2011年5月:一覧

震災の記憶

 阪神淡路大震災の3年後に、大学の教職員組合が震災手記を集めた小冊子を作りました。その時に私も自分の体験を書いたのですが、その一部がつい先日もう一度印刷されました。それで私も自分の書いたものを久しぶりに読みました。

 時の経過とともに記憶があやふやになっていきます。それを少しでも防ぐため、手記の全文をここに載せておくことにしました。

私の震災体験

 その瞬間はいったい何が起こったのかわからなかった。まるで爆撃のような大きな衝撃。地震と気づいてとび起きたとき、部屋の中の灯油ファンヒーター(私たちはこれをつけっぱなしにして寝ていた)が自動的に止まった。外に出ろ、と夫が叫び玄関の戸をけやぶって家から出た。その時にまだ揺れが続いていたかどうかは覚えていない。

 築50年以上たつ私たちの借家(神戸市灘区)の前面にあったブロック塀はすべて道路側に倒れていた。ねまきにはだしのかっこうで、私たちは路上に横たわる門とびらの上にぼうぜんと立っていた。外にはだれもいない。どこかでガス管がこわれたらしく、ガスの匂いが鼻をつく。

 しばらくしてから近所の人々が不安そうな顔つきで家から出てきた。幅2メートルほどの狭い道をはさんで、私たちの家のある側は同じような古い家が多く、壁が落ちたり裂けたりしているが、反対側は比較的新しいコンクリート造りの家が多く、外からはそれほど被害が大きいようには見えない。

 寒さと不安に耐えきれず、夫が着るものとはきものを取りに、こわごわ家の中に入った。屋外でもあたり一面にガラスが散乱している。

 隣に住む老夫婦(おじいさんは寝たきり)の家の方に行くと、中からおばあさんが出られないと言う。夫や近所の人たちが玄関の戸をこわして入った。幸いにも我が家の両隣と前の家にはけが人はいないようだった。しかし、私はあたりにたちこめるガスの匂いが先ほどより強くなったような気がして不安でならなかった。

 

 屋根と天井はかろうじて残っているが壁が落ちて中がめちゃくちゃになった我が家にもう住めないと判断した私たちは、新神戸駅近くのマンションの友人宅に避難した。そのマンションはほとんど被害がなく、夕方には電気が回復した。だが水とガスはない。

 電気のおかげで、テレビ、冷蔵庫、電子レンジ、エアコン等が使えた。最初の日はテレビの地震報道を見て暮した。夜は、何度か大きな余震があるなか服を着たまま寝た。友人宅には、ある程度の食料のたくわえはあったが、おとな4人が何日食べられるのか不安だった。

 3日目。マンション近くのパン屋の前に2時間ほど並んで、夕方できるパンを買うための整理券をもらった。夜には3人がかりで並んで、近くの駐車場のすみから出る雑用水を数本のペットボトルにつめた。

 4日目(だったと思う)。阪急電車が西宮北口まで動くようになった。大阪から友人が水や食料を持って見舞いに来てくれた。彼は西宮北口まで折りたたみ自転車を抱えて電車に乗り、そのあとは自転車。だが六甲駅を過ぎたあたりでパンクし、あとは自転車を押してやってきた。私は住むところを探すために、彼といっしょに大阪に行くことにした。

 ようやく少し動くようになったバスで私たちは阪急六甲まで行った。そこから線路伝いに西宮北口まで歩き、満員の電車に乗って、暗くなってから梅田に着いた。改札口を出るやいなやデパートやレストランが以前とまったく変わらぬ様子で開いているのが見えた。道行く人々が神戸のように着のみ着のままの状態でないことに気づいて私は一瞬目がくらんだ。西宮北口から電車で20分ほどのここでは普段の生活が続いているのだとわかると、涙があとからあとから出てきた。

               『震災手記』神戸大学教職員組合発行(1998年1月17日)に寄稿したもの

取捨選択

 大学時代の懐かしいクラスメートからメールがきました。それで、一気に大学生の頃の思い出がよみがえりました。

 最初は胸躍らせて始めたフランス語でしたが、煩雑な文法や、少し退屈な授業にうんざりしていました。でも、なんとか流暢にしゃべれるようになりたい(大学の授業でいちばん欠けているのは会話訓練)と、語学学校にせっせと通いました。そちらのほうが面白くて、大学の授業がますますつまらなく感じられていた頃、そのクラスメートがぼそっと「フランス語がぺらぺらしゃべれるようになっても、言うことが何もないんじゃねえ・・・」。それで、私もはっと気付きました。そのとおりです、いくら外国語を流暢に話す訓練をしても、話す内容がないのでは問題外です。それからは語学以外の勉強も熱心にやるようになりました。

 日本の大学を卒業後、フランスの大学に留学しました。今度は「いくら高尚なことをやっていても、普通の会話がまともにできないのでは、単なるバカと思われるだけ」という現実でありました。上記のクラスメートの意見とは正反対の体験でした。そこで私はもうプライドを捨てて、子どものようにつたない言葉ではあっても、ひたすら自分の意見を言い、相手の言葉を理解しようとしたものでした。

 そして、現在。私の会話力も専門知識もどうも中途半端に思えます。すべてにおいて満足のいくようにやるというのは本当に難しいですね。人生の時間は無限にあるわけではないので、どこかで見極めをつけて、捨てるものと続けるものを決めていくべきなのでしょう。

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