テレビ番組に見るオセアニアの描かれ方
バラエティ番組では「やらせ」が許されるのか?
ーフジテレビ「ワレワレハ地球人ダ」を巡ってー
1 番組内のコーナー「ジャングルクエスト」の内容とそれへの抗議
鳴り物入りで始まったフジテレビの「ワレワレハ地球人ダ」の一つのコーナーに「ジャングルクエスト」というものがある。それは、12年前に南太平洋で消息を絶ったオランダ人宣教師の行方を探す、という企画でスタートした。番組では、ヴァヌアツ共和国のポートヴィラにあるコーディネーターの事務所から報告を受け、宣教師を探すべくディレクターが現地に赴くという形で始まっている。
第1回目の放送は、ヴァヌアツのレパ島に宣教師の手がかりがあるのではないか、という情報に基づき、ディレクターとヴァヌアツ人案内人、それに日本人の通訳がその島に向かうが、そこでは、槍と斧などをもった裸の原住民集団が忽然と現れ、ディレクター一行を襲わんばかりに取り囲む場面が放映される。
第2回の放送では、原住民の村に入って宣教師の行方を聞こうと思うが、村に入るためには崖から飛び降りて勇気を示さねばならないと言われ、ディレクターはそれを断念するという話しが展開される。
第3回目の放送では、マルベ島に向かうが、海岸に降り立とうとするとき、弓と槍を持った裸の原住民達が彼らを襲い、弓がボートに飛んでくる場面が放送される。次回の予告では、「つい最近まで首狩族だった」ネプ島の原住民のところに出かけ、裸の原住民に囲まれる場面が映し出された。
この段階で、筆者はフジテレビに抗議をすることになった。抗議の内容は以下のとおりである。
1.ヴァヌアツ共和国で、今時、「裸の原住民」が弓や槍をもって襲ってくることはありえない。
2.ヴァヌアツでは12年前にオランダ人宣教師が行方不明になっていない。
3.最近まで首狩をしていたところはない。
4.「やらせ」を現実であるかのように映し出すのは、やめるべきである。
フジテレビ側は、それに関する検討をする、ということで、第4回目の放送の2日前に担当プロデューサーから連絡があり、以下の4点が提案された。
1.とりあえず、放送は第4回目の放送でひとまず終わる。
2,.今後継続してやっていくが、ヴァヌアツ共和国という特定の名称はやめ、南の島という言い方にする。
3.原住民はやめて、先住民とする。
4.ジャングルクエストのコーナーでは、「これはストーリーです」というナレーションなどを入れる。
筆者としては、「これまでの放送はフィクションでした」と入れないと意味がないという点を強調した。というのは、これまでの放送を見て、裸の原住民に弓と槍などで襲われるということが現実に起こると真顔で考える人が居たからである。番組は、明らかに「捏造」を「真実」として見せようとする姿勢があったことも確かである。しかし、プロデユーサーは「ストーリーです」ということを挿入することを固執し、平行線をたどったまま話し合いは終わった。
2 プロデューサー側のいい訳
プロデューサー側は、もちろん、「ジャングルクエスト」の放送内容が現実のものではないことを認めており、それはいわゆる「やらせ」にあたることは承知している。そこで、筆者の基本的な要求は、『「これまでの放送はフィクションでした。』という点を明確に視聴者に伝えることだったが、彼としてはそれを避けるべく、「ストーリーです」ということによって対処しようとしたため、約1時間にわたってやり取りをしたが、この点に関して合意は得られなかった。プロデューサー側の話の内容をまとめると以下のようになる。
1.宣教師は、ヴァヌアツではなくパプアニューギニアにいる。
2.話は、心温まる方向へと展開していくのであり、その後の話の展開とのギャップを作るために、ああいう演出をした。たしかにやりすぎだった。
3.槍をもって襲ってくるという今までの日本人の未開人イメージを、今までの放送でやったのだ。
4.決して南太平洋やヴァヌアツを愚弄する意図はなく、基本的に、南太平洋の人々を主役にしたような放送をしたい。放送はこれから変わっていくので、そのへんを見てほしい。
5.あれは物語として受け取ってほしかった。専門家の方にも、ばかなことをやっていると笑ってもらえることを想定していた。
6.ドキュメンタリーではなくバラエティとしてみてもらいたかった。
7.ニカウ主演のブッシュマンという映画は、それだけ見ると彼らを侮辱したような映画だが、映画としてとおっている。そうしたものを作りたい。
筆者は、プロデューサーが『ブッシュマン』の例を出したため、「心温まる」というのは、もっとメッセージ性を持ったものになるのだろうと一人で考えていた。そこで、話し合いの中で、『今までの放送は、日本人が一般に持っている未開というイメージにもとづいて作成したものですが、事実はことなります。それはこれからの放送を見てください』というナレーションを入れたらどうか、という提案をした。しかし、第4回の放送を見て、この提案が無意味だったことが分かった。
第4回目の放送では、確かにフジテレビ側から提案された4つの件は守られていた。ヴァヌアツ共和国の地図を用いる点は変わりなかったが、そこから国名と地名は削除されていた。また、ナレーションでもヴァヌアツという名前は出てこなかった。そして原住民は先住民に移し変えられており、さらに、コーナーの始まる前には、「これは少年の心を持った大人に送るドリームストーリーです」というテロップとナレーションが入ることになった。しかし、第1回目の放送からのダイジェストは放送された。つまり、裸のメラネシア人が弓と槍で襲うという場面は繰り返し放送されることになった。
そして「心温まる方向」というのは、「元首狩族」の村落の人々と仲良くなったディレクターが、村の少女の恋の仲立ちをするという、陳腐な物語であった。メッセージ性も何もなく、また、南太平洋の人を主人公とするわけでもなく、日本人ディレクターを「いい者」に仕立てる内容の放送で、肩透かしを食らった感じだった。「ドリームストーリー」というテロップが入っても、司会やスタジオにいる観客の反応などから、やはり、「真実らしく」伝えようとするフジテレビ側の姿勢は変わっていなかったが、変更点は守られていたし、「番組がバラエティである」という点を以前より強調するような場面も見られ、さらに、これでこのコーナーが打ち切りになるということで、一応収束の方向でいいだろうと筆者は考えた。ところが、しばらくの空白を置いて、「ジャングルクエスト」が再び2週連続で放映されたのである。
3 フジテレビのマスメディアとしての姿勢を問う
再開された第5回目の放送では、第1回目からのダイジェストが長々と繰り返し放送され、「裸の未開人」「文明人を弓や槍で襲う未開人」というイメージをもたらす映像が、相変わらず登場した。そして、今回も、今までとは違う島へ行くという設定で話しが進んだが、その話しの中心は、裸の未開人がディレクター達の持ってきた荷物を闇にまぎれて盗み取るというものであった。彼らの村へ行ったディレクター達が見たものは、その荷物の中にあった食料を貪り食う未開人の姿であった。しかし、未開人(放送では先住民と言っている)の親が子供に食料を与えている姿を見て、ヴァヌアツ人の案内人(この場合、ヴァヌアツ共和国ポートヴィラ出身と明言されていた)が幼い頃に分かれた父親を恋しく思い、思い悩んでいるのを、ディレクターが人肌脱いで、会いにいくということで放送が終わった。
もうお分かりの様に、プロデューサー側から提案された約束のうち、二つはホゴにされた。一つは放送が再開された点、もう一つは、架空の物語のはずが、案内人を「ヴァヌアツ共和国ポートヴィラ出身」と明言した点である(また、国名や地名は省略してあるが、地図はヴァヌアツの地図を用いたままである。架空の存在を示していない)。さらに、プロデューサーとの話し合いにおける彼の説明は、結局は、「まやかし」であったということになる。というのは、プロデューサーの「心温まる話とのギャップのために未開を演出する映像を出した」という説明が真意であるならば、いまさら「文明人の荷物を盗む未開人」イメージを描く必要はないはずだからである。また、「心温まる話」というのも、結局は、「野蛮人を許す日本人ディレクター」という構図から出来上がっていることになるのである。「太平洋の人を主人公にした物語を作りたい」というプロデューサーの主張とはほど遠い内容の放送が、再開されたのである。悪く取れば、国名を特定していないから、ストーリーだと断りを入れているから、たとえ「やらせ」を「本当らしく」放送しても、抗議や苦情は来ないだろうと思っているかのように思えてしまう。番組の責任者であるプロデューサーが、こうした「まやかし」のいい訳をしていたということは、フジテレビそのものに対する不信感をもたらすことになるのは、当然のことであろう。
第6回目の放送は、「ジャングルに一歩足を踏み入れればそこは戦場!」「元首狩族の襲撃」「弓矢の総攻撃」というテロップとナレーションが出た後、「生きて帰れるのか?」と問いかけ、第1回目からの「未開人の演出」映像がダイジェストで流れる。そして本編。
今回は設定が変わる。ディレクターが悪者になるのである。彼は、先住民の村落近辺にある「立ち入り禁止」の標識を引き抜いて入っていき、案の定一行は、その先で裸の先住民に槍などで再び囲まれ、村の裁判にかけられることになる。ディレクター達に罪があるという裁定がおりたとき、一人の先住民狩人がディレクター達を弁護する。村人は、この狩人が豚の背に置いたココヤシの実を一発で射抜いたら、ディレクター達を解放するが、失敗すれば100叩きの刑に処すと宣言。結局、ウィリアムテルとなったこの狩人は弓の射抜きに成功し、ディレクター一行は助かるという物語だ。そして最後に、宣教師の手がかりはパプアニューギニアにあることを告げて、終わる。
これが心温まる物語、太平洋の人を主役とした物語なのだろうか。こんなくだらない設定とのギャップをつくるために「未開人像」を演出していたのであろうか?また、最後に「次はパプアニューギニアだ」となぜ実名を入れたのだろう。これが「ストーリー」であるならば、実在する国名、地名を入れることは出来ない。しかし、プロデューサーはそれをやった。つまりは、あくまでも「本当らしく」「実話らしく」見せたいのだろう。これが、フジテレビの方針なのか?結局、推察するに、この番組を制作した会社スフィンクスから送られてきたテープが大量に残っているため、プロデューサーとしてはそれを捨てるわけにもいかず、まとめて放送するというやり方でごまかそうとしたのだろう。しかし、「問題放送だ」ということで話し合いをした後で、こうした処置をするということは、フジテレビ側の見識が問題となろう。少なくとも「だまし」に匹敵するやり方で、テレビ局が動いたということである。マスメディアの代表であるフジテレビが、こんなことでいいのだろうか。資本主義におけるマスメディアなんて、所詮、利益第一主義で動くのだからその使命をうんぬんしても仕方がない、とシニカルニ構えていていいのだろうか。オセアニア、そしてヴァヌアツ共和国のイメージは、フジテレビというマスメディアによって歪められたまま、多数に向かって発信されているのである。
4 バラエティでは「やらせ」は許されるのか?
ヴァヌアツの人々は、ダンスの合間に寸劇を入れて楽しむという伝統を持っている。その寸劇の内容は多様で、場合によっては寸劇の域を越えた長いものもある。彼らの演技は迫真の演技であり、ヴァヌアツの人々を知っている者が「ジャングルクエスト」を見れば、「いい演技をしている」ということが非常に良く分かる。彼らの迫真の演技に支えられて、番組は、それがいかにも現実に起こっているかのように描いてきたわけだ。
ところで、ドラマでは最後に「これはフィクションです」という断り書きが入るが、バラエティ番組で演じられるドラマの場合は、そうした断り書きが入らない。ということは、バラエティ番組は、最初から「バラエティだからうそだ」という目で見てもらえるという前提があるのだろうか。
視聴者に良く知られたタレント達が、「いかもに本当らしく演技して、それが現実に起こっている出来事であるかのように見せる」場面はしばしば登場する。それは、どうやら許されているようだ。では、素人がそれをやった場合はどうだろうか?ここが微妙なところなのだろうが、視聴者は「やらせだろう」と思いながらそれを見ることもしばしばある。しかし、もしそれが正式に「やらせ」であることが発覚した場合は、いかにバラエティでも、正当性を主張できないのが現在の状況だろう。
さて、「ジャングルクエスト」で問題となるのは、「やらせ」で演技をしているのはヴァヌアツ人(メラネシア人)であるということである。彼らは、少なくとも日本の視聴者には素人である。しかし問題は、その先にある。ヴァヌアツの人々は、西洋世界から「未開人」というレッテルを貼られてきた人々なのである。日本でも、そのイメージは根強い。第1回目の放送は、衝撃的だった。ディレクターが歩いていると、忽然と一人の「未開人」が石斧を振りかざして現れ、それに続いて、大勢の「未開人」が茂みから姿を現したのだ。この場面で、「未開人」の登場が衝撃的だったわけではない。私にとって衝撃だったのは、その場面を見た司会者や会場の観客が、恐怖の声を上げ、本当に驚いているありさまだったのだ。我々ヴァヌアツを知っているものにとっては明白に「やらせ」の場面が、それを知らない人々にとっては、「現実」に写ってしまうという点が、衝撃だったのだ。それが、フジテレビ側の狙いでもあった。こうした演出の仕方は、本当に行われているように見える素人の演技を通して「現実を覗き見をするような」快感を与えるのとは異なり、「今でも未開人がいるのは本当だったのだ」という、あやふやだった視点を再確認させる場を提供することになる。つまり、うその情報を与えて、一面的な思い込みを「やっぱり本当だったのだ」と思わせるということなのである。マスメディアだからこそ出来ることであるが、だからこそ、罪悪でもあるのである。
バラエティでの演出は、何でも許されるものではない。「ジャングルクエスト」はたちの悪い「やらせ番組」である。現在の日本人の素人に、江戸時代の格好と、その当時の生活を再現させて、「異人を攻撃し」「異人の荷物を盗ませる」演技をさせ、それをいかにも現在の日本で起こっている出来事であるかのようにヴァヌアツのテレビ局が放送したら、どうだろうか?
フジテレビの対応は、日本のマスメディアのレベルの低さを露呈している。それは、番組そのものが低俗だということだけを言おうとしているのではない。低俗な番組は、視聴者が望む限り続くし、その種の番組はあるだろう。ここでいうレベルの低さとは、フジテレビ側のマスコミ人としての自覚やその意識の低さのことである。「利益のために」「抗議はひとまず落ち着いたから、いまのうちにやってしまえ」式の意識での放送だったのではないか。それで、マスメディアはいいのか?