「カーゴカルトの諸相とその人類学的研究ーパリアウ運動における近代性の批判的考察」

福井栄二郎

第1章 人類学における近代
第1節 問題定義
  
 私はこの頃、二十一世紀も間近な時代になって、文化が人類を苦しめはじめたのではないか、とよく考えるようになった。
 文化が人類を苦しめるとは、いかにも唐突な感じをあたえるかもしれないが、この十年ほど世界各地で生活し、さまざまな文化現象と出会い、文化が生み出す困難な状況を経験したところから見て、また現実にいま世界の動きを見ても、おそらく人類史上初めて文化が否定的な作用をするようになってきた、少なくとも文化をそう受けとる時期が訪れてきた、という気がしてならないのだ。
                              (青木 1988:38)

 女の立小便が都市と農村の交渉の歴史と切り離すことができないように、日本人のあいさつのお辞儀やバンザイなどの身ぶり、あるいはもっと実際的な、はく、ふく、などといった掃除のしぐさを例にとってみても、そこに日本人の長い社会的経験が凝縮されていることは容易に察しうるだろう。
 そうしたしぐさや身ぶり、身体伝承が、人間をとりまくメディアのたえざる拡張と、技術革新による人間・機械系の成立という今日的状況の中で、いまや一挙に忘れ去られようとしているのである。ほんの三十年ほどの間に、立小便の時代から自動洗浄・乾燥トイレの時代に突入してしまったのだから無理もないだろう。
 しかし、産業化によってしぐさや身ぶりの世界的な平準化が猛烈ないきおいですすむいま、跡形も無く消えようとする身体伝承を書きとどめ、その社会・文化的文脈や構造や変容の方向をかんがえておきたいとおもうのだ。
                              (野村 1996:8)

 この二つの引用は、共に「文化」という言葉で形容できる現象を扱ったものである。しかし、これらが同じ言葉で結び付けられていることに、若干の座りの悪さを感じることも事実ではないだろうか。
 前者が具体的に指しているのは、「パレスチナ問題やレバノン情勢、北アイルランドやバスクやノルマンジーやウクライナ、パンジャブやスリランカなどの問題」であり、「政治・経済それに歴史上の難問がこれらの紛争の根源にあることは事実としても、解決を困難にしているのは、そこに民族・言語・宗教などの文化的要因が分ちがたく存在するからである」(青木 1988:39)というのがその主張の趣旨である。青木のいう「文化の否定性」は、皮肉にも世界が縮小し、ボーダレスが加速すればするほど顕在化するようになった。20世紀も終わりに近づいた今日でも、世界各地で民族紛争が起こり、ナショナリズムが勃興し、先住民族が抑圧され、マイノリティが怒りの声をあげている。一方、後者の指しているのは、しぐさ、表情、動作といった普段は意識に上らない身体的知識であり、その無意識の「文化」が、知らず知らずのうちに変化してゆく方向性を探ろうという意図で書かれている。
 「文化」という言葉を蝶番にして、この二つの事例が結び付けられていることの齟齬感を、その語の多義性に還元することは生産的ではない。そうではなく、これらの「文化」を成立させている根本的な原理が異なっているのではないかということを模索していくのが、この論考の出発点である。同様の問題については、関本が明快に論じている。彼は、近年、人類学者の調査地における人々が「われわれの文化」というイディオムを用いて、何かを語るということをしきりに耳にするのだという。

 さまざまな共同体が、「文化」という語をもちいてそれぞれの「われわれ」について語ることを競うというこの習慣は、近代世界に独自の普遍的な制度というべきである。そこには、近代以前からさまざまな人間集団が「われわれ」について語ってきたというのとは異なった、共通の概念と共通の語り口がある。「われわれの文化」を語るそれぞれの集団は、たがいに他の集団の語り口を参照しあい、模倣や剽窃さらには意識的な対象化や差異の創出が行われる。
                            (関本 1994:9−10)

 関本に倣って「語られる文化」と「生きられる文化」というタイポロジーを用いると、先の引用において、青木の指す「文化」は「語られる文化」であり、野村の指す「文化」は「生きられる文化」だということがわかるだろう(関本 1994:8)。そこで必然的に次の疑問が浮かび上がる。「語られる文化」と「生きられる文化」というタイポロジーを何のために用いるのか。そして、関本の言うような「近代世界に独自の普遍的制度」とはどういうものなのだろうか。その疑問を解き明かす契機として、主に太平洋をフィールドとする人類学者たちが近年力を入れて論じてきた、「伝統の創造」論を次節で扱ってみたいと思う。

第2節 「伝統の創造」論

 1978年に出版されたサイードの『オリエンタリズム』は、強大なインパクトを持って登場し、彼の提起した問題群はいまなおその重要さを失ってはいない(もちろん彼自身が述べているように、モチーフとして彼の頭にあったのはフーコーのディスクール概念であるが、人類学に与えた影響という観点からすると、サイードを起点に話を始めたほうが適当かと思われる)。そこでの彼の主張は以下のとおり。「西洋(オクシデント)」が「東洋(オリエント)」を、存在論的・認識論的に本質化し、「心象地理」に描かれたその距離や差異は埋められないものとなる。そして「西洋」は、政治・経済力を背景に、物言わぬオリエントに代わって彼らを解釈、表象し、ディシプリン(規律=訓練)を課されたその言説は、やがて自文化中心主義のフィルターを通じて支配の様式へと変化してゆく(サイード 1993)。
 それまで所与の実体であると考えられてきたものや概念を問題視し、それが人為的な構築物であることを批判的に暴き出すことを、本質主義批判と呼ぶならば、サイードのオリエンタリズム批判はまさにそうであるし、その後多くの分野で行われてきた議論もこれに追随するものである。インドネシア研究のB.アンダーソンは「国民国家」というものが実は、本質化、同質化された「想像の共同体」であり、国語教育を行い、博物館や無名戦死の墓を利用することで、ナショナリズムや国民意識を「国民」に植え付け、その「想像の共同体」を維持していくのだというからくりを暴き出した(アンダーソン 1987)。歴史学者のホブズボウムとレンジャーは過去から連綿と継承され続けてきたと思われがちな「伝統」が、近年、とりわけこの200年間に「発明」されていたものだと批判した。『創られた伝統』の序論でホブズボウムは次のように述べている。

 「創り出された伝統」は以下のように捉えられる。通常、顕在と潜在を問わず容認された規則によって統括される一連の慣習であり、反復によってある特定の行為の価値や規範を教え込もうとし、必然的に過去からの連続性を暗示する一連の儀礼的ないし象徴的特質。
                          (ホブズボウム 1992:10)

 彼は「慣習」から「創られた伝統」を切り離すことによって、「それらが比較的新しい歴史上の革新である、「国家(ネーション)」とそれに結びついた現象、たとえばナショナリズム、民族国家、国民の象徴、および歴史その他に深く関わっている」(ホブズボウム 1992:25)ことを示唆している。そういった意味で、アンダーソンの議論と同一の俎上で相補的に扱いうるものである。
一方、1970年代から相次いで独立を果たした太平洋の新興国家では、現地エリートが「伝統」をキーワードに自国独自の「国民文化」を主張するようになったが、その声が人類学者の耳に届くと、このような「創られた伝統」の議論に内包されて、「カストム論」と呼ばれつつ、その歴史性を暴かれていった(Linnekin 1992)1。
それ以降、ジョリーの言うような、「本物の伝統」対「人工的に創られたもの」、「「単に生きられる」生活様式としての文化」対「生活様式をシンボルとして具体化したものである文化」、「祖先から継承されたものとしての伝統」対「現代の政治家によって操作されたレトリックとしての伝統」(Jolly 1992:49)という二項対立が設定されるまで、そう時間はかからなかった。初期のカストム論は、基本的にこの二項を分けることに重点が置かれた(Keesing 1982、Jolly 1982、Philibert 1986)。
 しかし、その二項対立に沿っての本質主義批判が人類学の俎上で扱われるにつれて、この二項対立自体が本質主義的だという、よりラディカルな批判がなされるようになった。
 
 ホブズボウムは伝統社会を本質化、永続化しないように心掛けているにもかかわらず、村落のような自然な共同体によって永続化される無意識の慣習と、ネーションや国家のような不自然な共同体によって創られる意識的な伝統との間に境界線を引いてしまっている。
                              (Jolly 1992:51)

 ホブズボウムが行っているように、無意識の文化的継承としての慣習を、現在の中で意識的に過去を布告することとしての伝統から区別することができるだろうか。ホブズボウムの見解においては、一方に、「未開の部族」や農村といった、慣習が優越している自然共同体があり、他方、民族や国家のような人為的な共同体のために伝統が意識的に創造されるということになる。
                       (Jolly and Thomas 1992:241)

 つまりリネキンらにとっては、こうした二項対立の枠組みを作って、それを軸として(異)文化を分析していくことと、近代政治的な支配様式である「オリエンタリズム」とは同じ意味を持つものであった。そして押し込まれた一方の「祖先から連綿と受け継がれてきた、意識されない本物の文化」というものは、非常に静的であり、「歴史なき社会」を想定するがゆえに、やはり批判されるべきものであった。こうした状況に対し、よりラディカルな本質主義批判者の処方した方策として、例えばリネキンは、現存する文化は、そこにいる人々によって何らかの解釈を与えられ、客体化された結果だと考えることであった(Linnekin 1992)。そして、それは多かれ少なかれ、日常生活において、文化というものは日々再生産を繰り返すものだというワグナーの「文化の創造」論を踏襲しているといえる(Wagner 1981)。

 私は「創造」(construction)という言葉を、虚偽、神秘性、非真正という意味を持たないようにするために、そして、私がワグナーの中心的論点だと思うところ、すなわちこの象徴的な過程は、すべての社会生活に特徴的なものであり、植民地的、ナショナリスト的表象を形成するときに限られたものではないということ、を強調するために用いる。
                             (Linnekin 1992:253)

 一方トーマスは、サーリンズの示した構造と歴史の関係性を批判しつつ、独自の客体化論を展開した。サーリンズにとっての「構造」は、レヴィ=ストロースの想定していたような普遍的無意識の弁別法ではなく、「出来事」によって内的な変化を強いられる解釈枠組、平たく言うと「世界観」のようなものであった(サーリンズ 1993)。現地の人々が独自の観点から「出来事」を咀嚼していくダイナミズムを重視するサーリンズに対し、トーマスは植民地過程で彼らが新たに学んだもの、つまり西洋の観点を用いて自分たちの文化を表象していく弁証法的な過程(歴史的もつれあいhistorical entanglement)に焦点を合わせた。そうすることでオリエンタリズムに結びつくような文化的な並列(juxtapose)を乗り越えることができると考えたのだ。そして、歴史的なもつれあいから導き出された彼らの文化というのは、必然的に対抗的な客体化の過程を経ることになる(Thomas 1992)2。
 リネキンもトーマスも「客体化」という語を用いて、この二項対立のジレンマから抜け出そうとしているが、それは有効な処方箋となりうるのだろうか。

第3節 文化の客体化

太田は、上述のトーマスやリネキンらを参照しながら、「文化の客体化」を、次のように定義づけている。

 簡潔に表現すれば、文化の客体化とは、文化を操作できる対象として新たに作り上げることである。そのような客体化の過程には当然、選択性が働く。すなわち、民族の文化として他者に提示できる要素を選び出す必要が発生する。そして、その結果選びとられた文化は、たとえ過去から継続して存在した要素ではあっても、それが客体化のために選択されたという事実から、もとの文脈と同じ意味をもちえない。いわゆる伝統的とみなされてきた文化要素も、新しい文化要素として解釈し直されるわけだ。
                             (太田 1993:391)

つまり、現存する文化はそこに生きる人々の、何らかの解釈のフィルターを通した結果、存在するものであり、日々生成をを繰り返すものである。
 一方トーマスは、「社会間の接触で生じる文化のダイナミズムは、ヨーロッパ人がやってきた後にのみ起こるのだと考えるのは避けなければいけない」(Thomas 1992:216)という言明が示しているように、対抗的な客体化が、普遍的な営為であることを論じた。つまり、植民地以前から活発であったはずの人やモノの往来によって、「島民たちはファア・サモア、ファカ・トンガ、ヴァカヴィティ−サモア、トンガ、フィジーのやり方−という概念を創りだしていった」(Thomas 1992:217)とトーマスは考えた。その事例としてウィリアムズの提示したフィジーとトンガにおける刺青の起源神話を挙げ、それが「明らかに他者を逆転した結果として生じる弁別を表象している」と論じている(Thomas 1992:217、cf.Willams 1858:T、160)。
 いずれにせよ、「文化の客体化」という現象を人類学者が主張することによって、当該社会の人々も主体的な文化の構築を行うことが証明され、「歴史なき社会」から解放されることができた。しかしこういったポストモダン人類学者の主張に落とし穴はないのだろうか。全ての文化は客体化の結果、存在するというリネキン流の客体化論に前川は異議を唱える。

 リネキンは文化を意識的に作られたり、与えられたり、借用したり、操作可能なもののレヴェルに位置づけている。伝統の重要性はあくまでも現在にあるというわけである。集団の現在の民族的あるいは政治的な背景から伝統を強調し、正当性を保つためのものが文化というわけである。…(中略)…したがって、過去は作られる。過去との連続性は現在生きる人々が意図的に作ったものである。…(中略)…
 何度も繰り返すが、伝統や文化とはそういうディスコースや客体だけを指すのだろうか。1980年代始めのニューギニア高地で調査された習慣は文化ではないだろうか。人類学者の客体化はワグナーのいうように、イメージを固定化するものではなく、常に対象とその客体として創りあげた両者をすりあわせながら、より対象に近い客対物の創生を行っているのではないか。リネキンは見落としているが、ワグナーの指摘のように、自文化を意識し客体化するのは、他文化を意識し客体化するのと同時に起こる。しかし、それは創造に繋がる知的営為として、「理解」を前提としている。
(前川 1997:623−624 、cf.Wagner 1981)

そこで前川は客体化を「原理的客体化」と「操作的客体化」に区分した。「原理的客体化」とは、先の引用文の後半部分で述べたような「人類学者がフィールドワークを行い、まずカルチュア・ショックを受け、とまどいながらもそれらを制御し、別の文化を持つ人々との相互作用の中で当該社会に受け入れられる過程において、その社会と文化がこういうものであると自分なりに規範化してゆく、つまり文化を創造してゆく過程を指している」(前川 1997:620)。他方「操作的客体化」とは、「現在のコンテクストにおける過去の解釈、したがって過去の選択およびその現在における再文脈化」(前川 1997:621)のことであり、太田やリネキンの客体化と同意であると考えられる。しかし、吉岡が示しているように「それを定義した前川の意図に反して区分することは難しい」(吉岡 nd)。つまり、旅行者がある種のカルチャー・ショックを受けて、この社会とはこういうものかと規範化していっても、彼が元の社会に戻ると、その体験は選択され、差異を強調して語られ、再文脈化される。あるいは、人類学者の異文化での生活は「原理的客体化」となるが、彼の描く民族誌は、いささか差異を強調した「操作的客体化」ともなろう。すなわち、そう行った行為は「原理的客体化」でも「操作的客体化」でもあるのだ。そして、吉岡はその代替案として「政治的な力関係という切り口を前面に出すか出さないかという基準」で客体化を区分しようとしている。吉岡の言う「政治的でないもの」というのは、接触する異文化が政治的な権力をもっていようといまいと関係なく、その文化の人々がどのように異文化を摂取していくかの過程、つまり「存在論的にかつてなかったことを、よく知っている概念に取り込むこと」である。一方で「政治的なもの」というのは、客体化の行われる場が力関係のなかに埋め込まれたものであり、植民地行政官の客体化や、それに対抗するネイティヴの語りなどである。前者がより個人的で、曖昧なもの、つまり客体化の過程を「語る」ための他者を想定しないのに対し、後者は文化をモノとして捉え、そうすることによって何か別のもの(政治的要求、アイデンティティの確立、など)を得ようとするもの、つまり「語る」べき他者を想定していることになる。先述したように、「文化を語る」という行為が近代的なものであるなら、その近代性の特徴について考察することは、決して無駄な議論ではないだろう。

第4節 近代という時代とそれに抗する生活世界

小田も前川と同様に、リネキン、トーマスらの客体化論に警鐘を鳴らす。

ポストモダン人類学は、本物の伝統と発明された伝統との区別を否定することによって、発明された伝統を植民地状況における主体的で意識的な文化の創造として積極的に評価するのだが、その代価として、ホブズボウムらのマルクス主義的社会史には含まれていた近代におけるナショナリズムによるヘゲモニー批判、すなわちオリエンタリズムと同根の近代の知と権力によるアイデンティティの政治学への批判を犠牲にしている。
                             (小田 1996:841)

ここで言う、近代の知と権力とは、個と全体を本質的に結び付け、その全体の中の個を、差異や多様性を認めない均質なものにして序列化、あるいは支配しようとするテクノロジーのことである。そのことを小田は酒井の言葉を借りて「種的同一性」と称している(酒井 1996)。つまり、サイードが「オリエンタリズム」という言葉で指したものやアンダーソンが「想像の共同体」と呼んだもの、あるいはホブズボウムの言う「創られた伝統」によって導かれる共同体やアイデンティティは、すべてこの「種的同一性」に根ざしたものである。そして彼らが批判しようとしていたものこそ、この「種的同一性」に基づく近代の支配テクノロジーではなかっただろうか。だから、トーマスがフィジーとサモアの刺青における自文化の客体化と、植民地状況下でのフィジー人が自文化を「ケレケレ」と結びつけて客体化したことを同列に扱ったとき、この「種的同一性」という視点は、完全に絶たれてしまっているのだ。
 この「種的同一性」を批判すべき対象として位置づけたところで、自明性を身にまとった近代的な枠組みを相対化し、時に乗り越えようとするにはどうすればよいのだろうか。それは「オクシデンタリズム」ではないとサイードは言う(サイード 1993b:286)。また民族アイデンティティをフェティッシュ化し、イドラへと変化する「ナショナリズム」でもないという(サイード 1995:81)。なぜなら、それらもまた「種的同一性」に基づいたイデオロギーや運動だからである。後のインタヴューで、「つまり、彼ら白人はみな一方の側にいて、われわれはみな他方の側にいるということではありません。そうではなくて、知的で文化的な弁別や理解のレベルで機能し、まったくの敵対関係や対立関係とは異なった関係を確立する別のモードがあるのではないかと思うのです」と述べ、それを「世俗的解釈の政治学」と呼んでいる(サイード 1995:81)。そこでは、『オリエンタリズム』では明確にされなかったヴィジョンがある程度の輪郭を持って示されている。

世俗的生活とは、民族的アイデンティティの名のもとで構成されてきたものでもなければ、偏執狂的に〈われわれ〉と〈彼ら〉を区別する境界線を引くというまやかしの考えに対応して作られたものではけっしてありません。そのような線引きは、オリエントはすべて同じである主張する古きオリエンタリストのモデルを反復することになります。その裏返しとして、現在私達は、反動的なオクシデンタリズムに直面しています。西欧は一枚岩的に同一であって、それと対照的に私たちは堕落しており、世俗的で、不道徳であるなどとも言われてしまいます。世俗的解釈の政治学は、このような問題に対処する方法を提示しているのです。つまりそれは、私が今概略を示したナショナリズムの罠に陥らない方法です。そのためにはそれぞれ異なった複数の〈東洋〉と〈西洋〉を弁別し、それらがどのように異なった形で構成され維持されてきたかなどを認識する必要があるのです。
                          (サイード 1995:82−83)

 小田はこの「世俗的生活」を「生活の場」と呼び替えて、人類学が他者を記述できるのはこの場からであると提唱する。そこでは、人々の非一貫性や雑種性、断片性が近代に抗する「戦術」として活かされている。人々は統一の確固たるアイデンティティを持たないし、一個人だけに限っても、その場の雰囲気や自分の損得勘定だけで「豹変」する。生活の場におけるこういった生き方は、「種的同一性」に依拠する近代性を揺るがす存在となるのである。それをレヴィ=ストロースは設計図からものを作り上げる「技師の思考」に対する「ブリコラージュ」とよび(レヴィ=ストロース 1976)、セルトーは全体が見渡せ、力関係の計算や操作ができる「固有の場」を持つ「戦略」に対する「戦術」と呼んだ(セルトー 1987)。
 こうしてエリートでもなく、それに対抗する運動家でもない、生活世界に生きる「名もなき人々」に活路を見出す研究が、今日では最も盛んに議論されている(もちろん、人類学は産声を上げたときからそういう学問だったのであるが)。しかし研究者たちの間で足並みが揃っているかというと、必ずしもそういうわけではない。吉岡は、こういった「名もなき人々」の研究が重要であることを認めたうえで、研究者側の姿勢に苦言を呈す。まず、「名もなき人」の行為を意識的な抵抗の「戦術」と捉える姿勢である。「日常を生きる名もなき人々は、…(中略)…基本的に、それを「抵抗」と意識するわけでもないし、また自らの生活を「世界規模の支配システムに抑圧される」という意識で捉えているわけでもない」のである(吉岡 n.d.)。つまり彼らは、全体像が見えてないがゆえの単なる「戦術」なのであって、それを「支配システムに抗する」という言葉で修飾してしまうことは、研究者側の紡ぎ出す「物語」へとつながるのである。そして次に、研究者自身が名もなき人々と同じ立場に立つという姿勢を批判している。「分析者が名も無い人々である被分析者と同じ地平に立つためには、みずから科学的言説を用いる分析者であることをやめ、被分析者の生活空間で誰でもない者になる以外に道はない。そしてそれは不可能なことなのだ」(吉岡 n.d.)。そして名もなき人々を見据える方法論として、ニーダムの「多配列」という概念を援用する。類似によって結び付けられるその概念を用いれば、確かに名もなき人々のいいかげんさ、換言すれば複数のリアリティを記述することが可能である。だが、研究者にできるのはそこまでである。「こういったいいかげんさは、「種的同一性」に基づく近代のテクノロジーに抗しているようにみえる」という言明は許されない。吉岡の一番目の批判点と関連しているのだが、彼が「ブリコラージュ」ではなく「多配列」である理由はここにある。つまり、「近代に抗する」という視点は分析者の「物語」の視点であって、いいかげんさを見極める視点とは関係のないものなのである。
 この吉岡の立場は、二重の意味で危ういポジションにある。まず、観察者(人類学者)の「解釈」を含む記述が不可能かということ、つまり多様なリアリティが認識できるのは、中川の言う「規約文」だけかといういう問題である(中川 1995)。中川は次のように述べている。「民族誌家がおこなわなければならないのは、現地の人の解釈(それは解釈の解釈であってもよい)を記録にとり、それを(自分の解釈−たとえば「政治」「権力欲」−を入れることなく)描写し、その解釈による物語の「原理」を抽出することなのだ」(中川 1995:261、括弧内は中川の補足)。吉岡が行おうとしていることも、彼らのいいかげんさのあり方を記述すること、つまり「原理」の抽出なのである。吉岡は、リアリティはひとつであるという、本質主義的な旧来の民族誌的権威を批判し、リアリティは複数存在する(多声的リアリズム)という立場を支持している。

リアリズムを本質主義と捉えるのは、リアリティは一つであるとする立場である。しかし、リアリティは複数存在し、それは人によって変わると考える立場もある。後者の立場に立てば、思い込みや間違いも含めて、それはリアリティの一つであるということになる。しかし、個々のリアリティは他者に共有されてこそコミュニケーションが成立するのであり、共有されるリアリティがその社会の「真正」の伝統、すなわち人々の考える「正しいやり方」となりうるのである。しかし、共有されるリアリティは複数存在するのであり、その内一つが前面に出ていてもその次には別のものがとってかわるという具合に、それは自由に変貌する。その意味では、リアリティはいいかげんな基準で出来上がっていると言えるが、しかし、それはいいかげんなものとして認識されているわけではない点が、リアリティのリアリティらしさを作り出しているのである。
                                 (吉岡 n.d.)

 思い込みや間違いも含めた、個々人のリアリティというのは、「裏付け」の取れない「解釈」である。一方、それが他者と共有され、コミュニケーションの道具となった「正しいやり方」というのは、「規約」(あるいは「常識」「ルール」)と呼ばれる。このように、「規約」と「解釈」の結びつきは自由で恣意的なものである。
また彼は、多声的リアリズムによって書かれた『サンチェスの子供たち』の手法(「羅生門式手法」)を引き合いに出している。登場人物の解釈を規約によって描き出す民族誌は、いわば映画で言う脚本である。しかし、登場人物の解釈をすべて把握できるという、監督や脚本家の視点は、すべてを一望に見渡せる場、「アルキメデスの点」を設定していることにならないだろうか。あるいは登場人物の解釈を部分的にしか把握できていないというとき、その民族誌には、著者の選択性が働いている。つまりそれは民族誌家の「解釈」となる。
 人類学者が「規約」に基づいて記述を行うとき、知らず知らずのうちにそれは「解釈」の領域に入っているかもしれない。あるいは逆に、文化の「解釈」を行っていても、それが「規約」に変化することだってありうる。現地の人々の解釈は許されて、同じ規約を共有している人類学者の解釈が放逐されるべき理由は、一体どこにあるのだろう。解釈のリアリティが複数あると仮定したときに、そのひとつに人類学者の解釈が含まれないのはなぜだろう。なぜ、人類学者の記述が(逆説的に)特権化されているのだろう。
 そう考えたときに、吉岡が二番目に批判した点、つまり、人類学者と現地の人が同じ地平に立てるという視点が再浮上してくる。この視点の最も主張すべき点は、人類学者の語りが何ら特権化されないというところである。つまり、彼らの語りと同列に人類学者の語りが扱われるのである。もちろん、彼らの言うことは、いいかげんで首尾一貫していなくて、恣意的なものであり、それに対して、学者の言葉は一貫した論理に基づいていて、きちんとした主体が形成されているものであるという視点から見れば、名もなき人の言葉と、研究者の言葉の間には明確な区分がなされるべきであるという主張は、至極健全なものである。これまで述べたことは、小田の次のような主張に端的に現れるだろう。

 政治的批判のリスクは…(中略)…文化を語る主体や文化を客体化する主体といったものを首尾一貫した固定的なアイデンティティをもつカテゴリーとしか捉えてないという危険性であり、言説の政治性や文化の操作といった問題を主体の一貫した意図や意識からのみ捉え、語るという行為や知というものが定型的な首尾一貫性を持つという「モノマニア的な想像力」ないし啓蒙主義的な知の観念から遠ざかっていないという危険性である。
                             (小田 1996:847)

 これは現地の名もなき人について述べたものであるが、これがそのまま研究者にも適用できるかということである。小田や松田、関根など、「名もなき人と同じ地平に立つ」と宣言する研究者は、この言明を素直に受け入れるだろう3。一方、吉岡の論考から導き出される結論は、否定的なものである。つまり、近代のテクノロジーが極めて特殊なのは認めなければいけない。しかし研究者はそういった首尾一貫した知と言葉を駆使して、そして論理や理性に基づいて記述しなければいけないのであって、名もなき人々と同じ地平に立つことはできないのである。いいかえれば研究者とは近代の知に囚われた人のことを指すのである。
 本来、『オリエンタリズム』から出発した「種的同一性」批判、近代性批判の議論は、ここにきて名もなき人々のいいかげんさに活路を見出すに至ったのに、それを見極める学者自身の言葉が、オリエンタリストの用いる言葉、あるいはリオタールの言う、近代の特殊性を覆い隠すのに一役買っていた「メタ言語」のままであるのだ(リオタール 1986)。こう行った状況に、研究者自身のポジションを脱構築するためにも「彼らと同じ地平に立つ」という言明の意図はわからないでもない。
 そして、そのことは吉岡のポジションのふたつめの危険性と関係している。つまり、「名もなき人々」に焦点を当てる契機となった、「名がある人々」の依拠する「種的同一性」という、きわめて不自然なテクノロジーを見過ごすことになりかねないということである。それはちょうど、トーマスがすべてを「客体化」で語ろうとして「近代性」のいびつさに気付かなかったのと、同じ轍を踏むことになるのだ。逆に小田のように近代のテクノロジーを徹底的に批判するならば「多配列」では不十分なのであり、「ブリコラージュ」あるいは「戦術」でなければいけないのだ。
 こうした食い違いが、どのような方向性のズレになるのかはわからないし、また、さまざまな批判を消化した後の、「名もなき人々」の視点から描き出された民族誌が少ない以上、人類学全体に与える影響も計りえない。ただ、「種的同一性」に基づく近代のテクノロジーが、極めていびつな形態を取っており、異質な関係性であったことは認めなければならない。だから近代的なものとそうでないものを分けて考える必要性は十分にあると思われる。
 私がこの論考で行うのは、近年「語られる文化」として考察されてきた「カーゴカルト」という現象を批判的に再考察し、結論として、近代的な枠組みを持たない、つまり「支配文化の言説に包摂されながらも、その包摂を逆手にとってその言説を脱構築していく戦術」(小田 1996:855)である「生きられた文化」としての現象であったことを証明しようとするものである。


第2章 カーゴカルト

 18世紀後半から19世紀中頃にかけての白人が流入したメラネシアにおいて、彼らを驚かす運動が起こった。そしてフィジー、ヴァヌアツ、パプアニューギニア、ソロモン諸島など、メラネシアの各地から同様の運動が次々と報告された。霊的な力を持つ者や預言者によって導かれるその運動は、細部に多様性は見られるものの、それでもある種の特徴を共有している。ある日、死んだ祖先や親族、仲間たちが、海の向こうから大量の富(カーゴ)を携えて帰って来るという信念。そのための港の建設や空港・滑走路の整備。豚の屠殺にみられる、蓄えていた財の放蕩。カーゴを入手するための儀礼的な手段。反白人の思想。身体の痙攣。この運動を目の当たりにし、持て余した白人たちは、後にこの運動をこう名付けた。「カーゴカルト」。

第1節 カーゴカルトの誕生と狂気としての語り

 春日によると、白人によるカーゴカルトの語り口には、時系的に見て4つのタイプがあるという(春日 1997)。まず「狂気」と捉える段階。次に「未開人の理性」の段階。その次が「カーゴイズム」。そして最後に「脱構築論」である。ここでは春日にしたがって、順次その学説を追っていくことにしよう。
 第一のタイプは、この運動を「精神疾患」「狂気」と捉える、最初期の頃の語り口である。
リンドストロームによると、そもそも「カーゴカルト」という語が、最初に文書上に記されたのは『パシフィック・アイランズ・マンスリー』(以下、『PIM』と略)誌の1945年11月号であるとされる(Lindstrom 1993a:15)。寄稿したのは、太平洋戦争下での軍事政府(ANGAU:Australian New Guinea Administrative Unit)で准尉を務めていたノリス・バードである。「ニューギニア原住民の間に戦後の突発暴動の危険はあるか?」と題された記事には、次のような内容が記されている。

 宗教的な平等の教えとそこで育まれる不正に対する意識から直接起こったのが、一般にヴァイララ狂信やカーゴカルトとして知られるものである。狂信については様々な説明が進められているが、パプア政府の人類学者故ウィリアムズは広範な研究を通じて、主な原因は宗教的教えの消化不良であると結論している。この狂信は特定地域に限られるものではなく、地域言語や慣習が大きく異なる諸部族の間に見られる。あらゆる場合にこの狂信は同じ形態を示す。すなわち、障害をきたした一原住民がずっと以前に死んだ親族の訪問を受け、その親族が彼にカーゴを満載したすごい数の船が祖先によって送り出され、ある特定の村や地域の原住民に利益をもたらすことになると告げる。しかし白人は大変に狡猾で、どうやったらこの船とカーゴを横取りして自分で使えるかを知っている。
             (Bird 1945:69、Lindstrom 1993a:15−16からの引用)

 それまでウィリアムスが用いて有名になった「ヴァイララ狂信」をはじめ、「ヒステリック」「擬似宗教」「騒動」「ローカル・アジテーション」「宗教運動」など多くの呼び名があったこの種の運動も、バードの記述の頃を境として「カーゴカルト」へと収斂していくことになる。このことは人類学の内部でも顕著に見られ、メラネシアの社会・宗教運動を指す言葉として、「狂信」よりも、学術的、政治的に無難な用語として用いられるようになったが、そこに含まれる意味合いは、以前とそれほど変わるものではなかった。
 また、リンドストロームらも指摘しているが(Lindstrom 1993a:30、棚橋 1996:137)、「カーゴカルトとして知られている」という記述がある以上、その時点においてある程度の知名度があったものと思われる。これ以前の記述が残されていない以上、カーゴカルトがそれまでどのような意味合いで用いられていたのか詳細には分かり得ないが、少なくともこのバードの論考の目的は、戦後の混乱期における原住民の管理を強化するよう行政側に警告するとともに、「カーゴカルト」とされる現象の原因を宣教師に押し付けるものであった。そう言った意味で、カーゴカルトは政治的な策略の中で産声を上げたことになる(cf.Buck 1989:158)。
 このバードの記事以降も、『PIM』誌上でカーゴカルトが論じられることとなるが、その主要なテーマは「カーゴカルトの原因は誰にあるか」であり、行政、宣教師、入植者の間で、その責任が押し付け合うことになった。

 「カーゴカルト」を生み出したのは、宣教師ではなく、原住民の信用を得られなかった白人たちである。明快な例を示そう。パール・ハーバー以前、マダンの住民は、敵の侵入から守られることを約束されていた。しかし、日本軍がマダンに最初に侵攻した後、その保護を約束した行政官を含め、すべての行政が撤退してしまったのだ!われわれは、敵と直面した際の行政側の逃げる権利というものを論じようとしているのではないが、約束を破られた原住民は、一体どうなったのだろうか。…(中略)…バード氏は、ニューギニア原住民の間で突発暴動が、この先起こりうる危険性を指摘しておられる。もし、非キリスト教の白人たちが、ニューギニアのジャングルで不正な行為を続けるならば、同じような危険性は十分にあると私は考える。
             (Inselmann 1946:44、Lindstrom 1993a:20からの引用)

 その後1950年代以降、情勢が安定すると、カーゴカルトの記述は、その原因や起源を問うものから、行為の異常さや奇妙さを例示するものへと移行する。そうすることで、「不安定で複雑な原住民たちには行政府が必要である。まだ植民地の状態が続くだろう」(Lindstrom 1993a:24)という言説を維持することができたのである。

第2節 未開の理性としてのカーゴカルト

 第2のタイプは、「現地人の理解」を指標に掲げる人類学の定番とも言えるものである。つまり「第一に、メラネシア人は被植民地支配にある様々な社会=経済的問題を「彼らなりに」合理的に解決しようと試みている。第二に、メラネシア社会の思考体系においては、固有の宗教的世界観が中心的役割を果たし、そこには千年王国論―神話的な夢想が内在している。第三に、この二つの社会=文化的要因が異文化間接触におけるメラネシア固有の反応形態、つまりカーゴカルトの出現を可能とする条件を可能とした」(棚橋 1996:139)という前提のもとで、カーゴカルトは読み解かれていくことになる。

 われわれはこれまで、不安定で予測不可能な特徴を持つヨーロッパ経済とその政治秩序が原住民の心に混乱をひきおこしたことを学んだ。また好況とか不況といった経済の変動、それに伴う利潤の減少、ドイツ、オーストラリア、日本、イギリス、オランダ、フランスといった植民統治政府の交代、共同統治とか信託委任領という多様な統治形態、世界大戦による破壊や混乱といったような現象を見てきた。こうした社会的背景や土着宗教の存在を考慮に入れると、千年王国運動は現実からの非合理的な逃避とか現在から過去への逆行としてよりは、むしろ合理的には説明できない矛盾に満ちたヨーロッパの支配秩序に対する、原住民の極めて合理的な解釈ないし批判だと考えることができよう。
                        (ワースレイ 1981:316−317)

 運動は、西欧との接触から直接的ないし間接的に生じた社会的・経済的状況に対して、適応不可能な人々のあいだに生じた。運動は単に受動的な反応ではなく、また圧迫されていると感ずる人々の盲目的な衝動でもない。運動は合理的な解決策とは決していえないが自らの制度を改革したり、新しい圧力に耐えるための人々の創造的な試みである。最も広い意味での運動の目的は、より充実した生活を獲得することである。
              (Firth 1953:815、ワースレイ 1981:317からの引用)

 こうした前提のもとでワースレイ、バリッジ、ローレンスらが優れた民族誌を次々と発表していった(ワースレイ 1981、Burridge 1960、Lawrence 1964)。
 そしてカーゴカルトを時間的・空間的に、より大きなコンテクストの中で解読しようとしたのも、この時代の語り口には(特にワースレイには)顕著な特徴である。彼らにとってカーゴカルトは、ポリネシア、ミクロネシアといった他のオセアニア地域はもちろん、アフリカ、南北アメリカ、中国、ビルマ、インドネシア、シベリアなどにも起こった、千年王国運動のメラネシア版として位置付けられる。

 私は、人々が超自然的な至福の到来を期待し、その準備をするような運動に、「千年王国的(ミレナリアン)」という形容詞を冠したい。千年王国という用語は従来一千年の期間を意味するものであったが、ここでは超自然的な力によって千年王国が実現されると予期する運動や、その実現のためには人間の活動が不可欠だと予見する運動に対して用いたい。…(中略)…本書では、主に、近い将来に千年王国が実現すると信じた人々の運動に注目する。
                         (ワースレイ 1981:19−20)

 こういった種類の運動は世界各地に見られる。中世ヨーロッパの千年王国カルト、中国における太平天国の乱、スーダンのマフディヤ運動、アメリカンインディアンのゴーストダンス、アフリカ、東南アジア、ポリネシアにおける様々なカルト、現代の産業化されたアメリカにおける空飛ぶ円盤カルトなど。
                            (Lawrence 1964:1)

 そして運動を時間軸のなかで発展論的に捉えることで、植民地行政府に対する政治運動からナショナリズムの形成、そして分離独立へと向かう直線の上に位置づけられる傾向があった(ワースレイ 1981、Worsley 1957、Guiart 1951)。

 …ある種族は分裂しつつあるが、ある種族はより高度な社会組織を形成するために連合しつつあることから、われわれはメラネシアにおいて国家形成の初期の段階を見出す。そのプロセスは伝統的な文化遺産とこの地域に進出した新しい政治的経済的勢力双方の制約を受けているが、随意に存在していた政治的境界の制約を従来ほど受けなくなりつつあることも事実である。地域の未来を形成する新しい力は、村落、氏族、種族など従来の政治的境界を超越しようとしている。…(中略)…暫定的にせよ地域的一体化を認めることができるなら、それはその地域が、私の述べる国家形成の「原初的」、過渡的段階を示しているといえよう。…(中略)…私は積極的な千年王国運動の存在はその地域の政治的・経済的発展がある段階に達していることを如実に示していると思うが、やがて時代遅れとなって消滅してしまうか、その政治的主張を弱めていく傾向があると思う。将来、民族主義者が台頭すれば、おそらく千年王国運動の指導者たちの力は失われていくであろう。
                          (ワースレイ 1981:331−332)

 また、ローレンスやバリッジには、人類学の定番ともいえる、文化や社会の内部からカーゴカルトを描き出そうとする傾向が強かった。

 これらの(カーゴカルトの動機、手段、機能といった問題に対する)解答は、単にカーゴカルトの運動自体を描写するだけでは得られない。人々の伝統的な社会―文化的背景とヨーロッパによる占拠との相互作用によって、運動が生み出される総合的な背景を注意深く分析することが必要とされているのである。
                  (Lawrence 1964:6、括弧内は筆者の補足)

 こうしたエミックな視点は奇妙な等式を生み出すことになり、そしてそれは後に大きな代価を支払うことになってしまう。つまり、カーゴカルトがメラネシアの人々にとって日常的でノーマルな現象であるなら、日常的でノーマルなメラネシアの人々はカーゴカルティストだということになってしまうのである。これは皮肉にもワースレイがカーゴカルトをメラネシア文化に還元せず、彼らにとっても非日常的な現象であると捉えることで、カーゴカルティストでないメラネシア人を逆説的に想定しうることと対照的である(Lindstrom 1993a:54、棚橋 1996:145)。
 「われわれ」とは本質的に異なる「他者」の想定と、「メラネシア=カーゴカルト」の図式。カーゴカルトの語り口、第3のタイプは、この「メラネシアの諸社会に通底する独自な歴史観と現実感」(春日 1997:130)を模索するものである。

第3節 メラネシアの本質としてのカーゴイズム

「人間は、それぞれが独自の価値を持った異なる文化に所属しており、一つの文化の価値や認識の基準を別の文化に単純に当てはめて理解することはできない」(浜本 1996:71)という考え方を文化相対主義と呼ぶならば、1960、70年代のカーゴカルト研究は、この考え方が細部にまで染み込んだものだといえるだろう。エスノセントリズムからの脱却をひとつの目標に掲げる人類学は、もはや彼らの行動を「野蛮」、「狂信」などと呼ぶことはなくなった。「彼ら」の文化は、「われわれ」とは違った原理で動いており、「われわれ」が一見すると奇妙に思える現象も、「彼ら」にとってはごく当たり前なことなのだと考えられた。
「われわれ」とは違った思考様式を名付けなければいけないと使命感を感じた西洋の人類学者は、「彼ら」の思考を「カーゴイズム」、あるいは「カーゴ思考」と呼ぶことにした。定義の仕方は研究者によって様々だが、例えば「カーゴイズムとは、特にヨーロッパの富や文化的優越性のような、ヨーロッパ文化に対する有意味な解釈を与えてくれる作業に適用される、メラネシアの世界観に他ならない」(Harding 1967:21)とされ、カーゴ思考とは、「物質的な豊かさが、ヨーロッパ人の「本当の知識」を習得することで得られるという考え方」(Wetherell and Carr-Gregg 1984:201)だとされる。
 これらが示すのは、メラネシアの世界観がいかに研究者の属する社会のものと異なるかということであり、人類学者はそのメラネシアの世界観からカーゴカルトを観察し、その社会において、その行為は「正常」であるということを報告しなければいけなかった。

 私がカウンの人々の研究で主張したいことは、カーゴを呼び寄せたり、社会を変容させようとするカーゴ運動の手段を十分に理解するには、社会組織、儀礼の過程、時間や社会の移り変わりといった土着における暗黙の前提―それはわれわれ西洋社会のものとは大きくかけ離れている―から見てゆくことだけであるということである。
                             (Errington 1974:256)

 しかし、上述したように、彼らの行動が正常であれば、彼らは皆、カーゴを追い求めているのであり、リンドストロームが揶揄するように、「今や、全てのものにカーゴイズムが染み込んでいる。すなわち、メラネシア人の哲学はカーゴイズムであり、メラネシア人の世界観はカーゴイズムであり、メラネシア人の認識はカーゴイズムであり、メラネシア人の心理はカーゴイズムなのである」(Lindstrom 1993a:62)。
 そして、「われわれは原住民の荷物や技術や工芸品を見てそれを「文化」と呼び、彼らはわれわれの文化を見てそれを「カーゴ」と呼ぶ、という点で、二つの言葉はある程度お互いの「鏡像」になっている」、あるいは「おそらく人類学は「カルチャーカルト」と呼ばれることになるだろう。なぜならメラネシア人にとってのカーゴ(kago)とは、われわれの「文化」という語と、まさに解釈上の対応語になっているからだ」(Wagner 1981:31、括弧内は筆者の補足)とワグナーが言うとき、カーゴは文化一般と並置され、彼らの日常性、正常性が強調されるものの、そこでは植民地状況や、宣教師の影響、戦争状態、白人との接触、西洋文化の大量流入といったものが矮小化されている。植民地状況から切り離され、「カーゴカルト」のなかに本質的に閉じ込められたメラネシアは、その後、「カーゴカルト文化」としてひとり歩きをするようになる。例えばそれはアメリカのタブロイド誌のなかであり、冒険小説のなかであり、旅行パンフレットのなかである(Lindstrom 1993a)。そこではメラネシア人は、「われわれ」とは違った「奇妙な」行動をとる人々として描かれている。人類学が育て上げた「カーゴカルト」という言葉は、果たして適切な表象方法だったのだろうか。メラネシアを他の眼差しで見ることは可能なのだろうか。こういった問題群を考えるのが、近年現れた4つ目の語り口である。

第4節 本当は存在しなかったカーゴカルト

 1980年代後半から、カーゴカルトを違った角度から再検討する動きがみられるようになった。それは主にカテゴリーとしての「カーゴカルト」の有効性を再検討するものである。そこには、互いに関連しあうふたつの方向性がある。ひとつは「カーゴカルト」というカテゴリーに含まれる事例の恣意性であり、カテゴリー自体の曖昧性を批判するもの。もうひとつは、その語の系譜を追い、その背景に見え隠れする西洋の権力性を批判するものである。
 マクドゥエルは、レヴィ=ストロースの「トーテミズム」の議論(レヴィ=ストロース 1970)を引き合いに出しながら、「カーゴカルト」というカテゴリー自体が実は曖昧なものであることを示した。

トーテミズムなど存在せず、それは人々が自分たちの周囲の世界をいかに分類していくかの事例に過ぎなかったのと同様に、カーゴカルトというものも存在せず、それは人々が世界の変化をいかに概念化して経験していくかの事例にすぎないのだ。
                             (McDowell 1988:122)

 彼女は「カーゴカルト」というカテゴリーを作り上げ、それを宗教的、千年王国的運動として捉えることは、それぞれの運動が別々の文化的コンテクストで起こっているということを見過ごしてしまうと批判した。そしてその文化コンテクストに沿って運動を見ると、それは「社会運動」であったり、「経済活動」であったりするのだ(McDowell 1988:122−123、Kaplan 1990)。
 バックやリンドストロームは、植民地状況の中で、行政官や人類学者が他者を表象し、ヘゲモニーを確立するための手段として「カーゴカルト」を創出したのだと批判した。

 ヨーロッパ人はカーゴの要素を、それがないところに想像し、それがあるところでは誇張し、パプアニューギニアの全ての活動をカーゴという用語の中へカテゴライズし、分析の対象として「カーゴカルト」を作りあげたのだ。
                               (Buck 1989:158)

 そして、その手法はサイードが『オリエンタリズム』のなかで行ったものと同じものである。

 かつてヨーロッパの植民地主義者たちは、その支配を認め、正当化するための発明品としてカーゴカルトを作りあげ、語りあげた。陰謀理論はエドワード・サイードの『オリエンタリズム』の思考へと至る。カーゴカルトはそれ自体存在しないのである。むしろカーゴカルトはヨーロッパ人自身の暗い鏡の中に現れるのだ。つまりカルト的他者とは、帝国側自身の姿なのだ。
                            (Lindstrom 1993a:7)

 このように近年では、オリエンタリズム批判と足並みを揃えながら「カーゴカルト」というカテゴリー自体の解体、脱構築が行われている。人類学者が育て上げた「カーゴカルト」を自身の手で葬り去るという行為は、果たして人類学者にとって免罪符となりうるのだろうか。

第5節 カーゴカルト再考

 カーゴカルトの誕生から、人類学がそれをどう扱ってきたかを概観し、ついには「カーゴカルトは存在しなかった」という言説まで辿り着いた。実はこうした学説史の背後には、他者をどのように扱い、記述してきたかという、人類学全体の縮図が綿密に染み込んでいる。すなわち、他者を「未開の野蛮人」と位置付けるところから始まり、文化相対主義の後ろ盾を得て、西洋自身のエスノセントリズムを批判し、彼らを「われわれ」とは違った「彼ら」として認める。その後オリエンタリズム批判を経て、実はそれが極度に他者の他者性を強調し、本質化することにつながっているのだという批判に行き着く、という流れである。そして近年に至っては、カルチュラル・スタディーズや文芸批評など他の領域と関連しあいながら、西洋の植民地支配を容易にするような言説を批判し内省する動きが、カーゴカルト研究でも、人類学全体においても、大きな位置を占めている。しかし、この批判や内省は本当に正しい方向に私たちを導いているのだろうか。
「カーゴカルト」というカテゴリーの解体には、上述したようにふたつの方向性がある。まず恣意性の問題について。例えばマクドゥエルの理論はこうである。それぞれの文化や社会には独自の世界観があり、「カーゴカルト」と呼ばれる現象はそのほんの一角に過ぎない。その証拠に、同じ文化においては他の現象も、同じ世界観に根ざしているがゆえに、似たような目的や手段が表出することがある。世界観の違う他のさまざまな文化から、その一握りの類似点だけを摘出して「カーゴカルト」というカテゴリーを作り上げることは批判に値する。人類学者の見るべきものは、そのわずかな表現ではなく、それが根ざす、そしてすべての現象が根ざす世界観や価値観であり、文化的・社会的なコンテクストなのである(McDowell 1988)。いかにも正しい指摘のように見える。そしてこの「これは一見「〇〇」というカテゴリーで扱われる現象のように見えるが、その文化(社会・国家)独自の世界観や文化的コンテクストを詳細に観察すれば、実はそれは別のカテゴリーのものであったり、もっと複雑な様相を呈しているのだ」というレトリックは、実際に人類学ではよく耳にするものである。その「〇〇」は、例えば「民族問題」であったり(春日 1994)、「民主主義」(橋本 1988)であったり、「国民国家の形成・統合」(吉岡 1994)であったりする。しかしだからといって、これらのカテゴリーが意味を成さず、「それらのカテゴリーは存在しないのだ」と言い放つことは、荒唐無稽だというほかない。つまり別の視点があるということと、カテゴリー自体が意味を成さないということは全く異なる問題であるのだ。そして逆に言うと、「カーゴカルト」にも見えるし「経済活動」にも見える現象を、上述したような理由で「カーゴカルト」と呼んではいけないのならば、同じように「経済活動」とも呼んではいけないのである。だが解体されるべきは、「カーゴカルト」だけなのである。この言葉だけが大急ぎで解体されていく背景を考えると、やはり「カーゴカルト=野蛮・未開・非理性」という大前提が、一部の人類学者の間に未だ深く染み付いていると考えざるを得ない。
 別の角度から見てみよう。カーゴカルトと同様、西洋の言説の中でメラネシア人の「他者性」を強調してきたもののひとつに「食人」がある。栗田は植民地言説批判に対して次のように反論する。

 植民地言説批判自体が、相も変わらず「食人=野蛮」という西欧の自民族中心主義を強化し続けていることに全く無自覚なのは、一体どうしたことであろうか。…(中略)…結局、アレンズ(食人は西洋の言説の中にのみ存在し、事実としては存在しないと主張した人類学者)やポストコロニアル研究の議論は、西欧世界の論理にとらわれた一人相撲にすぎないのである。
                   (栗田 1999:144―145、括弧内は筆者の補足)

 これと同じ構図をカーゴカルトに適用することは、果たして不適切なことだろうか。つまり「カーゴカルト=野蛮」という大前提があるからこそ、必死になってそれは「存在しなかった」と取り繕わなくてはならないのである。西洋のエスノセントリズムは、カーゴカルトが産声をあげた時以来、連綿と受け継がれているのである。
 次に言説と権力の問題について。確かに、言説のなかに見られる権力の問題を批判することは、『オリエンタリズム』と同じように賞賛に値する。ただし『オリエンタリズム』が受けた批判も同じように受けなくてはならない。例えば現実問題として、「西洋/東洋」という区分自体が私たちの日常から消えないのと同じように、「カーゴカルト」という言葉も西洋ではそれほど珍しいものではないくらいにまで普及しているし、そして今や「カーゴカルト」はメラネシアへと逆輸入されるに至った。そこでは彼ら自身が「カーゴカルティスト」として名乗ったり(Lindstrom 1993a、1995)、また侮蔑的に用いることで、中央政府に対する地方エリートの政治的地位を保持したりするのに用いられたりしている(Buck 1989)。こういう状況を考えると、「カーゴカルトは存在しない」ということ自体にどれほどの意味があるのだろうか。近年では、彼ら自身の語りと、前章で述べたような「伝統の創造論・政治論」とを関連させて論じられることが多くなった。つまり運動の動態に焦点を当て、メラネシアの人々自身が西洋の言説を流用し、自分たちを同定していく動きに焦点を当てるのである(春日 1999、Carrier 1992)。カーゴカルトは彼らにとっての自文化の客体化であり(Otto 1992)、オクシデンタリズムであり(Lindstrom 1995)、カストムの系譜なのである(Lindstrom 1993b)。そして、そうした運動の動態を考察する際によく引用されるのが、パプアニューギニア、マヌス島周辺で起こったパリアウ運動である。次章ではこの運動の過程を追うことにする。


第3章 パリアウ運動

 マヌス島(Manus IslandあるいはGreat Admiralty Island、以下「本島」とする)を中心とするアドミラルティ諸島は、ニューギニア島東北部、現在のパプアニューギニアの北部に位置する。現在はパプアニューギニア20州のうち、マヌス州に含まれている。マヌス本島は東西に約50キロ、南北に約30キロの大きさがあり、その周囲には無数の小島が点在している。
 第二次世界大戦が終結し、混乱と不安が社会に蔓延していた1940年代後半、この地域にひとつの「運動」が起こる。いや、実際には似たような運動が各地に散発していた。それをひとりの男がひとつの大きな「運動」へと収斂させていったのだ。男の名はパリアウ・マロート(Paliau Maloat)。後に30以上の村落と数千人もの人間を動員する「パリアウ運動」と呼ばれる「運動」のリーダーである。

第1節 マヌス・運動の背景4

 1940年代後半、マヌス地方の人口は13000人とも15000人とも言われた(1980年センサスでマヌス州は25844人、Carrier and Carrier 1989:30)。彼らはマヌス(the Manus)、マタンコール(the Matankor)、ウシアイ(the Usiai)という3つのグループに分けることができる。
 マヌスは漁猟民であり、主に本島の南海岸部に居住している。人類学者シュワルツが現地調査を行った1953年当時、マヌスの村は10村存在し、そのすべてがパリアウ運動に加わっていた。彼らは統一した政治組織を持たないものの、文化的にも言語的にも似通っている。他の二つのグループよりも優位な地位にあるのは、諸島間の貿易や儀礼交換(主に貝貨や犬の歯)を独占して行ってきたからだとされる。
 マタンコールは、主に本島北側などに住み、果物や根菜類を耕作する一方で漁猟も行う。また彫刻やカヌー作りなどの技術に優れている。しかし、それらの交易という点においては他のグループに依存している所が大きい。
 人口の最も多いウシアイは、本島内陸部に居住する。彼らは農耕民であり漁猟は行わない。交易という点ではマヌスに依存することが多いが、マヌスのいない本島北部の海岸沿いの村では、マタンコールと直接交易を行う5。
 西洋と接触する以前、マヌス地方には大きな政治組織は存在せず、数リネージから成る村落が最も大きいものであった。こうしたリネージ間あるいは村落間では、諍いや戦争が絶えず行われていたが、同時に上述したような交易活動もこのリネージや村落を単位として盛んに行われていた(Otto 1991、Mead 1956)。
 マヌス地方と西洋との接触は16世紀まで遡るが、文書上に残っている記録としては、1616年が最も古いものとされる。その後、貿易、捕鯨、ブラックバーディングのためにスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス、フランスなど多くの西洋人がたびたびこの地方を訪れることとなる。1870年代後半にこの地を訪れた西洋人の記録には、鏡、ナイフ、斧などの西洋的なモノが、西洋人との貿易を通じて彼らが手にしていると記されている(Otto 1991:82−83)。
 1884年にニューギニア島の東半分を南北に分割し、北側をドイツが、南側をイギリスが占有した。それによってマヌス地方もドイツの勢力下に置かれることになり、1912年には警察や地方行政が置かれ、またプランテーションも作られた6。1914年には、オーストラリアがドイツ領ニューギニアを接収し、1921年には国際連盟委任統治領になる。この時期、現地人行政官がそれぞれの村に配置された。ルルアイ(luluai)(あるいはクケライ)は村の長として、トゥルトゥル(tultul)はルルアイ補佐や通訳として、ドクターボーイ(doctor boy)は主に医療、衛生係として、それぞれオーストラリア政府より任命された。
 キリスト教が最初にこの地方にやってきたのは1885年、ウェズリー派のR.H.リチャードだとされるが、目立った布教活動は行わなかった。実際に布教が始まるのは、1913年にパピタライ(Papitalai)にセトゥルメントが建てられてからである(Otto 1991:106)。ローマカトリック、ルター派エヴァンジェリカルミッション、セヴンス・デイ・アドヴァンティストなど多くの宗派が布教のためにこの地を訪れた。始めのうちはキリスト教にあまり関心を示さなかった彼らであるが、1920年代後半から改宗者が増加し、第二次大戦が終わる頃にはほぼ全ての島民が改宗をしていた。
 新しい政府ができ、宗教が普及し、彼らの伝統的社会は大きく変容した。それまでのような散発的な戦争は中断され、祖先崇拝や性的な踊りは禁じられ、村落間での交易のシステムにも大きな影響を与えた。だがそれ以上に、「第二次世界大戦以前で、土着の経済に最も大きなインパクトを与えたのは、間違いなく契約労働というシステムによってもたらされたものである」(Otto 1991:132)。第二次大戦前後から契約労働が盛んに行われるようになり、それによって西洋のモノ、通貨、情報が大量に流入するようになったのだ。1928年にフィールドワークを行ったミードは、木製の器が作られなくなり、代わりに鉄製の容器が用いられていると記している(Mead 1930:231)。またオットーも「マヌスの人々は、自分たちの製品に固執することはなく、より機能的で、丈夫で、色鮮やかな輸入物の代用品があれば、すぐにそちらを選ぶようだ」(Otto 1991:133)と記している。若者は、賃金を得るため、そして年長者や伝統的社会・経済システムから逃れるため、自ら進んで低賃金の契約労働に従事した(戦前の契約労働の人数については表1、表2参照)7。しかし数年の契約労働を終えて村に帰ってくると、それまでに得た金やモノは、親族たちによって分配され、それまでの経済システムの中へと吸収されていくことになる。金品が分配されることで若者たちはそれなりに地位や信用を得ることができたのだが、当然、伝統的社会に不満を持つ者や、契約労働から帰ってこない者も多数いた(Otto 1991:138、Mead 1956:73、Schwartz 1962:224)。契約労働はプランテーションや政府の機関などへ出向くことが多かった。表からも読み取れるように、マヌスの契約労働者たちは、マヌスを出ることは比較的少なかったが、それでもマヌスには他の地域から労働に出向いてくる者も大勢いたし、少数派のニューギニア本島のラエやフィンシュハーヴェン、ニューブリテン島のラバウルなどに出向いた若者たちは、そこで言語や習慣の違う者たちと出会った。そして彼らは「「白人たちのやり方(way belong white man)」とは異なった「ネイティヴのやり方(way belong native)」という概念に収斂するようなメラネシア文化の類似性というものを築き上げた」(Schwartz 1962:224)のである8。パリアウ自身が現地人警察で勤務していたのをはじめ、散発する運動のリーダーたちの多くに、こうした外部世界との接触があったことは特筆すべき点である。
 その後、太平洋戦争が勃発し、マヌスに日本軍が侵攻してくるのだが、ここで重要なのは、日本軍の影響よりもむしろ、それを駆逐したアメリカ軍の存在である。戦後、100万人とも言われるアメリカ兵がマヌスにやってきた。巨大な戦艦が港を往来し、彼らが見たこともないような倉庫が建設され、そこに無数の物資が運び込まれた。アメリカ兵は、それまでの支配者とは違い、寛容で友好的だった。しかし彼らにとって何より衝撃だったのは、そこには白人に混ざって自分たちと同じ黒人がいることだった。黒人の上官が、白人の下級兵士に対して命令を下す場面も見うけられた。それは、「マヌスの人々にとって、マスター(master)とボーイ(boy)を分けている境界線が、消えていくように思われた」(Schwartz 1962:226)出来事であった。
 第二次大戦を前後して、新しい社会を築き上げようとする動きが、この地方でたびたび見られた。それらはきちんと組織立てられることはなく、影響が及ぶ範囲も、リーダー自身の村落を超えることはほとんどなかった。ここではそのいくつかの事例を示そうと思う。

A ナポの事例
 ナポ(Napo)は本島ではなくムブケイ(Mbukei)9の出身である。10代のはじめに村を出て、白人のもとで5年間働いた。その後現地人警察(Native Constabulary)に入隊し、ニューギニア本島、セピック地方で3年間働く。その後村へ帰ってくることとなるが、その時ナポは23歳、1937年のことである。ただ、彼は村に帰ってくることに気が進まなかった。犬の歯や貝貨を蓄えるだけの父親たちの生活に、どうしても馴染めなかったのだ。そこで彼はひとつの改革を試みる。結婚に関する富の交換を中止しようと提案したのである。だが保守的な年長者からはもちろん、宣教師からも反対にあった。ナポは再び村を去ることになる。そして中央セピック地方で警察官としてオーストラリア人とともに働くことによって、行政側の考えを身につけていくことになる。1940年にムブケイに戻ってくると、彼は新しい生活を村人に説き始める。今度はより強烈な批判が必要となった。

 われわれの文化には意味がない。われわれが行っていることというのは考えを迷わすものであり、それゆえに神についてきちんと考えることができない。全てはわれわれを滅ぼしてしまうのだ。われわれはいつも怒りを抱いている。もしわれわれの祖先の文化を変化させて、われわれ自身の文化を築き上げることができたら、もっと良くなるだろう。全ての白人は店を持っていて、われわれがそこで何か買うときに、犬の歯などが使えないのはなぜなのだろうか10。
                            (Schwartz 1962:229)

 教会に対し宗教的な運動でないことを説明し、また若者に積極的に説きつづけることで、ある程度の支持は得られたものの、第二次大戦が激化するにつれて、彼の試みは次第に目立たないものになっていった。
                  (Schwartz 1962:228−230、Mead 1956:215)

B ルンガットの事例
 ルンガット(Lungat)は、ランブジョン島(Ranbutjon Island)11のンリオル(Nriol)の出身である。彼はナポらと同様に、自分が村のリーダーであることを主張したが、彼の特徴として、夢を媒介にした預言を行ったことである。戦争が終わってンリオルに戻ってきたとき、彼はまだ20代の前半だった。戦後すぐ、彼は兄弟を二人亡くしてしまう。そのことで彼は悲しみに暮れ、ずっと彼らのことを考えていたと言う。

 寝ていると、夢を見た。トーマス・シオン(彼の兄弟)の夢だった。彼は天国にいた。そして旗を持っていた。旗を持ったまま、雲の中を東の方から降りてきた。天国から直接来たのではなくて、東の方から彼はやって来たのだ。彼は私のところへまっすぐやって来て、次のように言った。「ルンガット、よく聞きなさい。お前も知っているように、私たち二人の兄弟は死んでしまった。ンリオルの多くの男たちも死んでしまった。彼らは(理由もなく)ただ死んでしまったのではなく、宗教のために死んだのだ。ンリオルにやってきて、われわれや、ムブケイにまで及ぶマヌスの全て村に示された宣教師たちの宗教、その始まりはンリオルにあるのだ。われわれはそれを正しく得ることができなかった。正しく扱うことができなかった。だから全ての村で、多くの者が死んでしまったのだ。ンリオルはほとんど壊滅状態にある。よく聞きなさい。明日、お前が父親たち、ポカウとポコウのところへ行って、こう伝えるのです。ンリオルの男たちを集め、過去の慣習を全て捨てるよう言いなさいと。それらを投げ出すようにと。昔のやり方、諍い、祝宴、儀礼交換、それらの全てをである。われわれ祖先の文化を、お前たちは完全に失う。しかしそれらを一掃すれば、正しい道が開かれるだろう」12。
                 (Schwartz 1962:235、括弧内はシュワルツの注釈)

 彼は父親たちのそのことを話したが、彼の話を信じようとはしなかった。そして同じような考えを持つ者を探すため、村を去っていった。
                           (Schwartz 1962:235−236)

 他にもブナイ村のサモル、パトゥシ村のマノイ、ペリ村のボニャロ13、ラハン村のカムポ、モウク村のルカスらによって、同じような試みが行われたが、それらはどれも同じような結末を迎えた。彼らは後にパリアウと出会い、運動に参加する者や、ライヴァルになる者などさまざまであったが、いずれにせよ、ある程度成功した運動を考えるならば、パリアウという人物を待たねばならなかった。

 本島の南に浮かぶバルアン島(Baluan Island)のリパン(Lipan)という村で、1907年頃パリアウは生れた14。しかし7歳のときに両親が死んで、兄弟のいなかったパリアウは孤児となる15。そこでパリアウの父のクランの兄弟に当たるジョセフ・パティ(Joseph Pati)や母の姉妹に当たるニノウ・ナメイ(Ninow Namei)16といった親族のもとで育てられることになる17。しかし、パリアウはこの環境に不満を抱いていた。いつまでも子供扱いをされ、ジョセフとニノウの間では諍いが絶えなかったのだ。パリアウは二人のもとを去り、カロウィン(Kalowin)という父方の親族に当たる老人のもとで暮らす。いずれにせよ、親族中をたらい回しにされ、友達の両親に少しの食事を恵んでもらうという生活は、「私は望まれていない子供だったのだ」(Maloat 1970:144−145)と彼自身が後に回想するほどつらい時期であった。
 その後、パリアウ少年は大きな祝宴を見たことがあった。ヤムイモやサツマイモがたくさん集められ、100や200ものブタが連れて来られた。有力者が演説を行い、スリットゴングが打ち鳴らされ、それに合わせて皆が踊った。貝や草で着飾って行うその踊りは、自分の所有する豊かな富を誇示するものであった。こういった光景を目にしたパリアウ少年は、こう考えていたという。「子供たちはそういった慣習を、大人たちから教え込まれた。きちんと学ぶ者もいれば、そうでない者もいた。私は学ばなかった。なぜかって?そんなことは無駄だとわかっていたからだよ」(Schwartz 1963:240)。しかし彼は一度だけ祝宴に参加したことがある。勿論、それは彼の自発的な参加ではなく、ジョセフの提案であった。演説を始めようとした彼であったが、緊張のあまり舌がうまく回らない。そのうえ、ジョセフに教えてもらったその内容も忘れてしまった。逃げ出そうとしてシナル(sinal  演説や踊りを行う梁)から飛び降りた彼は、その場に倒れこんでしまった。実はこの祝宴はパリアウの祖父の兄弟に当たる老人のために催されたものであったが、2週間後、この祝宴が終わると、この老人が死んでしまった。その死の原因が、自分の失敗にあると感じたパリアウは、より一層、伝統的な慣習を無駄のもの、あってはいけないものとして考えていくことになる。
 15歳になると税金を払わなくてはならなくなり、パリアウは働きに出ることになる18。最初、中国人のところで、コックやサーヴァントとして働いた19。2年後、彼は5ポンドの現金を貯めて、そのうち半分の2ポンド10シリングは店で自分に必要な物を購入し、残りの半分は村に持って帰った。村に持って帰った2ポンド10シリングは、ジョセフや他の親族によって分配された。その上、パリアウが自分のために買った生活用品もジョセフによって親族たちに与えられてしまったのだ。パリアウの手には何も残っていなかった。ただ、こういった出来事はバルアン島だけでなく、マヌス全体でごく普通に起こっていたことである。パリアウがこうした「やり方」に不満を募らせていく心情は想像に難くない。

 彼ら(同じような状況にある若者たち)の手元には何も残っていなかった。彼らは皆、それでもいいと思っていた。だが、私は気がついた。そしてそれはいけない事だと考えるようになった。私は何も得られない。なぜだ? 彼らが価値を置く貨幣といえば、犬の歯とか貝のビーズといった、われわれの祖先と関係のあるものばかりだ。そして装飾品と言えば、草のスカートや飾り葉といった過去のものばかりだ。女は葉を使い、男は木の樹皮を叩いてそれを着る。彼らは皆、こういったもののことを考えており、白人の所に出稼ぎに行って帰ってきても、現金を親族たちに投げ出してしまうのだ。私は貧乏になった。それでどうしたかって? 心の中では怒っていたが、その怒りを口に出すことはしなかった。
                  (Schwartz 1962:241、括弧内は筆者の注釈)

 彼は再度、中国人のもとへ出稼ぎに行くことになる。そして同じように2年間働き、5ポンド貯める。彼はそれを村に送金した後、自分は別の中国人のもとで6ヶ月間働く。その後村に帰ってくると、現金はなくなっていた。また親族の間で分配されていたのだ。
 また文無しになったパリアウは、今度は警察官として働くことになる。2年後、貯めた賃金は全て物に替えた。だが村に帰ると、やはりジョセフがそれらを分け与えてしまった。
 その後2年間、パリアウは村で過ごすことになる。そしてその間に近辺の村々を観察して回った。

 私はマヌス地方をくまなく見て回った。何のためにこのような観察を行ったかって?価値あるものを全て分配してしまうという行為は、バルアンだけのものか、あるいはアドミラルティ諸島全土で見られるものなのか、それを私は考えていたのだ。
                            (Schwartz 1962:242)

 その結果、「アドミラルティ諸島は、どこもバルアンと同じだということがわかった」(Schwartz 1962:242)という結論に達する。
 そして再び警察隊に戻り、2年間を過ごすことになる。警察官として、パリアウはラバウルへ行くのだが、そこで見たネイティヴの生活は、自分の村のものと変わらないものであった。パリアウは当時のことをこう語っている。

 村を去る時、もうバルアンには二度と帰ってくることはないと私は考えていた。アドミラルティの生活様式が好きではないことは、自分でもわかっていた。決して戻ってくるはずではなかった。だがラバウルへ行くと、そこはアドミラルティと同じであった。ラバウルを出て、サラモアへ行った。そこも同じだった。警察官としてマダンにも行った。マダンのネイティヴたちのやり方を見ていたが、それも全く同じものであった。フィンシャーヴェンに行って、そこのネイティヴの慣習を観察した。また同じだった。ラエもカヴィエンも同じだった。そしてわれわれの文化はたった一種類しかないのだと気付いたのだった。
                             (Schwartz 1962:242)

 パリアウはその後も警察官として働く。村に戻ったとき、彼の手元には35ポンドの現金があった。彼はそれを村人のために使おうと思い立った。ルルアイを間に立てて、税金が払えない者の肩代わりをするのだ。しかもその適用範囲はバルアン島を超えて、近隣のモウク(Mouk)島、プワム(Pwam)島、ロウ(Lou)島にまで及んだ。
 戦争が始まり、それがラバウルにまで及んだ頃、パリアウは警察隊の中で280人の部下を持つ曹長(first sergeant)にまでなっていた。日本軍が侵攻し、戦況が激化するにつれ、パリアウはオーストラリア人たちとともに奥地へと逃げた。しかし1943年の8月に彼は日本軍に捕まり、裁判にかけられる。だがパリアウは日本軍のもとで、ラバウルのネイティヴを管理する警官として働くことになる。そこには日本軍に捕まり、連れて来られた、さまざまな地域のネイティヴたちがいた。彼はネイティヴのコミュニティを管理し、諍いの仲裁をし、日本軍からの命令を伝えた。
 1944年にアメリカ軍がラバウルを攻撃するようになり、45年には終戦を迎える。戦後、ニューギニアが再びオーストラリアの信託統治領下に置かれた事を知ると、パリアウは自ら警察隊へと戻っていった。しかし、日本軍に協力したという罪状で、裁判にかけられ、1年間ラバウルに抑留されることになる。パリアウがマヌスに帰ることができたのは、1946年の10月、ネイティヴたちの裁判が終わってからであった。
 この時期のパリアウの行動で、特筆すべきことが二つある。まず戦争が行われている時期、パリアウは不思議な夢を見るようになる。日本軍から逃げているときは、彼らに捕まる夢を何度も見た。それを仲間たちに話し、隠れ家を移るよう説得し、何度か助かったことがある。アメリカ軍が侵攻したときは、彼らに爆撃される夢を見た。パリアウは仲間たちと家から逃げていき、その後、夢は現実のものとなった。また、208機の飛行機が飛んでくる夢を見ると、次の日、208機の飛行機が実際に飛んで来たりもした。キリストが雄牛や白人の姿をして現れたこともある。
 そして1945年3月、パリアウはモウクとリパンのルルアイに向けて、手紙を送った。その内容は、集会場(meeting house)の建設要求と、彼がマヌスに戻ったときに重要な伝言があることを知らせるものであった。このことは後に、運動の出発点として考えられるようになる。
 マヌスに戻ってきたパリアウは、早速「運動」の準備に取りかかる。「彼の計画は、まずネイティヴの社会を統一し、次にその統一体を白人たちのような状態により近づくよう、推し進めることであった」(Schwartz 1962:248)。彼は支持者獲得のため、方々を行脚することになる。そして得意の演説で多くの支持者を獲得していった。
モウクで最初の集会が開かれたのは、1946年の10月である。社会を変革させていく根本的なイデオロギーとなった「新しいやり方」(New way、Newfela Fashion)や、キリスト教を彼らなりにアレンジした「長い神の物語」(Long Story of God)が、そこで語られ、運動の土台を固めていった。また、それまで諍いの多かった村やグループをまとめるため、上述したようなマヌス、マタンコール、ウシアイという区分を捨てて、「マヌス」という呼び名に統一した。古いクランはもはやさしたる意味を持たなくなり、障害、仕切り(fence)を意味するバニス(banis)と呼ばれるようになった。衛生面にも注意が払われ、食事や入浴に関しても、義務や制限が多くあった。
「運動の最終的な目標は、明らかにヨーロッパの富や技術、物質文化に依存しているところが大きかった」(Schwartz 1962:264)、あるいは逆に「宗教は文化全体に対して機能的ではあったけれども、それは部分的なものでしかなかった」(Schwartz 1962:264)とシュワルツが分析するように、運動初期におけるパリアウの力は経済的なものに注がれることが多かった。その政策のひとつとして、戦前行っていたような資金の貯蓄が挙げられる。上述したように、戦前のものは税金対策だったのに対して、今回の資金は、運動への投資であった。バルアンとモウクを皮切りに、大量の資金がパリアウの元へ集められた。「現金を獲得して、それを貯蓄することによって、ネイティヴたちは船やトラックや家を建てるときのトタン板を買うことができた」(Schwartz 1962:265)、つまり「現金を貯める究極の目的は、白人たちのカーゴを購入することだった」(Schwartz 1962:265)のである。このような運動初期における経済転換を、シュワルツは次のように要約している。

生産活動は、古い文化から存続してきた儀礼交換の構造の中で組織立てられることはもはやなくなった。貝のビーズや犬の歯といった貨幣と同様に、祝宴や交換も、断絶せざるをえない。婚資も、一度きりの、小額での現金支払いと定められた。新しい経済では、村レベルでの労働組織に強調が置かれた。労働は、新しい村の建設といった運動の切迫した計画や、村の成員の特別な要望に集中した。村の労働に関しての決定は、村全体の集会で行われた。村落間、あるいは村落内での交易は、公共のものとなった。すなわち、兄弟の間柄での協力精神のなかで行われたのである。土地権も同様の精神で扱われた。…(中略)…結局、初期の計画が必要としたのは、人々を白人のもとへ働きに行かないようにしたり、全ての現金を中央基金に集めたりすることで、運動内で利用できる全ての労働力と現金を保持しておくことであった。このように保持された労働力と現金は、新しい文化が始まるのに不可欠なものだと考えられた。
                           (Schwartz 1962:265−266)

 こういった新しい生活様式を提示するアイデアや、実際にそれを実現させる行動力、また人々を説得させる雄弁な演説に惹かれて、多くの人々がパリアウのもとに押し寄せた。しかしパリアウの考え方や意見が、多くの支持者に伝えられていく間に、誤って伝えられたり、読みかえられることがあった。こうして拡散した言説の周辺部で、「ノイズ」(Noise)と呼ばれるカーゴカルトが生れることとなった。

第2節 ノイズ

A ンリオルの事例
 バルアン島には、周辺の島々から多くの人々がやってきたが、ランブジョン島からの参加者の中には、先述したルンガットも含まれていた。彼はパリアウと知り合った後、運動に参加し、パリアウからも信頼を得て、運動の中核的な存在にまでなっていた。つまりランブジョンへ帰島してからの実際の行動はルンガットに託されていたわけである。村では彼が中心となって集会が毎日行われ、パリアウの持つ思想が語られたり、キリスト教の再解釈が行われた。パリアウ自身が夢に力点を置いていたこともあり、ルンガットもまた村人の夢を書き留めておいた。夢の解釈は自分で行うのもあれば、パリアウに任せる場合もあった。
 ある日、村人たちがサゴ採取のため林に入った。そこで数日、野営することになるのだが、最初の夜、ある男の夢にンリオル村の祖先が現れた。夢のなかでこの祖先は村人たちを即刻村へ引き上げさせるよう忠告したのだが、この男は翌朝目を覚ますと、夢のことをすっかり忘れていた。その日の作業が始まり、サゴを切り倒していると、そのうちの一本が誤ってカヌーの方に倒れてしまい、大破させてしまった。男はここで昨夜見た夢のことを思い出した。彼はそのことを仲間たちに話すと、みんなで村へと引き上げ、事の顛末をルンガットに話した。ルンガットはそのことを伝えにパリアウのいるバルアンへ向かう準備をした。
 その夜、ルンガットのクランの兄弟に当たるワペイ(Wapei)20という若者が、彼のもとに訪ねて来た。「なぜ、神の言葉を聴きにパリアウのところへ行くのか? 神はどこにでもいるのだと、パリアウ自身が言っているではないか。神はここにもいるのだ」(Schwartz 1962:268)とワペイは言い、ンリオル村の者は、他の村の者の言うことに従うことはないのだと主張した。そしてイエスは自分の夢にも出てきて、日曜日にはンリオル村にカーゴがやってくると教えてくれたのだとワペイは言った。その時イエスは、白い肌をしたンリオルの祖先たちを連れて、地上へと降り立つのだとも彼に伝えた。その後、彼の身体は発作におそわれ、激しく痙攣した。シュワルツの言い方を借りるなら、その後「彼はカーゴカルトの預言者、かつリーダーになった」(Schwartz 1962:268)のである。その異様な雰囲気の中で、ワペイはそのリーダーとなり力を持つようになった。そこではルンガットですらその信者でしかなかったのだ。ワペイは村の警備を命令し、教会で説教をし、意にそぐわない者を鞭打った。全ての家財が燃やされたり、海へと捨てられた。そこには犬の歯や貝貨だけでなく、西洋のモノも含まれていた。
 数日が経て、日曜日になっても、カーゴはやって来なかった。今回の日曜日は、悪い日曜日だ。次の日曜日にこそイエスはカーゴをもたらすのだと、ワペイはすぐに取り繕った。村人たちはそれを信じ、次の日曜日まで、教会の中で神への祈りをささげた。
 その週の水曜日、サゴ採取のためにモウク村から数艘のカヌーがランブジョンへとやってきたが、彼らは浜への上陸を禁じられた。浜に出向いたワペイは、彼らに引き返すよう命じた。そしてイエスや祖先の到来が日曜日にあること、有り余るほどのモノを積みこんだカーゴがやって来ることを彼らに伝えた。自分たちもモウクへ帰って、自分たちのカーゴを受け取ればいいのだとワペイは彼らに言ったが、信じてはもらえなかった。怒った彼は、他の村人を呼び、モウクの人々の前で祈りの姿勢をとった。すると、ワペイらの身体が痙攣し始めた。それを見たモウクの村人は、恐れおののき、ワペイの言ったことは真実であると確信した。モウクの村人は自分たちの村へと引き返した。出来事としては、ただそれだけのことである。だがそれは、プス(Pusu)、モウク、バルアンと、このカーゴカルトが伝播されていく始まりであったのだ。
 次の日曜日になった。人々は再び海岸に集まり、カーゴの到来を待った。だが、カーゴを載せた船も、死んだ祖先も、啓示を与えたイエスさえも現れることはなかった。ワペイは自分の誤りを認め、兄弟であるンレジェ(Nreje)やムリ(Muli)らに、自分を殺してほしいと懇願した。ムリはナイフでワペイを切り裂いて殺した。
 ここから先は、人々の話が錯綜する。ワペイの埋葬が終わると、すぐに人々は正気に戻ったという者がいる一方で、それからしばらくの間は、カーゴを待ちつづけるという、同様の状態が続いたという者もいる。しかし、後者の場合であっても、カーゴがやって来ないと人々が気付くまで、さほど多くの時間はかからなかった。
                           (Schwartz 1962:267−270)

B モウクとバルアンの事例
 ワペイとの接触が契機となって、モウクの人々の間でもカーゴカルト的期待感が高まるようになる。ンリオルを去った彼らは、ランブジョン島のプスという村で夜を越すことにした。翌朝、プスにある小さな教会で祈りをささげていると、突然、数人の男たちが発作に襲われ、身体が痙攣し始めた。彼らにとってそれは、ワペイのメッセージが真実である裏づけでもあった。彼らはそのことを伝えるべく、急いでカヌーの準備に取りかかった。
 一方、モウクではパリアウが運動の参加者に対して演説を行っていた。すると一艘のカヌーが海の向こうから近づいてきた。そこには、ぺスで痙攣に襲われたタジャン(Tajan)が乗っており、何やら大声で叫んでいる。「本当だ!本当だ!神の語りは本当だ。われわれのカーゴがやってくる」(Schwartz 1962:271)。海岸に着いた彼がンリオルで起こったことやワペイのメッセージを皆に伝えていると、身体が再び激しく震えだした。すると、それを聞いていた村人たちも、痙攣を起こし始めた。ワペイはパリアウのもとへと駆け寄り、パリアウの言っていたことが真実であったことを伝えた。パリアウもそれによって自分のメッセージに確信を抱き、自分の言うことに従っていれば、全てが良い方向へ向かうことを皆に伝えた。パリアウはノイズに対して用心するように言っていたが、結局、ルカスやトジャミロ、ナポといった運動の中心人物や、他の村人たちと共に、ノイズに巻き込まれることになった。
 モウクではタジャンがカルトのリーダーとなった。彼が中心となり、祈りや行進、訓練などが行われた。パリアウや一部の者を除いて、モウク以外の者がモウクに近づくことは許されなかった。またカーゴを携えた死者が墓地より現れると預言する者もいた。その男の預言に従い、村中の男が墓地へと向かう行進に参加した。墓地を取り囲んだ男たちは、夜通し死者を待った。空が白み始め、死者もカーゴもやって来ないことがわかると、彼らは村へと引き返していった。
 パリアウは、しばらくの間ノイズに巻き込まれていたものの、すぐに正気を取り戻し、バルアンへと帰っていった。するとルカスがバルアンまでパリアウを連れ戻しに行った。ルカスはパリアウと一緒に現金の入った箱を持っていたが、モウクに帰る途中、その箱を海の中に投げ捨ててしまった。
 モウクに着くと、地面に倒れている者や、埠頭に立ってカーゴを待ちつづける者がいた。そういう光景を見たパリアウは、ノイズは終わったのだと言い放った。それは間違っているのだと。カーゴなどやって来るはずないのだと。彼らはそれを聞いて正気に戻り、自分たちの捨てた物を拾い集めに行った。パリアウは自分の教えを勝手に修正して人々を混乱に陥れたワペイを強く非難した。だが、ノイズは終わった。これからは再び、新しい秩序のもとで良き生活へと向かっていこう。パリアウは人々の前でそう演説を行った。
                           (Schwartz 1962:270−273)

 またここに記したものの他にも、同様のカーゴカルトはタゥイ(Tawi)やパトゥシ(Patusi)、ブナイ(Bunai)などでも見られた(Schwartz 1962:273−283)。

第3節 停滞期

 パリアウは再びリーダーシップを掌握したが、「運動」を再開するに当たって、人々の秩序や考え方をカルトの起こる直前の状態にまで戻すことが早急とされた。パリアウは、カルトという現象に対しては曖昧な態度を取りつづけたが、運動拡大のため、その影響力を最大限に利用した。つまり何らかのカルトの影響を受けた33の村落を、そのまま運動に包含してしまったのである。これほど大きな政体は、それまでこの地域に存在しないものであった。
 1947年1月にパリアウはカーゴカルトを起したという罪で政府に捕まり、ポートモレスビーへ連行され、そこで政府の方針などを教化された。リーダー不在にもかかわらず、運動は進められ、7月29日にパリアウが戻ってくると、移住計画を打ち立てた。それまで別々に暮らしていたウシアイとマヌスを海岸部に作った新しい村で一緒に生活させた。例えば、新しいブナイ村は、7つの集落と700人の人口を持つ、それまでに例のない規模になった。
またポートモレスビーでの教化の影響が、運動に色濃く出始めた。まずカルトを生み出すような、運動における宗教色が薄くなり、それまで運動の中核にあった「神の長い物語」は用いられなくなった。そして「1949年を過ぎると、運動のねらいは、自分たちの組織の存在を行政に認めてもらうことと、パリアウを長とする、運動全体を政治単位として含みこむような現地人議会(Native Council)を政府に設立してもらうことであった」(Schwartz 1962:286)。それまで運動における村々のリーダー「ペスマン」は「カウンシル」(council)と改められ、その下に「コミッティ」(committee)と呼ばれる役職もつくられた。しかし「バルアン島民と政府の関係は明らかに悪化した。それは島民の破壊行為が増えたためではなく、政府による正式な「議会」の開設が遅れたためである」(ワースレイ 1981:259)。それは政府側の政策でもあった。この頃には政府側にパリアウ運動の拡張を脅威に感じる者も少なくなかった。1950年1月、パリアウは反政府的な演説をしたとして、ロレンガウへ連行され6ヶ月の強制労働が言い渡された(Otto 1991:172)。パリアウ不在の1950年8月14日、バルアンに中心を置く議会(Baluan Native Village Council)が設立され、最初の議長にはリパン村のパピ・ポイエム(Papi Poiem)が選ばれた21。最初の頃の議題は主に、政府のパリアウに対する扱いだった22。その後ポートモレスビーに送られたパリアウは、そこで4ヶ月以上を過ごし、マヌスに戻ってきたのは1951年3月だった。
村に戻ったパリアウは、すぐに議会のメンバーに選ばれ、議長に就任した(Otto 1991:174)。だが議会の権限が本島にまで及ぶのは1954年のことである。政府の政策とは、「パリアウに彼の本拠地であるバルアン島とその周辺の島々だけを管轄する「議会」を主宰させることによって、彼の権限の及ぶ範囲を制限しようとするものである。またそれはパリアウを最も強く支持しているマヌス本島の人々を彼から引き離すことによって、彼らの運動も弱体化させようという意図を持っていた」(ワースレイ 1981:255−256)のである。そして議会をいつも行政官の監督下に置き、さらにはパリアウ運動に参加しなかった村(多くはパリアウに敵対的である)を議会に参加させた。一方でパリアウの影響が強かった本島南部やランブジョン島などは、議会に参加することが許されなかった。そしてその敵対する村やタイムラグのなかで、運動の勢いは急速に衰えた。
 村人たちの運動における関心も低下した。日曜日以外に教会に行くことはほとんどなくなり、新しく作られた村の波止場や教会や家々がつぶれても修理がなされることはなかった。若者たちのなかには、リーダーが制止するのも振り切って白人のもとに出稼ぎに行くも出てきた。また、マヌスとウシアイが一緒に居住していた新しいブナイ村などでは、彼らの対立が顕在化してきた。つまり、彼らの運動を支えていた「新しいやり方」というイデオロギーが破綻を来してきたのである。そのような状況下で、当然、パリアウ自身のリーダーシップにも陰りが見え始め、彼の言動に対して不満を口にする者が出始めた。しかしそれに対してパリアウは、彼らが満足するような新しい行動や概念を打ち出すことができなかった。

第4節 カーゴカルト再び

 1953年頃、運動の停滞期はピークを迎え、この頃から再びカーゴカルトが起こるようになってきた。

A ジョンストン島の事例
 ジョンストン島で起こったカルトには1952年12月24日に死んだトーマス(Thomas)という男の霊が登場する。死の直前、トーマスはギャンブルの為の金を工面するため、タウィ(Tawi)の「兄弟」を訪れた。だが彼らはトーマスに5ポンドしか貸さなかった。彼は、その時抱いた怒りの感情が原因で死んでしまったとされる。その夜、キサキウ(Kisakiu)というタウィの若いカウンシルは、村中をたくさんの死者が徘徊しているのを目撃する。そして彼らとは別に、白い衣装に身を包んだ男が立っているのがわかった。それが誰なのだろうと考えていると、キサキウの死んだ父の声が聞こえ、その男はジョンストン島のトーマスだと教えてくれた。翌1953年1月、近隣のカロパ(Kalopa)という小島へ3人の女性が行ったとき、そこにトーマスが現れた。姿こそ見えなかったが、彼の口笛と、彼が身につけていた粉の匂いがしたのだ。そして彼女らがジョンストン島へ戻るカヌーの上に、トーマスも同乗していた。その夜、カマンラ(Kamanra)という男の家にトーマスは現れた。そしてカマンラの妻のサパ(Sapa)にトーマスは憑依し、彼女の身体は死んだようになった。カマンラはジョンストン島のカウンシルのところへ赴き、事の顛末を話した。カウンシルは彼女を通じてトーマスにいくつかの質問をした。その結果、彼は悪い存在ではないこと、彼の死は兄弟に対する怒りが原因だったことなどが明らかになった。また、トーマスがジョンストン島へやってきたのは、運動に参加した村の中で、この島が「新しいやり方」(New Way,Newfela Fashion)の理念に最もかけ離れているためであり、イエスが送り込んだのだということもわかった。そして、もし神の意志を告げる自分の言うことに従わないのであれば、この島は海の底に沈んでしまうのだと、トーマスは島民に告げた。その結果、毎週金曜日の夜に現れるトーマスのために、サパの家に特別の部屋が設けられることになった。
 トーマスは、村の風紀を乱すという理由で、村の外れに建てられた小屋を排除したり(それは主に姦通に用いられた)、村の移住の際、そのまま放置されている死者の骨を正しく処理するよう指示した。教会に人が集まる、集会でカルト的な歌が合唱される、訓練や行進が行われる、といったカルト的な雰囲気が高まる中、新しい墓地の建設が始まった。死者の骨を埋まっている場所を特定したり、その死者が誰であるかを特定するのに困難を極めたが、トーマスが助言を与えることで、発掘の作業が続けられていった。集められた遺骨は100以上にも及んだが、それらはひとつづつ石鹸できれいに洗われ、ワセリンやタルカムパウダーを塗られ、きれいな布に包まれたうえ、木の箱の中に保管された。
                           (Schwartz 1962:301−306)

B タウィの事例
 もともとジョンストン島と交流の深いタウィでも、同様のカルト的な現象が見られた。タウィでは、ペリやブナイといった周辺の村からも人々が集まり、ラッキーというポーカーに似たギャンブルが行われていた。そこに参加していたスルワン(Suluwan)という男は、掛け金がなくなってしまったので、寝るためにキサキウの家に帰った。するとポノワン(Ponowan)という男の霊がスルワンについてきて、一緒にキサキウの家に入っていった。その霊はキサキウにも見えていた。夜中、ポノワンは眠っているスルワンを起こし、スルワンは運がついているということを教えた。スルワンは、しかし、1ポンドしか持ち金ないことをポノワンに話すと、ポノワンは、その1ポンドを持ってゲームに戻って賭けるよう指示した。ゲームは夜通し行われ、結局スルワンは40ポンドも勝った。ポノワンはキサキウの前にも現れ、自分はトーマスのように神の意志を伝えるためにやってきたのだとも告げた。
                           (Schwartz 1962:306−307)

 その他、カーゴカルトは本島の南部や周辺の島々で頻発して起こった(Schwartz 1962:292−335)が、1954年4月に沈静化し、本島南部や南部、東部の島々まで含む政府公認の議会(Baluan Local Government Councilと改名)が始動し始める。パリアウはそのリーダーとなって、選挙で選ばれた議員たちの教育に当たった。彼らは西洋的な衣装を身につけ、きれいな家に住まなくてはいけなかった。つまりそれは、他の村人が目指すべきモデルでもあった。成人男子5ポンド、成人女子1ポンドという税金が課せられ、政府ではなく、議会に集められた。会議場はそれまでのバルアンの他にブナイにも建てられ、最初の全議会はブナイで行われた。そしてそれらを通して、マヌスには学校や病院や商店が建てられた。
 このように運動は、より大きな枠組としての議会に吸収された23。政治家としてのパリアウの活動はこれ以降も続くのだが、カーゴカルトと関連する「パリアウ運動」は、1954年の時点で一応区切っておくことにする。次章では、このパリアウ運動が人類学のなかでどう位置付けられてきたかを検証する。

第4章 生活実践としてのカーゴカルト
第1節 パリアウ運動のふたつの側面

 第2章でも触れたが、カーゴカルトと呼ばれる現象には独特の行為が見られる。こうした行為を受動的なリアクションと捉えようが、彼らの生活や世界観から導かれる必然的、創造的行為と捉えようが、いずれにせよ、圧倒的な白人の力の前に構造的弱者として位置付けられた彼らの抵抗としての「表現的行為」(リーチ 1981)だったことは間違いない。
 パリアウ運動でもその過程において、カーゴカルトに特有の行為がいくつか見られた。実際、メラネシアで頻発したカーゴカルトにおいて、カーゴカルト的な特徴を全て有している事例は稀であり(cf.ワースレイ 1981:358−359)、その全てがないと「カーゴカルト」ではない、というわけではない。そう考えると、パリアウ運動をカーゴカルトと捉えることは、決して不自然なことではあるまい。
 カーゴカルトの中心には、通常、大きなリーダーシップを持った預言者がいる。パリアウ運動の場合、パリアウ自身、大きなリーダーシップを持っていたし、不思議な予知夢を見ることはあったが、カーゴカルトの中心に位置付けられることはなかった。預言者として現れたのは、運動の周辺に位置づけられる、パリアウの影響を受けた人たちであった。
 ンリオルの若者、ワペイは、夢にキリストが現れた。

 彼は自分の夢にイエスが現れたのだと村人たちに言った。ンリオルの者は日曜日にカーゴを受け取るのだと、イエスは彼に告げた。そのときイエスはンリオルの死者を連れて地上へとやってくる。明らかなことだが、カーゴが意味するのは、白人の物質文化に対して、彼らが望む全てのもの―飛行機、船、ブルドーザー、鉄板、現金、商店で手に入るような良質の食料―である。しかし、こうした大量のモノだけでなく、カーゴの到来が意味するのは、白人とネイティヴの同等の生活でもあった。つまりそれは力である。ンリオルの死者が帰ってきたとき、彼らの肌は白くなっているとワペイは告げられたのだ、と言う者までいた。
                             (Schwartz 1962:268)

 そして現在価値のあるものは無用となり、現金や貝貨、ブタ、農作物、儀礼で用いる品々が捨てられる(あるいは、捨てなくてはいけない)という語りが生まれる。

 (ンリオルの人々は)家の中にあるものを全て海に捨てたり、燃やしたりした。犬の歯や貝貨、壷、油といった過去の価値のあるものだけでなく、彼らが商店やアメリカ軍のゴミの山から何とかして手に入れた白人のモノまで捨ててしまったのである。
                   (Schwartz 1962:268、括弧内は筆者の補足)

 この財の遺棄という行為について、シュワルツは、「自分たちの所有物を捨てるということは、一方で、過去の清算を保証するものであり、もう一方では、カーゴと共にやってくる、豊富なモノのための場所をつくることでもあった」(Schwartz 1962:268)と分析している。また、身体の痙攣もカーゴカルトではよく見られる現象であり、パリアウ運動においても、それはグリア(guria)と呼ばれ、カルトの最中には頻繁に起こるものであった24。また警察や軍隊を真似た訓練や行進も行われた。

 (ンリオルでワペイの影響を受けた)タジャンは(モウクに帰ってきて)二本の旗を立てるよう指示した。それはアメリカの旗だと言われた。朝、教会で祈りやグリアが終わると、モウクの人々は、午後の間ずっと、その二本の旗の間を行進し、訓練を行った。
                   (Schwartz 1962:272、括弧内は筆者の補足)

 西洋のモノ(カーゴ)を満載した船や飛行機が、天国から(死者の国から、アメリカから)やって来るという風聞こそが、カーゴカルトをカーゴカルトたらしめている現象であるのであり、それを運ぶのは、自分たちの死んだ祖先や、キリスト、時にはアメリカの大統領であったりする。パリアウ運動においても、そのような現象が見られた。

 モウクではポパウがカーゴのやってくるまさにその夜(土曜か日曜の夜)を知らせる幻覚を見た。モウクの人々が墓地として使っている、小島の小さな丘にある墓から、死者がやってくるとされた。村人たちが墓地まで行進するために集まった。墓の周りに輪になって、夜通しカーゴを待った。
              (Schwartz 1962:272、括弧内は筆者シュワルツの補足)

 また、キリスト教の教えを基礎にした「神の長い話」(Long Story of God)では、神の本当の教えが、オーストラリア人によって邪魔をされ、自分たちのもとに届いていないのだという話や、その教えを得ることができれば、白人と同じような生活ができるのだと説かれた。こうしたネイティヴの地位の向上や平等な世界が説かれるのもまた、カーゴカルトにおいては典型的な現象だといえるだろう。
 このように、パリアウ運動ではカーゴカルト的な要素が多く観察できる。しかしその一方で、パリアウ運動を指導者パリアウに焦点を合わせて考察するならば、おそらく社会運動としての側面が見えてくるだろう。そしてそれは彼らの抵抗としては合理的な「技術的行為」(リーチ 1981)でもあった。例えば、自分たちの生活を向上させるためには、伝統的な考えや行為を捨てることが第一とされた。それは「新しいやり方」(New Way,Newfela Fashion)というイデオロギーに集約されており、極めて現実的な目標や手段であった。
 今までの大規模な祝宴は死や病気を招くとして中止され、婚資も現金での一度きりの支払いになった。「マヌス」「マタンコール」「ウシアイ」というそれまでのカテゴリーは廃止され、その境界をなくすことで新しい「マヌス」という高次のカテゴリーをつくり、共に協力し合っていくことが至上とされた。そのために「パリアウは(グループとしての)マヌスを環礁から引き離す計画を立てた。彼らとウシアイは自分たちの古い村を焼き捨てて、海岸に新しい村を建設しなければいけなかった」(Schwartz 1962:285、括弧内は筆者の補足)。
 若者たちは出稼ぎに行くことを許されず、自分たちの土地で働かなくてはいけなかった。また、各村にはペスマンが任命され、「運動の計画を自分の村の人々に伝え」(Schwartz 1962:262)たり、村の組織作りを行ったりした。そして「村のペスマンはクランの成員に関係なく、全ての長になる者であった。つまり、親族やクランの緊張を生み出すことのない、公平さが求められた」(Schwartz 1962:263)のだ。
 「白人との平等な地位が超自然的な手段で手に入れようとするとき、彼(パリアウ)は単なる千年王国的な切迫さを訴えるカルト的指導者であっただけではなく、カルチャーワイドな刷新計画を組織立てようとしていたのだと、われわれが言うことができるのは、経済的な計画があったからである」(Schwartz 1962:264、括弧内は筆者の補足)とシュワルツが言うように、パリアウ運動における経済的な改革は、当時のマヌスでは非常に斬新で、重要な意味を持っていた。まず運動以前に税金対策で行っていた現金の貯蓄を、今度は運動の資金として再開した。戦後すぐの時点で、アメリカ軍から得たかなりの現金が彼らの手にあったのだが、運動が始まると若者の出稼ぎが禁じられたので、その後の現金の収入源は1946年から支払われた戦後補償金で賄った。そして「貯めた現金の最終的な目標は白人のカーゴを購入することであった。つまり現金を手に入れ、貯めることで、ネイティヴは船やトラックや家のトタン板を購入することができた」のである。そこにはカルト的な「非理性」や「狂気」は存在せず、非常に現実的な手段がある。
 このようにパリアウ運動には、カーゴカルト的な側面と、社会運動的な側面がある。これらのどこに焦点を当てるかによって、パリアウ運動は様々な様相を見せるし、実際、研究者によって扱い方が全く異なる。次節以降で、人類学においてパリアウ運動がどう扱われてきたのかを分析したうえで、第1章の議論と絡めながら批判的に考察していきたいと思う。

第2節 人類学におけるパリアウ運動の位置付け

 前節でパリアウ運動にはふたつの側面があることが示され、いずれのカテゴリーに照らし合わせても、互いに足を引っ張り合って、その典型例からずれてしまう、両義的な運動であることが確認された。この典型例に収まりきらない「逸脱」した部分をどう扱うかによって、運動の持つ意味が研究者ごとに異なってくる。
 ウィルソンにとって、カーゴカルトは世界中に偏在する千年王国運動のひとつであり、西洋文化に直面した多くのメラネシア人がそうであったように、西洋的な生活水準や平等性を希求したマヌスの人々は、カルト的な思考を持ち、実際にそのような行動をとった。ただ、パリアウ運動を「千年王国運動」あるいは「カーゴカルト」のカテゴリーから考察した彼にとって、その運動の「逸脱」とは、パリアウ自身の「合理的」的な行動であり、それまでの「目的と手段が非常に不完全に理解されていた」(Wilson 1973:483)カーゴカルトには決して見られないものであった。つまり「パリアウの運動の合理性とは、カーゴカルト的な反応から直接生じるのではなく、むしろそれらと対比させられる形で成立していた」(Wilson 1973:482)のである。
 「こういったもの(より世俗的で政治的なもの)のなかには、パリアウ運動のように、カーゴカルトと密接に関係していて、カルトが起こった時期もあるけれども、カーゴカルトだけではなかったものもある」(Schwartz 1976:159、括弧内は筆者の注釈)とシュワルツが述べるように、彼(や、あるいはミード)にとっても、(パリアウ運動がカーゴカルトであること自体は否定しなかったものの)より重点を置いたのは、社会運動としてのその組織であり、現実可能な目標を掲げたそのヴィジョン、すなわち典型的なカーゴカルトに当てはめると「逸脱」する部分であった。特にシュワルツは、パリアウを中心とする社会変革運動の部分を「運動」(Movement)、その周辺で起こった宗教的な色合いの強いカーゴカルトの部分を「カルト」(Cult)と、その全体を二分して論じている。実際にはそのふたつはパリアウや他のリーダーを中心に密接に絡み合っているのだが、シュワルツがその「運動」の部分を、それまでのメラネシアには見られなかったより広範な運動組織として考えていたことは間違いない。
 ワースレイはカーゴカルトというカテゴリーに含まれる現象を二つに分けた。まず、タロ運動に見られるような、千年王国的なイデオロギーと土着の考え方に大きな差がなく、その手段として、呪術的なものが用いられるもの。そしてもう一方は、ソロモン諸島でのマアシナ・ルール運動やパリアウ運動に見られるような、より世俗的な政治的、経済的要求を持っていて、その手段も伝統的なものとはかけ離れたもの。これは上述したような「カルト的側面(表現的行為)」と「社会運動的側面(技術的行為)」という区分にそのまま適合させて考えていいだろう。そして一見するとワースレイの区分は正鵠を得た指摘なのかもしれない。実際、パリアウ運動やマアシナ・ルール運動では、「運動の組織は伝統的な境界を越えて、全く新しい政治的、経済的枠組を作り上げていた」(Worsley 1956:23)のだから25。つまり手段という点から見ると、パリアウ運動には、他の典型的なカーゴカルトには見られない「逸脱」した部分を持っていたのだ。だがカーゴカルト全般を扱った書物の、パリアウ運動とマアシナ・ルール運動を論じた章に「千年王国から政治へ」というタイトルをつけたところからもわかるように(ワースレイ 1981)、ワースレイはこの「表現的手段」から「技術的手段」への移行を、マルクス主義的な社会進化の過程の上で捉えた。つまりその「逸脱」こそ、ナショナリズムの萌芽だというのである。

 私はこうした運動と、植民地状況の発展における初期の段階を慎重に結びつけた。というのも、暴力的な方法を取ろうが取るまいが、それらはよりオーソドックスな政治組織へと至る明確な方向性を示してくれるように思えるのだ。マーチング・ルール(マアシナ・ルール)のような運動と、普通のナショナリストの運動との間にはわずかな差しかない。
         (Worsley 1956:30、括弧内は筆者の補足、強調はワースレイによる)

 ワースレイはカルト的な側面と社会運動的側面を連続体として考え、その両義的な中間項としてパリアウ運動を捉えていたのは間違いない。その点では、他の論者の考察とも似ているし、私も異論はない。だが彼にとって社会運動的側面(あるいは技術的行為、政治)は、そのままナショナリズムを意味していた。一方で私の言う社会的側面は必ずしもナショナリズムを意味していない。むしろパリアウ運動(やマアシナ・ルール運動)と「普通のナショナリストの運動」との間には、非常に大きな断絶があると考えているのだが、それを証明する前に、ここで留意すべき点として、ワースレイがパリアウ運動を「ナショナリズム」の萌芽と考えていたことを確認しておきたい。
 そういった動きとは別に、パリアウ運動を一度カーゴカルトのコンテクストから切り離して、別の角度から、つまりそれまで「逸脱」だったところに力点を置いたのがオットーである(Otto 1992)。オットーは、パリアウ運動を「反−伝統、反−宣教師、反−政府」(Otto 1992:442)といった特徴を持つ、社会変革運動であると位置付ける。ゆえに彼にとって「逸脱」だったのは、カーゴカルト的現象のほうだったのである。オットーの関心は植民地状況下で、ネイティヴがどのように自分たち、あるいは白人たちの文化を理解し、再定義し、語っていたかであった(Otto 1991、1992)。白人たちの強大な権力や物質文化に出会ったネイティヴたちが「不平等を生み出し、維持しているものは何だろう」(Otto 1992:430)という疑問を感じるところから、オットーの考察は始まる。そして自分たちの、あるいは自分たちの祖先の文化が力のない劣ったものだという批判的な意識が芽生え、それが「「伝統」概念を政治的な用語として生み出すことになった」(Otto 1992:430)のである。その「伝統」と「西洋」(「近代」)という概念が客体化される事例としてパリアウ運動が挙げられる。
 まず、オットーはパリアウの個人的な才能やライフヒストリーに焦点を当てる。

 パリアウは偉大な想像力を持った理論的な革新者や、優れた才能を与えられた雄弁家であっただけでなく、支持者の日々の生活を組織することができ、鋭い政治的手腕をふるう、まさに行動する人物であった。
                                (Otto 1992:445)

 そして上述したようなパリアウ運動の社会運動的側面を考察したうえで、このような「根本的に異なった社会原理」(Otto 1992:447)を生み出す「革命的な」(Otto 1992:448)運動を起こし得た背景には、「伝統」と「西洋」(「近代」)という対抗的な客体化があったからだという結論に達する。

 パリアウの考えの多くが、契約労働者や現地人警察官として西洋社会と関わった経験にまで遡ることができるのは事実である。しかし、彼の新しい社会作りへの計画を詳細に見てみると、この計画は、彼の否定した伝統社会の要素と首尾一貫して対立させることで発展してきた。彼が発展させた対抗的な変容は次のように要約することができる。共同体主義 対 個人主義、中央集権主義 対 地方主義、平等 対 不平等。パリアウの意識的な計画は白人社会との競合であったが、彼の発展させたこの社会の、そして彼独自の文化の理想的状態の、現実的ビジョンは、この対抗的変容の理論を考えずして理解することはできない。
                                (Otto 1992:448)

 この客体化という視点はそのままトーマスに通じる。「伝統の逆転」(Inversion of Tradition)というタイトルの論文で、彼はパリアウ運動をオットーと同じ視点から論じ、それが「歴史的もつれあい」から生じた対抗的客体化の一例であることを示し、次のように結論づけた。

 このように、伝統が土着の人々の困窮や後進性の原因にされているという点において、パリアウ運動は、フィジーの運動や他のものと間違いなく類似している。発展は、換金作物や財の貯蓄といった現実的な経済計画だけでなく、伝統的制度に取って代わるような社会組織やリーダーシップの新しい形態をも必要としている。一般に、このような運動は、婚資の支払いや大きな祝宴といった伝統的秩序の象徴となるような制度を拒絶する。このような移行や再評価には、緩やかな文化変容の過程だけではないそれ以上の何かが明らかにある。つまりその代わりに、それらは新しい文化的、政治的可能性の開拓という、意図的な戦略を証明しているのだ。
                              (Thomas 1992:226)

 ただ、ここで重要なのは、オットーが「この対抗的な理論というのは、植民地過程における差異の経験によって、バルアンや他のマヌス社会のある側面が浮きぼりにされるような、特殊な歴史的状況で適用される」(Otto 1992:448)という限定条件をつけていたのに対し、トーマスは、その客体化が植民地状況に限らない普遍的な営みであると論じたことである。しかし、いずれにせよ、オットーやトーマスはパリアウ運動を「対抗的客体化」として扱ったということをここでは確認しておこう。
 リンドストロームがカーゴカルトを論じるとき、彼の頭の中にはパリアウ運動は含まれていなかったのかもしれない。彼の考察で事例に上るのはヴァヌアツ、タンナ島のジョン・フラム運動であったり、パプアニューギニア西部のケケシ運動(タロ運動)であったりする。だからといって、パリアウ運動がカーゴカルトではないということとは別問題である。実際には、パリアウ運動では社会運動的側面とカーゴカルト的側面が、複雑に絡み合っていた。例えば次のような記述を見てみよう。

 外部の者からすれば、(パリアウ)運動に参加した村の生活は、時として、よく訓練された軍のキャンプのような印象を与えるかもしれない。家々は大袈裟過ぎるほどまっすぐな列をなして建てられている。ベルを鳴らして日々の活動を統制している。つまり朝には起床、洗面、祈りの合図として。次に村人は全て、労働を割り当てられるために整列させられる。時には訓練が行われる。昼には食事の分配のためや宗教的な務めのため、あるいは政治的な討論のために、再度、集会が開かれる。
                      (Otto 1992:447、括弧内は筆者の補足)

 この記述はオットーが、「新しいやり方」に沿った社会改革の事例として挙げたものであるが、これを「カーゴカルト」の事例として受け取ることはできないのだろうか。そう考えることができるのならば、やはりパリアウ運動をカーゴカルトとして考えることもまた妥当なことであろう。実際、リンドストロームがカルトの特徴として挙げているのは、痙攣などの身体的特徴、男女の混浴や村の清掃などの衛生基準、時間、空間の規制といった、前節で示したような、パリアウ運動でも見られる現象ばかりである。だからリンドストロームの考察がパリアウ運動には当てはまらないという批判は、おそらく通用しないだろう。
 そう考えた上で、リンドストロームのカーゴカルト論を考察するのだが、彼は創られた伝統(カストム)の源流として、あるいはオリエンタリズムの裏返しである「オクシデンタリズム」(cf.Carrier 1992)としてカーゴカルトを論じている(Lindstrom 1993b、1995)。つまり社会運動的側面を重視したオットーと違い、彼はカルト的な側面に焦点を当て、その特徴が、現在エリートが流布させようとしているカストムにそのままつながるという論法を取る。例えばそれは、成員のアイデンティティの形成や、行動や秩序の規制、そして支配的なものへの対立という点などである。

 千年王国運動と新興独立国家との間には、制度としての大きな共有性がある。どちらの指導者も、集団の団結力を強めたり、信頼できる未来像を提示したり、時として不安定な権力の座を守るという問題に直面している。新興国家は、カルトと同様に、行進や軍隊の訓練、公衆衛生やエイズ撲滅キャンペーン、国家的スポーツ競技によって、身体経験の規制が行われ、試みられている。またカルト同様に新興国家は、首都や中心地、国旗がはためく大統領官邸やその他の儀礼場、国民の祝日などの形をとって、時間や空間に対する新しい規制を制度化する。そして国家の調和や統一を求めるところも、カルトと同じである。
                            (Lindstrom 1993b:507)

 実際、パリアウ運動においても、運動の全体性、協調性が重視され、反―白人的な語りが生まれ、個人の行動は規則によって軍隊のように規定された。こうした類似点を集めて、リンドストロームはカーゴカルトを創られた伝統(カストム)の源流として位置付けたが、では、本当にエリートの言説と、カーゴカルトとの間にある溝は「さほど大きいものではない」(Lindstrom 1993b:509)のだろうか。
 ワースレイ、オットー(トーマス)、リンドストロームがパリアウ運動、あるいはカーゴカルト一般を分析することによって導かれた結論、すなわち、「ナショナリズムの萌芽」「対抗的客体化」「創られた伝統(カストム)やオクシンデンタリズムの源流」というものは、実はある一点に収斂することができる。それは、種的同一性に基づく場を形成する近代的支配テクノロジーの存在を前提にしていることである。
 例えばリンドストロームの著作に共通して言えるのは、「カーゴカルティストは自己でもあり他者でもある」(Lindstrom 1995:35)という言明が端的に示しているように、他者のモノへの欲求や非理性的な手段といったものは、ネイティヴにとっても西洋人にとっても普遍的な営みであるということである(Lindstrom 1993a、1995)。そう述べることで、彼は「カーゴカルト」が新奇な現象ではないこと、そして、そのカテゴリーの無効性を主張するに至るのだが、その際、ネイティヴの西洋へのまなざしを形成する原理が「オクシデンタリズム」、すなわち自己も他者も均質で固定化された本質的な存在を前提とするような場から論じられてしまうのである(Lindstrom 1995)。それゆえ、彼のカーゴカルト論は、よりナショナルなもの、つまり創られた伝統(カストム)へとつながっていくのであるが、その原理は同時に、対抗的客体化へと至る原理でもある。例えばトーマスが対抗的客体化を論じた、次のような文章を見てみよう。

 一般に未開主義は、「文明化された」「近代的な」人々にとっての文明や近代性を否定し、近代主義は、「伝統的」社会に暮らす人々にとっての伝統主義を否定する。…(中略)…現在では、ある場所独自の価値観を主張するという点において、周辺社会の伝統主義は西洋の近代主義に相当する。つまり西洋の観点からすれば、技術的な緻密さや洗練さという点で、周辺社会の観点からすれば、道徳性や社会的倫理、伝統という点で、「われわれ」は「彼ら」よりも高い位置にいるのだ、ということである。また厳密な意味で、西洋の未開主義は、土着の近代主義にも相当する。得ようとする他者の様態が有利に働いて、内在する価値が否定されるのである。都会にあきあきしながら住んでいる人にすれば、自然的、地域的生活という点で、部族的な人々や農民にとっては近代性、個人主義、豊かさという点で。他者の事例によって可能となるような文化批判は、否定的な自己形成のようなものを通じて行われ、どちらの事例においても、改革計画の言明を可能にするのである。
                              (Thomas 1992:226)

 ここでのネイティヴの視点は、まさに「オクシデンタリズム」的なものである。つまり、トーマスが「伝統」対「近代」あるいは「非西洋」対「西洋」という二項対立を乗り越えようとして取った弁証法的な方策というのは、結局のところ、ネイティヴに「オリエンタリズム」的な視点を与えることに過ぎなかったのである。
 このように、ネイティヴの行為全てを「アイデンティティの政治学」の俎上で扱ってしまうことで、文化の柔軟性が隠蔽されてしまう危険性があることは、第1章で簡単に述べた。次章では、このような近代的な枠組みからではなく、文化の柔軟性という観点からパリアウ運動を再検討してみたい。

第3節 カーゴカルトは近代か

 1960年代から80年代にかけて、アフリカ、アジア、オセアニアの植民地が次々と独立し、国民国家の体裁を取るようになった。その時の原動力となったのがナショナリズムである。反植民地的という点では、ナショナリズムもカーゴカルトも、似ていなくはない。だが、結論から述べると、そのふたつはその構造上に大きな断絶がある。
 ナショナリズムにとって最も重要だったのは、「国民国家(ネーション)」という枠組を確定しておくことである。そしてその枠組とは、多くの場合、旧宗主国の引いた恣意的な地理上の境界線であった。その恣意的な境界線で囲まれた空間に国民国家は創られる。つまり「ナショナリズムはネーションを覚醒し自覚させるのではなく、何もないところにネーションを創造するのである」(Gellner 1964:164)。そして「ナショナリズムの歴史において、民族主義運動が現れるところではどこでも、それらの運動は意識を創出し、言語を生き返らせ(ときとして、発明し)、名称をつくりだし、運動集団を他の集団と区別する習慣的実践を強調する、といったことがみられるのである」(ウォーラーステイン 1991:49)。言いかえれば「国家が国民をつくり上げるのであって、逆ではない。国家は、家族や学校、宗教などの社会装置を通じて国民を創出するのである」(姜 1996:184−185)。国民国家が近代的な産物であるという点は、アンダーソンらと同じ視点である。アンソニー・スミスは、前近代から存在する紐帯「エスニー」と近代的な「ネーション」の歴史的連続性を論じたが、第1章で述べた「種的同一性」という近代の特質性を考慮に入れるならば、このスミスの視点は否定せざるを得ない(Smith 1986、1995)。エスニーにおいては必ずしも「個」と「全体」が提喩的に結び付けられていなかった。つまり、エスニーとネーションの間には深い断絶があるのだ。そしてこの断絶こそ、ワースレイやリンドストロームが見逃していた、カーゴカルトとナショナリズムの間にある断絶と同種のものである。
 実際にこうした新興国民国家の担い手となるのは、西洋教育を受けた現地人、いわゆる「エリート」である。この点に関して、実はワースレイは、ナショナリズムを支えるエリートとカーゴカルトの指導者の違いに、微かにではあるが気付いていたようだ。

 オーソドックスな政治運動と、千年王国運動の主な違いは、前者のリーダーシップが、一般に都市から、教育を受けた者から、部族意識を持たない者から(私はこの語を差別的な意味で用いているのではない)、農耕民よりも産業、農業に関わる従業員から生じるということである。
                  (Worsely 1956:30、括弧内はワースレイの補足)

 ただ彼の場合、このあとに「勿論こういった人々は、より発展した千年王国運動をオーソドックスな政治運動に転化させることができるのだ」(Worsely 1956:30)という文章が続き、やはりその連続性が強調されてしまうのだが。吉岡も言及していることであるが、エリートの視点というのは、この地政学的境界線の「外」から眺める視点である(吉岡 1988:171)。「外」から眺める「内」は、均質でなければならない。エリートたちは「われわれ」らしさを語って、国民をひとつに統合していこうとするのであるが、その内実は、非常に曖昧なものになってしまう。それは、彼らの語りがその境界線「内」にいる、どの個人、集団にも当てはまらなくてはいけないからである。
 翻って、パリアウ運動を再考してみよう。パリアウの運動は、決して(現実的であれ、想像的であれ)境界線を確定しようとするものではなかった。パリアウ自身、運動の範囲において、「マヌス」という言葉を口にすることはあったが、それはきちんと定められたものではなく、運動の過程で自由にその範囲が伸縮し得るものであった。例えば次のようなパリアウの語りを再度引用してみよう。

 だがラバウルへ行くと、そこはアドミラルティと同じであった。ラバウルを出て、サラモアへ行った。そこも同じだった。警察官としてマダンにも行った。マダンのネイティヴたちのやり方を見ていたが、それも全く同じものであった。フィンシャーヴェンに行って、そこのネイティヴの慣習を観察した。また同じだった。ラエもカヴィエンも同じだった。そしてわれわれの文化はたった一種類しかないのだと気付いたのだった。
                             (Schwartz 1963:242)

 この語りにおいて「われわれ」というのは、マダンやフィンシャーヴェン、ラエ、カヴィエンといった地域も含まれている。だが実際にはこれらの地域はパリアウ運動には関わりはなかった。また「われわれ」に含まれるべきマヌス本島の北部でも、パリアウの考え方は受け入れられず、若者たちは商店を経営するなど、別の方法で経済的な刷新を図っていた(Carrier and Carrier 1991:74−75)。
 植民地接触後に太平洋の様々な地域の人々がひとつの場に集まり、そこで生み出される独特の言語や文化のことを、キージングは「プランテーション文化」と呼んだが、パリアウ運動や、あるいはパリアウ運動以前に散発していた運動は、こういった文化が生み出したものであるといってもいいだろう(Keesing 1988)。プランテーション文化は、(ピジン・イングリッシュを含め)文化的な拡張を生み出し、彼らの生活範囲を格段に広げたが、そのままナショナリズムに結びつくことはなかった。
 またカルトにおいては、同じように運動に関わっている近隣の島民を「よそもの」として排斥したり、集会に呼ばないといったことが少なからずあった。
 このようにパリアウ運動においては境界線は明確に引かれたものではなかった。そして、もしパリアウが「外」の視点を持ち合わせていたならば、運動の範囲はニューギニア全体か、少なくとも旧ドイツ領という、宗主国の引いた境界線を援用しなければいけなかった。新しい生活を目指すという運動の根本的内容に関しても、地域ごとに偏差が見られた。時期によってその内容が変化したり、士気の浮き沈みがあった。これらはつまり、パリアウやその他少数のリーダーたちの持つ、個人的なリーダーシップに依存するところがあまりにも多すぎた結果でもある。国民国家にあっては、「国民」は皆等しく「国民性」を有していなくてはいけなかった。パリアウ運動において、そのような均質性はどこにも見られない。
 そして実際に植民地が独立へと向かう過程を、吉岡は次のように述べている。

 民族国家建設の隠れた主役は、植民地状況そのものだったのである。エリート階層を生み出したのもまた、植民地状況なのである。民族国家は、搾取や圧制に対する反発から自発的に生まれてきたというよりも、植民地状況下で敷かれたレールの延長線上に既に準備されていたといえる。つまり民族国家は、植民地化される側の人々がつくったのではなく、植民地化する側の人々によってつくられたものなのである。
                              (吉岡 1988:172)

 パリアウ運動は、植民地政府がバトンを渡すべきランナーではなかった。実際にバトンを受け取ったのは、植民地側が育てたエリートであり、パリアウ運動が沈静化してから20年以上経てからのことになる。
 第1章でのひとつの結論として、文化を本来のコンテクストから乖離させ、何か別の目的のために(多くの場合、それは政治的である)別のコンテクストへ移行させるような働きを「近代」は有していたのだと述べた。実際、新興国家にあって、国民を統合し、均質な国民を創出するのに、この種の国民文化や国民教育は不可欠なものであった。多様な民族をその枠内に抱えるインドネシアやマレーシアでは、学校教育、特に国語教育が重要な位置を占めているし、太平洋においても、伝統的行事や慣習がその役割を果たしている。識字率の低いニューギニアでは、その役割は大衆演劇に、言語が多様で、複雑な地形のため人の往来に不便なヴァヌアツではラジオに託されている。

 最初、人々は自分たちの島にしか本質的な結びつきを持てずにいて、ヴィラ(Vila、現在のヴァヌアツの首都)と聴いても、別の国のように感じてしまい、そこに行くにはパスポートが必要だと感じる者もいたほどである。しかし、徐々に彼らは国家というものに結びつきを感じていったのだ。…(中略)…この時代(1970年代)に大きくなりつつあった土着政党は、どちらの植民地勢力(イギリスとフランス)からも区別されうる、ニ・ヴァヌアツ(ヴァヌアツ人)という統一体の概念を、政策の中心に置くことがあった。…(中略)…こういった観点から、カストムの重要性に関する国家的言説といったものが出始めるようになった。つまり、ラジオ番組は、彼らが思っている島ごとの多様性の中にも存在する統一という考え方に、地方のヴァヌアツ人の注意を向けさせるものであった。
                     (Bolton 1999:349、括弧内は筆者の補足)

 では、パリアウ運動において、この種の働きが作用していたのであろうか。上述したオットーの分析のように、確かにパリアウは「西洋的なもの」と「伝統的なもの」という二分的、対抗的な弁別を行い、それに即して自分たちの生活を改善しようとした。大きな祝宴、複雑な婚資の支払いは中止され、洋服の着用、現金の流通、村の清掃が奨励された。だが、そこで用いられる「西洋」「伝統」という器に入っている事象は、どんなものであれ、そして肯定的であれ否定的であれ、彼らの生活という本来的なコンテクストから乖離したものではなかった。つまり、威信を得るための祝宴であり、病気や人口減少を防ぐためのキリスト教であり、通貨としての貝貨や現金であった。アイデンティティの確立やメンバーを均質に統合するために、それらを用いたのではなかった。例えば、新興国家のエリートが用いるカストムの場合、広範囲な地域を、特定の伝統や文化で包含しなければいけないため、地域差が無視されることになり、国家のいうカストムは、われわれの村のカストムとは異なるという語りが生れることになり、時に国家を脅かすものになることもある。パリアウ運動の場合、この種の語りが生れることはなかった。それは、運動の中で「伝統」や「西洋」と考えられていた事象が、彼らの生活というコンテクストに直接根ざしたものだったからである。言い換えれば、これらの弁別は、決して誰かに対して語るための「対象」になったり、そのために離れた視点から「客体」化されたもの、すなわち近代的な「オブジェクティフィケーション」が浸透したものではなかったのだといえる。
 太田もオットーを引用しつつ、パリアウ運動を客体化された文化として捉えている。

 マヌスでのカーゴ運動が失敗に終わるという情報を入手した後、パイラウは親族関係優先主義から共同体社会へ、婚姻は村落政治優先から個人の選択優先へというように、独自の平等社会を根底にすえた社会改革運動を開始した。このような平等社会は、親族関係優先の人間関係やポリティカルな動機による婚姻を是認するシステムとしてパイラウが伝統文化を客体化し、それに対抗する価値観によって自己の運動を裏打ちした。つまり、パイラウは「新しい生き方(nupela pasin)」を伝統文化の倒立像として客体化したわけだ。
    (太田 1993a:391−392、括弧内は太田の補足、パイラウはパリアウの誤り)

 太田の「文化の客体化」の定義は第1章で述べた通りだが、彼(あるいはオットーやトーマス)にとっての客体化は、文化を他者に語るための道具として考え、そのためにある事象を選択し、コンテクストを移行させる必要がある。ゆえに必ずしも「語られる文化」は「生きられる文化」でなくても構わないのである。勿論、太田の言うような客体化を経た「語られる文化」というものは存在するし、それなりの力を持っているのであるが、それでも全ての文化を「語られるもの」として捉えてしまうところには限界がある。つまり彼は、このように力関係の中で文化を客体化し、生成する人々の生き方を肯定するあまり、逆に人々の生をその客体化された文化の中に幽閉させてしまっているのだ。「強者」からのまなざしに絡め取られながら「弱者」であることを「武器」にして生を営む人々の姿を見て、彼はそれを支配言説に対する「抵抗」だと言うのだが(例えば観光業、太田 1993)、彼らの帰属意識や生活が、弱者としての文化にだけ固定されてしまうのならば、そして彼らの発言がすべてその文化に根ざしているのならば、それは明確な「場」を持つカウンター・ディスコースの一種でしかない26。文化の柔軟性が介在する余地がそこにはない。そして明確な「場」を持ち、確かなアイデンティティを保持し、そこから自分たちの文化を対抗的に語るというスタイルは、ナショナリズムのそれと同種のものでもあるのだ。
 それでは、パリアウ運動、あるいはカーゴカルト全般において、「伝統」と「近代」あるいは、「われわれ」と「彼ら」を対抗的に弁別するという行為は、一体何だったのだろうか。清水はニコラス・タップを援用して、「パロディ」だと位置づける(清水 1995、cf.タップ 1995)。それは強大な西洋と接触した彼らの文化的創造なのである。しかし、西洋の強大さゆえに、彼らはいかなる反抗や従容も、西洋の与えた枠組みや図式の中で行わければいけなかった。

 「土着主義」の中身となるべきものは、もはや「土着」のものではなく、外来のものである。ここには、回復すべき文化もすでに奪われてしまったという、二重の自己喪失が観察される。彼らが文化的な創造を試みるとしても、それを導く価値と言語は、外部から与えられたものであった。再びニコラス・タップの図式になぞらえていえば、B(外部の支配的勢力)の影響を受けて、A(現地の文化native cultures)は、もはやAではなく、Bに染まったAの残滓BAに転化する。カーゴ・カルト運動は、BAが幻想のA―事実はさらなるBA―を追求した運動である。
                      (清水 1995:428、括弧内は清水の補足)

 あるいはこうした「われわれとは違う他者」に対して差異化を行うという現象は、普遍的なものなのかもしれない。「自己」あるいは「自分たちに属するもの」を指すものに対して、ティタン語話者を調査したミードは次のような指摘をしている。

 「システム」を見ることを可能にするような超然とした立場は、ヨーロッパ人に対してもそうだったように、自分たち独自の文化は、たくさんある文化の中でただひとつだけだという知識から生じる。つまりカイェ エ ジョジャ kaiye e joja (聞き手を除外するような、われわれの慣習)はカイェ エ アト kaiye e ato (彼らの慣習)やカイェ エ アウア kaiye e aua (あなたたちの慣習)という言葉と、世代を超えて比較される。人々は、自分たち独自のやり方と、隣人たちのやり方との違いをよく意識している。そして交易の友好関係や定期的な外婚が、この差異の本質という感覚を活発なものにしている。
                   (Mead 1956:96、括弧内はミードの補足)

 シュワルツもこの差異化について言及しており、マヌスの人々は、言語や振る舞い、歌の歌い方といった文化的要素のちょっとした違いに敏感であるのだと彼は述べる(Schwartz、1982)。そうした違いから、彼らは自らをグルーピングしていくのだが、この差異化、分裂化を促進する働きをシュワルツは「文化的トーテミズム」と呼ぶ。差異化された特徴は、そのままその集団、あるいは個人の所有する「財産」となる。つまり手工芸品の作成や漁猟といった行為の技術を特定の集団が保持し、それを他者に示すことによって自らの帰属意識を確立しているのである。シュワルツは、こうした帰属意識(エスニック・アイデンティティ)を主張するといった行為が近代国家に特有の問題ではないことや、その帰属意識は婚姻や交易を通じて決して固定されたものではないことを強調したが、しかし、彼の過ちとしては、「結果として生じている社会的弁別は種(species)のように理解されている」(Schwartz 1982:127)という言明が示すように、やはり帰属意識を種的なアナロジーに還元していることである。なぜなら、例えばリンネの博物学が示すように、種的な区分こそ最も「不自由」な、言い換えれば「近代的」な弁別法なのだから。
 パリアウ運動では「マヌス」「マタンコール」「ウシアイ」というそれまでのカテゴリーが「マヌス」というより高次のカテゴリーへ収斂されることが目標に掲げられたが、実際には運動の停滞期を境にこの考え方は破綻を来した。しかし一方、植民地的状況の中で、遠隔地間を往来する人々が増加するにしたがって「マヌス」というカテゴリーが形成されたのも事実である。このように人々は、眼前の「他者」に合わせて自由に「自己」を規定するのである。ここで重要なのは、この「他者」が収縮自在だということである。あるときには隣の村落であり、島であり、リネージである。そしてそれは「他者」もまた「自己」になりうるという、帰属意識の柔軟さを示している。だが国家のエリートが用いる「カストム」はその地政学的境界を国民国家の境界線と重ね合わせた。その思考はいかなる重複や過不足を許さない、つまり「100%か0%」(松田 1992)という「科学的思考」に基づいている。その一方で「カーゴカルト」では、上述したように、境界線が自由に収縮し、内容も臨機応変に変化する。つまりそこで用いられた弁別は、「生活の便宜に支えられた、素朴で可視的な日常の共同に起源を求めることができる」(松田 1992:33)差異なのである。その機能はセルトーが「戦略」「戦術」と呼んだものにそれぞれ対応する。

 わたしが「戦略」とよぶのは、意志と権力の主体(所有者、企業、都市、学術制度など)が周囲の「環境」から身をひきはなし、独立を保ってはじめて可能になるような力関係の計算のことである。こうした戦略は、おのれに固有のものとして境界線をひけるような一定の場所を前提しており、それゆえ、はっきり敵とわかっているもの(競争相手、敵方、客、研究の「目標」ないし「対象」)にたいするさまざまな関係を管理できるような場所を前提にしている。政治的、経済的、科学的な合理性というのは、このような戦略モデルのうえに成りたっている。
 これにたいしてわたしが「戦術」とよぶのは、これといってなにか自分に固有のものがあるわけでもなく、したがって相手の全体を見おさめ、自分と区別できるような境界線があるわけでもないのに、計算をはかることである。戦術にそなわる場は他者の場でしかないのだ。それは、相手の持ち場の全貌もしらず、距離をはかることもできないままに、ひょいとそこにしのびこむ。戦術には、おのれの優性をかため、拡張をはかり、状況に左右されない独立性を保てるような基地がそなわっていないのである。
             (セルトー 1987:25−26、強調、括弧内はセルトーの補足)

 パリアウの運動を少し巨視的に見てみよう。反西洋的にもかかわらず、その組織や行動は植民地政府の(特にアメリカの)模倣や流用だった。反キリスト教にもかかわらず、聖書の教えを自分たちの都合のいいように組み替えた。そして反植民地的な性格は、パリアウがポートモレスビーに拘留され、植民地行政側の思惑を教化されると一転し、親―植民地的な「政策」をとった。それが端的に表れているのが、現地人議会の導入である(Otto 1992:445)。もしパリアウ運動や他のカーゴカルトが、ワースレイのいうような「オーソドックスな政治運動」ならば、このような首尾一貫性のなさは持ち合わせていないだろう。
 第1章で「生活実践としての語り」について述べたが、パリアウ運動は見事にこの特徴を有している。それは他者の模倣や流用であるかもしれない。全体的に見ると、断片的で首尾一貫していないかもしれない。しかし「本来」、人々の生活というものは、こういった知に立脚しているものではなかっただろうか。小田が「真正な文化」と呼ぶのは、このレベルの「文化」である(小田 1996)。客体化という行為についていえば、それは前川の言う「原理的客体化」ということができる(前川 1997)。提喩的変換の過程を経ない知のあり方、これこそ、近年の人類学が見逃していたものだったのである。
 
第4節 おわりに

 近代は人間に「同一化」を求めた。すなわちアイデンティティ(自己同一性)の誕生である。しかし、これまで述べてきた彼らの生が示すのは、この近代の構造を相対化するものである。そこでは重複する帰属意識は存在しても、アイデンティティは存在しない。
 人々の思考は、柔軟にこの「同一化」を拒んできた。「柔軟に」拒むということは、決してカウンターディスコースを形成することではない。それは「受容」(松田 1998)であり、「消費」(セルトー 1987)である。そこで大切なのは「あれか、これか」ではなく「あれも、これも」という思考である。

 たとえば隣国のウガンダから「密入国」してきたギス人は、ケニヤ国民であるブスク人を名乗って生活している。村人は皆それを知っているが、自前の国籍転換は彼ら自身もよくやる生活の方便である。あるいはマラゴリ人の彼らも、ルオランドの地方都市で働くときにはルオ人に変身することはよくある。また他民族出身者を自民族へと儀礼的に変換したうえで、彼らが組織する民族結社に受け入れることは日常茶飯事の光景である。
                                (松田 1998:84)

 あるいは民族主義と国民国家が衝突している中で、そのどちらの根底にも根付いている近代性を、「ユーモア」で相対化している書物も存在する。

 サラエボはやせた人ばかりだ。彼らなら最新のダイエット法についての本が書ける。唯一必要なのは街を包囲させること―シェイプアップの秘策はそれだ。誰もがほっそりとしていた若い頃の服を着ている。サラエボ市民はおよそ4000トンの体重を減らした(40万人が10キログラムの体重を減らしたとして)。
                              (FAMA 1994:8)

 メガネ屋では10種類ほどのメガネのフレームを売っている。それらはカウンターの下の安全な場所に保管してある。フレームの値段はあまり高くない。けれども近頃メガネのレンズを買いにくる人はいない。メガネをかけると、なにもかもよく見え過ぎるからだ。
                              (FAMA 1994:37)

 こうした旅行案内ガイドブック風の記述は、単に戦争を茶化しているわけではなく、「民族主義からもナショナリズムからも完全に逃れている」(多木 1999:154)点で、非常に有効な言説となる。
 そして西洋から「食人種」「楽園」「高貴な野蛮人」のまなざしを受けるならば、喜んでそれを受け入れるかもしれないし、あるいは声高に反発するかもしれない。ただ、彼らの生はそこにのみ立脚するものではなく、多層的な帰属を可能にする。人類学者が、彼らの生をただひとつの生き方に固定して記述するならば、それは「権力的」という批判を受けてしかるべきなのである(cf.フーコー 1977)。吉岡の述べるように、「いいかげんであるが故に臨機応変」(吉岡 n.d.)な彼らの生き方、セルトーの言う「柔らかい文化」(セルトー 1990)を、人類学はもう一度正面から捉え直す必要があるだろう。人類学が主に西洋以外の、いわゆる「第三世界」を扱い、そこから近代西洋の知を相対化することができたとき、本当の「人間学」としての役割を果たすものだと私は考えている。




1 カストム(KastomあるいはKastam)とはメラネシアのピジン語で「伝統」を指す語である。
2 その代表例として、彼はフィジーにおける互酬的な贈与交換であるケレケレを挙げている。またサーリンズとトーマスの論争に関しては宮崎 1994、杉島 1996、吉岡 n.d.に詳しい。
3 この三人の研究者を「同じ地平に立つ」、あるいは「サバルタンになる」というイディオムに依拠して一括りにするのは、ある意味で不注意なことかもしれない。なぜなら三人は、それぞれ力点が異なるからである。例えば小田において重要なことは、「サバルタンになる」という言明の「サバルタン」の部分である。彼は「自分が知識人として勝利者の側にいるという事実を自らの敗北とすること」(小田 1998:466)で、被抑圧者と敗北を共有しようとしているのである。すなわち、彼は政治的な場における、まさにその政治性を乗り越えて、文字通り「サバルタンになる」ことを志向するのである。一方松田は、いわば「サバルタンになる」の「なる」の部分に比重が置かれる。つまりそれは必ずしも「サバルタン」という歴史から排除された人々や構造的な弱者でなくても構わないのであって、「他者」との生活世界における、人間的な営為に基づく「実感」が重要になる。すなわち、「フィールドで、自分自身の日常の営みをつくることによって、調査する者とされる者との立場の違いをそのままにして、同じ生活者の地平にたった交流・交感ができるようにな」(松田 1999:250)ることが人類学者の思考の根源になると考えるのだ。小田が政治的な場の「敗北者」の側に降りていこうとする態度であるならば、関根の志向は出発点こそ政治的な場であれ、目標地点は「〈地続き〉の場所」、すなわち「自然的態度を括弧に入れて、彼らも私も不完全な人間として、「秩序を求めることで差別を生み出す存在」であるという認識まで降りて行けば、差別する者と差別される者とが判然とは分けられないことに気づきつつ、対等な視線を獲得できる」(関根 1995:4)ような場である(関根 1994、1995、1997)。「サバルタン(あるいは他者)になる」という言明の是非を問いただすだけではなく、その多様さに気付くことも重要なのではあるまいか。
4 この章の記述は特に注釈をつけない限り、シュワルツの記述による(Schwartz 1962)。
5 この3つのカテゴリーはパーキンソン(Parkinson 1907)によって定義され、ミード、シュワルツなど、後の人類学者が用いるようになったものである。だがキャリアーらが示すように、こうした区分にはいくつかの欠点がある。まず、カテゴリー内のグループが均質であるかのような印象を与えること(実際に文化的、言語的に均質なのは「マヌス」だけである)。そしてこの区分自体、彼らに普遍的に用いられている区分ではないということである(Carrier and Carrier 1989:34−36)。だが、ここではシュワルツの記述に沿って運動の過程を追っていくため、そのままこの区分を用いることにする。
6 初期の接触から植民地政府が設立される頃のマヌス(特にバルアン島周辺)での白人とネイティヴとの関係や行為についてはオットーの論文に詳しい(Otto 1991:77−103)。
7 若者の流出に関して、キャリアーらは村での労働の性的分業や生産物に大きな変化があったと主張するのに対し、オットーは、こうした未婚の若者はもともと戦士層なので、それほど村の経済に影響はなかったと述べている(Carrier and Carrier 1989:78−79、Otto 1991:135−137)。
8 また一方で、オットーは、たとえ同じ村落やリネージ出身であっても、契約労働における職種の違いが、後の彼らの西洋世界への考え方に影響すると指摘している(Otto 1991:140)。
9 ミード、オットーの記述ではムブケMbukeとなっている。
10 後にナポがシュワルツに語った回想談。
11 オットーの記述ではラムブチョ Rambutyoとなっている。
12 後にルンガットがシュワルツに語った回想談。
13 ミードの記述ではバニャロBanyaloとなっている。
14 パリアウの出生年については、1907年、1892年、1884年など諸説あり、正確な生年月日は不明(cf.Wanek 1996:198)。
15 姉がひとりいたのだが、自分が生れるとすぐに死んでしまった、とシュワルツに語っている一方で、後の回想録ではそのことについて言及せず、「私には兄弟も姉妹もいなかった」と述べている(Maloat 1970:144−145参照)。
16 オットーの記述には、それぞれジョセフ・パリル Joseph Paril、ニノウ・ナムウェット Ninou Namwetとある(Otto 1992:430参照)。
17 パリアウの父にも兄弟姉妹はいなかった(Maloat 1970:144−145参照)。
18  別のところでパリアウは、出稼ぎに行ったのは1924年、17歳の時だと述べている(Maloat 1970:144−145参照)。
19  当時の彼の給料は、1ヶ月当たり2シリングと布が一切れ、そして週に一度、タバコ2本、マッチ、石鹸などがもらえた。
20 ミードの記述ではワピWapiとなっている。
21 議会の設置は東ニューブリテンのヴナママイ、ラインバーに次ぐ、ニューギニアで3番目のものであった(Otto 1991:173)。
22 この頃の政府の文書には、パリアウに権力が集中していくのを憂慮するものが多い。例えば「自らの政府を設立しようとしている」「日本に協力的で、反西洋的なネイティヴ」「悪魔のような男」など。またマヌスからパリアウを追放しようという声も多かった。詳細はOtto 1991:172−174。
23 その後のパリアウ運動の活動については、Wanek 1996参照。
24 ノイズとグリアはほぼ同じ意味で用いられるが、グリアが主に身体の痙攣を示し、ノイズはカルトにおける神秘的な力の側面を示している(cf.Schwartz 1962:268、脚注1)。
25 マアシナ・ルール運動(Maasina Rule Movement)は、1944年頃から50年頃にかけて、ソロモン諸島、マライタ島を中心に起こった運動である。「プランテーション文化」や日本軍を放逐したアメリカ軍の影響を受けた、ノノオヒマエ、ノリ、ハリシマエ、ホアシハウ、ティモシー・ジョージらがリーダーとなり、ピーク時には数万人もの支持者を得るまでに至った。運動の特徴について、棚橋は次のように述べている。

 当時の宣伝文書によれば、同運動は、地域社会の再編成、共同社会の推進、首長階層制による現地人政治組織の実現、行政・プランテーション労働・法制の改善に関する植民地行政府との集団交渉、の四つのテーマを掲げていた。より具体的には、伝統的な血讐関係や、言語と宗教の差異はあっても、兄弟姉妹の規則を共に守り、一つにまとまって全島的な政治組織を造り上げることを目標にした。この政治組織とは、マライタ島を九つの小区域、更に村落管区、タウンに細分し、小区域には総首長、村落区域には正首長を置いて統率をはかるという、階層的なものであった。タウンとは二百から三百名の運動支持者を集めて沿岸部に建設された新しい村落のことで、これを生活単位に共同菜園を耕し、産物を市場に出荷しようとした。タウンでの生活は指導長の管理下にあり、彼は戦闘長が率いる現地人議会警察隊を統率して治安をはかった。警察隊は植民地行政府の村落巡査を真似たかのように警棒を携帯し、警察隊の略号の入った腕章・肩章をつけていたという。運動の全体行動としては人頭税の支払い拒否を重要な戦術に、国内外プランテーションの労賃と労働条件の改善、医療・教育施設の充実を掲げて植民地政府との集団交渉を繰り返し、集団交渉の費用と称して総首長が運動税を徴収してまわった。
                                (棚橋 1998:276)

 その一方で「多くの原住民は、イギリス人は財産を他人に与えることをしない人々だと考え、反対にアメリカ人を「LST(上陸用舟艇)」や「リバティー型船」に乗ってやってくる救世主だとみなし」(ワースレイ 1981:242)、「それを待望して灯火台を立て、アメリカ兵が持ってくるはずの積荷を入れる小屋を建設」(棚橋 1998:277)するなど、カーゴカルト的な特徴も有していた。
 しかし1948年にリーダー10名を含む253人が逮捕され、翌1949年駐留アメリカ軍が撤退すると、運動の士気は衰えた。学校の建設やマライタ地区議会を設置するなど、社会運動としての痕跡を残しつつも、50年代初頭には終息へと向った。
 この運動に対して、ワースレイは、パリアウ運動と同様「近代的な民族主義の組織であった」(ワースレイ 1981:248)と断言し、一方で棚橋は「マアシナ・ルール運動は「我々のやり方」を前面に出して団結をはかり、植民地行政に対抗していった。その根底にあるのは、プランテーションで育まれた支配者に対する被支配者の対立意識である。この対立意識は「彼らのやり方」を本質化し、それに対立するものとして、「我々のやり方」すなわち「伝統」の本質化を促した」(棚橋 1998:279)、つまり、客体化された文化であると述べている。
 なお、マアシナ・ルール運動の詳細については、Keesing 1978、ワースレイ 1981、棚橋 1993、1998を参照。
26 人類学が、他の学問の領域と違い、より現実社会に近いところから発言することを鑑みれば、こうした太田に対する批判は不当なものかもしれない。太田にとって重要なのは、その理論構成ではなく、発話のポジションだからである。つまり、現実社会の中で、抑圧されている人々がいて、彼らが自らの地位を向上させるために用いる「本質主義」を、西洋の(抑圧者側の)知の論理と通底するからといって、無批判に排除すべきではないと彼は論じる。そうすることで、被抑圧者の受けている暴力やそれに抗う「主体性」を忘却する危険性がそこには存在するのである(太田 1998)。このことに関連して、松田も同様の立場に立つ。「弱者というカルチャーを認定したとたん、多様な個人を超越した一枚岩の他者としての弱者が抑圧的に出現するが、そのカルチャーを否認してしまうと、現実の不利益を生む構造が温存されてしまう」(松田 1999:253)というジレンマを克服するために、彼は人類学者の「戦術的リアリズム」を提唱する。それは非本質主義者、構築主義者の正統性を認めたうえで、「現前する不正な構造に対する「政治的な責務」を放棄することは決してしないために、便宜的に」(松田 1999:253)本質主義的なまとまりを活用するという、危ういけれども、より現実的なポジションである。こうした人類学者のポジションについての可能性は別稿に譲りたいと思う。

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