してきたように、キリスト教が入ってくる前は多神教的な信仰を持ち、マナという超自然的な力に対する信仰を持っていた人々だが、キリスト教によってそれが激変した。メラネシア的に言えば、伝統は消滅したということになる。しかし、ツバルでは、伝統は消滅したとは考えない。というのは、新しく西洋世界から入ってきたと言えるキリスト教は、ツー・ファカツバルであり、キリスト教的な生活はファイファインガ・ファカツバルだからである。人々は言う。「我々は教会の教えに従って現在生活しており、我々は教会を信じているから、それはファイファインガなのだ」と。「ファイファインガ・ファカツバルとは、ツバルらしい生活の仕方であり、教会だけではなく学校もみんなが当たり前に勉強するところだから、ファイファインガなのだ」と言う。教会と学校は、メラネシアでは西洋近代の代表であり、彼らの観念ではスクールという位置にあって、伝統であるカストムと完全に対立していた。しかしツバルでは、これら教会も学校も、現在のツバルの人々の生活に根をはっているから「伝統」なのだというのである。ある人は、ツバルの人々の生活の一部になっているという点で、バハイ教もファイファインガ・ファカツバルと考えて良いとさえいうのである。
ツバルの人々の伝統概念を支えているのは、伝統は絶えず変化するという固い信念である。人々は言う。「ツーは、古い新しいということで考えるのではない。ツーは変化するのだ」と。もちろんこれはファイファインガについても当てはまる。「ファイファインガという概念は、昔から今まで全部をひっくるめているのだ」というツバルの人の説明は、この点を明確に表している。伝統と近代を二つに分けて、近代という怪物が侵入してくることによって伝統が無くなってしまった、という位置づけをすることは悪いことではない。自分たちの独自性を過去に求め、それに立ち返ることで現在の状況を反省するという視点が重要なこともある。しかしツバルでは、過去から現在までが連続していて、譬え、西洋のシステムが導入されようと、人々は、それを受け入れ、しかも、ツバル流に手直しする形で自分たちの中に取り込むという姿勢を持っているのである。伝統と近代、オセアニアと西洋は対立するのではなく連続していて、そしてその連続した姿が「ツバル流」に消化されることによってツバルの伝統が形成されていると捉えるのである。
人々にとっては、ココヤシからやし酒を作るのも、プラカを植えるのも、アリキの指示に従うのも、スーパーで買い物をするのも、病院にいくのも、バスに乗ってでこぼこ道をゆっくり移動するのも、今日のツバルにおける日曜日の安息も、どれもが「ツバル流の伝統」なのである。現在を肯定的に見つめるツバルの前向きの伝統観に、ポリネシアのおおらかな生き方を見出すのは筆者だけであろうか。
引用文献
Faaniu, S. et.al.
1983 Tuvalu:A History. Suva:Institute of
Pacific Studies. University of South Pacific.
Meleisea,M.
1987 The Making of Modern Samoa:Traditional
authrity and colonial administration in the
history of Western Samoa. Suva:Institute
of Pacific Studies, Univesity of the South
Noricks,J.S.
1981 A Tuvalu Dictionary. New Haven:HRAFlex
Books. Human Relations Area Files, Inc.
吉岡政徳
2000「カストムとカスタムーオセアニアにおける伝統概念研究の批判的考察」須藤健一
編『オセアニアの国家統合と国民文化』JCAS
連携研究成果報告書2:143-182.