これからの観光形態

―マス・ツーリズムとオールタナティブ・ツーリズムを再検討して

 

 

 

 

 

 

平成16年1月10日提出

 

伊達久美子

 

 

 

 

要約

 

 本稿ではこれまで論じられてきたツーリズム論を振り返り、どのような観光形態がこれからの観光として存続していくべきかを考える。

 まず第一章ではこれまで論じられてきたツーリズム論について整理する。そして観光を論じるにあたって重要な「観光文化」について各研究者の考えを見ていき、筆者の主張する「観光文化」と「観光で出会う文化」についてまとめる。ツーリズム論は、初めて“tourism”という言葉が登場した19世紀から始まり、大衆化がさらに進んだ1960年代からはマス・ツーリズムの時代、そして自然環境や地元の文化に対する影響に配慮した観光形態であるオールタナティブ・ツーリズムの時代と流れていく。その中でそれぞれの時代に文化や自然環境の問題が指摘され新たな観光形態が模索されてきたのだが、「持続可能な観光形態」ともいわれるオールタナティブ・ツーリズムにも問題が指摘され始めることとなる。この問題点を見ていく際には「観光文化」が重要になるため、これについて各研究者の観光文化に対する考えをまとめ、筆者の考える「観光文化」=「観光客の要求に応じて創られる文化」と「伝統文化」=「現地の人々が主体となって創る文化」、さらに「観光で出会う文化」=「ゲストが観光地で見たり聞いたりする文化」を提示する。

そして2章では、ゲストが観光において求めるもの、「観光で出会う文化」について明らかにし、観光において常に問題になる自然環境について見ることによってマス・ツーリズムとエコ・ツーリズムにおける問題点について考えていく。まずマス・ツーリズムにおけるゲストの求めるものについては、ゲストは「よく知られた」イメージを求めることを明らかにする。そしてマス・ツーリズムで重要な「本場」の概念の限定性が、ゲストを引きつける要因であることも見ていく。一方エコ・ツーリズムでもマス・ツーリズムと同じく「よく知られたもの」を求めることをマス・ツーリズムである「オールインクルーシブ・リゾート」との比較をしながら明らかにしていき、さらにエコ・ツーリズムの観光客が「よく知られていない」自然や文化に満足することについては「本場」の概念で述べた限定性・差異性の考えを当てはめて考える。そしてこれらのマス・ツーリズム、エコ・ツーリズムという形態の違いがあってもゲストの求めるものや「観光で出会う文化」はゲストのイメージの範囲内に限定されるもので、ゲストの求めるものや「観光で出会う文化」についてはオールタナティブ・ツーリズムの一つであるエコ・ツーリズムにもマス・ツーリズムと同じ問題点があると筆者は考える。また自然環境については今まで指摘されてきたマス・ツーリズムの問題に加え、エコ・ツーリズムにおける直接的な自然への悪影響と環境に関連する問題について論じ、特にエコ・ツーリズムにおける理念と現実のギャップが起こすゲスト・ホストの誤解や開発者とホストの権力関係の問題について焦点を当てる。これらの問題点を挙げた上で「ホストの主体性」がこれからの観光に必要であると筆者は考えるのである。

2章で持続可能といわれているエコ・ツーリズムにもマス・ツーリズムと同様の問題があることがわかり、これからの観光に「ホストの主体性」が必要なことを明らかにした。このことを念頭におき、オールタナティブ・ツーリズムの一形態であるグリーン・ツーリズムとホームステイについて見ていきこれからの観光の可能性を探る。グリーン・ツーリズムでは自然への影響が少なくできることやゲストの積極性がホストの労力を軽減すること、観光業に振り回されずにホストが観光業を行えることなどが利点である。またホームステイについてもホストの主体性が保たれる形態であると同時に、ゲストがホスト文化に興味があることやホストの一員になりたいと望むことからゲストにも主体的に考え、行動するという利点がある。そしてこれらの観光形態が比較的上手く行われていることから、2章でのホストの主体性に加えゲストの主体性も重要だといえる。

グリーン・ツーリズムやホームステイにはこれからの観光に必要な要素があることを3章で見たが、これらにも問題がないわけではない。例えばこれから観光を主産業として地域を支えていこうする発展途上国にとっては利益面が不十分である可能性がある。それを補うのはやはりマス・ツーリズムである。そこで現在の様々な地域で観光業が盛んであり、ホストもゲストも観光を必要としている現在の状況では、グリーン・ツーリズム、ホームステイ、マス・ツーリズムを地域に合わせて改めていく必要がある。ホスト・ゲストが主体性を持って観光に参加し、「自然環境」「観光文化」「伝統文化」そしてゲストの「観光で出会う文化」などの側面から考え、これからの観光形態とするべきだと考えるのだ。

 

 

目次

 

1章       ツーリズム論の展開

  1.トマス・クックの時代

  2.マス・ツーリズムの時代

  3.オールタナティブ・ツーリズムの時代

  4.観光文化

 

2章       エコ・ツーリズムとマス・ツーリズム

  1.ゲストの求めるもの

  2.自然環境

 

3章 他の観光形態

1.グリーン・ツーリズム、ファーム・ツーリズム

2.ホームステイ

 

4章 これからの観光

 

参考文献

 

要約

 

 

 

 

 

 

 

 

1章 ツーリズム論の展開

 今日、観光は世界的にも重要な産業となっており、人々にとってとても身近なものとなっている。では、現在に至るまで観光とはどのような形態で行われてき、またどのように人々に捉えられてきたのであろうか。

 

1.トマス・クックの時代

 古代より巡礼や商業のために旅は行われてきたが、それは危険を伴う過酷なものであった。17世紀ごろに行われた貴族の子息のグランド・ツアーも教養を身に付けるための教育的意義の強い旅であった。それが余暇を楽しむための観光へと変わったのは、トマス・クックの旅行業の創設がきっかけであった。19世紀のイギリスでは、産業革命により工場での作業が効率化し、労働者にも余暇が出来た。その余暇を飲酒に使うのではなくより有意義にしようと、敬虔なバプティスト教徒であったトマス・クックは1841年7月5日、禁酒運動大会への団体旅行を企画したのであった。その旅行は成功を収め、そこから近代の観光が始まったのである。これを可能にしたのは蒸気船の発達や宿泊施設の充実などによるもの、そして先にも述べた労働者にも余暇が出来たことによるものである。つまり彼の作った形態はそれまでの過酷な旅(travel)ではない、安全と帰還の保障された余暇を楽しむ観光(tour)という新たなものであった[岡本2001]

 トマス・クック社の設立から、旅は大衆化していきイギリス国内のみならず欧米への旅行も拡大していった。しかし、彼は旅行業を始めるきっかけとなった「労働者モラルの向上」という信念を持ちつづけていたため禁酒を押し付けるものという批判や、エリート層からは「旅すべきものでない人々が旅している」[井野瀬199634]という批判が出てきた。旅の大衆化を推し進めてきた19世紀は大衆化への批判の時代でもあったのだ。

 

2.マス・ツーリズムの時代

 1960年代になると旅客機の定期就航により、観光はさらに大衆化し多くの人々が世界各地の観光地へ出かけるようになった。この現象をマス・ツーリズムといい、当時も現在もパッケージ・ツアーによる団体旅行が盛んである。マス・ツーリズムにおけるパッケージ・ツアーでは団体で旅行するため安価であり、さらに安全な旅ができるというメリットもあるため多くの観光客が発生した。この現象により、特に目立った産業のない国々は観光を主産業として生計を立てることが出来た。その成功は南国の島嶼で顕著に見られ、ハワイとバリはその代表といえるだろう。外国資本が入りリゾートホテルや施設の立ち並ぶ現在では、多くの観光客が押し寄せる観光立国となっている。

 しかし、1970年代に入るとマス・ツーリズムの弊害が指摘されるようになってくる。それは一度に多くの観光客が観光地を訪ねるために生じる様々な問題であった。まず観光客による環境汚染、観光施設を作るための環境破壊などの自然環境に関する問題。そして観光客(ゲスト)による観光される者(ホスト)への買春、ホストによるゲストに対する窃盗などの犯罪。観光客を受け入れ観光地として発展するために、ゲストに受け入れられる商品や見世物を作ることによって起こるホスト文化の文化変容の問題。ゲストのホストに対する経済的・社会的優位性が、先述した犯罪やゲストのホストに対する優越感を引き起こすという問題。そしてこの経済的優位性はゲストの母国である先進国の企業による経済的支配などの「ネオコロニアリズム」の問題にもいえることである。

 これらはマス・ツーリズムを受け入れるためには避けては通れない問題であった。団体旅行者を不便なく滞在させるためには、インフラを整え大きな宿泊施設を建てる必要がある。そこでの環境破壊。そしてゲストとホストが接すること、ゲストとホストの経済格差から生まれる犯罪。外国資本が入ることによって、またゲストからもたらされる資本主義などの西洋的概念がホスト文化へ影響を与える。そして観光を産業として成り立たせるために行う未開性の演出などによる文化の変容。これらはマス・ツーリズムを受け入れ、利益を得るためには必然的に生まれてしまうものであり、マス・ツーリズムの成功例であるハワイやバリにも言えることである。

 

3.オールタナティブ・ツーリズムの時代

 これらのマス・ツーリズムにおける弊害を持たない観光形態として新たに考えられたのがオールタナティブ・ツーリズム(alternative tourism)だ。「もう一つの観光」というこの概念は1980年代末に提唱され、この概念の持つ曖昧さをなくすものとして、「持続可能な開発」に習い「持続可能な観光」(sustainable tourism)と言われ始めた。オールタナティブ・ツーリズムの定義は「ホスト地域の文化的アイデンティティを損なわず、可能な限り環境の保全に努力するように、地元の人々とゲストとの相互理解に至るような観光形態」である[橋本200154]

 では、この「もう一つの観光」とは具体的にはどのようなものであろうか。オールタナティブ・ツーリズムの代表といえるものはエコ・ツーリズムである。エコ・ツーリズムとはできるだけ自然やホスト文化に対する影響を最低限にするよう配慮しながら行う旅行形態である。主に観光客は豊かな自然を観察しに行く事を目的としているのだ。このエコ・ツーリズムの他に、先述の定義にそってエスニック・ツーリズム、ファーム・ツーリズム、グリーン・ツーリズム、ソフト・ツーリズムなどがある。まずエスニック・ツーリズムとは民族、主に少数民族の生活や伝統を見に行く観光である。これには例えばカニバル・ツアー(食人観光)がある。次にファーム・ツーリズムは簡単に言えば農場体験である。観光客は農場主の家に宿泊しながら農場の仕事を体験する。エコ・ツーリズムが主に発展途上国で盛んなのに対し、ファーム・ツーリズムはニュージーランドなどにおいて成功している例だといえる。グリーン・ツーリズムはファーム・ツーリズムの「農業版」といえるものである。ファーム・ツーリズムと同様、観光客は農家に宿泊し、果実の摘み取りや染物・縄作りなど伝統技術を体験するのである。これは日本の農村でも盛んになりつつある。最後にソフト・ツーリズムとはホストとゲストの関係に重点を置き、相互理解を試みる観光形態である。

現在、これらの観光形態は人気を集めているが、これらに対する問題も指摘され始めた。それは特にエコ・ツーリズムについてである。その問題については2章で詳しく述べることにし、まずエコ・ツーリズムでの現地文化の破壊やホストのアイデンティティについての議論でもよく登場する「観光文化」について研究者の意見を見ていきながら筆者の意見をまとめたい。

 

4.観光文化

山下晋司はバリの伝統文化と観光文化について研究を行い、伝統とは常に創り出されるもので新しく創造された観光文化が真正でないという事ではないと主張している。バリの事例を用い、さらに詳しく見ていこう。

バリ観光において有名なケチャはトランス儀礼のさいの男性コーラスであったものにワルター・シュピースというドイツ人芸術家がバリの人々とともにラーマヤナ物語を結び付けて観光用に仕上げたものであり、バロン・ダンスやラーマヤナ・バレーなどもケチャ同様に西洋人芸術家や西洋文化の影響を受けている[山下1996107]。このように現在バリで観光客に供されている「バリ文化」は西洋の影響を受けているものが多くある。山下はこれらのバリ文化を研究し、バリの文化と観光の関係について特徴を3点挙げている。まず、先述したようにバリ文化は「新しく創り出された伝統」であり、それは西洋人芸術家や観光客のまなざしの中で再創造されたものであるという点[山下1996109]。2点目は今日の観光用に演出された文化はバリの人々にもフィードバックしているという点である。つまり現地の人々は観光客に披露するものと同じものを祭りで使用したりしているので、観光用に演出された文化も身近なものであり「観光用」であるとか「本物」であるといった区別は意味がないというのである[山下1996109]。そして3点目は観光用のバリ文化はインドネシアのイメージを世界に伝える媒体として機能しているという点である[山下1996110]。以上3点からバリ文化は観光によって現在の形が出来上がっており、バリの伝統文化が観光文化と区別されないというのである。つまり文化は常に創造されており、観光が影響して創られた文化もバリの伝統文化も分けられる物ではないという。また山下はこれらの西洋文化との接触によって創られた伝統は真正性を欠いた偽物と批判されることがあるが、「伝統文化」に真正性を見ようとするほうが問題とされるべきであるというのである[山下1996110]

さらに山下は観光において問題になる「見る側」としての観光客と「見られる側」の現地の人々という構造がバリでの観光において時に崩れるという例を挙げている。例えば、儀礼を見る際観光客は邪魔をしない限り儀礼への参加は自由だが、しばしば存在しないものとして無視される。それにより観光客は「見る側」であるが現地の人々は「見られる側」であることを脱する[山下1993144]。また村では観光客に村人のように振舞うことを要求し、バリ風の衣装を着て歩く観光客は「演じる側=見られる側」になるというのだ[山下1993146]。ここでバリの人々は観光客の希望を満たしながら観光での権力構造を上手く崩しており、またそれによって伝統文化が観光となっても破壊されないと山下はいっている。このようなことから後に、山下はバリの観光文化は「観光客を意識した自己表現」[山下1999133]として捉えられると主張しているのだ。

しかし筆者は山下の言う、文化は常に創造されており観光文化が伝統文化と連続しているという考えに異論を唱えたい。筆者は観光文化を伝統文化と区別してみるべきだと考える。なぜならこれらの文化は観光客を前提に創られたものであり、それは地元の人々の主体による文化変化ではないからだ。例えばエコ・ツーリズムにおいて観光客へ売られる工芸品が観光のためにつくられるとする。それが地元に以前からある工芸品ではなかったとしても、観光客に買われ、土産とされることによって民族文化ではないものが民族文化として認識されるようになる可能性がある。これは地元が主体ではなく、観光客の好むものが地元の文化になってしまうという観光による文化の変化である。

また筆者は山下のいうようにホストが権力構造を崩したり観光文化を通して自己表現したりすることはできないと考える。山下は文化の再構築の過程でバリの人々の参加があったことや、バリの観光の特徴2でも挙げている「現地の人々にも観光のために創られた文化がフィードバックしていること」を強調しているが、観光客には観光客の求める現地文化があるので、ホストはそれに応じる形でしか文化形成ができないのである。つまり西洋人のバリに対するイメージ、インドネシアが植民地であったという権力関係があるかぎり、西洋人芸術家が観光文化創出に深く関与していたということは、ホストが常に「見られる側」であり、そのイメージや権力構造のもとで文化の再構築がなされたということになるのである。これでは山下の挙げるバリの観光の特徴である3点目、バリがインドネシアのイメージを代表することは結果的にインドネシアが自ら行なう自己表現にはなってはいないことになる。そして先述の具体例についても、山下はゲストがバリ人の格好をする事で一時的に「見られる側」に立つと言うが、ゲストがホストと同じ格好をしようともゲストのまなざしは常にホストに向けられており、ゲストが「演じる」ことはあっても結局ホストが「見られる側」を脱することはないと考える。山下のいう、ホストが観光の権力構造を崩しているので伝統文化を破壊しないということは起こらないのである。

他の地域でも観光において権力構造が自己表現を妨げている例がある。ベリーズのエコ・ツーリズムにおいてホストはメディアによって創られたイメージを演出することで収入が得られることを認識している。よってホストは「素朴な生活」や「自然とともに生きる人びと」というガイドブックに掲載されている「未開性」のイメージを演ずるため、薬用植物の知識を披露し、自然についての知識の豊かさを誇示する。ここで太田はこの演出が完全にゲストのイメージには沿えないことから、イメージと演出との間にあるズレをゲストに許容させることによるアイデンティティの主張が、限界はありながらも可能であるといっている[太田1996 ]。しかし、筆者はこの方法ではアイデンティティを主張するためにゲストがズレに気付く必要があり、気付かない場合はゲストがホストの「未開性」を再認識しイメージ通りの「未開性」を見たことに満足してしまう。ここでもゲストは「見る側」でホストは「見られる側」であるという権力構造は変わらず、ホストによる「演出」が民族のアイデンティティを主張することにはならないばかりか、かえってゲストのホストに対する「未開性」のイメージを強調する結果になる。

バリの観光文化でもベリーズのエコ・ツーリズムの演出でも見られるように、観光文化は常に見られる形、また観光客の求めるイメージの範囲内で創造され、現在でもその見られる形を脱しておらず常にホストが主体ではない。よって筆者はその観光文化が伝統文化とは違うところに存在すると考えなければ、ホストが主体の文化の創造ができないと考え、ホストは観光によって常に文化に影響を与えられる結果になると考える。伝統文化と観光文化は連続すると考えるべきではないのだ。

一方、橋本は山下と違い「観光文化」は真正な「民族文化」とは異なると主張する。橋本は「観光の現場で観光者が遭遇するさまざまなパフォーマンスやサービス、土産物」[橋本19994]を「観光文化」と呼び、「観光者と地元の複数の文化的文脈が出会うところで、各々独自の領域を形成しているものが、その文脈から離れて、一時的な観光の楽しみのために、ほんの少しだけ、売買される」[橋本1999155]という特徴を持つものであるといっている。それは「観光文化」は「異郷において、よく知られているものを、ほんの少し、一時的な楽しみとして、売買する」[橋本19992]という特徴を持つ観光現象において、本来の地元文化とは違う形で「観光用」に提供されるということである。よって「観光文化」が真正な「民族文化」とは違う文脈にあることから、観光文化は真正性からはかけ離れた存在であるというのだ[橋本1999155]

橋本がこう定義する観光文化であるが、橋本は先進国にはこの観光文化が必要なく第三世界にのみ必要だといっている。橋本はこれについて「観光文化」とそれとは異なる「ツーリスト文化」を提示し、説明している。「ツーリスト文化」とは「観光地に国内外のさまざまな地域から到来する観光客が持ち歩く文化の混交によって創出されるもの」[橋本200358]と橋本は定義する。それは「地元の文化をエキゾチックな要素として取り込んではいるが、観光者が自国で消費している文化とそれほど違いがない」[橋本200358]ものである。例えば日本人がロンドンへ観光に行くとして、そこで見聞きするものはイギリス独特の雰囲気はもちろんあるが、レストランや博物館などでのマナーやホテルのサービス、食事の内容などはすでに広く知られており、日本でもそれらと変わりないものが存在する。つまり観光において多くのツーリストは先進国の人々であるので、先進国の観光地では「観光者が自国で消費している文化とそれほど違いがない」「ツーリスト文化」は成立することになるというのだ。また先進国では観光客が見物する博物館や大衆文化が自国民によっても楽しまれることから観光による文化への影響は問題にされず、特に観光地に関係のないありふれた土産物や見せ物などは、観光地でなくともどこにでもあるため「真正性」も問題にされないと橋本はいう。これに対して、第三世界では先進国からの観光客を喜ばせて観光産業を成り立たせるために観光客の喜ぶ文化を演出しなければならない。なぜならそこには観光客が自国で楽しんでいるような文化がないからである。そこで演出された観光文化を創出して伝統文化と区別すべきであると橋本は主張するのである。

筆者も観光文化について橋本のいうように観光文化と民族文化を分けて考えることは重要であると考える。先述したように、そうすればホストにとっての伝統文化や「真正性」といったものは観光に作用されることなく存在でき、「真正性」は観光文化ではなく民族文化に存在するものであると考えられるのである。

しかし筆者は橋本の主張に加え、ホスト・ゲストにとっての観光文化を区別するべきだと主張したい。それはゲストが旅行先で観光文化を「観光用の文化」であるとか「演出された文化」と認識するかどうかは疑問であることが理由だ。そこで私はゲストが観光地で見たり聞いたりする文化を「観光で出会う文化」として「観光文化」と区別したい。先に「観光文化」は「真正性」とは無関係であることを述べたが、「観光で出会う文化」も「真正性」とは無関係であると考える。なぜなら観光客は旅行先で「よく知られたもの」という観光以前に取得しているイメージを求め、それが真正なものであるかどうかは問題にならないからである。この観光客の求めるものについては2章において詳しく述べたい。

 さらに橋本は観光文化の創出が第三世界でのみ必要であるといっているが、筆者は観光文化が全ての観光形態において必要であると考える。なぜなら観光が行われているところでは常に観光客が「見る側」に立ち、現地の人々が「見られる側」になることである。それはどんな観光地においても言えることで、先進国かどうかやマス・ツーリズムかどうかなどは関係ない。先進国でも国内外を問わずやってくる観光客に対して創られるものは観光文化であるし、それが「観光客が持ち歩く文化の混交によって創出され」「観光者が自国で消費している文化とそれほど違いがない」ものであればツーリスト文化であるだけだ。また第三世界でもツーリストが自国で消費している文化と同じようなもの、例えば近代的なホテルでの宿泊やマリン・スポーツ、ビーチでの日光浴などはツーリスト文化といえる。「観光客の要求に応じて創られる文化」=「観光文化」と「現地の人々が主体となって創る文化」=「伝統文化」との両方が必要だと考えるのである。

 このように観光における文化をホスト側から見た「観光文化」と「伝統文化」、ゲスト側から見た「観光で出会う文化」に分けて考えていくこととする。

 

 

 

2章       エコ・ツーリズムとマス・ツーリズム

 1章で観光文化に対する筆者の意見をまとめたが、2章ではマス・ツーリズムとエコ・ツーリズムを比較して、ゲストが観光において求めるもの、そして「観光で出会う文化」について明らかにしていきたい。そして観光において必ず議論の対象になる自然環境についても焦点を当てて、エコ・ツーリズムとマス・ツーリズムの抱える問題点について考えてみたい。

 

1.ゲストの求めるもの

まず、マス・ツーリズムでは多くの観光客は事前に旅行先の情報を得ており、それによりすでにイメージの形成がなされている。今ではテレビやパンフレットなどの視覚的情報が多いことからも人々は同じようなイメージを抱く。その状態で旅行先を訪問することは、「すでに持っている情報を再確認するため」[山中199658]だとブーアスティンが指摘していることを、ハワイの観光研究を行っている山中もいっている。また葛野浩昭は、観光旅行は旅の疑似体験であるといっている。現代の観光においては前例のない旅はなく、すでに旅や旅人の模範が存在しそれに習って旅をする [葛野1996125]。例えば観光客は赤毛のアンを疑似体験するためにプリンス・エドワード島を訪れ、ハイジを疑似体験するためにアルプスへ出かけるというのだ[葛野1996130]。筆者は葛野のいう「赤毛のアンの疑似体験」などは当てはまらない観光客もいると思うが、観光客にはそれぞれその地域の「よく知られた」人物や物事を見に行く、体験しに行くという点では観光は「よく知られたもの」を実際に見聞きした人と同じ体験をする、つまりその旅行者の旅を疑似体験するためのものだと考える。つまり観光客はすでに持っているイメージ(それは「よく知られたもの」である)を求めて旅行先を訪れるのである。

そしてマス・ツーリズムにおいて「よく知られたもの」と同様に重要なのは「本場」の概念である。例えば我々が日本でフラダンスのショーを見るとする。そのダンサーが日本人であった場合と、そのダンサーがハワイからやってきた場合とでは後者のほうが「ホンモノ」であると感じる。そしてそのショーとハワイに行ってハワイに住むダンサーによるショーを比較するとハワイでのショーのほうが「ホンモノ」だと感じる。例えそのダンサーが先住民でなかったとしてもだ。我々が日本で観るフラダンス・ショーとハワイで観るフラダンス・ショーが違うと感じるのは「本場」と「本場でない」という違いからだ。ここで筆者が考えるのは日本という現地とは離れた(距離的にも文化的にも)場所で観たフラダンスと、フラダンスが伝統とされている場所でその伝統を受け継いでいるとされる人々が踊るフラダンスとでは、その事柄に対する限定性によって「本場でない」ものと「本場」のものという差を感じるということだ。つまり日本で見るフラダンスよりもハワイで見るフラダンスの方が日本人で見ることができる人が限られており、その場所も日本から遠い、フラダンスが伝統とされるハワイであり、伝統を受け継ぐダンサーであるという限定があるので、我々はハワイでのフラダンスの方が「本場」だと感じるのである。

この「本場」において重要な限定性について述べているのが落合である。「《南》を求めて」[落合1996]の中で、資本主義社会では情報の差異性・限定性が価値をもち、その差異化によって「ホンモノ」化するといっている。この「“ホンモノを見た・聞いた・食べた”という“being there”(そこにいた)経験」[落合199660]が「本場」における経験になるのだ。

では、観光客はマス・ツーリズムにおいて「観光で出会う文化」についてどう考えているのか。先に述べたように、観光客は観光地においてすでに持っているイメージを求める。それはテレビやパンフレットなどから得られたものであり、ある程度イメージとして完成されたものである。つまり観光客は皆同じようなイメージを抱きつつ観光地を訪問し、より差異性を持つ「本場」1)である現地でそのイメージを見たり聞いたりして確認していくのだ。ここで観光客が「ホンモノ」2)と感じるのはこのイメージに合うものだといえる。よって「観光で出会う文化」は自然にそのイメージに限定されてしまうのだ。そして、そのイメージが旅行会社などの観光する側の人々によって形作られていることから、そこに「観光客にとっての「ホンモノ」はあっても現地の人々にとって「真正性」3)はないと考える。

ではエコ・ツーリズムにおいてはどうであろうか。エコ・ツーリズムはマス・ツーリズムとは違い、あまり情報量のない状態で旅行に出かける。ここで観光客が求めるのは「手付かずの自然」や「現地の生活」そのものである。これらは観光客の「よく知られた」イメージとして挙げられ、エコ・ツーリズムではこれらを「再確認する」といえる。

ここで江口の考えるオールインクルーシブ・リゾートに対する観光客の認識を用いて、エコ・ツーリズムにおける観光客の認識、求めるものと比較したい。江口は、観光地は『演出された本物』であり現地の生活とはかけ離れているとし、その演出された空間へ観光客が出かけていく理由はテーマ・パークへ出かけていく理由と似ているという[江口1998118]。しかしオールインクルーシブ・リゾートとテーマ・パークへ行くときには、決定的な違いがあるという。それは観光客がテーマ・パークはニセモノと理解しており、オールインクルーシブ・リゾートはホンモノの空間や自然として理解しているということである[江口1998118]。つまり観光客はディズニーランドが架空のもの、ニセモノであることを認識するが、オールインクルーシブ・リゾートの人工の庭や観光用に演出されたショーはホンモノの自然であり、文化であると認識するというのである。

このオールインクルーシブ・リゾートとはホテル、レストランはもちろんのことテニスコートなどのスポーツ施設や様々なショー、時にはプライベート・ビーチまでも観光客に用意されているリゾート施設のことであり、観光客は旅行期間中すべての施設を自由に使え、滞在中に手配や支払いなどの面倒がないこことからも人気のある観光である。特に海のきれいなジャマイカ、バハマなどのカリブ海諸国に多くある。筆者はこれを近代的な施設があり、多くのパッケージ・ツアーが組まれていることからマス・ツーリズムと考えるが、そのオールインクルーシブ・リゾートの観光地とエコ・ツーリズムの観光地は観光客の観光地に対する認識は同じだと考える。なぜならそれらの観光地には観光用の演出があるにもかかわらず、観光客はそれらを「手付かずの自然」であるとか「現地の人々の生活・文化」と認識するからである。まずオールインクルーシブ・リゾートでは自然や空間は演出されており、エコ・ツーリズムでも自然や空間は演出されているのは明らかだ。例えばオールインクルーシブ・リゾートの自然豊かな庭やプライベートビーチもリゾート自体が人工のものなので何らかの形で手が加えられているだろう。また宿泊客に提供されるショーも観光客を満足させるために演出されている。そしてエコ・ツーリズムでも、例えば観光客が「未開性」を求めることを利用し、現地の人々が薬草などの植物について詳しく説明できるよう演出したり、森林が開発によって狭められた結果集まった動物たちを「豊かな自然」だといって紹介したりするという演出がある。それにも関わらず観光客は現地で見るものを「手付かずの自然」でありイメージどおりの「ホンモノ」とする。先に「観光で出会う文化」は観光客が描いたイメージ通りの「ホンモノ」であり真正性とは無関係だと述べたように、観光客は「観光で出会う文化」を真正かどうかではなく、「ホンモノ」であることを重視し求めているのである。以上から筆者はマス・ツーリズムであるオールインクルーシブ・リゾートとエコ・ツーリズムにおいてゲストの求めるものが同じであると考える。

しかしエコ・ツーリズムの観光客は「よく知られたもの」以外に「よく知られていない」自然や文化を見ることが出来た場合、より満足する。ではなぜエコ・ツーリズムでは「よく知られたもの」を求める観光客が「よく知られていないもの」を求めるのか。それには先述した限定性・差異性の考えが当てはめられる。つまり観光客は「よく知られたもの」に加えて、差異化された「ホンモノ」を求めるのである。しかし差異化されたものでも観光客は「イメージと合わないもの」を提示された場合、不満を感じる。例えばベリーズのエコ・ツーリズムでゲストは電気のある暮らしをしたいという現地の人に対して、そうなる前に訪問できたことを喜んでいると感想に述べている[太田1996217]。これはホストの言葉が「未開性」のイメージとは異なったから生じたのであり、これが現地の本当の姿であっても観光客の求めたものではなかったのだ。ジョン・アーリが『観光のまなざし』でも述べているように、ツーリストは旅行前にパンフレットなどで見たイメージの原型の「自分用に焼き直したもの」を、旅行先で確かにそこに来たことを証明するのであり[アーリ1995249]、観光客はこの「自分用に焼き直したもの」の範囲内にある「よく知られたもの」「よく知られていないもの」を求めるのだと筆者は考える。つまり観光客が旅行先で見聞きする「観光で出会う文化」は旅行先で偶然遭遇したものではなく、旅行前から観光者のなかである程度決定していたものであるといえる。これは先述したようにマス・ツーリズムでもいえることで、観光客の持つイメージを「観光で出会う文化」に求めているのである。

以上、マス・ツーリズム、エコ・ツーリズムそれぞれで見てきたように観光客に共通することは「よく知られたもの」「よく知られてないもの」に関わらず、観光客は観光客の描いた「イメージ」を求めている。そしてそのイメージが「観光で出会う文化」を限定しているといえる。よってゲストの求めるものや「観光で出会う文化」についてはオールタナティブ・ツーリズムの一つであるエコ・ツーリズムにもマス・ツーリズムと同じ問題点がある観光形態であることがいえる。

 

2.自然環境

1章で見てきたように、ジャンボジェット機での大量輸送が可能になった1960年代以降のマス・ツーリズムの時代から観光が自然環境に与える影響が問題視されてきた。このマス・ツーリズムにおける環境問題から、マス・ツーリズムに替わる観光形態としてのエコ・ツーリズムは「環境に配慮する」という理念を掲げ、人気を集め始めた。しかし筆者はそのエコ・ツーリズムにおいても環境に与える影響は大きいと考える。以下、マス・ツーリズムとエコ・ツーリズム、それぞれの問題点を見ていきながら、なぜ筆者がそう考えるか明らかにしていきたい。

  まずマス・ツーリズムにおける問題としては、インフラストラクチャーの整備の問題が挙げられるだろう。マス・ツーリズムでは大量の観光客を受け入れることが最低条件であるため道路やその他交通機関の整備、大規模宿泊施設の建設、さらには観光客が見物する施設の整備が必要である。ここではマス・ツーリズムの観光地の典型といえるハワイに焦点を当ててマス・ツーリズムにおける環境問題について考えてみる。

 ハワイは1893年に王朝が倒れた後、観光を国家の重要な産業として位置付けた。それまではタロイモの耕作や養魚場に使われていたワイキキの沼地が埋め立てられ、どんどん開発が進んでいった[橋本1999191]。ホノルル港は近代的になり、後に観光名所となる地上10階建てのアロハ・タワーが建設された。近代的になったホノルル港にはサンフランシスコ、ロサンジェルスからの定期船が入港するようになる。そしてその観光客が宿泊するホテルも建設された。さらには米国本土や日本からの資本が投入されて、ホテルやショッピング・センターなどが整備されていくこととなる。その状況の中で、ハワイ人の所有していた土地は奪われ「自然」が「人工」へと変わっていった。

 このようにマス・ツーリズムの観光地では、その地が根こそぎ開発されることに批判の声があがる。またハワイでの開発では当初無計画なものであったことから生活排水による水質汚染があったということも批判の要因となっている。そしてマス・ツーリズムにおける地元への利益還元については、ハワイで観光に従事するものの賃金は安いがチップなども含めると十分な収入があり個人レベルでは利益還元がなされているという報告もあるが[Plasch1995]、巨額の資本が日本や米国本土などのハワイ以外の企業から出されていることから、観光での利益の多くがハワイには還元されていないのは事実である。

ではエコ・ツーリズムの場合を見てみよう。エコ・ツーリズムは自然環境やホスト文化に配慮した観光形態だといわれている。しかしそのエコ・ツーリズムにおいても自然環境を破壊する可能性を含んでいる。まず、エコ・ツーリズムではマス・ツーリズムと違い、ゲストは整備のなされていない自然へ入っていくこととなる。特にエコ・ツーリストたちは人間の手の入っていない自然や貴重な動物のいる地域へ訪ねたいと願う。そのため森林の中にトレッキングコースを作ったり、野生動物と直接対面したりといったことから環境に直接影響を与える可能性がある。

また自然を売り物にしているエコ・ツーリズムであるからこそ生じる問題について太田好信が指摘している。それはエコ・ツーリズムの理念化の問題である。エコ・ツーリズムを「環境にやさしい観光」などと理念化してしまうことで、エコ・ツーリズムがどのように生産、流通、消費しているかという社会性が隠蔽されてしまうというのだ。これを検討することによって出てきた問題点は以下の3点である。ゲストの「『原初的自然』やその中で生活する人びとへのロマンチシズムに満ちた憧憬」[太田1996208]であるエコロジー意識は、エコ・ツーリズムの経験において階級峻別のための象徴資本となる。それがエコ・ツーリズムでは普遍的価値として置かれているので、地球規模の資源の管理など植民地主義意識へと変化する可能性があるということ。またホストはゲストのイメージする「未開性」を演出し、その演出と実生活のギャップを見せる事によって自己主張の機会を得ても、他者に頼る方法では自己主張にも限界があるということ。そして最後にエコ・ツーリズムにおける「差異の消去」と「差異の再生産」の問題である。自然が観光における商品として差異化されエコ・ツアーが成り立ち、それが行われていく過程で環境自体が破壊されたり観光の影響でホスト文化の近代化が進んだりするので、その差異が消去されていく。その一方で次なる観光のために新たに自然を差異化するという「差異の再生産」が行われている。ここに差異をなくしながら差異を作るという矛盾が生じるのである[太田1996]

ここでゲストは「自然環境に配慮する」という目的意識があるではないかと思うだろうが、江口が「未開の追求」でも指摘しているように、観光客は皆自然や自然とともに生活している人々に関心を持っているが多くはビーチで楽しみたいだけなどの気楽なものであり、エコ・ツーリストと呼ばれる人々は約18%しかいない[江口1998138]。ここで気楽な観光客がなぜエコ・ツーリズムに参加するのかというと、観光客は手付かずの自然を楽しみたい、そして自然の一部になる生活を楽しみたいと思っているという理由からだ[江口1998138]。これらの理由は自然環境を故意に破壊することにも繋がらないが、積極的に自然環境を守ろうとする姿勢にも繋がらない。この状況の中で本当にゲストは自然環境に配慮した旅ができているといえるだろうか。彼らが気楽な観光客であるならば、彼らは自然を楽しみたいと思いながらも自分たちに馴染みのある近代的な設備を望むようになるだろう。

これに加えてホスト側の問題としては、エコ・ツーリストを受け入れる村人にどれだけ「西洋的な文脈における『生態環境保護』の意識があるのか」[橋本200161]という問題がある。例えばゲストが持ち込んだビニールなどの自然に帰らないものを捨ててしまう可能性もある。またその行為を観光客が目撃した場合、ゲストは現地の人々が自分たちと同じ生態環境保護の意識を持っていると無意識の内に思っているので、その行為が環境破壊と見えるかもしれない。ここにゲストがホストを誤解する可能性も潜んでいるのである。

また開発側の問題を見てみると、エコ・ツーリズムの盛んな南国の島々では、主な産業がないため観光による収入に大きな期待が寄せられているなかで、国家の収入源となるためにより多くの観光客を受け入れる必要性が問題となる。この国家の思惑と観光客の望む観光地を成立させるためには、資本の国内外を問わずそれを注入し宿泊施設や交通網などのインフラを整える必要が迫ってくるからである。例えばカメルーン共和国政府による「レイク・アウィン・ツーリスティック・プロジェクト」では、アウィン湖の湖畔に道路やバンガローなどの整備をし、そこをエコ・ツーリズムの拠点としているが、さらに予算ができればホテルやテニスコートなども整備される予定である[下休場2001]。これでは観光省によって自然林ではなくユーカリ植林地が開発地として選定されるなど慎重に環境への配慮はなされているとしても環境への影響が懸念される。また先述したように観光客すべてが環境意識をもっているとは限らない。よって観光化が進むにつれて森林にごみを落とす観光客が出てきたり、観光客が森林に入ることによって植物が傷つけられたりする可能性があるのだ。

さらにいえば、開発側に関係する問題として開発者とホストの権力関係がある。以下の真板昭夫と海津ゆりえのフィジー諸島のエコ・ツーリズムの報告を用いて考えてみたい[真板,海津2001]。フィジーのアンバサ村は山岳地帯にあるため道路整備が遅れており自給自足のような生活を送っていたが、ここには貴重な森林が残されているので村人の収入確保と森林保護のためにエコ・ツーリズムが導入されることとなった。そこでニュージーランドなどからのNGOや研究者などが森林保護を求める代わりにエコ・ツーリズム開発を計画し始め、現在では現地の人々はエコ・ツーリズムの考え方に基づいて自然環境に配慮しながらゲストをもてなし、ゲストはフィジーの自然や伝統文化を楽しんだりホストとの友好をはかったりすることができるようになった。この過程で開発側が現地の人々と何度も話し合いの機会を持ち、エコ・ツーリズムの自然保護の理解を深めたりツアーガイドの育成・ガイドブックの作成を行ったりなどしたことが、ホストが積極的に参加できるエコ・ツーリズムに繋がったというのだ。しかしここで問題なのは援助が西洋的な知識を得た先進国のNGOといったゲストとなりうる立場の人々でなされており、ホストを見る側の立場であることである。その場合、ホストは観光事業を始めるにあたっても観光客を受け入れるときにも主体になれない。常に見られる立場にあるのだ。よってこの権力関係の中で行なわれる援助でエコ・ツーリズムが成り立っているなら、エコ・ツーリズムにも弊害があると言わざるを得ない。

この問題は先に取り上げたカメルーンの事例でも同じことが言える。この計画を報告する下休場千秋は観光開発が現地の人々にも好意的に受け入れられている理由は、エコ・ツーリズムが経済的な利益をもたらすことに加え、信仰により湖の環境を守ることが義務であると思っている現地の人々の考えとこの計画の理念が上手く合致することにあるという。そして開発側がこの伝説や現地の人々の考えを重視し計画を立てたことが開発を円滑に進める要因となったというのである[下休場2001]。しかしここでも開発者は政府の観光省の人間であり、西洋的知識を得た者であるのだ。

 このようにゲスト・ホストはマス・ツーリズムにおける根こそぎの開発とは違う形であっても、ゲストやホストがエコ・ツーリズムの理念を理解しないままの観光を行うこと、またより多くの利益を求めようとすることにより手付かずの自然環境に悪影響を与えることもある上に、ホスト・ゲスト間の理解が浅いためにお互いに誤解を生んだり開発者との間に権力関係があったりという問題があるのだ。

そして環境に関わる問題として環境の変化によって文化に影響を与えるということも挙げられる。マス・ツーリズムにおいては大きな開発を行うためにそれまでに現地で行われていた生業が絶たれる。ハワイの例で出たように、沼地であったワイキキでは農業や漁業が盛んであったが観光開発によりその職が奪われた。これにより人々は生活を変更せざるを得ず、現地の生活に影響がでる。一方、エコ・ツーリズムでは現地の人々にとっては副業であることが多く、生業は保たれる。しかしエコ・ツーリズムではゲストが民家に宿泊することもあり、ゲストとホストの接触は密であることから生じる問題がある。橋本の指摘するようにホストがゲストの文化が異なっているということを認識しているかどうかという問題から、ホストがゲストに入村儀礼を強要するなどといった誤解が生じる場合がある[橋本200161]。また、ゲストはホストの家に宿泊することを文化交流の場と考えており、食事中に手工芸品を売り歩かれることに気まずい思いをする[江口1998145]。これはゲストがエコ・ツーリズムの場を産業であることを認識していないことから生じる誤解であろう。しかし物売りに気まずい思いをすると同時にゲストは「家族のやることに巻き込まれたかった」[江口1998145]などという感想を残し、そこにはマス・ツーリズムの観光客と同じく自己中心的な態度があるのだ。

以上、環境に関わる問題をマス・ツーリズムとエコ・ツーリズムにおいて見てきた。環境に配慮した観光形態だといわれているエコ・ツーリズムがその理念とそぐわない形で存在しており、そのことによって先述した様々な問題が生じており、マス・ツーリズムと同様多くの問題点があることが見て取れた。そしてここで、2章の1,2で見てきたマス・ツーリズムとエコ・ツーリズムに共通する問題点を考えてみると、観光においてホストに主体性がないことが最も重要ではないだろうか。観光客の求めるものを見ても、ゲストがホスト文化に対して自らのイメージで「観光で出会う文化」を形成するばかりでホストが主体的にゲストに「観光文化」を提示できる状況にない。また自然環境のところで述べたように、エコ・ツーリズムにもマス・ツーリズムにも形態は異なっても権力をもつ開発者が存在する。その結果、ホストが観光事業に参加していても自らの意思が直接反映されることがなくなったり、今まで述べたような観光を産業にすることによって起こる様々な弊害を受けてしまったりするのである。これらのことから筆者はホストに主体性のある観光形態が持続可能な観光形態になっていくと考えるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3章 他の観光形態

 2章で見てきたように、マス・ツーリズムに替わる、持続可能な観光形態といわれるエコ・ツーリズムにも様々な問題があることが明らかになった。この3章ではオールタナティブ・ツーリズムの一形態であるファーム・ツーリズムやホームステイの現状を見ていきたい。

 

1.グリーン・ツーリズム、ファーム・ツーリズム

 グリーン・ツーリズムは近年日本でも盛んになってきている観光形態である。主に農業を主産業とする地域や過疎の進む地域で行なわれており、地域の自然や地元農家の生産物を活かして誘客している。グリーン・ツーリズムでは観光客は旅館には泊まるのではなく農家の離れや宿泊施設で自炊などをし、農業体験や物作りを楽しむのである。そしてファーム・ツーリズムもグリーン・ツーリズムと同様に観光客は牧場を営む家に宿泊し、牧畜を手伝うという観光形態である。ファーム・ツーリズムもグリーン・ツーリズムもホストが観光を副収入にでき、新たな開発をする必要が少ないため観光を始める際の資金が少なくて済み、また環境への影響が少ないところに利点があるのではないだろうか。よって筆者は日本で行なわれている多額の資金を費やしグリーン・ツーリズムを行なっている例はグリーン・ツーリズムには含まないこととする。例えば1974年、千葉県はキャンプ場、森林館、テニスコートなどを備えた清和県民の森を整備し、1975年には農村地域が自然休養村に指定し果樹園などを作った[山村1996]。これでは集客は容易であるかもしれないが、キャンプ場建設などの自然破壊、資金調達など多くの問題点が残る。筆者はこれではマス・ツーリズムに替わる観光形態としてのグリーン・ツーリズムと呼ぶべきではないと考える。

では、具体的にグリーン・ツーリズムの事例を見てみよう。

 長野県の大鹿村は長野県の南端にあり、面積のほとんどが山林という過疎の進む村である。しかし過疎が進む中でも砂防事業と農家の兼業で経済的には恵まれている。この村には多くの民話や農村歌舞伎が伝承されていたり国宝級の文化財である寺が残っていたりするなど、観光客が見て回れる場所があることから、グリーン・ツーリズムを行なう前にすでに15件の旅館があり繁盛している状態であった。そこにグリーン・ツーリズムを導入したのは村と都市との交流が一番の目的であった。閉鎖的な空間に都会からの人々を迎え入れることで村に新たなものの見方を運び込もうというのだ。これが一番の目的であったため、あまりお金をかけずに事業を始め、観光客には宿を貸し、地元のものを使って炊事をしてもらい、農作業やわらじづくりなどやりたいことをやれるよう援助するという形態に落ちついている[伊東1996]

 この大鹿村のグリーン・ツーリズムの特徴はホストが観光にあまり資金や労力を注いでいないことである。その点が過疎の地域でも観光として成り立った要因であり、ホストが自分たちの生活を乱されることが少なくてすむ要因であるのだ。例えば大鹿村の観光客は食事の支度や就寝の準備など、旅行では当たり前のもてなしを望んでいないことが多いので、ホストは家庭や本業の農作業をおろそかにすることなく、観光客も受け入れられる。またこの形態では観光客は畑や山へ入っていくものの、地元農家の手伝いでありそれにより著しく自然環境が破壊されることもない。一方、ゲストの側から見れば農村では例え2,3日の観光であっても自分から農村の一員になりたいという姿勢が、先述のホストや自然環境に影響を与えないことに繋がり、さらにホストの負担の少ない観光に繋がるのであろう。ここにホストとともに農村での生活を楽しみたいという「ゲストの主体性」が見える。またゲストの望む観光地のイメージというのは「懐かしい日本の姿」といったもので、まったくの想像や旅行会社から得たイメージとは異なる。その点で観光客はホストの伝統文化や現在の生活状況を受け入れることができ、グリーン・ツーリズムでの「観光で出会う文化」はホストの認める自文化とのズレが少ないと考えられる。

グリーン・ツーリズムの利点は以上のようにゲストが地域の生活や自然環境にさほど変化を与えないということである。例えば観光客の多くはもてなしを好むのではなく自ら農作業や炊事に参加するので、ホストは観光だけでなく今まで行なってきた農業にも力を入れられる。さらに過疎が進み、人手の足りない状態ではゲストが手伝いをしてくれることは農家にとっても有益である。そして自然環境について言えば、観光客は農作業や農家の人から教わるわらじの作り方などを観光目的としているので、すでに人の手が入っている場所への立ち入りはあっても、特に無造作に山や川へ入るなどして自然へ悪影響を及ぼすとは考えにくい。これらの自然環境に対する影響が少ないこと、ゲスト・ホストの権力構造が他の観光形態ほどはっきりしていないこと、ホストが主体となって観光ができること、ゲストの求める観光地イメージ「観光で出会う文化」と現地の文化の差が小さいことなどのグリーン・ツーリズムの利点をこれからの観光形態に活かしていくべきだと考える。

 

2.ホームステイ

 ホームステイは一週間ほどの短期間の滞在から長期滞在まで、異文化に触れるためや語学学習のためなど様々な目的の旅行での滞在形態である。特に英語を学びにくる学生の多いアメリカやカナダなどの英語圏で受け入れが盛んである。このホームステイでは観光客は滞在国の語学や文化を学びたいという姿勢でやってきており、ホームステイ先でも家族の一員として迎えられることを望んでおり、観光客はその国や家庭の習慣に倣おうとする。例えば食事の内容や時間、シャワーの使い方などという家庭内の細かなことから、学校での過ごし方、レストランでの作法まで見聞きするものを真似しながら家庭や現地に溶け込もうとするのだ。それを後押しするように、ホームステイをしようとする人向けのマニュアル本にも「ホームステイを成功させるポイント10」として「ホストファミリーは家族という意識」でという項目がある[河野1998147]。家族と思うことでホスト文化やホスト家庭の習慣を理解しようという気持ちが現れ、ホストとの関係でも不平不満を言うだけでなく、解決しようという姿勢が出てくるのである。またホームステイ経験者としての意見としても滞在中は現地の習慣に合わせるだけでなく、ホストファミリーの習慣にも合わせるべきで、その上でホストファミリーに要求があれば言えばよいとしている[河野199851]。ゲストは自らの想いの上に、さらにこういった本や周囲の人々の体験談を肝に銘じてホームステイへ行くのである。このようなゲストの態度は様々な旅行形態の中でも特異なものではないだろうか。なぜなら2章でも述べたように一時的な滞在の観光では観光者は自己中心的・自文化中心的になりやすいからだ。まずマス・ツーリズムにおいては多くの先進国からの観光客が自国での生活と同じように過ごせるので現地の生活に特別関心を示す必要はなく、そうする人も少ないだろう。またエコ・ツーリズムにおいても現地の自然美などに感心する一方で、現地の文化に対するイメージを自文化中心的に形成していることを2章で述べた。このように一般的に観光客は自文化中心主義を抜け出せず、現地の文化に対する勝手なイメージによるホストとの誤解や強要が生じるのだろう。その点、ホームステイでは観光客はホスト文化やホストファミリーに対してイメージを持って現地へ行ったとしても、それを次々と打ち砕かれるばかりでホストファミリーに押し付けることはない。なぜなら先述したように観光客はホスト文化やホストファミリーについて学び、溶け込むことを望んでいるからだ。

ゲストがこういった態度であるのと同時にホストにも他の観光形態とは異なった特徴が見られる。ホストファミリーへのアンケートでホストはゲストを受け入れるにあたって期待することとしてそれぞれホストの20%から30%が「異文化交流」「深い友情」「視野(考え方)の広がり」「日本文化(芸術)への接触」という項目を挙げている[神山1993108]。そしてホームステイ後のホストファミリーが感じる自分たちが最も受けた影響として、ゲストを受け入れることによって自文化をより理解したことに約30%のホストが感じている[神山1993109]。こういった期待とともにホストは不安も併せもっている。文化も言葉も違う国からやってくるゲストを家庭へ受け入れるには、それが短期間であっても異文化交流として文化の違いに上手く対処できるかという不安や個人としてゲストと上手くやっていけるだろうかという不安があるものだ。これについてはホームステイを長年やっている家庭とそうでない家庭とで程度の差はあるだろうが、毎回新たな気持ちでゲストを受け入れているのは確かだ。このようなホストファミリーの期待と不安の裏にはゲストが異なる文化を持っているというしっかりとした認識があることがわかる。そしてただ単にゲストの受け入れをビジネスとしているだけではないことがわかる。

以上のゲスト・ホストのホームステイに対する態度について考えると、まずホストに関しては他の観光形態と異なりホストがゲストは異文化を持つことを理解していることから、ホスト・ゲスト間の誤解が防げるという利点がある。エコ・ツーリズムではホストがホストの常識はゲストに通じないということを認識していないことから起こる誤解があることを2章でも指摘したが、ホームステイではホストファミリーは観光客が異なる文化を持つことを認識しているために、ホストの行動がゲストにとって自文化を押し付ける結果にならないのである。そして同じ家に比較的長期にわたってゲストが滞在することからその理解はホームステイのほうがグリーン・ツーリズムよりも深いことも挙げられる。また、ホストはゲストと同じように相手の文化を知ろうとすることや、ゲストが他の観光形態のように自文化中心主義にならないことからホスト・ゲストの関係が対等であるといえる。つまりどちらも「見られる側」にもなりうるし「見る側」にもなりうるのだ。ここでゲストには他の観光形態のように、ホストにもてなされることを期待したりホスト文化について自己のイメージに合うものだけを受け入れたりといった「受身の姿勢」でいるのではなく、自ら積極的にホスト文化を理解し、その上で行動をする姿勢が必要だということがわかる。つまりホストだけでなく、ゲストも主体性を持つことが重要なのである。

 

 

 

 

 

 

4章 これからの観光

 3章で見てきたように、グリーン・ツーリズムやホームステイはこれから持続可能な観光として成り立つ可能性が十分ある。まず、グリーン・ツーリズムは現在ある観光形態の中で「ホストの主体性」が保ちやすい観光形態である。ゲストを自宅に宿泊させるにしても他の施設に宿泊させるにしても、ゲストは積極的に身の回りのことをするので、ホストが本業である農業が出来なくなるほど観光業に時間や労力を必要とするわけではない。そのため本来あった生活を保つことができるのである。そしてゲストの求めるものも農業体験や農村文化に存在する作業であるので、観光のために現在はあまり使われていない伝統文化を復興させることはあっても新たに演出する必要はない。これらの演出のない文化がゲストに受け入れられることがわかっていれば、ゲストに提供するものをホスト自らが提案することも容易であろう。そうすればホストがゲストに提供する「観光文化」をゲストが求めるからという理由だけでなく、ホストがゲストに見せたいという理由から創っていくことができるのである。さらにグリーン・ツーリズムでは観光業を始めるにあたって、ゲストの宿泊施設の準備(自宅の改装、小規模の宿泊施設建設)などに資金が必要なだけで、巨額の資金は必要ない。そのためマス・ツーリズムのような利益を奪う開発側は存在しない。そしてエコ・ツーリズムのような観光業のノウハウを伝授する開発者についても、マス・ツーリズムやエコ・ツーリズムのようにゲストの要求や運営方法が複雑ではないので、他の地域を参考にすれば自治体単位で開発者なしのグリーン・ツーリズムが十分可能であると考える。また3章でも述べたように自然環境についても、現在ホストが使用している土地を利用するので他の自然への影響が少ないことが今までの観光形態とは異なるところである。

 そしてホームステイは3章で述べたように他の観光形態で見られるゲストの態度とは異なり、ゲストがホスト文化を倣おうとするためゲストが一方的にホストを見つめるのではなくなる。この互いに理解しあう姿勢がホームステイでの利点である。そしてこれからの観光に必要な「ホストの主体性」も、ゲストに合わせるだけの観光ではなくゲストにも自文化を理解してもらい、滞在中にゲストにもその文化を体験してもらおうとする姿勢に見られる。またホストがゲストを受け入れること自体に自主性もあり、それをサポートする側も開発者ではなくあくまでアドバイスをしたりゲストを紹介したりするに留まる立場なのでホストの主体性が保たれると考える。そして3章で見たようにゲストにも主体性がある。観光において多くのゲストはホストにもてなしをされることを期待し、旅行以前のイメージに合うものを確認し受け入れる。そのために生まれる問題点については2章で述べたとおりである。これに対してホームステイでのゲストの主体性はホスト文化との摩擦も防ぎ、ゲストのイメージが「観光で出会う文化」を限定してしまう可能性も低くなり、その結果、ホストがより主体的な観光をすることができるようになるのだ。

 ただこれらの観光形態にも問題がないわけではない。それはこれらの観光形態で、現在観光を主産業としようとしている国々にとって十分な利益があげられるかということである。現在のグリーン・ツーリズムでは、ゲストの観光の目的である農業という基礎がある上に観光がある。つまり副業であるのだ。また農業や漁業といったしっかりとした基盤がない場合、観光客を呼び寄せること自体が難しくなるという問題もある。さらにグリーン・ツーリズムではゲストの収容人数にも限界があるので、観光だけで国全体に利益があるほどの収益があげられるかどうかも問題である。これについてはホームステイでも同じことがいえる。

この面ではマス・ツーリズムは成功すれば十分な利益をあげられる観光形態である。現在マス・ツーリズムが行なわれている地域ではホテルなどの施設が外国の資本でできていることが問題とされていることを述べたが、経済的側面だけを考えると税金による収入や地元の人々が観光産業に従事することによる利益は十分期待できる。現在の多くの観光地のように観光業従事者が外国からの労働者であるため地元の人々の雇用機会が奪われたり、地元の人々が望まないような低賃金での労働を強いられたりすることを防ぐため、地元の人々が望めば十分な雇用機会があるように、また英語やその他の教育の制度を利用できるようにホスト自ら整えることは可能であろう。雇用やその条件については現在あるマス・ツーリズムの地では困難かもしれないが、これからは開発側を誘致するかわりにホストに有利な条件を整えることが必要だ。そうすれば地元民への利益還元の面は改善できるであろう。

 そしてマス・ツーリズムの批判要因の一つである環境への悪影響の問題については、これからマス・ツーリズムを持続させていく可能性が残っている。確かにマス・ツーリズムにおいて開発が自然環境や現地の生業に影響を与えたことは事実として受け止める必要はあるが、現在その開発が一段楽した状況であればこれからの開発に対して規制ができる。また、観光客が一ヶ所に集中するためその他の地域への影響が少ないという利点を活かして他の地域への観光客の制限をすることもできる。この観光客の立ち入りの制限はマス・ツーリズムが行なわれている地域において、よく知られたものに飽きた観光客がその地域での観光に魅力を感じなくなるという可能性も含まれているが、地元文化や自然との共存について考えれば、多少の制限は必要であろう。マス・ツーリズムの観光地には制限があっても集客力があるものと考える。

現在のように、すでにマス・ツーリズムの地として成立している地域があり、一方で自然環境を守るべきだといわれているが観光開発が必要な地域があるという状況において、     以上で述べたグリーン・ツーリズム、ホームステイ、そしてマス・ツーリズムを地域にあわせて利用していくことが重要だと考える。特に現在開発をしようとしている自然豊かな地域では、まずグリーン・ツーリズムやホームステイのような形態の観光を考える必要がある。これらの形態とホストが主体的に動くことが観光を持続可能にすると考えるからである。そして現在マス・ツーリズムをしている地域では、2章で述べた問題点を解消できるよう努力していきながら、先述した利益と自然環境についての利点を守っていくべきである。

これまでと同じようにこれからも観光が観光するものにとっても観光されるものにとっても必要な限り、ゲストはホスト文化について学ぶことで自文化中心主義を抜け出し、ホストは地域に合う観光形態を自ら選び出し「自然環境」「観光文化」「伝統文化」そしてゲストの「観光で出会う文化」について考え、これからの観光形態としていく必要があると考えるのである。

 

1)「本場」とは、その情報やそれを見聞きできる人などに希少性・限定性のある事柄が存在する場所のことである。またゲストはすでに持っているイメージを求めており、真正性を求めていないと述べたとおり、ゲストが「本場」とする場所はその事柄が生まれたとされている(・・・・・)、伝統だとされている(・・・・・)場所であり、その真偽は特に問題ではない。

 

2)「ホンモノ」とは観光客が「観光で出会う文化」において旅行以前に持っていたイメージに当てはまるものであり、それが観光用に創られたものであっても観光客の観光地に対する欲求を満たすものである。例えば観光客がオーストラリアでアボリジニーが伝統衣装を着ている姿を見ると、それが観光用であって日常では着ていないという事実に関係なく「ホンモノ」だと思うということである。

 

3)「真正」とはある事柄がある文化に根付いていてその文化の担い手もそれを自文化のものであると認めるもののことである。そしてそれは人々がその文化に対する拠り所とできたり、その人々の共同体の結束に役立ったりするものだと考える。

 

 

 

 

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