開発と人類学
−開発における人類学の貢献―
梶原 法子
要約
本論は開発と人類学というテーマを定め、開発分野において人類学がどのような貢献をなしえるかということについて考察することを目的とする。
第二次世界大戦後の世界では、経済の発展を重要視した大規模な開発が盛んに行われてきた。しかし、そのような開発は経済成長という目標を達成する事ができなかっただけでなく、貧富の差の拡大や、貧困層の増大、環境破壊などといった多くの深刻な問題を生み出した。すなわち、経済開発は失敗したと言えよう。そのような状況下で、従来の開発に対する疑問が生じ、それに取って代わるものとして新しい概念が登場した。それが、環境保護と開発を両立させようとする「持続可能な開発」、また住民の参加を重視した住民中心の「住民参加型開発」である。第1章では、この「住民参加型開発」のアプローチによって行われる集落開発について取り上げ、考察を進める。
集落開発は集落などの区切られた地域社会において、住民の生活の向上を目的として行われる開発である。その集落開発において重要視されているのは、住民達が自発的に協同して活動に参加し、そのことにより目的を達成することである。この住民の「参加」を強調し、住民が住民自身の手で行う開発が住民参加型開発である。その目的は、住民の生活環境、文化が破壊されないことや開発の成果が住民全体に行き渡ること、また住民が自立することだとされる。参加型集落開発の事例として、外国による森林伐採を拒否し、自らの自分達の生活環境を守りながら現金収入を得るために様々な開発を計画したソロモン諸島民やパプアニューギニア北部州に住むマイシン人などを取り上げ、その評価できる点、また問題である点について考察する。参加型集落開発の評価点としては、人間の基本的ニーズ、つまりベーシックヒューマンニーズに重点をおいた開発であるという点、また、従来の開発に比べて外部からの介入が少なく、住民の自立が重視されるという点、さらに開発の影響を住民が直接受けることが可能であるという事、そして外部からの破壊的影響が少ないという点などが挙げられる。このような評価点によって、参加型集落開発が現在の開発において最も進んだ形ではないかと考える。しかし、当然のことながら、この開発にも問題点がないわけではない。根本的な問題は、開発対象となる地域社会に住む人々が「住民」という言葉で一まとめにされ、あたかも同質の集団であるかのようにみなされてしまっていることである。開発に関わる人々が社会における様々な差異に目を向けずにプロジェクトを進める事は、そこに住む人々の間での対立を招いたり、プロジェクトが一部の住民に有利なように働いたりというような問題を生む可能性がある。このような問題点を解消するためにはどうすればよいのだろうか。問題解決に人類学が貢献できることはないだろうか。第2章では、人類学が問題解決の糸口となりえるのではないかという視点に基づいて、開発における人類学の貢献について考察を進める。
現在、開発実施者から人類学に関心が向けられ、また人類学者は開発に関心を持っている。人類学者が開発に関わる機会が増えつつある中で、開発に関わる人類学者はジレンマを感じることがある。その中で注目すべきであるのは、住民が場に応じて意見を変えるというジレンマである。このジレンマを解消するために人類学者がなすべき事は、人々の本心に迫ることだと考える。本心を探るには意見が調査された時の状況や調査方法、あるいはその社会の背景について詳しく分析することが必要であろう。そのためには人類学的な視点に基づいた調査方法が役立つと思われる。それでは、人類学者は開発にどのような関わり方をすればよいのだろうか。
人類学者の開発への関与の仕方には直接的関与と間接的関与という大きく分けて二種類の関わり方がある。直接的関与とは、人類学者がある特定の開発プロジェクトに直接的に関わる関わり方のことを指し、間接的関与とは、人類学者が開発という現象について研究、分析を行うことによって開発に関わる関わり方を指す。しかし、間接的に関わっているだけでは先ほど述べたような参加型集落開発の問題点や開発に関わる人類学者のジレンマは解消されない。なぜなら、間接的関与では、問題解消のために必要な、「住民」の中の差異についての調査や人々の本心を探るための調査を行うことができないからである。それでは開発により深く貢献できるとは言いがたい。そこで、直接的関与についての考察を進める。
人類学者が参加型集落開発に直接関わった事例として、グアテマラでの斯波の例とインドネシアでの小國の例を取り上げる。斯波が関わった二つの村でのプロジェクトは住民同士の対立によって中止に追いまれ、また暴力事件が引き起こされる結果に終わった。問題や対立を解決できなかったという意味で、斯波の事例は失敗例だと捉えることができよう。それに対して、小國はプロジェクトが進んでいく過程において生じた様々な問題に対して、人々との対話を重ねることによって、人々とともにそれを回避または解決した。すなわち、お互いの対話を通して試行錯誤しながら開発を進めていったのである。これらの事例から、人類学者がすべきことは調査や人々との対話、そしてそれによる問題の解決や対立の仲裁であると分析できる。そして、これらによって様々な問題やジレンマの解消が可能となるのである。故に、現状においては、開発に関わる人類学者にとって、直接的関与が最善の関わり方であると結論付ける。とはいえ、直接的関与によって問題が全て解消されたわけではなく、現在の開発分野においては依然として問題が多数存在する。それらの問題を解決することは非常に困難であろう。しかしながら、人類学者が積極的に、また直接的に開発に関わり、試行錯誤する中で、有効な解決策が見出される事を期待している。
第1章 参加型集落開発
1−1 集落開発
1−2 参加型開発
1−3 評価点
1−4 問題点
第2章 開発への人類学者の関与
2−1 開発と人類学
2−2 間接的関与
2−3 直接的関与
むすび
はじめに
近年、国際的な開発援助において、人間中心型あるいは社会に視点を据えた開発へと重点が移行している[杉田1999:335]。これには、経済・GNP成長を目的視する従来の開発の行き詰まりがある。従来の開発は、それによる経済発展を最重要視した大規模なものであった。第二次世界大戦後、目標をたんに経済成長に置くような開発が世界各地で盛んに行われた。1961年に国連が当時のケネディ米大統領の呼びかけに従って、1960年代を「開発の10年」と宣言してから、「開発の10年」は四度にわたって続けられてきている。しかし、経済成長に重点を置いた経済開発は、貧困を解消することができなかった。それどころか、開発の成果を受けるのはごく少数の人々だけという状況を生み出した。それによって、貧富の差の拡大、貧困大衆の増大などといった当初の意図とは正反対の現象が生じた。また、このような開発は環境破壊を伴い、地球規模の危機が進んだのである[西川1997:15]。
第二次世界大戦以後、世界中で行われた経済発展重視の開発を支えた、開発に関する理論に近代化理論がある。それによると、後進性とは単に近代化が遅れている状態を指し、先進社会に存在する何らかの要素が後進社会に欠けていることから生じる状態である。したがって、その要素が備わるならば先進社会と同じような近代化という歴史発展の道をたどるはずだとされる[玉置1988:179]。そしてその道の先頭者は欧米先進諸国であり、それらの国々がたどった道筋がほかの全ての国にとってもただ一つのコースなのだとされるのである[小田1997:61,62]。
この近代化理論に基づいて、西欧諸国は自らの歩んできた経済成長の過程をそのまま途上国に適用できると考え、開発を進めてきた。しかし、このような開発は、西欧の価値観を地域住民に押し付けることになり、伝統文化の喪失や土地紛争などの問題を生み出した。また、開発の成果が住民全体に行き渡らず、権力を持つ一部の人々によって独占されてしまう状況が生まれた。そのことにより、貧富の差の拡大や、貧困層の増大という問題が生じたのである [高柳1997:93] 。さらに、従来の開発は、開発途上国と呼ばれる国々においてだけではなく、世界規模での問題を生み出してきた。その最も代表的な例が環境破壊である。ソロモン諸島やパプアニューギニアにおける大規模森林伐採による森林破壊はその一例である[関根1999:190,斎藤1997:224]。その他、地球温暖化やオゾン層破壊、気候変動なども人類存続を脅かす環境問題であるといえる[西垣1993:56]。またその他の問題も存在する。従来の開発は常に外部からもたらされるものであった。つまり、政府や開発機関という、開発の対象とされる地域の住民とは無関係な人々が中心となって開発が行われてきたのだ。開発のそのような側面もまた問題視される。なぜなら、開発自体が住民の言ったことに基づいたものではなく、外部の人間の判断によるものであるため、開発の成果が住民の生活に直接役にたたない場合が多いからである。
このように、従来の開発が多くの深刻な問題を生み出してきた状況下において、そのような開発に対する疑問や批判が生じ、開発についての再考がなされるようになった[西川1997:3]。つまり、経済成長重視の開発アプローチは失敗に終わったのである。その結果、従来の開発に取って代わるものとして、新しい概念が登場した。「持続可能な開発」、「住民参加型開発」などの重要性が叫ばれるようになったのである[西川1997:15]。「持続可能な開発」とは、これまでの開発が環境悪化や生態系破壊をもたらした事実を反省し、開発を行いながらも環境保全を実現することによって、将来にわたって人々がそのニーズを充たすことができるようにと提示された概念である。通常、「将来の世代の資源や繁栄を害することなく今日の人々に利益をもたらす発展」と定義される[山下1997:118]。つまり、生態環境や当該社会や文化との調和を保ちながら開発を進めていくというものである。
また、「住民参加型開発」も開発における新しい流れの中で有効な概念であるといわれている[西垣1993:85]。先ほど述べたように、第二次世界大戦以降、経済発展に至上の価値をみとめ、西欧の経済発展のプロセスを開発途上国にも適用できると信じて、開発が進められてきた。しかし、経済格差や貧困人口の増大、環境破壊という様々な問題が生じ、1970年代に入るとそれらの問題に世界の関心が向けられてきた。そのような状況に伴って、それらの問題の解消を目指して、住民の参加を重視した「住民参加型開発」が提唱された。これは、今までのように政府や援助機関が一方的に行う上からの開発ではなく、住民が主体となって行う開発である。つまり、外部からの援助を受けつつも、基本的には自分たち自身の手で行う開発を意味している。この概念が「住民参加型開発」と呼ばれるものである。これは、従来の開発において、住民の参加がないために援助終了後にプロジェクトが継続せず、失敗に終わった例がたくさんあることへの反省として生まれたという側面をあわせ持っている。住民が参加することによって、住民全体に開発の成果を行き渡らせることを実現しようとするものである[西垣1993:74]。また、外部からの環境破壊や伝統破壊を避けることを目的としている。
これまで見てきたように、開発が生み出してきた様々な問題への反省から、新たな開発のアプローチが提案されるようになった。その一方で、多くの深刻な社会問題を生じさせる開発は行われるべきではないとする意見も存在する。開発に反対する人々は、いかなる形の開発も破壊的影響をもちうるため、開発をやめるべきだとする。例えば、開発がもたらす環境への影響を危険視し、開発に反対する人々がいる。そのような人々は先ほど見た「持続可能な開発」という概念にさえ反論する。その人々の主張は開発と環境保全は相容れないものであり、常に裏表の関係にあるものだというものだ。したがって、環境を守りながら開発を行うことは不可能であり、環境保護は開発に優先して行われるべきであるため、開発をやめるべきだというのである[ベルトラン・シュナイダー1996:60]。
環境問題に関する議論では、先進国と途上国との間で意見の対立がみられる。1992年6月ブラジルで開かれた「環境と開発に関する国連会議」(UNCED=地球サミット)では、両者は激しく衝突した。地球環境問題が最優先課題であると主張する先進諸国側に対し、途上国側は貧困や飢餓、栄養不良などの問題解決のために、開発こそが最優先されるべき急務だと反論したのだ[ベルトラン・シュナイダー1996:59]。もちろん、途上国側も事態の深刻さについては認識しているが、大規模開発によって環境を破壊したのは先進国側であるとし、先進諸国の作り出した危機のために、開発を遅らせることになる環境保護の新しい基準を押し付けられる事態には納得していない。当然のことながら、現在の世界において環境への影響を無視して開発を進めることは、もはや許されていない。しかし、玉置によれば、先進国側が途上国側へ価値観を押し付けることは、経済開発が途上国の伝統や文化に与えた破壊的影響と同等の影響を与えかねない[玉置1995:95]。例えば、環境保護至上主義はその典型である。環境保護至上主義者達は、自然観や人間と自然との関わり方の多様性を認めようとしない。自分達の基準に合わない、自然の捉え方や自然との共生の仕方を環境破壊に結びつけてしまうことがある。「反捕鯨」運動はその一例である。彼/彼女達はクジラを魚として捉えることを認めようとせず、クジラをほ乳類としてのみ捉え、それを守らなければならないと考える。それは、自らのものとは異なる価値観を否定し、破壊してしまうことにつながりかねない。 1992年のUNCEDでの議論に見られるように、途上国にとっては環境保護も必要だが、開発も不可欠である。
また、開発のもたらす環境破壊という観点から開発に反対する意見のほかに、開発の伝統破壊という観点から反開発の立場をとる人々がいる。そのような反開発の立場をとる人々は、開発は伝統を破壊しているとし、そのような開発による破壊から伝統文化を守らなければならないと主張する。その際、守られるべきだとされる伝統文化は反開発支持者によって純粋で真正なものであるかのように捉えられている。彼/彼女達は開発という悪によって真正な伝統文化が汚されるのを防がなくてはならないと考えるのである。このように伝統文化を純粋なものとしてみる見方は本質主義的である。人類学においてもこれまでは、開発によって純粋で真正な文化が失われていくと考えられてきた。しかし、そのような文化の真正性という捉え方は、サイードによる近代オリエンタリズム批判などによって批判された。近代オリエンタリズムは、東洋と西洋とされるものの間に引かれた本質主義的な区分にもとづく「語りの様式」であると同時に、「オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式」であるとしてサイードによって批判されたのである[小田1997:66]。そのことにより現在の人類学においては、真正な伝統文化などというものは存在しないとされている。このような人類学的な観点によれば、反開発を唱える人々の捉え方も本質主義であるとして批判されることになる。
反開発主義者達が主張するように、確かにどんな小規模開発においてもそれによって破壊されるもの、失われるものは存在するであろう。しかし、そのような視点から開発を批判する反開発主義者達の意見には、これまで見てきたような様々な批判点がある。さらに、彼/彼女達が開発は人々の生活環境や文化を破壊するものだと言っても、途上国の人々は貧困や飢餓に苦しんでいる現状を変えることを望んでいるということが少なくない。そして、現時点では、現状改革のためには開発が不可欠であり、唯一の選択肢であるとする意見が主流である[西垣1993:6]。このように住民自身が自らの生活を変えるために開発を望んでいる以上、開発を行うべきではないと開発そのものに反対することは、それもまた、外部による住民への価値観の押し付けとなってしまうのではないだろうか。先ほども述べたが、玉置の言うように、価値観の押し付けは、経済開発が途上国の伝統や文化に与えた破壊的影響と同等の影響を与えかねないのである[玉置1995:95]。
これまで、反開発主義に対して批判を行ってきたが、われわれが議論すべき事は、開発の是非についてではないだろう。それよりもどのような開発が住民にとって得るものが大きい開発かという、開発の質や内容について議論するべきなのではないだろうか。以下では、開発において新しい概念である「住民参加型開発」のアプローチによって行われる集落開発について取り上げ、考察することにする。
第1章 参加型集落開発
第1章では参加型集落開発について考察を進めてみたい。ここでは参加型集落開発を参加型開発のアプローチによって行われる集落開発と位置付ける。1節では集落開発の内容やその目的について記述し、2節では参加型開発について3つの事例を取り上げながら、評価できる点について考察する。一方、問題点については3節で述べることにする。
1−1 集落開発
集落開発は、村落や町、市などというように区切られた地域社会において行われる。特に、農村部の集落社会において集落開発プロジェクトが行われる場合が多い。斯波の記述における佐々木の言葉を借りれば、集落開発をもっとも広く定義すると、「住民がその地域社会の経済的・社会的・文化的諸状態を改善するための協同努力のすべてを指す」ということになる[斯波1999:302]。さらに第三世界の開発という点で一般的によく知られた定義では、集落開発とは、「地域社会の経済的、社会的、文化的条件を向上し、これら地域社会を国民社会に統合し、国の進歩に十分貢献できるように、人々自身の努力と政府当局の努力を結びつける過程である」[斯波1999:302]。すなわち集落開発とは、地域住民が自らの社会の生活状況を改善し向上させるために、住民自身で協同して努力することを意味するのである。このように定義される集落開発において、常に強調される中心的な要素が存在する。それは「集落住民の参加と自発的な協力を通じた『自助的』集団行動」である[斯波1999:302]。つまり、地域住民が自分達の生活の向上を目指して活動する集落開発において重要だと考えられていることは、住民達が自発的に協同して活動に参加し、そのことにより目的を達成することなのである。
このように、集落開発の主な目的は地域住民の生活状況の向上だとされている。その目的のもと、自給性を高めるための新しい農業技術の導入、社会基盤の整備など、様々なプロジェクトが行われる。一方、もう一つの目的として先ほどの目的と同様に重要だと考えられていることは、住民の生活が向上する過程において住民が活発に参加し、協同的、自助的努力をもって目標達成するということである。このことによって、住民の自立心が芽生え、また住民が、外からの援助に頼るのではなく、自分達の力で問題に対処し、危機を乗り越える力を身に付けることができるようになるのではないかと考えられている[斯波1999:302]。この自助努力の重要性については、日本のODAにおいてよく述べられている。自助努力とは、自分達の力で目標を達成しようとして全力を尽くす姿勢である。わが国のODAはこのような自助努力こそが開発の成功のかぎであると考えている。途上国の人々が必死になって現状を改善しようと努力しない限り、開発も援助も結局は上手くいかないと言うのである。この考え方に基づき、途上国の自助努力を途上国からの要請にしたがって支援するという援助姿勢を一貫して採用している[西垣1993:138]。途上国側の努力が中心であって、外からの支援はあくまでも、その努力が成果をあげられるようにするための補助的な役割を持つにすぎないという捉え方である。日本のODAのこのような援助理念は、住民が開発の各場面に積極的に参加し、努力をし、目標を達成する過程において自立心を養うという集落開発の目的を達成するためのものである。しかし、ODAの実際の援助活動に関しては様々な問題点が指摘されている[村井1990:309]。複雑な援助行政システムによる非効率、情報の非公開から生まれる汚職や腐敗、環境や人権に対する配慮の欠如など、問題点を数え上げればきりが無いというのがわが国のODAの現状であるが、ここでは、そのような批判に関して詳しく触れないことにする。
集落開発を実施するにあたって、目的に沿った開発を行うために実施者側が忘れてはならないとされているのは、開発はあくまで住民が中心となって行われるべきであり、開発援助機関は手助けの役割を持つに過ぎないということである[西垣1993:138]。住民の求める援助に合わない援助はかえって住民に悪影響を与える可能性があるというわけだ。これまで見てきたように、開発の成果をあげるためには住民の自立が不可欠だと考えられている。また、住民の自立は開発の目的として掲げられている。この目的を達成し、開発を成功に導くためには、プロジェクトに際して金銭面、技術面での外部からの援助は避けられないとしても、不必要な援助は続けられるべきではないというのだ。なぜなら、援助が常に行われると別の弊害が出てくるからである。援助に依存した生活を続けていると、援助を受けている人々は自分達の抱えている問題に対して鈍感になってしまう。困った時にいつも外から助けてもらえるならば、自分達で行動を起こし、問題を解決しようとする自立心は育たないだろうというのである。住民ができるだけ外からの支援に頼らず、自分達で社会問題意、環境問題に取り組める能力を強化するためには、援助する側の配慮も欠かせないと言われている[西垣1993:138]。
集落開発の目的として重要な要素は、住民の活発な参加であることは先にも述べた。斯波によると、住民が自発的な協力のもとで活発に参加するために重要とされることは、プロジェクトが集落の「感じられるニーズ」に基づいているということである[斯波1999:303]。「感じられるニーズ」とは、住民が生活を行う上で必要だと考えている要望だとされている。住民の意見が聞き入れられ、それが活動に反映されることによって、住民がより積極的に活動に参加することが期待されている。そして、このような集落の「感じられるニーズ」によるプロジェクトを実行するためには、援助活動が実施される前の段階、すなわちプロジェクトの計画段階からの住民の参加が求められる。自分達が考えた計画という意識によって、それを達成しようとする動機は強まるであろうと予想されるのである。この「参加」という概念について次節で述べることにする。
1−2 参加型開発
1980年代半ばから、開発の方向を示す中心的な理念として参加型開発の概念が提唱されるようになった。その背景には前章で見たように、経済成長を重視し大規模である従来の開発が様々な問題を生み出し失敗したという経過があった。現在に至るまで様々な開発が世界各地で行われてきた。例えば、森林伐採やダム建設、灌漑、土地改革などである。それらに共通して言える事は、それらは地域住民が主体となって行う開発ではなく、開発を計画し施行する機関や個人が、住民とは無関係の、権力を持つ政府からの押し付けであるということだ。また、それらはすべて環境や住民の生活を破壊してしまう可能性の高い巨大開発である。実際に環境や人々の伝統文化は破壊された。経済格差は拡大し、貧困人口は増加した。このようなことから見て、各国政府や開発機関が住民に一方的に押し付けるような種類の大規模開発は失敗したといってよい。それに対応して重視されるようになったのが「参加」の概念である。また、これまでの開発において住民の参加が得られなかったために、プロジェクトが継続しなかったというような失敗を繰り返してきたことへの反省から出てきたという側面もある。住民が住民自身の手で行う開発が参加型開発であり、それによって、住民の生活環境、文化が破壊されないことや開発の成果が住民全体に行き渡ること、また住民が自立すること等が目的とされる。
参加型開発の事例としてソロモン諸島とパプアニューギニアのマイシン人の活動について取り上げ、考察したい。
関根によると、ソロモン諸島では、政府と大多数の国民は外国による森林伐採などの大規模伐採を拒否し、国民が自らの資源を利用して開発に参加するという考え方を持っている[関根1999:191]。しかし、国民の中には日常生活において切実に現金を必要とする経済状況におかれている人々もいる。そのような人々は森林伐採事業による環境破壊の問題について知っていても、多額のロイヤルティが期待できる森林伐採事業を導入することに肯定的な態度を示す。また、実際には丸太輸出に大きく依存した開発が変化する可能性は少ない。そのような中で、住民は自分達の生活環境を守りながら現金収入を得るための様々な開発を計画した。ソロモン諸島国内に全国的なネットワークを持つソロモン諸島トラスト(SIDT)は、1982年に地元の人々が中心となって作った地元NGOである[宮内1998:183]。SIDTは村生活を衛生的・教育的・医療的・生業的に充実させ、村人に現代社会において自立できるだけの自身と能力を付与すること(エンパワーメント)を目的とする[関根1999:190,191]。SIDTは村レベルでのエコフォレストリー(小規模で環境に優しい林業)を進める訓練所を予定し、ガリの実加工のプロジェクトを進め、蝶の飼育やエコツーリズム、紙加工のプロジェクトを計画している。また、ソロモン諸島パヴヴ島の住民は住民自身の手による持続可能な森林開発の計画を持っている。「ラブカル資源開発」という名の会社を設立し、グリーンピースの協力の下、村ベースのエコフォレストリーおよびエコツーリズムの計画を始め、ニュージーランドの木材貿易・環境グループ「輸入熱帯林グループ」の協力で、エコフォレストリーのトレーニングを受けている[宮内1998:182]。
パプアニューギニア北部州コリンウッド湾地域のマイシン人は、彼ら自身の開発機関「マイシンの総合的保護と開発」を通じて、持続可能な開発のプログラムに着手した[斎藤1997:230]。例えば、自分達で生産した樹皮布を販売し、それによって得た資金を使って太陽電池で作動する電話を設置した。その電話の使用料は診療所の薬の購入などに当てられる[斎藤1997:230]。パプアニューギニアでは、1975年の独立以前から、大規模な森林伐採が日本を含めた外国企業の手によって行われてきた。多くの地域で、日常生活面における切実な経済状況から、収入を得るための手段として森林伐採を許した結果、環境破壊が進んでいる。しかし、マイシン人は、それまで依存してきた自然資源と、自らの生活の場である熱帯林を守ろうとし、伐採を拒否した。持続可能な開発戦略を選択したのである。彼らは住民自身の手で森林資源をコントロールし、現金収入を得ようとしている。援助を受けながらも外部に依存することなく、住民の参加によって、生活を向上させようと自助努力を行っている。
参加型開発と似たような概念にコミュニティ・デベロプメントというものがある。コミュニティ・デベロプメント(以下CD)とは、「住民がその地域社会の経済的文化的諸状態を改善するための共同的努力のすべてを指す」[玉置1988:185]。CDの成功例として有名なコーネル=ペルー・プロジェクト(CCP)を取り上げる。これは1940年代末にコーネル大学の人類学者ホルムベルクがペルー人と協力して計画した、大農園制下における極貧のインディオ農奴のコミュニティを独立・自立させるためのプロジェクトである。はじめコーネル大学が大農園地主から土地を借り、食糧生産技術の改善、教育の導入を行い、やがて政府の働きかけによって土地を農奴に売却することを承認させた。そして、大農園の土地はコミュニティの土地となり、奴隷労働は廃止されて住民は農奴から完全な自作農となった。農業生産の大改良により自給のみならず余剰の販売から利益を得、プロジェクトの費用の多くを農民自身が調達できるようになる。さらにパトロンへの依存を排除して彼ら自身の自治・リーダーシップが育つとともに外からの干渉もしだいに減少しやがて消滅したという[玉置1988:185]。
1−3 評価点
それでは、これまで見てきたような参加型集落開発の評価すべき点とはどういった点であろうか。
まず、人間の基本的ニーズ、つまりベーシックヒューマンニーズに重点をおいた開発であるという点が挙げられる。第二次世界大戦以降行われてきた経済発展重視の開発の失敗に伴い、人間の衣食住や保健、教育、雇用などの基本的ニーズの充足を開発目的として重要視する、ベーシックヒューマンニーズ(BHN)の概念が登場した。ベーシックヒューマンニーズとは、具体的には、飢餓や渇きの撲滅、保健衛生や医療の改善などである。飢餓の状態に陥らないだけの食料を確保することや、保健衛生が不十分であったり、治療を十分に受けられなかったり等というようなことによって多くの人々が死亡する状況をなくすことは、人間が基本的に望むことだとされている。参加型集落開発において住民のニーズとされるものはこのベーシックヒューマンニーズと全く同じであるとは限らない。しかし、参加型集落開発において住民が望むのは自らの生活に直接利益をもたらさないような開発ではなく、生活に密接に関係した変化である。自分達の生活に密接したものが人々の衣食住や保健、教育を指す場合は多いだろう。事例で見たように、ソロモン諸島のNGO、SIDTは、住民中心の組織であり、村生活を衛生的・教育的・医療的・生業的に充実させることを目指している。パプアニューギニアに住むマイシン人のニーズの一つは薬の購入など医療の充実であった。また、インディオのニーズは食料の自給であった。もちろん、それ以外の要素を指す場合もあるであろうが、ベーシックヒューマンニーズは住民のニーズとされるものの中に含まれるものとして捉えることができる。よって参加型集落開発は開発において新たに重要視され始めたベーシックヒューマンニーズに重点を置いた開発と言うことが出来、その意味において評価することが出来るであろう。
また、外部からの介入という面においても評価点が挙げられる。
人類がこれまで長期にわたって行ってきた環境適応の営みも「開発」ということができよう。人類はこれまで、より生活しやすい環境を作り出すために、周りの環境に手を加えたり、自然を利用したりしながら生きてきた。これが環境適応の営みである。一方、広辞苑において、「開発」とは「(天然資源を)生活に役に立つようにすること」と説明されている。この説明によれば、自然を生活に役に立つようにした人類の営みも「開発」であると解釈する事ができよう。
しかし、そのような「開発」に比べて、第二次世界大戦以降の開発はその規模とスピードにおいて、これまで人類の経験したことのないものであった。青柳によれば、前者と後者の大きな相違は後者には常に他者からの働きかけ、すなわち介入が介在している点である[青柳2000:1]。政治的・経済的弱者に対する、政治的・経済的強者からの働きかけである。従来の開発では、先進諸国から途上国に対して強い介入が行われた。参加型集落開発の場合にも開発援助を行う国際機関や政府などの介入が見られる。資金面、技術面での外部からの援助は開発プロジェクト開始時には避けられないものであろう。しかし、三つの事例から見てきたように参加型集落開発においては、なるべく外部からの介入に頼らず、自分達の力で開発を行おうとする住民の姿勢が見られる。実際に三番目に取り上げたCCPの事例では、最終的には外からの介入はなくなっている。また、ソロモン諸島やパプアニューギニアの例で見たように、森林という自然環境に適応しながら現金収入を得る手段を見出している。これは経済開発に比べると環境適応の営みにより近い開発といえるのではないだろうか。
参加型集落開発は、第二次世界大戦以降大規模に行われてきた開発とは異なり、人類がそれ以前から長期にわたって行ってきた「開発」、すなわち、環境適応の営みという側面を強く持った開発であると言えよう。このように外部からの介入の程度が以前と比べて小さく、また、介入に頼らず自立することを重んじるという点で参加型集落開発は評価できるであろう。介入に依存することなく、住民が中心となって開発を進めることで、自立し、問題を解決する能力を身につけることができるのである。
また、参加型集落開発は、必ずしも住民のニーズに基づいて行われるとは限らない従来の開発とは異なり、住民の要請に基づき、住民自身によって計画される開発である。そのため、参加型集落開発による影響は住民の生活に直接的に作用する。よって、住民は開発の成果を直接的に受けることができるのである。これは、開発による効果が一部の人々によって独占され、住民の生活向上に結びつかないという側面を持つ従来の開発に比べて評価できる点であろう。
さらに、以前のような開発に比べて破壊的影響が少ないという点も評価できるであろう。これまでの開発では、外部からの価値観の押し付けなどによって社会の伝統的部分が否定され、破壊されてきた。しかし、参加型集落開発では、人々は伝統的部分を守りながら、そして時にはそれを生かして開発を進めることができる。例えば、マイシン人は樹皮布の生産という自分達の伝統的部分を開発に生かしている。また、ソロモン諸島でのエコフォレストリーやエコツーリズムにおいては、新しい技術が外部から導入されるが、参加型開発では単に伝統的技術を先端技術に置き換えるのではなく、伝統的技術を生かしながら先端技術を取り入れることが可能であろう。この場合、伝統的部分は失われることなく、先端技術と融合される。一方、もう一つの憂慮すべき破壊的影響である環境破壊に関しては、人々の生活を脅かすような環境破壊は起こらない。なぜなら、人々は自分たちの生活を向上させるために開発を行うのであって、生活に密接に関係する自然を破壊して自らの生活に悪影響を及ぼすようなことはしないだろうと推測できるからである。
このように参加型集落開発に関して事例を取り上げながら考察を行う中で、参加型集落開発の良い点、評価できる点を明らかにしてきた。経済発展重視であり、大規模であり、開発地域にすむ住民だけでなく、人類全体に破壊的影響を及ぼした従来の開発に比べると、参加型集落開発は進んだ開発といえよう。また、住民の自助的努力が求められ、かつ、大規模に行われるのではなく、集落という小さな単位で行われるという面からも現段階において進んだ開発のあり方といえるのではないだろうか。さらにこれまで見てきたような評価点によって、様々な種類の開発がある中でも、集落開発が最も進んだ形ではないかと考えられる。しかし、当然のことながら、この開発にも問題点がないわけではない。次節では参加型集落開発の抱える問題点について探ってみたい。
1−4 問題点
これまで参加型集落開発に関して考察を行ってきた。ここでは、参加型集落開発における問題点について取り上げてみたい。
今まで見てきたように、参加型集落開発とは住民のニーズに基づいて住民が計画し、住民が協同的に参加し、自助努力を行うことによって達成される開発のことである。しかし、このような考え方において根本的な問題が存在する。それは、あたかも集落内の住民がみな調和的で、同質的であるかのようにみなされていることである[斯波1999:303]。そこでは、集落はそのような人々からなる統合された存在として捉えられている。例えば、参加型集落開発を説明する際によく用いられる言葉に「住民」や「住民のニーズ」というものがある。その言葉が前提としているのは、まとまった集団である住民が一致したニーズを共有しているということである。しかし、そもそも同じ集落内に住む人々を「住民」と一まとまりの集団として捉えられるのであろうか。また、人々の間に共通のニーズは存在しているのであろうか。「住民のニーズ」として定められるものは、実は住民全体のものではなく、一部の住民のものにすぎない可能性はないだろうか。その場合の一部の住民とは誰であろうか。また、「住民の協同的参加」という概念は、集落全体が必要さえあれば用意に一致団結できる集団であるかのような印象を与える。しかし、実際に集落はそのようなまとまった集団といえるのであろうか。
ソロモン諸島の事例で見たように住民の価値観は一様ではない。外国資本による大規模森林伐採に断固として反対する人々が大多数である中で、少数ではあるが切実な経済状況から大規模伐採に賛成する人々もいる。この場合、「住民」という言葉の中から少数の人々は排除されてしまっている。「住民のニーズ」とは伐採に反対する大多数の人々のニーズを意味する。また、住民の意見が分かれているのだから「住民の協同的参加」の実現は困難であろう。
このような価値観の違い以外にも集落内には様々な社会的差異が存在する[斯波1999:308]。同じ集落内に住んでいる人々であっても、全く均質な集団であるはずはない。集落内部ではエスニシティ、経済力、宗教、性別など、様々な違いがある。その違いによって様々な利害グループが存在し、それらのグループ間の関係は多様である。そのことから、様々な差異のある集落内で人々を「住民」としてひとくくりにしてしまうことの危険性が浮かび上がる。また、ある特定のニーズを「住民のニーズ」として定めてしまうことの不公平性、「住民の協同的参加」の実現の困難性なども垣間見ることができる。このような問題に関して開発実施者側が知らないまま、あるいはそれに注意を払うことなくプロジェクトを進めると、その過程で住民どうしの対立が起きたり、プロジェクトが一部の住民に有利なように働いたりというような問題が生じかねない。また、参加型集落開発の説明の中で「住民の生活の向上」という言葉もしばしば用いられるものである。しかし、そもそも「住民の生活の向上」とはどのようなことを意味するのだろうか。生活がどのように変化すれば「向上」したといえるのであろうか。その基準は人により異なるであるため、この「向上」という言葉は非常に曖昧なものである。よって「住民の生活の向上」とひとまとめにしてしまうことには不確かさが垣間見える。
今まで見てきたような参加型集落開発の問題点を解消するためにはどのようなことが求められているのであろうか。問題解決に人類学が貢献できることはないだろうか。次章では、人類学が問題解決の糸口となりえるのではないかという視点に基づいて、開発における人類学の貢献について考察していきたい。
第2章 開発への人類学者の関与
これまで見てきたように開発分野が変化しつつある中で、それに対して人類学者はいかなる貢献を行っているのであろうか。また、開発分野において人類学はどのような問題点を抱えているのだろうか。本論では開発分野における人類学の貢献という視点にもとづいて考察を行うことによって、今後の開発分野において人類学の果たすべき責務、すすむべき道を探っていきたい。そのことを考える上で、人類学者が参加型集落開発に直接関わった事例を取り上げることにする。
2−1 開発と人類学
開発が人類学の研究対象になり、「開発人類学」という名称が使われはじめて久しい[鈴木1999:295、296]。鈴木によると、その理由は主として開発途上国の地域専門家として開発援助活動に参加する人類学者が増えたことにあるという[鈴木1999:296]。つまり、国際機関や途上国政府などの開発実施者側が、開発の性質の変化に伴って、開発対象の地域社会やそこに住む人々に関する知識を持つ人類学者を要するようになったのだということができる。人々の意向に沿った人々中心の開発を行うためには、対象となる地域社会や人々に関する知識が必要不可欠である。また、人類学が調査対象とする地域において、開発は盛んに行われており、文化の動態的性格を研究しようとする人類学者にとって、開発が文化に及ぼす影響を無視することはもはや不自然と感じられるようになってきたことも理由として考えられる[鈴木1999:295]。このように、開発機関等の開発実施者側から人類学に関心が向けられ、人類学者の間にも開発への関心がある。開発実施者側が主導権を握り、プロジェクトを地域住民に押し付ける形で進められてきた以前のような開発に比べて、押し付けではなく人々の意見を尊重しようとする開発、つまり人々にとってよいものへと向かって変化している現在の状況が今後も続くならば、開発施行者にとって人類学者はますます必要な存在となるであろう。
それでは、開発への人類学者の関わり方についてはどのようなものがあるのだろうか。人類学者の関与の仕方には直接的関与と間接的関与という大きく分けて二種類の関わり方がある。直接的関与とは、人類学者がある特定の開発プロジェクトに直接的に関わる関わり方のことを指し、間接的関与とは、人類学者が開発という現象について研究、分析を行うことによって開発に関わる関わり方を指す。「開発人類学」という言葉が使われるようになり、開発が人類学の研究対象となったことは先にも述べた。しかし、一言で「開発人類学」といってもその研究領域は多様である。その多様な「開発人類学」の分類としてしばしば用いられるのは、〈開発人類学〉と〈開発の人類学〉という概念である。鈴木によると、開発を対象とする人類学には〈開発人類学〉と〈開発の人類学〉の二分野がある。〈開発人類学〉とは開発援助機関へ直接関与し、政策科学としての人類学を標榜する立場であり、〈開発の人類学〉は基本的にアカデミズムの内部にとどまり、開発政策に起因する諸変化を記述分析する立場であると鈴木は説明している[鈴木1999:296]。ここでは、人類学者がある特定の開発計画に直接携わるという意味で〈開発人類学〉を直接的関与、開発プロジェトに直接関わるのではなく、開発に関する記述分析を行うという意味で〈開発の人類学〉を間接的関与と捉えることにする。
また、開発に関わる人類学者はジレンマを感じることがあるというのはよく言われることである。このことに関しては既に触れたが、ここでさらに詳しく取り上げよう。小田によると、第一のジレンマは反開発の運動家達はしばしば「自然と調和している伝統文化」、「真正な民族文化」を守るといった本質主義的な語りを用いることがあるということである[小田1997:70]。例えば、フィリピン・ルソン島北部コルディリェラ山地では「イゴロット」と総称されるプロト・マレー系諸民族が、棚田耕作や首狩り、供儀祭宴、平和協定などという独自の伝統文化を保持してきた[玉置1995:100]。そこでは、外部からの開発や土地略奪から「イゴロット」の「先祖伝来の土地」を守るために、戦略的な意図によって純粋で伝統的な「共同性」が強調されている。人類学ではこのようないわば「美しき未開人」的考え方は本質主義的であるとして批判されることになる。しかし、小田によると、そのように批判を行う人類学者は意図に反して、強引に進められている乱開発を正当化したり、あるいは反対運動に水を浴びせたりする行為を行うことになるというジレンマが生じる[小田1997:71]。
また、第1章4節で詳しく述べた問題点については、小田も第二のジレンマとして取り上げ、述べている。それは住民の側は決して一枚岩ではないということである[小田1997:72]。住民参加型開発においても、開発のプロジェクトは外部から提案され、もたらされる。それに対する人々の意見は常に一様であるとは限らない。1人の同一の住民が場に応じて相手の望むような受け答えをすることがあるのだ。また、多くの場合には開発プロジェクトを受け入れることに賛成する人々と反対する人々に分かれる。そのような場合にそのプロジェクトに関わる人類学者はどのような立場をとればよいのであろうか。例えば、成田によると、オーストラリアでは開発に人類学者が積極的に関わっている[成田2000:101]。開発の場において人類学者の意見は重要視されている。そして、開発に関する訴訟などに人類学者が関与することがある。その場合にどちらの側にも人類学者が代理として立てられると、その訴訟は人類学者による代理戦争となってしまうのである。
このようなジレンマに対して人類学者はどのように対処し、ジレンマの解消を目指せばよいのであろうか。
まず、第一のジレンマに関して述べると、人類学的視点から見て正しくないからという理由であれ、開発に対する彼らの語りを本質主義的だとして批判することは、結果的に乱開発を正当化することになってしまう。それはたとえ学術的には正しいことであっても、乱開発の及ぼす破壊的影響を考慮すると倫理には反していると思われる。よって、現段階では彼らの語りに対してそのような批判を行うことは避けるべきであろう。しかし、殊更に「伝統」の真正性を強調したり、支持したりすることもまた避けるべきだ。そうすることは本質主義批判を展開する人類学の理論に大きく反しているからである。では、どうすればよいのだろうか。例に挙げたコルディリェラ諸民族は「イゴロット」と総称されているが、これらの民族はもともと「イゴロット」としての共通のアイデンティティを持っていたわけではない。玉置によると、「部族社会」「バンド社会」というような社会形態が伝統的なものではなく、支配的な外部勢力、特に植民地的状況に対抗するために形成されたとする有力な説がある[玉置1995:101]。つまり、コルディリェラ諸民族は外部からの開発に対抗するために、伝統文化や社会構造を変化させながら新しいアイデンティティを形成したといえる。この例から見えるものはコルディリェラ諸民族の、外部に対抗するための柔軟で臨機応変な戦略である。そのような戦略はコルディリェラ諸民族が自分達の求める事の実現のために自ら選択したものとして評価することができるだろう。
開発に関わる人類学者にとって重要なのは、人々の採る戦略の是非を議論することではなく、人々が何を望み、どのような目標に向かって進もうとしているのかを知ることである。その実現のために人々が選択する手段について考察することはそれほど重要だとは思われない。それよりも人々が目指すものを実現するために人類学の立場からどのような貢献が可能かということについて考えることの方がより有効であろう。その上で、「真正な民族文化」などという語りを用いることなく、人々の主張を展開する方法を考えることも人類学においては可能となり得るのではないだろうか。
次に第二のジレンマに関して考察する。まず、人類学者の代理戦争となることはジレンマではないのではないかと考えられる。なぜならば、それは人類学者がその地域に住む人々の立場にたって行動した結果であり、また人類学という学問の領域において誤ったことではないと考えるからである。次に住民の意見が一様ではないというジレンマを解消するために人類学者がなすべき事は、人々の本心に迫ることだと考えられる。本心を探るには意見が調査された時の状況や調査方法、あるいはその社会の背景について詳しく分析することが必要であろう。そのためには人類学的な視点に基づいた調査方法が役立つと思われる。社会の背景についての調査や分析は人類学者の専門分野だ。そうすることで、住民が場に応じて異なる受け答えをする背景やプロセスを人類学者が理解することができるならば、あるいは理解に近づけるならば、それがジレンマ解消に向けた第一歩となるのではないだろうか。では、どうすれば人類学者は人々の本心に迫ることができるようになるのであろうか。また、人類学者は開発に対してどのような関わり方をすればよいのだろうか。
2−2 間接的関与
鈴木によると、ガードナーとルイスはここで間接的関与と同義として扱っている〈開発の人類学〉の研究領域を(1)経済的変化の社会文化的影響、(2)開発計画の社会文化的影響、(3)「援助産業」の内部構造と言説の三つに分類している[鈴木1999:297]。(1)は開発を植民地体制や資本主義の拡大による経済的変化と捉え、それを人類学の研究対象として理解しようとする試みである。(2)はある特定の開発計画に絞り、その影響について研究しようとする分野である。(3)は前二者とは異なり、考察の対象を開発実施者側に移している。この領域は開発援助組織内部の制度的特徴を解明したり、それらの組織の基盤となっている開発を経験的・実態的過程としてではなく、言説として捉えたりする試みである。また、足立によると、開発現象を明確な人類学の枠組みで分析したのはロバートソンである[足立1995:129]。彼は開発計画を、人類学になじみの深い制度という概念を用いて分析している。
このような〈開発の人類学〉にはいくつかの課題があるように思われる。開発に関するマクロな理論において主流であるのは開発経済学者をはじめとする人々の開発理論だろう[小國1999:318]。それに対して、(1)の領域のように人類学者がマクロな視点で開発について研究しても、それが現在の開発分野において影響力を持つことは容易ではないだろう。また、現在、住民参加型開発が重視されている中で、それぞれの地域社会やそこに住む人々に中心を置くミクロな視点や多様な視点が必要とされている。そのような視点に基づく研究は人類学の得意分野ではないだろうか。それにもかかわらず、得意な部分を生かさず(1)のような研究を行うことは、開発への貢献という面であまり有効ではないだろう。
足立によると、(2)の領域では、ある特定の開発計画についての研究が行われるため、世界的な視野から開発現象を捉える視点に欠けているということがある[足立1995:133]。また、特定の開発計画について分析を行って、その結果をどういう形で開発へ役立てようとするのかという疑問も生じる。ある特定の開発計画についての分析を他の開発計画の参考にしようという意図があるのだろうか。そうであるならば、(2)の領域は現在の開発分野に貢献するというよりはむしろ悪影響を及ぼす可能性を持つであろう。なぜなら、住民参加型開発というような開発はそれぞれの地域に合った方法で進められるべきであり、他の地域で行われた開発に関する分析結果がそれほど参考になるとは思われないからである。そして、参考にしようとすることが地域独自の開発の実現を妨げる結果につながるかもしれないのだ。
また、鈴木によると、(1)や(2)においては開発の影響を受ける人々、つまり地域住民の社会的文化的変化に記述が集中されている[鈴木1999:297]。当然のことながら、開発現象を構成する人間はプロジェクト対象地域の人々だけではなく、開発実施者側の人々、つまり政治家や官僚、技術専門家なども含まれる。よって、(1)、(2)の研究は、この開発実施者側の視点が欠如した説得力に欠けるものになってしまっている。このような問題解消の方法として、世界的な視野にたって開発実施者側の事情を知ろうとする(3)の分野が必要となるだろう。そのためには開発を実施する政府や地方自治体や国際機関についてフィールドワークを行わなければならない。しかし、このフィールドワークは開発実施に関わる人々の多さ、また関わり方の多様性などから考えると、時間的・予算的な困難が予想される。また、たとえ時間的・予算的には可能であっても政府や援助機関が人類学者に開示する情報は限られた一部のものに過ぎないであろう。
このように人類学者が開発に間接的に関わること、つまり〈開発の人類学〉には様々な問題点がある。さらなる問題点として、間接的に関与するだけでは、同じ集落にすむ人々を「住民」と一まとめにしてしまうという参加型開発の問題点を解決できないという点を挙げる。なぜならば、「住民」は多様であるという理論を、開発の現場から離れた場所から発言するだけでは影響力が弱いと考えるからである。開発実施者側がそのような人類学者の意見を重視するとは考えにくい。もし重視したとしても、開発プロジェクトが行われる地域によって「住民」の多様性は異なる。よって、実施者達は、人々の間にどのような差異が存在するのかということについて知る必要がある。しかし、実施者はそのような知識を得るために有効な調査方法を持っているだろうか。そのような知識の獲得は開発実施者の専門分野ではないだろう。それは人類学者の調査によって可能となるものである。つまり、開発実施者たちは、集落には社会的差異が存在するという知識を持っていても、それがどのような差異であるのかを知り得ない。よって、人々を「住民」とひとくくりにしてしまうという問題点は残されたままになってしまうのである。
また、先ほど、人々が場に応じて意見を変えるという、開発に関わる人類学者のジレンマの解消に近づくためには、まず人々や社会について知ることが必要であると述べた。しかし、このようなジレンマの解消を目指す際に、間接的関与では限界があるように思われる。なぜなら、単に開発を現象や言説として捉え分析するというような間接的関与においては、開発によって地域社会や人々の文化に生じた変化について知ることは出来ても、地域社会や人々の姿を明確に見ることは困難であるからである。開発分野において、住民参加型開発が重要な概念として新しく登場したことが示しているのは、政府や開発機関によって「上から」押し付けられる開発が失敗したという事実である。そして、現在開発分野において重要だと考えられていることは、外部の視点からではなく、そこに住む人々の視点から開発を考え、人々に合った方法で人々の望む開発を行うということであろう。つまり、人々が開発に対してどのように考えているのか、またどのような方法が彼/彼女達に合ったやり方なのかということを知る事が必要なのだ。そのために求められるのは、人類学者の間接的な研究ではなく、実施者の表面的な聞き取り調査でもない。求められるのは、人類学の知識を持つ人類学者だからこそなしえる、より信頼性のある調査ではないだろうか。
もちろん、開発を研究対象とする人類学者にとって、(3)やロバートソンの分析のように、言説や制度として開発を分析することは不要だと考えているわけではない。そのような研究によって生み出される理論は説得力のある、優れたものかもしれない。しかし、いくら優れていてもそれが理論である以上、それほど開発への貢献につながるとは考えにくい。理論が開発プロジェクトという実践の場において生かされることによって、より高い貢献が可能になるのではないだろうか。
住民参加型開発を進めるにあたって、単に〈開発の人類学〉を行い、開発に間接的に関わる方法では限界があることは今まで見てきた通りである。間接的関与では、参加型開発の問題点も人類学者のジレンマも解決することはできない。そこで、人類学者が〈開発の人類学〉の知識を持ちながら、直接的に開発に携わることが開発にとってより多くの、そしてより深い貢献につながるのではないだろうかと考えるのである。
2−3 直接的関与
人類学者が援助活動へ直接的に関与することには様々な批判的意見や問題点がある。例えば、人類学者の意図するところと開発実施者の需要との間には、両者が共に開発事業の改善を目指していても、依然として大きな隔たりがあるという意見である[小國1999:319]。人類学者にとっては、援助活動に直接関わることによって、自らが提供する情報が開発実施者や機関によって歪曲されたり、部分的に取り扱われたり、絶対視されたりする危険性がある。逆に開発実施者側にしてみれば、短期間で人類学者が事業にとって有益となるような情報を獲得できる確証もない[小國1999:319]。したがって、人類学者が開発の改善を目指して活動に直接関わったとしても、実際に目的が果たされるとは限らないのである。
このような現状であっても、今後の開発分野において地域住民の望む地域に適した開発戦略が採られるならば、地域社会や住民に関する知識は必要とされ続けるであろうことは予測される。そして、人類学は貢献を求められ続けることになろう。そのような状況下で、問題を危険視して開発改善への貢献を拒むよりは、開発に直接的に関わり、行為者の視点から社会発展を考え、またミクロなレベルでの経験的多様性に基づいた発言を行う中で問題点を明確に認識することができるようになるのではないだろうか。そして、それが問題解消につながるものになりえるのではないだろうか。
人類学者が参加型集落開発に直接かかわることによって、どのような貢献ができるのかというようなことに関して、二つの事例を通して考察し、人類学者の参加型集落開発への直接的関与の意味について探っていきたい。人類学者が参加型集落開発に直接的に関わった事例として、一つ目は斯波がグアテマラ共和国において海外援助機関による集落開発に関わった例、二つ目は小國がインドネシア共和国で日本とインドネシアの政府間協力による村落開発プロジェクトに関与した例を取り上げることにする。
斯波は1994年9月から1997年1月末まで、主に二集落における参加型集落開発に関わった[斯波1999:304]。通常、開発プロジェクトでは対象となる集落が決定されると、集落の代表者とコンタクトをとることになる。その際、代表者として呼ばれるのは道路や上水道導入などのプロジェクトの運営を任されている生活改善委員会という名称の組織である。代表者への打診が集落で受け入れられると、次は集落の現状分析や問題分析を集落に住む人々の参加のもとで行う調査が行われるというプロセスがとられる。そして様々な調査の後、それらの結果をもとにして考えられうる集落内の問題点および必要性が話し合われ、全て挙げられた中で優先順位が人々の多数決によって決められる。その後、集落全体として取り組むべきプロジェクトの優先順位が決められる[斯波1999:305]。
それでは、実際に斯波が関わった開発プロジェクトが行われた集落の状況はどうであったのだろうか。斯波は開発プロジェクトに携わる中で、集落に定期的に滞在し、戸別訪問や参与観察を繰り返し行った。そうすることで、単に開発従事者として関わるだけでは見えてこない側面、例えば村落内の社会的な関係や、プロジェクトが行われている社会的文脈などについて理解を試みている。斯波が関わった集落をC村とL村とする。C村は先住民であるインディヘナと白人とインディオの混血であるラディーノという二種類のエスニシティが混合した集落で、宗教に関してもカトリック教と福音主義的プロテスタントという二種類が存在する。もともとそれぞれの間に存在していた確執がプロジェクト実施中に激化するという事態が生じた。住民の代表者は開発実施者側や教会や市長に問題の仲裁を依頼したが、解決にはつながらずプロジェクトは中止となった。一方、L村はほぼ全員がインディへナ人口の集落で、ほとんどがカトリック教徒であった。そのL村では最終的にはインフラ関係で優先順位3位となった道路建設プロジェクトが行われることになった。ところが、集落の代表者である生活改善委員会の長による暴力事件が発生した。委員会の会長は自分の家の前まで道路を引くため、その手前に住む姉夫婦に所有する土地を提供するように要求したが、それが聞き入れられなかったため、姉夫婦に小刀で切りつけ大けがをさせたのである。
このように斯波が関わった二つの村でのプロジェクトは住民同士の対立によって中止に追いまれ、また暴力事件が引き起こされる結果に終わった。問題や対立を解決できなかったという意味で、斯波の事例は失敗例だと捉えることができる。それでは失敗の原因は何であったのか。大きな原因は人類学者や開発実施者の側にあるだろう。というのは、開発実施者側は問題に対処する手段を持たず、全くといっていいほど対立に係わり合いを持たなかったからである。人々がそれぞれのエスニシティや宗教、権力などに応じて多様にプロジェクトに関わっている以上、プロジェクトに際して住民間で問題や対立が生じることは想像に難くない。そのように発生する対立や問題は住民だけの力で解決できるものではない。事例の中で集落の代表者が教会などに仲介を依頼したことからもわかるように、問題解消には仲介する第三者の存在が不可欠である。しかし、市長や教会が第三者としての立場をとることは最善の策ではないだろう。なぜなら、市長にしても教会にしてもやはり地域社会の内部の存在、つまり住民であるからだ。住民間での対立を仲裁する者としては住民内での利害グループに属さない人物の方が適当ではないだろうか。そのように考えると、その地域に住む住民ではないという点で、より仲介者としてふさわしいのは人類学者や開発実施者であろう。このように問題に対して仲裁、解決を試みるべき人々が、斯波の事例においてはほとんどその役割を果たさなかった。そのためにプロジェクトの妨げとなる問題点が残されたまま開発が進められるという状況に至ったのである。
今まで見てきたように、人類学者や開発実施者は様々な問題や対立に対して中立的立場をとるのではなく、それらの調停や交渉に乗り出す必要がある。この場合の仲介は一般に批判される外部からの介入とは異なる性質のものである。前述したように、参加型開発は従来の開発に比べて外部からの介入が少ないと評価できる。とはいっても、人類学者や開発実施者が行うことは全て何らかの「介入」行為であるこ。しかし、批判される介入とは、介入を受ける側にそれを拒否したり、人々の意見に基づいた修正をしたりなどという権利が与えられない一方的なものである。それに対して、人類学者や開発実施者側が行うべき仲介はそのように一方的に押し付ける類のものではない。それは人々との対話に基づいて行う、人々との共同作業という性格の強い「介入」である。人々はその「介入」を必ずしもそのまま受け入れなければならないということはなく、異議を唱えることも出来る。本論ではそのような「介入」のあり方を批判せず、むしろ開発を進める上で欠かせないものであると考える。
さらに、このような人類学者や開発実施者が問題に仲介するプロセスを進めていくには集落開発が行われている場の社会関係や社会的文脈の理解、それぞれの行為者がどのような役割を持ってどのようにプロジェクトと関わっているのか、そして集落内の政治的な関係に関して理解することが必要である。このような所にこそ人類学的な参与観察の方法が必要とされているのではないだろうか[斯波1999:313]。人類学者は人類学的手法を用いて集落に関する調査を行い、その結果を開発実施者に示す。このことは開発実施者の集落に対する理解を深める役割を果たし、また住民間の問題を解決するためのヒントとなるだろう。これは人類学からの開発への貢献と言えるのではないだろうか。
プロジェクト中止や暴力事件を引き起こした斯波の事例に対し、インドネシアでのプロジェクトに関わった小國の事例を人類学者による開発への直接的関与の成功例として取り上げてみよう。小國は一集落を対象とする村落水道事業に直接関わった。調査やそこに住む人々への個別インタビュー、また住民会議などの結果から、乾季に生活用水の需要が高く、生活用水施設を整備する必要性が明らかになった[小國1999:322]。このプロジェクトが進んでいく過程において様々な問題が生じ、その度に作業は中断された。最大の問題は分水経路と拠出金であった。この二点については施工前から人々の間で話し合われ、納得された問題であったが、実施中に再び人々から不満が出たのである。それに対して会議が開かれ、分水経路に関しては渋々納得するという形で、拠出金については会議での人々の意向に基づいて変更されることになった。変更後は人々によって決められた通りに集金され、生活用水設備は完成した。分水経路に関しても完成後には問題視すべき人々の不満や不公平さは見られないと小國は判断している[小國1999:325,326]。
このようにこのプロジェクトが成功と言える形になった要因は何であろうか。それは、開発に対する小國の視点とそれに基づいて何度も行われた会議であろう。小國は開発プロセスを開発に関わる人々、つまり住民や開発実施者、人類学者、その他の関係者の間での相互作用によって生み出されるものとして捉えている[小國1999:317]。そのような視点から開発を捉えると、様々な意見が出される会議は開発に関わる人々が互いに影響し合う重要な場である。小國はプロジェクトの過程で生じた様々な問題に対して、人々との話し合いの場を設け、解決しようと試みた。そのような試みの中で、人々とともに問題を回避または解決しながら開発プロセスを生み出してきたと言える。すなわち、お互いの対話を通して試行錯誤しながら開発を進めていったのである。小國は青年海外協力隊員として活動に携わっているものの、彼女の視点や行動に人類学者の部分を見ることができよう。
ここで取り上げた二つの事例から、開発プロジェクトにおける人類学の貢献に関して次のようなことが言えよう。斯波の例からは開発に際してその進行を妨げる様々な問題や衝突が生じるということ、そしてそれらを解決するには開発実施者や人類学者の仲介が必要だということが明らかになった。解決につながる仲裁を行うには人類学的な調査が必要である。つまり、人類学者は問題の調整や対立の仲裁を行い、また人類学的調査を行うという面で開発に貢献しなければならないのである。小國の例は実際に人類学者が会議という場を通して問題の解決に貢献できることを示している。また、その貢献には開発に関わる人々の多様性を認識し、その間での対話を重要視し、試行錯誤しながらプロジェクトを進めていくという人類学的な理論が役立ったと言える。
これは参加型集落開発において、同じ集落に住んでいるものの、様々な差異を持つ人々が「住民」と一まとめにされてしまうという問題点と、開発に関わる人類学者が感じる、住民が一枚岩ではないというジレンマを解消できることを示している。前節において、参加型集落開発の問題点、開発に関わる人類学者のジレンマは人類学者が開発に間接的に関与するだけでは解決できないと結論付けた。それに対して、斯波や小國の例からわかるように、人類学者が開発に直接的関与を行うことによって、それらは解決可能なものとなるのである。例えば、斯波は調査によって集落内部の社会的差異や社会的な関係について明らかにし、開発実施者側に示した。このことは、同じ地域に住む人々が同質の集団であるかのように捉える傾向の強い開発実施者達が、差異というものの存在を認識するために大きな役割を果たしたであろう。そして、小國は住民の社会的差異などの原因によって生じた問題を住民との対話や会議を通して解決した。また、小國は、人々が一度は納得した問題に対して後になって反論することに、住民が一枚岩ではないというジレンマを感じながらも、人々との話し合いの場を設けることによってそれを解消した。
このような開発への貢献の仕方は、人類学者が直接的に関与することによってのみ可能となるものである。集落で生じる問題を解消したり、集落に関して調査したり、人々との対話を行ったりなどということは間接的に関わっているだけではできないことであろう。したがって、人類学者は直接的に開発に関わることによって、より深く貢献することができるのである。
むすび
これまで、人類学者が開発に深く貢献するためには、開発に直接的に関与するべきだと述べてきた。そうすることが、参加型開発の問題点の解決や開発に関わる人類学者のジレンマの解消につながるのだと論じてきた。直接的関与が現状において最も進んだ、人類学者の開発への関わり方だと考える。しかし、当然のことながら、問題点やジレンマは本論で取り上げたものだけではなく、他にも多数存在している。その中でも特に注目すべきだと考えられるのは、次の二点である。
第一に、開発の過程で行われる調査や住民会議において、意見を言わない地域住民の存在である。自分の意見を発言したくても、何らかの理由によってそれができない人々は大勢いるだろう。そのような人々の存在に対して、人類学者はどう対処すべきであるのか。そのような人々の意見を汲み取ることは、行為者の視点から開発を考えるべき人類学の責務であると考えられる。しかし、現段階では具体的な方法を提案することは困難である。第二に、「われわれと彼らを隔てる壁」という問題がある。開発にはそこに暮らす人々だけでなく、政府や国際機関、企業、NGOなどが関与している。人類学者もその一部である。人類学者は開発が行われる地域やそこに住む人々に関する調査を行う。人々と対話を繰り返しながら開発を進め、様々な場を共有しても、やはり人類学者と人々の間には「壁」が存在するだろう。そのような「壁」の存在に対して、人類学者はどのように対応することができるのだろうか。これは非常に難しい問題である。「壁」は乗り越えられないものだと決めつける事は、「彼ら」を封じ込めてしまう結果につながりかねないのである。
これらのような問題への有効な対処法を導き出す事は非常に困難であろう。しかし、これまで述べてきたように、現状では直接関与が開発に関わる人類学者にとって最善の関わり方であると考える。問題を抱えながらも、人類学者が積極的に、そして直接的に開発に関わる中で、試行錯誤が繰り返され、何らかの解決策が見出されることを期待したい。
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1999 「村落開発実践の民族誌―援助事業に関わるアクターとしての人類学者の視点から―」『民族学研究』64/3 pp.317−334
小田亮
1997 「発展段階という物語―グローバル化の隠蔽とオリエンタリズム―」『反開発の思想(岩波講座文化人類学第3巻)』川田順造ほか編,岩波書店 pp.61−78
菊地靖
2000 「第5章O.D.A.の効率を高めるために開発人類学は何ができるか」『開発の文化人類学』青柳まちこ編,古今書院pp.79−98
斎藤尚文
1997 「環境と開発を読む―パプアニューギニアの森林をめぐって―」『環境の人類誌(岩波講座文化人類学第2巻)』青木保ほか編,岩波書店 pp.221−245
斯波知子
1999 「集落開発の仮定と実践をめぐる人類学的考察―グアテマラにおける参加型集落開発の事例から―」『民族学研究』64/3 pp.300−316
杉田映理
1999 「援助実施機関の組織文化と「住民参加」―タンザニア・マラリア対策プロジェクトの事例―」『民族学研究』64/3 pp.335−353
鈴木紀
1999 「開発人類学の課題」『民族学研究』64/3 pp.296−299
関根久雄
1999 「開発のゆくえ―ソロモン諸島における「開発参加」 と土地紛争」『土地所有の政治史―人類学的視点』杉島敬志編,風響社 pp.177−198
高柳彰夫
1997 「社会開発とNGO」『社会開発 経済成長から人間中心型発展へ』西川潤編,有斐閣選書 pp.89−112
玉置泰明
1995 「開発と民族の未来―開発人類学は可能か」『民族誌の現在:近代・開発・他者』合田涛・大塚和夫編,弘文堂pp.88−106
1988 「「開発人類学」と「反開発人類学」―「応用」人類学の諸相―」『社会人類学年報VOL−14 1988』鈴木二郎、石川栄吉監修,弘文堂 pp.177−207
成田弘成
2000 「第6章開発の時代に生きるアボリジニ―西オーストラリア州キンバリー地域のダイヤモンド鉱山開発の事例―」『開発の文化人類学』青柳まちこ編,古今書院 pp.99−117
西垣昭、下村恭民
1993 『開発援助の経済学―「共生の世界」と日本のODA』有斐閣
西川潤
1997 「社会開発の理論的フレームワーク」『社会開発 経済成長から人間中心型発展へ』西川潤編,有斐閣選書pp.1−18
ベルトラン・シュナイダー
1996 『国際開発援助の限界[ローマクラブ・リポート]』田章川弘/日比野正明訳,朝日新聞社
宮内泰介
1998 「発展途上国と環境問題―ソロモン諸島の事例から」『講座社会・12・環境』船橋晴俊、飯島伸子編,東京大学出版会 pp.163−190
村井吉敬
1990 「本当に誰のための援助か」『ODA改革―カナダ議会からの提言と日本の現状』土井たかこ、村井吉敬、吉村慶一著・訳,社会思想社 pp.309−327
山下晋司
1997 「観光開発と地域アイデンティティの創出―インドネシア・バリの事例から―」『反開発の思想(岩波講座文化人類学第3巻)』川田順造ほか編,岩波書店 pp.107−124