ラガ語における範疇詞



 

 オセアニアで話されている様々な言語には、独自の所有表現が見いだせる。それは、様々なマーカーを用いて所有の対象となる名詞を範疇化するということである。例えば、ある種類の名詞には「私の」「あなたの」といった意味を持つ所有接尾辞が直接接合されるが、別の種類の名詞の場合は、名詞が示すものを表すマーカーに「私の」などの所有接尾辞がつき、それが当該名詞を修飾するような表現をとる。オセアニック祖語においては、食べ物を示すマーカー、飲み物を示すマーカーなどが知られている(Lynch 1982:244-246)。これらのマーカーは、「所有詞」(杉田 989:243)と呼ばれたり「範疇詞」(崎山 1989:238)と呼ばれたりしているが、本論では範疇詞という表現を用いることにする。というのは、本論で議論しようとするのは、マーカーによって区切られた範疇の性質であり、どういったものがこのマーカーによって一つの範疇にまとめられているのかという点だからである。
 なお、議論の対象となる言語は、メラネシアのヴァヌアツ共和国のペンテコスト(ラガ)島の北部を占める北部ラガ地方で話されている言語である。この地方の人々は、焼き畑耕作によってイモ類などを産する農耕民で、人口は約3,000人である。筆者はこの地方で社会人類学的フィールドワークに従事してきたが、本論で提示する資料も筆者自身のフィールドワークに基づいたものである。
 

1 北部ラガの言語 

 112を数えるヴァヌアツの諸言語は、オーストロネシア語族の下位グループである西部マラヨ・ポリネシアンに属するオセアニック諸語の中に含まれる(Pawley and Green 1984, Tryon 1984)。オセアニックはメラネシア、ポリネシア、ミクロネシアのほとんどの言語を含むが、リンチとトライオンは、その下位グループの一つに中部ー東部オセアニックを設定しており、ヴァヌアツで話されている諸言語はこのグループに含まれている。このグループは、さらに東部オセアニック、南部ヴァヌアツ、ウトゥプア及びヴァニコロという三つの下位グループに区分されるが、最初の東部オセアニックはさらに南東ソロモニック、北部及び中部ヴァヌアツ、中部太平洋、ミクロネシアンに再区分される。ペンテコストの諸言語は、この中の北部及び中部ヴァヌアツ・グループに属しており(Lynch and Tryon 1985:33)、トライオンによればそれらは五つの言語から成っている。つまり、北部で話されているラガ語、中部のほとんどで話されているアプマ語、中部の二村のみで話されているソワ語、中部の一村のみで話されているセケ語、南部で話されているサ語である(Tryon 1972:59-60)。
 本論の舞台となる北部ラガとは、トライオンの言うラガ語が話されている地域ということになる。ラガというのは、このラガ語及び島中部のアプマ語でペンテコスト島全体を指す名称である。南部のサ語では島全体を指すのにこの名称が用いられていないようであるが、北部の言語に限って「ラガ語」と命名するのは適切とは言えないであろう。しかし、今日この言語名が言語学者によって広められており、北部ラガの人々の中にも自分達の言語はラガ語であると主張する人々が現れているので、本論でもこの地方の言語をラガ語と呼ぶことにする。なおラガ語は、ペンテコスト島内の他の言語よりも同島の北側に隣接するマエウォ島やアンバエ島、さらにはもっと北方のバンクス諸島やトレス諸島の言語と親縁関係を持っているとされており、クラークはこれらを北部及び中部ヴァヌアツ・グループのさらに下位グループを構成する北部ヴァヌアツ・グループとして位置づけている(Clark 1985:211)。
 北部ラガは本来無文字社会であったので、言語表記はアルファベットを借用して行われている(cf.Yoshioka and Leona 1992)。近年に至っても未だラガ語の辞書が存在せず、ラガ語に関する言語学者による詳細な言語学的分析も公表されていない。本論ではラガ語を記述する場合に、基本的には実際に用いられている綴り字を採用することにする。表記法が確立しているとは言い難いが、文字のほとんどはラガ語の音韻体系と一致して綴られていることは確かである。表1は、北部ラガを調査した言語学者ウォールシュの示した子音の音韻に関するものであるが(Walsh 1982:236-237)、綴り字もこれら音韻を利用して出来上がっている。例えば「耳」を意味する/bwero/は bwero、「父方のオバ」を意味する/vwavwa/はvwavwaと綴られるのである。


BILABIAL LABIODENTAL LABIOVELAR ALVEOLAR VELAR PHARYNGEAL
STOPS
−V
+V
±V
+V+L
+V+P


 b
 bw



   t
   d




 k



 ngg

FRICATIVES
ーV
±V
±V+L



   v
   vw


   s




 g


    h


NASALS
+V
+V+L

 m
 mw



   n


 ng


TRILL
+V




   r


LATERAL
+V




   l


SEMI-VOWEL
+V



   w



           V = voicing, L = labio-velarisation, P = homorganic pre-nasalisation

                                表1


 さて、表2はラガ語における範疇詞を示したのものである。@は、直接所有と呼ばれる形態で出現する所有接尾辞で、名詞に直接接続される(Lynch 1982:244)。これに対してAからDまでは、範疇詞に@と同じ所有接尾辞が接続され、それが名詞を修飾する形をとる(cf.吉岡 1987:6-7)。


  @    A     B     C     D
一人称単数
二人称単数
三人称単数
-nggu,-ku
-mwa
-na,-n
nonggu
nom(nomwa)
non(nona)
gaku
gam(gamwa)
gan(gana)
manggu
mam(mamwa)
man(mana)
bilaku
bilam(bilamwa)
bilan(bilana)
一人称複数
二人称複数*
二人称複数**
三人称複数
-mai
-miu
-da
-ra
nomai
nomiu
noda
nora
gamai
gamiu
gada
gara
mamai
mamiu
mada
mara
bilamai
bilamiu
bilada
bilara

 FAからDの範疇詞は absolute possessive でも用いられるが、二人称単数と三人称単数
  の場合は、( )で示されたものを用いる。
 F* 聞き手を含まない。 ** 聞き手を含む

                   表2 範疇詞 


@の形態だけ異質の様にも見えるが、ここではマーカーがゼロの形であると捉えることによって、北部ラガにおける名詞は
φ-、no-、ga-、ma-、bila-という5つの範疇詞によって範疇化されていると考えることも出来る(cf. Lynch 1982:244)。
 これら名詞の範疇をトライオンは次のように整理している。つまり、ゼロ・マーカーであるφ-は、身体の部分、親族名称、全体の一部、あるいは、所有者が密接に結び付けられている現象など「譲渡出来ないもの(inalienable)」を、no-は「譲渡出来るもの(alienable)」、あるいは「一般的なもの(general)」を、ga-は「食用可能なもの(edible)」を、ma-は「飲用可能なもの(drinkable)」を、そしてbila-は「価値の高い所有物(prized possessions)」を示すのに用いられるという(Tryon 1973:313-314)。以下では、このトライオンの整理の仕方を中心に北部ラガの範疇詞がどういったものをまとめているのかということを検証していくことにする。 

2 φ-、no-による範疇化 

 直接所有という形態で出現するφ-の場合から考えてみよう。トライオンはこれを「譲渡出来ないもの」の範疇を示すと考えているが、それは彼一人の視点というよりも、言語学において従来から指摘されてきたことであった。これがなぜ「譲渡出来ない」という表現で言い表されるのかを、杉田は以下の様に説明している。「直接所有表現における被所有物と所有者の関係は、部分・全体関係や親縁関係などのような密接な関係である場合が多く、この理由で、直接所有表現はしばしば不可譲所有表現あるいは分離不能所有表現と呼ばれる」(杉田 1989:243)。確かに、北部ラガにおいても所有接尾辞が直接名詞につくこの所有表現は、表3に見られるように親族(欄1)、所有者(私)の身体の部分、ないしは所有者の身体から出てくるものなど、いわば所有者の一部を構成しているもの(欄2)、所有者と密接な関係にあって切り放せないもの(欄3)などを表す名詞に顕著に見いだせる。これはトライオンの指摘するところでもある。

       1      2        3         4
tama-nggu 私の父
ratahi-ku 私の母
tarabe-ku 私の母方オジ
nitu-ku 私の子ども
tasala-ku 私の妻
bwatu-ku 私の頭
mata-ku 私の目
lima-nggu 私の腕
daga-ku 私の血
mere-ku 私の尿
hala-ku 私の進む道
alenga-nggu 私のやり方
gubwengi-nggu 私の日*
rahu-ku 私の人生
nunu-nggu 私の写真
gamali-ku 私のガマリ**
vanua-nggu   私の島(村)
sorisori-ku 私のソリソリ***
ebe-ku   私のゴザ
bwatlunga-nggu 私の枕

*  その人物の特別な日のこと。死者を偲ぶ宴が死んでから10日毎に行われるが、これらの日も    gubwengi-na(彼あるいは彼女の日)と呼ばれる。
** ガマリというのは村の集会所のこと
*** 腰に指す飾りとしての葉のこと。

              表3 ゼロ・マーカーによる所有表現
                   (1人称単数の例)



 ところが表3の欄4には、欄2の例とは反対に、所有者(私)の方が部分で被所有物(例えば、島)の方が全体という位置にあったり、欄3とは異なり所有者と接しているかも知れないが切り放したり譲渡したりすることが可能なものにゼロ・マーカーが適用されている例が見いだせるのである。このことは、φ-によって構成される範疇は、必ずしも従来考えられてきたような基準で出来上がっているとは言えないことを示している。では、どうの様な基準を設定すれば良いのだろうか。

 この点を考える上で、表4はきわめて示唆的である。欄1と欄2はどちらも日本語訳は同じであるが、その用いられ方は異なる。「土地」に関して言えば、欄1の表現は自分の住んでいる土地、あるいは村を言う場合に用いられるのに対して、欄2の表現は、現実に自分が畑を作るなどして利用している土地の場合に用いられる。北部ラガでは土地は親族集団の所有とされているが、現にそれを畑などに利用している者は、別の土地に畑を移してもその土地に対する独占的な権限は保持しており、その土地を利用しようとする者は、彼に許可を得なければならないのである。
 二つ目の「家」について言えば、欄1の方は自分の住んでいる家のことを指し、欄2の方は、実際に家を作っている者がその家を指して「その家を作っているのは私だ」ということを強調する場合の表現である。欄1の土地と家に対する所有表現は、被所有物と所有者(私)の関係が、いわば全体と部分の関係になっており、表3の欄4における「島」あるいは「ガマリ」と同じ位置づけを持つ事例であると言えよう。
 一方、「赤大マット」と「服」は、表3の欄4における「ゴザ」や「枕」と同じく、譲渡可能な性質をもつ事例である。赤大マットというのは、パンダナスで編んで赤く染めた大きなマットで、北部ラガでは豚と並んで伝統的交換財としての役割を演じてきたものである。このマットは、豚や現金と同様に作物の購入や家の建築や罰金の支払いなどに用いられているが、こうした支払いとは別に独自の儀礼的なやり取りにも用いられている。それは、このマットを贈与する場合である。その場合には、与え手はマットの端を頭に載せて与えるのであるが、人間の頭にあるとされる霊力に接触したこのマットを受け取った者は、与え手の保護者としての位置づけを持つことになるとされている。
 こうした用いられ方をする赤大マットの場合には、欄1の例と同様、ゼロ・マーカーで表されるのであるが、前者の場合のように支払いに用いられるマットに対しては、欄2の例の様にno-という範疇詞が用いられるのである。一方「服」の場合は、主として着ている服にはゼロ・マーカーが適用され、いくつかある服のなかで特定の服が自分のものだと主張したいときなどにはno-の範疇詞が用いられるようである。


    1      2
私の土地   
私の家   
私の赤大マット
私の服  
tano-nggu
imwa-nggu
bwana-nggu
gavu-ku
no-nggu tano
no-nggu imwa
no-nggu bwana
no-nggu gavu

          表4 ゼロ・マーカーとno-による所有表現の違いT
                  (1人称単数の例)



 表4で示された使い分け方から考えて、次のことが言えよう。つまり、ゼロ・マーカーで表現される場合は、所有者と被所有物の間で、少なくとも現実の所有関係が設定されない、あるいは、所有関係が強調されない場合であるということである。土地の場合も家の場合も、自分がそれに対して権限を持っている場合にはno-を用いるが、そうではない場合、あるいはそれを強調しない場合はゼロ・マーカーになるのである。表3の欄4における島やガマリがφ-で表現されるのも同じ理由からである。島は所有されるものではないし、村の集会所であるガマリも、村人全員だけでなく村外からの客人も利用することの出来るいわば公共性の象徴の様な存在であり、所有ー被所有という観念とはそぐわない性質を持っているのである。
 同様に、マットや服の場合も、自らの所有や支配関係を明確にしたい場合にはno-を用いるが、自己の霊力と接触している、あるいは身体の一部であることに焦点を置いた場合には、φ-が適用されるのである(1)。ゴザや枕、あるいはソリソリの場合も同じであろう。ゼロ・マーカーについてのこうした整理は、表3の欄1、欄2、欄3に示された事例についても該当する。つまり欄1に示されている親族名称は、ある人物を起点として関係が示されているだけでそこに所有するされるの問題は入ってこないし、欄2の事例は所有ー被所有ではなく部分ー全体の関係であり、欄3も所有ー被所有の関係にあるとは決して言えないことはすぐに見てとれるのである。

               1                 2
atmate-ku               私(自身)の霊魂
vuro-ku   私の(もらった)お返しが必要な贈り物
no-nggu atmate        私の霊魂(である配偶者)
no-nggu vuro   私の(与えた)お返しが必要な贈り物

         表5 ゼロ・マーカーとno-による所有表現の違いU 
                  (1人称単数の例)

 以上の点を補足する意味で、さらに別の事例をあげておこう。それは表5に示してある。ここに上げた事例は、同じ名詞ではあってもφ-で表現される場合とno-が適用される場合では意味が異なってくる例である。「霊魂」の場合は、欄1では所有者自身の霊魂が言及されているのに対して、後者ではそれが他の人物(配偶者)を指すのに用いられている。前者では自己と霊魂とが重なっており、所有ー被所有関係は設定されないのに対して、後者では、後に説明するが、表6の欄3の事例と同様に所有ー非所有関係を設定することが可能となるのである。一方、「お返しが必要な贈り物」の場合、φ-で表現される欄1の事例では、贈り物と贈り物の受け手の関係が示されているのに対して、no-が適用される欄2の例では、贈り物と与え手の関係が示されている。北部ラガにおけるこの種の贈り物は、お返しが実行されるまで与え手の影響が続くという特徴を持っている。つまり、贈り物の受け手は、その贈り物を所有しているとは言い難い状況が出現するのに対して、贈り物の与え手はそれを与えた後もそれを所有、あるいは支配していることになるのである。

         1           2              3
no-nggu        私のもの
no-nggu gabi     私の薪
no-nggu gete    私の篭 
no-nggu togotogo 私の椅子
no-nggu nubanuba 私の包み
no-nggu maturubore 私の夢
no-nggu muramura  私の力
no-nggu binbinihi   私の考え
no-nggu mataisao   私の知識
no-nggu lagiana    私の結婚
no-nggu tata   私のお父さん
no-nggu mua    私のお母さん
no-nggu vagahi  私の先生
no-nggu ratahigi 私のリーダー
no-nggu atatu   私の部下、人々

                表6 no-による所有表現
                  (一人称単数の例)



 さてno-が適用される場合を考えてみよう。no-という範疇詞は、オセアニア祖語において*na-という形で設定されるもので、「譲渡出来る」「一般的な」「中立の(neutral)」「支配的な(dominant)」という名のもとに語られてきた形態である(Lynch 1982:245)。既に述べたように、北部ラガにおけるこの種の範疇詞は、所有者が所有物に対して現実の所有や支配を強調したい場合に適用されると考えられるので、「支配的な」という形容は適切なものであると思える。しかし、トライオンが強調するような「譲渡出来る」という形容はふさわしいものとは言えない。というのは、譲渡可能でない性質を持ったものにもno-という範疇詞が適用されているのである。表6の欄2や欄3にあげてある例がそれであるが、特に欄2にあげてある名詞は、所有者とは切り放すことが出来ないものや譲渡できないようなものを指していることが分かる。しかし、これらはφ-で表される表3の欄2や欄3の例と較べると、確かに、所有者は被所有物に対して「支配的」であったり「所有ー被所有の関係」を堅持していることが理解できよう。
 欄3では親族である「お父さん」「お母さん」にno-の範疇詞が適用される例が示されているが、これらは実は、親族名称ではなくて親族呼称なのである。北部ラガでは、親族名称は基本的にゼロ・マーカーで表現され(2)、親族呼称はno-で表現されるのであるが、このことは、親族名称と親族呼称の違いを考えると了解することが出来る。というのは、親族名称は親族の関係性を表したものであり所有や支配の観念にふさわしくないのに対して、親族呼称は親族の関係性ではなくその相手を独立させて捉えているため、所有ー被所有関係で捉えることが可能だからである。もちろん、父や母あるいは先生やリーダーなどを「所有」したり「支配」することはないだろうが、「誰のでもない、この私の父」といった類の表現を想定すれば、こうした言い方もあながち間違ってはいないと言えるだろう。先ほどの「私の配偶者」という例にもこのことが言えるだろう。
 一方、「一般的」「中立的」という形容は、この範疇詞がまとめているものは何かという問に対しては適切な解答とは言えないだろうが、この範疇詞が適用される名詞の枠組みをそれなりに示していると言える。というのは、表6の欄1の最後に挙げてある「私の包み」は、包まれているものの中身が何であるのかわからないのでno-ngguが適用されると説明されるからである。ということは、逆に言えば、中身が何かが分かったら別の範疇詞を用いるということになる。それがga-、ma-、bila-なのである。とすれば、no-という範疇詞がまとめている範疇には、所有関係や支配関係を問題とする場合で、ga-、ma-、そしてbila-という範疇詞でまとめきれないものが押し込められるということになる。そうした意味で、この範疇詞が適用される所有表現は「一般的」なのである。では、ga-、ma-、bila- はどんなものをまとめているのであろうか。トライオンが言うように、それぞれ「食用可能なもの」「飲用可能なもの」「価値の高い所有物」なのであろうか。 

ga-、ma-、bila-による範疇化 

 まず、ga-とma-から始めよう。表7を見れば明らかだが、ga-という範疇詞が適用される名詞は食べ物を指し示し、ma-という範疇詞は飲み物を示す名詞をまとめていることは確かである。しかし、それぞれトライオンの言うように、「食用可能なもの」「飲用可能なもの」を指していると捉えるのは正確とは言えない。というのは、食用可能なヤムイモであっても、畑に生育するヤムイモを指して「私のヤムイモ」と言う場合は、ga-という範疇詞ではなくbila-という範疇詞を用いてbilla-ku damuと表現するし、飲用可能な水であっても水浴びのために利用するのであれば、「私の水」はno-を用いてno-nggu waiと言うからである。このことから考えて、ga-やma-によって作り出される範疇では、可食性や可飲性が問題となるのではなく、それを食用や飲用の目的として利用する点が問題となると言えそうである(cf.Lynch 1982:245-246)。

         ga-              ma-
ga-ku       私の食べ物
ga-ku damu   私のヤムイモ 
ga-ku bweta   私のタロイモ
ga-ku tini     私の缶詰*
ga-ku lonngo  私ラプラプ**
ma-nggu        私の飲み物
ma-nggu wai     私の水
ma-nggu niu     私のココナッツ(ジュース)
ma-nggu malogu  私のカヴァ***
ma-nggu kove    私のコーヒー*

          *  缶詰やコーヒーを指す単語は、英単語からの借用。
          ** ラプラプとは、イモなどから作るプディング状の食べ物。
          *** カヴァとは、コショウ科の潅木を指すと同時にその根から作る飲
         み物も指す。

              表7 ga- ma-を用いた所有表現
                  (1人称単数の例)



 しかし問題はもう少し複雑である。というのは、食用を目的とした物であるにもかかわらずga-という範疇詞が適用されない場合が存在するからである。例えば、bila-ku gana(私の食べ物:この場合のganaは、ga-という範疇詞に三人称単数を意味する-na が接続したものではなく、食べるという動詞ganiの名詞形)という表現がそれである。実はこの表現は、「いずれ食べ物として利用する畑の生産物」を指して言う場合に用いられるのであり、それらは、現時点では食べ物として利用されないのである。ということは、ga-という範疇詞は単に食用の目的として利用するものを指すのではなく、今、あるいはすぐ後で食べるためのものを指すということになる。
 若いココナッツを手にして、「ga-n niu(彼のココナッツ)」と言えば、彼が今ココナッツの果肉を食べようとしている、あるいは、それを彼に今かすぐ後で食べる物としてあげる、ということを示し、同じココナッツを指して「ma-n niu(彼のココナッツ)」と言えば、今彼がそのココナッツ・ジュースを飲もうとしている、あるいは、彼にそれを今かすぐ後で飲む物としてあげることを示しているのである。しかし彼がそれを食べなかったり飲まなかったりして状況が変わってしまえば、それは bila-n niu(彼のココナッツ)となってしまうのである。
 さて、最後の範疇詞bila- に移ろう。北部ラガにおけるbila-という範疇詞は、オセアニック祖語では*bula-という形で知られているもので、この形態の範疇詞はヴァヌアツの中でも北部ヴァヌアツ・グループの諸言語にだけ特徴的に見いだせるという(Clark 1985:211)。ポーリーは、これに「動物財」「家財」あるいは「価値の高い所有物」という解釈を与えているが(Pawley 1972)、彼以前に北部ラガの言語を扱ったイヴァンズも、bilaiを「商品財」「動物財」「財産」と訳している(Ivens 1937-39:742)。トライオンの注釈もこれらの線にそって行われている訳だが、これらの解釈に共通するのは、bila-の持つ意味、あるいは、bila-がまとめている範疇に含まれるものに共通するのは「財」であるということである。確かに、bila-が適用される名詞はある意味で財を指していることが多い。
 例えば、表8の欄1にある豚、鶏、そして近年一般的になった牛などは家畜として重要なものであるし、欄2の畑や畑に植えたものなども家畜と共に相続されるべき財産を構成している。また、欄3にあげたものの多くはいわゆる「貴金属」的な意味での装飾類であるし、欄4では、西洋から入ってきた貴重な商品なども含まれている。しかし、表8の全てのものが財と呼べるわけではないことも事実なのである。

           1             2
bila-ku boe      私の豚
bila-ku toa       私の鶏
bila-ku buluki     私の牛
bila-ku vuriu     私の犬
bila-ku busi       私の猫
bila-ku garigarigi  私のガリガリギ
bila-ku uteloloara   私の畑  
bila-ku ririvuana    私の植えた物
bila-ku kumara     私のサツマイモ
bila-ku niu       私のココヤシ
bila-ku malogu     私のカヴァ
bila-ku rara gai     私のデイコの枝
           3             4
bila-ku bani      私のブレスレット
bila-ku bwatibani  私の腕輪 
bila-ku alo        私の腕時計
bila-ku jen       私のネックレス
bila-ku homu     私のビーズ
bila-ku bi        私のビー玉
bila-ku singisingi   私の割れ目太鼓
bila-ku taiva       私のほら貝
bila-ku vangge     私のファンゲ*
bila-ku reidio      私のラジオ
bila-ku teip       私のテープ
bila-ku lengga     私のダンス

        * ファンゲというのは、乾燥した硬い木の実の殻を幾つも紐に結び付けた楽器で、
         殻がぶつかって音を出す。ダンスの時などに足首に巻いて用いる。

                        表8 bila-による所有表現
                           (一人称単数の例)


 欄1にある犬や猫は、現在の北部ラガでは半ばペットとして飼われているが、その扱いは悪く、豚などの家畜と較べることが出来ないほど価値は落ちる。また最後のガリガリギも財産とは言えない。ガリガリギというのは、父親の「トーテム」のことである。北部ラガは母系社会であり、子供は母と同じ親族集団に帰属する。これらの集団はそれぞれ特定の動植物などと密接な関連を持っていると考えられており、ある者にとっては父親の親族集団のこうした動植物が、何かにつけて自己の味方をしてくれると考えていたのである。
 このガリガリギは重要な存在ではあるが、決して財産ではないし、「価値の高い所有物」という表現も適切なものとは言えないであろう。また、欄2の「デイコの枝」は、確かに植樹したものではあるが、それ自体何等かの重要な場面で用いられるわけではないし、何かと交換できるような価値があるわけでもない。さらに、欄3の最後の「ビー玉」は、西洋世界から入ってきたものではあるが子供たちが遊びに用いたりするもので、他の装飾類のように価値のあるものではない。そして欄4では、太鼓やほら貝は価値のある財かも知れないが、ファンゲはダンスの後切れてそのへんに転がっていることもあり、財として扱われているとは思えないのである。
 そもそも、北部ラガで財産といってまずあげられるのがマラハ(maraha)と呼ばれる交換財である。このマラハとは、具体的には豚、赤大マット、そして赤小マットを指す。赤小マットとは、赤大マットと同じくパンダナスで編んだ後赤く染めたものだが、赤大マットに較べるとはるかに小さなもので、様々な贈与や支払いの場面で登場するが、同時に、伝統的な衣装(男性のフンドシ、女性の腰巻)としても利用されてきたものである。
 さて、「私の赤大マット」と言うときbwana-ngguと表現される場合もあるが、交換財として用いられる場合はno-nggu bwanaと表現されることは既に述べた。赤小マットに関しても同様である。衣装としての「私の赤小マット」はbari-kuであるが、交換財としてはno-nggu bariなのである。豚に関しても同様で、家畜としての「私の豚」はbila-ku boeであるが、肉としての豚はga-ku boeとなり、そして、交換財としての豚はno-nggu boeとなるのである。マラハには近年現金も含まれるようになったが、これにもno-が適用され「私のお金」はno-nggu maneなのである。
 北部ラガでは、マラハとは別に非常に価値の高いものとして男たちが大事にしているものがある。それは、ボロロリと呼ばれる特別の儀礼の中で購入せねばならない飾りの類で、自らの地位を示すエンブレムでもある。北部ラガには階梯が存在し、男たちはこの階梯を登ることによって政治的地位を高めていくのであるが、それぞれに階梯にふさわしいと考えられているエンブレムを、儀礼で購入するのである(吉岡 1983a)。表8の欄3にあげてあるブレスレットはその中でも最も価値の低いものではあるが、それを手に入れるのに多量の豚を支払わねばならないということを考えれば、上記のマラハよりも価値の高い所有物とも言える。
 このブレスレットよりも価値の高いエンブレムに、パンダナス製の白い腰蓑、パンダナス製の赤い腰蓑、そして貝をあしらったカラフルなベルトがある。ところが、これらの貴重品はブレスレットを除いてすべてno-の範疇詞が適用されるのである。ちなみに、西洋から入ってきた商品の類も貴重な財であると考えられるが、表8の欄4にあげてあるラジオやテープにはbila-が用いられる一方、トラック、カメラなどにはno-が適用されるということを付け加えておく。
 以上のことから、次の二つの点が指摘できよう。一つは、bila-という範疇詞は必ずしも財だけに適用されるわけではないということであり、他の一つは、多くの財に対してはno-が適用されるが、特定の何等かの財にだけbila-が適用されているということである。ところが特定の財とは言っても、bila-が適用されるものは、豚などの家畜、畑、農産物、ネックレスの類の飾り、太鼓などの楽器、ラジオなどの西洋の商品など多岐にわたっている。そしてその上、財とも考えられないものにまでこの範疇詞が用いられるのである。こうした現実は、bila-という範疇詞が適用されるものに共通の特性を見いだすことが困難なことを示している。我々は、共通の特性によってまとめられる範疇とは異なった範疇のあり方を念頭に置かねばならないのである。それが、類似に基づくまとまり、あるいは、多配列分類(polythetic classification)の原理にもとづく範疇化なのである。 

4 多配列的範疇化 

 多配列分類というのは、類似しているということによって様々のものを一つの範疇にまとめる分類様式のことであり、植物学の世界からニーダムによって社会人類学の世界に導入されたものである。ニーダムは多配列分類を個体の持つ特性との関連で次のように説明している。つまり、個体1はa,b,c、2はc,d,e、3はe,f,gという特性を持っており、1、2、3すべてに共通する特性はないが、多配列分類ではそれらが一つの範疇にまとめられるというのである(Needham 1975)。彼は1と2は似ており2と3も似ているため、1と3は直接関連がなくとも類似の連鎖によって1、2、3が一つの範疇にまとまると考えているようである。事実、ニューギニアのンドゥンバでは、XとYは葉の形が似ており、YとZは共に幹が厚いという理由からXとYとZが一つの範疇にまとめられるという分類のあり方が報告されているのである(Hays 1979:258)。
 ニーダム自身はそれ以上さらに掘り下げて類似の仕組みを論じてはいないが、筆者はかつて、こうした類似の仕組みを典型と周辺という概念で整理したことがある。それは、ある範疇に含まれる典型とされるものに備わっている「重要な特性」(cf.渡辺 1978:103)がいくつか想定され、そのどれかの特性と周辺部に位置する他のものの特性が類似していることによりそれらが一つの範疇にまとまる、というものである(吉岡 1983b:110-112)。筆者はそこでは、北部ラガの動物分類、特に豚の下位範疇を例にして類似のあり方を論じたが、どうやらbila-という範疇詞の作り出す範疇も、こうした仕組みから考えることが可能なのである(3)
 bila-が適用されるものの中核を占めているのは、豚、鶏などの家畜と畑及びその産物である。これらは、人々の働きやその人の力量を見るときにしばしば引合いにだされるもので、「相続すべき財産」の代表例として考えられているものでもある。これらの財が、bila-の適用される範疇では典型を構成する。こうした財に含まれる家畜は「動物」であり、財としての価値を持たないかもしれない犬や猫までもが同じ動物ということでこの範疇に組み込まれる。北部ラガでは、動物で個人の所有になりうるものにはすべてbila-が適用されるのである。一方、重要な所有物である農産物は「植物」でもあり、多配列的な類似の仕組みは他のすべての植物にbila-という範疇詞を適用させるのである。
 では、表8の欄3と欄4にあげられているものはどう考えれば良いのだろうか。欄4には太鼓やファンゲなどの楽器に加えて、ラジオやテープなどの輸入された商品が含まれている。楽器と商品は異質の範疇に属するように思えるが、これらは、実は、すべて「音の出るもの」なのである。「太鼓の音」はsilon singisingiであるが、siloというのは「声」でもある。つまり、これらは「声の出るもの」でもあるわけである。とうことは、これらがその点で動物と同じ範疇に含まれることになるのである。なお、欄4にはbila-がダンスに適用されている例が示されているが、このダンスでは、竹の太鼓がダンスの声として用いられているのである。
 一方、欄3にあげられているものはどういう類似で家畜や農産物などに結び付けられるのであろうか。ネックレスや時計などは確かに貴重な財である。しかし、「貴重な財」という点でこれらと家畜などが類似しているとは言えない。というのは、同じく貴重な財であるマラハや地位を表すエンブレムなどにはno-という範疇詞が用いられているからである。ということは、欄3に含まれている財は他の財から何等かの基準で区別されているということになるが、実はそれが「丸い輪、あるいは円形の状態になったもの」ということなのである。
 ブレスレットは、小さく加工した貝に穴をあけそれを紐に通して作ってある。これと同じものだがより大きな輪になったもので、飾りとして購入されるものがビーズである。チェーンと呼ばれるのは、西洋世界から入ってきたネックレスの類で、ビーズと同じく輪っか状になっている。腕輪は腕章の様に筒状にまるくなっており、腕時計も輪の状態になっているのである。ビー玉は、ビーズの首飾りなどに用いられている玉と類似していることから、bila-が適用されるのであろう。
 丸い状態、あるいは円形は北部ラガではダリ(dali)、あるいはアロ(alo=回る)という言葉で表現されるが、この表現がまさしく「相続する財産」と関連する表現なのである。北部ラガ社会は母系社会であると既に説明したが、財産は原則として母方オジから姉妹の息子へと相続される。この姉妹の息子は北部ラガの言葉でアロア(aloa)と呼ばれるが、これに関してある古老は次の様に述べている。「母方オジは、自分の畑に樹木やヤシを植えており、家には豚や鶏などすべてのものをそろえている。彼はこの様にして、結局は、姉妹の息子であるアロアのために(相続させるものを)準備するのである。・・・・・アロアの意味は「丸く囲む(dalisi)」ということである。母方オジの土地や植えたものはすべてアロアのものとなる。母方オジが自分の周りに丸く配列した(dalisia)ものすべては、彼への贈り物となる。」(吉岡 1988:41)。まさしくアロアに相続させる家畜や畑の産物は、自分を丸く取り囲んだものとして位置づけられており、自分を円形に巻くネックレス、時計、ビーズなどと類似の関係となるのである。 

5 むすび 

 様々なものが一つの範疇にまとめられているとき、我々は往々にしてそれらのものに共通する特性を抽出することによって、まとめられている理由を考えようする。オセアニアの諸言語に見られる範疇詞に関しても、それらがつくりだす範疇を「譲渡出来ない」「譲渡出来る」「価値の高い所有物」など、それぞれの範疇を構成しているものに共通すると思われる特性を探す努力がなされてきた。しかし、bila-という範疇詞がつくりだす範疇の様に、それが共通の特性という点でまとめられていないものも存在するのである。bila-による範疇が、類似という視点で、つまり多配列分類の原理に従って出来上がっているのであれば、当然のことながら「ga-、ma-、bila-が適用されないもの」に用いられるno-がつくりだす範疇も、多配列的に出来上がっていることになる。
 さらに、ゼロ・マーカーで表される名詞が作り出す範疇には、常にゼロ・マーカーが適用されるものだけではなく場合によってはno-が適用されるものも含まれていることを考えれば、ゼロ・マーカーによる範疇も、多配列分類の視点から見直すべきであろう。特にこの範疇には、部分と全体の関係に焦点を置いたもの、親族の様な関係性を強調するもの、また、接触性を問題とするものなど、いくつもの基準によって様々なものが組み込まれるのであり、そうした仕組みそのものが多配列的であると言えるのである。我々は、様々な範疇を考える時に、厳密な基準を探すのではなく、いいかげんなまとまりという視点をもっと導入すべきであろう。我々の日常生活は、厳密な科学的原理にもとづいて営まれているのではなく、もっと曖昧でいいかげんなもの、原理とも呼べないようなものを都合よく操作することによって成り立っているのであるから。 

                     註 

(1)マットを頭に載せて相手に与える場合、相手に対して「あなたのものだ(bwana-mwa)」と言うが、ここにもゼロ・マーカーが登場する。それは、受け手もこのマットを単なる交換財として受け取らない様にという与え手の意志の現れと見ることが出来るだろう。
(2)親族名称の中で、父方オバを指すvwavwaだけはゼロ・マーカーの対象ではなく、bila- が適用される。なぜそうなのかは明確になっていない。
(3)筆者は、キリバスの親族範疇でも多配列の仕組みを論じたことがある。拙稿1985a,1985b参照。 

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