バラエティ番組における未開の演出

吉岡政徳

はじめに

 1973年、シカゴで開催された第九回国際人類学・民族学会議の映像人類学部会に招かれた牛山は、テレビ報道における民族フィルム制作の基本として、次のようなことを述べている。「テレビ放送の本質は、映像というコミュニケーション手段による報道機能である。いま、テレビ放送の花形になっている娯楽番組はほかのメディアによって代替できるが、映像による今日性のある報道だけはテレビ固有の意義を持つ」(牛山 1979:252)。彼は、「世界諸民族の日常生活をありのままに記録し、民族によって異なる精神文化を描く」ために「担当者は毎年六か月以上はその地域に定着し、撮影対象の人々と一緒に生活」し、「今後十年間は、担当地域を変更しない」という約束事を設け、多くのドキュメンタリーフィルムを制作した。日本テレビ系列で一九六六年から一九九〇年にかけて放映された『すばらしい世界旅行』は、牛山の意図が明確に提示された番組の一つであったと言える(牛山 1979:254)。
 しかし、彼の言う娯楽番組も、映像というコミュニケーション手段によって様々な試みを行い、近年は、ドキュメンタリーとは異なった形態の「異文化の映像描写」を盛んに行うようになった。そして、こうしたバラエティ番組における異文化表象は、ドキュメンタリー番組におけるそれよりもはるかに多くの視聴者の目に触れるという点で、重要な異文化イメージの供給源ともなっている。様々な番組が百花繚乱のごとく登場しているが、どの番組をとっても、基本的には、「我々と彼らの差異の強調」→「我々の側のとまどい」→「我々と彼らの交流」→「差異を超える共通性の発見」、あるいは、「彼らの中に我々の側にはない人間としてのすばらしさの発見」というプロセスを基調とした描き方が見出せる。差異を強調するために好んで選ばれる社会が、いわゆる未開社会であり、そうした社会をこのように描くことは、多くの視聴者の共感を呼ぶものとしてバラエティ番組における異文化表象の「王道」をなしているように思えるが、この「王道」は、よくよく考えて見ると進化主義的な視点が背後に存在しているのである。この点については本稿の最後で再び取り上げるが、バラエティ番組の中には、「王道」による異文化表象とは異なり、我々と彼らの差異だけを強調するような異文化の描き方を行うものも見出せる。こうした極端な異文化表象は、「文明社会」の我々と「未開社会」の彼らという対比においてしばしば行われる。そして、「未開社会」として、現在、最も多く登場するのが太平洋のメラネシア地域なのである(白川 2004)。
 本稿では、メラネシアを対象としたバラエティ番組での映像を取り上げるが、中でも、メラネシア世界を「未開」として特に強調して差異化する番組を取り上げる。そうした映像が顕著な形で現われていたのが、二〇〇〇年一〇月から翌年の九月にかけてフジテレビ系列で放映された『ワレワレハ地球人ダ』と、同じくフジテレビ系列で一九九九年一〇月から放映が始まり現在も継続している『あいのり』なのである。

1 『ワレワレハ地球人ダ』内のコーナー『ジャングルクエスト』

 『ワレワレハ地球人ダ』はいくつかコーナーから成り立っていたが、ここで取り上げるのはその中の一つのコーナー、『ジャングルクエスト』である。それは、一二年前に南太平洋で消息を絶ったオランダ人宣教師の行方を探すという企画で、二〇〇〇年一〇月から翌年の六月まで全部で一三回放映された。初回から六回目までの舞台は、メラネシアのヴァヌアツ共和国、続く五回分は、同じくメラネシアのパプアニューギニア、そして最後の二回分はインドネシアであった。ここでは、筆者が長年人類学的フィールドワークの経験を持ってきたヴァヌアツについての描写を中心に論じる。
 番組は、ヴァヌアツ共和国の首都ポートヴィラにあるヴァヌアツ人コーディネーターの事務所から報告を受けた日本人ディレクターが、宣教師を探すべく現地に赴くという形で始まった。ディレクターとヴァヌアツ人案内人、それに日本人の通訳は、ある島に宣教師の手がかりがあるのではないかという情報に基づき、その島に向かう。が、そこに上陸した一行は、忽然と現われた槍と斧などをもった裸の原住民集団に取り囲まれ、襲われそうになる。結局、案内人の説得で難をのがれ、第一回目の放送は終わった。第二回の放送では、同じ島で、原住民の村に入って宣教師の行方を聞こうとするディレクターの姿が描かれる。彼は原住民と交渉するが、村に入るためには崖から飛び降りて勇気を示さねばならないと言われ、彼はそれを断念する、という話が展開された。
 第三回目の放送では、コーディネーターからの新たな情報に基づき、別の島に向かう。そして、一行が乗ったボートがその島の海岸に近づくと、岸に集まっていた原住民が、突然、弓矢と槍での攻撃を開始した。クライマックスでは、矢がボートに飛びこんでくる映像まで放送された。最後に次回の予告では、つい最近まで首狩族だったとされたある島に出かけた一行が、裸の原住民に取り囲まれる場面が映し出された。
 ヴァヌアツを知っている者ならば、ここまで放映されたことが現実とは異なることがすぐに理解できる内容だった。首都ポートヴィラのコーディネーターの事務所とされた所は、筆者も何度か行ったことのある旅行会社の事務所だった。撮影用に貸し出されたものであることは、旅行会社の担当者に問い合わせて分かった。島の名前もデタラメなものであった。明らかに、ドキュメンタリーとしての真実を伝えるという姿勢とは異なった姿勢による放送であることは明確であったが、あまりにも現実とかけ離れた描き方であったため、この段階で、筆者はテレビ局に連絡して、話し合いを持つことになった。その時の筆者の主張は、以下のとおりである。

    一 ヴァヌアツ共和国で、今時、「裸の原住民」が弓矢や槍をもって襲ってくることはありえない。
    二 ヴァヌアツでは一二年前にオランダ人宣教師が行方不明になっていない。
    三 最近まで首狩をしていたところはない。
    四 「やらせ」を現実であるかのように映し出すのは、やめるべきである。

 テレビ側は、それに関する検討をするということで、第四回目の放送の二日前に連絡があり、以下の四点が提案された。

    一 放映は第四回目の放送でひとまず終わる。
    二 今後継続してやっていくが、ヴァヌアツ共和国という特定の名称はやめ、南の島という言い方にする。
    三 「原住民」という表現はやめて「先住民」とする。
    四 ジャングルクエストのコーナーでは、「これはストーリーです」というナレーションなどを入れる。

 テレビ側は、『ジャングルクエスト』の放送内容が現実のものではなく、創作されたものであることは認めていた。だからこそ「ストーリーです」というナレーションを入れるという対策を打ち出したのである。しかし、筆者はその表現では弱いと考えていた。そして、「これまでの放送はフィクションでした」という点を明確に視聴者に伝えることが必要であることを主張した。というのは、これまでの放送を見て、南の島では、今でも、裸の原住民に弓矢と槍などで襲われるということが現実に起こる、と真顔で考える者が筆者の周りにもいたからである。しかし、フィクションとストーリーの間のギャップは埋まらなかった。テレビ側の主張は、以下の通りであった。

    一 宣教師はヴァヌアツではなくパプアニューギニアにいる。
    二 話は心温まる方向へと展開していくのであり、その後の話の展開とのギャップを作るためにああいう
       演出をした。確かにやりすぎだった。
    三 槍をもって襲ってくるという今までの日本人の未開人イメージを、これまでの放送でやったのだ。
    四 決して南太平洋やヴァヌアツを愚弄する意図はなく、基本的に、南太平洋の人々を主役にしたような
       放送をしたい。放送はこれから変わっていくので、その辺りを見てほしい。
    五 あれは物語として受け取って欲しかった。専門家の方にも、「ばかなことをやっている」と笑ってもらえ
       ることを想定していた。
    六 ドキュメンタリーではなく、バラエティとしてみてもらいたかった。
    七 ニカウ主演の『ブッシュマン』という映画は、それだけ見ると彼らを侮辱したような映画だが、映画として
       筋が通っている。そうしたものを作りたい。

2 テレビ側とのギャップ

 第四回目の放送では、確かにテレビ側から提案された四つの件は取り入れられていた。ヴァヌアツ共和国の地図を用いる点は変わりなかったが、そこから国名と地名は削除されていた。また、ナレーションでもヴァヌアツという名前は出てこなかった。そして「原住民」は「先住民」に変更されており、さらに、コーナーの始まる前には、「これは少年の心を持った大人に送るドリームストーリーです」というテロップとナレーションが入るようになった。ただ、第一回目の放送からのダイジェストは放映された。つまり、裸のメラネシア人が弓矢と槍で襲うという場面は繰り返し放映されることになった。
 さて今回は、元首狩族というレッテルの貼られた村落の人々と仲良くなったディレクターが、村の少女の恋の仲立ちをするという物語が展開された。ここでは「先住民」は、第三回までの「攻撃的で野蛮な原住民」とは異なった描かれ方をしていた。主人公の少女は、「裸の未開人」というよりも「先住民の村の少女」を演出した形で描かれ、裸ではなく、グラススカート風のスカートに上半身を露にしない工夫をした衣装をつけていた。少女とディレクターの対話を中心に話が進むが、それは、『ブッシュマン』の様なメッセージ性があるわけでもなく、日本人ディレクターを「いい者」に仕立てる内容の放送であった。
 この放送から「ドリームストーリー」というテロップが挿入されることになったわけだが、司会やスタジオにいる観客の反応は、時には、ストーリーが実話であるかのように思っているような空気を作り出し、番組は、「創作」と「実話」の間を揺れ動くような印象を視聴者に与える形で構成されていたと言える。しかし、提案された変更は実施されていた上、先住民達の「演技」が笑いを誘い、番組がバラエティであるという点を以前より強調するような場面も見られた。さらに、これでこのコーナーが「ひとまず終わ」ったことも確かだったので、問題点は収束の方向に向かっていると思われた。ところが、約一ヶ月後、『ジャングルクエスト』が再び二週連続で放映されたのである。
 再開された第五回目の放送では、第一回目からのダイジェストが長々と繰り返し放送され、「裸の未開人」「文明人を弓矢や槍で襲う未開人」というイメージをもたらす映像が、相変わらず登場した。そして、今回も、今までとは違う島へ行くという設定で話しが進んだが、その話しの中心は、「裸の未開人」がディレクター達の持ってきた荷物を闇にまぎれて盗み取るというものであった。この盗賊を追いかけて彼らの村へ行ったディレクター達が見たものは、その荷物の中にあった食料を手当たり次第に貪り食う先住民の姿であった。しかし、先住民の親が子供に食料を与えている姿を見て、案内人が幼い頃に分かれた父親を恋しく思い、思い悩んでいるのを、ディレクターが人肌脱いで、会いにいくということで放送が終わったのである。テレビ側の論理では、第三回までの放送で「未開の演出」をしたのは、「心温まる話とのギャップのため」であった。ところが、心温まる話が何なのか分からないうちに、再び「未開の演出」が行われたのである。今度は、槍などで襲う「野蛮な未開人」ではなく、盗みも平気で行う「無知で蒙昧な未開人」、動物のように食べ物を貪り食う「哀れな未開人」の演出である。言うまでもなく、こうした描き方は「槍などで襲う未開人」同様、完全な捏造である。
 第六回目の放送は、「ジャングルに一歩足を踏み入れればそこは戦場!」「元首狩族の襲撃」「弓矢の総攻撃」というテロップとナレーションが出た後、「生きて帰れるのか?」と問いかけ、第一回目からの「未開の演出」映像がダイジェストで流れる。そして本編。今回は設定が変わる。ディレクターが悪者になるのである。彼は、先住民の村落近辺にある立ち入り禁止の標識を引き抜いて入っていき、案の定一行は、その先で先住民に槍などで再び囲まれ、村の裁判にかけられることになる。ディレクター達に罪があるという裁定がおりたとき、一人の先住民狩人がディレクター達を弁護する。村人は、この狩人が豚の背に置いたココヤシの実を一発で射抜いたら、ディレクター達を解放するが、失敗すれば一〇〇叩きの刑に処すと宣言。結局、ウィリアムテルよろしくこの狩人は弓の射抜きに成功し、ディレクター一行は助かるという物語だ。そして最後に、宣教師の手がかりはパプアニューギニアにあることを告げて、終わる。
 この、いかにも創作であることを十分に臭わせる描き方で作られていた「南海のウィリアムテル」物語は、創作劇としては、確かにテレビ側の言う「心温まる話」や「南太平洋の人を主人公にした物語」であると言えよう。しかし、この放映を笑いをもって見ていた視聴者が、「真実」と「創作」の間をゆれる形で描かれた「未開人」像に対しては、必ずしも同様の反応をしていなかったことに注目すべきである。テレビ側は、日本人の未開人イメージを踏襲して「槍などで襲う原住民」を描いたという。つまり、そうしたイメージが視聴者の側にある、ということを前提として物語が作られているのである。ある意味巧妙に仕掛けられた異文化記述の仕方であり、視聴者は「ばかばかしい」と思いながらも、あるいは、「まさか」と思いながらも、「あり得るかも知れない」ということを頭のどこかに置かせるような演出であったといえる。そして、最後に、「次はパプアニューギニアだ」と実名を入れることで、再び「ストーリー」を「真実」と「創作」の狭間に落とし込むことが行われたのである。
 さて、舞台がパプアニューギニアに移っても、「裸の未開人」イメージは継続して映し出されていた。「謎の仮面原住民(インターネット上公開されている『ワレワレハ地球人ダ』のホームページでは、現在でも原住民という表現が用いられている)」に襲われたり、「謎の部族」に囲まれたりする様子が描かれる。そして、ヴァヌアツ、パプアニューギニアを通して、コーディネーターと案内人以外は、伝統的な衣装を身にまとった裸の未開人として描かれていくのである。ちなみに、最後の舞台となったインドネシアでは、こうした「未開の演出」は見られなかった。この点は、次に取り上げる『あいのり』の場合でも同様である。未開の演出が適用されるのはメラネシア地域だけなのである。

3 『あいのり』に描かれたパプアニューギニア

 『あいのり』というのは、恋愛実験室とでも呼べるような状況をつくり、そこにおける男女の恋愛の生成を覗き見する番組で、見知らぬ男女が、ミニバスにのって世界を旅する間に、様々な恋愛を体験するという設定になっている。インドから始まった旅は、トルコ、地中海周辺の国々、南米、中米を経て、ニュージーランド、オーストラリアへ、それに続いて、二〇〇二年一〇月二一日の放送から五回にわたってパプアニューギニア編となった。そしてパプアニューギニアは「ミステリーアイランド」「秘境」として紹介され、放送初日からそれまでのどの国でもなかった演出、すなわち「未開の演出」が始まったのである。
 若者たちは、オーストラリアから飛行機でパプアニューギニアに飛ぶのだが、彼らが最初に降り立ったのは田舎らしき小さな空港であった。そして、空港を出るととたんに、裸の男たちがダンスをして一行を出迎える場面が放映される。さらに、この番組では若者達を運ぶミニバスの運転手は現地人と決められているが、なんと、パプアニューギニアだけはこの運転手が、「裸の未開人」衣装なのである。バスは、空港から最寄の町へ向かうが、そこで、この場所がニューギニア中央高地のマウント・ハーゲンであることが示される。若者たちのパプアニューギニアの旅が、地方の町マウント・ハーゲンから始まるようにセッティングされているところに、番組の趣旨が現れていると言える。現実には、オーストラリアから飛行機でやってくると、まず、国際空港のある首都のポートモレスビーに到着する。しかし、ポートモレスビーは近代的な都市であり、若者たちの驚きの旅を演出するには、不適切な場であったのだ。
 マウント・ハーゲンからバスで移動し、一行は、村落部へと向かい、まずラルバング族のところで儀礼に参加する。そして、「奥地を旅する」というナレーションが入り、次に、チンブー族のところで行われている結婚式を見る。次第に、パプアニューギニアの人々と若者たちとの差異化が進んでいく、つまり、「未開」に向かう形の演出が行われるのである。最初のラルバング族は、「昔ながらの生活を続けている少数部族」として紹介され、人々は、ティーシャツ姿で登場する。彼らは、「伝統文化を守りながら生活を続ける少数民族」という位置づけで描かれているため、「未開人」としては描かれない。そして、次に遭遇するチンブー族は、奥地に行くという設定のため、未開に近づいたイメージで描かれる。人々はもはやティーシャツではなく、伝統的な衣装と思わせる格好で登場する。しかし、若い女性は上半身を巧みに隠すいでたちで、いわゆる「裸の未開人」とは多少異なる姿として描かれていた。
 そして、第二回目の放送でついに「野蛮な未開人」が登場した。若者たちがバスで「さらに奥地へと進み」、マイルボボ山の麓でバスをおり、山頂めざして歩き出す。苦労の末たどり着いた開けた場所で、いきなり槍を持った裸の男たちに襲撃されるのだ。若者たちの中の一人の女性は、恐怖で泣き始めた。そうした状況の中、自らも裸の衣装であるバスの運転手が我々は敵ではないと叫び、これら裸の未開人を説得して、一件落着する。彼らは、神聖な戦士の墓を荒らしに来た連中だと勘違いされた、というナレーションとともに、白骨遺体が並んでいる映像が映し出される。『あいのり』でのこうした手法は、言うまでもなく『ジャングルクエスト』のそれと同じである。いきなり槍を持った未開人に襲撃され、番組進行役の芸能人やスタジオの観客は、一斉に驚きの声を挙げる。そしてナレーションは次のように語る、「標高二〇〇〇メートルの高地で今なお文明に接することなく暮らす未開の部族」。もちろん、現在のパプアニューギニアでこうした「襲撃」に出会うことはない。
 この体験が終わったあと、一行は、小学校を訪れる。「まだまだ教育制度が整っていないパプアニューギニアでは、経済的な事情から子供のおよそ二割しか学校に通えない」というナレーションが入り、スタジオからは「そうなんだ」という声が聞こえてくる。これも根拠のない数字であり、現実には、プライマリースクールへの入学率は一九九九年から二〇〇〇年にかけての統計では八四%なのだ。田舎の風景の中にある学校を映しだし、そこで学ぶ子どもたちを描くことで、パプアニューギニア全体を未開地として描写しない演出は、むしろ、未開を際出させる効果をもっていると言える。というのは、パプアニューギニアのどこへ言っても「槍で襲ってくる未開人」ばかりであれば、独立国家として成り立たないし、オリンピックに出てくるパプアニューギニアの人たちは何なのだ、ということになる。従って、全体として「低開発」で「田舎」で「遅れている」ところなので、中には、まだ「未開人」が居るという描き方をした方が、説得力をもつのである。『ジャングルクエスト』でも、未開人オンパレードのように描かれながら、案内人のヴァヌアツ人やコーディネーターは「未開人」イメージでは描かれていないのである。

4 背景としての異文化

 第三回目の放送は、マダンという都市部が中心の場面となる。ところが、マダンの市街地での物語であるはずなのに、「奥地をゆく」というナレーションとともに、バスが樹木を切り開いて作っただけの凸凹道を走る場面が挿入される。そして場面は再びマダン市に戻る。こうした演出は、過酷な旅という状況を示したいためのものだろう。そして、それほど「嘘」ではないと主張できるものでもある。というのは、確かにマダン市ではあっても、舗装されていない凸凹道があり、ちょっと郊外に出れば、放映されたような状況を見つけるのは難しくないからである。しかし、それは「奥地」ではない。テレビ側の描き方は、必ずしも「嘘」ではないかも知れないが、視聴者に与える印象は、現実からは離れたものになる。そして、テレビ側は、そうした視聴者の見方が分かった上で、こうした演出をしていると言えよう。
 この回の放送の冒頭では、バスに乗った一行が突然、泥の仮面をかぶり槍を持った連中に襲われるという場面があった。若者の一人は「またかよ!」と言い、別の若者は「窓を占めて!」と叫ぶなか、バスは奇怪な集団に取り囲まれる。前回と同様の設定ではあるが、今回は、実はこれが観光客用のパフォーマンスであることが明かされる。そして若者たちは観光客として、泥の仮面を被った装束に変身して、ニューギニア観光を楽しむ。前回の「野蛮な未開人の襲撃」と対照をなす今回のパフォーマンスの描写は、巧みな演出であると言える。視聴者は、二番煎じの「驚愕の場面」だと思ったとたん、それの裏をかかれる。そして、前回の「襲撃」の場面が現実なのかどうなのかを考えることなく、新しい展開に目を向けることになる。ここでは、真実らしく描かれた「未開人の襲撃」や、今回の「窓を閉めて!」という台詞回しによって「襲撃」があたかも真実であるかのように思わせる演出は、そのまま受け止められそして視聴者の記憶の奥にしまい込まれるのである。
 第四回目の放送では、ニューギニア本島沖合いのニューブリテン島のドゥクドゥクが紹介された。内容は以下のとおりである。若者達がニューブリテン島のある村に到着し、その村の「神」に会うということになる。とても神聖なので笑ってはいけない、というナレーションが入ったあと、「神」が現れる。その「神」は、人間が扮装したもので、枯葉を重ねたものを頭から全身すっぽり被った格好をしており、彼らが踊りながらやってくると若者の中の女性やそれを見ているスタジオの観客はくすくすと笑いはじめる。
 今日のニューブリテン島の人々はキリスト教徒で、彼らの神はキリストである。しかし、伝統的な信仰体系では精霊に対する信仰があり、それがかつては、放映されたような姿で村落に現れるとされていたようである。テレビで放映された神は、確かにかつて信仰されていた精霊に似たものを示しているといえよう。しかし、現在の神ではない。それは、まるで、『千と千尋の神隠し』に登場してくる八百万の神を指して、あるいはその中の大根のお化けのような神を指して、日本の神に合わせるから笑わないように、というのと同じであろう。かつての日本の民間信仰における神々の体系は、これこれであり、その中にはお化けや妖怪なども含まれていたなどの解説があった後に「大根のお化け」を紹介するのと、日本人の神はこれですが笑わないように、という形でいきなり「大根のお化け」を紹介するのとは全く異なるのである。後者は、笑いものにするための演出なのである。しかも『あいのり』で行ったこの演出は、「秘境ニューギニア」というキャッチフレーズのもとでの、演出なのである。
 パプアニューギニア編最終の第5回目は、全編が若者たちの恋愛物語であったため、これといった異文化記述は見られなかった。そしてパプアニューギニアを後に、一行は、トンガへと旅立った。トンガでは、「未開人」の演出は一切行われなかった。続いてフィジーが舞台になったが、「南太平洋の楽園フィジーは世界有数のリゾート地。フィジーは古来から様々な文化が行き交い南太平洋の十字路と呼ばれてきた」という紹介からも分かるように、「ミステリーアイランド」とは全く異なった描き方が行われたのである。
 さて、『あいのり』における異文化表象、特に「未開の演出」について述べてきたが、重要なことは、こうした異文化表象は、番組のメインテーマではないということである。『あいのり』は、生成される若者たちの恋愛を覗き見することが主題であり、テレビ側も視聴者側も、その点に力を注ぐ。若者たちが旅をする世界各地の様子は、その背景にすぎないのである。従って、異文化の表象は、そんなに目くじらを立てて議論するほどのことはないという程度にしか視聴者には受け取られないのである。しかし、それは背景であるが故に、まるでサブマリン効果のように脳裏にとどまるとも言えるのである。

4 バラエティにおける「やらせ」と「演出」

 テレビドラマでは、通常、最後に「これはフィクションです」という断り書きが入る。しかし、バラエティ番組内に挿入されるドラマないしは寸劇には、こうした断り書きが付加されない。挿入されているものがドラマであると視聴者に明確に判断できる場合は、まだ良い。バラエティ番組内で起こったり描かれたりする出来事は、タレント達が迫真の演技をしているのか、現実のものなのか分からない形で描かれることがしばしばある。そして、視聴者の側も、最初から「バラエティだからフィクションかも知れない」という目で見るという姿勢が出来ていると言える。しかし、視聴者に良く知られたタレント達が創作を現実らしく見せようと演じている場合と、素人が行っている演技を現実のものとして提示することとの間には、ズレが生じる。演技の専門家ではない素人の方が、現実におこる出来事を示していると視聴者が考えているからである。その場合、もし素人をつかった創作でそれを現実のものとして提示すれば、「やらせ」ということになり、これはバラエティ番組でも許容されないものとして批判されることになる。
 さて、『ジャングルクエスト』や『あいのり』で行われてきたことは、この後者の場合に該当すると言える。日本の視聴者には「素人」以外の何者でもないメラネシアの人々に演技をさせ、それを現実の出来事のように提示したのだから、やはり「やらせ」という批判を免れないであろう。しかし、テレビ側の演出が巧みなのは、必ずしも「現実の出来事」であるものとして提示しているとは言いがたいような部分もあるという点である。視聴者は現実の出来事かどうか、半信半疑で番組を見ることになる。『ワレワレハ地球人ダ』に関するインターネット上の通信では、「原住民とのやり取りとかがちょっと出来過ぎかなと思うところも多いなりが、たとえこれがフィクションであっても面白い」、「古典的コントのパターンの連続で笑えます」「本当に打ち合わせとか無しでやってるんでしょうか。毎回、原住民に遭遇して殺されそうになっても、必ず結局は助かるなんて、話がうますぎるような気がしますが」「まっ、ヤラセ番組でしたから」、「あからさまにヤラセっぽい演出に赤面しています」などの意見が掲載されており、「やらせ」と「ドキュメント」の間でゆれる視聴者の姿が見えてくる。
 そうした意見の中に、次の様なものがあった。「しかし、『ヤラセ』であるとかないとかいう議論は、この番組に関してはまるでお門違いのものなのだろう。おそらく番組を作っている人達の共通認識は、「面白ければそれで良い」」。確かに『ジャングルクエスト』に関してテレビ側が、「物語として受け取って欲しかった。専門家の方にも、ばかなことをやっていると笑ってもらえることを想定していた」、「ドキュメンタリーではなく、バラエティとしてみてもらいたかった」と主張していることから考えれば、様々な演出は面白さの追求のためのものであると言いたいことが理解出来る。しかしバラエティだからと言って、面白さのためには何をやっても許されるわけではないことは言うまでもない。
 『ジャングルクエスト』において描かれた人々は、視聴者からはかけ離れた世界にを生きていると考えられてきたメラネシアの人々なのである。彼らは、長い間「未開人」というレッテルを貼られてきた人々であり、視聴者の側にもあらかじめそれがインプットされた存在だったのである。第1回目の放送は、筆者には衝撃的だった。それは、忽然と「未開人」が石斧を振りかざして現れる場面だが、「未開人」の登場が衝撃的だったわけではない。筆者にとって衝撃だったのは、その場面を見た司会者や会場の観客が驚愕の声をあげたことだった。我々ヴァヌアツを知っているものにとっては明白に「やらせ」の場面が、それを知らない人々にとっては、現実かも知れないと思われてしまう点が衝撃だったのだ。
 通常のバラエティ番組が「やらせ」として批判されるのは、素人、あるいは知られていない役者の演技した出来事を、あたかも現実であるかのように提示することに起因している。この場合は、しかし、視聴者は「やらせ」かも知れないと思いながらも、現実を覗き見をするような快感を持つという効果が生まれる。一方『ジャングルクエスト』における異文化表象は、これとは異なった効果を視聴者に与える。それは、視聴者の側にあるなんとなく持っているイメージや思い込み、つまり、「今でも野蛮な未開人が世界のどこかに存在するかも知れない」というあやふやな視点を、半信半疑ながら「やっぱり今でも未開人がいるのだ」という認識に変えさせるという効果をもたらすのである。つまり、創作による嘘の情報を与えて、視聴者にとってはある意味でどうでも良い思い込みを、これまたどうでも良いと判断できるような描き方の番組を通して、どちらでもよいけど「やっぱり本当だったのだ」と思わせるということなのである。マスメディアだからこそ出来ることであり、だからこそ、問題にもすべきなのである。
 一方、『あいのり』も同じくバラエティ番組で、そこで展開される若者たちの恋愛を、わくわくして見ながらも、「やらせかもしれない」「役者が演じているかもしれない」という思いが頭の片隅にある人たちも多いと言う。そしてここで創作された未開人イメージは、『ジャングルクエスト』で作り出されたものよりも、やっかいな効果をもたらす。というのは、『ジャングルクエスト』では「未開人」が視聴者の好奇のターゲットであり、「やらせかもしれない」という意識まじりで見ることもあるが、『あいのり』では若者たちの恋愛がターゲットであり、未開人イメージは、その背景にまわってしまうからである。もっとも、視聴者に関心のある「背景」は、それなりに意味を持つ。今年の四月、南アフリカでアパルトヘイトによる差別を受けた人々が押し込められた居住区・タウンシップを背景とした放送が行われたが、番組ではそれをきっかけに、「多くの問題で苦しむアフリカの人々」に対する「あいのり募金」を募り、多くの人々がそれに協力しいる。しかし、差別、偏見、餓え、などの問題には高い関心を持つ若者達にとっても、「未開人の生活」は、「未開人」故にどうでもよいことなのだ。そして、『あいのり』に登場したパプアニューギニアの「未開人」は、「へー、こんなところがまだあるんだ」という感想だけを残して、視聴者の関心からは姿を消してしまうのである。

4 視聴者の側の自文化中心主義

 メラネシアは、一八世紀の大航海時代以来、長い間ポリネシアとの対比によって描かれてきた。ニューギニアをはじめとするメラネシアの島々は「秘境」として、タヒチやトンガをはじめとするポリネシアの島々は「楽園」として扱われてきたのである。これは、プロテスタントの布教活動が活発に展開され始めた一九世紀に、布教の進み具合との関係で確立された見方と言える。そして、例えばアメリカにおいては、一九世紀を通して、「(宣教師達をも殺害し食べてしまう)野蛮な食人種の住むメラネシア」が「文明への道を歩みつつあるキリスト教徒の住むポリネシア」と対比されていたという(中山 2000:58)。確かにメラネシアでは宣教師が殺害されたりする事件があった。しかし、それは一人メラネシアに限られたわけではなく、非西洋世界が西洋世界と接触する過程で、世界各地で起こった現象である。また、メラネシアでは確かに食人の慣行が報告されている。しかしそれはポリネシアでも報告されているだけではなく、世界各地から報告されており、そもそも食人慣行を意味するカニバリズムという言葉は、西インド諸島住民のカリビアンに由来しているのである。
 二〇世紀に入ってもこうしたメラネシア・イメージはそのまま生き続けるが、非西洋である日本においても、それは継承される。一九四〇年一一月から二ヶ月間、南太平洋を旅した秋本は、ニューヘブリデス(現ヴァヌアツ共和国)について、「離島や山奥深くに入れば獰猛な食人種・毒蛇・鰐等も沢山に棲息している」と記している(秋本 1943:338)。彼は、離島に存在すると考えられる「食人種」を毒蛇や鰐と同列に扱い、「棲息」するものとして把握している。同じころ出版された別の図書でも類似のことが少し詳しく語られている。つまり、「マレクラ島、サント島、アラアラ島においては未だ食人の慣習ありて、往々海岸地帯に居住する欧人を襲撃し殺戮することあり。海岸に居住する原住民族は暗黒色のメラネシヤ人種にして縮毛なるも比較的キリスト教に帰依し性温順となり、一般に saltwater men と呼称され、漁業、耕作に従事し居れども、内陸山間に居住するものは性凶暴にして馴化せず海岸居住者を攻撃して食人するの風あり。一般に bushmen と称され恐怖され居れり」(荘司 1944:137)。
 キリスト教布教当初には、こうした状況が見出せたことは想像に難くない。しかし、ニューヘブリデスに初めてキリスト教が布教されたのは一八三九年のことであり、これらの図書が出版されるまでには、既に一世紀以上の布教活動の歴史が横たわっているのである。また一九世紀後半には、ブラックバーディングと呼ばれる労働者徴集によってオーストラリアのプランテーションで働いた経歴を持つ者も多く生み出され、二〇世紀に入るとすぐに英仏共同統治領に、そして一九四二年には、太平洋戦争のためにサント島にアメリカ軍が一〇万人規模のキャンプ都市を建設し、多くの島民がそこで働いた経験を持っていたのである。こうした歴史は全く無視され、メラネシアの人々は、あたかも初めて西洋世界と接触したファーストコンタクトの時代のままの生活を送り続けているという見方が継続し、そして現在のテレビにおける「未開の演出」を生み出したと言えるのである。
 こうした(テレビ側だけではなく、何度も指摘しているように、視聴者の側にもある)発想の背後には、進化主義的視点が存在している。一九世紀に登場した進化主義は、すべての社会は同一の進化の道筋を辿るという前提の下、進化の進んでいるところを文明、進化の遅れているところを未開と呼び、世界中の社会を進化の度合いに応じて上下関係に配列していった。つまり、未開社会とされたところはやがて開かれて文明社会へ至るであろうが、進化が遅いため、なかなかそれが達成されないという視点が存在したのである。とすれば、未開社会はいつまでたっても未開社会であるということになる。西洋を中心とした文明社会が不断に進化を遂げて新しい姿へと変化していくのに対して、未開社会ではいつまでたっても裸で野蛮な状態が継続していると捉える発想の基本は、ここにあるといえる。
 進化主義的な見方は、『ジャングルクエスト』などの番組における極端な異文化描写だけではなく、実は、バラエティ番組における「王道」の異文化表象の背後においても見出せるのである。既に紹介したように、特に「未開社会」を対象とした番組においては「我々と彼らの差異の強調」→「我々の側のとまどい」→「我々と彼らの交流」→「差異を超える共通性の発見」、あるいは、「彼らの中に我々の側にはない人間としてのすばらしさの発見」、というプロセスを基調とした描き方が行われる。しかし、差異を超えた共通性というのは、我々の側にある価値観との共通のことであり、未開な彼らの社会にも我々文明の側と同じ共通性があるという発想と関連している。また、我々の側にはない人間性とは、我々文明の側が失ってしまった人間としての素晴らしさを、彼らは(進化が遅れているから)いまだに持っているのだ、という発想と結びついているのである。
 進化主義的なものの見方は、自己中心的な文化観でもある。というのは、すべての社会が同じ進化の道筋を辿るという前提は、自分達の社会が辿った道筋を他の文化にも適用できるということを保障し、自分達の価値観が他の社会にも適用できることを認めるからである。その結果、進化主義的見方では、それを論じる者のいる社会を中心に世界が整理されることになる。そして、それからかけ離れた価値観に基づく異文化は、必然的に未開に追いやられることになるのである。この自己中心的な文化観は、自文化中心主義によって形成されている。自文化中心主義というのは、無意識のうちに自分の文化的フィルターを通して異文化を見てしまうという姿勢のことである。国際化が叫ばれる現在、世界には多様な価値観が存在していてそれぞれを尊重しなければならないと考えている人々は多い。しかしこれらの人々でさえ、知らず知らずのうちに自分の価値観というフィルターを通して異文化を見てしまっているという現実が存在するのである。
『あいのり』で論じた視聴者の反応、つまり、紛争や差別などの問題で苦しむアフリカの人々に対しては真剣に対応を考える人々が、パプアニューギニアの「未開人」については、ただ「未開な人々がいる」という認識だけを持って通り過ぎる、という反応も、同様である。自分達と接点のある、あるいは自分達との差異化がそれほどなされなくなった異文化(言い換えるならば進化してきた異文化)には関心を持つが、接点がない、あるいは差異化が強調される異文化(言い換えれば進化しない異文化)には関心が薄いというのは、まさに自文化中心主義的な見方から生まれているのである。製作者の側にも視聴者の側にもあるこの自文化中心主義的な異文化表象を正面から見据え、場合によってはそれを告発するという発想こそが、異文化表象を扱うマスメディアに要請されることなのではないだろうか。人類学とマスメディアの接点、あるいは共同作業の場がそこにあるように筆者には思われるのである。

引用文献

秋本貫一 1943『南太平洋踏査記』東京:日比谷出版社
牛山純一 1979「テレビ報道にとっての映像人類学」ポール・ホッキングズ、牛山純一 編『映像人類学』、
         pp.251-262. 日本映像記録センター
白川千尋 2004「日本のテレビ番組におけるメラネシア表象」『文化人類学』69-1:115-137.
荘司憲季 1944『太平洋島嶼誌 メラネシヤ篇』東京:三省堂
中山和芳 2000「人食い人種とキリスト教ー19世紀アメリカの新聞に見るオセアニア人 観」吉岡政徳、
          林勲男編『オセアニア近代史の人類学的研究ー接触と 変貌、住民と国家』国立民族
          学博物館研究報告別冊21.