開発人類学の可能性ー日本の近代化と持続可能な開発

池内明弘

要約

序章 開発の歴史と現状
 1949年のトルーマン米大統領の就任演説で、国家や国民の政策上の獲得目標として掲げられた開発は、ロストウの経済発展段階論によって支えられ、世界中で行われることとなった。しかし、そのような開発は想定通りには成功せず、逆に飢餓や貧富の差,環境問題などを引き起こした。こういった事態を前にして、経済や政治ではなく文化や社会に主眼を置いた持続可能な開発が求められるようになった。しかし、持続可能な開発のためには多くの問題があり、その実現が開発分野における今後の大きなテーマである。
 そして、持続可能な開発の実現のために、本論文では、日本の近代化を参考にすることを提案する。「日本はどうやって伝統文化を守りながら近代化したのか」という途上国民の言葉に彼らの理想と願望を見出し、その実現のために日本の近代化過程の例を利用するのである。

第1章 開発人類学と開発の失敗
第1節 開発に関する人類学の議論
 ここでは、開発に関して人類学からどのような議論が行われているかを取り上げる。
 農村社会の開発に関する議論は盛んに行われており、そのなかでも、ロアデスやルッツ、ハイザーの議論に見られるように、伝統知の再評価、西洋の側が変わること、農民の自発性の重視、という三つの要素は特に重要なものになっている。本論文ではそれら三つを持続可能な開発にとって不可欠なものと考え、この立場に立って開発を考えていく。
第2節 ソロモン諸島おける開発
 ここでは、ソロモン諸島における開発の失敗例を挙げ、先ほど挙げた三つの要素が守られていたかを見ていく。
 一つ目の例は、木材会社リーバースと住民の土地境界の認識の違い、そして何より、リーバースが互酬性という住民のカスタムを破ったことによる失敗であった。したがって、この例では三つの要素は守られていない。
 二つ目の例は、住民の自発的な開発であったが、人々が、ワントークの関係が悪化するのを恐れたために失敗した。この例では三つの要素は守られていたと思われるが、開発は成功しなかった。つまり、持続可能な開発にはもっと他の要素も必要だということになる。

第2章 日本の近代化
 この章では、日本の近代化を分析することで、持続可能な開発に必要な要素を導き出す。
第一節 「近代化」と「開発」
 日本の発展については、一般に「近代化」という言葉が使われ、逆に途上国については「開発」が使われる。この使い分けはなぜ行われているのか、それは、「近代化」と「開発」が全く別のものというのではなく、単に語られ方が違うだけだと考えられる。日本を語るのは日本人自身のため、自主的な行為として「近代化」を使い、途上国を語るのは開発する側であるため「開発」を使うのである。
第二節 日本の近代化
 日本の近代化は明治時代に始まった。国内政治の面では、学制、徴兵令、地租改正が行われ、西洋的制度が取り入れられ、強制的に伝統文化が取って代わられた。人々の生活面でも様々な西洋的なものが入ってきたが、その際には、日本人はそれらを自らの好みに応じて取り入れたり、拒否したり、あるいは和洋折衷を行うことで伝統文化を守った。この作業に見られるように、日本人は、伝統文化の中に西洋文化を取り入れることで伝統文化を守ってきており、政治面の近代化も結局は自ら取り入れることを選んだといえる。このように見てくると、日本の近代化は、生活面に見られるように、文化の取捨選択の自由が与えられていたということと、そして、他文化を伝統文化の中に取り入れ、自文化を作り変えるという作業を日本人が行うことができたことによってもたらされたものであることがわかる。したがって、この二つの要素を持続可能な開発に必要な要素に加えることにする。

第3章 持続可能な開発
第1節 ソロモン諸島と日本
 ソロモン諸島と日本の例を比較すると、ソロモン諸島の開発が成功しなかったのは、何より、ソロモン人が自文化を作り変えることができなかったことによることがわかる。したがって、ソロモン諸島が開発を成功させるためには、そういった日本人的な他文化に対する柔軟性と適応力を身につけることが必要である。
第2節 開発途上国の現実
 日本の例から導き出された「文化の取捨選択の自由」という要素は、そのまま途上国の開発に適用できると考えることはできない。というのは、途上国諸国は歴史上植民地化を受けており、現在でもその影響が残っているせいで、文化の取捨選択が可能な国家状況にないという現実があるからである。その問題を解消するためには、先進国による援助が不可欠であろう。
第3節 持続可能な開発のために
 ここまで挙げてきた五つの要素を満たすことは非常に難しい。特に、自文化を作り変えるという最後の要素は、他の要素とは異なり、途上国の人々自身によって行われなければならないため困難を極める。それを実現するために、ここでは、西洋文化と伝統文化の融合策を提案することが有意義と考える。日本と同様のやり方なら、ソロモン人も関心を持つだろうと考えるわけである。そして、その融合策として具体的に、ソロモン諸島の開発の失敗の原因となったワントークと土地所有に関して、土地の売買という作業を導入することを提案する。土地の売買を行うことで、ワントークとの関係悪化なしに開発を行うことができる。しかもこれは,ワントーク間の互酬性にも対応しているのである。
 持続可能な開発の実現のためにはまだまだ多数の問題があるが、本論文で行ったような日本の近代化を参考にするという行為による開発の提案も考えられても良いものであろう。そういった多数の問題が解決されるのはまだまだ先のことであろうが、いつの日か持続可能な開発が行われることを期待している。

序章  開発の歴史と現状

 「開発」という言葉が、現在のような国家や国民の政策上の獲得目標として使われたのは、1949年のトルーマン米大統領の就任演説が最初であった。その演説において、開発は、先進国のもつ科学技術と産業を適用しながら資本を投下し、生産の拡大を実現することであると定義され、それをもっとも必要としているのが低開発国であるとされた。[小林 1997:204-205]そしてこれに伴って、世界中の様々な地域において、開発の気運が高まっていった。国際連合は1961年に「国連開発の十年」を決議し、その後それは、現在の「第四次国連開発の十年」まで続いている。また、UNCTAD(国連貿易開発会議)やUNDP(国連開発計画)、国際開発委員会といった具体的な機関が設置され、開発を強力に推進していった。[小林 1997:206]
 このような開発に関する動きの中で、特に大きな影響を及ぼし、開発を根底から支えた理論にロストウの経済発展理論がある。この理論は、世界中の全ての国は、五つの段階を取って直線的な発展をしていくものであり、現在発展の初期段階にある国でも、経済開発を行えばやがて五段階のもっとも上にいる西洋社会のレベルに到達できるとするものであった。このロストウの近代化論は当時の欧米で広く受け入れられ、支配的な考えとなった。[ヴェルヘルスト 1997:47-48,足立 1995:121-122]
 しかし、ロストウの近代化論は開発を経済的発展や物質主義に直結させてしまう点[ヴェルヘルスト 1995:48-49]や、発展は一国で可能であり、そのためにはその国の同質的な伝統社会を解体し、分化させ、組みかえ、新たな統合を創り出す必要があるとする点で非常に一系進化的かつ機能主義的であるという大きな問題点を抱えていた。[足立 1995:122]そして実際この近代化論に基づいて行われた開発は想定どおりには成功していない。確かに、乳児死亡率の低下、平均寿命の伸び、成人識字率の向上、児童就学率の増加、食糧生産の拡大などの前進をもたらしたことは事実だが、その前進と同時にもっと深刻な事態をも生み出している。飢餓人口、読み書きのできない人々、水と住環境を確保できない人々、燃料に事欠く人々の増加や貧富の差の拡大、そして環境問題。こういった事実を考慮すれば、これまで行われてきた近代化論に基づく開発、発展は世界中のほとんどの国で成功しなかったといえるのである。[小林 1997:210]
 このような事態を前にして、これまでの近代化論の問題点を克服するため新たな開発論が生まれてきた。そこでは、最貧層の基本的ニーズの優先や第三世界の人々の独自の基本的ニーズの確保が叫ばれ、その中には、宗教的、文化的ニーズも含まれるようになった。つまり、これまでの近代化論が政治学や経済学に主眼をおいていたのに対して、文化や社会に主眼を置いて開発の問題を扱おうという動きになってきたのである。[足立 1995:123]
 しかし、このような開発論が展開されているにも関わらず、いまだに世界の多くの地域では、近代化、西欧化としての開発が行われており、開発に関する問題も依然として解決されていないままである。[足立 1995:123]ヴェルヘルストは、「もはや有効な開発モデルは皆無に等しい」と述べたし[ヴェルヘルスト 1994:27]、ザックスも「過去四十年間の開発の時代はすでに終わりつつある」と述べている。[小林 1997:209-210]このことがその事実を象徴していると言えるだろう。今後は文化や社会を重視した新しい開発のあり方を構築し、それを確立していくよう努力しなければならない。
 これまで、世界中の様々な地域や国において開発が行われ、そのほとんどが満足な結果を残していないことは先ほど述べた。しかしそれにもまして重要なのは、そんな効果の乏しい開発であったにも関わらず、様々な問題を生み出してしまったということである。
 そもそも開発というものは西洋で生まれたものであり、これまで、その目指すところは西洋近代の指標に基づく発展であり豊かさであった。それゆえ、たとえ開発途上国が国家の発展のために開発を望んだとしても、大衆が西洋近代の価値観を理解できないかぎりにおいて開発の成功はありえない。こういった根本的な欠陥が存在するにも関わらず、現地の文化に促した方法を模索することなく一方的に西洋の価値観を押し付けようとした結果、現地の文化や社会を破壊したり、反発を受けたりして、結局は持ちこんだ価値観すら浸透させることができないまま、単に現地社会を乱すという影響だけを残していることが多い。
 また、よく言われることであるが、開発の恩恵を、本当にそれを必要としている最貧層の人々が受けることができていないことも多い。つまり、恩恵を受けているのは一部の人々や官僚だけであって、その結果貧富の差を拡大させてしまっているということである。開発は、それが受け入れ国の要求に基づいているといっても、国家と国民は同一ではないので、国家の要求を満たしたことがその国民である人間の要求を満たしたことにはならないのである。[松本 1997:151]
 さらに、こういった開発途上国内での構造による弊害だけでなく、開発する側とされる側の力関係の不均等というものが、開発を成功させていない要因ともなっている。
 こういった様々な問題が開発によって生み出されてきた結果、開発途上国の周辺部の人々からは反開発の動きも出てきた。しかし、反開発を唱える人々がいる一方で、電気やガス、水道があり、交通や通信の便も良い都市のエリート階層の「近代的」な生活を望む人々も少なくない。[小田 1997:71]こうしたジレンマの中、最近になって、「内発的開発」や「持続可能な開発」、「住民参加型の開発」が強く求められるようになった。これは、こういった開発の問題点を克服するために、国民国家の経済成長を至上とするのではなく、そこで生活する人々の土着の知に根付いた開発を目指そうとするものである。[小田 1997:71-72]また、それと同時に、現在の開発の必須事項である文化や社会に重点を置くものでもある。ただ、この実行においても、従来のような西洋側の考え出した開発案を持ちこみ、それに参加させるだけといった開発になってしまわないように十分な注意が必要であるし、また、西洋側と住民側の様々な文化の相違からくる困難をこれまで以上に根気良く乗り越えていく準備をしておかなければならない。
 以上のように、開発はこれまでの歴史の中で様々な問題にぶつかってきたし、これから解決されるべき問題も山積みにされている。これまでほとんどの開発プロジェクトが成功していない現状にも関わらず、それでも成功を望まれているプロジェクトが多数存在する。その成功のためにどのような方法を取ればよいのか、それぞれの社会、文化に促したそれぞれの開発方法、それが今後、人類学が答えていかなければならない問題である。
 そういった問題に答えるために、ひとつの提案をしたい。これまでほとんどの開発プロジェクトが失敗に終わったのは事実であるが、逆に成功したものも存在する。そしてそのもっとも顕著な例が、日本の近代化過程である。つまり、開発史上最大の成功である日本の例を、他の国の開発の際に応用してはどうかと思うのである。そう考える理由は二つある。ひとつには、成功例を参考にすることによって、より効率的に開発を進めることができると思われるからである。これまでのようにひたすら懸命に開発を進めようとするのではなく、成功例を効果的に用いて進めていく、そのほうが賢明であるし、なによりそうすることでこれまでのような失敗例を減らすことができる。二つ目には、これが最大の理由なのであるが、日本の近代化には、現在の開発途上国が望む近代化の姿が存在するからである。それはすなわち、伝統文化を保持しながらの近代化である。開発がうまくいっていない国の住民は、「日本はどうやって伝統文化を守りながら近代化したのか」と尋ねるという。これはつまり、彼らもそういう近代化を実現したいと望んでいるということではないか。これまで開発の代償に伝統文化を破壊されてきた人々にとっては、日本の近代化はまさに理想に近いものなのだろう。
 こうした日本型モデルの適用についてはすでに様々な議論がなされている。そしてもちろんこれに対しては、西洋型モデルを日本型モデルにすりかえただけの自文化中心主義であり、普遍主義であるという反論が出てくるだろう。また、日本で可能であったからといって、それをそのまま全く異なる社会や文化を持つ国に適用できるほど開発は簡単ではないし、それこそ西洋のしてきたことへの回帰でしかないというような反論もあるだろう。しかしここでは、日本で成功したパターンをそっくりそのまま他の国に適用することを目的とするのではなく、あくまで考え方を参考にすることを目的とするのである。つまり、日本では、西洋文化と日本文化の折り合いをどのようにつけていったのか、西洋のやり方をどのようにして日本に合うようにアレンジして取り入れたのか、というような、考え方や適応の仕方の面を参考にしたいと考える。そしてそこから、今後望まれる持続可能な開発の姿や実行の方法を人類学の立場から模索していくことを本論文の最大の目的としたい。
 以後、第一章では、開発に関してどのような議論が行われてきたのか、また、これまで行われた開発がどのような失敗をしてきたのか、ソロモン諸島の事例を挙げてみていく。第二章では、日本はどのようにして伝統文化を守りながら近代化したのか、そして、日本は本当に伝統文化を守りながら近代化したといえるのかについて分析を行い、第三章では日本とソロモン諸島の開発例を比較し、今後どのような開発を行っていくべきかについて論じていく。

第1章   開発人類学と開発の失敗

第1節   開発に関する人類学の議論

序論では、開発に関して、主に経済学的な側面について取り上げて開発の現状を示してきた。そこで、ここではまず、開発について人類学の視点からどのような議論がなされているのか、とくに、現在重要視されている、持続可能な開発についての議論を見ていきたい。
 人類学からの開発の議論の主たるものとして、農村社会に関するものがある。そのような議論において、ロアデスは、革新(技術、制度)は、既存の伝統を排除するのではなく、伝統の上に築かれるべきであるとし、ルッツは、伝統的農業システムがそのまま農業の生産性向上に有効であることを示した。[Rutz 1976] [玉置 1988:183]これらの議論は、それまでの西洋中心的な開発のあり方に対して、農村社会の伝統を重視するべきだとした点で、大変意味のあるものである。というのも、それまでの開発は、ヴィテブスキーが指摘したように、「他者のそれまでの知の状態を、無知に変換することによって終わらせる事」[Vitebski 1993:108]に本質があるというものであったからである。開発において、農村社会の伝統的な制度や思考といった知は、西洋の理論的な知によって否定され、西洋的知こそがまっとうなものとして、取って代わるという現実があったのである。それゆえ、ロデアスやルッツの議論に代表されるような、伝統知を保護しようという姿勢や、あるいは、伝統的な知には経験的な基礎があり、合理的な機能がある[玉置 1995:97]とする考え方は、現在の人類学において盛んに行われる様になっている。それと同時に、実際の開発の現場においても、伝統的知識を利用した開発例が見られるようになったし、また、近代の側が、伝統社会の知から学ぼうとする発想も見られる[玉置 1995:98]。こういった動きは、開発にとって非常に価値の高いものである。それは単に伝統的社会の知が破壊され現地の住民の生活体系を狂わせてしまうことがなくなるという意味においてだけではなく、大げさに評価すれば、西洋の側が、自らの価値観が普遍的なものではなく、ほかの社会にも評価すべき価値観や制度が存在すると認識できるようになったということもできる点でである。西洋が自らを変えることができたという事実は、これまで失敗を繰り返してきた開発にとって、これ以上ない明るい光である。その意味で、この伝統知の再評価という議論は、待望の議論である。
 農村社会における土地改革についても、人類学は熱心な議論を行っている。その議論を紹介する前に、土地改革の行われる理由について少し触れてみたい。
 土地改革の目的としては、社会経済的変革と、農業の生産性の向上という二点が主に挙げられる[玉置1988:187]。そして、その目的達成を目指す国は様々な理由を持つと考えられる。たとえば、国際社会の中で、国自体の位置を確立し、保持する必要性が挙げられる。開発途上国は当然ながら工業化が進んでいないので、そのためには、農業を基盤とした経済がまず第一に考えられる。国内社会の構造においては、貧農の収入を増加させ、貧富の差を縮小しなければならない。また、急激な人口増加の進んでいる地域では、農業生産の向上なしには生活もままならないこともある。もちろん、貧富の差や人口増加と言った問題は、序論で触れたように、開発によってもたらされた弊害である。しかし、現実問題としてこれらを放っておくわけにはいかず、開発によって除去しなければならない。そうせずに開発以前の状態に戻ろうというのならば、それはその国家が国際社会の中で取り残されてしまうことにつながるのである。このような背景がある中で、これらの現実問題を解決するための最初の取り組みとして、土地改革が行われることになる。ではなぜ土地改革がなされなければならないのか、これらの問題を解決するためなら農業技術改革だけで事足りるのではないか、という疑問が浮かびあがる。その理由は西洋的観点から見ると、開発途上国の伝統的土地制度があまりにも特殊で、そのままでは西洋的農業技術を取り入れられないか、取り入れても継続できないという事情があるからである。途上国政府が西洋的発展を望むのに対し、国内の農村社会では、西洋的農業を受け入れる体勢ができていない。そこで、農村社会を受け入れ可能にするために伝統的土地制度自体の改革が必要となるのである。また、土地改革なくして農業生産の近代化の成果をあげた場合、その恩恵は平等に分配されず、逆に貧富の差の拡大につながっている。[スタベンハーゲン 1981:44]こうしたことからも、土地改革がまず第一に必要だということが感じられる。そしてその成功後、金融、技術的援助、さらには各種の支援的サービスが行われることになる。[スタベンハーゲン 1981:270]しかし、こういった土地改革の性質上、その作業はきわめて困難で、かつ慎重に取り扱われるべき問題である。
 土地改革において、特に重要なのが、メアーによると、特定の地域の人々に画一化した「近代化」を押し付ける前に、どういう制度が彼らに適しているかを知ることである。というのも、土地改革を行う者は、伝統的土地制度は非合理的なものであるという考えを持ちがちだからである。実際にはそれぞれの社会において伝統的土地制度は独自の利点や効果を持っていることもあるのである。[玉置1988:187]それゆえ、そういった利点や効果を活かした開発を行っていくことも重要である。いずれにせよ伝統的土地制度の詳細な知識を持った改革が必要とされる。このような土地改革論は前述の例と同様に重要であるし、人類学が成さなければならないものである。
 ハイザーは、土地改革の成功のためには、土地改革の過程そのもの及び改革後の活動への農民の参加が重要であるとする。[玉置 1988:187]農民の参加なしには土地改革は成功しないのだ。さらに、急進的な政治変革も必要だという。初期に革命的な効果を与えた改革も、政治改革が行われないことにより、後にその改革自体が保守的なものとなることがある。この様に「ある種の改良が革命的改良と成るか否かは、改良それ自体よりも、発展の全過程におけるその位置、ならびにその他の行動と改良との相互関係の如何によって決せられる」[スタベンハーゲン 1981:308]のである。玉置はこの実状を踏まえた上で「改革に農民を参加させるための農民の組織化、教育にも人類学が貢献できる」[玉置1988:188]としている。しかし、ここで、「組織化」「教育」という表現には疑問を感じずにはいられない。「組織化」「教育」とも、上の立場に立ったもののいい方であり、開発者が農民を操作して改革に参加させるというようなニュアンスが感じられる。参加させるのではなくて、農民が自ら進んで改革に参加することが現在の開発全般において重要なことである。もちろん、土地改革にはそれに関して何の知識もない農民の参加が不可欠である以上、その説明がなされなければならないが、このような、「組織化」「教育」という上からの視点を持っていては、改革自体の良し悪しを考える以前に、農民を参加させることだけに傾倒してしまう危険さえはらむといえるだろう。農民が受け入れ可能で、かつ、彼らに適し、彼らが自発的に参加することを望むような土地改革案を導き出すことこそが人類学がすべきことであろう。
 ここまで、開発に関して人類学が行ってきた議論の中で、特に農村に関するものを取り上げてきた。そしてその中で特に、三つの議論の重要性について述べてきた。ひとつは、伝統的な知の再評価で、もうひとつは、西洋の側が変わる事の必要性、そして最後に、農民の自発性を重視する事である。これらの議論は持続可能な開発を行う上で不可欠な要素であると信じている。これらの要素なしに、開発途上国側にとって本当に良い開発は生まれないと確信する。したがって、今後の議論もここで挙げた立場に立っていることを前提に進めて行きたいと考える。
 ここまで見てきたように、最近の人類学においては持続可能な開発に関して様々な有意義な議論がなされている。しかし現時点ではいまだに満足な開発の結果を残す事がほとんど出来ていない。ここからは、これまでの開発においてどのような開発が行われ、失敗してきたのか、そしてそこでは持続可能な開発が行われていたと言えるのかどうか見ていきたい。

第二節  ソロモン諸島における開発

 ここでは、様々ないわゆる開発途上国において、多数行われている開発の中から、ソロモン諸島における開発を取り上げる。
 ソロモン諸島は、伝統的政治経済システムである「ビッグマン・システム」を根強く残し、自給自足経済と西洋によってもたらされた都市中心の貨幣経済システムが共存する二重経済下にある。そして人口の90パーセントは自給自足経済に属している。ソロモン諸島には「ワントーク」と呼ばれる概念がある。ワントークとは、基本的には同じ言語を母語とし、慣習的な事柄すべてを意味する「カスタム」を共有する人々の事であり、ワントーク間では互酬的関係に基づく生活上の援助は当然のことと期待されている。また、政府は1975年から1989年までの3次にわたる国家開発計画を作ったが成功しなかった。[関根 1993:95-100]以下、具体的開発例を挙げて行く。ソロモン諸島の開発には外国企業による「外発的開発」と、ソロモン人自身による「内発的開発」がみられる。まずは「外発的開発」の例から見ていこう。
 1982年、オーストラリアの木材会社リーバースの伐採キャンプが地元住民の襲撃を受けた。その理由は伐採行為が地元住民の生活環境を脅かし、彼らのココナッツ、畑、薪や建築材としての樹木を破壊し、飲料等に使用する川の水を汚染させていること、また、土地の所有権と境界の見解の相違、さらにリーバースに雇用される労働力が極めて少ないことが挙げられる。つまり、慣習的に認識されてきた土地境界とリーバースの認識している境界との違いが、住民が生業で依拠している生活環境の破壊という事実とリンクして、紛争に至ったのである。しかし本質的な問題は、境界に関する土地問題と土地の提供に対する雇用という互酬的関係に基づく「見かえり」の少なさにある。この点でリーバースは地元住民のカスタムを犯しているのである。[関根 1993:101]
 以上が「外発的開発」の例であった。では、次に「内発的開発」の例を取り上げる。
 マライタ島において、登記済みの土地、つまり法的に確定された土地とソロモン諸島開発銀行からの融資を利用して牧場経営の計画が進行された。その土地の情報は、登記の段階ではその地域のほとんどすべての人に内容を確認され、同意のうえで登記されたが、ある男が、その土地の一部は彼の父親のもので、自分には相続権があると主張した。その男は、土地所有者の系譜には属しておらず、父親が移住してきてその土地に畑を開いた。その男の主張は登記時には地域の人々に受け入れられなかったが、土地登記は対象となる土地に関係する人々全員によって承認されなければならない。この男の父親は移住してきたいわば「新参者」で、ほかの住民の意識の中では彼の土地への権利は否定されている。現在では、同じエリア内に住み、同じ言葉を話し、同じカスタムを共有しているが、他の人々からは、異質なワントークとみなされている。それゆえ登記時の主張も受け入れられなかったが、実際に紛争に発展すると、異質とはいえワントークとの関係に亀裂が入ることと、伝承の中で認識していた土地を裁判所の裁定で失うことを恐れたプロジェクト関係者は意気消沈し、プロジェクト自体が進まなくなった。[関根 1993:101-102]
 以上に挙げた二つの事例について分析を行い、持続可能な開発が行われたかどうかについて見ていきたい。
 一つ目の事例は木材伐採会社リーバースが互酬的関係という地元住民のカスタムを犯したことが原因となった失敗例であった。リーバースは慣習的に認識されてきた土地境界に多少の認識はあったようだが、現実には住民の認識とは異なる境界認識をしていた。また、それに加えて住民の生活環境を破壊しているにもかかわらず、住民を多く雇用しなかった。これは、住民に互酬的関係という概念が存在することを知らなかったかあるいは、知っていてもなおコスト削減のために雇用しなかったかのどちらかと考えられる。前者の場合は明らかに認識不足であり、森林を住民社会と密接に関連したものととらえない商業至上主義の結果であるし、後者の場合はその商業至上主義に加えて、強者の弱者に対する暴虐な行為とも見て取れる。どちらにしてもそこにはリーバースの住民に対する自己中心的な搾取の構造が存在している。
 このような構造は、これまで多数の失敗に終わってきた、一方的で開発途上国の文化や社会の独自性、あるいは権利といったものを全く考慮しない自文化中心主義的な開発と全く同質のものと言える。そしてこの開発例では、先ほど挙げた持続可能な開発の要素の一つである伝統的な知の評価という視点が欠如しており、農民の襲撃によって持続できなくなったのは自然な流れであったと考えられる。
 二つ目の事例は、たとえ異質なワントークであっても、人々はその間に亀裂が入ることを恐れ、土地を失うことを恐れるため、開発プロジェクトが進行することが出来なかったというものであった。この開発例はソロモン人自身による内発的開発であるため、外発的開発とは違い自らの伝統を重視したプロジェクト進行が出来、比較的容易なものと一見考えられる。しかしこの例では伝統を重視できるという点に大きな落とし穴があった。つまりワントークとの関係を常に良好に保っておかなければならないというある種の伝統に固執するあまり、それが逆に開発の阻害要因となってしまったのである。伝統知の評価や住民の自発性といった持続可能な開発の要素はもちろん守られている。しかし、開発は成功しなかった。この例を考慮すると、持続可能な開発というものは、これらの要素だけでは到底実現できないということになる。では、他にどのような要素が必要なのであろうか。それに関しては次の第二章においてヒントを得て論じていくことにしよう。

第2章  日本の近代化

第一章では、開発に関する人類学の議論から、持続可能な開発にとって必要と思われる要素として、伝統知の評価、西洋が変わること、住民の自発性の三つを取り上げた。しかし、ソロモン諸島の事例から分かったように、これだけでは持続可能な開発にはなり得ない。
 そこで、ここでは、さらなる要素を導き出すために日本の近代化過程についての分析を行っていきたい。また、その上で、「日本はどうやって伝統文化を保ちながら近代化したのか」という開発途上国民の言葉についてその真偽のほども考えていく。

第一節  「近代化」と「開発」

 日本の近代化過程を具体的に見ていく前に、ここまで何度か使ってきた「近代化」と「開発」という二つの言葉がどう関連するのかについて触れておく必要がある。というのも、日本の発展についての言及がなされる場合、「開発」という用語が使われることは少なく、「近代化」が使われ、逆に、開発途上国の発展の場合は「開発」が使われ、「近代化」が使われることは少ないからである。つまり、「近代化」と「開発」は使い分けがされているのである。本論文は、日本の「近代化」の成功の所以となった要素を、途上国の「開発」に適用することによって開発の可能性を探ろうとするものである。しかし、「近代化」と「開発」が全く関連性のない別次元のものであるならば、日本の「近代化」過程で成功した事例であっても途上国の「開発」過程に適用できるものではないということができる。ゆえに、本論文においては、「近代化」と「開発」の関連性について触れることにする。
 日本に関しては「近代化」が使われることが多いが、その使われ方としては、「日本の近代化政策」[勝田 1994,茂木 1994:5-7]や「近代化の動き」というようなものが代表的である。一方「開発」は「西洋諸国による開発」や「政府による農村の開発」といったものが使われている。しかし、日本では「開発」が、途上国では「近代化」が使われないかというと、実はそうではない。実際に、日本の都市整備について、「開発」という言葉が使われ、途上国は自らの政策を「近代化」政策と表現している。つまり、この二つの用語は、使い分けされているとはいっても、実際には、日本にも途上国にも「近代化」と「開発」の両方が存在していることになる。また、この二つの言葉には大きな共通点がある。それは、どちらの用語が使われようとも、その内容は西洋近代を目標とした行動であることである。「近代化」にしても「開発」にしても、未知の西洋文化や制度を自らの社会に取り入れ、それを何らかの形で自らのものにしなければならないという点では同一である。そして両者ともその同一の目標の達成が最大の目的であるという事実は、両者が基本的には同様のものである事を裏付けている。にも関わらず、このような使い分けが行われているということは、これは「語られ方」の問題である。日本の場合は、日本の西洋化への動きを語るのは日本人自身であるので、自主的な動きとして「近代化」として語るが、開発途上国の場合、語るのは開発を行う側の人間であるため「開発」として語られるのである。この語る主体の違いが「近代化」と「開発」の使い分けを生み出しており、逆にいうと、両者はこのような「語られ方」の違いがあるだけで、本質的には同じものと言える。ゆえに、この関連性により、日本の「近代化」過程の成功例を、途上国の「開発」過程に適用することができると考える。

第二節  日本の近代化

 日本の近代化は、明治維新時に始まったとされる。その当時、日本は長年の鎖国状態を解いて開国してからまだ間もないころであったが、政府が近代化を早急に進めなければならない必然性が存在していた。そのひとつは、1858年に江戸幕府がアメリカ、イギリス、ロシア、オランダ、ドイツと相次いで締結した通商条約であった。これらの条約は、治外法権を条約締結国に認めている点と日本の関税自主権が失われている点で不平等な条約であり、そこには、当時の日本が国際社会の中で占めている位置は、文明の域に達していない、未開もしくは半開の国という認識が表れている。[菅原 1994:141]したがって日本がそれらの欧米先進諸国と対等な関係に立つためには、それらの国と同程度にまで文明化しなければならなかった。そして文明化は西洋化として捉えられ、その進展が日本の国運を左右するものであると認識され、そのための国内改革が急務として位置付けられたのである。[勝田 1994:163]
 このような国際的な必然性に加え、国内的な必然性としては廃藩置県が挙げられる。廃藩置県により日本全国を統一する中央集権体制が実現したことで、全国統一的制度が必要となり、同時に、全国的改革を実施できる条件が整備されたのである。そしてこのような二つの必然性のもとで制度・法律・産業・教育・軍事など多岐にわたる改革の具体策が実施され、[勝田 1994:163-164]西洋と同様に日本と日本人を「国民国家」と「国民」に仕立てていったのであった。[目良 1997:122]
 以上が日本の近代化政策が行われていく背景であった。近代化政策においては具体的に様々な改革が行われていったが、ここではその代表的なものとして、維新の三大改革[勝田 1994:162]と呼ばれる、学制・徴兵制・地租改正を例にとって日本の近代化の政治的側面がどのように行われていったのか見てみたい。
 学制は1872年に三大改革の先頭を切って始められた。その基本理念は、国民皆学主義、個人主義的功利主義、実学主義そして、教育費の受益者負担主義であり、フランスの学区制やアメリカの教育課程を取り入れた画一主義的なものであった。[勝田 1994:170,cf.加藤 1994:56]
 学制はそれまで日本で行われていた寺子屋での教育とは全く異なるものだった。寺子屋での教育は、原則的に個人学習で、時間割もなかったが、学制においては学級単位の一斉授業であり、教室という場所を必要とした。椅子も導入されたし、現在の「起立」「礼」の原型が生まれたのもこの時であった。[今野 1997:119]
 このように、学制による教育はこれまでの日本で行われていた教育とは全く異質な西洋的教育方法を全面的に取り入れたものであった。しかし、当時の農民にとって学制とは、就学の強制によって働き手を奪われることにもなるし、そういった義務教育であるにも関わらず高い教育費を負担しなければならないなどという過酷なものであり、その結果農民一揆という形で反発が現れるようになった。[勝田 1994:171,加藤 1994:57]
 徴兵制は、国の強化のためには兵力の増強が重要だとする考えに基づいて、20歳以上の男子全員が兵役につかなければならないとするものだった。それまで、軍隊は士族によって構成されていたが、この国民皆兵主義によってその構造はくずれることになった。それでも当初は士族を中心とする軍隊を目指していたが、フランスから導入した軍制の中に、兵役免除条項があり、それが四民に適用された結果、実際には貧農の二・三男が中心の軍隊となってしまった。その結果、農民は一揆を起こすようになったし、他方士族は常職を失い、さらに徴兵令と関連して行われた秩禄処分によって収入を三分の一に減らすことにもなったため多くの反乱を起こした。[勝田 1994:172-173]
 地租改正は、農民の土地所有権を確立し、地租は土地収益から算定した地価の3パーセントを金納で払う、ということを決めたものであったが、これは、それまでの封建的領有制を廃棄したことや政府の財源を安定的に確保することを可能にしたという点で画期的な制度であった。しかし、当初採用していた農民の申告に基づく収穫高から地価を算定する方法ではそれまでの政府財源を大幅に下回ることから、目的額を定めて各地方にその額を押しつけるという方式に切りかえたため、革命前から減税を要求していた農民によって激しい抵抗運動を受けるようになった。[勝田 1994:176,加藤 1994:60-61]
 維新の三大改革と呼ばれるこれら三つの改革は、おおまかに以上のような流れで行われたのであるが、それぞれが富国強兵という国家的課題の克服を最優先に位置づけ、国内的状況を省みないまま西洋的制度を採用した結果、農民や士族の反発を引き起こすことになった。[勝田 1994:170.174]しかしこのように反発を買い、受け入れ拒否されたこれらの改革を、政府は多くの反乱を弾圧していくことによって受け入れさせ、やがて定着させることに成功した。このような事実を見てくると、維新の三大改革は、明らかに政府による強制のもとに成立したものであるということがわかる。
 明治維新における日本の近代化の国内政治面の代表的事例である維新の三大改革は以上のようなものだったが、近代化において国内政治面と同様に重要だと考えられる人々の生活面はどのようなものであったのだろうか。
 明治時代の日本の近代化における生活面は、国内政治面と同様に急速な変化を伴うものであった。この時期は先に述べたように文明化=西洋化とされる時期であったので、大衆文化や生活文化にも当然様々な西洋化がもたらされていた。電灯、ガス灯、ランプ、汽車、洋服、洋食、そして洋風建築など、実に多くのものが取り入れられ、人々の生活を変えていった。[横田 1997]これらのうち、洋服、洋食、洋風建築を例に取ると、洋服は最初、官、軍、学校など公の場の制服として取り入れられ、少しずつ個人の間に広まった。洋食では肉やビール、牛乳、パンなどの食品がもたらされ、西洋料理店もできた。洋風建築も公的なものから個人に広まった。これらはいずれも主に都市において少しずつ取り入れられていき、長い期間を経て、昭和三十年ごろに全国的に普及した。[石毛 1987:34-39,加藤 1994:64]このような生活文化上の変化を見ていると、まるですべての西洋文化を、それが入ってくる流れに任せて取り入れているように見えるが、その一方で、西洋文化においてもっとも特徴的でかつ基盤をなしていると考えられるキリスト教は取り入れられなかった。もちろん、キリスト教が禁止されていた江戸時代と比べれば受け入れられるようになったが[後藤 1989:26.33]、当時、次々と西洋文化を取り入れていた人々であっても、その多くはキリスト教に改宗することはなかったことは、現在の日本のキリスト教人口が、全人口の1パーセントに満たないことからもわかる。[後藤 1989:44]また、洋服は動きやすく機能的であるという点に基づいて取り入れられたし[石毛 1987:43]、洋食として肉を食べたが、味付けは醤油味にしたりし、洋風建築でも畳の部屋と洋間を組み合わせた。このように、人々は西洋文化とそれまでの文化の両方から、うまく好みや実用性に合わせて独自のものをつくり出しており、まさに様々な面で和洋折衷を行っていたのである。[坂田 1990:8]
 このような大衆文化、生活文化の面における近代化は急激な西洋化ではあったが、全般的に、人々には器用に受け入れられていったといえるだろう。
 明治時代における日本の近代化の国内政治面と生活面は共に急激な変化でありながら、それに対する反応は、一方は反発であり、一方は器用な受け入れという対照的な方向に表れた。しかし、これらの近代化のどちらもが、日本においてそれまでにない急速で画期的な変化であり、かつその後の日本の発展を生みだす基盤ともなっていったのは明らかであり、その意味で、これら明治の近代化が、日本にとって非常に重要であったことは疑いようがないであろう。
 ここからは、このような日本の近代化過程について、特に伝統文化に注目しながら分析していくのであるが、伝統文化に注目する以上、日本の伝統文化とは何なのかという大きな問題に直面することになる。しかし、この問題に答えるのは非常に困難である。というのも、日本においては、これが日本の伝統文化である、と言える確固たるものは全ての文化領域において存在するわけではないからである。例えば、政治的近代化の例に挙げた地租改正は、それまでの封建的領有制を覆すものであったが、その封建的領有制が伝統的土地所有体系であるかというと、そうではなく、743年の墾田永年私財法では開墾者が自由に土地を私有化できるとしている。このように日本の社会制度は歴史上様々に変化してきているため、一口にこれが伝統文化と言うことはできないのである。しかし、開発によって途上国が西洋と接触する場合、その接触以前の文化は伝統文化と呼ぶことができる。それと同様に、日本においても、近代化によって西洋と接触する以前の文化を伝統文化ということができはしないか。また、開発や近代化による制度改革で適応を求められるのは民衆であり、明治初期の民衆にとっては地租改正前の制度こそが自らの知る唯一の制度であるので、その意味で、それは伝統的制度と同質のものと言えはしないだろうか。このような視点に立つことで、私は、明治の近代化政策の前の制度を伝統文化に準ずるものと考えてここからの分析を行いたい。それから、分析をする上で特に見ておきたいのは「日本の近代化において、伝統文化と西洋文化はどのような関係にあり、どのように折り合っていったのか」そして「果たして本当に日本は伝統文化を守りながら近代化したのか」という二点である。
 まず日本の近代化における国内政治、制度的側面についてであるがこの側面の近代化として学制と徴兵令、そして地租改正をあげた。学制と徴兵令は西洋的制度を取り入れたものであり、一種の西洋文化と考えることができる。また、地租改正は直接西洋から取り入れたものではないが、西洋的中央集権体制のもとで必要とされる制度である[勝田 1994:164]ので,これも西洋文化と考える。一方、先ほど述べたように、これらの改革前の制度を伝統文化であるとすると、この近代化はどれもが西洋文化が伝統文化を破壊するか、もしくは、取って代わる形で行われたと言える。ここに見られる両文化の関係は、圧倒的に西洋文化が優位という関係であり、伝統文化を存続させるという選択肢はなかった。ゆえに、この近代化においては、日本は伝統文化を守ったとは言えない。
 次に人々の生活面である。いくつか挙げた西洋文化の中から、特に、キリスト教、洋服、洋食、洋風建築を取り上げると、それに対応する西洋文化が入る以前の文化を、宗教では、広く受け入れられている神道と、仏教、服装では、現在では主に着物や浴衣などと呼ばれる、帯のある服装(=和服)、食文化では、主食が米で、牛肉や豚肉を食べない食文化(=和風食文化)、そして、建築様式では、レンガやコンクリートを使わない、木造の、わらぶきまたは瓦ぶきの屋根を持つ建築様式(=日本建築)であると考える。これらの文化的要素の西洋との接触は、さきほどの政治的近代化とは違った結果を見せている。神道、仏教は、キリスト教という西洋に取って代わられることはなく、常に多数派でありつづけた。和服は、当時はゆっくりと、そして現在では完全に洋服にとって変わられたが現在も晴れ着として残っているし、日常的に着用する人もいる。和風食文化は洋食の流入によって変化したが、それでも、醤油味付けの肉といった形で洋食の姿も変化させたし、米食が主体であることは変わっていない。また、和食そのものも存在しつづけている。日本建築も、西洋風外観の家に畳が存在するという形で融合を果たしているし、その逆も存在する。このように、生活面においては、食文化と建築様式では和洋折衷がなされ、他の二つは、一方は西洋、もう一方は伝統が主流になっているとはいっても、うまく併存してきていると言える。
 では、生活面の近代化においてこのように政治的側面との大きな違いが生まれたのはなぜであろうか。それは、生活面においては、西洋と伝統の関係がほぼ対等のものであったからと考えられる。このことは、人類学の文化変容の立場から説明がつく。文化変容とは、外部文化からの働きかけによって、自文化と外部文化の一方または両方が変化することである。「文化変容についてのこれまでの研究は、欧米の支配的文化とその他の被支配的文化との接触と、それに伴う文化変化に関するものが多」く、このような関係のもとでは、征服および植民という要素が密接に関連し、その結果、支配的文化が被支配的文化に受容されることが多い。[丸山 1979:213.216-217,cf.斎藤 1989:246-247]しかし、日本の場合、歴史的に植民地化されたことがないため、近代化における異文化接触は、このような支配・被支配の関係を他者によって当てはめられることがないものであった。そのため、国内政治面においては、政府の国民に対する西洋的制度の自主的な強制がされ、西洋が圧倒的優位だったが、強制のなかった生活面においては、西洋文化を取り入れるかどうかは人々の自由だったのである。ゆえに、日本人は、自らの興味や憧れに合わせて洋食や洋風建築を取り入れ、機能性を重視して洋服を着、宗教に関しては、特にキリスト教に変える必要がなかったため多くの人が変えなかったのだろう。逆にもしもこれらの文化のうち例えばキリスト教が強制されていたとすると、今ごろは、日本はキリスト教徒ばかりの国になっていたことも考えられないわけではない。
 このように見てくると、生活面においては、日本の伝統文化は、多少形を変えながらも、明らかに保たれていると言える。また、伝統文化を保つ上で、文化の取捨選択の自由が非常に重要な役割を果たしていることがわかる。
 国内政治、制度的側面では近代化において日本の伝統文化は保たれておらず、逆に人々の生活面においては保たれていると考えられるのだが、では全体として日本は伝統文化を保ちながら近代化したといえるだろうか。生活面においては、日本人は、文化の取捨選択の自由によって、西洋文化を自己の好みに応じて取り入れ、都合の良い方を中心とし、あるいは和洋折衷を行った。このような作業によって日本人は、伝統文化自身を変化させながらも、常に伝統文化を保ってきた。しかしそれは、西洋文化を西洋文化として取り入れるのではなく、伝統文化の中に西洋文化を取り込むことによって自らの伝統文化を新しい伝統文化として作り変えてきたのであり、それが和洋折衷の形として現れているのである。また、国内政治面においても、先に述べたように、日本の社会制度は歴史上常に変化し続けており、その都度日本人は新しい制度を新しい日本文化として受け入れてきた。明治維新における変化も、このような歴史上の変化と何ら変わりはなく、たとえ直前の伝統文化を保てなかったとはいっても、新しい制度は自らのものとして受け入れられ、新しい伝統文化として作り上げられていったと考えられる。このように考えると、日本の伝統文化は、内部で様々な変化を経ながらも、全体としては伝統文化でありつづけてきたことになる。したがって、全体としては、日本は伝統文化を保ちながら近代化したと考えることができる。
 文化の取捨選択の自由を持たなかった近代化の国内政治面は、結果として反発を受けることとなった。しかし、反発としての一揆などが弾圧されたあとは、そのまま進行した。開発問題においては、こういった反発が弾圧された後は、思うようにその制度が進行しないことが多いと思われる。日本においてこの制度が進行したのはなぜだろうか。
 これについても今のような考え方から説明がつく。つまり、日本人は伝統文化の変化と生成の過程で、他文化を自らの文化の中に取り込み、自らの文化として作り変えるという力を身につけていたので、新しいものがたとえ強制されたものであっても、その変化に十分に対応し、その制度に適応できたのである。そしてこのことにより、一揆の弾圧後も新しい制度が進行したのである。これはつまり、人々は文化の取捨選択の自由を与えられていなかったものの、結局は自ら新しい制度を選択したということなのである。そしてこのような力こそが、日本の近代化においてもっとも注目すべきものであり、これにより、現在の開発において問題となっていることを乗り越えているのである。
 以上のように考えてくると、日本が伝統文化を保ちながら近代化できたのは、文化の取捨選択の自由がある程度与えられていたということと、そしてなにより、他文化を自らの文化として作り変えること、つまり、自文化を新しく作り変えることができたということによるといえる。そして、この二点こそが、日本の近代化から開発が学べることと考えたい。よって、持続可能な開発に必要な要素としてこれらも加え、第三章でその将来性について考えていきたい。

第3章   持続可能な開発

第一節  ソロモン諸島と日本

 第一章では、ソロモン諸島における開発の失敗例について、そして第二章では日本の近代化過程について説明してきた。ここではその両者を比較することで、ソロモン諸島の開発例において不足していたことを挙げ、今後の持続可能な開発のための提案を行っていきたい。
 ソロモン諸島における開発の一つ目の失敗例は、木材伐採会社リーバースが互酬性という住民のカスタムを犯したことによって住民がリーバースのキャンプを襲撃し、開発が失敗したというものだった。二つ目の失敗例は、ソロモン人自身による開発であったが、人々がワントークの関係に亀裂が入ることを恐れたことによってプロジェクトが進まなくなったというものであった。これら二つの開発は、外発的開発と内発的開発という性質上の大きな差異はあったがともに失敗してしまった。では、これらの開発には一体何が欠けていたのだろうか。どうすれば成功していたのだろうか。
 一つ目の失敗例は、先に指摘したように、リーバースの土地境界への認識が不十分であり、互酬的関係への配慮の足りなかった。つまり、ここでは伝統的な知の評価の視点が欠けていたのである。この二つのカスタムへの対応は十分になされていなければならなかった。そしてこのような対応を可能にするためには、開発する側が変わることが必要なのである。開発する側の自己中心的な価値観だけでなく、開発される側について十分な調査を行い、できるかぎり彼らの価値観にあわせて開発を行うという姿勢に転換するということを学ばなければならなかったのである。
 二つ目の失敗例においては、これも先に指摘したが、伝統知の評価や住民の自発性といったものは守られていると考えられる。では何が欠けていたのか。この例と日本の近代化過程を比較することは非常に興味深い。この例において失敗の直接の原因となったのは、人々がワントークという伝統を重視したことである。人々は自ら開発を行う立場でありながら、結局は開発よりも伝統を重視してしまったのである。このことは日本の近代化とは対照的である。日本は、近代化過程において、新しい文化を自らの伝統文化の中に取り入れ、変化させながらも伝統文化を守ってきた。新しい制度に対しても、たとえ取捨選択の自由がなくても、それを自らのものにするというある種の選択を行った。それに対してソロモン人は、開発という新しい動きに対して伝統文化が脅かされそうになると伝統に固執し、結局新しい動きを成功させることができなかった。ソロモン人は自らの伝統文化を変えることができなかったのである。このことは、日本とソロモンの文化における最も大きな差異である。ソロモン人の文化は伝統文化を変えないという文化であるゆえに、文化の取捨選択の自由さえある自発的開発においても伝統に固執するほうを選び、他文化を排除する。その結果、他の文化を取り入れる機会を逃し、発展への機会をも逃しているのである。このように、ソロモン文化は日本文化に比べて多文化に対する柔軟性と適応力の低い文化なのである。そしてこのことは、一つ目の例にも表れている。一つ目の例はリーバースの自己中心的な開発ではあったが、開発する側の論理を開発される側に無理矢理当てはめるという図式は、日本の近代化における国内政治面と非常によく似ている。日本の場合はここで他文化にたいする力強い適応力があったために多文化を自らのものにすることができたが、ソロモンの場合はそういった柔軟性と適応力を持っていなかったため、他文化を排除するという行動に出てしまったのである。したがって、先ほど伝統知を評価し、西洋の側が変わらなければならないと指摘したが、たとえそれができていたとしても、おそらく一つ目の開発は成功していなかったことになる。このように見てくると、そういった日本とソロモンの文化の違いこそが、それぞれの近代化の成否を決定付け、それが現在の日本とソロモン諸島の国際社会における位置づけの違いに現れているということがわかる。もちろん伝統文化を大切にすること自体が良くないというのではない。ただ、ソロモン諸島の人々はあまりにも伝統文化を守るということに固執しすぎているのではないか。それによって開発が進まず、国家として国際社会の中で経済的に自立できていない[関根 1993:94]という現実ができてしまっているのである。そのような現状を打破し、しかも伝統文化をできるかぎり保存するためにも、他文化を自らの伝統文化の中に取り入れ、それを新しい伝統文化として作り変え、保持している日本の例を参照する価値があるだろう。したがって、今後ソロモンが開発を成功させるためには、このような日本人の他文化に対する柔軟性と適応力を身につけることが第一であり、そのためには、伝統文化を変えないという文化自体を変えなければならない。そして、これこそが、第二章で持続可能な開発に必要な要素としてあげた「自文化を新しく作り変えること」なのである。
 日本の近代化から得られた「人々が自文化を新しく作り変えること」という要素によって、ソロモン諸島における開発は可能になると考えられる。しかし、ソロモン諸島以外の国において、同じようにいまだ成功していない開発が多数存在する。そのような開発についてはどうであろうか。私はそれらについても、その要素とこれまで挙げてきた四つの要素、つまり、「伝統的な知の評価」「西洋の側が変わること」「人々の自発性を重視すること」そして、「文化の取捨選択の自由が与えられていること」とによって持続可能な開発が可能になると考える。なぜならば、これらの要素の立場に立った開発は、開発される側が第一の開発となるからである。そのような開発であれば、たとえその開発プランが開発する側の西洋国や途上国の政府によってつくられたものであっても、それは開発される側が望むものに限りなく近くなるであろう。もちろん、開発する側が現地の人々であることがより理想に近いだろうが、だが、真にこのような立場に立ったなら、開発する側が外部の人間であっても、開発する側による上からの開発というものではなく、する側とされる側がともに作り上げる開発となるであろう。逆にそういったものにならないのなら、五つの要素が満たされていないということである。ただ、これらの要素を満たすうえで特に注意しなければならないことは、「人々が自文化を新しく作りかえること」という要素は他の四つの要素に先行して求められてはならないということである。この要素は他の要素が成し遂げられて、それでも開発がうまくいかない場合においてのみ求められるべきものであり、それらの要素が成し遂げられる前に求めてしまっては、以前までのような開発する側の論理が中心になった身勝手な開発と何ら変わりのない文化破壊の行為に他ならないからである。ただ一方的に開発される側に変わることを求めるのではなく、開発する側が先に十分な行動をしておくことが第一なのである。そして、そのような行動がされた後、最後の要素が満たされれば、そこではじめて持続可能な開発となりうるだろう。

第二節  開発途上国の現実

 ここまで挙げてきた五つの要素の重要性は論じてきた通りであるが、その中で、「文化の取捨選択の自由が与えられていること」については、途上国の開発に適用する際には考慮しておかなければならないことがある。それは、この要素は日本の近代化過程から導き出されたものであるため、日本とは国家としての状況が異なる途上国にはそのまま適用できるものではないということである。第二章で述べたように、日本は歴史的に植民地化されたことがないため、生活面の近代化においては、西洋文化と伝統文化が対等な関係にあり、そこではこの文化の取捨選択の自由というものが与えられることになった。しかし、ソロモンをはじめとする開発途上国の多くは歴史上植民地化されており、その開発においては、西洋文化を強制的に伝統文化に取って替わらされ、それによっていくつもの伝統文化を失うことにもなった。また、政治面でも、西洋側が資源を利用するためだけの単一的な産業しか発展させられなかったため、独立後の現在も、国家としての存続のためにはいまだにその産業に依存するしか方法が無いという影響も残っている。また、現状としての経済問題や財政赤字が深刻すぎて、短期的な収入を求めて多国籍企業に森林を安売りし、その結果環境破壊を容認してしまう場合もある。このように植民地支配を受けた途上国諸国は、文化の取捨選択の自由を持つ状況にはなく、嫌でもその産業による開発を受け入れなければならないという現実があるのである。そのような国々にとって、日本のような文化の取捨選択の自由を持つということは非常に困難であり、それゆえ、日本の例から導かれたこの要素をそのまま適用できるとは考えるべきではない。この要素を適用するためには、まずこういった途上国の植民地時代の産業構造への依存を変えることが必要となるだろう。そして、そのためには、そういった国々に対して、先進国のODAやNGOによる限りなく無償に近い援助が行われ、その国が多様な産業を持ち、文化の取捨選択の自由が持てる状況を作り出せればこの上ないであろう。また、このことこそ持続可能な開発が目指すべきことと言えるだろう。

第三節  持続可能な開発のために

 ここまで、持続可能な開発像について五つの要素を中心に論じてきた。そして、その中で、「人々が自文化を作りかえること」以外の要素は開発する側によって先行して満たされなければならないとした。すなわち、開発される側の様々な伝統的な知識を詳細にわたって調査し、その価値を見出しそして認め、できるかぎりその知識を利用するように努めるという姿勢に開発する側が変わる。そしてそれを徹底して進めることにより、現地の人々が自ら参加したくなるような開発プランを作り上げる。しかも、プランを進める上では、何かを強制するということはせずに、人々に文化の取捨選択の自由を与える、ということである。これは非常に困難であり、開発する側には多大な努力が求められる。しかし、これなしに持続可能な開発は成し得ないし、このような努力こそ、開発する側が最も怠ってきたことであり、現在最も必要なことなのではないだろうか。そして、これこそが人類学が最も貢献できることなのではないだろうか。そして、これらの作業が行われた後、最後の要素を満たさなければならない時、一つの大きな問題に直面する。それは、開発される側の人々は「自文化を作りかえる」ということなど思いもよらないかもしれないということである。もし彼らがそれを自発的にできるのなら、すでに以前に行っているとも考えられる。しかし、そうでないから現在の開発途上の状況にあるのである。しかし、この最後の要素について開発する側が要求することはできない。というのは、もしもそれを指示するのならば、それは開発する側のエゴでしかないからである。ではどの様にすればよいのだろうか。それは例えば、具体的な西洋文化と伝統文化を融合させ、その形で取り入れるという日本と同様の方法を提案することによって可能になるのではないか。途上国の人々が、日本の近代化について関心を抱いているのなら、その日本と同じ適用方法にも関心を抱くのではないだろうかと考えるわけである。これまでの開発方法では成功しなかった途上国の人々にとっても、日本が近代化過程で行った方法ならば、伝統文化の保持具合、そして近代化の成功度合いから考えても十分に魅力的な方法として映るのではないだろうか。成功例としての日本の近代化を知れば、それを参考にし、模倣しようという方向も十分に考えられることだろう。しかし、ここで最も重要なのは、やはり、具体的な融合策としてどのようなものを提示するかであろう。日本のような近代化の方法と結果に興味を持っているとはいっても、ソロモン人のような伝統文化を変えないという文化を持つ人々に対して、どれほど伝統文化が守られておりかつ開発が可能になる方法を打ち出せるか、そして何より、どれほど人々にとって納得のいく方法を考え出せるかが焦点となる。融合策がよくできたものであれば、人々に受け入れられ、開発を成功に導くかもしれない。逆に、よくできたものでなければ、開発は再び失敗に終わるだろう。ソロモンのような国では、開発の成否は、ともすればこの融合策の良し悪しの一点にかかっていると言えるのかもしれない。そして、この融合策によって、人々が自文化を作りかえることが自主的にできるようになるかどうかが重要なのである。
 そのような重要性を持つ西洋文化と伝統文化の融合策の一つの例を、ここではソロモン諸島の開発の失敗の原因ともなったワントークと土地所有に関連して提示してみたい。
 ソロモン諸島の開発の二つ目の例が失敗したのは、人々が開発よりもワントークとの関係を良好に保っておくことのほうが重要だと考えたからであった。それは相手がたとえ異質なワントークであっても守られるべきものであった。イポーによると、もともと土地はワントークの共同保有であり、ワントーク全体にとっての生産手段かつ生活の基盤であった。また土地には祖先の霊が宿り、土地を通じてワントークの連帯と過去から未来への連続性を認識していた。[関根 1993:99]しかし、この開発例においては、土地は登記済みのものを用いていたため個人所有という西洋的要素を持っていた。またソロモン諸島では貨幣経済も浸透しており、それにより人々は土地の対外的価値を認識していた。[関根 1993:99]つまり、土地に対する伝統的な考え方は、西洋的要素の進入によって多少薄れてきていると考えられる。このようなことから考えて、この開発例をワントークとの関係悪化なしに進めることに必要な伝統文化と西洋文化の融合策は、ワントークとその土地に対して土地の売買という作業を導入することだと考える。ソロモン人の中で土地の個人所有が行われているのだから、ひとまずその異質なワントークにもその土地への権利を認め、その後開発を推し進める側がその土地を失うことに十分見合うだけの価格で買い取る。それによって異質なワントークは貴重な貨幣収入を得ることができ、開発を推し進めることもできる。このような作業は、開発する側も異質なワントークも互いに得るものがあり、その意味では、ワントーク間の互酬性にも対応しているとも言えるだろう。
 この提案は、土地の個人所有と貨幣経済という西洋的要素が存在しているゆえに、さらなる西洋的要素を追加することによって可能になるものであるが、ワントークとの関係は守り、かつ開発を成功させるという目的を達成できるものであると考える。また、それゆえ、人々の納得も得られるだろう。
 この提案により、開発が全てスムーズに進み、成功すると言いきることはできないが、このような融合策を考え、現地の人々が納得する開発方法を模索することは非常に価値のあることと考えられる。また、このような日本の近代化、あるいは他の開発の成功例を参考にした開発の模索の道というものも考えられてもよいものであろう。そして、このような模索によって実際に行われた開発から、人々が自文化を変化させるということを習得できるようになることが望まれる。
 持続可能な開発を行うためには、これまで挙げてきた五つの要素を満たすことの困難さもさることながら、その他にも、様々な問題が存在すると思われる。そういった問題に対しては、常に臨機応変な対応が求められ、それを人類学が率先して行わなければならない。現在存在する様々な開発問題が全て解決される日はまだまだ先のことになると思われるが、地道な調査と努力により、一つ一つ解決の道が切り開かれ、いつの日か持続可能な開発が行われることを期待している。

謝辞

 本論文の作成にあたって、丁寧なご指導と的確な助言を頂いた吉岡政徳先生に、心から感謝します。ありがとうございました。


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