文 化 表 象 と し て の 観 光

岩田尚子

 
目 次

   は じ め に

   第 一 章
    イ メ ー ジ か ら 成 り 立 つ 観 光
    (1)観光地についてのイメージ
    (2)サイードの「オリエンタリズム」論

   第 二 章
    ホ ス ト 社 会 に と っ て の 観 光
    (1)観光の位置付け
    (2)文化的側面から見た「観光立国化」
    (3)新しい「観光文化」の創出

   第 三 章
    バ リ の 観 光
    (1)「楽園」としてのバリ島の発見
    (2)創出されるバリの「観光文化」

   第 四 章
    客 体 化 を 経 る 「 観 光 文 化 」
    (1)文化の客体化
    (2)ホスト側からの演出?フィジーの観光
    (3)フィジーの事例からの考察

   お わ り に

   参 考 文 献
            
---------------< 要 約 >-----------------------------


 観光とは、日常では直接関わることのなかった新しい世界との遭遇をもたらすものであり、このような観光という行為は、自分たちとは異なるものを求める志向に基づいたものであると考えられる。しかし、自分たちと異なる“何か”を求めるといったときに、そこに大きな影響を与えているのは、メディアなどによって付与されるイメージである。そしてそのイメージこそが、観光を成立させているものだと考える。よって、まず第一章では観光地に付与されるイメージがどの様なメカニズムによって生み出されるかを検証した。 そのメカニズムとは、「オリエンタリズム」である。この論文で取り上げるのは、植民地化を経たアジア・太平洋地域における観光であり、このような観光地は「オリエンタリズム」に基づくイメージに支配されている。「オリエンタリズム」によるカテゴリー化は、ステレオタイプ化されたイメージを観光地に付与するものであり、それは現在の観光にも大きな影響を与えているといえるのである。そしてそのようなイメージはゲスト側がホスト側に対して持つものであるので、現在の観光という空間には政治性が存在しているということができよう。
 そのような観光の在り方を見直すのがこの論文の目的である。つまり、ホスト側が与えられたイメージの中だけでなく、もっと積極的に観光に参加することができないのだろうかということである。そのような視点に立つのは、観光がホスト社会の将来を担うものになりつつあるという現状を踏まえてのことである。このホスト社会にとっての観光についてのべているのが、第二章である。
 この章ではホスト社会の将来を「観光立国化」という言葉を用いて説明している。しかし、その将来の見通しはまだ立っておらず、厳しい状況にある。そこで、文化的自立を果たす手段の一つとして「観光立国化」を見直したとき、将来の新たな観光が方向付けられるのではないかと筆者は考えるのである。それは、現在の観光がイメージによって成り立つことを踏まえた上で、ホスト社会側の主体性に立脚した新たな観光文化を創出していくということである。そのホスト社会参加型の観光の例としてあげられるのが、第三章のバリの事例である。
 このバリの観光は、欧米から「楽園」として「発見」されたときのイメージに現在も支配されている。しかし、その観光という特殊な空間の中でのイメージによって生み出されてきた「観光文化」が、現在のバリ文化の一要素として、バリの人々に受け入れられている。つまり、観光が新たな文化の創出をうながした、といわれている例である。これも確かに、ホスト側が主体的に観光に参加しているといえるが、付与されたイメージに追随していることは否めない。この論文の中で筆者がいおうとしている主体性とは、観光の空間で文化を呈示する際の、ホスト側からの積極的な参加のことなのである。 その例を示してくれるのが、第四章で取り上げたフィジーの事例である。この事例の前に述べた「操作的客体化」の概念を用いて「観光文化」をどの様に呈示するかを考えたとき、その一つの手段としてあげられるのは、ホスト側からの演出である。フィジーにおいて文化的コードが異なる人々のギャップがそのままにされていたときは、ホストゲストともに不満足な結果に終わったという。しかし、双方の期待を熟知した演出家の存在によって、その異なる文化的コードがうまくかみあったというのである。これは、観光の空間のなかで、ホスト側が自分たちの文化をコントロールしながら呈示するという新しい観光の在り方の可能性を示すものである。
 バリの事例は、「観光文化」が観光の空間から離れてバリの社会の中に受けいられていったという点で、その主体性を評価できる。しかし、そこに筆者はホスト社会のもう一歩進んだ積極的参加を求めたい。それは、フィジーの事例が示すような「観光文化」を自分たちでコントロールしながら「戦略的に」呈示していくということである。
 現在の観光は力関係に絡めとられていて、不平等な世界である。しかし、「観光立国化」によって、少なくとも文化的に自立するきっかけが生み出されるのではないかと、筆者は思っているのである。

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   は じ め に

 交通手段が発達した現在、私たちは世界中どこでも観光旅行に出かけることができる。自分たちが生活している空間をぬけだして異なる空間へ出かけていく、観光という非日常的な経験は、日常では直接関わる事のなかった新しい世界との遭遇をもたらすものである。 ではこのような観光という現象はどのようなものなのか。その観光経験のとらえ方として、山下がマッカネルとブーアスティンの二つの理論を用いて説明しているのでそれをここで引用することにする。
 まず、マッカネルは、観光とは「オーセンティシティ?本物性・真正性?」を求める行為であるとしている。そもそも観光旅行に出かけるということは家から離れた場所へ移動することであり、観光に出かける人はそこでの「変化の経験」を求めている。というのは、現在自分の生活する空間では本当の自分が発見できないので、もう一つの世界の中で新たな自分を見つける、もしくは自分をリフレッシュさせるというのである。つまり、観光客は、自分たちとは異なる“何か”を経験し、それによって自己の本来性を回復するために観光旅行にでかけるのだと、マッカネルは述べているのである。
 もう一つはブーアスティンのイメージの概念である。ブーアスティンは『幻影の時代』の中で、観光とは本物を求める旅というよりもイメージを求めるものであるとしている。観光客は旅行に出かける前にガイドブックを読み、あらかじめ目的地についての知識を仕入れてから観光に出掛け、ガイドブックに書いてあった場所に行き、ガイドブックと同じような写真を撮ってくる。そのような観光客の観光地における「経験」を、ブーアスティンは「疑似イベント」だということができるといっている。(山下 1995a:7-9)
 この二つの概念は一見すると、矛盾するものであるようにみえる。なぜなら、観光という行為に関して、一方は本物を求めるものだといい、もう一方は、イメージを求めるものだといっているからである。しかし、マッカネルがいう「オーセンシティティ」とは、ブーアスティンのいうイメージの中にあるものである。というのは、詳しくは後述するが、現在私たちが異文化に対して持つイメージはたとえばメディアなどといったものによってつくりだされるものであり、私たちが考える「本物らしさ」とは、それらのイメージによって形成されているものといえるからである。つまり、観光客が自分たちとは異なる「本物」に対して求める多くは、結局はイメージという幻想の中に存在するものだといえよう。
 これら二つの考え方から、観光という現象は日常生活から離れたある特殊な空間、山下の言葉をかりれば「観光の空間」といえるような中での行為であるととらえることができる。それはブーアスティンが描く“「トルコ的様式の模倣があるだけのイスタンブール・ヒルトン」でトルコを「経験」して帰る観光客”からも読み取れるだろう。つまり、この観光という空間の中での観光客の「経験」は、演出されたものだといえるのである。
 このような観光という特殊な空間の中で現在の観光はどのようにとらえることができるのか、そこにはどのような問題点があるのか、それらをふまえて将来に向けてどのような観光の空間がうまれうるのか、それを探るのが本論文の目的である。
 そこでまずは、先に述べた演出される「経験」に焦点を当てていく。観光の空間で観光客の「経験」が演出される過程において、大きな影響を与えているのが観光地に付与されるイメージである。そこでまず、第一章では観光地に付与されるイメージの問題を検討していくことにする。

   第 1 章
     イ メ ー ジ か ら 成 り 立 つ 観 光

(1)観光地についてのイメージ

 この観光という概念を、ア?リは「まなざし」という言葉を用いて、説明している。「(観光という)この体験の一部は、日常から離れた異なる景色、風景、町並みなどにたいしてまなざし(gaze)もしくは視線を投げ掛けることなのだ。私たちは“出かけて”、周囲を関心とか好奇心をもって眺める。周囲は私たちの見方に合わせて語りかけてくれる、というか少なくとも語りかけてくれるだろうと期待するのである。」(ア?リ 1995:5)
 つまり観光という行為は「まなざし」の集積に基づくものだといえる。人々は観光旅行に出る前にあらかじめその目的地についてのイメージをもっており、いざ旅行に出かけると、「?らしい」とか「典型的な?」という自分の心の中に形成されているイメージに合致する風景や人々を見て、安心して帰ってくるのである。
 この「まなざし」がなげかけられる対象は様々であるが、それらを選ぶ理由は次のように考えられる。それは、外部からの情報をもとに形成されたイメージから、その対象は自分たちとは異なるものであるという期待感を人々が持つからだということである。こうした「まなざし」の概念をもとに考えてみると、観光とは非日常的な経験を求める行為であり、これを成り立たせている前提は、日常世界との差異を求める志向であるといえよう。
 例えばイメージが観光に大きく影響している例としてハワイをみてみよう。ハワイは代表的なリゾート地であり、そのキャッチフレーズはもちろん「太平洋の楽園」である。現在では様々な言葉でハワイは形容されつつあるが、イメージの原点は「ブーゲンビリアの花が咲き乱れる常夏の島。そこに住む人々は素朴で楽天的で、観光客を暖かく迎えてくれる」(山中 1991:3)といったものではなかろうか。
 観光地にまつわるイメージが成立する過程には様々な要素が関わっているだろうが、ハワイの例でいうならその起源はキャプテンクックに求めることができると、山中はいう。領土拡張のためのクックの航海の結果として、ハワイは最後の「楽園」として大英帝国に報告された。しかし「楽園」として「発見」される以前のハワイは、先住民達にとっては楽園でも観光地でもなかった。そこは限られた資源を巧みに利用した農業を基本として生活するごく普通の島の一つであった。それが世界有数の観光地となっていったのは、西欧社会からハワイに寄せられた期待ともいえるような「楽園」のイメージに基づく観光開発の結果である。(山中 1991:3)
 この観光にまつわるイメ?ジの問題について、山中は「観光という人間行為は、元来、旅することが目的化された行為である。したがって、観光には旅行に出る前に、すでに旅の目的地についてのイメ?ジが形成されていなければならない。??近代のメディアはこのようなイメ?ジの供給に最も強力に関与してきたのである。」と述べている。そしてハワイなどは、イメ?ジによって成り立つ観光地の最たる例であり、20世紀、白人入植者によって「楽園ハワイ」がつくりあげられた、と山中は報告する。(山中 1991:2) このように見ていくと、ハワイは創られたイメージに支配された空間であるということができる。
 では、観光地に付与されるイメージは創られたものであるというなら、そのイメージはどのように形成されていったのであろうか。次に考えたいのは、そのイメージ形成にはたらくあるメカニズムである。そのメカニズムとは、E.サイードが指摘した「オリエンタリズム」であり、この概念は、観光地に付与されるイメージの問題に深く関わる概念であるので、次に整理することにする。
 また観光地のイメージについてこの「オリエンタリズム」を取り上げるのは、筆者が論じようとする観光に限定が加えられているからだという事を付け加えておく。この論文で論じようとしているのは植民地化を経たアジア・太平洋地域であり、そこでの観光は、「オリエンタリズム」によって支配されているということができると筆者は考えているのである。

(2)サイードの「オリエンタリズム」論

 この「オリエンタリズム」論は、現在の観光を成立させているイメージの問題を整理するのに有効であるとおもわれるので、以下サイードの『オリエンタリズム』を引用しながら、観光にまつわるイメージの問題を整理していく。『オリエンタリズム』が出版されて以降、様々な議論がなされてきているが、本論文との関係で重要なのはイメージがつくられる際の「語り」の問題であるので、その視点から彼の議論を追っていくことにする。
 サイ?ドが提唱して大きな反響を呼んだ「オリエンタリズム」とは、西洋近代が創りだした「オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式」であり、西洋が「オリエントは自分たちでは表象することができないと見なし、声なきオリエントにかわってオリエントを表象しようとする言説(ディスク?ル)」のことである。(サイ?ド 1993a) サイ?ドがこの議論の中で明らかにしたのは、オリエンタリズムにおける西洋/東洋という区分は、なによりもまず、西洋という創造された自己を首尾一貫した主体として、固定するものだった、ということである。サイードによると、西洋にとってのオリエントは、単に隣接しているというだけではなく、最大の植民地であったり、文化の好敵手であったり、西洋の人々の心の中に繰り返し現れる“他者イメ?ジ”として位置付けられるものであり、ヨ?ロッパの実態的文明・文化の一構成部分を成すものである。そして、西洋はオリエントを表象することにより、自らの力とアイデンティティを獲得したと、述べている。この「オリエンタリズムの言説」により、オリエントは「従属、未開性、神秘的、官能的、女性的」などのカテゴリ?があてがわれた。これらのカテゴリ?は西洋がオリエントを自分たちとは対照的なものであると考えようとした結果、生み出されたものだった。
 オリエンタリズムによるカテゴリー化はステレオタイプ化されたオリエントを生み出したといってもいい。そしてそのステレオタイプ化されたオリエントのイメージが現在の観光のイメージに大きな影響を与えているのである。そのようなイメージの例として、「最後の楽園」というキャッチフレーズで観光客を引きつけるバリをあげてみよう。『バリ島』を書いたメキシコ人画家ミゲル・コバルビアスは、バリのイメージを「美しい胸をした褐色の少女、椰子の木、うねる波、そしてさまざまなロマンチックな思い」と表現した。(コバルビアス 1991:17) そしてこのコバルビアスの言葉は、現在もバリの「楽園」のイメ?ジを構成する要素であると、山下は述べている。(山下 1995b:104)
 観光客は観光という空間において、自分の持つイメージの中での「本物」を求めている、と前で述べたが、このオリエンタリズムの概念は、そのような幻想をつくりだすのに大きな影響を与えているということができる。「本物」であると認識されるような異文化イメージが創りだされる過程では、この様なメカニズムが働いているのである。
 ここまで観光という空間での創られるイメージについて述べてきたが、オリエンタリズムを通してイメージの問題を考えてみたとき、このようなイメージが創られた背景には、力関係の不均衡が存在しているといえる。というのは、観光には、ホスト側(観光客を受け入れる側)とゲスト側(観光客)の社会が存在するが、オリエンタリズムによるイメージはゲスト側からホスト側に付与するものだからである。つまり、観光がイメージに大きな影響を受けているというとき、そこには、ゲストとホストの間に政治性が存在しているといえる。この政治性の問題を端的に示す例として、ハワイをあげることができよう。ハワイの民族主義者たちがハワイに与えられた観光イメージ(たとえばフラダンスやウクレレ)を、帝国主義的な世界構造の反映であると見なし、民族運動をアンチ=ツ?リズム運動として展開しているという事例である。(山中 1992:162) これは、ある民族文化についての観光イメ?ジは民族の誇りを汚すものだという、観光イメージに対しての批判である。ハワイにおける民族運動は、他者によってつくられたイメ?ジに対する異議申し立てであり、文化をめぐる政治的な抗争の例なのである。
 このように見てくると、オリエンタリズムによってイメージが創りだされるとき、イメージがつくりだされる過程での主導権はゲスト側が握っているということができる。そして、観光地に付与されているイメージは操作されたものであり、観光という空間の中ではイメージの操作とそのイメージにそった演技がつくりあげられていると考えられるのである。(太田 1993:383-392) そのような演出された空間の中で、観光客は自分がイメージしていたように、観光地での生活を「経験」するといえる。
 観光をイメージの問題としてとらえ直してみると、現在の観光は観光にくる側のゲストが観光という空間でのホスト社会の在り方をほぼ規定しているようにおもわれる。そこで、筆者はこのような現在の観光の在り方に疑問を感じるのである。もっとホスト側が観光の空間において主体的になれないのだろうか。ゲスト側から付与されるイメージをそのまま受け入れるといった一方通行の受動型の観光だけでなく、ホスト社会も積極的に参加しているといえるような観光の在り方があるのではないか。
 現在と違った観光の在り方を考えていくためには、今観光がホスト側の社会にとってどのようなものであるかを整理する必要があると思われる。よって次の章では、現在の観光を位置付け、なぜ筆者がホスト社会の主体性を問題にするのかを述べていきたい。

   第 二 章
     ホ ス ト 社 会 に と っ て の 観 光

(1)観光の位置付け

 現在の観光という現象はホスト社会にとってどのような意味を持つのだろうか。そこで、将来の観光を考えるに当たって現時点の観光を位置付けてみることにする。そのために、ここでは石森が観光の将来を論じている部分を引用しながら、整理していく。
 現在のオセアニアの観光を、石森は次のようにまとめている。
 オセアニアの島々は長期に亘る植民地支配を経て独立を達成した。しかしこれらの島嶼国家は、独立したものの外国からの経済援助に依存しなくては国家財政が成り立たない状況だった。そんな中で、1970年代以降に先進諸国による国際観光ブ?ムが生じて、大量の外国人観光客が訪れるようになった。このような先進諸国における海外旅行ブームからオセアニア諸国は必然的に、観光を中心に将来を設計する方向へと向かった。すなわち、楽園イメージをかきたてる美しい自然を売り物にした観光産業を基盤の一つとして、社会を発展させていこうとしたのである。これは、オセアニアの島嶼国家が抱える経済的なハンディキャップにもかかわらず生活の近代化は進んでいるという現状に対する、重要な政策として浮上したものだった。このような観光産業への取り組みを、石森は「観光立国化」といっている。この「観光立国化」とは、独立を経た地域の将来を担うものであった。(石森 1994:38-44)
 観光は「観光立国化」を目指す社会にとって新しい可能性を開く鍵となるものと、当初は考えられていた。しかし、次第に予定されたようなバラ色の変革をもたらさないことが明らかになってきた。というのは、観光は数多くの要素からなる複合的現象であり、経済的、政治的、社会的、文化的といった局面で、様々なインパクトが引き起こされるようになったからである。そして、それらのインパクトには、正と負の両面があるが、この観光開発によって資本や雇用の両面で地元が外国に従属するという差別と支配の体系が生み出されることになった。例えば、自然の商品化や性の商品化といったものである。このように、観光開発はホスト社会に大きな負のインパクトを生じさせるというので、観光開発はネオ・コロニアリズム(新植民地主義)を促進するという批判がなされてきた。その様な観光開発の在り方を批判し、従来の開発途上国における観光開発が先進国主導で行われてきたことを反省する声が出始め、新たな観光の在り方に向けての模索が始まった、と石森はいう。(石森 1991:18-21、1994:45-50)
 ここで石森の考える「観光立国化」について考えたい点がある。一つは、「観光立国化」は先進国が国際貢献という形で援助していかなくてはならないと主張している点である。石森は、オセアニアの島嶼国家においては今後とも観光開発が重要な課題になるので、そのためにも観光現象をできるだけ客観的に研究する観光学が必要であり、それに基づいて国際貢献をしていこうと述べる。しかし、観光開発に先進国が援助という形にせよ絡むこと自体が、ネオ・コロニアリズムを引き起こすものだと、筆者は考えるのである。
 もう一つは、観光は新たな文化を生み出し、それはホスト社会の新たなアイデンティティの創出につながるだろうと、石森がいっていることについてである。それは、前述したような「楽園」イメージにのっかったままの観光で、オセアニア社会の将来を方向付けることにつながってしまう。観光が新たな文化を生み出すという考えには賛成するが、「観光立国化」がホスト社会の将来なのであれば、より具体的な方向性が必要だと思われる。そして、筆者が石森の論に付け加えたい点はこの文化的側面なのである。それは、この「観光立国化」を目指すことで、ホスト社会が文化的に自立することが可能になるのではないかということである。つまり、観光の空間の中でオリエンタリズムによる西洋のイメージに支配されているだけではなく、ホスト側の人々が自分たちの手で、そのイメージをコントロールしていく。そうすることによって、文化的自立を計るための手段の一つとして「観光立国化」を新たな視点からとらえ直すことができるだろうと、筆者は考えているのである。前にのべたように、観光の場においてホスト側の主体性を求めるのは、このような考えによるものである。
 そこで、ここからは文化的な側面に目を向けていくことにする。国の将来を担うものとして「観光立国化」を進めるに当たって、その社会の文化状況はどのようなものになっているのであろうか。

(2)文化的側面から見た「観光立国化」

 観光における文化の政治的な側面に目を向けたとき、観光は“原初的な土着文化を破壊する「新帝国主義のエージェント」”(太田 1993:386)としてとらえられることが少なくない。
 それは、石森が述べているように、観光は文化的な面にも負のインパクトを生じさせるからである。そのインパクトを石森は、文化の商品化という言葉で説明している。例えば、踊りや劇などはもともとは神々に捧げていたものであり、日常生活においては宗教儀礼の一環として行われていた。しかし、観光の場においては、それらは「民族芸能」としてゲストに提示され、特別に短く編集されたりして、観光客のために捧げるものとなっている。バリのバロン・ダンスなどはその例である。これは日常の生活の場では、村で数時間かけて神々にささげる儀礼として行われる舞踏劇であった。しかし、そのままのダンスを観光客に見せたところ血なまぐさいシーンや、その時間の長さが不評であったことから、現在のような短縮された舞踏劇が考案されたのだという。つまり、伝統的文化であるとされてきた工芸品や、音楽、踊りなどと行った芸能が、観光の空間のなかで観光客のためにつくりかえられて、切り売りされる状態を、文化が商品化されているということもできると、石森は述べているのである。(石森 1991:22) その様な文化が商品化される状況は、「新植民地主義」になぞらえていうなら、「文化的植民地主義」によってホスト社会が支配されているともいえるかもしれない。
 しかし、否定的な側面ばかりでなく、観光がホスト社会に新たな文化意識を生み出すともいえる、と石森は述べる。それは観光という異文化接触を通してホスト側が、自分たち固有の文化というものにより自覚的になり、それが自己アイデンティティの形成につながっていくこともあるからだという。(石森 1996:25) そのような新しい文化意識の表れとして、石森は「観光芸術(tourist art)」という言葉で、ホスト側が観光の空間のなかでつくりだしてきた新しい文化を説明している。(石森 1991:22-30)
 「観光芸術」とは、民族芸術をベースにしながら、それに様々な創意工夫を加えて観光客向けにつくりだされたものであり、ゲストという外国文化との接触の影響をうけて生み出されたクレオール文化である。つまり、ホスト社会固有の文化に外的要因が加わってつくりだされた異種混交的文化といえるものである。しかし、この観光客向けに特別に生み出された「観光芸術」は、次のような点で批判されてきたと石森はまとめている。それは、観光によって生み出された「観光芸術」は「まやかし、にせものの芸術」であって、ホスト社会にとっての「本物の芸術」ではないという批判である。
(石森 1991:27-29) ここでの、この「本物の芸術」という概念は、最初に述べたマッカネルの「オーセンティシティ?本物性?」の議論につながるものであるので、少し検証してみることにする。 「本物の芸術」とはどのようなものを指すのだろうか。どのような基準によって、本物らしさを獲得しえるのだろうか。石森がまとめたところによると、従来は次のように定義がされてきたという。それは「伝統的な材料にもとづいて、現地の工芸職人が現地の使用に供するためにつくったもので、他の外国人に売り渡すことを全く意図していないもの」といったものである。つまり、「本物の芸術」は「伝統性」と、「非商品性」を保持していなくてはならないといわれてきたというのである。(石森 1991:27) しかし、「本物の文化」は「伝統性」をもつといった考え方は現在批判されていて、伝統は創造されるという見解が一般的である。イメージの中にある「真正性、本物性」を求める観光を考える上で、これにまつわる議論、すなわちホブズボウムの『創られた伝統』論を取り上げることは有効であると思われるので、少し議論がそれるがここで整理することにする。
 この「創られた伝統」という概念が明らかになったのは、E.ホブズボウム、T.レンジャ?の『創られた伝統』(ホブズボウム編 1992)による。
 これは、「伝統(と私たちが見なしているもの)は、19世紀後半、もしくは20世紀に創り出されたもの」であり、「ごく最近成立したり、時には捏造されたりする。」という議論である。(ホブズボウム 1992:9-28) その「伝統の発明=捏造」の例として、ローパーはスコットランドの「タ?タン柄のキルト」を挙げて説明している。これは、いまやスコットランドの国民文化を代表する、各自の高地文化の古い伝統と考えられているタ?タン柄のキルトや伝統楽器のバグパイプは、実はイングランドの「合同」以後の近代の産物だった、という例である。そしてそれらタータン柄のキルトやバグパイプは、その地域では「野卑な」文化であると考えられていたにもかかわらず、イングランド文化への抵抗である自文化の表象として、「スコットランドの伝統」となった、と彼は述べているのである。(ローパー 1992:29-72)
 現在の観光においてはこの「創られた伝統」をあたかも古来からの伝統文化であるように扱っている地域も多い。それは、前例に挙げたスコットランドにおいてもそうであるし、インドの菜食主義もその例である。インドのヒンズ?・ナショナリズムにおいて伝統とされている菜食主義(とくに牛を食べないとする規範)は、植民地状況下で、イギリス人に対抗しようとするナショナリズム(イギリス人は牛を食べる人種であることから、道徳的に有利な民族的アイデンティティを確立しようとした)から起こったことであると報告されている。(小谷 1993:75-78) しかし、現在ではインドのカースト文化を表す文化として一般的に受け入れられている。
 現代の世界において、外部の影響を全く受けていない社会など存在しえない。この「創られた伝統」論からよみとれることは、伝統は常に創造され続けるものであり、観光という空間のなかで外的影響を受けて生み出された新しい文化も、年月を経るにしたがって伝統文化となりうるということである。
 観光の場で、伝統的なものとして切り売りされる文化は本物かどうかという観点でとらえられるべきではない。観光客用につくりだされた「観光芸術」もホスト社会側の文化の一部を構成する要素だといえるのである。
 観光という空間が演出されたものであることは前に述べてきた。ではこの空間において、ホスト側が押しつけられたイメージの中だけで観光に参加するのではなく、そこが演出された空間であることを自覚しつつ、現実の生活に則した自文化を外部に提示する場として、より主体的に観光に参加することはできないのだろうか。その可能性を示すものとして、石森のいう「観光芸術」をとらえ直すとき、「観光立国化」を目指す社会にとっての新しい観光の在り方がみえてくると考えられるので、つぎにこの観光によって創りだされる文化とホスト側の主体性に目を向けていくことにする。

(3)新しい観光文化の創出

 石森は、観光によって新しく生み出される芸術を総称して、「観光芸術」といっているが、芸術を含めて観光によって新しく生み出されるものは「観光文化」と呼ばれている。この従来いわれている「観光文化」は、観光という空間においてつくりだされた文化、とだけ定義されている。しかし、ここで筆者が考えていきたい新しい「観光文化」とは、従来ある伝統文化をこえてホスト側が主体的に創造していくような新しい文化である。
 観光にイメージが大きくかかわっている以上、そのイメージを完全に払拭して新しいイメージをつくりだすのは不可能であるようにみえる。しかし、この「観光文化」を提示する場として、観光の空間をホスト社会側の文化創造・呈示の場に位置付けるとしよう。そうしたときに、この演出された空間のなかでも、現在あるホスト社会の文化を観光の場で提示するイメージとしての文化とおり混ぜていくことによって、新たなアイデンティティの模索へとつながっていくのではないか。つまり、よりホスト側が主体的に観光に参加することができるようになるのではないか。このような視点から観光をとらえ直すことによって、新たな観光の在り方が見えてくると思われるのである。そしてそれは、観光の対象となる社会に生活する人々が、観光という回避し難い社会的な文脈の中でいかにして自己のアイデンティティを構築するか、と太田が問題提起するそれにつながるものである。(太田 1993:390)
 観光は特殊な空間のなかで行われているので、エンターテイメント性が強いといえる。しかし、前で述べたように、観光は文化的植民地主義といえるようなものを生み出す傾向があり、「観光立国化」を目指す社会が主体性をもって観光に取り組むためには、その呈示する文化も自分たちの手でコントロールしていく必要があると思われるのである。
 そこで、もう一度主体性の議論に戻ってみると、主体性を持って観光に取り組むとはどのようなことを指しているのだろうか。その例を示してくれるのが、バリとフィジーの観光の例である。次の章で最初にとり上げるバリの例は、「観光文化」をホスト社会の人々が自分たちの生活に取り込んでいったという点で、ホスト側が主体的に観光に参加しているといわれている。(山下 1995:108-111、太田 1993:390) 確かにバリは、そのような点において、ホストであるバリの人々の主体性を評価できる。しかし、それに加えてまだホスト社会には観光に参加する要素があるはずである。その要素を、二つ目の事例であるフィジーの観光をあげて検証していくことにする。
現在の観光という空間は、観光イメージに代表されるような力関係に絡めとられている不平等な世界である。しかしそのような空間の中でいかにホスト社会が文化的側面で「観光立国化」を果たすか。それを考えることは、ゲスト側の論理だけで行われる観光ではなくホスト側にも目を向けた、新しい観光の在り方を探ることにつながるであろう。

   第 三 章
     バ リ の 観 光

 観光の空間のなかで新しくつくりだされる「観光文化」はどのようなものであるか、そして、そこではホスト社会の人々はどのような点で主体的に観光にかかわっているといえるのか。この章では具体例として、まずバリの観光をあげながらそれらを見ていくことにする。
 バリで今日見られる芸能は、西洋がオリエンタリズムに基づいて抱くそのイメージをもとに、創造されたものである。しかし観光の空間のなかで、その創造された芸能はバリ文化の一部としてバリの人々に受け入れられていった。前の章で述べたように、このような点においてバリは観光の空間の中でホスト側が主体性を持つとされている。また太田は、観光がバリの文化を損なうというよりもむしろ文化の内旋を促す触媒となり、観光がバリの社会にとってプラスに働いた、と報告する。(太田 1993:390)
 このバリの事例は、ホスト側が積極的に観光に参加しているといえる一つの例である。よって、これを詳しくみていくことによって、ホスト社会と観光の関係について一つの方向性が見えてくると思われる。この章ではバリの観光について述べている山下の論文(山下 1992)を引用していきながら、バリの観光がいったいどのようなものであるか、「観光文化」はどの様につくられていったのか、そしてそれがどのようにバリ社会の日常生活の場へ組み込まれていったのか、ということを見ていきたい。

(1)「楽園」としてのバリ島の発見

 バリ島の観光の始まりは1920?30年代にさかのぼる。当時、バリはオランダの植民地支配下にあったが、欧米からの観光客によって、バリは最後の「楽園」として「発見」された。バリが「発見」されたという表現には意味がある。それは、観光客によってバリの様子が欧米に伝えられるときには、オリエンタリズムによる読み替えといえるようなものが行われていたということである。バリ・イメージの源泉として、山下は「自由な性のバリ」と、「イスラム化される以前のジャワ・ヒンドゥーの姿の残るバリ」をあげている。「自由な性」のイメージには、クラウゼの写真集の影響が大きいとされている。クラウゼに写された「水浴する女性」といったイメージの集合体としてのバリは当時の欧米社会の「抑圧された性」の倒立像として、とらえられることになった。また、「ヒンドゥーの伝統を残すバリ」というイメージは、古代ジャワ・ヒンドゥーの「生きた博物館」たることを期待されていたことによる。これらのバリに押しつけられたイメージは、オリエンタリズムによる力関係の行使といえるものである。そして、この一方的な押しつけの中でバリの観光イメージは形成されていった、と山下はまとめている。(山下 1992:6-9)
また、バリのイメージを流布させる過程で大きな役割を果たしたのは、こうした「楽園」としてのバリに魅せられてやってきた芸術家や研究者たちである。彼等は自分たちの文化観を通してバリを観察し、様々な作品や文献を残した。このような活動によって彼等はバリと欧米を仲介し、「楽園」バリを演出するのに一役買っていたのである。このようなオリエンタリズム的なまなざしのもとで、バリが欧米人の期待するイメージに自らを合わせるという「バリのバリ化」というプロセスが進行していった。そのプロセスにおいて欧米が望んだのは、バリが近代的な変化を遂げることではなく、オランダの植民地支配下でつくられたイメージのままでいることであった。つまりバリが、その「自由な性」、「美しさ」、「音楽」、「芸術」を欧米側の人々が描くイメージ通りに存続させることである。このように、バリの観光は欧米社会というゲスト側に主導権を握られることになった。現在の観光における「楽園」バリはこうしてつくられたのである。(山下 1992:10-15、中村 1990:182)

(2)創出されるバリの「観光文化」

 「楽園」バリにおいて最も重要な要素は芸能である。バリの芸能は、1889年のパリ博覧会に出展され、芸術家たちに大きな影響を与えたといわれている。
 このようなバリの「観光文化」と観光の関係については山下が3つの点から整理しているので、それを引用することにする。(山下 1992)
 まず第一に、バリの芸能すなわち「観光文化」は新しくつくりだされた伝統であるという点を押さえておきたい。この場合に「伝統」というのは、観光の場において「伝統的」な芸能であるといわれるその意味においてである。今日バリで見られる代表的な芸能としては、ケチャやバロン・ダンス、レゴン・ダンスなどがある。これらは、それぞれの演目を演じる芸能集団が住んでいる村で観光客のために定期的に演じられることもあるし、ホテルでのショーとして演じられることもある。こうした芸能は、バリ観光のキャッチフレーズとなっている「神々の島 バリ」を飾る芸能として、その真正さや伝統性が強調される。しかし、このような観光の場で呈示されるバリの「伝統文化」は、1930年代以降バリと欧米との出会いの中でゲスト側からの要求によってつくりだされた「観光文化」だった。 文化の商品化を述べた部分でバロン・ダンスを例にだしたが、ほかにも観光という空間の中で変容していった例として、バリの芸能のなかでも目玉的存在といわれているケチャをあげることができる。このケチャの原型は、サンヤン・ドゥダリというトランス儀式の際の男性のコーラスだった。これを現在のような観光用の見せ物に仕立てあげたのは、ドイツ人のシュピースという人物である。彼はバリの人々と共同でこれにラーマーヤナ物語を結び付け、現在のケチャをつくりだした。バリ固有の芸能とされるケチャは実は外部からきた人物、つまりゲストの手によって現在の形につくりかえられたものだったのである。それと同様、他の芸能も観光客の前へ「バリの伝統」として現れるまでに、何らかの形で変容していると見ることができる、と山下は述べている。(山下 1992:16)
 この「観光文化」は、単にバリの伝統文化を保存する役割を果たしただけではない。バリを訪れた観光客たちの「まなざし」のなかで再創造された(あるいは再創造させられた)ものだといえるだろう。そのようなバリの「観光文化」は、今世紀前半の植民地状況におけるバリと欧米との出会いの中で新しくつくりだされたクレオール文化といえるものなのである。(山下 1992:19)
 第二に山下が指摘するのは、1930年代のバリにおける「観光文化」を生み出す際の主導権はゲスト側が握っていたという点である。バリの芸能は本来儀礼に組み込まれていたものであった。しかし、バリを訪れた人々はバリの芸能をこうしたバリ社会における役割という観点でとらえるのではなく、自分たちの文化感に基づいた、自分たちにとっての「美」として解釈したのである。そのようにゲスト側の手で抽出されることによって、バリの芸能は観光客にとって理解可能で、安心してみることができるものとして新たに発明された。(山下 1992:21)
 最後に山下は、バリではかつて観光用芸能と儀礼用芸能が注意深く区別されていたという点をあげている。このように区別されることによって、文化の観光化は「バリ化」されたバリの伝統を損なわないと考えられてきたというのである。1960年代には聖なる儀礼芸能と俗なる観光芸能の区別が論じられ、聖なる芸能としての「ペンデット」は観光用の上演が禁じられていた。この事から、バリの「伝統文化」とされるものと「観光文化」は別のものだと解釈する傾向がみてとれよう。そしてそのような考え方から、観光用の「ウェルカム・ダンス」がつくられた。しかし、この観光用のダンスが今や寺院儀礼で奉納されているという。この事は観光用につくりだされたはずの「観光文化」が、今や観光の空間を抜け出して、バリの人々自身にフィードバックしていることを示している。それと同時に、儀礼=聖、観光=俗という区分が西洋的な二元論によるもので、バリ固有の区分ではなかったことを証明している。よってこのような二元論によるとらえかたは、西欧がバリに望み、押しつけたものだという事ができるだろう。(山下 1992:21)
 これらの観点からバリにおける観光を考えたとき、まず「観光文化」はホスト側の手によってだけつくりだされるものではないという点を指摘することができる。そこにはゲスト側の期待とも言い換えられるような希望もしくは、要求が必然的に盛り込まれていて、それらにはオリエンタリズムによるイメージの影響がみてとれる。 また、次に指摘できる点として、現在の「観光文化」はゲストの文化的コードに適応するようにつくられたものだということである。つまりバリの文化が「観光文化」として抽出される際には、一旦ゲスト側の解釈を通して創出される、ということができるのである。観光客は「イメージ」の中の「本物」を求めるものであるということは前に述べたが、そのような「本物」を求める観光客は、観光の空間のためだけにつくりだされたあまりにも「観光文化」すぎるものには、興味を示さない傾向があった。ゲストは内に様々な矛盾をはらみながらも、自分たちの持つ「イメージ」を満たす「本物」の香りがする「観光文化」を求めていたのである。それは、観光=俗として、西欧がとらえてきたからに他ならない。そのような西欧の二元論的な考え方もかかわらず、バリの「観光文化」は「ウェルカム・ダンス」の例から分かるように、観光の空間以外でバリ社会における文化として受け入れられていると、山下は報告する。(山下 1992:21) つまり、観光用につくり直された文化が、バリの社会において文化的実態をもち始めたということである。それを示す例として、観光振興を目的の一つとして1979年に始められた「バリ・アート・フェスティバル」をあげることができる。
 これは、観光用の見せ物として始められたにもかかわらず、現在ではバリの人々が芸を競いあう場になっている。そして、このような場で踊られるダンスは、観光用につくられたものであるから伝統的なダンスとは違うといった認識がバリの人々にあるわけではない。「観光用」と「本物」の芸能という、その区別は意味のないことであり、バリ社会の中でこれらのダンスは同列のものとしてとらえられているのである。(サンガー 1991:214-226) 観光の空間においてつくりだされる「観光文化」は、ホスト側だけでなくゲスト側の視点からも大きな影響を受けている。それにもかかわらず、その文化はバリの社会の中で自分たちの文化であると認識されていて、観光の空間だけで呈示されるものではなくなっているのである。
 よって、バリの観光においてホスト側が主体性を持って観光に関わっているというときに、その主体性とは、バリの人々が観光の空間における「観光文化」を自分たちの文化として観光以外のところで取り入れるようになった事であるといえる。その点で、バリではゲスト側だけでなく、ホスト側も積極的に観光に参加していると評価できるし、バリの観光はホスト側にとっても成功している事例ということができよう。しかし、バリの事例において確かにホスト社会が主体性を持って、積極的に観光にかかわっているといえるのだが、その主体性とは与えられたイメージの中で創出された文化を新たな視点から見直して、自分たちの文化の中にうまく取り入れていったというものであり、「観光文化」を観光という空間の中でコントロールした例とはいえないのではないか、と筆者は考えるのである。
 観光という空間の中には、ホストとゲストというものが存在する以上、「観光文化」がホスト側だけでなく、ゲスト側にも理解されるものでなくてはならない。それは、バリの芸能がゲストにとって分かりやすく安心できるものとして創出されたとする、その山下の指摘から読み取れるものである。そのように考えたとき、「観光文化」がつくられるその過程においては、やはりバリの「観光文化」もゲストからのイメージにそった形でつくりあげられていて、それを呈示する際にもゲスト側の文化的コードに添うように供されているものなのである。
 それなら、ゲスト側の文化的コードにも留意しつつ、しかもそのベースはホスト側が自分たちでつくりあげていくといった新しい「観光文化」の創出は望めないのだろうか。現在の観光はイメージによって支配される空間であることは前からのべてきた。そこで生み出される「観光文化」とは、ゲスト側が持っているオリエンタリズム的なイメージに基盤を置いた文化の集合体であるといえる。バリの観光の事例は、ホスト側の主体性という点において、一つの方向性をしめすものであった。そこでよりホスト主体の観光の在り方を追及するなら、次に考えられるのは、「観光文化」の創造にもっと積極的にホスト側が参加することである。その例としてあげられるのが、フィジーの観光である。この事例を検証することによって、筆者が前述したホスト社会が観光に参加するための要素を見つけることができると思われる。ホスト側が自分たちに対して持つイメージの文化、つまりホスト社会が現在の空間のなかで営む文化をおりまぜて「観光文化」をつくりあげていく、という新しい観光のあり方を次に考えていきたいのである。
しかし、フィジーの観光をみていく前にまず「観光文化」がどのように創出されるか、その際にはどのような過程を経ているのかを考える必要があるように思われる。というのは、「観光文化」もホスト社会の文化を構成する一部分であり、それを文化としてゲストに呈示する時には、次の章で述べるような客体化を経ているからである。そしてその客体化の概念はフィジーの観光を考える上で有効であるので、ここで取り上げることにする。

   第 四 章
     客 体 化 を 経 る 「 観 光 文 化 」

(1)文化の客体化

 自分たちの文化はこうであると、何かの文脈で述べるときに、その自分たちの中にイメージとして作られる文化の要素は、どのようなものなのであろうか。その漠然としたイメージとしての文化が思い描かれる過程では、「文化の客体化」という操作が行われている。(THOMAS 1992:215-216) その「客体化」を、太田は「文化を操作できる対象として新たにつくりあげることである」と定義している。(太田 1993:391)
 そのような客体化の過程には、当然選択性が伴う。客体化とは、自分の文化として他者に呈示する要素を選びだし、それを現在の文脈の中で新たに位置付けることである。そして、その選び出された要素はその社会の従来あった文化の一部としてではなく別の意味を持ちうるのである、と太田は述べている。「客体化」という概念で現在の文化をとらえ直してみると、漠然と自分たちの文化であると認識されてきた文化要素は、選択されることによって新しい解釈を付与されているということができる。またこのように考えたとき、文化は流動的なものであるという視点も生まれてこよう。
 この「客体化」の概念を観光に当てはめてみると、「観光文化」は観光の空間のなかで外部からのイメージによって抽出された、つまり「客体化」された文化であるといっていいだろう。そしてその「客体化された文化」は、オリエンタリズム的イメージによって操作されたものである。
 この「操作される客体化」という概念については前川がワグナーとリネキンの議論をまとめて整理しているので、それを引用することにする。
 ワグナーは、文化とは本来動態的なものであり、構築されるものである、と定義する。そして文化の構築、あるいは客体化とは文化を創造していく過程のことであると、説明している。つまりそれは、人が自己と異なったものに遭遇したときに、戸惑いをうけながらもそれらを制御し、別の文化を持つ人々との相互作用の中でその社会と文化がこういうものであると自分なりに規範化していく過程だという。これを前川は「原理的客体化」と名付けている。この「原理的客体化」は、普遍的な人間活動としての、動態的でリアルタイムな文化の生産・創出を意味するものである。
 一方、同じ「客体化」という語を用いながら、政治的な意味合いに力点を置く概念をうちたてたのが、リネキンである。政治的な側面を考慮した、とはすなわち、「客体化」という語自体を、意識的・操作的に構築する作用であるととらえているということである。ワグナーは文化の創造という普遍的な過程をとらえているのに対してリネキンは、政治的意図という視点に立っているのが両者の違いである。リネキンは、意識的で操作的な「文化」の創出としての客体化とは、現在のコンテクストにおける過去の解釈であり、それは過去の選択及びその現在における再文脈化であるとのべている。この過程を前川は「操作的客体化」と呼んでいる。(前川 1997:620-621)
 これらの概念から観光をみてみると、「観光文化」は普遍的な活動の「原理的客体化」であるというよりはむしろ、意識的な「操作的客体化」を経ることによって抽出され呈示されている文化だということができる。そしてこの時、文化を「操作」して「客体化」しているのは、大部分においてゲスト側だといえよう。それは、観光という空間がオリエンタリズムのイメージによって支配されているからである。
 現在の観光の状況の中で観光地にむけられるイメージを変えることは難しい。なぜなら観光はイメージによって成り立っているものだからである。しかし、ゲスト側が観光にでかけていった時にホスト側の文化だとして呈示される「観光文化」が、よりホスト側の客体化を経たものとなることが、筆者の考えるホスト側も参加している観光の在り方である。そのように観光に参加するためには、ホスト側が現在の空間で営む文化を外部に呈示するものとして意識的に選択し、現在のイメージの「観光文化」におりこんでいくといった、ホスト側の「操作的客体化」が必要だと思われるのである。
 観光の空間において、ホスト側が「操作的客体化」を行うためにとることができる手段の一つとして、ホスト側による演出が考えられる。これは、観光の場でホスト側にもゲスト側にも受け入れられるような「観光文化」を創出するための、ゲスト側とホスト側の文化的コードをつなぐものである。そしてまた、ホスト社会側の選択を経た自文化を呈示する手段でもある。
 では次に、このような演出家が存在することによって成功したフィジーの事例をみていくことにする。それは、フィジーのホテルで行われているパフォーマンスが、ゲストとホストをつなぐホスト側からの演出家の存在によって成功したと報告される例である。ここからは、フィジーの事例をあげている橋本の議論(橋本 1995)を引用しながら、フィジーの観光空間における演出を考えていくことにする。

(2)ホスト側からの演出?フィジーの観光

 まずは、フィジーの観光について述べる前に、観光の空間においてゲストに呈示される文化について、少しふれておくことにする。フィジーには「接待の伝統」があり、首長が村を正式に訪問する際には盛大な歓迎・送別儀礼が行われ、滞在中にはメケと呼ばれる伝統的な踊りや、夜を徹してのパフォーマンスが催される。観光の空間においてもフィジーの人々が自分たちの伝統として呈示するのは、大体においてこのようなパフォーマンスとしてのメケと火渡りである。そして、村落におけるこれらのパフォーマンスの上演は、訪問者と接待者間の友好関係や連帯感を創出するという役割を果たしている。またメケは観客が参加することによって、最大限に盛り上がるものであり、フィジーの村落というシチュエーションなら、訪問者も接待者も同じ文化的コードを共有する人々であるので、共にこの「接待」に満足できる。しかしここで注意しなくてはならないのが、このメケのようなフィジーにおける「接待の伝統」は観客参加型の催し物であるため、お互いの文化的コードが異なる場合、すなわちゲストとホストという異なる文化的コードを持つ者が接触するような観光の空間においては、両者が満足できない状況を生み出すことがある、という点である。(橋本 1995:162-163)
 このような背景があることを踏まえた上で、フィジーの観光へと目を向けてみよう。
 ここで取り上げるフィジーの観光の舞台はリゾートホテルである。フィジーのリゾートホテルでは「民族文化」として、メケと火渡りのパフォーマンスが上演されている。これらのホテルで上演されるパフォーマンスは、フィジーの日常生活での芸能がそのまま観光の場に持ち込まれたものである。これはバリにおける例とは異なり、観光の空間で「観光文化」として新しくつくりだされたといえる文化ではないが、同じように「観光文化」として扱っていく。なぜなら、フィジーの事例において重要なのは、その「観光文化」がホスト側の演出によってゲストに呈示されるという点においてだからである。
 フィジーの観光では、大部分のホテルにおいて、その「観光文化」の上演は失敗であると橋本は報告している。そこで、なぜ失敗したのかその原因をみていくことによって、成功する要因も見えてくると思われるので、まずは失敗例から先にみていくことにする。
 その失敗の原因としては、次のようなものがあげられると橋本はいう。大きな原因は、ホスト側とゲスト側の文化的コードが異なるにもかかわらず、そのギャップが埋められていなかったということである。前で述べたように、ホスト側は自分たちが村落で行うようなパフォーマンスを観光の空間であるホテルで行い、またゲスト側はそのようなホストの行うパフォーマンスを見せ物として期待していたため、その期待が満たされなかったことに不満を感じていた。例えば、火渡りのパフォーマンスをみてみることにする。上演者は、伝統の英雄の血を引き、石焼きオーブンの熱い石の上を歩く力を授かったとされる人物である。そして観光客の前で、彼が直径1メートル半の穴の上に組まれた丸太の上の熱く焼けた石の上を渡る、というのが火渡りの内容である。しかし、これらのパフォーマンスはどのホテルでも観光客からの好意的な拍手がもらえぬまま終わってしまっている。なぜなら、観光客が焼き石を渡る上演者に拍手を送ろうとしても、上演者は観客を見ずに足早に渡り、拍手のタイミングを与えないからである。観客は上演者との交流を試みようとするのだが、その期待が達成されないので、不満げに席を立つというのが現状である。また上演者にも自分たちの村落でやっていたときのような楽しげで誇らしげな様子は見られないと、橋本はまとめている。(橋本 1995:163-164)
 ここでは、火渡りのパフォーマンスを盛り上げるための要素が幾つか欠けていると橋本は分析している。まず、観光客はフィジー文化について何も知らない。しかし観光にきているのだから、観光客はそこでの火渡りを「見せ物」として、期待する。ゲストはホストに、プロフェッショナルかつ洗練されたパフォーマンスを期待しているのである。一方ホスト側であるフィジーの人々は、観光の空間であるからといって、わざわざ自分たちのパフォーマンスを変える必要性を感じていなかった。村落で自分たちと文化を共有する人達の前で行うものと変わりないパフォーマンスを観光の場でも行っていたのである。(HASHIMOTO 1992:90)
 この失敗例から読み取れる問題点は、文化的コードが異なる人々つまりホスト側とゲスト側の文化背景をどのように重ね合わせるかということである。そして、この問題を解決する一つの方法が、ホスト側からの演出だといえよう。しかも、それはゲスト側が自分たちの文化を観光というイメージの空間の中で「戦略的に」表現しうるような演出である。ここで「戦略的に」という言葉を用いたのは、観光という特殊空間にあって、しかもそこはイメージに支配されていることを分かった上で、自分たちが呈示しようとする文化を操作しながら、ゲスト側の文化的コードに理解できる範疇で表現するといった意味合いを含んでいるからである。また「戦略的に」自文化を呈示・表現するというのは、前述したホスト側の「操作的客体化」を経た「観光文化」を創出することとほぼ同じ意味をもつと筆者は考えている。
 そこで、前で述べた「戦略的」とまではいかないが、ホスト側からの演出によって、異なる文化間の媒介がスムーズに行われた例として、フィジアン・ホテルのパフォーマンスにおける演出をあげることにする。これはフィジーの観光における成功例である。そこでは、ゲストの期待とホスト側の現実を熟知しているフィジー人マネージャーが「演出家」として、大きな役割をはたしていた。
 このフィジアン・ホテルでは、フィジーの「観光文化」として「火渡り」と「メケ」が上演されている。失敗例のほうでは、この火渡りとメケに何も演出がされていなかった。しかしフィジアン・ホテルでは、ゲスト側の期待を理解している演出家によって、観光客の気をそらさぬ演出がされていた、と橋本は報告する。(橋本 1995:165-166)
それは、ゲストに向かって「火渡り」の説明がされている間には、その場の緊張感が失われないようにメケ隊の歌が流れているといったものや、「火渡り」の間も常にゲストの注意を引いておいて、拍手などを引き出すことにより、上演者と観客との交流を十分に計ったりするという演出である。失敗例の中では、観光客も上演者もそれぞれの期待がお互いにずれていたため、どちらも不満足な結果に終わっていた。しかし、ホスト側からの演出家が、観光という空間の中で従来のフィジー流の民族文化を操作的に「客体化」することによって自分たちの文化を相対化し、ホスト側からゲスト側に提示しうるものにしたという点で、フィジアン・ホテルでのパフォーマンスは成功したといっていいだろう。このような演出家は、異なる文化コードを持つゲストとホストの交流の媒介をする役割を果たしている。またこの事例は、ホスト側が「戦略的に」自文化を呈示していく可能性をしめすものであるという点で評価できるのである。

(3)フィジーの事例からの考察

 このような演出家がどのような観点で自分たちの文化を相対化し、また、なぜゲスト側とホスト側の文化的コードをうまくかみ合わせることができたのかについて、橋本は詳しくのべていない。また他の事例は今のところあげられていないので、このフィジアン・ホテルでのパフォーマンスでしか、この演出の効果を検証することができない。よってこのフィジーの事例は橋本の考察に従うなら、成功した事例だといえる、という言い方しか現在はできない。しかしそうではあっても、フィジアン・ホテルにおけるホスト側からの演出の事例は、バリの例と違った視点を提供する。それは、「観光文化」を観光の空間の中で呈示するときの、ホスト側の解釈を経た文化呈示という可能性についてである。またこのような事例において、なぜホスト側とゲスト側両方の期待を満たすことができたのか、異なる文化的コードをつなぐ演出とはどのようなものなのか、といった研究をこれからしていく必要があるだろうと思われる。
 バリの観光の例は、つくられた「観光文化」が観光の空間を離れたバリ社会の中で、バリの文化の一部として位置付けられ社会の中にフィードバックしていったという点において、ホスト側のより主体的な観光への参加を感じさせるものであった。そして、このフィジーの例は、ホスト側が「観光文化」を提示するときに、文化呈示を主体的にコントロールして行うという、新たな観光への参加の可能性をしめすものであると、筆者は考えるのである。

   お わ り に

 今までみてきたバリと、フィジーの観光の例は、ホスト側が現在あるイメージの中でどのように自分たちの文化を観光という空間において呈示していくか、その方向性を示すものであった。
 現在の観光は、オリエンタリズムという政治性をもったイメージに支配されている空間の中での現象である。しかし、観光という現象がホスト社会の将来にかかわるものである以上、その不平等な力関係の行使されている中で、どのように主体的に観光に取り組むかということは、非常に大きな問題であると言えよう。
 フィジーの例のところで、「戦略的」演出が必要であると述べた。これは観光という力関係に絡めとられながらも、「観光立国化」を目指す社会がより主体的に観光を行っていく際のキーポイントともなり得ると思われる。というのは、あらかじめ出来上がっているイメージの中に現在の空間で営まれている文化を「戦略的に」おりこんでいくことで、より観光に対してホスト社会が文化をコントロールするという主体性を持つことができると考えるからである。そして、その様にして生み出される「観光文化」がバリのように、新しい文化、新しいアイデンティティを生み出すきっかけになるかもしれない。その時には、創出された「観光文化」は観光という空間を抜け出して、ホスト社会にとっての新しい「観光立国化に伴う文化的自立」といったものが起こりうるかもしれないと、筆者はおもっているのである。

参 考 文 献

アーリ・ジョン(加太宏邦訳)  
 1995 『観光のまなざし』法政大学出版局

石森秀三
 1994 「島嶼国家と観光開発?オセアニアの事例を中心に?」
    井上忠司、祖田修、福井勝義(編)『文化の地平線?人類学からの挑戦?』
 1991 「観光芸術の成立と展開」 石森秀三(編)『観光と音楽』    東京書籍
 1993 「国事としての観光」 『中央公論』108(1)
 1996 「観光革命と20世紀」
    石森秀三(編)『観光の20世紀』ドメス出版

太田好信 
 1993 「文化の客体化?観光をとおした文化とアイデンティティの創造?」 『民族学研究』57(4)

小田亮
 1996 「ポストモダン人類学の代価」
    『国立民族学博物館研究報告』21(4)
 1997 「文化相対主義を再構築する」 『民族学研究』62(2)

小谷狂之
 1993 『ラーム神話と牝牛』 平凡社

サイード・エドワード・W
 1993a『オリエンタリズム 上』今沢紀子訳 平凡社
 1993b『オリエンタリズム 上』今沢紀子訳 平凡社
サンガー・アネット
 1991 「災いか、幸いか?」 石森秀三(編)『観光と音楽』     東京書籍

THOMAS NICHOLAS
 1992 「the inversion of tradition」
    『American Ethnolojist』19

トレヴァー=ローパー
 1992 「伝統の捏造?スコットランド高地の伝統」
    ホブズボウム(編)『創られた伝統』紀伊国屋書店

永淵康之
 1996 「文化イメージの受容と価値の生産」
    石森秀三(編)『観光の20世紀』ドメス出版

中村潔
 1990 「バリ化について」 『社会人類学年報』16

橋本和也
 1995 「フィジーにおける民族文化の創出」
    山下眞司(編)『観光人類学』新曜社

Hashimoto kazuya
 1992 「Redefining the Image of Fiji:The Antholopology of Tourism」『Man and Culture in Oceania』8

ホブズボウム・エリック
 1992 「序論?伝統は作り出される」
    ホブズボウム(編)『創られた伝統』紀伊国屋書店

前川啓治
 1997 「文化の構築?接合と操作」 『民族学研究』61(4)

山下眞司 
 1992 「劇場国家から旅行者の楽園へ」
    『国立民族学博物館研究報告』17(1)
 1995a 「観光人類学案内」山下眞司(編)『観光人類学』新曜社 1995b 「楽園の創造」山下眞司(編)  『観光人類学』新曜社
 1996 「観光の時間、観光の空間?新しい地球の認識」
    井上俊ほか(編)『岩波講座 現代社会学(6) 時間と空間の社会学』岩波書店

山中速人
 1991 「エスニック・イメージの形成と近代メディア?ハワイ先住民のイメージ形成におけるメディア・ 観光産業の影響と支配?」 『放送教育開発センター研究紀要』第6号
 1992 『イメージの楽園』 筑摩書房
 1996 「観光体験における二つのリアリティ」 『地理』41-12