フレンチ・ポリネシアと太平洋の非核

                     楠本真千




核問題は安全保障・予防外交・原発問題など様々な方面で問題になっているが、今回特に南太平洋での核実験と非核について書こうと思う。まずは序
で実験の現状について述べる。

序章 核実験の実体


 南太平洋で実験を行なったのは周知のとおりアメリカ・イギリス・フランスの三カ国である。どこよりも早く核兵器を保有したのはアメリカで、実にヒロシマ・ナガサキの翌年にもう実験を行なっていた。原爆でとどめを刺され、敗戦後の日本国憲法には第九条が盛り込まれた傍らで、アメリカは太平洋の小さな島に原爆(小倉又は新潟に落とす予定だった三発目と四発目)を投下していった。この事実は落とす側と落とされる側の違いを如実に表しており、また被爆国の日本人にとって太平洋の島民とある種似通った気持ちー核の恐怖とアメリカの行為に対する嫌悪感―を共有できるものである。約20万人の日本人の死を全く尊重していないと思わざるを得ないが、一方この時のアメリカは既に冷戦という新たな戦争に突入していた。戦略的に使用可能な領土を欲しがった旧ソ連とアメリカは千島列島と日本の委任統治領だったミクロネシアを分け合ったという意見もある。(豊下 1998:153)このときに「戦略地域?」ミクロネシアの運命は決まったといわれる。アメリカは1946年からマーシャル諸島のビキニとロンゲラップ島で12年にわたって実験を行なっている。「人口が少なく、かつ移動可能である」と判定された住民160人は200キロ離れたロンゲリック環礁に移され、無人の地となったビキニ環礁はまたたく間に「太平洋核実験場」へと変貌していった。(前田 1998:235)南太平洋初のアメリカ原爆実験「オペレーション・クロスローズ」(太平洋戦争で使い損ねた二発)を皮切りに計67回の核実験がビキニ、エニウェトック両環礁で行なわれたが、その中でも54年の「ブラボー」が特に有名で悪名高いので紹介する。
「ブラボー」は爆発威力が15メガトンの水爆で、これは「オペレーション・クロスローズ」の23キロトンと比べるとその威力は強大で激しいものだった。1954年3月1日午前6時45分点火された水爆は、一瞬のうちに鉄塔を飴のように溶かし、赤と黄色のまじった火球となって膨れ上がり、ゴロゴロという鳴動を伴いながら環礁全体を包んだ。この時爆心地点から東方約5万平方キロの範囲に莫大な量の放射線生成物が降下し、ビキニから東に190キロ離れたロンゲラップ・アイリングナエ・ウトリックの3環礁と、まぐろ漁に従事していた日本の第五福竜丸が「死の灰」をあびた。(前田 1998:246)実験による物理的被害には、環境破壊と人体への被害がある。加えて経済・社会の変化があり、これらを以下3つの項目にわけて述べようと思う。

・ 環境破壊

「ブラボー」の実験後、ロンゲラップ島は3年間閉鎖された。その間アメリカ兵は島民の家と家財道具を焼き払い、あの死の灰も雨に洗われて姿を消したが、海鳥は激減し羽が抜け、空を飛べなくなっていた。ヤシの木は真っ黒に色が変わり、奇形の木が至る所にあったという。陸も海も汚染されていた。3年の避難生活の後帰島したマーシャル人たちは、ヤシやパン、パンダナスなどの実を採り、以前のように魚をとって食べた。その結果帰島後の島民の放射能身体負荷量は急速に増加している。わずか1年でセシウム137は60倍、ストロンチウム90は6倍、亜鉛65は8倍になった。(島田 1994:54)安全だと言われて戻った島で、食物などを通して今度は間接的に放射線を吸収してしまったのである。その後実験当時は被爆していないニューカマ−の間にも放射線障害が見られるようになり、島民たちは住み慣れたこの島を捨てる決意をする。(アメリカ政府はロンゲラップの汚染を認めなかったので、彼らはグリンピースの協力で移住した。)(前田 1998:256)
またビキニ環礁においては水爆はボコグムトン、ボコベータ、ボコネージェンの3つの島を吹き飛ばし、地球上から抹消してしまった。かわりに直径2000メートル、深さ80メートルのすりばち状の巨大なクレーターが残された。(島田 1994・81)
 
人体への被害

 爆弾が殺傷目的で使われたヒロシマ、ナガサキとは異なり、南太平洋では投下された瞬間に人々が死ぬということはなかった。むしろ後遺症でじわじわと苦しみながら死んでいくのである。「死の灰」をあびた人々は異常な炎症・かゆみ・ひどい痛みに襲われた。アメリカに要請した緊急援助を哀れな気持ちで待ちつづけた彼らにできたのは、唯一海でからだを洗うぐらいのことだった。その後AEC(アメリカ原子力委員会)の医師の診断を受けることになった。病状で多いのは白血病・甲状腺ガン・ベータ線火傷などである。(前田 1998:254)
 最近になってアメリカが人体実験を行っていた可能性が指摘されている。そのことははじめに実験場をビキニに設置した理由からもうかがい知れる。ビキニの人々は公害などと無縁な自然環境、比較対照となる血縁関係者の存在、早婚の習慣(世代間の交替を早く観察できる)など、研究者にとって好条件を備えていたから選ばれたのである。73年にミクロネシア議会特別合同委員会がまとめた「ロンゲラップ、ウトリックに対する報告」で、この人体実験容疑の枠組が示されている。
1. なぜ有人島を危険水域の外に置いたのか
2. なぜ住民を事前退避させなかったのか
3. なぜ気象情報を無視したのか
4. なぜ直ちに救出しなかったのか
1については有人島であるラップ環礁が外された実に不自然な形で危険水域が設定されたことを受けている。2については「オペレーション・クロスローズ」時には住民を退避させたにもかかわらず、それより750倍も高威力の「ブラボーショット」時には退避させなかったのはおかしいと指摘している。また4についてはロンゲラップよりも遠い島で防護服とシェルターで保護されていたアメリカの観測班員は翌日救出されているにもかかわらず、より多くの「死の灰」をあびたロンゲラップ住民が救出されたのは51時間後、ウトリック住民に至っては78時間後であったことを糾弾している。アメリカ国内でも、少数民族や精神障害者、犯罪者が放射能人体実験のモルモットにされていた。(前田 1998:249)このような非人道的な行為がまかり通っているのは不幸なことである。このように住民を半ばだますような形で「事前説明は行なった」ということにして、その危険性を教えることなく自らに必要なデータ−のみ集めていたというのは、道義上許されることではない。島民もただ黙ってこの状況に耐えているわけではなかった。1954年にマーシャル諸島の高等学校長がニューヨークの国連本部に請願書を提出するのである。それを受けての信託統治理事会の反応は「深い遺憾の意を表明」するにとどまり、中心人物であったハイニ−はアメリカ政府の逆鱗に触れ、職を解かれ島から追放されたが、この行動は国際世論に大きな影響を与えることとなった。1978年にアメリカ議会は54年に被爆したロンゲラップとウトリックの居住者に総額100万ドル(約2億3000万円)の賠償金を払うことを決めるのである。これは甲状腺に障害を持つ人などに主に支給されている。(前田 98:252)保障を求めていた住民にとって、これはもちろん歓迎すべきことだったし、当然の権利である。しかしこの現金収入が人々の暮らしを大きく変えることとなった。これが次に述べる社会の変化である。
 
・ 社会の変化

核実験がもたらしたものは目に明らかな環境破壊や健康上の被害だけではない。マーシャルでは「自由連合協定」(第1章参照)締結後、86年から15年間でロンゲラップに3750万ドルの保証金が支給されることになり、これは計算すると赤ん坊から老人まで均等に1人月額50ドルを受け取ることになる。国家予算の6割をアメリカに頼っているこの国にはこれといった産業はない。財源はアメリカ政府による援助、クワジェリン基地からはいる土地使用料と基地で働く人の賃金、被爆者への補償から成っているのが現実である。これらの補償・援助は島の生活をすっかり変えてしまった。ほとんどの人が働かなくなり、自給自足の暮らしは姿を消した。スーパーマーケットで買い物をし、車を乗り回すようになった。基地近くのイバイ島ではアメリカの最低賃金制が適応され、他と比べて3倍多く稼げるので人々が集まり、超過密状態になっている。公衆衛生も最低で「太平洋のゲットー」とかつて呼ばれていたという。ここではマーシャルの伝統がすたれ、賭け事やアルコール、自殺が急増し、高価な電機製品や衣類が島民の欲望をそそっている。親戚の内の誰か1人が働いて、その人にすがって食べさせてもらうという有様である。ある老人の語ったところによると、次世代の子供達の価値観も金が中心となり精神的な荒廃は急速に進行しているという。マーシャルではNCT(核補償請求裁定委員会)が島民に補償を分配しているが、その予算もパンク状態になっており、今後の島の生活がどうなるのか不安を抱えている。(島田 1998:180、207、208)
イギリス・フランスの核実験
 以上南太平洋でのアメリカ核実験の現状について述べた。ここで疑問に思うかもしれない。タイトルになっているフレンチ・ポリネシアについての記述が全くないからだ。実のところアメリカに比べてイギリス・フランスの核実験は情報公開がほとんどなされていない。特にイギリスは実質2年間しか太平洋での実験を行なっておらず、詳しい実体を知るのは困難になっている。元来イギリスは戦略的な目的よりむしろ所謂「核クラブ」の一員でありたいという理由で、核を保有しているといわれる。よって実験も21回と、フランスの199回に比べてかなり少ない。しかしだからといって太平洋で何もしなかったわけではない。イギリスの初期の実験場はオーストラリアやモンテ・ぺロ諸島で、先住民のアボリジニが被爆している。先住民は強制的に立ち退かされたが、フォールアウトを浴びており、また人々は注意をうながす看板の英語を読めなかったため、汚染された砂の上でテントを張ったりして暮らしていた。その事実は70年代に入ってから公表され、アボリジニはイギリス政府に訴訟を起こしている。(アレキサンダー 1990:314)
 イギリスと異なりフランスは長期間太平洋で実験を行なっている。場所はファンダガウファ環礁、モルロア環礁で66年から96年までで計199回の実験があった。もともとフランスは核開発に取り組んだのが遅かったので、部分的核実験禁止条約や国連司法裁判所の判決などを無視して強行した。アメリカやイギリスが環礁は脆弱で実験には向かないという理由で、ネバダに実験場を移した後も、太平洋での実験に固執した。国際的な批判を受けての実験だったため、予想される環境汚染や住民被害は植民地当局の厳しい情報統制と立ち入り禁止措置によって、確たる証拠や実体を提示することはできない。フランスの核実験はどのようなものであったか、環境汚染はおそらく他の2国と同じようなものであることが想像できるが、当局と住民との関係についてグリーンピース刊の「モルロアの証言」をもとに見ていこうと思う。住民は半ば強制的に定期的な検査を受けたが、その結果を一切知らされていないので体の不調があっても原因も対処方もわからず、憶測で判断しているような状態である・目に見えてわかる皮膚炎や流産、奇形児、魚毒などの訴えが多い。中でもとりわけ気になるのが重症の人々はタヒチのママオ病院やフランス本土の病院に連れて行かれ、帰ってこない、遺体も返してもらえないという証言である。これからも証拠を残さないための徹底した姿勢が伺える。また、実験について口外したのがばれると仕事を解雇するなどかなり強硬な手段をとっている。(グリンピース 1991:42,158)
 
以上、核実験の現状とそれにまつわる各国の対応について述べたが、その中でも特にフレンチ・ポリネシアに注目するのは、今なおフランスの海外領土であり諸問題がまるでなかったことのように未解決のまま放り出されたままだからである。人体実験疑惑など問題があるにせよ情報公開も少しずつ進み、補償も受けることができるマーシャルの住民とは異なり、イギリス・フランスによる被爆者は被害を受けたことも認められず知らん顔されている。核実験はもう終わったのだから、非核は実現しているのだと考えるならそれは間違いである。放射能の障害は何代も続く病であるし、またそれとは別に新たな問題として放射線廃棄物の海洋投棄問題や、軍艦の入港問題などが起こっている。これについては日本も深く関わっており原子力発電による「核のゴミ」の捨て場所に太平洋を使おうという、政府の正式計画があった。国際法上「公海」に属するのだから、どこの国もやめさせることはできないというのが、その主張であった。結局この時、日本政府とサイパン・グアム・パラオ・キリバスなどの国々がお互いを訪問し、説得するという方法がとられた。日本政府が島民の知性を軽んじるような非科学的で馬鹿げた説明に終始したのに対し、諸国はアメリカから専門家を呼んで安全性について論争するのに充分な準備をしていた。(前田 1991:315)結果日本が計画を断念することとなるが、のちに述べる様々な非核の動きのなかで、フレンチ・ポリネシアは置いてきぼりになっている。もちろんモルロアの核実験が非核運動をより盛り立てることになったが、パラオやバヌアツなどと比べるといささか脆弱な感は否めない。また、最後まで犠牲になったにもかかわらず正式の条約や決議に参加することはかなわず、他国に任せるような形になっている。まだまだ非核への道のりは長く、核問題は決して終わった話ではないのである。住民の声は様々であり現金収入の手段だという見方もある。しかしその大半は中止を求め、人間らしい扱いをされなかったことを呪うものである。南太平洋の非核を実現するためには最後の実験場であったポリネシアの問題を解決する必要がある。問題とはつまり核の犠牲になったにもかかわらず今なお海外領土であり続けており、非核をすすめられないことである。以下の章でそれを検討するのが本論文の目的である。
 
第1章 非核のための独立

 どうすれば核と決別できるかについて考える際に注目したいのが、実験時どの国も海外領土領土ないしは委任統治領だったことである。核保有国にもルールがあって、当たり前のことだが権利の無い所では実験は行なわれない。 そこで脱核実験した例としてアルジェリアを挙げたい。植民地時代に宗主国のフランスはサハラ砂漠で17回の実験を行なっている。62年に独立を果たしてからは、5年間で停止する条約を結んだので、実験する「権利」を失ったフランスは太平洋にやって来たといういきさつがある。この時なぜ完全にやめさせられたか、その理由は「完全独立」だったことにある。終戦前の安全保障理事会で、アメリカがミクロネシアの処置を決める際にどうしても戦略的信託統治領?として「閉鎖区域?」を認めさせることに奔走したことは、逆にいえば手続き上の法的権限というものが大変重要だということを示している。そこで、非核を実現するための手段を探るために、南太平洋の国々と(旧)宗主国の関係に注目してみようと思う。
  現在南太平洋には完全独立国、自由連合、自治領がある。この3つのうちどれに属するかによって宗主国との関係はかなり異なっており、非核に対する姿勢も異なる。それぞれ代表的な国を例にして検討する。
@ 完全独立(フィジー、ソロモン、キリバス、ヴァヌアツ、サモア、トンガ、パプアニューギニア、ツバル、ナウル)
これらの国々に共通しているのは英連邦(イギリス、オーストラリア、ニュージーランド)の支配化にあったことである(ヴァヌアツはフランスとの共同統治)。南太平洋の中で最も早く独立を果たしたのは現サモアで1962年のことである。南太平洋を当時支配していたのは英連邦・アメリカ・フランスだが、植民地の解放については英連邦から始まった。このときなぜ独立させたのかについては以下の理由が挙げられる。
1. 植民地の所有が国力の象徴だった時代から国際的非難の対象となったこと
2. 経済的利益が認められないにもかかわらず、維持経費はかかること
3. 未開発のまま放っておけなくなったこと
いかにも人道的立場から解放したように言いながら、要するに重荷になったというのが実体である。その証拠にパプア・ニューギニアの独立派のリーダーさえ「独立の時期は我々自身が決めるものだ」とオーストラリアに講義している。旧英連邦がなぜミクロネシアよりはやく独立したのかは、英米の植民地観の違いがある。イギリスは南太平洋の植民地を航海上の地点として重要視したが、開発や資源搾取の対象だとは考えなかった。要するに与えられた独立であった。(佐藤 1998:42)
 これら独立国の中ではキリバスのクリスマス島が核実験場として使用されていた。それゆえキリバスは積極的に非核運動を行なっている。当時人口4万人の小さな島だったが、ナウル共和国とともにロンドン条約締約国会議に「海洋投棄全面禁止決議」を提出し、のちに採択され、日本の放射性廃棄物投棄計画を断念させることとなった。またニュージーランドより早く国内非核政策を実施したヴァヌアツは、友好訪問に訪れたアメリカ核艦隊の駆逐艦に非核証明を要求、提出できないとの回答に接するや直ちに入港を拒否している。これらの国々はまた、「南太平洋非核地帯設置条約(ラロトンガ条約)」に調印し非核世論を国際条約にまとめあげた。この条約には賛否両論あるが、いずれにせよこれら独立国は非核を進められる状況にあるといえる。(前田 1991:321)
A 自由連合(クック、ニウエ、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦、パラオ)
では自由連合の場合はどうか。はじめに自由連合の定義は、独立国家とほぼ同じ国家機能を有しながらも、特別な条約により強大な別の国の国家に防衛や外交などの権限を委ねた国家のことである。このような国家関係の在り方は、非自治地帯が自立を達成する手段の血1つとして、1960年の国連総会決議に規定されている。(太平洋学会・182・90)経済支援を受ける代わりに、外交と防衛権を任せるというものである。この自由連合の5ヶ国はニュージーランド政府か(クック、ニウエ)、アメリカ政府のどちらに委ねるかによって非核に対する姿勢は大きく異なる。前者がラロトンガ条約の当事国であり南太平洋フォーラム等に加盟しているのに対し、後者は外交権を許されているにもかかわらず、参加していない。だからといってアメリカの自由連合が非核を望んでいないわけではない。現にパラオは信託統治領時代「ニュークリア・ダンピング(核廃棄物海洋投棄)」に反対しているし、非核憲法も有している。非核憲法とはパラオ憲法第13条のことで、「戦争を目的とする核、化学、ガス、あるいは生物兵器と原子力施設、そこから生じる核廃棄物などの有毒物質は、国民投票の四分の三以上の承認が無い場合には、パラオ領内で使用。実験、貯蔵。廃棄を認めない」(第13条6節)というものである。パラオの非核憲法については当初から改正するつもりで自由連合と並存していくものと政治家達は考えていた。しかし世界中でこの非核憲法が予想以上の反響を呼び、「非核を求める小さな島」というイメージが形成されたことも手伝って住民の中からも憲法改正に反対する動きが高まってきた。結局のところ8回の住民投票を経ても規定の75%以上の賛成を得られず、基準をさげて過半数をもって改正されることとなり、パラオは自由連合となったのである。パラオのこの問題には色々な見方があるが、アメリカが財政援助を盾に憲法改正を促したことは間違いない。(小林 1994:189、194)これを考慮するとやはり自由連合はどこと連合するかによってその運命が決まるといっても過言ではない。もしフレンチ・ポリネシアが自由連合を組むとするなら当然フランスと、ということになる。フランスの基本方針については第2章で述べるが、アメリカと同じ核大国であることからおそらく自由連合国に非核を認めないだろう。フレンチ・ポリネシアが自由連合の状態で非核を実現できる可能性は低い。
B 自治領(北マリアナ)
コモンウェルスという語句は様々な意味で使われているが、ミクロネシアの北マリアナ諸島を示すときにはアメリカの自治領を意味する。より具体的にいうと住民が自治権を有し、自らの憲法に従って内政を行ないアメリカは外交と防衛に関する責任を持つというものである。(太平洋学会 1990:187)北マリアナ諸島がアメリカと交わした盟約は簡単に言うとテニアン島の基地化と財政援助、基地使用料についての規定である。ここには核兵器・通常兵器の区別はされておらず、かつてはヒロシマ・ナガサキの原爆がここから発射したことを考慮すると基地に核兵器を搭載した軍艦が入港していることは疑う余地はないだろう。したがって、当然の事ながら北マリアナは非核にほど遠い状態にあるといえよう。自治領に与えられるのはあくまでも内政権である。北マリアナの元首はアメリカ大統領であり国籍はアメリカである以上、自らの判断だけで条約を締結したり、入港拒否を決めるのは極めて困難である。フレンチ・ポリネシアが非核を実現するためには自治領では不充分であるといえよう。
 以上、非核実現の手段として国家ないしは地域と宗主国との関係に注目し、それぞれの例を挙げて非核を進められるかについて検討してきた。完全独立国は色々なしがらみがあるとはいえ、条約や憲法を制定するなど非核を進められる状況にある。自由連合は連合国の意思に左右されるのでやはりフランス次第ということになろう。自治領は宗主国に属すことになるので許される権限も小さく、これまでの立場を大きく変えることは難しい。結論としては完全独立または非核という条件付の自由連合が有効だと考えられる。そうすることによって、非核の意思を主張し、条約や入港拒否など具体的な行動がとれるようになるのである。それをふまえて次にフレンチ・ポリネシアの独立は可能か、また可能にするにはどういう手段があるかについて考える。
 
第2章 フレンチ・ポリネシア独立の可能性

   第1章で非核の手段として独立する必要があることを述べた。しかし実際のところフレンチ・ポリネシアの独立には主に2つの問題がある。1つは資源が無いなど小さな島にみられる経済的な問題であり、もう1つはフランス領であるという問題である。この2つの問題について検討する。
?南太平洋の地域的な問題
南太平洋の国々の独立に共通しているのはアジア・アフリカの場合と異なり激しい戦闘の末勝ち取ったものではないということである。言いかえれば与えられた独立だったわけで、内からの声は必ずしも強い希望があったわけではない。島嶼国・地域の問題について国連は以下のように要約している。
1. 貿易依存度が高い 
2.狭くて資源の種類が少ない 
3.対外的に単一の相手に依存しやすく熟練労働者が少ない 
4. GNPが小さく、輸出代替工業化に限界がある。
 南太平洋の独立を考える際、この狭い島国に特徴的な問題を念頭においておく必要がある。(佐藤 1998.42)フレンチ・ポリネシアにも上記の問題の全てがあてはまる。例えば2番目の資源については漁業と真珠ぐらいで、ニューカレドニアのニッケルのような鉱産物はない。また貿易面では輸出965MF(フランス南太平洋フラン)に対し輸入が5026MFと、五倍以上の輸入超過に陥っている。(フランス外務省 ホームページ)南太平洋の国々が経済的に自立することが難しいのは事実である。それは全体的にいえることで、フレンチ・ポリネシアだけが貧しくて自立できないというものではない。例えば、フィジー、トンガ、ツバルはフランスからそれぞれ約66万ドル、約24万ドル、約8千万ドルの援助を受けている。(佐藤 1998:33)これらの国々は独立国である。またフレンチ・ポリネシアはGNPでは高所得(9386ドル以上)といわれており、これはフィジーの2440ドル、キリバス920ドル、ソロモン910ドルと他の独立国を凌いでいる。(世界銀行 1997.9,10)実際に世界にはこれらの国々より低所得で低資源の独立国が存在し、例えばタンザニアは1人当たりのGNPが120ドルで資源の面でも石油の生産量975000トンと決して多くはないにもかかわらず、国際機関からの援助もあり、1つの独立した国家となっている。もちろんキリバスでは人口の16.4%が1日1ドル以下で生活していて貧困であることは間違いないし、このような在り方は好ましいとは言えないだろう。しかし現実的に独立国の中でもこのような形態をとっているものがあるなら、フレンチ・ポリネシアにとっても経済的な問題を脇に置く1つの方法として考えられるのではないだろうか。つまりこれらの島嶼国は経済的に自立するのは難しいが、独立国になることはできるのである。ではなぜフレンチ・ポリネシアは独立していないのか。その大きな原因はフランス領ということにあると考える。
 
?「フランス」という問題

 「わたしの使命はフランス国民を守ることだ。核実験は核抑止力の信頼性と安全確保のため、避けては通れない。私は誰かの反応を見て決定を下すのではなく、フランスの利益のために、私自身の信念に基いて決断する。」これは95年に実験再開を宣言した時のシラク大統領の発言である。この発言にも表れているようにフランスには根強い核抑止信仰があり、実験再開時の調査では実に6割が核抑止力は必要だと答えている。(藤巻 1996:25)世界中から非難されることを予測していたにも関わらず、核実験を強行した理由は、核シュミレーション技術を確立するためだといわれる。シュミレーション技術とは超高速コンピューターやレーザー核融合技術などを駆使して、実際には核爆発を起こさずにそれを再現する技術のことで、核実験をせずに核兵器の性能評価や改良を行なうことが出来る技術である。(藤巻 1996:17)この技術の確立は膨大な実験データ−に基づくことから、包括的核実験禁止条約に調印する前に、実験データ−を集めておく必要があった。アメリカ、ロシアは既にこの技術を備えていて、イギリスはアメリカと協力関係にあったので駆け込み寺式に実験を行なう必要はなかった。しかしフランスはアメリカに協力を要請しなかった。当時の仏国防・外交顧問だったルル−シュによるとその理由は米仏は核実験に関するシステムが違っており、またアメリカの技術を導入した場合フランスの国防政策の自立が失われるからだという。(藤巻 1996:24)システムの違いはやむを得ないとして、後者は極めてフランス的で外交や国防の根底にある考え方である。
 フランスからの独立を考える際に避けて通れないこの「フランス的例外」の源泉はシャルル・ドゴールにある。ドゴールは45年の米英ソによるヤルタ体制を嫌悪し、米ソ二大国家による世界支配に挑戦した。NATOの脱退、核兵器の独自開発、西側主要国で最初の中国承認など独自の姿勢を貫き、米ソ等距離策をとった。東西冷戦下で外交のフリーハンドを保とうとしたのである。ドゴールは独自外交を演じることで、大戦で疲労した国民に希望を与えるために「偉大なるフランス」を取り戻そうとしていた。3度ドイツに侵攻され、あわや敗戦の憂き目見た当時のフランスの状況を考えると、核兵器の独自開発に踏み切ったのは自然のなりゆきといえる。95年に実験再開を宣言した現大統領シラクは自らドゴール主義者であると明言している。冒頭の発言にみられる強い意思を持って物事の解決にあたり、決して妥協しないのを良しとする態度はここから来ている。この「偉大なるフランス」志向は一般国民にもあてはまる。フランス人は自らを偉大でない、取るに足らない民族だと思われるのは耐えられないのだといわれる。EU内でも重要なポストにはフランス人かそれが無理ならフランス語のできる人材を要求する。(藤巻 1996:72、74、75、185)
 そんなフランスの植民地政策はフランス語・文化の拡大に基づいており、直接統治を行ない、住民をフランス人として認めている。イギリスが財政上の理由から植民地を手放し、国際世論が独立を支持した時もフランスは領土を固持した。仏連合という新しい国家機構を設け、連合国、アルジェリア諸県、海外県、海外領土、連合領、保護国という6つのカテゴリーを置いた。このうちはやくに独立を果たしたのは連合国であった仏領インドシナ三国と保護国であったモロッコ、チュニジアである。また58年に第五共和政に移行してからは、セネガル、マダガスカルを除くサハラ以南の12カ国の自治共和国は共同体から離れていった。62年にアルジェリア諸県を失ってからは、海外県(グアドルーブ、ギアナ、マルチニク、レユニオン)と海外領(ソマリ海岸、ニューカレドニア、フレンチ・ポリネシア、サン・ピエール・エ・ミクロン、ワリス・フツナ)によるフランス共同体となった。(杉山 1990:239)フランス政府はこれらの国々に対して独立後も毎年旧植民地の国が参加するフランス語圏首脳会議を開催、フランス語学校の海外進出も積極的に進めている。しかしフランスが旧植民地のアフリカ諸国との関係を重視するのは単に仏語・文化の普及だけでなく、第3世界外交推進のためであり、また国連などを舞台とした外交でこれらの諸国の支援を当てにしているからである。(藤巻 1996:193)そのうえ軍事協定を締結し、アフリカ全体に約九千人の仏軍を駐留させている。また内政干渉ともとれる軍事介入もある。血で血を洗うような戦争を経て独立したアルジェリアではイスラム原理主義が台頭すると大量の難民発生の恐れがある反面、下手に内政干渉すれば泥沼にはまる可能性もあり、旧宗主国として難しい立場に立っている。同じく旧植民地のコモロで軍事クーデターが発生した時は、当初軍事介入をしない方針を示していたが、背後にフランス政府がいるとの憶測が流れ、介入に踏み込んでいる。(藤巻 1996:192)このように旧植民地アフリカを見る限り、軍事的なつながりや内政干渉は独立後も続くものと考えられる。
 南太平洋で同じくフランス領であるニューカレドニアは80年代から先住民カナクによる独立運動が激化した。ニューカレドニアはそもそも流刑地として領有されてきたが、ニッケルなどの鉱物資源の発見により移民労働力を投入して仏本国の産業資本主義の発展に寄与してきた。移民が多いこともあり、国内で独立派と反独立派の抗争が繰り広げられた。83年には独立派、反独立派それぞれの2つの政府が樹立され、その解決策として仏政府からピザニ案が提案された。それは住民投票を実施し、議会の選挙を実施、新議会でのカナクとカルドーシュ(欧州から移住してきた白人とその子孫)の協力規約を結んで、仏との連合協定などを審議することなど、自由連合形態を考えていた。しかし86年に保守連合のシラクが政権を奪い返してからは、全社会党政権によって進められたこの地方分権化政策による自治権限は領域議会に戻され、国家の権限は集中されることとなった。また3年以上居住する者を対象として住民投票を強行し(カナクに勝ち目はなかった)、独立に反対であるという結果が出た。いったん独立は遠のいたが、88年にミッテランが再選し、ロカール社会党政権が樹立されてからは、独立派・反独立派・仏政府の間でマティニョン合意が交わされた。これはまず1年間仏本国政府が直接統治し、社会経済発展計画及び人材育成の実施、新制度に関して仏人に国民投票を行なうこと、そして10年後にニューカレドニアの独立に関する住民投票を行なうことなどを含んでいる。(杉山 1990:263、250、252)マティニョン合意から十年後、ヌーメア協定が結ばれ、20年以内に独立に関する住民投票を実施することが決まった。(インターネット www.ambafrance.org.fj/acnoumea2.html)しかしこれは20年以内に独立が果たせると考えるよりむしろまた先延ばしになったと考えるべきだろう。このようにしてニューカレドニアの独立はフランス政府によって二転三転し、今後どの様になるのかはわからないがしばらく時間がかかることは必至である。
 
 以上第2章では独立の問題点として経済的な問題とフランス領であるという2つの点について検討した。経済的な問題については南太平洋全般にいえることで、援助は必要だがそれでも独立している国があり、フレンチ・ポリネシアだけができないということにはならないと述べた。またフランス領という問題については独立がなぜ難しいのかをフランスの根底にある考え方から検討し、またニューカレドニアの例からその難しさについて述べた。ヌーメア協定の定める20年は言うのは簡単だが、ひとりひとりの人生に置きかえると長すぎるといっても過言ではないだろう。このようにフランスからの独立を考えると戦争かあるいはいつまでも待つかという歴史であり、どちらも望ましいとは言えず、むなしさを感じさせるものである。
 しかしフレンチ・ポリネシアにも独立の動きは高まっている。その中心人物として知られるタヒチのオスカル・テマルは独立を問う投票を行なうよう領域議会に求めている。彼はもし投票が行なわれたら、90%のポリネシア人が独立に投票すると言っている。また経済的支配から逃れることも主張している。彼の独立運動は「全ての国は主権と領土保全を尊重することを命じる」という1960年の国連のコピーに基づいている。(Tony Doris 1989:21)フレンチ・ポリネシアが1つの国として独立(自由連合も含む)を求める理由としていくつか挙げられるが、やはり95年に再開された核実験が及ぼした影響はかなり大きい。経済的に依存してきた小さな島々がそのひきかえに耐えてきた大国に抵抗し、自らの意思で望む望まざるを決定出来るようになるにはどうすればよいのだろうか。周辺の国々が独立国として主権を有し、反核運動を進めているなかで今やフレンチ・ポリネシアの海外領土という地位は孤立したものとなっている。核を支持するフランス領がどうやって非核を進めるか。それにはまず海外領土という地位から脱皮しなければならないが、実際どのような方法があるのだろうか。
 
第3章 反核世論

 「モルロアの証言」に書かれているフレンチ・ポリネシアの人々の声は、核実験は経済的には良かったがもうやめて欲しい、ひどい扱いを受けた、というものが多い。人々は核はいらないが経済的な支えは必要としている。これは自由連合協定を結んだときのパラオでも見られが、経済と非核をどう折り合いをつけるかという問題である。そこで再びパラオを挙げて非核憲法を変えなければならなかった理由について検討し、何が足りなかったのかを見ていこうと思う。パラオの非核憲法を当時取り巻く状況については簡単にまとめると以下のようになる。
 パラオの非核憲法については第1章でも述べたが、これは当初核大国に抵抗する島民の非核の願いなどといいう美しく単純なものではなかった。こういう哀れみを誘うようなイメージにのっとって書かれたものも多いが、私自身は非核はパラオにとって外交上のカードであったという立場に立っている。当時パラオとアメリカは非核憲法と自由連合という相反するものをどう決着をつけるかという交渉をしていた。この時多くのパラオの人々は自由連合を望んでいたので非核憲法の改正をめぐる住民投票が実施された。(cf.遠藤 2000)しかしこの非核憲法は予想外の国際的な関心を集めることになった。当時の国会議長T.ナカムラはこう言っている。「我々にとって誤算だったのは、国内国外の反核運動家から「非核死守」の支援活動が起こり始め、伝統的大首長のギボンスに至っては「非核憲法を堅持する運動」を推進したとして、途上国の平和運動に対して授与するリヴリーフット賞(ライト・リヴリーフット財団、スウェーデン)を受賞したほどである。住民と対米交渉だけを念頭に置いていたので、これほど非核憲法が国外で関心を集めるとはまったく予想しませんでした。」国外の反核運動家から「非核死守」の支援活動が起こり始め、伝統的大酋長のギボンスに至っては「非核憲法を堅持する運動」を推進したとして、途上国の平和運動に対して授与するリヴリーフット賞(ライト・リヴリーフット財団、スウェーデン)を受賞したほどである。(小林 1994:189)これが逆流して国内に影響を与えていった。憲法に対する国際的評価が高まったこと、非核条項の遵守を支援する外からの声が大きかったことなどから、パラオ指導者達の間でも自由連合協定を成立させるにせよ、憲法原文をそのまま残しておきたいと考える者が増えていったといわれる。しかしアメリカの支援なしで自立することも難しいことから、自由連合協定を結ばないという選択はなかった。パラオでは非核憲法擁護派イコール反自由連合という単純な図式ではなかったのである。結局は冷戦後アメリカがパラオに以前ほどの関心を持たなくなっていることにあせりを感じた政府が、憲法改正の規定を下げて非核憲法を改正し、自由連合国となった。(小林 1994:194)
 このパラオの例は2つの側面がある。1つは住民投票で10年間賛成が得られなかったその間、冷戦中のアメリカの譲歩を引き出すことが出来、経済援助は2億5000万ドルから4億5000万ドルにまで増大し、当初より有利な条件で協定を結べたことである。(小林 1994:196)非核は外交のカードとしての役割を果たしたのである。非核の面でもパラオ政府の面子を立てるために、米国務長官は次のような書信を送っている。
 「アメリカは現在パラオに軍事基地を建設する予定はない。パラオに軍を展開する時は、有事の際に限る。仮に平時においてパラオの領海、領土を核または化学汚染した場合は、責任を持ってこれを処理し、十分は保証に応じる。財政援助については、協定成立後も話し合いに応じる。」(小林 1994:196)
 しかし非核憲法を失ったことは紛れもない事実である。いい条件を引き出せたが、結局非核を通せなかった。これをどう見るかは意見が分れているが、私自身は当時のパラオにとって可能だったのは、これが精一杯のことだったと考えている。住民は自由連合を結びたかったし、非核憲法も改正したくなかった。しかし両方を実現できる手段はなかった。まわりのミクロネシアの国々が独立していく中で、パラオもいつまでも信託統治領でいるわけにはいかなかったし、一方ではアメリカという後ろだてを失うことは考えられなかった。そのなかでアメリカに基地として使う予定はないという言葉を、拘束力はないとはいえ引き出せたことは大きい。なぜかというと、もっと初めの段階で協定を結んでいたらこのような譲歩は得られなかったからである。防衛権を握られるという自由連合協定を結ぶに当たって、基地建設の予定はないということを言わせたのは画期的なことである。
 しかし非核は実現できなかった。国を独立させるという意味ではメリットもあったが、非核を中心に考えるとパラオは失敗したと言わざるを得ない。アメリカからの経済援助と非核という相反するものを両立することはできなかった。そこで何よりまず自由連合を結ぶことを選んだのである。これは自由連合のネックである。自由連合になるなら核大国に外交と防衛を任せることになり、非核は認められない。フレンチ・ポリネシアがフランスの自由連合国になれば、核を拒否できない状態が続くだろう。自由連合ではだめなのである。非核を実現するにはやはり独立をしなければならない。パラオは初めからアメリカとの自由連合を前提にしていたので、完全独立を志向する具体的な議論が起こらなかった。(小林 1994、193)フレンチ・ポリネシアは非核と経済援助を両立できるパラオとは違った方法を考えなければならない。
 自由連合ではなく完全独立を目指すなら何よりもまず、国内の世論をまとめる必要がある。現在のフレンチ・ポリネシアの住民の間に非核政策を浸透させなければならない。そしてそのためには完全独立への支持を集める必要がある。そのために注目したいのが非核世論である。パラオの場合は非核憲法が予想以上に国外の支持を受けて、それが国内に広まっていった。非核世論で国内をまとめなければ、住民は手ごろな落とし所として自由連合を選択することになる。しかしそれでは核問題でずっと妥協していくことになるのだから、フレンチ・ポリネシア非核のためには完全独立であるという国内世論を高めなければならない。そのためには非核を進めるという立場を明確にし、国内にも対外的にも表明することである。
 反核世論を起こし、国際的な支持と集めるための例としてはニュージーランドが挙げられる。南太平洋という小さくて忘れられがちな島々が核大国とたたかうためには自分1人の力では難しい。ニュージーランド独立国であるが、世論をもりたてるために首相はオックスフォードの討論会で核抑止論を論破するなど、アピールする機会を積極的に利用した。(ロンギ 1992:139―155)ではアメリカとの交渉のいきさつを見てみよう。
  ニュージーランドはアメリカと軍事同盟を結んでいた。オーストラリアを加えた3国で結ばれたアンザス条約は1951年ニュージーランドが日本の復興に脅威を感じ、拡大しつつある共産主義に不安を感じた時期に調印された「武力攻撃に対抗する個別、および集団的な能力を維持し発展させる」という条約である。加盟国のうちどれかの「領土保全、政治的独立または安全保障」が脅かされたときは、全加盟国が「共同で協議する」ことを義務づけており、「自国の憲法の手続きにしたがってこの共通の危機に対処して行動する」ことを宣言していた。(ロンギ 1992:45、46)この条約は核について触れておらず、したがってニュージーランド側は非核政策と並存させることを希望していた。軍事同盟を維持しながら、核は否定するという方針である。 アンザス条約をめぐっての両国の関係が悪化していた1985年アメリカ政府がニュージーランドに海軍の駆逐艦ブカナン号の入港許可を依頼した。アメリカ政府は核を搭載しているかについては「否定も肯定もしない」という態度を変えなかった。ニュージーランド政府は核兵器を搭載していないという明確な回答を得られなかったのでアメリカ海軍の入港許可を否定した。(アレキサンダー 1992:189)しかし二ュ−ジーランド側はアメリカ政府がアンザス条約を破棄しないように説得しなければならなかった。なぜなら多くの国民が非核を支持しているにもかかわらず、現実に保護者がいなくなることに不安を感じていたからである。結局アメリカ・ニュージーランド間のアンザス条約は凍結された。ニュージーランドは非核を進めることができる代わりに、アメリカの軍事的な後ろだては失うこととなった。
 しかしニュージーランドは独立した外交政策によって、高揚する反核・軍縮運動の先頭に立つようになると同時に、その立場に賛同する国々の応援によってアメリカの反応を緩めることに成功したといわれる。(アレキサンダー 1992:198)例えばニュージーランドに核を持ち込む可能性のあったイギリス政府は非核法に反対しており、農業輸出においてのニュージーランドの欧州貿易に打撃が生じるとすすんで脅迫したにもかかわらず、制裁を受けずに済んだのである。なぜかというと英国の消費者がニュージーランドの農業生産物を買い続けたいと英国政府に圧力をかけたのである。その他の欧州諸国にとってもビジネスはビジネスだった。彼らはニュージーランドの政策が米国をイライラさせるのではないかという意味でのみ懸念をしており、それが貿易にまで波及しなかった。(ロンギ 1992:145,146)このように他国の「不必要な干渉」を避けられたのは非核政策がうまく理解されたからで、労働党のデービット・ロンギ首相は先ほども述べたオックスフォードの討論会に参加するなど非核政策が世界に認知されるように色々な機会を利用している。ニュージーランドの場合も国際世論が追い風となったことは明らかである。
 以上のことから、南太平洋の国々が非核を進めていくためには国際的な非核世論が欠かせないことがわかった。フレンチ・ポリネシアでも世論を味方につけて、国内をまとめ、国外の支持を受けることで発言力や影響力を高めるべきである。しかし世論がまとまってもフランスというもう1つの問題を解決できるだろうか。事実、フランスは世論を無視して実験を断行した。どうやってフランスから独立するかが問題である。
 同じフランス領であるニューカレドニアは早くから独立運動を起こしていたので、フレンチ・ポリネシアより独立に近づいている。第2章でも述べた通りニューカレドニアの独立も簡単には進んでいない。しかし実際にはカナク対カルドゥ−シュという民族対立が独立・反独立に分れて対立していることがより独立を難しくしているのである。フレンチ・ポリネシアはニューカレドニアとは異なり、そのような大きな民族対立はみられない。国内の非核世論が広まれば、独立に関する住民投票で独立する可能性は高いと考える。ではどうやって住民投票に持ち込むか、それはやはり独立運動を盛り立てていくことしかないだろう。ニューカレドニアもそうだったし、アルジェリアなどは運動が革命戦争にまで発展した。宗主国から独立する以上独立運動をより大きく広め、非核とからめて支持を集めて実際の話し合いに移していくしかないだろう。時間はかかるが、完全独立を目指して運動することが常套手段である。
 自由連合を結ばないで完全に独立する場合、問題となるのは経済問題である。国内の支持を得られるか、それが独立の決め手である以上、経済問題をどうするかにかかっているといっても過言ではないだろう。非核世論を高めて支持を得ることが経済援助につながるとは限らない。経済援助を受けられるように観光開発などの可能性を探り、国外に働きかけていく必要がある。それでは海外領土の時と同じような生活を維持できないかもしれない。しかし彼ら自身が問題を解決できるようになるためには、痛みを伴っても自ら考えて動かねばならない。宗主国にぶら下がるだけの生活はいつまでも続けられないことを、認識しなければならない。そうしてまで非核を目指そうとは思わないという意見もあるかもしれない。しかしあのムルロアの惨劇を味わって、核の恐ろしさを体験した時のことを忘れてはいけない。フランスの支配下にある限り、核の恐怖にさらされ続けるのだということを住民がどれだけ意識するかにかかっているのである。
 
第4章 結論

 これまでフレンチ・ポリネシアの独立について検討してきたが、独立したらすぐに非核が実現できるとわけではない。ニュージーランドの例からもわかるように、独立国も非核を実現しようと努力しているのである。実際のところ南太平洋の国々はこれまでも非核にむけての組織(南太平洋フォーラム)を形成し、それを通してラロトンガ条約(南太平洋非核地帯条約)やロンドン条約(海洋投棄を禁止する)を結んできた。 おもな参加国はニュージーランド、フィジー、クック、キリバス、ニウエ、サモアなどで、連帯することによって結果を残してきたのである。これらの国々はそれぞれ民族や言語は異なるものの、反核アイデンティティを共有しているのである。その根底にあるのはもちろん核に対する嫌悪感であるが、それならどこの国にもあるだろう。この地域の人々が「非核南太平洋」というのには、この地域ならではの安全保障観があるのである。南太平洋の国々はアメリカやヨーロッパ諸国とは核に対する考え方が違っているのである。西側諸国は核によって核を制するという核抑止論を支持し、核兵器は「無いと不安なもの」というように考えており、核兵器は戦争で人を殺すためのものと認識されている。そしてその恐れるものは核戦争である。それに対し南太平洋の国々は核を環境破壊や土地を奪うものという認識が強い。これは核実験場としての経験からくると思われるが、彼らにとって恐ろしいことは核戦争よりむしろ核実験であり、核廃棄物の海洋投棄である。人々は小さな島嶼国で核戦争が起こるとは考えていないし、実際その可能性は極めて低い。ニュージーランドの元副首相ジェフリー・パーマーはこう言っている。「西ヨーロッパと違って、ニュージーランドの国家安全保障に対して直接的でかつ計量しうる脅威は存在していない。」(アレキサンダー 1992:193)ニュージーランドには地続きの国境もなければ他国との境界紛争もない。資源である水力電力、畜産、広大な牧草地は石油や鉱物と違って物理的に持ち去ることはできない。そしてどこからも遠く離れている。例えばベトナムにある旧ソ連の軍事基地からは、ニュージーランドよりローマのほうが近いのである。この国では安産保障に関しては、通常兵器による脅威はないという見解で一致している。太平洋地域に対する脅威は起こりうる確立が高い方から並べると、社会または自然災害、海洋資源に対する脅威、経済的停滞、社会不正などであり、戦争というものはニュージーランドにとってとくに大きな脅威として位置付けることは困難である。(アレキサンダー 1992:194,195)
  そのような国にとっては核は逆に不利益をもたらす。なぜなら軍事基地があることが他の国の攻撃を招くことになるからである。これはパラオの例だが、パラオは第2次大戦中、軍事目的で駐在していた日本人に対する攻撃のために戦場となった経験から、アメリカの基地によって通常では核戦争の起こり得ないこの国が標的とされかねないと考えられている。インタビューに答えたパラオ人はこう言っている。「第二次世界大戦の最中、われわれは空襲や侵略を経験した。それらの攻撃はわれわれベラウ(パラオ)に対してではなく、われわれの島々に軍事的存在として駐在していた日本人に対しての攻撃であった。アメリカ人がここに軍事基地を設置するとなると、また他の国の攻撃を招くことになるだろう。それはベラウ人に対してではなくアメリカ人に対してである。われわれは大変苦い経験を待っているからこそ、われわれの国の軍事使用を制限するように憲法を制定した。」(アレキサンダー 1992:172)彼らにとって核兵器や軍事基地は安全よりむしろ不安をもたらすのである。自己を防衛するためには基地を設けさせないということになり、これは西側と全く正反対の態度をとることになる。ニュージーランドは非核政策を実施するにあたってこの安全保障の違いを強調した。
 この南太平洋ならではの安全保障のあり方の下で、島嶼国が連帯を形成し協調して非核地帯を設置したことは非常に大きな意味があるし、実際的な方法である。ではフレンチ・ポリネシアはどういう状況にあるかというと、非核地帯に入っているにもかかわらず加盟国ではないので守る必要がないのである。これは南太平洋非核地帯条約の欠点ともいわれているが核保有国の内参加しているのは旧ソ連と中国で、実際に実験を行なったアメリカ・イギリス・フランスは、参加していない。よってフレンチ・ポリネシアはフランスである以上非核地帯は簡単に破られてしまう状況にある。それを打破するためにはやはり独立運動を起こし、実際に交渉に入ることがまず必要だろう。  そしてラロトンガ条約に調印するなど非核地帯の仲間入りをする必要がある。これには長い時間がかかるだろうが現在海外領土であるフレンチ・ポリネシアが非核・独立太平洋の一員となるには、ある程度の時間と経済的な依存を軽減するための努力は必要である。パラオやニュージーランドも痛みを伴いながら非核を進めようとした。パラオでは大統領が暗殺や不信な自殺で二代にわたって失い、結局非核憲法も失った。ニュージーランドはアメリカとのアンザス同盟を失った。核大国という強敵に立ち向かうには折れなければならないことも多い。フレンチ・ポリネシアも真に非核を望みモルロアの悲劇を繰り返したくないのであれば、経済的な依存状態を軽減するために自らの生活を変えなければならない。与えられるお金にぶらさがること、これはある程度やむを得ないが、やはり自らの意志を主張するのであれば、独立を考えどうしていくのか真剣に取り組む必要がある。フレンチ・ポリネシアの人々が将来のことを見つめ、非核を実現する日がくればそれは人類にとって大きな希望になるだろう。そのような日が来ること期待する。
 
注釈

?戦略地域:安全保障理事会の管轄で、施政権さえ手に入れれば事実上自由に軍事使用できる地域
?信託統治領:自治、独立の能力を持たない地域を施政権国が管理、協力し将来的に自治、独立に導いていこうとする暫定的統治形態
?閉鎖地域:施政権者がいかなる区域をも随意に安全保障上の理由のために閉鎖することによって、国連の介入を制限する地域
 
引用文献

アレクサンダー、ロニー
 
1999 「非核・独立太平洋運動からみる「太平洋アイデンティティ」 春日直樹編『オセアニア・オリエンタリズム』 世界思想社 pp.153‐178
1998 「核問題と平和」 三輪公忠・西野照太郎編『オセアニア島嶼国と大国』 彩流社 pp.305‐338
1992 「大きな夢と小さな島々」 国際書院
 

前田哲男
 
1991 「非核太平洋・被爆太平洋」 筑摩書房
1998 「アメリカの太平洋核実験の歳月とその影響」 佐藤幸男編『世界史のなかの太平洋』 国際書院 pp.213‐264
 

藤巻秀樹
 
1996 「シラクのフランス」 日本経済新聞社
 

太平洋学会
 
1990 太平洋学会編「太平洋諸島入門」 三省堂選書
 

島田興生
 
1994 「帰らざる楽園」 小学館
 

杉山肇
 
1998 「ニューカレドニア独立への展望」 三輪公忠・西野照太郎編『オセアニア島嶼国と大国』 彩流社 pp.235‐272
 

佐藤幸男
 
1998 「近代世界システムと太平洋」 佐藤幸男編『世界史のなかの太平洋』 国際書院 pp.13‐68
 

小林泉
 
1994 「アメリカ極秘文書と信託統治の終焉」 東信堂
 

グリンピース・ジャパン
 
1991 グリンピース・ジャパン編「モルロアの証言」 連合出版
 

世界銀行
 
1997 「世界経済・社会統計」 東洋書林
 
遠藤央
 
2000 「パラオの政治学」 須藤健一編『オセアニアの国家統合と国民文化』 地域研究企画交流センター pp.11‐34
 
 
Tony Doris
 
1989 「An Oscar for consistency  By Tony Doris」 『PACIFIC ISLAND MONTHLY −JULY』 pp.21
 

インターネット
ヌーメア協定
 
「Press Release−Noumea Accords」 『Ambassade de France aux ile Fidji』 http://www.ambafrance.org.fj/acnoumea2.html 
 

フランス外務省ホームページ 
 
「Polynesie francaise/economie」 『France diplomatie』 http://www.outre-mer.gouv.fr/domtom/polynesie/economie.htm