2004年1月19日提出
修士論文
ポスト・ソヴィエト時代の「民族」と生活世界
―中央アジア・カザクスタン共和国におけるカザク・アイデンティティ―
北山真由子
本論文は、中央アジアに位置するカザクスタン共和国におけるカザク人のアイデンティティを考察するものである。カザクスタンという国は、100以上もの民族から構成される多民族国家である。そのような多民族のなかで生活するカザクの人びとのカザク・アイデンティティがどのようなものであるかを明らかにしたい。そのさいに重要となってくるのがソヴィエト政権時代である。現在のカザクスタンの国の形が整えられたのがソ連時代であり、「カザク人」という民族分類が確定されたのもソ連時代だったからである。そのため、本論文では今日から13年前に解体したソヴィエト連邦の民族政策、文化政策をふまえながら現在のカザク人たちのアイデンティティにかかわる「民族」観や「カザク」観を述べていく。
旧ソ連地域を対象としたさまざまな領域での研究で「民族」というテーマはしばしばとりあげられてきた。ソ連の崩壊は抑圧されてきた民族が覚醒し噴出したものだという説、逆に、「民族」という枠組みはソ連が創りあげたものなのだという説がある。マスメディアを中心に、長年抑圧されてきた民族の復活・反乱としてのソ連崩壊という論説がよく見聞きされる。一方、「民族」やその「文化」というものは近代以降に創られてきたものであってソ連においても同様であるという反論が出てきた。「民族」という概念を整理することでこれらの議論のすれ違いの原因を明らかにすることができる。「民族」とはなにかということをまず明らかにする必要があるのだ。これまで、この地域に関する歴史、政治、文化研究において「民族」について語るとき、なにをもってある集団を「民族」と枠組みづけるかということが不問にされたままだった。この点を指摘し、さらに近代国家において創り出される「民族」や「文化」というポストモダン的な立場をとりながらもそれらが創りだされた偽物だと考えることを批判する研究者があらわれた。しかし彼らには、「創られた民族文化」を偽物だと批判することはできないという彼ら自身の主張にもかかわらず、結局は、ソ連以前/以後という二分法にとらわれているという問題点がある。現代のカザクにはソ連時代に創られた「民族文化」はあるけれども、それは表象のレベルや祝祭日のみにあらわれるだけであって、実質的には現在のカザク人にカザク的なところはほとんどないというように考えられているのだ。そこで、筆者はこのような考え方とも別の立場をとることにする。
筆者の視点は、国家やそれを代表するエリートらの表象するカザク文化ではなく、一般の人びとの生活レベルにおけるそれを向いている。そして、その人びとの生活レベルでのアイデンティティや民族観、文化観が、現在の中央アジア研究が目をむけるべき対象であることを示そうとおもう。なぜなら、人びとの生活世界を見ないことには人びとのアイデンティティなどを語ることはできないからである。そして、そのような視点から見れば現在のカザクにはカザク的なところはほとんどないなどという考えにはならないことがわかるからである。現在のカザクには、彼ら自身が「カザク的」と認識している「文化」があり、それが事実上は近代化やソ連化、ロシア化を受けていようと関係ない。また、「カザクの文化」とされるものが単に「カザク」を演出するためのお飾り的なものでもないことは、彼らのその実践を見れば理解することができる。
以上のことを論じるため、第1章ではまずカザクという集団とカザク・アイデンティティの形成の歴史を述べる。「カザク」という集団名称が歴史上に登場した時から始めるが、これはあくまで他称であって“カザク”と称されたところの集団がみずからを“カザク”と認識していたかどうかは不明である。かならずしも“カザク”と呼ばれた人びとがひとつの集団として団結していたとも限らないのである。そのような状態から、他の集団との戦争、ロシア帝国との関係を通じてみずからを“カザク”と称し民族の団結を主張するような知識人層があらわれる。このとき、まだロシア側も“カザク”という名称はそこに含まれる人びとを確実に定めてはおらず、一般民衆の側も自分たちが“カザク”であるという強い認識でもってロシアへの反抗、暴動を起こしたとは考えられない。しかし、ソ連時代になってほとんどすべてのソヴィエト人民に近代教育や標準化された民族語、マスメディア、民族籍といった近代諸装置といわれるものが普及する。ソヴィエト人としての国民意識、カザク人としての民族意識が明確に人びとの頭に意識されるようになったのだ。この点で、「ソ連がその領内の民族の枠組みを創った」という説は正しいといえる。
このようにして「民族」の枠組みを制定し人びとに浸透させたソ連時代を第2章で述べている。具体的に「カザク」の「民族文化」がどのように制度化されたかということは第3章で述べる。国家による制度化と同時に、制度化された「カザク民族文化」とは別の、より「真正な」カザク文化のかたちを追求した「伝統の復興」も起こる。ソ連時代といっても、スターリン指導のもとで公定の「民族文化」以外は徹底的に排除された時代もあれば、「伝統の復興」のような動きが可能だった時代もあった。とはいえ、まったく自由に「伝統」が復興させられたのではなくやはり一定のイデオロギーによる縛りはあった。しかし「民族文化」の姿を決定する基準はソヴィエト独特のイデオロギーによる部分と、他の近代国家と共通する部分とを見出すことができる。
また、第3章ではつづいて独立後のカザクスタンのネイションビルディングにも焦点をあてる。中央アジアの国ぐにでは独立後もソ連の「民族」「文化」といった枠組みが続いており、「民族文化」の表象の仕方などはソヴィエト体制時の手法を受け継いだままであると論じられている。カザクスタンにおいても、国家的な祝祭の場ではソ連時の手法はほぼ引き続き用いられている。すなわち、多民族性を誇る言説を前面におし出すやり方である。多民族国家であるカザクスタンの民族間の利害を調停し国の安定を保つことが政府の第一の目標であり、国民にもその意思はほぼ共有されている。しかし一方で、カザク語を国家語とするなどの「カザク化」と呼ばれる事象も観察される。これについてもまた、カザク人、非カザク人を含む国民に認知されほぼ了解されたことのようである。こうした状況は、ソ連時代にカザクスタンがカザク人の国として共和国単位で制度化された結果だと考えることもできよう。問題は、ここから先である。この事実から現在のカザクスタンのカザク人を、ソ連時代に制度化された「カザク」という顔をつけただけの、内面的にはソヴィエト人あるいはロシア人でしかないと結論づけることもできる。しかし、そうではなくさらに人びとの生活へと目をむけていきたい。それが、第4章である。
カザク人たちのアイデンティティの拠りどころとして、「カザクの慣習」がよく言及される。「カザクの慣習」として人びとが言うところのものは、彼らの生活のおりおりで行なわれる人生儀礼やイスラームの祭とそれに付随して開かれる祝い、そこで示すべき客へのもてなしなどである。儀礼を行なうことは、カザク人たちが自分たちがカザクであるというアイデンティティの確認として位置づけられている。この儀礼のなかには、ソ連末期の民族の伝統の復興とともに復活したものも多い。あるいは、それらを「カザク文化である」と強調したいために用いる民族衣装やカザクの遊牧テントなどは、ソ連時代に「カザク文化」として形式立てられたものである。しかし、こうした点から現在の「カザクの文化」がソ連に創られたものでしかないと結論づけてしまうことは、現在の「カザクの文化」そのものへの視点を失わせてしまう。いくつかの人類学的な研究成果から、カザクやクルグズ人らの儀礼・慣習の当人たちにとっての意味が導き出される。ソ連に枠組みを創られたものや禁止されたなかでも生き続けてきたものなどがあるが、人びとにとっては、厳しい生活状況を生きていくうえで必要で重要な文化だったのだ。特に客をもてなすということはカザクにとって、ホスト側と招かれる客側の人間関係を構築・維持するという効果をもっている。独立後に復活してきた多くの儀礼は、人びとのカザク意識の現われであると同時に独立後の厳しい経済状況下で親族や友人、仕事の同僚などの人間関係すなわち相互扶助の関係ネットワークを持つという意味があったのだ。
人びとの生活世界では、相互扶助といった現実的な意味だけでなく近代ネイションとしての民族アイデンティティも存在している。それらが互いに作用しあうような場所で人びとは生活している。事実、彼らはカザク語やカザクの文化=カザクのもてなしといった指標でもって人を真正なカザクかどうかを判断している。こうした指標をほとんど満たすことのできない都市育ちのカザク人がよく「カザクでない」と判定される。そのため、都市のカザクもカザク語やカザクのやり方のもてなしが実践できるように努力するのである。一方で、地方、田舎はよくノスタルジーの対象として語られる。だが現実は、地方や田舎から都市へ出てきた人びとは「真正なカザク」として大きな顔をするのではなく、田舎者であることがばれないようにロシア語を話す。このように、人びとのカザク観として語られることと現実とはしばしば矛盾する。しかし、それが人びとの生活世界なのである。現在、カザクの人びとは明確なカザク・アイデンティティをもち、カザクだから「カザクの文化」を実践したいしすべきだと考えている。今日人びとが行なう儀礼と祝いはそうしたアイデンティティの現れであると同時に、非カザク人をも含むこともある生活の助けあいの人脈をつくり保持する働きをもっている。「カザクの儀礼」「カザクの慣習」は、自分がカザクであるから行なうのだと人びとは言うが、現在のカザクスタンで生活していくうえでそれらを行なわずにすませるわけにはいかないから行なわれているとも言える。
<目次>
序 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
序章
1 民族とアイデンティティ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
2 ソ連の民族学 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4
3 カザクスタン共和国の概要 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
4 本論文の構成 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
第1章 カザク人の歴史
1−1 革命まで ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
1) カザクの誕生
2) ロシアへの併合
1−2 革命期・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11
1−3 ソ連時代・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12
1)境界画定
2)1920〜30年代
3)大祖国戦争と戦後
4)民族復興と独立までの動き
第2章 ソヴィエト民族文化
2−1 ソヴィエトの「民族」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16
2−2 ソヴィエト民族文化 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18
2−3 民族政策の移りかわり ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19
第3章
カザクスタンの民族文化
3−1 カザク民族文化と制度化 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21
3−2 カザクスタン人とカザク人 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24
3−3 カザクスタンの文化表象 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28
第4章 生活の中の儀礼とカザク・アイデンティティ
4−1 カザクと儀礼 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・31
1)儀礼とトイ
2)儀礼とネットワーク
4−2 人びとの「カザク」観・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・37
終章
1 語られる文化と生きられる文化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・39
2 ポスト・ソヴィエトの「民族」と「文化」・・・・・・・・・・・・・・・・・・41
3 結論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・42
註
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・44
参考文献 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・48
序
「カザク[1]人は客をもてなすのが好きだ」「僕のおじいさんは、むかしユルタを持ってたときに、見知らぬ人が頼ってきたのを気前よく家に招き入れてあげたんだ」
「でも他の民族はちがう。ウズベクだったら、知らない人がたずねてきたら追い返してしまう」「ロシア人の客のもてなしは私たちのように豪華にやらないんだ。ウォッカを飲んでサラダを食べて終わりさ」「カザクじゃなかったら、君のような日本からはるばるやって来た人を何ヶ月もうちに泊めてくれないよ」
中央アジアのカザクスタン共和国に滞在した際、カザクの人びとはこのように私に言った。旧ソヴィエト連邦を構成したカザクスタンが独立して13年。カザクの人びとは、ソ連時代を決して悪くは思っていない。特に経済状況に関しては、独立後の不況のせいもありソ連時代の方が良かったという声はよく聞かれた。しかし、それと同時に「民族にとっては今のほうが断然よい」と人びとは言う。かつては自分たちの民族のことをほめたたえるようなことは公に言うことができなかったが、今、自分たちは自分たちの言語や文化でもって生活することができるのだ、と。冒頭の言葉のように、カザク人とはこういうものだ、と自分の民族の性格を他民族と比較しながら述べることができる。実際には、ウズベク人もカザク人のように客好きな性格であるし、ロシア人の祝いの席に参加したことのある人物が上のような発言をしたわけでもない。ただ彼らは、カザク人はそういうものであると言うのだ。また、カザクと同じテュルク系諸民族やモンゴル人には形質的にも言語的・文化的にもよく似たところがあるが、カザク人たちはそれらの民族とカザク人とを異なる民族として明確にとらえている。
ソ連の崩壊をナショナリズムによる「民族の解放」だとする説[N.デューク&K.エイドリアン1995]は多く、マスメディアなどでも頻繁に見ることができる。現在のカザク人も、独立によって民族が「自由に」なったと発言する。だがカザクスタンにおいては、独立の際に特に際立った民族運動などは見られなかった。ソ連からの独立を求める運動は共和国幹部レベルでも市民レベルでも見られなかったとはいえ、ソ連末期には数多くの暴動が各地で起こり、「民族問題」と称されてきた。そのような「民族問題」を「ナショナリズムの劇的な昂揚」[N.デューク&K.エイドリアン1995:15]とし、それらがソ連を解体に導いたという考えが一般的である。ゴルバチョフの時代に起きたカザクスタンの当時の首都アルマ・アタでの暴動を民族感情の噴出とする説も流布しているが、一方では結果的に民族間対立の様相を呈してしまったがナショナリズムの発露ではないという見方もある[宇山1993]。噴出する民族問題は「ある民族に属する市民の民主化運動と民族官僚の<連合体>が他の民族と争うか、中央と対峙するなかでおきている現象なのである」とする山内のような考えもある[山内1990:37]。
ソ連と民族問題についてはこのように様々な見方があるが、中央アジア諸民族に関してはさらに、「民族」という枠組みじたいを疑問視するものがある。たとえば、中央アジア諸民族のアイデンティティはソ連に組み込まれる以前には民族ごとにあったのではなく、すべてソ連の創りだしたものだとするものというものがある。そして、中央アジアにおいては民族ごとのアイデンティティよりもムスリム・アイデンティティやテュルク・アイデンティティの方が人びとの間には強く感じられていたという[e.g. N.デューク&K.エイドリアン1995:259-261]。中央アジア諸民族をすべて同一に述べずに定住民と遊牧民を別個に見た場合でも、それぞれのアイデンティティのあり方が民族だけに求められない「複合アイデンティティ」[山内1990:260]を提案するものもある。定住民にはムスリム・アイデンティティがもっとも大きく出生地や居住地への帰属意識も見られ、遊牧民には「氏族と部族への帰属意識」が中核であったという。このような帰属感を、山内は「亜民族意識(sub-national)」としている[山内1990:261-263]。
このように、ソ連末期に多発した「民族問題」をめぐって、「民族」というものがそれ自体の捉えかたを含めて、さまざまに議論されるようになっている。
序章
1 民族とアイデンティティ
それでは民族とは何なのか。この問いは、ソ連以外でも東西冷戦構造の崩壊以降顕著にあらわれた民族紛争やナショナリズムの問題にぶちあたって、さかんに取り上げられてきたものである。ナショナリズムにはもちろんであるが、ナショナリズムほど過激な運動を展開しないとしても、民族アイデンティティ(ナショナル・アイデンティティ、エスニック・アイデンティティ)は現代の私たちとは切っても切り離せない感情だろう。「郷に入れば郷にしたがう」ということばがあったが、今ではどこに住もうと自分の言語や生活などの文化を守ることが認められたり、それを権利として政府側がそのための環境を整えようとするうごきすらある。また逆に、先住民などが「民族」の権利として自治権や自分たちの文化を保護することを要求することもある。この、民族とは何かという問いに関して国民国家というものが非常に重要な概念となっている。国民国家の存在なくしては民族アイデンティティは考えられないということになっているのだ。
民族とは何かというと、まずそれは「中間範疇」[内堀1989]のひとつであるといえる。中間範疇とは、自分の周囲のごく小さな集団から全体社会とのあいだにあって、自分と全体社会を媒介するものである。全体社会とここで言っているものは自分を含む集団と他集団から成り、当然その場と時代によって異なるが、歴史的にその全体社会が広げられてきたことは確実である。ようするに中間範疇としての民族は、全体社会の人間全体を集団分けしたもの、「人間分節」[松田1992]なのである。何に基づいて中間範疇、人間分節をつくるかということは、民族に限らない。松田は、人間の集合を分節する原理としては、民族でなくとも、誕生日や身長、国籍、性など無数に考えることができるが、それらすべてが民族のように無条件の共感、理解という感情を人びとにもたせられるわけではないことを述べている。民族や国籍、性、宗教などは、つよく人びとの感情に訴えかける力のある人間分節たりうる。これは、全く見も知らない他者へ理屈抜きの共感を呼び起こす「類化のマジック」[松田1992:28-29]の力をこれらの人間分節がもっているからなのだ。
ネイションというひとつの人間分節がどのようにして類化のマジックをもつにいたったかということは、アンダーソンが「想像の共同体」[アンダーソン1999]の成立していく過程を描いたように、様々な技術の発展や近代国民国家の成立過程をともなって進行した。出版資本主義、議会、学校、センサス、地図、博物館といった近代の諸装置がととのえられ、人間を分類、統治するため「民族」という分節が特に重用された。そしてその「民族」というカテゴリーは制度化、固定化された絶対的な人間分節となったのだ。この分節は、統治のための単なる道具ではなく、人びとの日常生活にまで浸透しアイデンティティの拠りどころともなった。一方では、国民国家内のネイションに同一化できないマイノリティ集団、エスニック・グループもまた自己をひとつの「想像の共同体」である「民族」としての権利主張をおこない、「民族」であるということが少数者側の政治的道具となりえる。「民族」ではなく「階級」こそが唯一の人間分節、中間範疇となるべきであると考えたのはソ連であった。レーニンにおいては、「民族」など社会主義の達成によっていずれは解消されるべき人間分節のひとつでしかなかった。しかしこのソ連でも、結局は「民族」を制度化することになっていった。
このような「民族」という人間分節は、括弧をつけていることからも気付かれるだろうと思うが、近代国民国家成立以前からある何らかの共同体、括弧なしの民族とは区別して考えられるようになっている。共同体への人びとの帰属の仕方やアイデンティティのあり方に根本的な差異が見出されているのだ。
前近代社会における共同体でも、共同体の外部の他者との関係において「われわれ」意識は形成される。このときの人びとと集団との関係は、親族関係や主従関係のネットワークから成立しており、そのため個人のある集団から別の集団への帰属移動は、そのままその個人の民族名のシフトにもつながった。他方、近代国民国家とネイション概念成立以降には、個人が生まれながらに持っている「民族」帰属は、彼がどこの国に移住し手続きを経て帰化しようと不変のものとなる。公的な登録上は国民性が変更されたとしても、エスニックなレベルのアイデンティティは自分の生まれやルーツを引き継ぎ、そのためアイデンティティ・クライシスなどの問題も生じることになる。ネイションあるいはエスニック・グループとしての「民族」というのは、とても自然なもので個人は生得的にいずれかの「民族」に所属するという考えが近代世界では普遍的になっているからである。さまざまな人間分節のなかでも民族という分け方が類化のマジックでもっておなじ「民族」に分類された者どうしに無条件の共感と仲間意識を持たせ、別の「民族」から差異化しようとさせるのだ。「民族」は、以前からある民族をもとに明確な境界を引いたものであったり、ひとつの「民族」に分類されてもそこに含まれた人びとの間には共通の我々意識も他者意識もないという場合もあった。しかしそれが国家によって制度化され様々な近代装置を通じて人びとの日常生活レベルにまで影響をおよぼすことにより、絶対的な類化のマジックを操る「民族」が当たりまえのように存在しうる状況になる。近代以前では民族というのは、日常の対面共同体のような小規模の共同体から顔と顔の見える個人同士の関係の連鎖の延長上に想像される伸縮自在の共同体であった。それとは異なり、ネイションなどの近代の想像された共同体は、個と個の錯綜した関係を抜きに個人をいきなり境界づけられた中間範疇へと結びつけるような想像のスタイルによって特徴づけられている[e.g.小田1996:111-112]。こうした生得的で固定的、脅迫的ともいえるアイデンティティの拠りどころとなる「民族」をかつての柔軟で人びとの生活の場から生まれた民族分節と区別する考え方によって、ナショナリズムやさまざまな民族紛争といった「民族」を掲げた運動、「民族」についての語り、「民族」アイデンティティなどの事象を説明することができる。
個人と個人の関係の網の目と他者との関係において成立した括弧なしの民族の時代とは異なり、今では無条件に個人は「民族」に帰属する。国民国家では、「民族」は国家の平等な主権者でありたいと、国民であるネイションとなることを要求し、エスニック・マイノリティは自分たちもまた「民族」であることを主張する。このような「民族」をめぐる言説には、ほとんどたいていの場合「文化」という言説もついてくる。国民統合やマイノリティの民族運動の意識高揚のためにわれわれの「文化」が語られるのだ。ここで文化に括弧をつけているのも、括弧なしの民族と括弧つきの「民族」の区別と同じ意味である。ホブズボウムらは、因習や日常慣例のネットワークからネイションの「伝統」を区別して、後者を「創られた伝統」と表現している[2][ホブズボウム編1992]。「民族」を語るために他「民族」から自己を差異化するさいに、「われわれ民族の文化」とか「伝統」といった言い回しがもちいられる。ひとつの「民族」として制度化されている場合の内部での文化的差異は地域差に置き換えられてしまうが、異なる「民族」との間では最大限にみずからの「民族」の「文化」が独特なものとして宣伝される。国民国家の考えが出現して以降、ネイションの統合の象徴として「文化」が位置付けられ、積極的に利用されていく傾向があるのだ[田村1998]。人びとは、国家の政策、制度を通して「民族」につよいアイデンティティを感じ、自分がその「民族」の一員であることの証明として「文化」や「伝統」を語るのである。
2 ソ連の民族学
ソヴィエト連邦における民族の考え方は上記のものとはうってかわって、民族というものを単なる範疇でなく人間の本源的な分節単位だとする本質主義的なものである。個人個人のつながりからできる集団を民族と考えるというより、確固とした実体としての民族のなかに個人は位置付けられる。民族は過去から現在まで想像の共同体であって、近代国民国家成立以前と以後はその想像のスタイルによって区別されるなどという考えはまず、ない。第二次世界大戦期に成立したソ連の民族学は、過去から現在までの人間集団を歴史的に一貫したものととらえ、その集団が現在の「民族」の姿になるまでの進歩と発展の様子を研究する民族起源学といわれるものだった。社会主義イデオロギーに規定されたソヴィエトの学問は政治にも加担し、民族学が、諸民族が現在住むのと同じ土地で古くから民族形成を行ってきたと述べることによってソ連の民族共和国区分を正当化する機能を持った。また、その知識は太古からの一貫した「共和国史」を記述するのに使われたり、ある民族の古さ・偉大さを強調する民族主義的言説の論拠にも使われてきた[宇山2001:5]。例えばカザクについては、1943年に出されたソ連最初の本格的な共和国史『カザク共和国史』には、最初に人類が住みついて以来19世紀半ばまでの歴史を、「カザクスタン」という地域名称をどの時代にも使いながら記述するという手法がとられている[宇山1999a:105]。ソ連の中央アジア民族学者B・カルムィシェワによるウズベク人の記述をみると、「ウズベク族は三つのグループからなりたって」いるが「・・・三グループは、若干民族的特徴を異にしていたが、言語、物質文化、精神文化の点では、ウズベク民族の共通性をもっている」とウズベク民族の一体性が述べられる[加藤1990:216] 。
このように、ソヴィエト民族学は統治のために民族を分類しそれに真正性をあたえたが、その土地に前の時代にすんでいた集団が新しい民族形成に果たした役割を重視するという、ある種「異質な本質主義」であるとも宇山は述べる。「理論的には、ある土地における諸民族の「混淆」を重視する点で、一般的に「民族の純粋性」を唱える狭い意味の本質主義的・民族主義的歴史観」とは異なるのだという[宇山2001:4-5]。いずれにせよ、ソ連においては「民族」は言語系統や生活様式、物質文化や精神文化などによって客観的、科学的に分類され発展段階に位置付けられて決定されるものであった。宇山のいうように、民族に関するソ連の研究は、アイデンティティの次元の研究が不十分であったと判断される[宇山1999a:112]。
西側世界での人類学、民族学では1980年代ごろ、自分たちの仕事の成果である民族誌記述におけるリアリズム批判をおこなうポストモダンな立場が登場した。この人類学者、民族学者たちの自己批判は、ある民族なり共同体の現実の姿を正確にありのままに表わしているとしてきた自分たちの仕事が、実は西欧、学者、そしてフィールドワークという自分たちの権威によって、当該社会の真実を描いた唯一のかたちだということになり、その社会の現実を創りだすことになっているのだということに気付いたからだった。西側ではこのようなリアリズム民族誌のあり方をめぐって一頃盛んに議論が行なわれたが、東側世界ではそのような論争はおこらなかったし、冷戦時代に西側世界と隔絶していたためにこの西側の学問動向は旧ソ連には入ってこなかった。そしてソヴィエト連邦の解体した現在でも、このような問題に真剣に取り組もうとする民族学者や歴史学者はごくわずかだという。すなわち、佐々木のいうようにソヴィエト民族学が描いてきた民族誌は基本的には「リアリズム民族誌」に属するといえるのである[佐々木1998b:61-62]。
3 カザクスタン共和国の概要
カザクスタンは、1991年12月16日、ソ連領中央アジア諸国で最後に独立を宣言した。その前身はソヴィエト連邦を構成したカザク・ソヴィエト社会主義共和国である。地理的には、その領土は西はヴォルガ川から東はアルタイ山脈まで広がり、北のシベリア平原から南の砂漠地帯まで約1300キロメートルある。北部ではロシア連邦と、西部はカスピ海と長い国境を接し、南にはトルクメニスタン、ウズベキスタン、クルグズスタンの中央アジア諸国と、東には中国と接している(図1参照)。気候は大陸性で、乾燥と寒い冬、暑い夏が特徴である。総面積は271万7300平方キロメートル、旧ソ連邦内でロシア共和国に告ぎ二番目の広さだった[e.g. CIA、Kazakstan online]。総人口は2003年現在で1676万3795人[CIA]、民族構成はカザク人53.4パーセント、ロシア人30.0パーセント[3][Агенство・・・2002]が人口の8割以上を占め、その他ウクライナ人やウズベク人、ドイツ人、タタール人、ウイグル人などを含めエスニック・グループの数は100を越すと言われる。ロシア人などのスラブ系民族は都市部に多く、旧首都のアルマトゥと北部の諸都市に特に多い。カザク人はおもに地方、田舎に多く、ウズベク人はウズベキスタンと接する南部の地域に集中している。また、カザク人自身は中央アジア中に分散しており、国境を接する中国の新疆ウイグル自治区には約65万人、アフガニスタン北部には35万人、モンゴル共和国には7万1000人のカザク人が住んでいる[ラシッド1996:177-178]。言語はカザク語が国家語であるが、カザク人以外の民族のほとんどはカザク語よりもロシア語を使う。カザク人自身もロシア語とのバイリンガルが多く、カザク語よりもロシア語に通じている者も多い。宗教は、イスラームが47パーセント、ロシア正教が44パーセント、プロテスタント2パーセント、その他が7パーセントである[CIA]。イスラームは、カザク人の他、ウズベク人やタタール人、ウイグル人などがスンニ派を信仰している。
カザクスタンは今では中央アジア諸国の一員であり、ウズベキスタンとならんでリーダー格にふるまっているが、ソ連では長らくカザクスタンを中央アジアに含めず「中央アジアおよびカザクスタン」と、この地域を呼んだ。ラシッドは、「モスクワはカザクスタンの宿命がロシアと結びついていると強調したかったからだ」[ラシッド1996:178]とするが、事実、カザクスタン北部の街はロシア人移住者が多くカザクスタンからの分離・ロシアへの併合の動きが独立前後からのカザクスタンの不安要因となっている。
4 本論文の構成
本論文は、カザクスタン共和国におけるカザクのアイデンティティの在り方を事例としながら、旧ソヴィエト地域における「民族」に関する議論に新たな視点を提案しようというものである。
論文の構成は以下のとおりである。まず、第1章ではカザク人の歴史を、民族形成やアイデンティティに関連づけて述べる。第2章では、ソヴィエト政権における民族政策とその特徴を述べている。さらに、現代の旧ソヴィエト地域研究における民族・文化の論じ方の問題点を指摘する。第3章、第4章ではおもに独立後のカザクスタンを対象に、筆者自身のカザクスタンでの見聞も加えつつカザク人のアイデンティティと民族と文化のあり方を分析する。第3章では、ソ連時代から独立後にかけカザク人の「民族」や「伝統」のあり方がどう連続しているか、独立後のネイション・ビルディングや「カザク文化」と表象されるものを取りあげながら検討する。つづく第4章では、視点をよりミクロなレベルにあわせカザク人個々人のアイデンティティと、日常のなかで語られる「カザクらしさ」の考えかた、そのひとつである儀礼を考察する。そして終章で論じるように、近年の日本をふくむ西側諸国によるこの地域の研究が「民族」や「文化」という言葉をキー・タームとしながらも人びとの現実の生活を見ようとしていないことを批判する。ポスト・ソヴィエト時代の人びとの生活世界はソ連時代を経験し、近代化し「民族」概念や「民族文化」を受け入れながら、現在の政治・経済状況のなかで前向きに生きていく人びとの生活なのだということを示したい。
なお、本文中のロシア語は通常のブロック体、カザク語はイタリックで示す。
第1章 カザク人の歴史
本章では、カザクという民族とアイデンティティの歴史的な形成過程を追うことにする。
1−1 革命まで
1)カザクの誕生
カザクと呼ばれてきた人々の大多数は1930年代までは中央ユーラシア[4]のステップ地域で遊牧を生業としてきた。カザクという民族名が歴史上に登場するのは15世紀半ばとされている。それ以前には、テュルク系遊牧民の定住、遊牧民と密接な関係にあった定住民のテュルク化[5]による中央ユーラシアのテュルク化現象が起こっていた。その後、13世紀以降にやって来るモンゴルも次第にテュルク化し、イスラームを受容していった。カザクは、そのようなテュルク化した中央ユーラシアの多くの遊牧諸部族のなかから生まれた。もともと「カザク」とは、自分の属する遊牧集団から離れて放浪する人を指した。15世紀、チンギス・ハンの長男ジョチの所領であった草原地域にウズベク[6]という遊牧集団が現れ、その遊牧ウズベク国家から離れたグループが「カザク」と呼ばれた。そしてさらに彼らのもとへ人々が合流し「カザク」という集団ができていった。強力な軍事力を楯に放牧地と家畜を守ってくれる有力者のもとへ様々な出自の部族から人があつまり、カザクという遊牧連合が形成されたのだ。したがってカザクには、キプチャクやナイマン、コンギラト、ジャライル、カンクリといった、ほかのテュルク系民族とモンゴル系民族に現在分類されている集団にも見られるような部族(tribal)の起源をもつ人々が含まれている[Hudson1965:14]。ここでいう部族とはクランのことを指すが、Hudsonはtribeという語を使っている。カザクを含む中央ユーラシアの遊牧民の社会を描くさいにtribeという語は頻繁に用いられるが、その内容が曖昧なままであることが多い。この整理は後でおこなう。とにかく、15世紀、同じ集団がカザクになったりウズベクになったりすることも可能だったような時代背景でカザクという集団が形成されていったと考えられる。そしてその後も軍事・政治的な統合と分裂がくりかえされ、有力なハンのもとでカザク・ハン国が形成される。
「カザク・ハン国」と言ってもそれが国家であったのか、そもそも遊牧国家なるものが存在しうるかという論争を宇山が紹介している。彼によると、カザク・ハン国が国家だったことを否定する陣営には、権力の集中を欠く遊牧は国家を生まないという考え、ハンの機能は主に軍事的なもので平時は共同体間の紛争調停程度であったため遊牧民のハン国は「チーフダム」とすべきだという考えなどがあった[宇山 1999a:94-95]。ここではとりあえずカザク・ハン国と呼ぶことにするが、Olcottはその成立時期は正確にはわからないとしている。しかしウズベクとカザクの抗争は15世紀後半まで続いたようだ[Olcott 1987:8]。カザク・ハン国が現在のカザクスタンのおよそ全域を支配下におさめた年代も、16世紀初めという説[宇山 1999a:94]や17世紀末という説[Olcott 1987:10]などがある。また、Olcottは「16世紀のカスム・ハンの時代にはじめて、カザクは人口およそ100万人、同一のテュルク系言語を話し[7]、同一の型の家畜飼育をおこない、共通の文化と社会組織をもつひとつの民族(a people)としてみなすことが可能になった」と書いている[Olcott 1987:9]。Kraderも、16世紀から17世紀のあいだにカザクはひとつの「民族」(one people, one nation)になったと述べる[Krader 1969: 190,192]。Kraderは、明確な境界をもち一人の支配者のもとに統合されたということをもって、カザクが「one people/ one nation」になったとしているが、のちにあらわれるナショナリストの民族主義、ソヴィエト時代に規定された「民族」などという場合のnationとは異なるものであると考られる[8]。
その後、有力なハンが出なくなるとカザクは三つのジュズ(жуз)に分裂し、それぞれがハンをたてて独立した。ジュズというのは部族の連合体(federations or unions of tribes)[Olcott1987:10-11]である。これもまた正確な成立時期はわからないようだが、18世紀のカザク・ハン国滅亡までにはジュズが存在したという者もいる[9]。出現がいつであろうと、強力なハンの登場や共通の敵、危機に際して別々のジュズの再連合はおこなわれた。19世紀には四つの部族連合体(horde)が存在したとも言われている[Krader1963:191]。独立した三つのジュズはそれぞれ大ジュズ(ұлы жуз)、中ジュズ(орта жуз)、小ジュズ(кіші жуз)と呼ばれ、英語でもGreat Horde、Middle Horde、Little Hordeとされることが多いが、わかりやすく訳せばそれぞれsenior、middle、juniorのジュズという意味である。実際にやはり、大ジュズの起源が16世紀ともっとも早く誕生したとされる[Krader1963: 190]が、実質的な上下関係があるというわけではない。しかし、兄弟に擬せられ長幼の序のようなものが想定されることがあるとか、逆に、遊牧民の末子相続の慣習から小ジュズを尊重する考え方もあったなどとも言われている[宇山1999a:99]。また、ジュズの形成過程について、夏の放牧地と冬の放牧地の適当な組み合わせから地理的に自然と三集団にわかれることになったという論があるが、大ジュズの居住地は現在のカザクスタンの南東部の地域、中ジュズの居住地は東部と北部、小ジュズの居住地はカスピ海までの西部に分かれて広がっており、確かにそれぞれに良好な夏と冬の放牧地のセットが存在している[Hudson 1964:14-15, Olcott 1987:10-11、宇山 1999a:98]。
ところで、ここまで用いてきた「カザク」という言葉は、「カザク」と呼ばれた遊牧集団の周辺の定住民やあるいは時代が下るとロシア人旅行者、外交官などによって書かれた資料のなかに出てくるのみであって、カザク人自身の集合的アイデンティティを表しているとはかぎらない。というのも、遊牧民のあいだの情報伝達は文字ではなく口承で行われ、彼ら自身のアイデンティティは文字資料のなかに表現されて残ってはいないからである。
カザク社会は父系出自で分節リネージに似た構造を持っていた[10]。カザクの社会構造は、一人の始祖からいくつもの部族(tribes)に分かれ、それが部族の下位区分、氏族集団などに分節していくという言い方がよくされる[Bacon1958:42-43、Hudson1964:7]。Krader流に言えば、下位レベルから拡大家族、親族村(kin-villags)、リネージ、クラン、クラン連合(clan federation)へと系譜をたどって入れ子状になった個人の所属を認識することができる。そしてクラン連合がさらに強大なリーダーのもとでハン国に統一される[Krader1963: 318]。これがオルド、つまりジュズであると考えられる。またBastugは、クラン連合を「tribe」、そしてそのtribesを統合する政治的な単位を「confederation」とした[Bastug1999:94-95]。おそらくBastugの「tribe」は、中央ユーラシア遊牧民の社会構造について一般に語られる「部族(tribe)」と重なる部分があるが、特に厳密に、クラン連合の最大レベルのものであると言える。カザクの社会構造において、分節していく集団が固有名称をもつが、その名のあるすべての集団が「部族」と曖昧に言い表されているふしがある。15世紀にある遊牧集団が「ウズベク」と名乗り出したように、そこから分離した集団が「カザク」となったように、政治単位として独立した集団は固有の名称をもつが、さらに下位のレベルにおいても、クランごとに名称をもつのである。一般に「部族」と言われているものは、多くの場合、クランのことを指していると思われる。Bastugの「tribe」は、そうした名のあるクランの連合体レベルの集団を意味している。
カザクの平常時の生活単位はアウル[11](ауыл)と呼ばれる遊牧単位で、拡大家族のネットワークから構成された。アウル内部では各世帯がユルタ(юрта/кuіз үй:カザクの移動式テント)で生活し、雇い人や奴隷、母方親族が含まれる場合もあり、アウルの規模は時と地域によって様々であった。戦争などの非常時にはアウル間で同盟が結ばれ集団化された。集団化の仕方には状況によって様々なレベルがある。たとえば殺人などの事件の場合には殺人者側から犠牲者側に殺人代償金が支払われなければならないが、同一「部族」内で起こった事件であれば支払い責任は親族関係にあるアウル群が負うし、「部族」間で起こった事件ならば部族全体が犠牲者の家族を支援して支払いの責任追及に乗り出す。ただし、どの分節レベルの集団をもって「部族」という語を意味していているのかは明確にはわからないとBaconは言っている[Bacon 1958:69]。この場合の「部族」は、クランであるか、あるいは複数のアウル連合体というより小さな単位であるかもしれない。Hudsonは、カザクは系譜上のあらゆるレベルの集団をおしなべて「ウル」あるいは「ウルック」と呼ぶため、カザクの社会構造の分析が困難であると述べている[Hudson 1965:17]。集団の名称をみても、名称からだけではその集団が系譜上のどのレベルに位置するのか、実際に系譜に照らし合わせてみないことにはわからないのだ[Bacon 1958:68]。
また、近い親族同士であっても、政治的には異なる、時には敵対する遊牧集団に属することもあった。中央アジアの遊牧民たちはより適格な政治的リーダーを求めてみずからの所属する集団を選ぶことができた。遊牧民の移動はより良い放牧地を確保するという意味を含んだ政治的なものととらえ、その安全を保障してくれるリーダーを決定するのである。所属する集団が変更された場合には、その編入先の集団に合わせて系譜の修正さえ起こった[Bacon1958:71-72,80、1966:37-38]。養子や婚姻関係、人口増加による集団の分裂と政治的な統合なども、系譜を修正させる要因となった。共通の始祖からの系譜によってカザクの社会構造が正統化されているのだが、実際には、政治的な人の動きにあわせて系譜がつくられていく面もあると言うことができる。元来テュルクやモンゴル系諸部族の様々な出自集団のよせあつめからカザクが成立した所以も、このような政治的、構造的な柔軟性にあるのだろう。この「非親族を親族に組み込むメカニズム」[Bastug 1999:77,84]のために、カザク社会では親族組織と政治組織は別のものと考えられ、その点で一般的な分節リネージ体系と異なるのである。また、系譜上の分節点にある先祖たち、つまり名称をもつクランやtribeの始祖からの距離に応じた地位の上下関係、固定的な貴族階級クランの存在も特徴的な点として挙げられる[Bacon1958:79-80 、Bastug1999:79,97、Krader322-323]。
カザクたちは、「実際の出自にかかわらず人々を整った系譜の枠組みのなかに当てはめた」[Bacon 1958:68]とされるが、現実にはやはり時代やインフォーマントによって語られる系譜は交錯したものとなっている。カザクの始祖レベルについては、アラシュという始祖から3つのジュズが分かれ出たというもの、始祖がアブル・ハイルという人物とするものがある[Bacon1958:67]。また、カザクというnationをよりさかのぼるとテュルクにいたり、さらにヤペテを経てノアへ、そしてアダムとイブの聖書・コーランの系譜にまでいたるという神話もある[Krader 1963: 181-182,319]。現代のカザク人も、トルコ人をはじめ、クルグズなどのテュルク系民族を兄弟であるとみなしているが、この神話によるものかどうかは定かでない。しかし、系譜というものは彼らにとって重要で、特に自分に近い数世代(7世代とよく言われる)は知っている必要があるという。その一定の世代が、外婚制の基本になっているからである。また、カザクが初めて出会った人にはかならず相手の出自を尋ねる。このとき、もっとも小さい区分単位の名称を答えるという[Hudson1964:22]。たとえば、私の知るあるカザク人は、中ジュズのナイマンというtribeで、さらに深く分節をへたハイク(Хайк)というクランの出身であった。自分の出自を語るときには「ハイク」を用いる。しかし、当人の知っている先祖は祖父までで、祖父からハイクまでの系譜は空白である。
こういった血縁関係や遊牧集団への忠誠といったアイデンティティのほかに、カザクとしてのアイデンティティはなかったのだろうか。Kraderは、共通の祖先への帰属意識がエスニックなアイデンティフィケーションとなると述べている[Krader1963:320]。カザクのようなステップ遊牧民は、その生活形態と精神文化に誇りを持ち、自らを定住民と対置するアイデンティティを持っていたため、民族的な集団を作りやすいと宇山は言う。だがカザク人の集合的記憶を表していると考えられる口承文芸の英雄叙事詩には、戦士を主人公にしたものなどが主でありカザク・ハン国の成立を謳ったような叙事詩はないようだ。また、15〜17世紀に活躍した詩人が作ったとされる詩のなかにもそういった主題の物はなく、ハンを謳った詩でも、誰が誰の子であったというハンの系図が謳われチンギス・ハンにつながるなどの出自によるハンの正統性が示されるのみで「カザクのハン」とは呼ばれていないということだ。17世紀のカザク人出身とされる史家の著書にも、「カザク」という語は出てこない[宇山 1999a:91, 93-94]。
18世紀に入ると、このように曖昧だった彼らの「カザク」意識の有無をはっきりさせる出来事が次々と起こることになる。第2節以降、「カザク」とは、カザク草原に居住し、カザク・ハン国のもとに集まった人々の後裔をさす。
2)ロシアへの併合
カザクのロシアへの併合は、はじめはカザクのハンなどの有力者たちがそれぞれロシアへ保護を求めたことに始まる。ロシアは16世紀にヨーロッパに面した西側から東へと勢力をのばし、小ジュズの領土と国境を接するまでに進出してきた。18世紀の初頭からはカザクの草原に要塞を建設していった。東からジュンガルというモンゴル系遊牧集団にたびたび襲撃されていたカザクは、安全保障や通商拡大のためロシア皇帝との間に臣従関係を結んだのである。
19世紀初頭には、南のオアシス地域から進出してきた新興のコーカンド・ハン国の脅威を背景に、小ジュズ、中ジュズ、最後に大ジュズもロシアの直轄統治を受け入れることになる。その後、ロシアは軍を進めて南下して現在のウズベキスタンをも攻略し、最後に遊牧テュルクメンの抵抗を粉砕し、ロシアの中央アジア征服は完了した。ヴェルノエ(現アルマトゥ)をふくむ現在のカザクスタン南部と東部はウズベキスタンなどとともにトルキスタン[12]総督の支配下に、北東部のセミパラチンスクとアクモリンスク両州はステップ総督のもとにおかれた[木村1999:124](図2参照)。
ロシアとの接触から併合までのプロセスで、カザク草原にはいくつもの顕著な変容があらわれた。そのひとつは、イスラーム化の進展である。それまでの支配者層以外のカザク人の間でのイスラーム信仰は表面的なもので、イスラームが入ってくる以前のシャーマニズムや祖先崇拝の伝統が強く保持されていた。ロシアは遊牧民の啓蒙にイスラームが役立つと見て振興したのだった。ロシアの後援を受けたタタール人の布教だけでなく南のトルキスタン地方からのスーフィズム伝道もあり、カザクのイスラーム化が進んだ[小松2000:326-327]。
草原の民族構成にも変化があらわれた。ロシア・ウクライナ人農民の大量入植は第一次世界大戦まで続き、北部・東部では人口の半数を占めるまでになる[Bacon 1980:94]。中国の清軍の征服から逃れてきた新疆のウイグル人やドゥンガン人難民の定住もあった。カザク遊牧民の土地は制限され、伝統的な生活を維持することが困難になってくる。さらに、商品貨幣経済が全般に浸透し、植民地市場、原料供給地としてカザク人たちはロシア経済の一環に組み込まれていく[川端1994:110]。
ロシアの征服と支配に対し、生活が困窮させられた中央アジアの人々はしばしば抵抗の運動をみせた。例えば18世紀後半のコサック農民の起したプガチョフの反乱(1773~75年)にはタタール人をはじめカザク人も含む多くの非スラヴ系諸民族が参加した。他方で、伝統的な指導者層は基本的にロシアの行政側に組し、自分の共同体の福祉よりも自らの私欲を優先した[Akiner1995:25]。これがまた伝統的な遊牧共同体の荒廃の一因となる。
また、19世紀後半からのこの時期に、のちのカザク・ナショナリストに連なる知識人の第一世代が誕生した。都市にロシア語学校が開校し、移民コミュニティのロシア人だけでなくカザク人にも教育が提供されたのだ。文化面でのロシアの影響も出はじめ、ロシア宮廷の衣装やエチケット、家具、娯楽がカザクの貴族階級で流行した。より下層でもさまざまな西洋、ロシアの日用品が遊牧の生活に取り入れられていた。例えばロシアのサモワールは今でもカザク人の家庭でよく見かけられるし、博物館やパンフレットに表象されるユルタの中にも必ず置かれている(写真@)。都市部で地方紙や学術出版も出始める。この時期に出てきた新しいカザク・エリートたちはこのような環境のなかロシア移民のコミュニティと密接な関係を持って育てられた。この初期の近代知識人には、ショカン・ワリハノフ、教育者ウブライ・アルトゥンサリン、詩人アバイ・クナンバエフなどがいる[13](写真AB)。
カザク人意識に関して言えば、民族主義的な言説が現れるのはもう少しあとのことである。ロシアに対する反乱はあったが、カザク民族としてというものであったかは謎である。しかしだからといって「カザク」としてのアイデンティティは存在しなかったというわけではないだろう。19世紀にカザク人を本格的に研究し始めたロシア人やヨーロッパ人たちによると、その時期すでにカザク人の民族的な統一性は顕著なものだったという。カザク人たちの歴史を物語る口承文芸の詩のなかには、ジュンガルとの抗争での英雄的な戦いを謳った、愛国詩とも呼びうる詩が多く産み出されている。18世紀前半の詩には「3つのジュズの子」「すべてのカザクの民よ」といったカザク人全体に対する呼びかけの言葉がみられ、「カザクのハン、アブライよ!」とハンに対しても「カザクの」と呼びかけるようになっているという[宇山1999a:95-96]。彼らの口碑に「大いなる災厄」(アクタバン・スュブルンドゥ)として伝えられる[小松2000:324]ほどの大打撃を与えたジュンガルとの対抗は、カザク人意識の形成と強化に極めて重要な意味を持ったといえそうだ。その後のロシアの直接支配までにも、カザク人の民族意識の確立を助けそうな事件が続くが、実際にどうであったかは今のところわからないと宇山[2001:8]は言っている。
1−2 革命期
1905年ロシア革命は帝政に動揺をもたらし、ロシア領内のムスリム民族運動がたかまった。このときムスリム政治運動を指揮したのはおもにタタール知識人で、テュルク系諸民族の結集をイスラーム社会の近代化によって達成しようという運動を展開していた[木村 1979:31]。一方、カザクの知識人はイスラーム文明よりヨーロッパ=ロシア文明の受容をめざす独自の民族運動展開していた。この時のカザク知識人には様々な立場があり、たとえばドゥラトフは遊牧文化の伝統に強いノスタルジーを感じつつも定住化の必要やイスラームによる啓蒙の有用性を説いた。彼は1910年に『めざめよ、カザフ!』というカザク語詩集を出し、時代に適応しないカザク人自身を強く批判している[宇山1997:11]。またその他には、遊牧的慣習を重視しイスラームには批判的な知識人や、イスラーム法の導入と定住化を強く訴える知識人などもいた。このような知識人とは逆に、ロシアの支配に敵対したのが保守的な吟遊詩人たちであった[Akiner1995:31]。
第一次世界大戦中の1916年、カザク草原を含む中央アジアから成年男子を前線後方の労働へ動員する勅令が発せられると、いまだかつてないほど大規模な暴動が起きる。この時、知識人はロシア国家に貢献することで中央アジア民族の権利向上と近代化をはかろうと考えていたので反乱に反対した。一方、一般民衆にはそのような意識はなく、知識人と民衆の深い溝があらわになる格好となった [宇山2000:21]。
1916年反乱は鎮圧されていったが、戦時下のロシア帝国に大きな政治的・社会的不安をもたらす結果となった。そして1917年、ロシア二月革命が起こり帝政が崩壊すると、帝国内のムスリムの政治・社会運動はふたたび活性化する。カザク知識人たちは臨時政府のもとで盛んに活動し、アラシュ党が結成された。前述したドゥラトフやその同志の知識人らによって設立された民族政党である。
つづいて起こった十月革命で、レーニンのボリシェビキによるソヴィエト政権が樹立された。アラシュ党などのカザク知識人は自治政府アラシュ・オルダを創設し、基本的には反ソヴィエト側と連携しながらロシア連邦内での自治を目指した。一方トルキスタン地域でも自治運動が展開され、その中で活動したカザク人もいたが、アラシュ党のメンバーたちはトルキスタンのウズベク人をより後進的だと蔑視し、トルキスタンの自治に加わることを拒否した。彼らはあくまでロシア人との連携を重視していた。アラシュ・オルダは、民族政策に関してはソヴィエト政権の方がよいとの判断で1919年春から順次ソヴィエト政権側に移行し1920年に消滅する。そして、その年の10月にクルグズ自治ソヴィエト社会主義共和国が成立する。
1−3 ソ連時代
1)境界画定
ソ連の民族政策などを論じる時、あるいは中央アジア史を語る時に必ず言及されるのが、現在の中央アジア五共和国に外枠を与えた境界画定の作業である(図3参照)。
のちのカザクスタン共和国の前身は、1920年にロシア・ソヴィエト社会主義共和国内につくられたクルグズ自治ソヴィエト社会主義共和国である。当時、カザクはクルグズという名称を与えられていた。また、南部のトルキスタン地域は領土に入っていなかった。現在のカザクスタンの領土を決定する動きが、1924年に行われた「民族・共和国境界画定」である。同年から翌年にかけて、現在のウズベキスタン、カザクスタン、クルグズスタン、タジキスタン、テュルクメニスタンの原型が形成された。クルグズ自治ソヴィエト社会主義共和国はトルキスタン北部のカザク人地域二州が編入され、カザク自治共和国が成立する。この国境は何度も変更され、独立後のいまでも国境をめぐる論争は続いている[14]。カザク自治共和国は1936年にはカザク・ソヴィエト社会主義共和国として形式上連邦脱退権を持つ完全な共和国の地位に格上げされた。
多様なエスニック集団の混住が普通であったこの地域に国境線を引くことは容易ではなく、中央アジアの共和国はいずれも多民族国家とならざるをえなかった。その後も共和国の民族構成を複雑にする政策がつぎつぎと行われることになるが、一方では一民族一国家の原則を共和国に当てはめようとする政策もとられる。このような矛盾したソヴィエトの民族政策については次章で詳しく述べることにする。
2)1920〜30年代
1920年代から土地・水利改革がおこなわれ、農業の集団化も徐々に進められた。ロシア帝政時代に没収された土地は返却され、富裕地主などから没収した土地の貧困層への配分がおこなわれた。一定頭数以上の家畜を飼養していると富農のレッテルを貼られ家畜を取り上げられるので、家畜持ちの農民は制限を超える家畜を屠殺してしまうこともあった[石田 1999:30-31]。1928年の家畜の再分配から急速に全面的集団化が押しすすめられると、個人農は姿を消し、農民は集団農場と国営農場に組み込まれた。遊牧地域では集団化は強制的な定住化とセットで強行された。この時、定住的な畜産を営むための飼料基地や畜舎の整備を行わないまま遊牧民は移住・集住させられ、家畜が大量に餓死した。穀物生産も農地拡大にかかわらず低下した。さらに、猛烈な飢餓と疫病で、カザクスタンのカザク人の約40パーセントがなくなったといわれる [Svanberg1999:10-11, 宇山2000: 30]。多くのカザク人は近隣国とソ連内の近隣共和国に逃れ、この期間に大きく人口を増加させた他の中央アジア諸民族のなかで、人口を減少させたのはカザク人特有の現象であった[木村1999:15]。そしてこれ以来長い間、カザク人は自らの名が冠された共和国内で人口第二位の民族となってしまった[15]。
土地改革はイスラーム施設所有地も没収し、そのためマドラサやモスクの運営が成りたたなくなる。教育はソヴィエト学校に取って代わられ、知識人階層以外でも識字率が高まった。コーランを読むために必要だったアラビア文字は禁止され、民族語の表記は一時はラテン文字に、そして30年代後半にはキリル文字に切り替えられた。大量のロシア語の単語が流入してくると同時に学校や公的な場でのロシア語使用の割合が高まり、特に都市部でカザク語があまり話せない人が増加することになる。また、1927年ごろイスラーム法廷が一掃されてソヴィエト法制度に取って代わられ、婦人の解放もおこなわれた。反宗教アピールと無神論教育が徹底して実行された。
また、カザク人たちは重工業の発展をめざす五カ年計画で確立された計画経済のなかに引き込まれ、鉄道や油田などでの産業労働も増えた。
さらに、1930年代はスターリン独裁と粛清の嵐がふきあれた時代となった。アラシュ=オルダ派をはじめ革命前から活躍していた知識人のほとんどが逮捕され、処刑されたり獄死したりした。知識人や政治エリートたちはクルグズ自治ソヴィエト社会主義共和国形成後、新ソヴィエト政府の勢力に加わっていたが、すぐに民族主義的であるとして告発された。多くのカザク共産主義の第一世代も土地・水利改革や農業政策のいくつかを非難したために逮捕された。生き残ったエリートのほとんどはソヴィエト政権下で教育・訓練を受けた世代となり、国家や共産党に従属した存在になった。人々の間に恐怖が植え付けられ、後年になって閲覧が可能になった犯罪記録によると、告発者のなかには友人、隣人、近い親戚が数多く含まれ、住民の相互監視と相互不信の感情からさらに社会内断裂が増したという[Akiner1995:43-44]。
このようにして、遊牧生活の破壊、その生活と密接にかかわっていたイスラームの禁止などによって、カザクの社会規範、法制度、文化システムは圧倒的なダメージをうけることになった。さらに、近代的な民族文化の成立に努力した知識人も暴力的に排除された。1920年代から30年代にカザクの民族文化は歴史的連続性を大きく損ない、いわば「根無し草化」[宇山1999a:105]されたのだった。
3)大祖国戦争と戦後
第二次世界大戦中は、カザクスタンの工業化と多民族化がさらに進んだ時期でもあった。戦線にさらされたヨーロッパ・ロシア方面から大量の工場施設と労働者が疎開してきたのだ。これが1930年代半ばから始まった工業建設に加わり、戦後の工業化の進展の基礎となった。おかげで戦後にはカザクスタン経済も総合的に発展するのだが、他方ではソ連全体の分業体制の一環としての性格も強まった[木村1999:127]。カザクスタン南部やウズベキスタンの綿花のモノカルチャー栽培は中央アジアに原料供給地としての位置しか与えず、工業製品のほとんどを北部の共和国からの輸入に頼らねばならないという状況だったのだ。また、工業労働者の大半はロシア人などであり、土着の人々の失業者が増加するといった事態も起こった。
また、対独あるいは対日協力の疑いがある「敵性民族」として、クリミア・タタール人、ヴォルガ・ドイツ人、カルムィク人、チェチェン人、メスヘティア・トルコ人、朝鮮人などが中央アジアへ強制移住させられ、カザクスタンの民族状況は一層複雑なものになった。戦後には、上に述べた工業発展とともに1950年代のフルシチョフによる処女地開拓計画でもロシア人などのスラヴ系移民が大量におしよせた。農村においてもロシア人の数と比率が高まることになった。
一方で、第二次世界大戦はカザク人のアイデンティティ形成に重要な出来事となった。ソ連では「大祖国戦争」と呼ばれているが、カザク人兵士も多くのソヴィエト民族の代表として「祖国」防衛のため戦った。これが、民族の枠を超えたソヴィエト・アイデンティティを育んむことになった。「カザクスタンでは、おそらくほかのソヴィエト共和国よりも戦争は全連邦の統合の時であり、民族の自己尊重も固められた時ではないだろうか」とAkinerは言っている[Akiner1995:48,49]。今でも、カザクスタン国立中央博物館には大祖国戦争で戦った英雄たちをカザク人に限らず讃えるコーナーがある。また、アルマトゥ中心部のパンフィロフ公園をはじめいたるところに戦争記念碑やモニュメントが置かれている。
この時期に民族史の創造が行われたことも現在のナショナリズムの基礎となっている。モスクワやレニングラードの著名な歴史家たちの中央アジアへの疎開があり、1943年に『カザク共和国史』が刊行された。これはソ連で最初の本格的な共和国史であった。そして、ソヴィエト的「民族文化」を作る試みでもあった[宇山2000:30]。
宗教への弾圧がゆるみウズベキスタンのタシケントに「ムスリム宗務局」という公式機関が創設されたのも大戦中であった。スターリンの、戦意高揚のために民族意識を利用するという民族に関する方針転換があったからである。ソヴィエト政権の利益に反しない限りで、管理、統制された「公式のイスラーム」が許されたということだった[宇山2000:32、小松 2000:412]。
4)民族復興と独立までの動き
フルシチョフによるスターリン批判から、過去に粛清された民族エリートの名誉回復が始まった。次のブレジネフ時代には、遊牧文化への関心や民族音楽の古来の演奏方法を復活させようとする動きなどが出、定住化以降すたれていたユルタが復活し、ほかの伝統工芸品などにも興味が持たれはじめた[Akiner1995:53-54]。
この現象は、1964年から20年以上もカザクスタン共産党第一書記を務めたクナエフの安定の時代を背景に進行した。彼はソ連共産党の政治局員にまでなった人物であるが、特権を利用し地縁や自分のジュズ(大ジュズ)などに依拠した民族エリートの強固なネットワークを構築した。中央と結びつきながらの汚職も進行していた。民衆の側も、政治参加への道を閉ざされ体制の保護にも恵まれないような場合、やはり地縁・血縁集団に頼らざるをえなかった。ソヴィエト体制は、「中央アジアにおける「封建制」の根絶をうたいながら、じっさいには古い社会制度を再編、強化した」と言える[小松2000:411]。
当時のカザクスタンは、複数民族の混住が進み、民族間結婚の割合も比較的高く、ソ連のうたう「諸民族の友好」の鏡のような存在だった。カザク文化の復興がはじまる一方で、日常生活にはソヴィエト以前の文化はほとんどないに近い状態だった。しかも、文化復興をになった知識人の多くはロシア人の多い都市の育ちで、カザク語を十分に話せない人たちであった。
ゴルバチョフの時代に入ってからも民族文化への関心の高まりは続き、ペレストロイカとグラースノスチによる民主化と自由化がすすめられる。同時に中央アジア諸地域で民族紛争が相次いで発生する。世界的にも衝撃的なニュースとうつったのが1986年のアルマ・アタ事件である。カザクスタンで25年間も党第一書記を務めてきたクナエフをゴルバチョフが解任し、しかも後任にカザクスタンで勤務経験のまったくないロシア人をあてたことが発端だった。その後、党第一書記には現在もカザクスタン共和国大統領を務めているヌルスルタン・ナザルバエフが就任する。
さらに、経済の沈滞や低開発、連邦による共和国の搾取、大量の実質的な失業者の存在、環境破壊、党や政府高官の腐敗など明らかになった実態をみて、知識人たちの異議申し立てを開始した。さまざまな政治・社会集団が組織され、多くは民族主義的なものであった。カザクスタンでは、アザット、アラシュ、ゼルトクサンといった排他的な色彩のつよい民族主義的な団体が組織されるが、大衆の支持はあまり得ていなかった[Akiner1995:57]。また、イスラーム復興もみられ、アルマ・アタに独立した宗務局ができる。一般市民レベルでもイスラームへの関心は高まり、人々からの寄付によるモスクや神学校の修復や建設が行われた。その他にも、カザクの言語や歴史への興味が高まり、それらを再解釈しようという動きがあらわれた。
1991年、中央アジア諸国はソ連邦の維持を望んだがソ連は崩壊する。現在のカザク人も、ソ連時代を知る世代の多くはソ連時代を肯定的にとらえている。ソ連崩壊は民族運動の結果であるとよく言われているが、民族運動が強力だったのはバルト諸国くらいで中央アジア諸国では民族運動は強くなかった。そんな中で中央アジア諸国はソ連時代の共和国単位で独立し、独立国家としての新たなネイション・ビルディングにとりくまねばならないことになったのだ。
それでは、カザクスタンの国家建設とカザク人のアイデンティティを観察するまえに、現在に大きく影響していると考えられるソ連時代の民族政策を第二章で述べることにする。
第2章 ソヴィエト民族文化
2−1 ソヴィエトの「民族」
ソ連というと、社会主義イデオロギーの国というイメージがある。しかし、そのイデオロギーにもとづく「民族」の考え方は指導者によって解釈が変わり、その時々の現実の状況によってもとられる方針は変化したということには注意が必要である。ソヴィエト創設初期の時点では、人間のあらゆる差異は階級差に還元でき、民族の差異などは本質的な人間の区分ではないというものであった。プロレタリア・インターナショナリズムに基づく単一の社会主義国家は、民族の違いや野心によって分断されえないものとされたのである[Carrere d’Encausse1978:39]。レーニンもそう考える一人であった。しかし、100を越す数の民族を抱えた多民族国家をまとめる方針として、結局はスターリンの案である「民族」単位の共和国による連邦制というかたちがとられることになった。あくまでソヴィエト国家が社会主義を達成するまでの一時的で過渡的な措置とされていたが、ソ連の崩壊するまで民族共和国の連邦制はなくなることはなかった。
民族共和国というものはソ連システムの大きな特徴であると言えるだろう。1977年のソ連憲法では、第70条で「ソヴィエト社会主義共和国連邦は、社会主義的連邦制原理にもとづき、民族の自由な自決および権利をひとしくするソヴィエト社会主義共和国の自発的結合の結果として形成された、単一の連邦制多民族国家である。」とうたわれている。また、第72条には連邦からの自由な脱退権が示されている[東郷他1978:23]。民族自決の原則にのっとって形成された共和国が、ソヴィエトの社会主義の旗のもとに集まり連邦を構成するのである。この連邦制のもとでは諸民族は対等の関係にあり、各共和国には連邦からの離脱権が認められていた。
この連邦を構成した民族共和国は、中央アジアでは1924年に実施された「民族・共和国境界画定」によって誕生した。この時のカザクの国はカザク自治共和国であったが、十数年後にはカザク・ソヴィエト社会主義共和国という正式な民族共和国となる。民族共和国ではコレニザーツィヤ(кореньзаця=nativisation)政策がとられ、基幹民族(titular people)エリートが養成され、民族の言語、民族語による学校教育システム、民族文化の発達が促進された[e.g. Brubaker1994:52、Smith1996:7]。カザクスタンでは、文字をもたなかったカザク語がキリル文字での表記法が確立され、近代教育システム、民族語出版物などによって人びとの識字率が大幅にあがることになる[16]。また、ソ連国内パスポート[17]というものが発行され、そこに記載される民族名に人びとは固定されることになった。こうした一連の手続きは、多くの民族を平等にあつかい各民族の文化を尊重、振興し、「遅れた」民族を近代化させ発展させて単一のプロレタリアート社会の実現へ向かわそうとする一方、ソ連邦の不安定材料である多民族を分類し管理するための対処である。しかし、この結果、固有の言語と文化を備えた「民族」が確固たるものとして創りだされたと言うことも可能である。カザクたちは、元来は非常に柔軟で流動性をもった集団所属のあり方から、境界をもち固定したカザクという「民族」になったのである。Brubakerも言うが、ソ連の多民族性というとき、それは現実の現象に言及しているだけにとどまらず、ソ連自身がみずからすすんで多民族国家に仕立て上げたということをも考えることができるのだ。歴史上の様々な多民族国家と比較しても、国家がスポンサーとなって国家の下位レベルで民族の制度化をすすめるというソ連の体制は非常に独特であるといえる。ソヴィエト政府は、ソ連邦という超民族的な国家の中に、一民族一国家的な近代国家を形成したのである[Brubaker 1994:49-60]。
ところで、カザク人にははじめ、自治共和国が与えられていたが1936年に共和国という格上の地位が与えられた。だが、民族自決の共和国から成るソヴィエト連邦といっても、100を越すと言われるソ連の民族すべてがみずからの共和国をもっていたわけではない。民族は100以上存在するはずなのに、1956年以降ソ連邦を構成した共和国は15だけである。これはつまり、いずれの共和国も、カザクスタンと同様に多民族国家だったことを意味する。そして、15の共和国の「基幹民族」と、そうでない「民族」の間には差があった。ここで、ソ連における「民族」の特徴を述べておこう。
共和国や自治共和国が与えられた「民族」をソ連ではナーツィヤ(нация)といった。自治共和国とは、ロシアやウズベクなどの共和国内にある下位の自治単位である。ロシア共和国内には、自治共和国以外に自治州、自治管区といった単位がいくつもあるが、それらをあてがわれた「民族」が、ナロードノスチ(народность)と言われるものである[18]。ナロードノスチは、日本語では「民族」と区別すれば「民族体」と訳される。このように多民族を「ナーツィヤ」とか「ナロードノスチ」と称して区別するのは、「集団の資格づけのため」であると考えられる。田中によると、ソヴィエトにおける民族の定義は、「ある集団の資格を認定したり否認したりするための行政上の基準とも言うべき役割」を果たしており、言いかえれば「「民族」の認定を受けた民族的集団は、国家あるいはそれに準ずる体制をとるにたる資格、あるいは潜在的な権利を認められたことになる」ということである[田中1978:149]。ナーツィヤは共和国あるいは自治共和国を形成し得るが、ナロードノスチはより低位の自治に甘んじなければならないのである。ナーツィヤ/ナロードノスチの判断基準は、通常数千から数万の規模の人口が挙げられるが、かならずしもそれのみによって決定されるわけではなく、発展段階によるところも大きい。ナロードノスチには、シベリアの狩猟・採集民などが多く分類された。しかし逆に、実際にはある民族が共和国あるいは自治共和国を形成しているから「ナーツィヤ」であると解釈する方が妥当であるという考え方もある[佐々木1996:41]。
また、「ソ連には100以上もの民族が居住する」といったときの「民族」は、ナーツィヤとナロードノスチをひっくるめたもので、単にナロード(народ:民族、国民、人民、民衆)と言われることが多い。さらに、学術用語としての「民族」にはエトノス(этонос)があてられた。ソヴィエト民族学では、ナロードノスチは一定の経済発展段階、階級社会に形成される奴隷制、封建制社会のエトノスとされている[マヴロージン1993:15,142]。このような資本主義以前の史的段階の「残滓」が社会主義建設の過程にどう影響するのかという問題を解明することは、ソヴィエト民族学の仕事のひとつであった[トーカレフ1970:23]。また、発展の遅れたナロードノスチ(nationalities)の社会、経済、文化面での発展を助けるために現状を知るという役割をもになった[Potapov1962:90]。民族学は、ソ連邦の諸「民族」に境界を引き、ナーツィヤとナロードノスチというランク付けして統治するというやり方をまさに実行し、しかも学問的根拠を与えもしたのだった。また、以下に述べるソヴィエト「民族文化」の創造にも民族学は関わっている。
2−2 ソヴィエト民族文化
ソ連の「民族」概念がわかったが、次に、各民族共和国ごとに制度化されていった「民族」と「民族文化」について、より詳しくみていこう。
ソ連の民族文化のありかたをよく物語っているとして引き合いに出されるのがスターリン・テーゼである。「形式において民族的、内容において社会主義的(Пролетарская по своему содержанию, национальная по форме)」[Сталин 1952:138]。これは、1925年にウズベキスタンのタシケントの東方勤労者共産主義大学の学生にスターリンが演説したなかの一説である。「民族文化とは何か」とスターリンは問い、ブルジョアジーの反動的スローガンである民族文化ではなく、いかにして「民族文化」をプロレタリア文化と矛盾せず両立させるべきかを述べているのである。それは、内容においてプロレタリア的、社会主義的文化が、社会主義の建設に加わっているさまざまな民族から多様な形態を借り、さまざまな表現方法を用いることだとされている。「プロレタリア文化は民族文化を廃止するものではなく、それに内容を与える。そして逆に、民族文化はプロレタリア文化を廃止するものではなく、それに形態を与える」[Сталин 1952:138]。このようにして民族文化はソヴィエトに存在することが可能とされたのである。「民族言語が伝達すべきは、各民族固有の文化遺産ではなく、すべての民族に共通な新しい財産、すなわち社会主義とその価値」であったのだが[カレール=ダンコース 1981:61]。
カザクの「民族文化」がソヴィエト政府によってどのように創造されていったかについては、次章でカザク民族音楽を取り上げて具体的に述べる。ソヴィエト民族文化の形成過程においては、やはり民族学が重要な働きをしている。それは、インターナショナルな社会主義文化の創造にとって肯定的で健全なものを個々の民族の文化から区別するという仕事であった。たとえば、近親復讐の慣習、家父長的封建制制、家庭や社会における女性の抑圧などは有害な「悪」としての文化であり、宗教信仰とならんで社会主義国家が闘争すべき対象とされた。一方で、集団労働の共同体による慣行、共同体による土地所有といったものは、農業経営の協同化、集団化という社会主義社会形成に肯定的な役割を果たしうるとされる。こうした判断をくだすのが民族学者の仕事なのであった[トーカレフ1970:23-24]。
ところでカザクスタンでは1920年代から30年代を通して、集団化・定住化や粛清といったカザクの生活および民族・文化エリートを否定し消し去る行為が行われたが、それによってカザクの文化は「根無し草化」され、文化の「内容」としての民族性の存在基盤は奪われたと宇山は言っている[宇山1999a:105、1999b:42]。しかし、それによって「内容において社会主義的」な文化が形成されたと単純に結論づけられてはいない。宇山はスターリン・テーゼがソ連時代を通しての一貫した政策だったのかということを疑問視し、そのテーゼの意味するところの時代変化を追っている。その宇山の考察によると、スターリン時代の末期には社会主義文化がロシア文化に重ね合わされ、スターリン・テーゼは「形式において民族的、内容においてロシア的な文化」となって部分的なすりかえがみられ、ブレジネフ期には戦後に教育を受けた世代が社会に出、形式(民族籍、人種的特徴)においてはカザク人だが内容(言語、生活習慣)においてはロシア人と区別がつかなくなってしまった人びとが増加したとされる[宇山1999b:40-43]。ここで宇山は内容に言語を置き、その点でロシア人と区別がつかなくなったと言っているが、これは都市でのロシア語による高等教育によりカザク語よりもロシア語に通じているカザク人を指している。また、そのような都市カザクによって、この時期に興る「真正な民族文化」の追求が行われていることも指摘されている。だが、元来のスターリン・テーゼにおいては、言語は社会主義的な「内容」、あるいはこの宇山の時代変化に沿って言えば「ロシア的」にすりかえられた「内容」を表現するための形式だったのではないか。
このように、ソ連の民族とその文化を語るときにはスターリン・テーゼが頻繁に引用されるが、宇山のようにその「形式」と「内容」にあたるものは独自に都合よく変化させて使われることが多い。祝祭など特別な日の衣装や芸能などで表面的には「民族的」なものがアピールされるが、近代化された日常生活や人びとの心性から判断してそのまま「形式において民族的、内容において社会主義的(あるいはロシア的)」の定式が当てはまるとされたり、逆に、民族衣装や芸能はロシア人や文化エリート層の西洋化された美意識によって改良されたものであるが、一般の人びとのエスニックなアイデンティティは存続しているというようなことを、スターリン・テーゼをもじって「形式においてソヴィエト的(あるいはロシア的)、内容において民族的」とされたりするのである。同じスターリン・テーゼを用いていても、人によって何が「形式」で何を「内容」として見ているのかということは異なる場合があるため、スターリン・テーゼがソ連やポストソ連の民族文化を終始一貫して規定しているのかという問いはますますややこしくなっていると言える。
2−3 民族政策の移りかわり
ソ連の民族政策は決して一貫したものではなかった。特にフルシチョフのスターリン批判以降、スターリン的な抑圧とロシア化の緩められた状況下ですすんだ「民族文化」振興にもスターリン・テーゼはどれほどの影響力を持っていたのかということは見直す価値があるだろう。そこで、まず、民族に関するソヴィエト政府の立場の移りかわりをおおまかに述べておく。
スターリン時代をとってみても民族政策には動きが見られる。有名なスターリン・テーゼが発せられたのは1925年であるが、スターリンはロシア化の方針をとりはじめ、1930年代末までにはロシア語学校が地方にも急増したという。ロシア化への方針転換の理由には、コレニザーツィヤでは非ロシアの共和国の経済達成がおくれてしまうということや、ソヴィエト教育のもとで育った新たな民族エリートたちが民族精神を受け継ぎつつあることが確認されたためといった説明が報告されている[Smith1996:7、カレール=ダンコース1981:54]。非ロシア語の文字表記がアルファベットからキリル文字に変えられたのもロシア化のひとつである。粛清の嵐がふきあれたのもこの時代だ。歴史解釈にも転換がみられた。それまではソヴィエト政権樹立以前のロシア帝国には「民族の牢獄」の植民地主義、民族的抑圧、階級的抑圧といった否定的な意味しか与えられていなかったものだが、それが、ロシア帝国の支配のおかげで帝国内の諸民族は資本主義という歴史的段階を飛び越えてロシア人民と同時に革命に到達しえたのだということになった。このようにして、諸民族を社会社会主義へと導く「長兄」としてのロシア人というイメージがつくりだされていった。その後大祖国戦争に突入すると、ロシア・ナショナリズムにうったえ祖国防衛をさけぶことで戦争をのりきろうという戦略がとられる。戦争はロシア人以外の民族も祖国防衛のための民族意識とソヴィエト人民意識の両方がかきたてられ、ロシア正教会の支持をえるため反宗教政策が撤回されるとイスラームにも同様の自由化が許された。しかし戦後には大戦の勝利を口実にさらなるロシア化がすすめられ、スターリンはロシア民族とその伝統、文化を前面に押し出す仕事にとりかかったのだった。ロシア帝国に関する歴史的認識はロシアの支配がより正当化され、民族的英雄、植民地主義に対する抵抗運動の指導者は歴史上から抹殺された。たとえば、1916年のカザク人とクルグズ人の大反乱は1951年以降「狂信的聖職者と封建諸侯に率いられた反動的爆発」となった[モンテイユ1983:116]。「民族文化」も非難され、叙事詩や民衆詩などは特に攻撃を受けた。民族語は、社会主義リアリズムの世界を称揚するのに役立つべきであって個別的な伝統を称揚すべきではないとされた[カレール=ダンコース1981:77]。
スターリン没後、フルシチョフの時代では様相がおおきく変わる。1956年のスターリン批判がそれをもっともよく表しているが、フルシチョフは民族エリートの抹殺、行き過ぎた中央集権化、ロシア化の方針、植民地主義の正当化、ロシア人とその他の民族との不平等関係など、スターリン政治の犯罪を告発したのだ。この出来事は、ソ連の外交政策と関係しているとされる。ソ連はインドや中東に影響力を及ぼそうと各地の民族運動と同盟を結ぶ積極政策をとり、それが国内の民族政策にも変化をもたらしたという側面があるようだ。インドや中東訪問のさいに民族エリートを同伴させ、ソヴィエト連邦内イスラーム同胞の名においてアラビア語で訪問国の国民に挨拶をさせたり、中東のソヴィエト大使館にムスリム出身の外交官を赴任させたのだ[カレール=ダンコース1981:86]。このような時代背景で、否定されてきた民族の歴史や文化に対しても権利回復が呼びかけられた。しかし、宗教に関してはフルシチョフは「ソヴィエト史上もっとも徹底的で無慈悲とも称せられる宗教弾圧政策を断行した」と言われている。彼自身のおこなった非スターリン化政策は党の権威の低下とイデオロギーの分裂を引き起こし、そのため自由化政策と矛盾してまでも宗教弾圧をおこなったとされる。これは、後のブレジネフ政権によってきびしく批判されることになる [廣岡1988:110-113]。
次のブレジネフ時代は安定の時代だった。過度の民族主義は抑圧されたが、ブレジネフは各共和国の民族エリートを信頼し、インターナショナリズムが達成され「ソヴィエト人」が形成されたと宣言した[Olcott1993c:51、Smith1996:10]。カザクスタンではクナエフが党第一書記として活躍した時期である。スターリン時代に弾圧され失われた民族文化を復興させる動きが活発になる。一方で、縁故主義や政治汚職、経済停滞が深刻化し、後のゴルバチョフ政権によって批判されることになる。また、ブレジネフ時代には再び宗教をめぐる新しい動向が見られる。先にも述べたが、フルシチョフの退陣とともに彼の反宗教政策はきびしい批判にさらされ、より穏健で「科学的」(科学的唯物論に従った)な無神論闘争の必要が説かれるようになった。フルシチョフの直接的な宗教攻撃は、組織としての宗教にはダメージを与えはしたものの、礼拝施設を失い、儀礼などの宗教活動を禁じられた信者たちを地下の非合法的宗教活動やグループに追いやることになり、宗教を根絶するというソヴィエトの目標にとってマイナスだったからだ[廣岡1988:114]。この宗教に関する新たな動向は、「新社会主義者儀礼」創造の動きと重なるものであると考えられる。1960年代に入ってから宗教への関心を減ずるために創りだされたのが、世俗儀礼としての「新社会主義者儀礼」であった[e.g. Lane 1981、青木1998:224-228]。この新儀礼キャンペーンはメー・デーなどの国家儀礼から結婚式などの個人の人生儀礼までを国家管理下において推奨しようというもので、儀礼を通じて人びとにソヴィエト人としての文化形式や倫理をすりこませようと図るものである。この新儀礼の開発にあたって、革命以前の古い儀礼が有していた特徴の良さを認めてその特性を新儀礼に活かそうという声があった[青木1998:225]。ここで新儀礼に取り入れられようとしている「古い儀礼の良い特徴」とは、またしても民族学者の判断する社会主義イデオロギーに沿った「良さ」であり、「古くて」「民族」的な要素を選別してつくられた新儀礼は「形式において民族的、内容において社会主義的」なスターリン・テーゼが下敷きになっていることは渡邊が述べるとおりである[渡邊1999:10-12]。
ソヴィエト政権における民族政策のこのような変化をおさえたうえで、さらに近代化のプロセスとしての「ソ連再考」の必要を、東田と渡邊は説いている[東田1999a:36、渡邊1999:18]。「民族」に外郭をあたえ、分類し、国家イデオロギーをインストールさせ管理するというソヴィエトの民族政策は、社会主義というイデオロギーや民族共和国の連邦制の特殊性を別にすると、近代国家として西側諸国とも共通する特徴をそなえていると言うことができる。たしかに、ソ連時代に多くの民族集団の生活は近代化された。物質的には、民族文化としての伝統衣装や工芸品にも日常生活で用いる生活用品にも、工場で大量生産された品物が圧倒的に多くなった。また、政策による「民族」の線引きと固定化、民族語の標準化とその教育、マスメディアの発達なども関わって、近代的なネイション・ビルディングがソ連内部で共和国を基盤に進行した。さらにはソ連に植民地主義の要素を見出す視点もありえる。Comaroffは、中央による周縁の搾取の構造、周縁の人びとを民族的な差異で区別し、発展・文明化させるという目標のもとでその差異を取り除こうとするという「近代化のみのをかぶった植民地主義」をソ連体制に見出している[Comaroff1991:673-675]。公式には民族平等の原則がうたわれ憲法にも表明されてはいたが、実際にソ連邦からの離脱権が行使されたためしはなかった。共和国の共産党第一書記ポストにはつねに共和国の基幹民族が占めていたが、実際の権力を握るのは第二書記のロシア人であったし、明らかなロシア化の方針がとられたこともあった。ここでソ連を植民地主義国家であったと結論づけることはできないが、反植民地主義や社会主義イデオロギー、民族平等、スターリン・テーゼといった公式表明からだけでソ連の「民族文化」のあり方をとらえることはできないということは断言できる。しかしこれまでのソ連邦における民族文化の研究は、制度的なアプローチがほとんどであって実際にはどうであったかという視点はとられてこなかった。ソヴィエトの民族学は政府の民族政策を社会主義のイデオロギーにそうものとして正当化する役割があったのであり、ソ連外部からの研究はあくまで外側からしか果たしようがなかったため仕方のないことである。ソ連の解体したいまこれから必要なのは、制度と関連した現実の状況に目をむけることである。このような意味で、「ソ連再考」が必要とされているのだと考える。
第3章 カザクスタンの民族文化
3−1 カザク民族文化と制度化
カザクの「民族文化」が制度化されていった過程を、東田[1999a,b]によるカザク音楽の例で具体的に見てみよう。カザク音楽は、ロシア帝国時代からロシアによる異国趣味によって採譜が行なわれ西洋音楽の枠組みで編曲されていた。このとき、カザク音楽は「普遍的な芸術音楽」に対する「民俗音楽народная музыка」として存在していた。口頭伝承によるカザクの音の文化には叙事詩や抒情詩、物語の朗誦、器楽演奏などがあり、彼らの歴史や規範、慣習などが盛り込まれたものであった[Таланова, Жаандаулетов2002:263]。地方ごとに様式化され、作曲と演奏が一体となった即興性と変奏の特徴をもつカザクの精神文化として、音文化はとりわけ重要な意味を持ってきた[東田1999a:32、1999b:25-26]。この「民俗音楽」としてのカザク音楽が社会主義的発展を得たかたちとされたものが、いわゆるソヴィエト民族文化としての「民族音楽」である。東田の「民俗」と「民族」の使い分けは、それぞれ「ナロードノスチ」と「ナーツィヤ」に対応していると思われる。そして、ソヴィエト式「民族音楽」の反転した像として、ソヴィエト化されたものでないカザク音楽の真正性を追求したものが「伝統音楽」とされることになる。これらの「音楽」をめぐるステージ化・プロフェッショナル化という考え方がカザク自身の音楽概念の認識装置として移植されたのがソ連時代であった[東田1999a]。
1930年代に音楽教育機関が創設されカザク音楽のアカデミックな教授が行われると同時に、楽器の改良が行われた。民俗楽器のオーケストラも組織される。ソヴィエトの民族政策の変遷にともない50年代にはカザクの独自色を強調しすぎるとブルジョワ民族主義であると非難されるようになり、民俗楽器オーケストラはロシア・西洋古典音楽のレパートリーやカザク共和国を含むソ連邦の作曲家の新曲を演奏することになる。これらの曲目を演奏するのにより適したかたちへと、さらなる楽器改良が行なわれた。しかしこの改良は「逆に、カザク音楽の演奏には適さないもの」だったようだ[東田1999a:34]。こうして音楽教育機関やオーケストラによってステージの上で、改良された民俗楽器を用いて様々なレパートリーを演奏する音楽形態が、ソヴィエトで制度化されたカザク「民族音楽」であった。
この制度化の過程で切り落とされていったものがある。たとえば、コブズ(қобыз)という馬の尻尾から成る弦と弓との摩擦音を出す楽器がある。この楽器は、オーケストラの結成にともなう一連の楽器改良によって、それまでのカザクの生活のなかで果たしてきた役割を失うという大きな変化を被った。改良されない伝統的なタイプのコブズをクルコブズ(қылы-қобыз)というが、改良型のコブズはヴァイオリン族に近い楽器となった。改良型コブズとは異なり、当時の民俗楽器オーケストラや音楽教育機関の専攻科として含まれず、民間でしか伝承されていなかったクルコブズは次第に衰退していった。伝統的なクルコブズが公的な楽器として取り上げられなかった理由は明らかではないのだが、東田によると、「倍音・雑音を含む複雑な音色が、合奏に向いていたとは言いがたいだけでなく、クルコブズが、叙事詩語りやシャーマンによって祖霊との交信に用いられていたという宗教的な背景も、当時は否定的な意味あいを持っていた」と推測される[東田1999b:21,24]。
1950年代末期以降、民俗音楽の新たな展開がある。1956年のフルシチョフのスターリン批判による、諸民族の歴史と文化の権利回復の現象であると思われる。1957年、カザク共産党によってソ連時代以前のカザク文化の見直しが決議され、「民族的遺産национальное наследие」としての叙事詩や物語・伝説集、前世紀の音楽家の楽譜集の出版や再版、そして、さらなる民族遺産の収集が始まった[東田1999a:34]。60年代には、カザクの古い楽器を復元するという試みが本格的に始まり、伝統的な楽曲の「正統な」楽譜、つまり「原典版」の出版が奨励されるなど、ソヴィエトの体制では「遅れている」と判断され社会主義的発展を経るべきであるという考え方とは異なる動きが共和国のなかで進んでいた。さらに、国立音楽院に改良ではないオリジナルのコブズが専攻科として設置されるなど、カザク独自のプロフェッショナリズムが確立され始める。また、教育機関での音楽教育を受けずに民衆の中から出た「伝統音楽」の担い手として「カザクの民衆作曲家」を紹介する伝記や記事がカザク語新聞上に出された[東田1999b:25-27]。かつての「民俗音楽」の古さとオーセンティシティを主張したかたちで成立したこれを、括弧なしの民族音楽、すなわち「伝統音楽」[19]と東田は呼んでいる。芸術的に優れた作品を演奏するために改良された民俗楽器で成り立つカザク「民族音楽」から本来の「民俗的」なものを取り戻そうとしてカザクの人々に広く受け入れられたのが「伝統音楽」である。だが、プロフェッショナルな「民族音楽」とは土俵の異なる音楽としてのその「伝統音楽」というものは「民族音楽」なしには成立しえない概念である。そしてまた、カザク独自のプロフェッショナリズムの道が開けた「伝統音楽」もソヴィエト体制下で確立された音楽制度そのものを利用しなければ「伝統音楽」たりえないという一面を東田は指摘している。[東田1999a:35、1999b:28-29]。
このような伝統的なカザクの音楽文化を復興させる動きがみられた時代は、全ソ連的に「伝統の再発見」が起こった時代でもあった。カザクスタンでは、遊牧文化への興味が高まっていた。民族学・民族史分野では1970年代に遊牧文化の独自の美学を大胆に評価した論文集を出そうとしたムラト・アウエゾフらがいたが、発禁処分にあい日の目を見たのは独立後であった[宇山1999a:108]。文学では、オルジャス・スレイメノフが、中世のテュルク諸民族がスラヴ人に与えた影響の強さ、両者の関係の緊密さなどを『アズ・イ・ヤ』(「アジア」にかけているらしい)という作品のなかで説いた [宇山1999a:109]。サビット・ドジャノフは、1978年の著作のなかで、地方、田舎の美徳を賞賛し、カザク人の都市へのあこがれとロシア人による工業化と都市化を戒めている[Allworth1989: 531-532]。
カザクはソヴィエト連邦内でもっともソヴィエト化・ロシア化していた民族だったと言われている。Akinerは、1970年代にはすでに「ソヴィエト以前の文化は日常生活のなかにほとんど残っていなかった」としている。服装はヨーロッパ化し、イスラームの実践も精神的な重要性はもはやない因習程度でしかなく、都市ではカザク語は慣用句以上は分からないという若者が増えていた。人びとにとって「伝統」文化とは「大量生産の形だけの衣装の類似品をまとった音楽・舞踏グループによるカザク化したヨーロッパの、あるいはヨーロッパ化したカザクの演目の空虚な上演」とまで言われている[Akiner1995:51-52]。そのような時代に復興された「伝統」文化は、ソ連の高等教育を受けカザク語が話せないようなエリートたちによって復興させられたものだった。基本的には、ソヴィエトの制度化のなかで切り落とされていったものを回復するような動きであった。スターリン主義のテロルの時代にうけた倫理的、社会的ダメージを告発し、権力に屈してしまったことに対し作家たちが後悔の念をみせた[Allworth1989: 529]。1980年代のゴルバチョフの時代には、グラースノスチのより自由化された雰囲気のなか、この動きは加速し、歴史の見直し、「アラシュ=オルダ」などの知識人などの名誉回復がおこなわれ、反体制的な反核運動やナショナリスティックな政治集団も生まれた。しかし、この時のカザク・エリートたちのあいだにソ連からの独立を求める声はなく、遊牧文化など、これまで遅れた未開なものとみなされてきたカザクの民族文化を正当に評価してもらいたいというスタンスであった。当時カザク共産党のトップであったナザルバエフもゴルバチョフを支持し、主権をもつ各共和国による単一経済圏としてのソ連邦の構想を主張していた[ラシッド1996:193-194]。しかし、カザクスタンを含む中央アジア諸国が見捨てられるようなかたちでソ連は崩壊した。ソ連の末期から明らかになっていた経済問題、環境汚染問題、民族問題などの様々な難題にくわえて、独立国家としての国民意識をどのように形成するかという問題に取り組まなければならなくなった。
3−2 カザクスタン人とカザク人
共和国トップレベルでも市民レベルでも望まなかった独立にもかかわらず、独立直後のカザクスタンではしあわせなムードがただよっていたという。しかし、すべてが旧連邦中央に連結されて成り立っていたカザクスタン経済は独立後さらに悪化し、経済問題が民族紛争につながることも多々ある。ソ連から独立した中央アジアのほとんどの共和国は権威主義国家であると言われているが、ナザルバエフ政治も例外ではない。宇山は、カザクスタンに見られる権威主義を「ルーズな権威主義」としている[宇山1999c:82]。公的には民主化と市場経済化をうたっているが、他方では大統領の権力強化がすすめられている。西欧とも他のアジア諸国とも異なる文化とソ連という特殊な歴史経験をもつカザクスタンならではの民主化、近代化をすすめるには、しかもこのように国家が多くの問題を背負っている場合には、一時的な多少の権力集中は必要であるという正当化がなされている[ナザルバーエフ1999]。旧共産党[20]のほかの政治政党も認められ、ソ連末期から起こっていた様々な社会・政治・文化運動、民族主義運動も存在する[21]が、過激な民族主義活動は取り締まれている。ナザルバエフ政府の方針は、国の安定こそが第一というもので、カザクスタンの国づくりはカザク人中心的なものと多民族国家としての国民概念とのあいだで揺れている。カザクスタンのネイション・ビルディングについての多くの考察では、まず多民族性、特にカザク・ロシアの二大民族の対立が乗り越えるべき課題とされる[e.g.Janabel1996、Ohlers1999、Olcott1993b、宇山1993]。カザクスタンは将来的に、多民族的な、(といってもカザクとロシアのであるが)ハイブリッド社会となるのか、カザクの祖国となるのかという課題である[Olcott1993b:315]。カザクスタンはソ連期には多民族性を誇る言説が出回っていたが、ソ連の傘の下から抜け出した今でもナザルバエフは同じ言説を用いている[Olcott1993b:313]。しかし、過激な民族主義者だけでなく一般市民レベルでも、独立によってカザクスタンは名実ともにカザクの国になったのだという考え方が受け入れられている。また、この感覚は非カザク人にも共有されていると思われるが、そこには少なからぬ不安感が見出される。政府自体が多民族性を誇る言説を用いながらカザク中心の国家建設をすすめるというような方針をとっているからである。その一つの例を、言語法とそれにかかわる現実の状況に見てみよう。
1993年憲法ではカザク語が国家語と規定され、ロシア語は民族間交流語とされていた。ところが1995年新憲法で、ロシア語は国家機関および地方自治機関においてカザク語と並んで公式に使われる公用語として認められている。その後、カザク語に国家語という地位が与えられても依然としてロシア語の優位が続いており、経済面では英語が進出しつつあるという背景のなか、1996年にカザク語の地位向上を促進しようとする新言語法が下院で可決される。カザクのみでなくロシア語使用民族にも時限を設けて「国家語」の習得を義務付けるというものである。その他にも、テレビ・ラジオは少なくとも放送の半分を国家語で行なう、国家語はロシア語とともにあらゆる軍事部隊で使われる、一定の度合いの国家語習得を就職用件とする職のリストを作成する、といった規定を含んだ法案だった。しかし翌年成立したのは、ロシア語に国家語と同等の地位を認め、中等・高等教育は双方で行われる、テレビ放送の少なくとも半分はカザク語とするというものだった。下院の法案のままでは、ロシア語系住民の大量流出を引き起こすかもしれないというロシア政府からの警告があったらしい[塩川1997:61-62、RFE/RL NewsLine1997]。ロシア語系住民への譲歩がなされたことがわかる。
政府がカザク語を優位におこうとする方針は、市場経済化のなかでどんどん強くなるロシア語の重要度や進出する英語の存在があるため、自然なカザク語の復興は見込めないというところからきているという[Dave 1996:58]。しかし、この方針によってカザクの大人が子どもをカザク語学校[22]に入れるようになり、あらゆる商品にカザク語のラベルを貼るためにカザク語ができるというだけでカザク人が大量に雇用される。また、たとえば外国大使館などでは、政府各部門の印象を良くするためにロシア人よりもカザフ人を雇いたがるといった政府方針以外のところでもカザクに有利な状況が生まれている[ラシッド1996:213]。こうした状況は「カザク化(kazakification)」「現地化(indindigenization)」という言葉でしばしば表現される。Sarsembayevは「カザク化」の意味を「独立したカザクスタンの経済、文化、教育、政治の領域におけるカザクの支配をつくる思想」[Sarsembayev1990:331]とした。しかし、思想に基づいてか基づかないかは別にして、カザク化とよべる現象が現実に社会内でおこっていると言うことができる。
すすむカザク化の状況に対して、ロシア人をはじめとするロシア語使用民族、すなわち、スラヴ系のほかにドイツ人やコーカサス地方からの移民、朝鮮人、ウイグル人そして都市カザクも含まれる多くの人々が不安感を抱くということも理解できるだろう。現に、スラヴ系、特にロシア人、ウクライナ人、そしてドイツ人の国外移住が増えている。逆に、ソヴィエト時代に国外へ逃亡したカザク難民には二重国籍を認め帰還させるという試みにより、カザク人の国内移住は増加している[Kendirbaeva1997]。この結果、共和国内で基幹民族であるカザク人がマジョリティを占めていなかった民族別人口において、ロシア・カザクの人口勢力が逆転した。1999年の統計では、カザク人がおよそ50パーセント、ロシア人が30パーセントであった[Агенство Респблики...2002:12]。要因はこのカザク優遇の政策だけでなく、独立後のカザクスタン経済の悪化によるロシア人の国外移住や民族による出生率の差というものもある。しかし、最近ではカザク人にも少子化の傾向がみられ[Kolsto1998:64]、ヨーロッパ系住民の国外移住も1980年代から始まっていたことを考えると、ソ連末期から高まりつつあったカザク人のナショナルな動きが民族の勢力関係に関係していることは明らかであろう[23]。また、カザクスタン内で人口を増しているのはカザク人だけではなく、ウズベキスタンなどの近隣のCIS諸国やコーカサス地方からの移民も増加している。独立後のカザクスタン経済が恐慌状態にあるといっても、他の中央アジア・コーカサスの国々のなかでは安定しているためである。また、コーカサスやタジキスタン内戦の難民が流入し、不法ビジネスにたずさわるという問題にもなっている[Kendirbaeva1997:748-749]。カザク人のあいだには、コーカサス系の人々を悪徳商人やマフィアと同一視する風潮が存在し、カザク人とのあいだで何度か衝突が起こっている。ロシア人のように数の多い勢力との間には力の均衡があるのに対し、それほど人口の多くないコーカサス系住民が相手であれば紛争に火がつきやすいのだという[宇山1993:132]。
しかし、複雑なのは民族間関係だけではない。多民族国家としてのものであろうとカザク中心の国家としてであろうと、カザクスタンのネイション・ビルディングがうまくいかない理由には、カザク自身が内部で分裂しているからだという議論がある。ひとつは、上に述べてきたことと関連するが、ロシア語−カザク人対カザク語−カザク人、すなわち都市カザク人対地方カザク人という構図である。カザク化がすすめられると不利益をこうむり生活がおびやかされることになるのは、ロシア語を使う非カザク民族だけではない。カザク人でもロシア語が第一言語である人々、特に、これまでのインテリ層・エリートが危機感をつのらせている。国家機関の職員にカザク語の習得を義務付けるような政策は、非カザクの排除というよりも、非カザク語人の排除という意味になるからである。独立後の経済危機のためインテリ層は学問で生計を立てることが難しく、そのうえカザク語ができなければ出世の道も閉ざされてしまうのである[Odgaard and Simonsen1999]。ロシア語−カザクたちはむしろ、非カザクを含むロシア語住民としてのアイデンティティさえ持っているともいわれ、カザク民族主義者からは攻撃の対象となっていた[Dave1996:63]。しかし、それでもロシア語−カザクたちはおもてだって政府方針に反対の意思表示をすることはないようだ。彼らは、言語法などの政府方針に対しても理解を示しており、失われた言語を学ぶことによってアイデンティティを発見する機会ととらえている。彼らの多くは、「自分の国で自分の言葉を話すことは当然」であると考えているのだ[Dave199667-71]。また、そんな彼らの不安は言語面のみでなく、地方から都市への人口流入による都市そのものの田舎化(provincialization)にもあるという。独立後、地方から都市への人口流入がはげしくなっている[Kendirbaeva1997:747]。新しく都市へ出てきたアウル出身者は、都市のコスモポリタンな環境を受けつけないといわれている[Dave1996:59,71]。しかし逆に、アウル出身者は都市ではロシア語を使うようにしている面も見出すことができる。家庭内ではカザク語を使っているようなアウル出身者、カザク語学校へ通っている若者たちがカザク同士で会話する場合でも、街なかではロシア語が使われている。都市でカザク語を話すことは「田舎者だとばれる」「おしゃれではない」といった感覚があるのだ。
もうひとつは、カザクの部族主義(tribalism)による分裂である。現代政治の分野で言われるtribeという語は、クランやジュズなどさまざまなレベルを指して、カザクという民族内部の分節集団を意味していると考えられる。このカザク人のtribalな関係や忠誠心はソ連時代をとおして失われることはなく政治腐敗につながったということがよく言われている。たとえば、政府要職や議会を特定のジュズ(具体的には大統領の出身である大ジュズ)が独占しているとか、政府による大規模プロジェクトの投資先も南部(大ジュズの領域である)に集中しているなどである[Janabel1996:7,11,15、Ohlers1999:150-152,158,164]。しかし、政治とtribalな関係性については、宇山によると、官僚・知事クラスではむしろ大ジュズが3分の1に満たないことが多いようだ。ナザルバエフ大統領は支持基盤が偏らないよう各ジュズのバランスをとっているとのことだが、ジュズではなく大統領の「同郷人や近親者が優遇される傾向は否めない」という面はあるようだ[宇山1999c:84-85]。一方Esenovaは、現代のカザク社会におけるtribalなものは社会構造としてはもはや保持されていないと説く[Esenova1998]。ソ連体制下では、tribalな階層やリーダーの存在じたいが認められず社会下層部からソヴィエト権力機構への登用がすすめられたため、伝統的なリーダーがソヴィエト官僚・特権階級に取って代わられてしまった。こうして、田舎から出てきたカザクがソヴィエト・エリートとしてソヴィエト機構にtribalな関係を持ち込むことになったわけである。しかし、独立後のカザクスタン政府で登用される新たな政治エリートたちは高学歴のインテリであり、一般的に古くから都市部に居住している層である。そのため、政治の場面からはtribalな要素が徐々に離れていくことにつながる。都市化により地方から都市へ持ち込まれるtribalな関係も故郷の親戚との関係程度にすぎず、tribalな忠誠心のようなカザク民族を分断するものとしては働かない。tribalなものは生活の頼りにできるものであってもアイデンティティの拠りどころとはならず、むしろnationalなアイデンティティが受け入れられやすくなっているというのだ。さらに、カザク人は各自がtribalな所属をもっている、tribeの所属がない者はカザク人ではないというように、tribalな要素はカザクという民族アイデンティティと相互に作用しあっているのである[Esenova1998:451,456,458]。私がある田舎でカザク人にジュズのことを聞こうとすると「そのような難しい話はあとでよい、我々はカザクだ、それでよいのだ。大統領も言っている、カザクはひとつなのだ」と言われたことがある。また、ある若い女性が「初めて会った男の人に何ジュズ出身か尋ねられても答えるなと父親に言われているので、教えないようにしている」とも言っていた。これは、外婚規制のためにカザクが初対面の異性に出身を尋ねる慣習について言及したものだが、彼女は結婚相手は何民族でもかまわないらしく、ただ「南部出身の男はいや」だそうだ。南部ではウズベキスタン国境に近く、イスラーム信仰がつよい定住民的な、男女・年齢のきびしい上下関係が今でも残っているため、嫁に行きたくないという。また、アルマトゥのある家庭で、都市では数少ない親族のことを「あの人は金持ちで、不親切だ。自分で全部を囲ってしまう。カザクなら人びとに全部分け与えなければならない」と言っていたのを聞いたこともある。Tribalな要素は、たしかにカザク社会に存在し人的ネットワークやイメージにつながっているが、アイデンティティの面で人びとを分断するというものではないと思われる。
カザクスタンには住民のあいだにエスニックな断絶や言語、経済状況などさまざまな利害対立があるため国民統合が困難になっている。多民族性を誇るカザクスタン国民としての「カザクスタン人」を打ちたてることができないのだ。カザクスタン人の定義はいまだに誰も知らない[Olcott1993b:327]。とにかく平和共存を最優先する大統領の現行の解決策は、「カザク化とロシア人の要求に寛容であることの組み合わせ」[Ohlers1999:157]というところだろう。政治家の演説などはカザク語とロシア語の両方で行なわれているが、カザク語の復活、地名、特に都市の名称や都市の通りの名をカザクの歴史的な人物名に改める、カザク語出版物の増加、カザク語学校数の増加、カザクやイスラーム休日の復活といったカザク化の現象がみられる。一方で、ロシア語を公用語として保障することでロシア人の不満を抑えていている。
民族関係についてのカザク人たちの考えは、「カザクスタンはカザクの国である。カザクは親切でオープンだから、他の民族に住まわせてやっている。」というものや、「彼らは私たちに干渉してこないし、私たちもしない。」というもの、「ここはカザクスタンだから、全員がカザク語を話すべきだ」というもの、逆に「もしこの国でロシア語が使えなくなったら、ロシア人や朝鮮人のほとんどの人びとはどうするのだ!ここに住めなくなってしまう。」(この発言は、ロシア語−カザク人のものではなくカザク語−カザク人のものである)、そして、多くの民族と共生できるのは「私たちは、ソ連時代に静かに静かにさせられて、こうなった。」というもの、「ソ連時代からずっと、多くの民族と一緒に、みな同じ水準で暮らしてきたので、もう慣れてしまった。私はこの状態を気に入っている。おもしろいから。」など様々である。これはアルマトゥで聞いたものだが、都市では、いくら通りの名称がカザク語に改められカザク語学校が増えても、人びとは通りの新たなカザク語名をまだ覚えておらず、カザク語学校でもクラスメートとロシア語で会話するのである。カザクスタン人のアイデンティティに影響をあたえるもののなかでは、言語の問題はかなり重要だと考えられる。アルマトゥのカザク人数人の考えからだけでも、国の安定を望むなら徹底的なカザク化は避けるべきだということがわかる。
3−3 カザクスタンの文化表象
多民族性を誇るカザクスタン人の言説、「カザク化とロシア人の要求に寛容であることの組み合わせ」の国民建築の方針は、公的な祝日祭典のやり方にも表れている。Eitzenは、カザクの祝祭日のなかでも最大級の祭であるナウルズ(Наурыз)で催されるイベントに、カザクスタンの多民族性をうまく管理するシナリオが考案されていると述べている[Eitzen1999]。ナウルズは、元来はイラン伝来の中央アジア一帯で祝われた春分の祭であり、現在ではムスリムの祝日として人びとに認知されている。これはソ連末期にムスリムのものとしてでなく、非宗教的な「春の祭典」というかたちで復活が許された。ポスト・ソヴィエト時代のカザクスタンでも、ナウルズは様々な民族の友好の祝祭であるという位置づけである[Eitzen1999:74]。都市で催されるエンターテイメント的なイベントでは、タマシャというカザクの漫才的な見せ物やウズベク、タジクなどの同様の寸劇、ロシアやカザクの衣装、踊りが混ぜ込まれた人形劇といった多民族の文化のよせあつめが見せられる。カザクスタン北部では、ロシア人のマスレニッツァ(масленица)の祭と結び付けられた祝祭にもなっているという[Eitzen1999: 82-83]。一方、カザク人が住民のほとんどを占めるような田舎では、伝統的なナウルズ・コジェ(наурыз кѳже)というスープを作り、互いに親族の間を訪問しあう。都市部でナウルズは多民族の祭典と宣伝されているが、やはりカザク、ムスリムの民族的な祭であるからか、ナウルズの日はカザクスタンで休日とはなっていない。ある男性の説明では、カザクスタンには多くの民族がいるため、ひとつひとつの民族の祝日を国民の休日にしていては毎日が休日になってしまうため、ナウルズも休日ではないということであった。
カザクスタンの隣国ウズベキスタンでは、共和国最大のイベントは独立記念日であるという。Adams[1999]は、この独立後のウズベキスタン共和国最大の国民的祝日におけるイベントの見せ方から、ウズベキスタンでの民族・文化観を分析している。彼女の論文によると、国家イデオロギーの発現する場として国民の祝日を最大限に利用するという手法や、そのスペクタクルで「純粋なウズベク文化」として披露されるウズベクの踊りなどのパフォーマンスが実はソヴィエト時代に創られた型そのものであるという。これは第二章で論じた「形式において民族的、内容において社会主義的」のテーゼにしたがい創られたウズベクのソヴィエト民族文化であるが、ウズベキスタンの現実では「形式において社会主義的、内容において民族的」[Adams1999:363]であるとされる。現在の「ウズベク文化」の形式は、ソヴィエト時代に整えられたものであり、見栄えのするようウズベクの踊りにロシアやヨーロッパ的な要素と美意識が介入している。しかし、それをウズベク人自身は「真正なウズベク文化」であるとみなしているのである[Adams1999:359,361-353]。
その他、ウズベキスタンをウズベクの民族国家とし国家内の諸民族の友好を示す諸民族ごとの文化を展示するという特徴も、ソヴィエトのやり方との連続性として言及される。その際、ウズベク人の展示や発表の割合が最も大きく、その他の民族のための場所と時間はそれほど割かれていない。この点から、ウズベク人をネイションとしその他の民族をナショナリティと位置づけている[Adams1999:368]。ソ連のナーツィヤとナロードノスチとの対応関係と見るのである。この点については、見せ方の大きさの違いからポスト・ソヴィエトのウズベキスタンの民族関係をソ連の進歩史観的なナーツィヤとナロードノスチの関係に同定できるのかどうか疑問である。また、ウズベキスタン国家と国際社会という区画では、ウズベキスタンを近代的な国家としてアピールするねらいが見てとれるという。小麦の茎に見立てた竹馬を履いたり、金のドレス、油井の排気弁を身につけた踊り、綿花畑の歌は、ウズベキスタンの主要産業の業績をたたえているのだ。また、国旗、国歌、軍隊スポーツチームを呼び物にする区画もある[Adams1999:367-368]。このようにして、イベントにおける表象の仕方からソ連との連続が論じられている。
Adamsの議論のような国家レベルでの文化表象は、カザクスタンにおいてはどう考えられるだろうか。先のカザクスタンのナウルズに関するEitzenの論文では、制度論的なアプローチはなされていないが、カザクスタン国家としての「諸民族の友好」と、カザク民族の祝祭としての盛り上がりを現在のナウルズの祭はうまく調整しているという趣旨であった[24]。宇山は、ポスト・ソヴィエト期のカザクスタンの独立国家の建設において「「民族文化ルネサンス」的な動きがあるが、その手法は、民族起源論[25]の利用、フェスティヴァルによる民族文化・民族史の表象など、ソ連時代のものを多分に引き継いでいる」と言っている[宇山1999b:44]。
佐々木[1998b]はシベリア・極東先住民のエスニシティと文化表象を博物館展示を題材に論じているが、カザクスタン国立博物館の展示の仕方はどうであろうか。1階は考古学、2階は民族学と特別展、3階は「カザクスタンの文化」と「現代のカザクスタン」というテーマに分けられている。「考古学」の広間には、動植物の化石や剥製、色とりどりの鉱物などが展示されカザクスタンの自然環境における多様性が紹介されている。「民族学」の広間では伝統的なカザクの日用品、武器、玩具、衣装、装飾などが説明つきで展示されている。部屋の中央には小ぶりのユルタが置かれ、内部を覗き見ることのできる構造になっている。ソ連時代にはこのユルタはなく、小屋とらくだなどがいる単なるアウルの様子が表現されていただけだったらしい。部屋中央をユルタが占めるようになったのは、独立後であるという。そもそも、2階が全部カザクの民族学的な展示で占められるというのも独立後のことであるそうだ。そして3階の広間の「カザクスタンの文化」展示は、カザクスタンに居住する非カザクの諸民族についての展示が並んでいる。その最初に登場するのはやはりロシアであるが、2階全部をカザクの展示が占めているのと比べると非常に小規模で状態の悪いものである。その非カザク民族の展示よりも大祖国戦争のコーナーが大規模に置かれ、カザク人も非カザク人も、兵士であろうとなかろうと関わりなく、戦争に貢献した人びとの名前が連ねられ、功労者を讃える当時の新聞記事などが紹介されている。「現代のカザクスタン」は、国政社会のなかにカザクスタンを位置づけるような展示をするコーナーである。独立後のカザクスタンを国際社会が承認した順序や各国とカザクスタンの友好を示す写真などがある。この構成はAdamsの示したウズベキスタンの独立記念日での出し物とそっくりである。また、この構成は「カザクスタン」とタイトルのついたフォトアルバムなどの本(博物館や土産物屋、街の書店で売られている写真入りの本)にも一般的に見られる。
しかしAdamsはウズベキスタンにおいて民族の階層性を説いたが、現在のカザクスタンでは「ナーツィヤ」や「ナロードノスチ」の区別はほとんど問題にはなっていないようである[宇山1999a:91]。博物館展示の仕方は明らかにカザクがメインで他の多くの民族と対等ではないが、そのことをもって「ナーツィヤ」や「ナロードノスチ」に民族が階層づけて制度化されているとは考えられないのである。カザクスタンについて語る際にカザク人がそのスペースのほとんどを占め、その他の民族にはわずかしか与えられていないという事実は、やはり、カザクを中心に据えながら多民族性を誇るという政府のカザクスタン表象のやり方を表しているのであろう。独立後にカザクの民族学的展示が充実させられたということは、カザク化の現象をあらわしていると言える。カザクスタンを紹介するパンフレット類やフォトアルバム、街頭で見られる政府広告にも、色鮮やかなカザクの民族衣装を着た人びとが多数登場する(写真C)。その一方で、カザクスタンの多くの民族をも登場させている。
博物館で展示されているカザクの民族衣装は、民族学的な展示であり過去に実際に人びとが着用していた衣装を採集したものである。一方、フォトアルバムや現在のナウルズのイベントに登場する民族衣装は、博物館に展示されているものと比べて多分にヨーロッパ化されているイメージを受ける。レース類、スカートのフリル、布地の光沢、帽子の装飾と背丈が増しているのである。そのような衣装を身につけてナウルズへ出かけ、ナウルズの時だけ街中にあふれる普段はどこにも見当たらないユルタを訪問することは、ソヴィエトの制度化した民族文化観をそのまま引き受けていることになるのだろうか。ウズベキスタン独立国家の文化表象、ウズベク人の「民族文化」観がソヴィエト国家によって創られたものであることを示したAdams、カザクの「民族音楽」がソ連に制度化され「音楽」という概念そのものがソ連の政策によるものであること、ソヴィエト政府に奨励された「民族音楽」とは異なる「真正なカザクの音楽」の意味での「伝統音楽」がソ連時代に生まれたことを明らかにした東田などに見てきたように、ポスト・ソヴィエトの中央アジア諸国におけるネイション・ビルディングと民族の個別の文化はソ連の制度に多くを負っていることが指摘されてきた。現在のカザクスタンにおける多民族性を誇る言説もソ連の用いたものだし、多くの民族への配慮をみせながらもカザク化の方針をすすめようとするやり方は、ソヴィエト連邦における一共和国の基幹民族として制度化されてきたカザクスタンのカザク人に与えられた当然の権利であると受け取ることができる。しかし、ソ連に創られたもの、あるいはそのソ連公定の「文化」の反転像として禁じられたものをわが民族の文化とすることは、ポスト・ソヴィエトの国の人びとがソ連に規定されたままだということになるのだろうか。
第4章 生活の中の儀礼とカザク・アイデンティティ
前章で示したように、ソヴィエト時代に制度化された「民族」や「文化」という枠組みは、独立後にも維持されている。しかも当の「民族」に所属する人びと個人というミクロなレベルにまで浸透している。Adamsの調査したようなエリートではない一般の人びとにも同様のことが言えるということを渡邊[1997、1999]が示している。渡邊は、ロシア連邦内のブリヤーチア共和国におけるブリヤートたちを対象に特に「文化」という言葉の使われ方を観察し、ソ連の用いた「発展」や「進歩」、「啓蒙」と強く結びつく「文化」概念がブリヤート人たちに浸透していることを明らかにした[渡邊1999]。私の知るあるカザク人女性も、フリルやレースでヨーロッパ化したカザクの民族衣装を好み、朝鮮人の民族衣装と比べて「カザクの衣装の方が豪華できれい」だと思っている。だがこれは、ソヴィエトによる制度化とかイデオロギーが浸透しているというよりも、近代的・西洋的なものへの志向性も手伝ってソ連時代に創られてきた「民族文化」が人びとに支持されているといった方がよいのではないだろうか。もっと言えば、「文化」という概念は近代ネイションととも誕生したものであり、そのような近代の言葉だけをツールに人びとの意識を分析しても、人びとの間に近代的な「文化」の観念が浸透しているという結果が出るのは当然なのだ。これは、二章で述べた、ソ連時代を近代化のプロセスとして見直す立場とつながる。ソヴィエトにおける「民族文化」はかならずしもイデオロギーに忠実に決定されたわけではなく、スターリン・テーゼにおける「ソヴィエト的」の部分がときに「ロシア的」とすりかわった。そのようなソ連時代に形成されてきたポスト・ソヴィエトの人びとの意識なのである。
また渡邊は、ブリヤートたちの文化のひとつとして結婚儀礼などの現在行なわれている儀礼をとりあげた。しかしその結論は、儀礼は「専門化した一つの芸能」でしかないというものである。これは、彼らの社会でおこなわれてきた儀礼がソ連時代に見世物としてソヴィエト「民族文化」として制度化され、ステージの上や「民族の祭典」などで上演すべきものとなった儀礼について述べている。また、そのような芸能としての儀礼ではなく今でも生活の中で個人的、自発的に行われる儀礼にしても、もはや「生死に逼迫した秩序感覚を統御する」という本来の意味での儀礼ではないと言うのである[渡邊1999:19-20]。そこで、カザクスタンでの国家的な祝祭や博物館に表象される「文化」ではない、カザクの人びとの生活レベルで見られる文化に着目したい。ブリヤートの例のように、カザクでも儀礼をとりあげることにする。
4−1 カザクと儀礼
1)儀礼とトイ
ここからは、筆者のカザクスタン滞在中に入手した具体的な事例を多分に引用する。滞在期間は2002年8月から10月の2ヶ月間、滞在地はおもにアルマトゥ市であるが、滞在先の家庭のアウルであるアクジャル村にも約1週間滞在した。アクジャル村は東カザクスタン州のなかでも東部に位置し、中国との国境が近い。村人はほとんど全員がカザク人であり、中ジュズに所属する人々である。しかし、私の知りえる範囲では、自己紹介の際にジュズへの言及があることはなく、クラン名、そして父親の名、子供が何人いる、という内容が話された。アルマトゥでの滞在先の家庭の内訳は、両親と9人の子供だが、子供たちは下の2人が大学生で、それ以上は全員社会人である。長女はすでに結婚し、夫とアルマトゥ市内のマンションで暮らしている。その夫もアクジャル村出身であり、村で私が世話になったのはその夫の親族たちである。夫の親(父親はすでに他界)、兄弟など親族の多くはアクジャル村で暮らしている。
カザクたちは、「カザクの文化」というとたいてい、独自の慣習と「客好き(гостеприимный/қонақ жайлылық)」だと言う。「客好き」あるいは「もてなし好き」という言葉には、英語では「ホスピタリティ」という訳語が与えられてガイドブックなどのカザクスタンの紹介に用いられる。表象のレベルにとどまらず、人びと自身の語りにおいても「カザクのホスピタリティ」は自負されている。実際に私も、短い滞在期間中に何度も客に呼ばれては出かけ、彼らのもてなし好きを実感した。日本人がやって来たということで、滞在先の家庭の親族をたらいまわしにされ彼らの友人、同僚などの家庭にも招待を受けた。そのたびにベシバルマク(бес бармақ)という羊の頭を乗せたパスタとバウルサック(бауырсақ )という揚げパンを食べ、シャンパンとコニャックを飲み、歌を歌った。カザクの文化のほとんどはロシア化されてしまったといわれるなかで、料理に関しては比較的「民族的」なものが残されたと言われる。ソ連から見て、食の領域は「民族料理」という「多様な民族の形式」として宣伝しやすかったのだろうか。とにかく、カザクが客を招くときにはベシバルマクは必須の料理とみなされているようだ。ベシバルマクは骨付き肉の料理で正式には羊の頭ごとテーブルに出される。それを上座に座った長老が切り分ける。メインのベシバルマクが出てくる前にはまず、バウルサックという揚げパンやナンなどのパン類、サラダ類、干し果実類や菓子類やチーズ類とお茶を楽しむ。何も知らずにそれで満腹になってしまうと、その後でこのベシバルマクをメインとしてスープやその他の料理が出、さらにさいごにはデザートまで出される場合もあるためかなり苦しいことになる。この食事中、ホストをはじめとし客ひとりひとりが順にあいさつを述べていく。あいさつではその催しの趣旨にあわせた祝いの言葉や人びとの健康、家庭円満や仕事の成功などを祈ることが多い。その場で歌を歌う人も多い。あいさつの締めくくりに「皆の健康を祈って」などと言いながら乾杯にもっていくことが多いため、一人があいさつするごとに酒を飲むことになる。このような、コースのように何度かの休憩とテーブルセッティングをはさむ長時間にわたる食事会が、カザクのもてなしのやりかたである(写真D−H)。
カザクの自認する「独自の慣習と客好き」は、通常、生活のおりおりでひらかれる人生儀礼と関わっている。人生儀礼には親族を中心とした人が集まり、トイ(той:祝)が共催される。カザクには、人の誕生から死後までを含む人生の節目ごとに行われる儀礼が数多くある。例をあげると、子どもの出産祝い(шiлдехана)、揺りかごの祝い(бесiк той)、命名儀礼、生後40日の儀礼、ひとり歩きの儀礼(тұсау кесу )、割礼祝い(сүндет той)、などが続く。トイをひらくと、料理の準備もさることながら贈答交換もともなわれるため、祝いをもよおすには財力がなければならず、貧乏であれば祝いをしないこともあるということを聞いた。割礼はカザクであれば皆かならず行なうが、余裕がなければトイは行なわないとのことである。または、出産祝いと揺りかごの祝いを一緒におこなうなどの方策もある。『カザクの伝統と慣習』[Akshalova2002]という本には、割礼につづき初馬乗り(ашамай)などの遊牧民の仕事の訓練的なもの、婚姻に関する一連の儀礼、死者に関する一連の儀礼など様々な儀礼が紹介される。実に多くの儀礼があるが、現在それらをすべて行なわれているわけではない。これらの人生儀礼のほとんどはイスラームに結びつけられたものであり、近隣の中央アジア諸民族にも見られるものである。カザク人自身もこれらの儀礼をカザクの民族の祝い事であると同時にムスリムのものであることを知っている。しかし、「自分たちカザクが一番きちんとこれらの祝い事をおこなうのだ」と言ってカザクを他のムスリム民族から差異化した人もいた。ちなみに、ひとり歩きの儀礼はカザクのイスラーム化以前からの慣習である。
『カザクの伝統と慣習』では人生儀礼のほかに、ナウルズをはじめオラザ・アイト(ораза айт)、クルバン・アイト(құрбан айт)といったイスラームの祝祭も「民族の祝日」に分類されている。ナウルズは春分の日の祭であったがのちにはムスリムのための祭として認識されるようになり、ソ連時代に禁止されてきた。ゴルバチョフの時代に、非宗教的な春の祭としてようやく復活が許された。カザクでは、私の聞き取ったかぎりでは、ナウルズ・コジェ(наурыз кѳже)という7種類の材料からつくるスープをつくり、互いの家を訪問しあうという。また、普段は洋服を着ているが、可能ならばこの日は民族衣装を着るという。オラザ・アイトとクルバン・アイトは断食月の後の祝祭である。『父祖の地』[Таланова...2002:]と題うったフォトアルバム[26]ではこれらの祝祭は「モスクや聖者、聖地で贈り物がもらえる」としか説明されていないが、私の聞き取ったかぎりでは、これらの祝祭日は「カザクが集う時」だといわれる。三日間食卓の上を片付けてはならないというくらいごちそうにあふれたお祭り騒ぎであり、貧しい者に肉を分け与え家に肉を残してはならない、羊をさばく日なのである。しかし、現在、私の滞在家庭のなかで断食を行なうのは長女の夫ひとりであり、そうした状況で断食明けの祝祭をやりはしないようであった。これだけの食糧の浪費のともなう儀礼をおこなうのに彼らの経済状況は見合わないのであろう[27]。この断食明けの祭りにかかわらず、人生儀礼に付随するトイ、客の接待は、「金銭的な余裕のある家庭だけ。無理なら、しなくてもよい。儀礼だけを行えばよい。」という注が常につけられた。私の滞在した家族は、アウルに住んでいたソ連時代、夫方の家族とならんでもっとも裕福な家庭だったそうだ。そのため、ことあるごとに親族や近所の者を接待していたのだということを聞いた。現在では、この家族でオラザ・アイトやクルバン・アイトについての知識があるのは両親くらいである。50歳前後の彼らは自分たちが「裕福であった」ソ連時代を長く生きてきた世代であるため、その時代にこれらの儀礼を行なってきた。一方、その子供たちにイスラームの知識はほとんどない。彼らはムスリムとしての自己意識は強く持っているが、意識だけで何も行なっていないのが現実である。父親にしたがって、毎週とはいかないが金曜日にはジェッテ・シェルペク(жетi шелпек)という特別の平たい揚げパンを用意し、髪を覆って食前にコーランを読むことがある。だが子どもたち自身ではコーランを読むことはできない。しかし、イスラームの祝祭がまず第一にカザクの民族のものとしてとらえられ、ほとんど知識がなくとムスリム・アイデンティティが強く持たれているということは、イスラームがカザク・アイデンティティに包摂されたものとして考えてよいだろう[28]。
知識が欠如しているのはイスラームに関することがらだけではない。私の知人のアクジャル村出身のカザク人がむかしまだ村で暮らしていたときに結婚祝を主催したが、その式次第の最後にやるトイ・バスタウ(тои бастау)という催しをやらなかったという。トイ・バスタウとは、祝の最後に、この次に結婚する人への祈りをこめておこなう趣旨で、会場のテーブル区画ごとにスカーフで覆って中身が見えないように置かれた客へのプレゼントを、客が祝の歌を贈るごとにオープンしていくというゲームのようなものなのである。しかし、そんなトイ・バスタウというものがあることすら知らなかったのだ。私の滞在中に結婚式があり、新郎の親族が式のセッティングなどを担当した。そこで、別の親族から「トイ・バスタウ(той бастау)」をしないのかと言われたためにあわてて予定に組み込んだのだという。今後は、自分の娘たちの誰かが結婚する際には、トイ・バスタウを必ずやると言っていた。こうして、これまで行なわれず知識が欠如していた儀礼や慣習に対する興味が高まり復興する事例が出てきはじめた。
2)儀礼とネットワーク
藤本はアルマトゥ市で子育てと成長儀礼について調査を行ない、カザクスタン独立後の変化する社会状況のなかで子どもを育てるカザク女性たちのあいだにみられる成長儀礼の復興と、民族、イスラームへの関心の高まりを報告している。藤本の報告によると、ソ連時代にも親族をまねき成長儀礼を行い続けてきた人が多数であるが、なかにはソ連時代にはまったく行われず独立後に行ない始めた事例や、ソ連時代には小規模に行ったが独立後は大規模に行なった事例などがみられるという。なかには、ソヴィエト国家のイデオロギーのため、祝なしで割礼をひそやかにしか行なわなかった過去の自分について「半カザクだった」と感じている者もいる[藤本2001:27]。若いうちから田舎の両親のもとを離れ都市の学校に入るインテリゲンツィヤなどには、祖父母や上の世代と引き離されていたという境遇が成長儀礼を行なわせなかったという事例もある。インテリ層には儀礼についての知識もなく、「ロシア文化をカザク文化よりもよく知っているけれども、カザク人でもロシア人でもない」と自己をとらえる人もいる[藤本2001:28]。このように、ソ連時代に儀礼が行われなかったこと、あるいは堂々と祝を行なわなかったことには、ソヴィエト政府からの抑制とともに、都市化にともなう親族関係の希薄化という要因が指摘されるのである。そして、独立後の儀礼の復興、イスラーム復興と民族の伝統への興味昂揚という事象には、ソヴィエト崩壊という大激動の時代に子どもをどう育てていくかという女性たちの親族のあり方に対する切実な問題意識が動機となっているのである。
藤本の調査したのは私の滞在したのと同じアルマトゥ市である。アルマトゥの病院で医者をしている当時29歳のBさんという女性は、医者仲間どうしのつきあいという、都市の希薄な親族関係をおぎなう人間関係をもっている。2ヵ月間という私のカザクスタン滞在中、Bさんの同僚たちに私は何度も会う機会があった。私がメインで彼らの家に招待されたこともあったし、彼女らの買い物に同行したり、彼女の新居祝に医者仲間を招待したりといったことがあった。その同僚グループのなかに妊娠中の女性がおり、その女性の出産祝には同僚メンバーたちが祝の準備をした。出産した女性の親族は祝にはやってきたが、彼女の退院日に病院まで出迎えに行ったり、その日におこなう祝の支度をしたのはBさんを含む同僚たちである。そのなかにはタタール人の女性もいた。そのタタール人女性は「カザクが好き」で「カザクになりたい」ために、パスポートの民族籍にはカザクと登録しているという。同僚が出産した赤ちゃんをタタール人女性が抱いて、お披露目をしお金を徴収した。しかしカザク語はわからず、仲間たちのカザク語会話にはついてゆけず、たまにロシア語で訳してもらっていた。仲間たちもそのことを当たり前のように行なう。また、Bさんは出産した友人の子どもの「へその緒のお母さん(кiндiк шеше)」になった。かつては家やユルタのなかで出産し、へその緒を切った女性を「へその緒のお母さん」と呼んだ[藤本2001:25]。その後の子どもの成長儀礼でも「へその緒のお母さん」には特別の役割があり、現在では親しい友人や親族が「へその緒のお母さん」となって出産した女性の様々な手伝いをする。「へその緒のお母さん」になることによって、友人どうし、親族どうしの関係強化がはかられてもいる[藤本2001:42]。
儀礼と親族関係に焦点をあてた研究には、ソヴィエト後のカザクスタン南部の旧シムケント地方でフィールド・ワークをおこなったWerner[1999]がある。Wernerによると、カザクの人生儀礼に付随した祝祭のなかでは、割礼と長男の結婚式がもっとも盛大であり、その他は出産祝い、娘の結婚、40歳・60歳の誕生日などが大きく祝われるという。彼女は、割礼にまつわる何度かおこなわれる祝祭を調査した。そして、祝祭でのもてなしと贈与交換、労働力の提供といった祝祭の主催者側と招かれる世帯との間のやりとりを通して、世帯間のネットワークが構築、維持されているさまを描き出した。この祝祭の場で重要なことが、気前の良いもてなし、ホスピタリティであるとされる。カザクたちは、気前よいホスピタリティを見せつけることで社会的地位と権威を獲得するという。独立後の厳しい経済状況下でも経済的な負担となるはずの大々的な祝祭をもよおし気前のよさを示すために多大な金額と時間、労力を費やすのは、カザクたちが単に伝統に盲目的に従っているのではなく、祝祭がカザクたちが社会における自己の地位を操作できる機会となっているからなのである。祝祭でのもてなしと贈与交換によって得られるものは、ソ連時代においては、消費財、職、良質の医療、子どもの大学進学などへのアクセス権を保証する人的ネットワークであり、ソ連後においても同様の効果があるということである。さらに、このようなカネと権威の交換ゲームに参加できない貧困層も、祝祭主催者に手伝いというかたちで労働力を提供することで経済援助が受けられるつてを保持しているという[Werner1999]。
ここで注目したいのが、現在もっとも盛大に祝われる儀礼のひとつが割礼というソ連時代には否定されていたイスラームの儀礼であるということである。Wernerによると、割礼はソ連時代にもおこなわれていたが、盛大な祝祭を開くだけの富と地位のある者が割礼を派手に祝うようになったのはやはり独立後だという[Werner1999:52]。
カザクスタンの隣国クルグズスタンの農村部でフィールドワークを行なう吉田[2001]によると、ソ連時代の禁止事項はイスラーム、慶弔事、ウルック、民族、の4つの領域に関わる事柄であったと整理される。ウルックとは、クルグズにおける親族カテゴリーで、父系の系譜をたどって構成される社会集団を指す。吉田は、ウルックを父系出自関係に基づく父系出自カテゴリーの下位区分として分節される「父系出自分節」と呼んでいる[吉田36-37,80-81]。多民族の混住が普通であった都市部と違って、住民の圧倒的多数をクルグズ人が占める村落部においては特にこのウルックとイスラームに関する領域への禁止が、人びとの生活で強く受けとめられたようだ。ウルックに関することは「部族主義」として弾圧され、自分の祖先やウルックのことを公然と口に出して言うことさえできなかった[吉田2001:84,146]。イスラームに関しては、バタ(бата)、断食、礼拝、コーラン暗唱などの多くの事柄が禁止されてきたという。バタは、神(アッラー)に感謝すること、祈りの言葉を唱えることである。日常の食事のあと、慶弔時、家畜を屠る時などに、両の手のひらをうえにむけながら言葉を唱え、最後にその手で顔をなでるようなしぐさをする。カザク人も同じバタを行う。日に5回おこなう祈りの際にとなえる祈りの言葉は、ナマス(намаз)ばれる。バタが禁止項目に挙げられているが、食事やお茶のあとの普通のバタは別に禁止されていたわけではなかったと、吉田の調査地の人びとは言うらしい[吉田2001:145]。一方、断食については「労働規律に対する違反行為」としてコルホーズ・ソフホーズを欠勤したり断食明けの祭(カザクにおいては先に述べたオラザ・アイトとクルバン・アイト)で大量に家畜を屠殺したりすることが糾弾された。これは、無神論というソヴィエト・イデオロギーの立場からというよりも、家畜の大量屠殺を経済損失とみる、肉の厳格な供給管理を達成しようとするソヴィエト政府の立場からくる対応だったと考えられる[吉田2001:14-1
47]。そして、厳しい政治的圧力をうけながら村人たちは、慶弔事には特に強い執着をみせたという。上記のようにウルックやイスラームそのものに関わる発言や身体的行為は禁止されてきたが、実はそれらは慶弔時のなかに埋め込まれているからである。
カザクと同様に、クルグズたちのあいだには、子どもの出生祝、結婚祝、結婚による姻戚の初めての招待、葬式、1周忌、死者の平安を祈願しコーランを読む「コーラン暗唱」といった、人びとが招待されたり自発的に出かけたりして参集する機会が多くある[吉田2001:64]。この数ある慶弔事に参集する際には金銭や衣料品、家畜といった何らかの金品が持ち寄られるが、なかでも葬式は参集する人の規模が大きく、一定額の金銭の出し合いが義務となっているという。というのも、彼女の調査では、葬式には通常で100〜300人、多い場合には700〜800人以上もの人が参集し、しかも葬式では馬をはじめとする家畜を屠殺しその肉で参集した人びとを饗応するため、葬式というのは金銭的な面にとどまらず主催者世帯にとって非常に負担の大きな行事となるからである。この葬式に参集する人びととは、同じウルックの仲間であり、葬式の「分担金」を出し合うという相互扶助ネットワークの基盤となっている。
吉田の調査地の村のクルグズ人たちは、遊牧からソヴィエト計画経済、そして独立後の市場経済へという社会の変動を、親族関係を基盤とした相互扶助のネットワークで乗り切ってきた。藤本、Wernerにおいてもこの相互扶助のネットワークが生活上重要なものであり、それが儀礼を通して構築、強化されることが述べられた。吉田において、この相互扶助ネットワークの基盤となる親族関係とは、一人の名祖を起点とした父系出自親族で構成されるウルックであるが、系譜上のつながりが不明な者、父系女性親族関係や地縁関係のある者もネットワークに含まれている。集団化の際に複数のウルックを含んで創設されたコルホーズから独立後の民営化までの過程における改編で、人びとは集団化以前からのアウル(遊牧集団)のつきあい関係、創設されたコルホーズ・ソフホーズ内での日常のつきあい、葬式の助け合いの関係などを構築し基盤として生活してきた。民営化によるソフホーズ解散にあたっても、ウルックをもとにグループになって分かれるという方法を人びとは選んだ。そのグルーピングには、父系出自親族だけでなく、葬式での分担金の合同による紐帯も含まれているのだ。ウルックが異なっていても、分担金をともに出し合う人びとはウルックを同じくする人びとのように強いつながりを保持し、上位レベルで同じ父系出自分節に属する集団どうしであっても、その意識は持っていても葬式の分担金を共にするとはかぎらない。吉田は、葬式の分担金を共にしている父系女性親族の子孫を同じウルックの一員として紹介を受けている[吉田2001:78]。葬式の分担金を出し合うネットワークに参加するか否かは、各世帯ごとの判断である。葬式は、ウルックの世帯が相互扶助のネットワークを生成する契機となっている。それがゆえに、クルグズの村人たちは厳しい弾圧にもかかわらず慶弔事には強い執着を示したのである。ソ連時代は割礼とその祝をするなと言われていたが、村人たちはそれらをやっていた。葬式・忌日の饗応に馬を屠殺するなと命令されていたが、それもやめなかった。彼らは、祝と饗応を「やらずにすませるわけがない」と言い、集団農場の事務方に家畜の屠殺がばれると、「事務局の人たちをコノック(=客)に呼んで、同じ村の人間だし、『見なかった、知らなかった』ということにしてもらっていた」と言うのである[吉田2001:146]。
これらのWernerと吉田の報告を見ると、ソ連時代に創られたものではない、むしろ禁止され消されたはずのものが、カザクスタンを含む旧ソ連地域の人びとの生活において重要性をになっているという事実が浮かび上がる。その重要性は、藤本も言うように、変動期にある社会状況を生き抜くうえで互いに助け合う人間関係を築くことにある。ソヴィエトの政策によるコルホーズ・ソフホーズへの定住化と独立後の独立自営農化という社会変化に、人びとは親族を中心とする相互扶助のネットワークで対応している。都市部では、親族関係にくわえて仕事の同僚や同級生といったつながりもこのネットワークに入る。私の見たBさんの事例のように、同僚の「へその緒のお母さん」になるというような親族以外との協力関係があった。
4−2 人びとの「カザク」観
現代に復興される儀礼は、人びとに相互扶助のネットワークに入る機会を与えてくれる。そのような効果がある一方で、やはり儀礼が復興されるのはそうした単なる機能的な価値からだけでなく、人びとのカザク・アイデンティティの反映としても考えられる。
私がアルマトゥで結婚式に参列した花嫁のJさんは、ロシア人とカザク人の混血だった。父親がロシア人、母親がカザク人である。Jさんについて、「父親がロシア人なのだから彼女もロシア人だ」と言われていたのを私は聞いていた。Jさんの母親はカザク人であるが、夫がロシア人であるため家庭内ではロシア語が話されている。父親の民族籍に子どもは従うという思考だけでなく、都市カザクのロシア化した生活ぶりもJさんがロシア人だとみなされる理由に含まれていたと思われる。そのJさんがカザク人の青年と結婚することになり、その結婚式に私が招待された。すると、Jさんは「カザクの男と結婚するのだから、これからは彼女もカザクだ」とみなされるのである。「夫がカザクだから、これからは家庭内でナウルズも祝うだろう」ということだった。しかし、その新郎となった青年もまた都市で生まれ育ったためカザク語をよく知らないのである。そのため文脈によっては「彼もカザクではない」と言われることもたまにあった。また、結婚に先立ち、姻戚として新婦Jさんの家庭に招待されたアウル出身で現在はアルマトゥ在住の女性は、Jさんの家庭のことを「きちんとカザクのやり方でもてなした」ということで認めたようであった。家長がロシア人で母親も都市カザクなので、つね日ごろは「彼らはロシア人だ」と言っていたのだが、「カザクのやり方」でもてなされたことに感心した様子だった。ここでいう「カザクのやり方」とは、ベシバルマクをはじめとする接客用の料理とその供し方、贈答交換などを指している。さらに結婚式後には、姻戚側がJさん一家と新郎の家庭を招待したが、そのとき上座にはJさんの父親が座り[29]、運ばれてきたベシバルマクの肉を切り分けるという仕事をやってのけたのである。慣れない手つきで切り分けたロシア人の父親は、カザク人の親族をもつにあたって努力していることがうかがえた。
この例から、カザクの儀礼、すなわち結婚にまるわる様々な手続きに加え、「カザクのやり方」でもてなすことがカザクであるために必要であると考えられていることがわかる。この「カザクのやり方」ができるかどうかという指標は、都市カザクを「都会人(городски)」と言って話題に出すときにしばしば登場する。たとえば、羊をさばきながら「都会人には出来ない」と言ったり「都会人はカザク語を知らない」と冗談風に言うときである。このとき、羊を屠り解体するということ、カザク語といったことがカザクとしてのメルクマールとなっている。このようなカザクとしてあるべき条件とでもいうべきものは、田舎=アウルの生活を理想化するものに基づいている。都市カザクの側も、アウルに真正なカザクの文化があるとの認識をもっている。さらに、ソ連の集団化のさいに国外へ出ていったモンゴルなどにいるカザク人に対してはより一層「純粋なカザク文化」を保っているということが信じられている。私は、「中国のカザク人は、もっときれいなカザク語を知っている」とか「モンゴルに住んでいるカザクはまだ遊牧を続けている」といった言及を聞くことがあった。このように、カザクだからこの儀礼をやる、カザクだからこのようにする、このようにしたから彼はカザクであるというような思考回路は、カザクのアイデンティティの強い表われであると言えるだろう。先に述べた、医者のBさんはこう言っていた。「(カザクの伝統、慣習について)まだ若いころは何も知らなかった。友達のクンドゥック・シェシェ(へその緒のお母さん)にもなったし、これから色々な経験をしてカザクになっていく。年をとってずっと家に座っているようになったら、典型的なカザクの女になれる。今は都市に住み仕事があって現代的な暮らしをしているから、典型的なカザク女性のようにはできない。忙しくて暇がないから、バウルサックや敷物など色々なものを自分で作ることができない。でも、年をとって引退したらわからない。誰かが素敵なキミシェク(кимешек)やカムゾール(қамзол)[30]をくれれば、もちろん着たい。」
外国のカザク人を「遊牧」という点でより自分たちよりも「純粋なカザク文化」を保っているとする認識は時に言及され、公式にも遊牧文化は「カザク文化」として表象されているが、人びとがカザクの文化としてよりリアルに感じているのは田舎=アウルの暮らしである。村落部出身の者が都市カザクを「都会人」と揶揄し、田舎をより「純粋」なカザクとみなし、「これから色々な経験をしてカザクになっていく」という言葉があるが、カザクの文化は現在は失われた遊牧文化であることを示していない。都市のカザクの人びとのノスタルジーの対象となる農村の暮らしとは、ソヴィエトの政策による劇的な社会変化を経験しつつも、禁止されたはずの親族関係やイスラーム、慶弔時といった要素こそが社会変化への対応策となって生きつづけてきた暮らしである。カザクの村人たちはクルグズの村人たちと同じように、「ソヴィエト的脈絡におけるローカルな社会環境のなかで、彼らの生活理念を生きてきた」[吉田2001:148]といえよう。
要するに、人びとの用いるカザクであるための指標は、遊牧というソヴィエト政府に消されてしまったものと、消されずにすんだもの、禁止されたのに残ったもの、あるいは変化させられたものなどのさまざまな要素が入り混じっているのである。また、カザク語を知らない人を「カザクでない」と言っていてもカザクのやり方でもてなしたから「やっぱりカザクだ」と言うように、ある要素が一貫して使われもしない。カザク人なのにカザク語を知らない人がいることを問題だとする発言をたびたび聞いたが、その一方ではカザク語のできる者どうしが街ではロシア語で会話しているのである。なぜかと問うてみると、「街でカザク語を話すと田舎者であることがばれるから」なのである。また、カザク人たちの人生儀礼に参加し互助ネットワークに入っているタタール人がいた。その人は、パスポート記載の民族籍をカザクとしていた。彼女の民族籍と実際はカザクでなくタタールであることを人びとは知っている。だが、人びとが「カザクの儀礼」であるとみなす行事に彼女を参加させるし、彼女がタタール人であることは何の影響もないし、民族籍がカザクだからというわけでもまったくない。これが、ポスト・ソヴィエト時代の生活世界、カザクの人びとの生きる文化である。
終章
1 語られる文化と生きられる文化
現在のカザクの文化に関して、「民族的」と銘打たれるものはおよそすべてがソ連時代に形を与えられ整えられたものであると考えてよいだろう。マクロなレベル、ミクロなレベルともにソ連時代に規定されている。「民族音楽」、「民族衣装」、「民族舞踏」、「民族料理」、「民族語」、「民族籍」・・・。「民族」とその「文化」がソ連時代に創られたことを指摘する論者たちは同時に、このことを批判的にみることを否定もする。宇山は、独立後の民族に関する言説に正誤の判断をつけたり虚構性を強調することを良しとしない[宇山2001:1-6]。東田も、カザクにおける現行の「民俗音楽」や「伝統音楽」とされているものの真贋を区別する態度は研究者としては回避すべきであると考えている[東田1999b:29]。彼らは、ポストモダンな観点から民族や文化の構築性を認め、それらを現在の「民族」当事者のアイデンティティのよりどころとして肯定する立場をとっている。大切なことは「民族」すなわちネイションの「虚構性を暴く」ことでなく、「そこにおける「民族」の構築のされ方、想像のされ方が他の共同体とどう違うか」[渡辺2003:106]ということだとされている。
だが一方で彼らは、ソ連以前の文化は「根無し草化」され「抜け殻状態」となったと表現する[e.g.宇山1999a:105、佐々木1998a:86,87]。また、ある社会内で人びとが生きてきた文化そのものと、国家からのまなざしの中で捉えられた「文化」とを「生きられる文化」と「語られる文化」と言い表した関本[1994]を参照して、「「語られる文化」としての「ソヴィエト・カザフ民族文化」が、「生きられる文化」の領域をも浸食しつつある」[宇山1999b:45]などとも言われている[31]。宇山はまた、「「語られる文化」は「生きられる文化」としての民族文化を吸収しつつあるが、そのことはむしろ民族文化を言説のレベルに閉じこめ、現実に人々が生きている文化の複合性・無民族(無国籍)性を変えることはできずにいる」[宇山1999b:44]とも言っている。この宇山の引用のなかの括弧なしの民族文化という表現で言いたいことは、括弧つきの「民族文化」が制度化される以前の民族文化である。「民族」とされた当の人びとが実生活として営んでいた文化という意味で、芸術として洗練される以前の音楽や踊りなど、「音楽」や「踊り」として個別化されず生活のなかにすべてが埋め込まれていた状態を指していると筆者はとらえている。この二つの引用は、まず、国家(この場合はソヴィエト政府)によって認定されカザク「文化」として表象されるものがカザク人たち自身によっても自分たちの文化として受け入れられていることを指摘している。そして、実際にはその表象される「文化」は人びとがそのなかで生活しているところの文化ではないということを表している。かつて生きられてきた文化は「根無し草化」され「抜け殻状態」にされてしまったからであるためでもあるし、括弧つきの「民族」的なものなどステージの上や限られた祝祭でしか見られないもので日常生活レベルの生きられた文化のなかにはないものだからである。
カザクの人びとの生活はソ連以前からソ連時代を通して激変してきた。現在の人びとの近代化した生活がソ連以前の生活とはまったく異なることは事実である。そんな中、ソ連以前からの音楽や踊りや衣装をもとにソヴィエト国家的にアレンジされたカザクの「民族文化」が、現在の生活にほとんど関係ないことも当然である。そのような表象と現実とのギャップがあるからこそ、「語られる文化」と「生きられる文化」という言い回しが登場したのだ。しかも、「語られる文化」産出の担い手になっているのは、語られる対象の外部にある国家や研究者だけではなく、語られてきた人びとみずからが自己を語るようになってきた状況がある。このような現実において、文化がどのように語られ、その言説がどのようにつくられ、流通し、消費されるかという制度的なアプローチはすでに見てきたようにソ連時代から独立後のネイション・ビルディングの歴史に応じて行われてきている。一方、「生きられる文化」へのアプローチが欠けている。ソヴィエト化以前の状態を本来の民族文化と考えそれが「生きられる文化」からは根絶やしにされたと言うわりには、これらの論者の視点が「生きられる文化」に向いていないと感じるのである。さらに、「生きられる文化」はソ連以前に「生きられた文化」と一致する必要はない。「生きられる文化」はまさにその時その時の人びとの日常や特別な祝祭などをふくむ生活世界を指しているのだから。
スターリン・テーゼを引き合いに出した議論にも似たような視点によるややこしさがある。ソ連民族政策において「形式において民族的、内容において社会主義的」であるべきとされた民族文化の姿が結果どのようになったということが一致していないのだ。宇山の場合、ソ連のうつりかわる政策の結果最終的には、カザク人たちは「形式においては民族的、内容においてはロシア的」となってしまったとされている。逆にAdamsは形式はソヴィエト「民族文化」を独立後もひきついでいるが、人びとがそれを自分たちの文化だと信じていることをもって「形式においてソヴィエト的、内容においてウズベク的」とした。これは、カザク人とウズベク人の違いというわけではないだろう。宇山にはアイデンティティという人びと主体の視点がなく、民族籍、顔といったレベルを「形式」と言い、実際の生活スタイルや使用言語というものを「内容」とみてロシア的と言うことが示すようにすべて表面的な部分しか見ていない。Adamsのように、アイデンティティの次元を考えに入れると、どれほど生活に近代化されロシア化された部分があろうとも人びとの民族的な意識は失われなかったという論もあるのである[e.g.Bacon1980]。民族的な意識とここで言われるものは、失われなかったというよりもソ連の政策によって生み出されたか強化されたのだと指摘することは可能である。だがここでもっとも問題なのは、何が形式で何が内容に当たるのか、どういうものを民族的とか○○的とするのかという問題もあるが、それよりも、言説や表象のレベルの文化ではない人びとの生き方としての「生きられる文化」を誰も見ようとしないことである。
2 ポスト・ソヴィエトの「民族」と「文化」
第4章で、カザク人たちの生活世界で「生きられる文化」にはソヴィエト国家による制度化か禁止という何らかの制約をうけながら、人びとのつきあいや相互扶助、カザク・アイデンティティなどの主体的な意味付けが見られることを述べた。ソ連に創られたものを括弧つきの「文化」、ソ連以前からのものを括弧なしの文化とするならば、宇山らによるとソ連の制度とは関係のない括弧なしの文化は現在にはないものと考えられている。たしかにカザクの人びとが「カザクのやり方」といってアイデンティティの拠りどころと考えているものは近代ネイション的な思考に拠っていて、ソヴィエト以前にはなかったものだった。このようにいうのは「カザクのやり方」がソ連以前になかったということではない。「カザクのやり方」という要素を自分たちの文化のなかから取り出してきてアイデンティティの拠りどころとするということが、ソヴィエト以前にはなかったということなのである。もちろん、過去にも人びとが遊牧民としての誇りをもち定住民からみずからを差異化して捉えていたということは知られている。しかしそのときの個人の位置は、定住民に対しての遊牧を行なう自分とその仲間たちにあり、個人は自分から親族、主従関係という人間関係の網の目をたどって想像されるクラン連合、あるいはカザクという全体のなかにあった。個人が無媒介に突如「カザク」とイコールになるというのは、やはりソヴィエト時代の近代化政策に多くを負っている。人びとは、カザクの儀礼やカザクの言語、羊を解体するといったカザクとしての重要な文化を実践したいと思っている。それらの「カザクの文化」を通してカザクに「なっていく」と感じる人びとは、儀礼や言語にカザクの固有性をおき、他民族からみずからを差異化することによって「なるものとしての民族」[内堀1997:17]になっていくのである。
内堀は、「民族」という語について「あるものとしての民族」と「なるものとしての民族」のあいだのずれとねじれを論じている[内堀1997]。内堀における「あるものとしての民族」は中川においては「民族1」、同じく「なるものとしての民族」は「民族2」[中川1996]と表現され、さらに松田においては順に「ソフトな民族」、「ハードな民族」[松田1992]と呼ばれている。いずれも、近代国民国家制度の介入を境として、近代制度以前から存在した人間集団のあり方を「あるものとしての民族」、以後を「なるものとしての民族」というわけだ。現在のカザクたちは、かつて、どの遊牧集団のリーダーのもとにつくかという主体的な判断によってカザクになったり、カザクでなくなったりしていた「ソフトな民族」だったが、ソ連時代の制度によって「ハードな民族」となった。民族ごとの諸共和国による連邦制というソ連の体制によって、「民族2」としてのカザクは固有の領土に結びついた政治的な単位となり、パスポート記載の民族籍に固定され、古代にまでさかのぼられる歴史と独自の「民族文化」を持つにいたった。「民族2」に関していえば、旧ソ連地域における「民族」はソ連によってつくられたという主張は正しい。そして、ソ連によって与えられた「カザク民族文化」であるなしは別にしても、人びと自身が生活のなかで「独自の文化」を指標に他民族から差異化しようとする点で、人びとが「民族2」になっていることも認めることができる。
しかしそのような「民族2」のカザクの人びとによって生きられる文化は、もじって言えば「あるものとしての文化」から「創られるものとしての文化」であるとはかぎらない。Adamsや宇山、東田などの主張してきたように、ソヴィエト化された文化やそれに対抗するかたちで出てきた「伝統」文化が独立後にもつづいて存在しているが、禁止下でしぶとく続いてきたものもある。独立後に復興してきた多くの儀礼はおそらくソヴィエト以前とはまったく同じではないだろうし、かつての遊牧の生活のなかに埋め込まれてきたその儀礼の意味も現在は失われているだろう。しかし、現在には都市化や経済苦境をかかえる現在の生活に必要な意味をもって儀礼は行なわれている。「ハードな民族」であるカザクのアイデンティティが儀礼を行なわせるという面もある。しかし「ハードな民族」としてはタタールである人物もその儀礼を媒介とした人的ネットワークに参加しているという「ソフト」さも持っている。
3 結論
抑圧されてきた民族の覚醒によってソ連が崩壊したのか、ソ連がみずから創り出した民族と民族意識によって崩壊したのかという議論は、民族という概念の取り違いに起因する。抑圧されてきたのは「民族1」で、「民族問題」としてソ連末期に噴出したのは「民族2」なのだ。宇山は「ジュンガルとの戦い(つまり、ロシアを通しての「近代」との出会い以前の事件)によって高揚した「カザフ人」意識は、近代に世界各地で高揚する「民族意識」・ナショナリズムと全く異なるものなのか」[宇山2001:7]と問うている。ジュンガルとの戦いでカザク人意識が高揚したと言うが、おそらくジュンガルという共通の敵に対してそれまで分裂していたジュズというクラン連合がさらに連合を組みひとつに統合された結果のカザク人意識であろう。ジュンガルに対してはカザクであっても、個人が日常的に「カザクだから」と「カザクのやり方」の理想をもって生活しているというようなことはない。その後、ロシアに併合され近代諸装置が入ってくるにしたがい一部の知識人には「民族2」の感情が芽生えていった。しかし一般民衆にも「民族2」の概念が浸透するのはやはりソ連時代だ。その証拠に、帝政ロシア時代、カザクの伝統的な指導者層、特権階級は利己主義でカザク全体のために動かなかった。すべての人が教育を受け出版物を読み自分の民族籍を知っているような状態になって、カザク「民族2」の意識が浸透することができたと考えられる。そのような近代的なサービスを市民全員に提供したのがソヴィエトだ。市民という概念もソヴィエト時代まではロシアおよび中央アジア地域にはなかった。ネイション概念はソ連においてはソヴィエト市民の下に、共和国単位で形成されたのだ。それでも、「民族」という意味でのネイションは、「民族1」とは異なる「民族2」の想像のスタイルからできていたのだ。カザクの場合、枠組みとしては「民族1」と「民族2」に大きな差はなかったが、やはり近代特有の「民族2」はロシア帝国時代から徐々に形成されソ連時代に生まれたと考えられる。
カザクにかぎらず「民族2」の意味で「民族は創られた」と言うことは可能である。しかし「民族2」でも生活世界においては、カザクは自分たちの儀礼やトイで構築する互助ネットワークに異なる民族を含むソフトさももっている。そして、ソ連以前からの要素や、ソ連政府によってもたらされた公定「文化」や、近代志向とヨーロッパ趣味、産業化・近代化によって変容した要素、禁止されながら脈々と生き続けてきたものなどが同居した文化をもっている。近代の産物であるカザク・アイデンティティは「語られる文化」を参照するが、実際の生活とは必ずしも一致しない。そしてカザクの文化とみなされる儀礼やトイでのもてなしが「語られる文化」とはほど遠い現実の生活における相互扶助のネットワークを構築する機会となり非カザクが含まれることもある。「これから色々な経験をしてカザクになっていく」という考えのように、日常生活に、ハードな「民族2」という近代的な思考は溶け込んでいる。このようなソヴィエト後の生活世界は、カザクとしてのアイデンティティを持ちつつ人びとが実践をつづける世界である。
註
[1] 一般的には日本語ではカザフ人・カザフスタンと表記されることが多いが、本論文では現地語の発音にしたがって「カザク人」「カザクスタン」と表記する。同様に、のちに出てくるキルギス人・キルギスタンについても「クルグズ人」「クルグズスタン」と表記することにする。
[2] ホブズボウムらについては、「創られた伝統」をまがいものとして捉え、ネイション以前の「本来の伝統」を真正なものとしているとして批判もされている。
[3] 1999年現在(Агенство Республики
Казахстан по статистике)。
[4] 中央ユーラシアという言葉をはじめて使用したのはデニス・サイナーというハンガリー生まれでフランス国籍のアメリカのアルタイ学者である[岡田1990:5]。しかしその領域が精密に定義されているわけではないようである。簡単にいえばユーラシア大陸の中央部を指し、だいたい西は黒海北方の南ロシア草原地帯、北部コーカサス平原、ウラル山脈地区から、東へは南のコーカサス山脈、ヒンドゥークシュ山脈、パミール高原、崑崙山脈とアルティン山脈、南流するまでの黄河、さらに万里長城地帯までを結ぶ線で囲まれる領域だと考えてよいだろう。北境もだいたいシベリアのタイガ地帯までである[護1984:13-16]。同領域は「内陸アジア」とも称される。
[5] テュルク化とは、ある地域の住民の多数がテュルク語を話す者によって占められるようになる現象である。中央アジアの定住民の多くはかつてはイラン系の言語を使用していたと考えられるが、10世紀から次第にテュルク語を受け入れ始める。テュルク語の方にもまた、普及過程でイラン系言語(特にペルシャ語)の単語や語法がおびただしく入っており、特に定住民のテュルク語(現代ウズベク語など)には強い影響がみられる。一方、タジク語はテュルク化した中央アジアにある唯一のイラン系言語である。タジキスタン東部では少数だがイラン語派東部グループのパミール諸語が話され、山岳地帯に住むタジクはイラン系のタジク語、オアシスに住むタジク人はウズベク語とのバイリンガルでもあることが多い[小松2000 , Bacon 1980: 27]。
[6] ここで言うウズベクとは、現在のウズベキスタン共和国の主要民族であるウズベク人とは別のものである。15世紀、テュルク=モンゴル系の遊牧集団のなかにウズベクという祖先の名を冠した一遊牧集団が強力になり、オアシス都市を攻略していった。当時、オアシス諸都市の定住民はイラン語系の言語を話し遊牧民からサルトと呼ばれていた。ウズベクの到来以来テュルク系集団の定住化が進み、言語の別に関わらず定住民はサルトとされ、遊牧集団のウズベクとは区別されていた。それが、ソ連時代にサルトという呼称は差別的であるとして排され、テュルク語系の住民がすべてウズベクとされるようになった[Bacon 1980: 17-18]。現在のウズベキスタン共和国においてウズベク民族の英雄としてまつられているチムールの帝国を倒したのがまさにその遊牧集団のウズベクなのだが、現在のウズベク民族の起源は「アム川とシル川の地域で人工的灌漑農業に従事した定住民」と定義されているという[帯谷 2003: 40]。
[7] テュルク諸語のあいだには差異が小さく、特にカザク、カラカルパク、クルグズ、カザン・タタールの言語は非常に近くコミュニケーションに支障はきたさなかったようである。カザク語内の方言もほとんどない。「遊牧民の移動が口語の分岐を妨げた」とBaconは言っている[Bacon 1980:27]。
[8] 宇山[1999]は、日本の中央アジア史研究がその意味内容を問わないままに「民族」という言葉を使い続けていることの問題性を指摘している。さらに、日本語の「民族」と英語の「ネーション」、ロシア語における「民族」に当たる「ナロード(народ)」、「ナーツィヤ(нация)」、「ナロードノスチ(народность)」、「エトノス(этнос)」、カザク語における同様の意味の「ハルク(халық)」、「ウルト(ұлт)」、「ハルクトゥク(халықтық)」といった語彙の検討をおこなっている。
[9] 三つのジュズの成立時期については、17世紀から18世紀をとおして諸説ある。16世紀にはすでに存在したという説もあるが、三つのジュズがすべて同時にできたわけでもなく、成立しては消滅するという短命の軍事的な部族連合であるジュズの存在に言及したものである[Olcott1987:11]。ちなみに、ジュズという語には顔、表面、特徴、外観、(数字の)100などさまざまな意味があり、そのなかでも100という意味が軍事的な百人隊に結びつき部族連合のジュズの語源になったとも言われている[Krader 1963:190-193, Hudson 1964:14-15, Olcott
1987:9-11]。
[10] Baconは、中央アジアの諸部族の社会構造にモンゴル語のobokという語彙を用いている[Bacon
1958]。
[11] 「アウル」は、のちにカザク人が定住化させられるとその定住村落を指すようになる。現在「アウル」といえば田舎の村の実家のことを指したり単純に田舎・地方(деревня, село)を指す。吉田の報告では、クルグズの村人たちはこの他に「アィル」(=カザクでの「アウル」と同じ)が「人」そのものをも指す言葉であるという。たとえば、「最近アィルが1人死んでしまった」とか「アィルへ行こう」と言ったりするということだ。いずれの場合も親族のことを指している[吉田2001:52-53]。
[12] トルキスタンすなわちトルコ人の国という名称でよばれた内陸アジアの地域は、中央アジアと呼ばれる地域とも一致し、中国領中央アジアと東トルキスタン、ソ連領は西トルキスタンとして知られている。つまり、中国の新疆ウイグル自治区と旧ソ連領内のカザクスタン、ウズベキスタン、キルギスタン、タジクスタン、およびトルクメニスタンをふくむ地域である。また現在のアフガニスタン北部を入れることもある[岩村1977:22-23]。
[13] ワリハノフ、アルトゥンサリン、アバイらの間に実際に連携があったわけではないため、厳密には彼らを「第一世代」と呼ぶのは不正確であるとも言える[宇山1997:5]。
[14] 特に問題になったのが、現在はウズベキスタン領となっているタシケント地区である。この地区では、都市ではウズベク人が多いが周辺の農村ではカザク人が圧倒的であった。そのため、この地区をカザクスタンに属するよう、1924年秋には全ロシア中央執行委員会に訴えが出されたほどであった[木村 1999: 11]。
[15] 1939年のカザクスタンにおける民族別人口比:カザク人36.4%、ロシア人41.2%、ウクライナ人10.6%、ドイツ人1.5%、その他10.3%。1956年:カザク人30.0%、ロシア人42.7%、ウクライナ人8.2%、ドイツ人7.1%、その他12.0% [ Масанов,Н.Э., Абылхожин,Ж.Б., Ерофеева,И.В., Алексеенко,А.Н., Баратова,Г.С. 20001: 396]。
[16] カザクの遊牧民のために「赤いユルト(ユルタ)」という学校が開設され[モンテイユ1983:103]、博物館や図書館といった文化施設も、遠隔地には移動式のものがやってきたという。
[17] このパスポートは個人の身分証明証であり、国内輸送や履歴書、戸籍、住宅購入などの際に必要とされるもので、16歳から取得することになっている。記載される民族籍は、もとは自己申告制であったがのちに自動的に両親の民族籍が引き継がれるようになった。混血の場合は親のいずれかの民族籍にあわせ、16歳でみずからの民族籍を選ぶという。カザクの場合では子どもは父親と同じ民族を選ぶことが多いが、子どもが複数いる場合には一人は父の民族籍を引き継ぎまた別の一人は母の民族籍を引き継ぐというやり方もある。
[18] 英語の論文では、ナーツィヤにはnation、ナロードノスチにはnationalityが用いられることが多い。ナーツィヤやナロードノスチの差異を考慮に入れない、多民族国家としてのソ連内の諸民族を単に示している場合にはethnic groupなどが使われる。
[19] ここではソヴィエト式の「民族音楽」に対抗してカザク音楽の真正性を追求したものを括弧つきの「伝統音楽」と統一する。本来の東田は括弧をはずした伝統音楽と表現する場合もあれば括弧付きの「伝統音楽」とする場合もあったり、括弧つきで「民俗音楽」としたりしている。
[21] アザット、ゼルトクサン、アラシュなどのカザク民族主義政党のほか、ロシア、コサッ
クなどの政治運動もあり北部カザクスタンのロシア人人口の多い地域の分離を主張した。
カザク人、ロシア人いずれの民族主義も極端であり、一般民衆には支持されていない。
[23] 1979年のカザク人約529万人、ロシア人約599万人から、1989年にはカザク人約654万人、ロシア人約623万人に各民族の人口は変化した[Масанов...2001:403]。しかし、次の10年では1999年にカザク人は約799万人、ロシア人は約448万人となっている[Агеоство Респблики...2002:12]。あきらかに、カザク人人口が増えただけでなく、ロシア人人口が減少したことによる人口勢力の変化が見られる。
[24] その後、経済の悪化により「諸民族の友好」としての文化も、カザク民族の祝祭として
の文化も担えなくなってきていることが論じられている。
[25] ソヴィエト史学・民族学において主流だった、ある民族の起源をその地域に住んでいた民族に名称に関係なく遡っていく「アフトフトンノスチавтохтонность」(原住性、自生性)重視の考え[宇山1999a:106]。序章で述べた民族起源学。
[26] 独立前後から盛り上がってきたカザクの遊牧生活、民俗学的知識への興味から、上の『カザクの伝統と慣習』やこの『父祖の地』のような、カザクの伝統的な生活や慣習、祝祭などに関するガイド本の類が現在では街の本屋で多く見られる。『父祖の地』は、写真が多く入っておりフォトアルバムと銘打たれているが、説明文もカザク語・ロシア語・英語の3ヶ国語で民俗学的知識が豊富に入っている。外国人観光客むけの、ホテル情報などの入ったようなガイド本でも、カザクの伝統に関する民俗学的知識が紹介されていることが多い。
[27] 彼らが断食を行なわないのは、その家族の父親が病気であることが大きな要因になっている。長女の夫が一人でも断食を行なうのは、イスラーム信仰のより強い南部の出身者が彼の仕事の同僚にいる影響が考えられる。
[28] その証拠に、カザクはムスリムとしてのアイデンティティは強くとも他のムスリムと自己を同一化していないことが挙げられる。他の民族に関する言及では、同じムスリムであり同じ中央アジアに居住するウズベクやウイグルなどよりもロシア人を良く言うことが多い。チェチェン人におよんでは「人を殺す奴らだ」とまで言う。また、米国同時多発テロからちょうど一年が経った9月11日、「アメリカよざまあ見ろ」というようなことを言う人に理由を尋ねたことがあったが、宗教にはまったく関係のない答が返ってきた。ある中年の男性はソ連時代にアフガン出兵に従軍しアメリカと戦った経験があるため今でもアメリカを敵視していることが理由だった。また、大学生の青年はロシア語学校でロシア人の仲間が多いためロシアに親近感をもっており、それがアメリカに対抗心をもつ理由であるようだった。「自分はムスリムだからといって他のムスリム全員を仲間だと思っているわけではない」と言う人もいた。
[29] 新郎側の父親はすでに他界しているため、新婦側の父親が上座に座ったと思われる。
[30] キミシェク、カムゾールはともに民族衣装。キミシェクは年配女性のかぶりもので、ずきんのようなもの。カムゾールはベスト調の着物。誰かがプレゼントしてくれれば着たいというのは、これらの民族衣装は現在では自ら作るものではなく、既製品を買わねばならないのであり、しかも高価なため、自分で調達して着ることはできないという含意がある(写真I)。
[31] これは宇山の発言ではなく、あるシンポジウムでの東田のペーパー上で述べられたことである。
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<ウェブサイト>
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http://www/odci.gov/cia/publications/factbook/geos/kz.html
Kazakstan online
http://welcome.to/kazakstan
RFE/RL NewsLine
http://www.rferl.org/newsline/