ポストコロニアル人類学について
北山真由子
要約
ポストコロニアル人類学についてということで、植民地化された地域が国家として独立し、人類学が学問として成立した植民地主義の時代から植民地以後の時代にある現代社会において、オリエンタリズムという植民地主義的な問題はいまだ終わっていないという状況について考える。その状況のなかで、人類学はどのようにすれば植民地主義にならずに異文化を研究することができるのか。
オリエンタリズムとは、西洋が東洋を他者として本質主義的に規定し、権力と手を結んで他者を支配するための方法である。その本質主義的な認識枠と、その枠を相手に押しつける権力とが結びついて可能になる支配の様式として問題とされている。この支配の様式は、近代の政治テクノロジーと言うことができるように、近代以降の文化やアイデンティティを構成する方法の特徴である。人間は本質的に民族や文化といった枠組みに分類されるものとするために、首尾一貫していて固定した本質主義の考え方であるのが近代知というものである。これは異文化という他者を研究する学問である人類学にもあてはまると考えられ、人類学者による人類学の自己批判とそれをのりこえるための議論がなされている。
人類学は、植民地時代、西洋が非西洋を自己よりも劣った他者であり野蛮だという見方をしていたことを、西洋からの一方的な見方による決めつけだと批判してきた。「現地の人々の視点から」見ることで、劣った野蛮なものと決めつけられた文化に価値を見いだし、西洋の一元的なものの見方でなく異なる語りの存在を提示したといえる。しかし、植民地から独立への運動が起こるようになり、一方的に語られてきた被植民地の側からも自己表象がされ始めると、植民地主義の一方的な語りを批判してきた人類学者の語りもまた、決めつけであるということが判明する。民族誌における単声的な権威は、そのまま現実社会の政治的権力差を足場に人類学者の語りを絶対的な真実だとし、現地の人々に語る権利を与えないようにはたらいてきたのである。これは、人類学者の語ることが絶対的な真実であるという、正しい表象はただひとつしかないと考える本質主義に起因していると考えられる。そして本質主義的な語りが批判されることになるのだが、「現地の人々」からの本質主義的な自己表象にあい、非本質主義の立場を貫くことができなくなる。
「現地の人々」が植民地主義の支配から自己の権利を主張するとき、支配者から押しつけられたイメージを自己の文化の本質として主張することによって、つまり独自の文化ということを根拠にして植民地からの独立などの主張をするという戦法が取られる。このように弱者の側からの語りが本質主義的であるという事態に対して、人類学者は非本質主義を貫くのか、それとも弱者には本質主義批判をおこなわないという曖昧な政治的基準で対応するのかということの間で動けなくなってしまう。
そこで、オリエンタリズムから人類学につらなる問題であるオリエンタリズムの支配の様式を支えた知のあり方、つまり近代の政治テクノロジーに陥っているものを批判するという路線を考えうる。近代知に抵抗するものとして日常の生活の場でおこなわれる知のあり方というものが注目に値すると考えられるようになる。また植民地化された側に対して、脱植民地主義の運動をするエリートたちの本質主義的な語りをそのまま一枚岩の「現地の人々」というイメージに捉えるのではなく、その内部の多様さに目をむけることも必要なことである。すると、植民地主義によって強制的に受容させられたもののなかで最大限になんとかやっていく民衆というものが見出され、それが抵抗としての意味をもちうると考えることができる。近代知に抵抗する知のあり方とは、「戦術」的で「ブリコラージュ的」であることが特徴である。首尾一貫して論理的であろうとする近代知に対して、弱者や民衆の日常生活の場面での知はその場その時にうまくやっていければよいための知のあり方であるので、論理的な目から見ると首尾一貫しておらずご都合主義である。この特徴ゆえに近代知への抵抗としての意義を持ちえるのである。そして日常生活の場面でおこなわれるような、首尾一貫せず固定されず暫定的な本質主義の利用(「戦略的本質主義」)が評価されるが、弱者が近代の支配の様式へ抵抗するために同一性によった本質主義を用いることを評価するということにはならない。それが固定された弱者という場所からなされるのではなく暫定性をもった戦略であることが大事なのだ。
しかし、こうして近代知とは異なる日常生活の場に使われる知というものを、学問の論理的な場で語ろうとしたとき、ふたたび人類学者が弱者や他者を代弁することになってしまわないか。人類学者が日常生活を生きている民衆を語るとき、それがあるひとつの語り方にすぎないことを認めて、別の見方による別の現実の存在を認める用意がなければ、ふたたび人類学者が弱者である他者を代弁することにつながってしまう。人類学者の側にその用意があったとしても、人類学者の語ったことが、現地のエリートによって固定した本質主義的な語り方で「現地の人々」の権利請求のために利用されることもありえよう。しかし、また新たに押しつけられたものを用いてまた新たな文化が日常を生きる生活者たちによってつくられ続けていく。その営みを見続けていくことが、文化を研究するのに欠かせられないことであると考える。
本論
1、オリエンタリズム批判
人類学の理論について、現在多くの議論がなされているが、その大きなきっかけになったのが、オリエンタリズム批判だろう。オリエンタリズムとは、従来、ヨーロッパにおける東方(オリエント)を対象とした芸術分野などにみられる異国趣味や学問(オリエント学)を指した。しかし、1978年に出版されたエドワード・サイードの著作『オリエンタリズム』によって提起された言説(ディスクール)としての意味が一般化している。つまり、19世紀後半以降の「欧米の植民地経営の進展にともなって肥大化した政治と知識の複合からなる世界支配の様式」(堀内1995:158)という意味合いである。
サイードはオリエンタリズムを、オリエント学のような従来広く一般的に知られたとおりの学問的な意味と、「存在論的・認識論的区別にもとづく思考様式」としての意味,そして、「オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式」、つまり言説としての意味の相互関係からなる複合体だと考えている。そして、その3つめの言説としてのオリエンタリズムを、東洋と西洋とのあいだの力関係を象徴するものとして、検討しなければならないとしている。というのも、政治とは無関係と考えられやすい学問的な「純粋な知識」といえども、権力から切り離されたものではなく、「真の」知識は非政治的だという考えがそれを支えている政治諸条件を覆い隠しているということを明らかにしようとするからである(サイード1993上:19‐22、28、34‐36)。
まずはそのオリエンタリズム批判を概観してみよう。オリエントというのは、西洋が自己と東洋のあいだに境界線を引くことによってできた地理的実体であるだけではなく、「思想・形象・語彙の歴史と伝統とを備えた一個の観念」(サイード1993上25)である。この思考様式では、自己である西洋に対置する他者として東洋が置かれ、非西洋的なものが割り当てられてある。それは、西洋が一貫したアイデンティティを形成するために排除されたものがオリエントに押しつけられたということだ。オリエントに与えられたのは、後進性や不変性、非合理性などの特徴で、「オリエント的停滞、オリエント的官能、オリエント的専制、オリエント的非合理性」(サイード1993:上81、下16)というような比喩によく表れている。オリエントについて語ったり記したりするさいにそのような紋切り型の言説が用いられ、流通することによって一般化する。こうして、西洋とは反対の負のイメージがオリエントの本質とされていった。この仕組みは、境界をひくことで二項対立の構造をつくり、自己と他者概念を形成するという、いわば普遍的な地理的区分の習慣と似ている。自分たちのアイデンティティを引き出すための、境界の外は「野蛮人の土地」とする、サイードの言うところの心象地理というものである(サイード1993上:128−130)。古代ギリシア以来のオリエンタリズムもそのような認識論的なものであった。ところが、オリエンタリズムの場合、植民地主義とともに、オリエントについての情報を豊富にもったオリエンタリストたちによって、オリエントは、東洋的なものを全て閉じ込めた舞台となってしまったとサイードは言っている。そのときオリエントは,なじみぶかいヨーロッパ世界の向こう側の空間ではなく、ヨーロッパに内在する他者となっている。オリエンタリズムは、西洋が、非西洋的なイメージをもった西洋の対置物として「オリエントのオリエント化」を行なったそのやり方なのである。
この部分に、オリエンタリズムの政治性というものが指摘されている。オリエンタリズムを可能にしたのは、オリエントに対する西洋の支配と権威だといえるからである。その権威は、オリエントは発展し変化をとげているにもかかわらず、不変の安定した「事実」として固定してしまう力をもつ。しかも、東洋人は非論理的でオリエントには自らを表象する資格も能力もないから、西洋がかわりに表象してやるのだ、というような決り文句で、その権威は正当化されていた。また、その権威は客観的にオリエントを概観することをも可能にした。オリエントについての言説を生み出すオリエンタリストは、客観的にオリエントを見て語ることができるから、オリエントに代わって表象してやるという論理をもっていた。オリエンタリストの視点は客観的というよりむしろ、それまでに積み重ねられていた学問的なオリエンタリズムによるオリエントに関する知識によって形成された文化的フィルターを通したひとつの視点であったのだが。ともかく、このような視点が、植民地主義の時代のヨーロッパの圧倒的な権力を握ることによって絶対化され、オリエントをオリエント化することを支えてきたのである。
このようにオリエンタリズムを捉えると、それは認識論的側面・政治的側面の相互作用と相互依存の関係から成り立っていると考えられる。オリエントというものを本質的に決めつけ、その本質主義的な認識枠でもって他者を圧倒するというこの仕組みは、「近代特有の政治的テクノロジー」(小田1997:820)そのものだということだ。この近代特有の政治的テクノロジーというのは、人間を人種や民族などに分類、固定してそれを本質に基づいて分類されているように認識させる方法である。それはベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体」と言っている近代国民国家の特徴で、もともとの民族分節が境界の揺れ動くぼんやりしたものであるのに対して、人間を明確に区切って分けられた枠の中に閉じ込めようとするものだとされている(アンダーソン1997、小田1995:23)。
サイードは、オリエンタリズムの思考方法にある「東洋」と「西洋」、「我々」と「彼ら」のような二項対立的区別、そしてそこから生まれる異文化、人種、宗教、文明といった概念に疑問を投げかけている。このことから、サイードがオリエンタリズム批判によって提起した問題とは、人種、民族、国民などに人間を所属させる思考体系そのものとだと考えることができる。「近代の政治テクノロジー」への疑問である。また、民族だけにかぎらず、「近代の人間分節観」には、明確にひかれた境界内部の者は均質な同類であり、境界の外をまったくの他者であると設定する「類化のマジック」がはたらいているという(松田1992:29)。このマジックが、サイードの疑問視する二項対立的区分を強調し、その差異は本質的なものだとされるのが「近代の政治テクノロジー」だ。
ところで、サイードはオリエンタリズムの基盤として西洋の強大な力を強調していたが、それは単なる物理的な力だけではなく、「西洋文化のディスクール言説の力」、「文化的支配」(サイード1993上:66)であって、オリエンタリズムの観念が当の東洋人の上にも影響を及ぼしていることを指摘している。西洋はオリエンタリズムの思考方法でオリエントを自己に対置させ、自らのアイデンティティを獲得したのだが、オリエントの側の人々のアイデンティティをも形成するのである。そして、オリエントの人々にもオリエンタリズムの考え方が用いられることを危惧し、オクシデンタリズムを否定している。オクシデンタリズムは、オリエントの人々が、自己のアイデンティティを西洋に対置させて西洋に対抗したり排除しようとするものだが、その中味は西洋から与えられたイメージや属性から成っていることもある。このように、自分自身や他人を人種や民族、文化、イデオロギーなどでとらえる思考体系とそれを実体化させる仕組みをもつオリエンタリズムは、近代特有ものであるとして批判され、サイードは、それに代わりうる人間のとらえかたを問う必要があると問題を呈している。
ところが、こうして本質主義を批判しているサイード自身の論点が、本質主義的だという批判もある。それは、サイードが『オリエンタリズム』のなかで、「あるがままのオリエント」、「本当のオリエント」、「真のオリエント」などと言及している点においてまず指摘される。オリエンタリストがオリエントとして語った像は、彼らのオリエントに対するステレオタイプや偏見によって大きく歪められており、「真正の」オリエントのあり方とは異なるものだと述べる部分がいたるところに見られる。この点からサイードはオリエンタリストを非難しているのだとすると、そのように「真正の」オリエントを設定しているサイード自身も本質主義だと批判することができる。さらに、サイードのオリエンタリズム批判は、支配者・加害者である西洋に対する被支配者・被害者オリエントの立場からなされた政治的な弾劾だとも読み取られる(彌永1988:23)。しかしそのような弾劾はサイード自身が否定したところのオクシデンタリズムに陥ってしまっていることになり、「西洋」・「東洋」といった二分法を否定しているはずなのに、かえって強化してしまっている。こうしたサイ―ド自身における矛盾が指摘されている。
だが、サイードは「我々は異文化をいかにして表象することができるのか。異文化とは何なのか。ひとつのはっきりした文化(人種、宗教、文明)という概念は有益なものであるのかどうか。」(サイード1993下:281)と問い、本質主義を否定する立場にあると思われる。オリエンタリストが「あるがままのオリエント」を描いていないという、他者表象への可能性だけでなく、文化や人種などによる概念で人間をとらえること自体にサイードは疑問符をつけている。だから、サイードがオリエンタリズム批判によって提起した問題の重要性は認められるけれども方法論的に混乱していると指摘されやすいことについて、サイードが本質主義的に「真正の」オリエントを想定しているとは断言できないのではないだろうか。なぜなら、サイードはオリエンタリズム批判の目的は、オリエンタリズムとオリエントとが合致していないことや、本当のオリエントの存在を示唆しようというものではないと幾度と述べている。それなのにオリエンタリストたちの言説が「あるがままのオリエント」ではないことを多くの例をあげて繰り返し指摘するのは、「真正の」オリエントを提示するためや、西洋人には「真正の」オリエントをわかりえないと言うためではなく、「オリエント」というもの自体が言説によってつくられてできた実体なのだということを主張するがゆえであろう。小田のいうように、「『真のオリエント』が本質として実在すると主張しているのは、オリエンタリストたちであってサイードではない。」(1996:823)のである。すると、「オリエントが本質的に符合する現実をもたない観念、あるいはつくられた想念であった、などと断定してはならない。」(サイード1993上:25)というような、明らかに本質主義のようにとれる発言も、オリエントが西洋に内在し、その身代わりとして存在するとの前述をうけていることを考えると、オリエンタリストたちの本質主義を指摘するためだと考えられよう。サイードが問題にしているのは「真正の」オリエントの存在の有無ではなく、オリエンタリストたちの語ったオリエントというのが、何もないところにオリエントというものを作り上げたというよりも、西洋内部でのオリエントについてのイメージや型にはまった観念であったということにおいてオリエンタリズムなのだと言うためであろう。そしてやはり、「ある地理的空間に固有の宗教・文化・民族的本質にもとづいて定義しうるような、土着の、根本的に他と『異なった』住民が住む地理的空間というものが存在するという考え方が、やはりきわめて議論の余地のある観念である…。」(サイード1993下:273)と、本質主義には対抗している。だから、「オリエンタリズムに対する解答がオクシデンタリズムではない」(サイード1993下:286)ともはっきり述べて、被支配者の側でもオリエンタリズム的思考の構造を持つことは認めない。ということは、サイードは支配者・加害者として西洋を弾劾しているのでもないのである。しかし確かに、サイード自身の少年期のパレスチナとエジプトでの植民地経験が、オリエントというときにアラブ、イスラム的なものに集中させているということも感じられる。アラブおよびイスラム世界が歴史的に西洋にとってのオリエントを代表してきたためとはいうが、それに限定した研究でオリエンタリズムを論じることは飛躍があるし一般化しすぎだと言える(彌永1988:23−24)。これについて吉岡は、19世紀の西洋のブラック・アフリカ世界への視点、太平洋地域への西洋の視点が、サイードが批判した西洋のイスラム世界への対応とは異なることを指摘している(吉岡2000:14−15)。西洋の他者への視点の多様性にもかかわらずオリエンタリズムという概念でひとくくりにしてしまうことから、支配者・加害者たる西洋の弾劾だと読まれうるのだろう。
このようにサイードのオリエンタリズム批判は、自己矛盾が指摘されることもあるが、結局その主張するところの重要さは変わらないはずである。人間を人種や民族といった枠組みに閉じ込める本質主義的な考え方を適用することへの問題提起である。本質に閉じこめるという本質主義が近代的な人間分節の特徴だが、この問題は、まさにその文化や民族というものを研究対象にしている人類学にとっても重要な問題だと考えられる。
2、オリエンタリズムと人類学
サイードは人類学をオリエンタリズムとともに批判したわけではないのだが、人類学者たちはそれを人類学の問題としても受け止めた。人類学は、サイードが問題にした異文化、民族を研究対象にするからだ。
19世紀半ばに近代学術として成立した人類学は、その時代の進化主義的な考えにもとづく啓蒙思想の性格を受け継ぎ、植民地の「野蛮」人の姿に秩序と高貴さのロマン化されたイメージを見ていた(清水1996)。機能主義以前の進化主義的な人類学においては、進化の段階の低い「野蛮」人を研究することで自己の中の「野蛮」の残存を認め排除するという動機があり(春日1991:65)、まさにオリエンタリズム的だといえる。対象とされた人々は、本質的に西洋とは違うどころか劣った者として、西洋人と同じ人間としても見られていなかった。ところが、マリノフスキーが出て人類学に新しい方法が生まれ、そのような学問姿勢に異議が唱えられることになる。フィールド・ワークに出て、現地の人々と同じ視点で生活することによって初めて、彼らの世界観や価値観を理解することができるという新たな方法である。人類学者は、現地の人の立場から見た見方もできると同時に、客観的な視点をも持つという立場を獲得したと信じられてきた。そして新たな方法論のスローガン「現地の人々の視点から」のもと、人類学者は、彼らの視点に立てば彼らなりの世界観が理解でき、彼らのやり方は野蛮で劣っているのではなく価値があるものだと言うことができた。こう言うことで、異文化にある他者を野蛮人と一方的に決めつけることを否定したのである。それはいまだ進化主義的な考え方で、非西洋の社会を見下していた時代の一歩先にあり、西洋中心的に世界を支配しようとする動きに物申すものであった。その人類学がオリエンタリズム批判の対象になったのはなぜだろうか。
植民地支配の経験、西洋文化との接触に始まる近代化、グローバル化という現在も続く異文化接触の世界のなかで、人類学者のフィールドの社会も当然変化していっていた。ところが、その状況を人類学者は「純粋な文化」が消滅していく危機だと感じた。そして、フィールド・ワークに出て民族誌を書くという人類学者の仕事は、「純粋な文化」を記述するという目的を持っていた。人類学者は、フィールド・ワークで研究対象の社会に入り込み、現地の人々と同じ視点に立ってその文化を見ることができるが、同時に客観的にも見ることが可能なので、その文化の変化に気付くことができると考えられていたからである。そして、西洋文化の影響を受けて変化する以前の状態を「純粋な文化」と認定し、変化してしまったものを汚染されたもののように扱ったのだ。人類学者はいかにもとの「純粋な文化」を民族誌に再現できるかに腐心し、変化していないものに関しても、汚染され「純粋な文化」が消滅してしまう前に書き残そうという考え方で対象社会に向かっていた(山下1998:144)。その考え方には西洋人のロマン主義的な「純粋な文化」へのあこがれが入っており、近代化のような変化に対し、独特の「純粋な文化」が失われ西洋と同じになってしまうという危機感になったと考えられる。
そのような態度で描かれた民族誌には、外部の社会と切り離された自己完結的な社会の、純粋で本質的な文化が想定されてある。それが民族誌的現在と言われることで、民族誌に描かれたその社会の「純粋な文化」が現在も変わらず存在しているかのようになってしまう。実際は刻々と変化を遂げているのにもかかわらずである。さらに、民族誌的リアリズムと呼ばれる「民族誌には異文化の現実が正確にしかも全体的に表象されている」(杉島1995:200)という人類学者の主張が、民族誌に描かれたことがその社会の現実の姿とされることを強化していた。人類学者が現地の人と同じ立場にありながらも客観的に対象社会を観察できるとの考えによって、民族誌に描かれていることが現地の真実の姿だと言うことを可能にし、独特の文化を永遠に保っている民族の姿を西洋世界に想像させるようになったのである。
これは、西洋人と植民地、人類学者と研究対象の社会という、語る側と語られる側が固定された権威の問題でもある。 人類学者は語る側としての権威をもっている。植民地主義の時代の西洋のつよい権力がそれを保障していた。人類学者が「現地の人々」を表象つまり代弁できるという意識が「現地の人々の視点から」というスローガンになり、「逆説的にも、現地の人々からの『自己表象の権利』請求を隠蔽」(太田1997:11)することになってしまうのだ。「純粋な文化」が消えてなくなってしまう前に民族誌に書き留めておこうというような態度は、文化が新たに生成されていくものと前向きな捉え方をせず、「現地の人々」の創造性を否定するものになってしまう(太田1993:477)。そして、民族誌を書くことは消滅しつつある文化を救出することだという信念は、その対象社会の人々をみずから表象することができない受動的な人々とし、だから人類学者が代弁するという考えに結びつく。人類学者には純粋な文化がなくなる前に書き残そうという動機があったため、新たな文化を創造していく現地の人々は「純粋な文化」を失っていくだけと見られてしまったうえに、人類学者が現地の人々を代弁していると言うことによって、現地の人々の声は資料として以上には認められなかったのである。非西洋の人々には主体性が認められてこなかったのだ。
そうして描かれる民族誌は、現地の人々の主体的な語りを排し、彼らを代弁できることになっている人類学者のみが語るという権威から成り立っているといえる。それは、人類学者の声のみが真実を語っていると考える「単声的」な権威による民族誌ともいえる。この民族誌の「単声的」な権威を崩そうと、ポストモダン人類学者たちは新たな形式の民族誌を模索している。たとえば、「対話主義」という方法論がある。フィールドにおける「現地の人々」との対話や身体的相互性を重視し、それを情報を得るための手段としてだけではなく、民族誌のなかにその住民の声を明細に再現しようとする方法論で、「多声的」な試みとして評価されているものである(小田1997:830)。しかし、それでもフィールドで交わされたすべての会話が記述されるわけではなく、民族誌を書くのは人類学者であるという権威はなくならない。
杉島は、対話法や多声法は単声的な権威の希薄化を目的とし、単声的な権威の完全な破棄をめざしているわけではないと言っている。そして、民族誌的リアリズムの単声的な権威を消失させるためには、「表象の概念にもとづくリアリズム=実在論を民族誌的研究から放逐」(杉島1995:208)しなければならないと主張する。杉島の言うリアリズムとは、「現実をあるがままに表象している」(杉島1995:197)という意味である。そのリアリズムを捨てるということは、民族誌は現実をあるがまま描いた真理であると主張することをやめるということになる。すると、人類学者のみが真実を語りうるという単声的な権威は消失する。ということは、人類学者が「現地の人々の視点」も客観的な視点も持っている、という大前提を否定し、人類学者自身のおかれている社会的状況に結びついた視点と解釈によることを認めなければならないということになる。そしてその結果、民族誌的研究にパラダイムの喪失状態をもたらし、個人の思想にもとづいて研究が行われていくことになるのだという。民族誌的研究の目的として提示すべき思想が、政治的であったり、科学的な中立性にかけていたり、趣味的に見えようともかまわないというのだ。あるいは、どのような思想がふさわしいかを見通すことはできないという。
これは、つまるところ、なんでもありになってしまうということではないのか。現実をありのまま正しく表象するなどということは不可能で、すべては解釈にすぎないのだから、どんな解釈を述べてもよいという開き直りのようになってしまわないか。「どのような思想がふさわしいかを見通すことができない」ことになるのは、やはりなんらかの基準がないとなんでもありになってしまうということで、結局は絶対的な正しさの基準を必要としているようだ。リアリズムを放棄することで、人類学者の語りにおかれていた絶対的な正しさをも捨て去るという杉島の意図であったが、絶対的な正しさは消えず、どこかわからないところに残っているかのようだ。
小田は、「いく通りもありうる現実やその表象を認めず、客観的・全体的・実体的な現実が唯一の現実であると主張」するようなリアリズムを批判している。そのようなリアリズムは「現実の存在やその表象を認めれば反リアリズムではなく、反リアリズムでなければリアリズムだという二者択一的対立を作り出す」ことになる(小田1996:833)と言って杉島の論を批判している。この小田の立場では、すべての「正しい表象」が「唯一の正しい表象」として主張するのがリアリズムではないと考えられている。杉島の主張するように、「全知の神のごとき人類学者の声が住民の声を支配し、圧倒している」民族誌の単声的な権威はオリエンタリズムにつうじるものであり、否定されるべきである。しかしそれは、現実を正しく表象していると主張するリアリズムを放棄することによるのではなく、「正しい表象はひとつに収束する」(杉島1995:207)という想定から離れることによるのではないだろうか。人間の認識とはかならずある解釈であるから現実を正しく表象することができないのに、政治的な権力の不平等のおかげで人類学者の解釈が「唯一の正しい表象」になりえたということの問題は、「現実を正しく表象していない」のに「正しい」としたその現実と表象との符号関係にあるのではなく、「唯一の正しい表象」という想定自体にあるのである。
唯一の正しい表象というのは本質主義的な考えである。これがまず問題だとすると、近代の政治テクノロジーのように、人間分節に絶対的な本質をつけて固定するやり方も同様に問題であると言うことができるだろう。近代のものの考え方は首尾一貫していて、本質主義的な表象をおこない、しかもそれは唯一の正しい表象だとするからだ。ということは、サイードがオリエンタリズム批判で提起した、文化や民族といった人間の分類方法自体への疑問というのが人類学においても重要な問題であると考えられるということだ。オリエンタリズム批判をうけて人類学は、文化や民族、性別、イデオロギーといった属性を人間の本質的なもののようにして捉えるやり方自体を問う必要があるのではないだろうか。
他者を民族や文化で分類して捉えるというのは人類学の研究の根本のところである。しかし、実際は他者表象をおこなおうとするなら他者をなんらかの認識のための枠組みでとらえることは必要である。このように他者を規定するということは本質主義的であるのだが、人類学者による表象が唯一の正しい表象であってはならないのである。また、その民族誌的権威の問題は学問内での論争となっただけではなく、植民地後の世界で植民地であった地域の「現地の人々」サイドからの批判としてもあがってきている。権力的に下におかれてきたため自己表象の権利がなかったという政治的な批判であるが、だからといってその人々が自己表象の権利を回復して済むことではない。このポストコロニアル状況では、文化や民族という枠組みを用いて自己表象、他者表象を行なうことが人類学者の、または西洋だけの問題ではなくなったのである。
3、現地からの語りと本質主義批判・政治的批判
民族誌的権威に対して、現地の人々からの異議申し立てが出てきている。脱植民地運動のなかで現地の学者や民族主義者たちは、自分たちの文化についての語りを始めながら、人類学者がその語りを独占してきたこと、そして人類学的研究が植民地主義の権力とかかわりをもっているのに無自覚な状態でおこなわれてきたことを非難している。植民地以後の時代、研究対象となり語られる側であった人々がみずからについて語ろうとしだすようになり、文化についての語りが西洋の特権ではなくなった(太田1997:198)。この状況を、太田はポストコロニアル状況と呼んでいる。問題は、脱植民地化をめざす民族主義運動や土着主義運動などのように、その「現地の人々」の自己の語りが、これまでにオリエンタリズムとして批判されてきたような本質主義的な言説によってたっているということである。
これまで本質主義が批判されてきたのは、文化というものは常に創り出され続けているものであると考え「純粋な文化」を指向してきた従来の人類学を批判する考え方によっている。文化が常に創り出されているというのは、現在われわれが接することが出来る文化というものは本質的なものではなく、異文化接触による内外の要素の融合や、新たな創出という意味で構築されたものだという考えである(前川1997:619)。その文化を創り出しているのは、ほかでもないその文化のなかで生きている人々である。だから、他者を永遠に変わらない「純粋な文化」を保ち続ける者として描くことによって、描かれる人々が主体的に文化を取捨選択し創造していくという視点を排除してしまう点が指摘されたのだった。現地の人々の主体性を消し去ってしまう語りへとつながる「純粋な文化」を想定した本質主義が批判されてきたのだ。
ところが、描かれてきた人々も語るようになる。それまで支配され声をあげることのできない状況にあった人々がその支配の不当性を主張するには、彼ら独自の文化や民族性というものを根拠にすることが常套手段だった。彼らが自己の文化や民族性を昔から保ってきた純粋で本質的なものだと主張するとき、どう扱われたのか。
純粋に本質主義を否定していく論理で考えると、「現地の人々」の語ったことであろうと本質主義的な語り方はオリエンタリズムと同じ仕組みのオクシデンタリズムだとして批判されうる。現地の人々がアイデンティティの拠り所にしている民族意識は、実は、西洋が彼らを支配するために押しつけた表現形式であることが多いのだ。その押しつけられたものを自然で説得力のあるものに見せるために「彼ら固有の文化」とか「伝統文化」という言い方になる。しかし、抑圧してきた西洋に対抗するために問題の西洋の方法と同じ道具を使っても、西洋を批判する論拠としての本質主義を乗り越えられないばかりか、西洋がつくりだした境界線をより深めてしまうことになる。西洋が支配の口実として支配されるべき人々に与えた枠組みを、与えられた人々の側も使うことで絶対的なものにされてしまうのである。こう考えると、誰が語ろうと本質主義は排せられなければならないということになる。現地の民族主義者たちの用いる言いまわしにみられる自民族の特殊性や文化、伝統という本質主義的に語られているものも、創り出されたもので本質などではないと指摘して批判するべきだということになる。
しかし、このような非本質主義の徹底した論には反論がある。それまで不可能だった現地の人からの語りを再び認めなくすることへの政治的な反論だ。「外部の、その地域を植民地化した側の研究者が、民族主義者による伝統の発明=捏造を指摘するということからくる政治性に気づかずにいるという政治的な素朴さ」(小田1997:845)への批判である。表象するという行為と政治性の問題について太田(1997:25)は「人類学が直面している問題は『本質主義かあるいは非本質主義か』などという論理の問題ではなく、その問題がつねに『発話のポジション』と不可分である」と言っている。「発話のポジション」への配慮が必要だとも言っており、それが政治性との関わりを重要視するということになるだろう。「発話のポジション」に注意し政治的な位置関係を考慮することで、語られてきた人々に文化を創造する力をみいだそうとしているのだ。そして、その語り自体を人類学者が描く対象として語り手から切断せず、自己表象する場へとつなげようとすることが、オリエンタリズム批判のなかで人類学を再考する一つの方策だとしている(太田1993a)。これまで研究対象となるばかりで語る権利を持たされていなかった非西洋の人々の声を、資料としてではなしに表象として認めようというのは、人類学の自己批判の結果として出て当然のことだろう。
だが、政治的な基準だけで同じように本質主義的な語りを認めたり否定したりすることができるだろうか。「現地の人々の立場から」というのは認識論的にもあやしいし権威的だとも批判されはしたが、人類学者はそれを重視し守ろうとしてきたというのが本来の意図であるから、被抑圧者としての「現地の人々」から政治的な指摘をされると、批判してきた本質主義的な主張でも退けることができないということがある。すると、権力の側にある者が他者を語るとオリエンタリズムだと非難され、下の地位にあったものがみずからを語ることには何も言えないことになる。それでは語るということの権利が逆転しただけで、誰かが独占していることに変わりはない。
また、「現地の人々」からの語りと言うが、その「現地の人々」という枠組みや、被支配者、被抑圧者といった分類も明確ではないと思われる。西洋に対する非西洋、植民地と被植民地といった漠然とした区分があるだけである。小田は、近代日本が創り出した天皇制やナチス・ドイツが創り上げたアーリア神話のような本質主義の語りや、ユダヤ人の語りを例に挙げて「政治的正しさ」という基準の限界を示している(小田1997:842‐843)。日本の天皇制やドイツのアーリア神話は、それぞれの帝国主義を正当化する語りであったのにもかかわらず「現地の人々」による伝統の創造だということで批判できなくなってしまいかねない。「現地の人々」による伝統の創造の語りを擁護するという考えが抑圧者の側に立つことの楯にもなったのである。また、ユダヤ人はナチス・ドイツにおける「ホロコースト」の被害者であるのだが、その被害者の語りがイスラエルという国民国家を成立させ、パレスチナ問題につながっているとも言える。パレスチナ問題ではユダヤ人が被害者になることも加害者になることもありえ、その場合は政治性をどう判断すればよいのかわからなくなってしまう。「支配−被支配の関係はとりあげる項の設定の仕方で変化する」(吉岡2000:839)と言うことができるので、「現地の人々」からの語りへの対応を政治性によって判断することはできないだろう。
さらに、「現地の人々」としてひとくくりにされた人々の多様性も無視することはできない。今まで「現地の人々による語り」と言ってきたものは、脱植民地運動などで自民族の文化を主張する民族主義者、ネイティヴのエリートといわれる人々のものである。政治性を強調するあまりに「現地の人々」一般を想像してしまうようなことにもなってしまう。
このような問題があるため、政治的な「発話のポジション」を考慮して現地からの語りを評価しようということは難しそうである。「現地の人々による語り」が、現地のエリートたちの語りだということを考えると、なおさらである。彼らの語りはオクシデンタリズム的であるし、「現地の人々」の多くはかれらエリートに代弁されているのだ。やはり、オリエンタリズムから人類学にもつうじる問題として、近代的なものの考え方が疑問視されているのであるから、非本質主義のように、オクシデンタリズムの本質主義は批判すべきではあろう。
植民地化という特殊な場合を考えてみるとよりはっきりする。植民地化とは、通常の異文化接触とは異なり隔絶した力関係が外部からの影響を取捨選択する余地を残さない一方的な作用を生み出すものだと言える(吉岡2000:19)。植民地化は通常の異文化接触と同じように捉えることはできないということだ。圧倒的な力をもってせまる植民地化という異文化接触による文化の変化は、抑圧や押しつけの大きいなかで文化が組み立てられた結果である。そして、植民地化というのは圧倒的な力の差だけでなく、植民地化による異文化接触後の文化の変化を、近代化と言うことができるという点でも特徴的であろう。この近代化は、物質的な面だけでなく近代の国民国家を想像させるものの考え方、知のあり方においてもいえることである。その知のあり方としての近代化のなかに、追及すべきオクシデンタリズムがあったと言えるのではないか。
民族やその民族に固有の文化という語り方は、近代的な国民国家の存在を正当化する近代特有の政治テクノロジーだと言われているということは何度か述べてきた。それは、オリエンタリズムに見られた「オリエント的停滞」「オリエント的非合理性」というような紋切り型の言説と同様の「・・・な〜人」という固定観念をその枠内の人々の本質としてしまう近代的な考え方である。現地の人々の自己への語りも本質主義的であるのは、植民地経験を経て近代的な思考方法が入ってきたからである。ある性質を、文化なり人間分節に当て、本質として固定し首尾一貫させる近代のやり方を批判するために、非本質主義は必要である。本質主義として批判されることの何が問題なのかを確認しておくが、本質主義は近代の政治テクノロジーとして用いられるというところに問題があるのである。近代の思考方法による表象は、本質とされたものを絶対的なものに固定化してしまい、首尾一貫して矛盾のないものになっているために、ほかの語りを認めない。これが「唯一の正しい表象」を想定してしまうものなのである。
4、近代知への抵抗実践
オリエンタリズム批判と人類学批判の根拠である本質主義と権威の問題を考えるとき、植民地主義の言説であったオリエンタリズムの問題性が現代においても重大であるということは、現代社会にも植民地主義が生き続けているということである(関根1997:309)。
植民地と宗主国はなくなっても、植民地的なイデオロギーと構造をひきずっているのである。人類学者が権威をもって現地の人々を本質主義的に規定し代弁してきたという問題が、まさにそのひきずってきたものであった。それが現地の人々自身に自己表象させないように働いていたのだが、それへの反省として、現地の人々の主体性をもっと見ていこうということになる。しかしこの主体性というとき、植民地化された土地の現地の人々の主体性とは、抑圧と強制のもとでおこなわれた主体性であり、通常の異文化接触を経験して文化をつくっていく主体性とは違うものだということはまず断っておかねばならないことである。主体性というあまりに、植民地での強者と弱者の厳然たる区別を見えなくなってしまわないようにするための但し書きである(松田1997:281)。
強者と弱者の境界がはっきりと引かれても、支配する側もされる側も、その内部においてけっして一枚岩的な存在ではなかったということも念頭におく必要がある。植民地に渡ったヨーロッパ人にしても、様々な地位や出身階層の者がいた。植民地を、たんに経済的利益をあげる場とみなしている人もいれば、「文明化」の使命に燃える人もいるというように、植民地への意識も異なっていたという。支配される側の方にも、学校教育を受けた者/受けない者、キリスト教に改宗した者/しない者、都市居住者/地方居住者など様々な人が含まれ、それぞれ異なる植民地経験をしただろうと考えられる。植民地行政府の下級官吏や警官、兵士として、支配する側の末端に組み込まれる者もいた。植民地支配に対する抵抗者はもちろんいたが、それだけでなく協力者もいたという。個人が状況によって抵抗者と協力者を使い分けることもあったようだ(栗本・井野瀬1999:14)。従来強制的奴隷労働と見なされてきた出稼ぎ賃労働を「より良き生活」を求める生活戦略として自発的におこなった者もいたという指摘もある(松田1997:279)。このように、ひとくちに支配される側といわれる人たちの内部の多様性に着目することによって、彼らを抑圧されるままのまったく受動的な悲劇の被害者というようなイメージにおしこめてしまうオリエンタリズム的な想像を避けようという視点がある。被抑圧者といっても、まったくの受動態なのではないということを強調する立場は、植民地化への抵抗に視点を合わせるが、その抵抗の形態にも「組織的な武力闘争から、個人レベルのサボタージュや面従腹背までさまざまであった」(栗本・井野瀬1999:14)ことを指摘することができる。植民地化されたことに対して、近代的にナショナリズムを掲げた独立運動だけが現地人の抵抗のあらわれなのではなく、組織化されない個人個人の行ないでも植民地支配に打撃を与えうる抵抗のかたちだということもできるのだ。もちろん、現地の人々の多くには植民地支配の力を敢然と拒絶したり、自分自身の生を営む世界を自力で決定したりすることは不可能な選択であった。そのような状況で、現地の人々はときには嫌々ながら、ときにはすすんで、またときには彼らなりの理屈をつけて、その外部から押しつけられた選択をなんとかこなして生きていた(松田1999:199)。このような意味での「弱者の主体性」や「植民地支配という「暴力的経験」の敗者がおこなう創造」(松田1997:281)に注目することが提案されている。
この「弱者の主体性」に注目する視点は、支配する側、される側を一様に表すことを否定するかわりにその内部の多様性を指摘するだけではない。その多様性が、階級や性別などの同一性でもって線引きされ代表されるようでは、固定的な近代的枠組みが複数形になっただけのことである(小田1996:846)。そうではなく、「弱者の主体性」に注目するという視点は、支配される側の多様な民衆が行なう、些細で個人的な実践に重要な意味を見出したのである。普通の人びとの普通の生活のなかでの行動を新たな抵抗像として評価したのだ。何らかのスローガンのもと組織化された抵抗とは異なり、生活の場で行なわれるそれは、非組織的で日和見で、支配権力とも共存するもので、捉えきれない新たな抵抗だとされた。たとえば、労働者たちがストライキやデモを組織するのではなくて、わざとゆっくり行動したり怠けたり、故郷へ逃散したりすることも、じゅうぶんに支配者側に打撃を与えたということで、抑圧されたものによる抵抗だと言えると考えられるのだ。この抵抗は、支配者側への反抗的な態度ばかりではない。松田は、アフリカを例にあげ、植民地化によってキリスト教が強制的に受容させられたが、土着の信仰などと混交させ、キリスト教が変質させられアフリカ化させられる動きをも抵抗実践であるとしている(松田1997:298)。キリスト教が土着化していくこのような事例は、ほかのアジア・アフリカの小社会に受容される過程でも起こっているが、それは「適応」と言い表されるなかに「圧倒的強者に対して弱者が行う文化実践」(松田1997:298)という意味を持たせることも可能だといえるだろう。そしてこの実践に、「弱者の主体性」と抵抗の可能性を見いだすことができるのである。
このように捉えられる「抵抗」とは、意識的に自覚して抵抗しようとしているのではないものをも含んでいる。「生活の場で支配文化から押しつけられた法や意味をそのまま受容し、それに従っているようにみえる普通の人びとの受容の仕方」(小田1997:199)そのものにも抵抗という意味を見いだしているのである。仕事をゆっくりするのも、押しつけられたキリスト教の内容を変えてしまいながら受容するのも、結果的に抵抗としての意味をもったということであろう。
このようにして無意識の行動をもわざわざ抵抗と呼ぶのは、それが支配者側の論理、つまり近代のオリエンタリズム的な思考に対する抵抗になりえるという考えられるからだ。
この無意識の抵抗は、セルトーのいうところの「戦術」とつうじるところがあると思われる。セルトーの「戦術」とは、政治や経済、科学における合理性の基盤となる「戦略」、つまり境界線をひいて枠組みを固定するオリエンタリズムの考え方とは異なる考え方として指し示されている。「戦術」は、「いい機会だとおもえば、さっそくそこでさまざまに異なる要素をいろんなふうに組み合わせる」(セルトー1987:26)やり方である。スペインに植民地化されたインディオたちが、押しつけられた法や実践や表象を受けいれながら内実利用していたそのやりかたを例とし、そのように「自分の外にあるものをたえず利用しなければならない」弱者のやりかたや、「「エリート」たちが普及させる文化を「民衆」層がつかう使いみち」(セルトー1987:94)を「戦術」的なものと言っている。「弱者」と言われる者は、権力者や現実、体制の暴力といった「強者」を相手にする者で、「消費者」と言い表されてもいる。そしてその「戦術」は、われわれのたいていの日常的な実践のなかでおこなわれているものだとされている。
さらにまた、普通の人々の生活のなかでみられる文化のあり方が「ブリコラージュ的」であるという考えにもつうじるといえる。小田は、普通の人びとの生活の場における文化のあり方とは、一貫していない「断片」をモザイク状にちぐはぐに繋いでできるようなものだとしている(小田1998:475)。そういう、様々な「断片」からちぐはぐにではあるが、その時々に必要なものをそれなりにつくって正当性をもたせてしまうプロセスが「ブリコラージュ的」だといえるのだろう。先に触れた「弱者の主体性」や「敗者がおこなう創造」のように、押しつけられた文化でもなんとか自分たちの文化としてしまうやり方が「ブリコラージュ的」なのである。そしてそのあり方は、アイデンティティを民族や階級や性別などひとつの同一性に結びつけ、しかもそれが生得的な結びつきであるかのように首尾一貫した自然なものに見せる近代以降のオリエンタリズム的な考え方に、抗するものだと考えられる(小田1996:848)。
こうして、無意識の抵抗が重視されるようになった。押しつけられた状況でも論理的に筋をとおすことなどには無関心に、臨機応変に都合よくやっていけばなんとかなっているという状態が、近代的な知のあり方とはまた別の賢いやり方だといえるからだ。それは、抑圧された者の知恵であり、われわれの日常生活でも使っている知恵であった。そして、近代的な知のあり方とは異なる、「戦術的」で「ブリコラージュ的」であるかぎりにおいて、本質主義を利用するのもひとつの手だという認識が可能になる。それが、「戦術的リアリズム」(松田1996:38)や「戦略的本質主義」(古谷1996:274)などと呼ばれるものである。
松田は、「本質主義の危うさを十全に認識しながら、暫定的にそれを活用するという戦術的リアリズム」(松田1996:38)を評価している。ここで採用される本質主義は、そういう本質として固定されてある現実において、そう措定した方が都合がよいからその本質主義を利用するという戦法である。オリエンタリズムの、他者を、自己を、ひとつの場所に縛りつける本質主義とは異なる、暫定的な本質主義である。
古谷も、アマゾンのインディオの実践について述べるなかで、インディオが自らを「野蛮な戦士」や「天性のエコロジスト」として本質主義的に提示することを暫定的な本質主義として、その戦略としての意義を重視している。抑圧され差別されている人々が異種混淆的な戦略を実践するなかで、本質主義もそのために利用しうるという認識である(古谷1996:277)。この本質主義は、戦略として暫定的なものであるからよいのであって、「それを究極的・永続的な戦略として固定化するのならば、それは、また抑圧的に働くことになるだろう。」と釘をさしてある。これは、弱者の主体的な自己表象であるとして抑圧された側の本質主義を無批判に認めることにならないようにするためである。オクシデンタリズムの本質主義と戦略的本質主義は違うということである。自分たちの文化の固有性や独立の正当性を主張するという目的をもってしまうと、支配者側の近代的な論理を同じように用いなければ通用しない。自分たちに資するようにと、都合よく戦略として用い始めたものだったとしても、一貫した全体化された論理になってしまえば、もはやオクシデンタリズムと同じになってしまうのだ。
だが、近代的な知のあり方とは異なる知恵で行われる実践であることが必要とされているのに、戦略として見た目には本質主義を装っているこの抵抗を、どのようにして戦略的なものだと判定するのだろうか。結局、弱者という階層で見分けているのではないかと思わされる。「戦術的リアリズム」や「戦略的本質主義」を評価しながら、「あくまでもどのようなコンテクストにおける誰の戦略なのかが重要なのである。」(古谷1996:275)と言われている部分には、「発話のポジション」を考慮すべきとし、弱者の主体性を否定したくない人類学者の態度が見てとれる。「戦術」が、弱者のおこなう文化実践の特徴であったのだから、「戦術」的であるものを評価することは、弱者の語りを評価することにつながってもおかしくはない。だがその逆、弱者の語りであるならば評価するということにするわけにはいかないだろう。戦略的本質主義は、弱者の実践として評価しうるのではない。しかし、自分たちの都合によいように、と言ったときにそれを正当化するものはやはり「発話の位置」であるように思えてならない。
そこで、同じように押しつけられたものでなんとかやっていく実践でも、日常的な場面でおこなわれている「戦術」的な、生活者の実践の無意識な抵抗に焦点をあてようと思う。その無意識の行動は、抵抗と表現されているとはいえ、主体的に意識して抵抗したり、強烈に従属意識を持っているのではない。その無意識の行動は、「強いて言えば、「「いい加減で、臨機応変」という姿勢を持ちごくありふれた通常の生活を送っている人々」(吉岡2000:30)の日常生活の場面でおこなう文化実践である。もとはといえば、人類学の研究対象としての文化は、このような普通の人々によって生きられる文化だったはずである。もちろんその文化に、創られたものだと真偽の判定をしたり、純粋な文化が失われていくなどと口をはさむ者はもはやいないだろう。
生活の場面で見られる文化実践を最善のものだといっているわけではない。これまで本質主義を批判してきたが、それは本質主義的な語りが排他的であることへの批判であり、その語りの内容を否定するのではない。そして、日常生きられる文化が、疑問視してきた近代の政治テクノロジーに抵抗するものだとして注目するのである。
だが、いくら生活の場で生きられる文化に着目してみても、それを表象しようとすれば代弁になってしまうかもしれない。それは、異なる思考回路で語られるものを、「自分たちの土俵に乗せ」ることになるからである(福井2000:126)。しかし、むりだからといって何もいえないと結論するのは、唯一の正しい語り方を想定するからである。唯一の正しい語り方というものがこの議論をとおして批判してきたものなのである。人類学者という外部の者が表象しなかったとしても、内部の者でも、生活の文化を担う民衆は多様であるため、唯一の正しい表象などというものはありえないのだから。とりあえず、オリエンタリズム批判を斟酌して、普通の人々の生活の場で見られる文化に注目することは、「普通の人々」という枠に分類できる人びと一般の文化として提示するためでも、オリエンタリズムやオクシデンタリズムの本質主義を打破するためというわけでもなく、ただそれが生きられている文化だからであると思う。
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