多民族国家の行方 −多文化主義の可能性と限界
三木原夏子
はじめに
現在、世界各地で民族紛争が激化しており大きな問題となっている。ソ連崩壊、パレスチナ問題、マレーシアのマレー人と華人の対立、スリランカのシンハラ人とタミール人の紛争、フィリピンのモロ族解放戦線、インド、パキスタン、ビルマ、ケニア、エチオピア、ナイジェリア等における少数民族問題、イラン、イラク、トルコ、ソ連にまたがるクルド族の独立運動など、数え切れない。このような民族集団間の対立は、上記したような第三世界の新興独立国だけでなく欧米などの先進国の中でも起こっている。カナダでは、ケベックを中心にフランス人の分離独立をかけた紛争があり、イギリスでは、北アイルランドにおけるプロテスタントとカトリック教徒の間の紛争が激しくなっている。また、移民から成り立つアメリカ、オーストラリアは、非常にたくさんの民族を抱えるだけでなく先住民、難民の問題など、そのエスニック集団の多様性は複雑である。どうして、現在民族問題がこのように階級闘争に代わって台頭してきたのだろうか。民族問題に共通しているのは、多くの場合民族と国家の関係の中でそれは起こりこれらの国家は、一つの国家のなかに複数の民族が共存する多民族国家という事だ。一億二千万の日本国民の99%以上が日本民族であるという世界でも珍しい単一民族的国家に住む私たちにとっては、一民族が一国家を構成していると勘違いをすることが多い。しかし、世界に目を向けてみると国民が異なった色々な民族で構成されている事のほうがはるかに多い。交通の発展、通信技術の進歩によるコミュニケーション機会の増大、それらに伴う経済的、政治的、社会的側面でのあらゆるグローバル化により人の動きは、これからもますます激しくなり各国家における多民族的状況は複雑さを増していくように思える。
このような状況で、現在複数の民族、文化が共存していくための政策概念として用いられるようになってきたのが、多文化主義である。多文化主義に至るまでの道のりとオーストラリアでは国で実際にどのようにこの概念が実行されているか、また問題点はないのか、を検討して多文化主義の可能性と限界を整理し、多民族国家が今後どのようにエスニック集団間の関係を調和させ国の統一を計っていくのか探る事がこの論文の目的である。そこでまず、第一章では、エスニック集団、エスニシティと民族などの概念を定義し、なぜ多民族国家形成に至ったのかについてのいきさつと民族問題を生む国民国家とエスニック集団との関係について見ていく。
第1章 多民族国家とエスニック集団
(1)エスニック集団とは
今日、世界中で民族問題や、多民族国家と複数の集団との関係が、取りざたされるようになり、「民族」、「民族集団」、「民族性」、「エスニシティ」、「エスニック集団」、といった言葉を耳にするようになった。特に、1960年代後半から新しい学術用語として使われ始めた、エスニシティという言葉は、日本でも社会学や文化人類学などの分野で定着してきており、頻繁に使われている。しかし、きちんとした日本語の適訳がないためエスニシティという英語のまま用いられている事が多く、その定義は、研究者の数だけあると言われるほど多くその意味は、複雑かつ使用者によって多様である。現在は、これらの言葉の意味が、混合して曖昧に使われる傾向にあるが、民族とエスニシティ、エスニック集団とはどう違うのだろうか。グローバル化に伴う人の移動によりますます複雑になっていく多民族的状況をどの概念によって説明できるのかについて考えていくことにする。従来から使用されてきた民族とは、「人種的・地域的起源が同じで、文化・社会・言語・宗教・歴史・などの特色を共有する人間の集団。」と定義されている。(旺文社国語辞典 1986)Oxford English Dictionaryでは、1972年に始めてエスニシティという言葉が収録されている。民族問題について研究しているNathan Glazerは、エスニシティとは、「ひとつの共通な文化を意識的に分ち合い、何よりもまずその出自によって定義される社会集団」といっている。(綾部 1995:3−4)百瀬のように、それを言語文化集団と簡単に訳してしまう人もいれば(百瀬 1996:24)、武者小路のように、固有の文化・歴史・言語・宗教などをもとにしてひとつのアイデンティティを共有する共同体的な集団とより具体的に定義しようとする人もいる。(武者小路 1996:5)これらのいずれもエスニシティを集団概念として捉え、文化的伝統の共有を重視していることがわかる。しかしそれでは上に挙げたエスニシティ概念は民族概念と変わらないのではないだろうか。
多民族国家では、多民族が共存する事によって移住、様々な活動における分裂や連帯、混血などを通して新しいエスニック集団が常に形成されていく。日本にいる在日朝鮮人の文化や生活習慣は、祖国に住む人と全く同じものではなく日本という国家の中で変化している。また、彼らのなかには日本語しか話せないものもおり、成員間で共有される帰属意識も朝鮮民族・韓民族という同類意識と、日本という国家に属しているという二つのアイデンティティが存在する。彼らを、朝鮮民族・韓民族と呼ぶことができるだろうか。このように日本にいる在日朝鮮人のように変化していく集団をどのような概念を持って説明できるのだろうか。ここでは、人種・民族・エスニシティについての考察の中で述べている関根の定義と文化人類学辞典の定義にもなっている綾部の定義を中心に見ていく。
関根は民族とエスニシティを、双方とも文化的基準で分類された人口集団だが、伝統的民族か象徴的民族か、マジョリティかマイノリティか、民族自決追及集団か否か、という3つの基準で区別している。まず、第一の区別として民族を、伝統的な言語、生活、文化、宗教を先祖伝来の地域に住み堅持している伝統的民族とし、エスニック集団を伝統的居住地域を去った移民や難民、国民国家の中で分離・独立の不可能なマイノリティを指し、伝統文化や言語、生活様式が変容しても出自による血縁にアイデンティティを求めている象徴的民族とし、その意識をエスニシティとした。第二、三の区別として関根は、民族を国民国家のなかで多数を占めるマジョリティ文化を持つ社会集団で、規模と政治・経済能力があり民族自決権を行使して国民国家を形成し、主権を持った国民になっていると定義した。一方、エスニック集団は国民国家内のマイノリティとして捉え民族自決権を行使して自らが主体となれる国家を追求するというより、民族の承認・平等と保護を求めているレベルにとどまっていると述べている。(関根 1994:5−10)
ここでは、いくつかの疑問点が浮かんでくる。一つ目の区別で関根自身も指摘しているが、両者の違いを伝統文化の存続状況で見るのは難しい。なぜなら、先祖伝来の土地で文化を保持していても新しい土地で暮らす集団と同じように、異文化交流によってその性質は変化してるのではないだろうか。次に、関根は一つの国民国家内における数で社会集団をマイノリティとマジョリティと決定しているがそれだけが決定要因になるのだろうか。南アフリカの状況について考えてみたい。関根の基準で区別すると現地の人は先祖伝来の地域に住み伝統文化を維持する伝統的民族で多数を占めるマジョリティ文化をもつ社会集団、つまりマジョリティである。一方白人は伝統的居住地域を去った象徴的民族で数の上でもマイノリティなのでエスニック集団となる。しかし実際には最近まで白人が圧倒的多数の現地の人を抑えて国家の権力を握っていた。この場合関根の区別は当てはまらない事になる。また、関根はエスニック集団とエスニシティの明確な区別をしておらず、同義的に用いている。
青柳はエスニック集団は、国民国家などの包括的社会の存在があって始めて成り立つ概念で他集団との相互作用によって流動性を持っているのに対し、民族は、包括的社会を前提とした概念ではなくより原初的で変化、流動性のない静的概念としている。(青柳 1996:12−15)青柳も、関根のように、民族とエスニック集団を区別して定義しようとしているがエスニック集団とエスニシティを明確に区別していない。
綾部は、エスニック集団を次のように定義している。「国民国家の枠組のなかで、他の同種の集団との相互行為的状況下にありながら、なお、固有の伝統文化と我々意識を共有している人々による集団」。つまり、エスニック集団とは他者や他集団との相互作用のもと他と異なる特性を形にする行為の構成体である。この定義のもと綾部は、民族とエスニック集団の違いを静的概念か動的概念かに区別している。民族は言語、信仰、生活慣習などの個別文化を共有し、我々意識で結びついている人々の集団で国民国家を前提とした概念ではないが、エスニック集団は国民国家のなかで共通の言語、文化などの集団としての特性を変化させながらも成員間でアイデンティティを共有しており、日本語を話さず、日本食をとらず、アメリカの価値観を身につけている日系アメリカ人のような国民国家のなかで変化しながら形成されていく集団を説明できる概念としている。 そして、エスニシティとはエスニック集団の変数でこうしたエスニック集団が表出する性格の総体をさすものであり、アイデンティティや性格等のエスニック集団の特性を示す認識現象の構成体であるとエスニック集団と区別して定義している。(綾部 1993:13)
ここで、関根と綾部の違いは、関根が存在する社会集団を民族とエスニック集団に区別したのに対し、綾部は存在する全ての集団をエスニック集団とし、民族とエスニック集団の違いは概念の違いであるとしたところだ。また、関根と青柳と違い、綾部はエスニック集団とエスニシティを明確に区別した。
綾部はエスニック集団の概念で一番特徴的なのは、人々の間に相互作用があり実際に相互行為的状況下に国民国家のなかで機能している集団であることと述べている。よって、人々の間に相互作用はないが共通の特色を有する人々を呼ぶエスニック・カテゴリーや特色を共有した人々の短期間の地理的に近接した集合状況を意味するエスニック・アグリゲートとエスニック集団は区別されている。(綾部 1993:13−14)
多民族国家の中のエスニック集団について考える時、その状況は、国の政策、歴史、各エスニック集団の人口比など様々な要因によって非常に複雑である。エスニック集団の枠組みはヨーロッパやアメリカのような先進国やアジア、アフリカなどの第三世界の地域によっても国によっても異なり一様に定義できるものではなく、多種多様である。よって、以下の論文では多民族国家におけるエスニシティ状況、つまりエスニック集団間、国家との関係や問題を説明するのに、より柔軟に捉えられる綾部の定義を採用する。また、多民族国家、少数民族、民族問題、一民族一国家で使われている民族という言葉に関しては、そのまま使用するが、エスニック集団を意味するものとする。また、エスニック集団の捉え方にはいくつかの視点がある。成員間で共有されている所属性が、共通の出自や、宗教、文化、言語を重視する場合、客観的定義であるといえ、アイデンティティや、同類意識などの心理的要因がそれぞれの集団に属している基準として重視されている場合、主観的定義となる。クリフォード・ギアーツは地縁や血縁、特定の宗教や言語の慣習の共有から生じる一体感、同類意識を原初的紐帯と呼び最も重要な属性としている。(小田 1995:16)彼のように主観的定義を重視する研究者も多いが、どちらの要因もエスニック集団を捉えるときには、重要でないかと思う。
(2)国民国家としての多民族国家の形成
現在、世界中の多くの国では複数のエスニック集団を抱える多民族国家となっている。ここでは、どのようにして多民族国家が形成されることになったのか、そもそも国民国家の枠組みはいつごろどのようにして作られたのかについて見ていく事にする。
人は、昔から同類意識であるアイデンティティを共有する仲間と集団を形成してその中で物質的・精神的ニーズを満たしてきた。他の集団ともコミュニケーションをとりモノや情報を交換し、これらの集団は経済・文化・政治の単位になっていた。家族という小さい単位から始まり、他の集団とも接触するうちにしだいにより広い単位のアイデンティティを共有する集団になっていった。(武者小路 1996:6−7)
近代以前の、世界にも国家と呼ばれる権力が存在していたがそれらは現在の国民国家と比べると絶対的な主権や明確な国境を持った、領土国家ではなく重層的で複雑であった。中世のヨーロッパを見てみると、王国が皇帝の一元的支配の下、栄えていたが実際は、数多くの諸邦、諸都市、諸公家、諸王家が入り乱れて存在していた。東南アジアでも、ヨーロッパ勢力の進入以前には、数多くの王国が存在したが国境線もあいまいなままだった。(百瀬 1996:21−22)ベネディクト・アンダーソンは、近代以前の状況を次のように述べている。聖なる言語と書かれた文字を媒体とすることによって想像された宗教共同体が、ラテン語の没落、俗語の出版の増加によって崩壊したあと、王国が出現してきたが国民国家と違って、旧い想像世界の境界はすけすけで不明瞭であり、主権は周辺にいくほどあせていって境界領域では相互に浸透しあっていた。(アンダーソン 1987:28−37)
しかし、この状況は十七世紀ごろ、工業の発展に伴い労働と資本が領域国家内を自由に移動するようになり、小さな共同体から個人を切り離し一つの国家という大きな枠組みができあがり大変化していく。それぞれが絶対的な主権をもつ国民国家の形成は、明確な国境を持つ事となりその範囲内での様々な多様性を消滅させることによって、単一の同質的な「国民」の社会・文化を作りだしていった。(百瀬 1996:21−23)どのようにしてこのような国民国家形成が可能となったのだろうか。ベネディクト・アンダーソンは、多様性を含む領域に一国民で構成される国家ができた要因として、二つ挙げている。時間を共にするという歴史の共有、そして新聞などの出版物の共有であり、出版語が国語となり一度も会ったことがない人々と自分を結び付ける絆である国民という想像の政治共同体が生み出されていった。近代ナショナリズムは、多様性に富む境界のはっきりしないところに他と明確に区分された言語や伝統を作り出し、その内部に均質に普及させていった。このようにして作られた国家をアンダーソンは「想像の共同体」と呼んでいる。そして国民とは、本来的に限定されかつ主権的なものとして想像される、と定義している。(小田 1995:21−22、アンダーソン 1987:55−84)
このようにして、国民国家としての枠組みが西欧中心に18世紀ごろから作られていく。しかし、多民族国家ではあるが比較的一民族一国家のように成立する事のできた西欧に比べて、様々なエスニック集団が存在していた東欧などでは、そのまま国境を作ったため多民族国家になってしまった。各エスニック集団がそれぞれの国家を形成するのは不可能であった。そのため、マケドニア地方の住民のようにひとつのエスニック集団が、いくつかの国に分断されてしまい、各エスニック集団の解放運動や独立・分離運動などの民族問題が国民国家、とりわけ多民族国家において現在まで残っているのである。(百瀬 1996:24)また、第二次世界大戦後、植民地支配から独立していったアジアやアフリカなどの新興独立国家は一つのエスニック集団によって形成された国民国家ではなくて植民地宗主国が多様性を無視し勝手にひいた国家としての境界線を維持したまま、多くのエスニック集団をかかえる複合民族国家になった。これらの国内でも、多数派のエスニック集団が国民の主体となることが多く、主体になりえない少数民族の紛争などが、絶えない。エスニシティ問題が最近になってますます表面化してきた原因に米ソによる二極構造の崩壊や平等主義の台頭も挙げられるがそれらは、結局引き金であって、多民族国家の形成やそれに伴うエスニシティ問題は想像の共同体である国民国家の枠組みが原因となっているのではないだろうか。
(3)多民族国家とエスニック集団の関係
ここでは、多民族国家とエスニック集団の関係にはどのようなものがあるかを整理し、また国民の主体になれないエスニック集団を見ていき、国家とエスニシティの間でどのような問題があるかを考える。Nathan Glazerは、五つの視点から多民族国家とエスニック集団の関係を整理している。(綾部1993:7−9)
1.マレーシア、エチオピア、ベトナムなどの多数の民族を抱
えた新興独立国家
2.アメリカやカナダなどにおける黒人、フランス系住民などの既
成の安定した国家の内部における新しいエスニシティ問題
3.東ヨーロッパ諸国のユダヤ人のイスラエル移民によるイスラエ
ルの建国がパレスチナ問題を生んだように様々な国家において
の民族的純粋さを保とうという動きは民族問題をより複雑にし
ている。
4.ドイツのようにこれまでは民族的に単一であった国々に新しい
移民の流入によって民族問題が生じてきている。
5.アメリカにおけるベトナムやキューバからの大量難民の問題
のように、受入れ国に新しい民族問題が生まれてきた。
Glazerは上記の五つの関係しか述べていないが、オーストラリアのように移民を積極的に受け入れてきた国におけるエスニシティの問題もあるのではないだろうか。多民族国家とエスニシティの関係はそれぞれの国家によって様々で大変複雑である。
多民族国家の中で国民の主体になっている集団以外のエスニック集団を、武者小路は次の3つに分類している。(武者小路は、エスニック集団のことをエスニーと呼んでいる。)
一つ目に、先住エスニー。先住エスニーは、居住する地域の歴史過程のなかでその外部に成立した国家によって征服されたエスニーで、自己の生活様式やアイデンティティを維持しようとしている。二つ目に、国家未形成エスニーがあげられる。国家未形成エスニーは国家を未だに形成していないが、条件さえそろえば国家形成エスニーに転化しうるアイデンティティを共有するエスニーである。先住エスニーと国家未形成エスニーの違いは、都市や国家の造りだした宗教的・文明的なアイデンティティを受け入れたか、否かである。三つ目には本来の定住の地を離れ異国の地で生活している移民などの移住エスニーである。その中でも、難民は重要な類型である。(武者小路 1996:9−11)
以上見てきたように、様々な関係や多様なエスニック集団が存在するなかで、国民国家とエスニック集団の関係における問題を一つ指摘したい。それは、一人の人が国民国家とエスニック集団の二つの帰属意識を持っている事である。オーストラリアやアメリカのような移民国家では、移民達が故郷のアイデンティティを強く維持している事もあるため、もしその国と移住した国の間で問題が起こったらかれらはどうなるだろうか。在日朝鮮人のように、二つの帰属意識を持つエスニック集団にとって国民国家との関係は複雑で困難である。
一章では、エスニック集団と多民族国家についてみてきたが次の章では多文化主義にいたるまでとその概念の特性をみていく。
第2章 国民国家統合イデオロギーとしての多文化主義
(1)多文化主義への道
多文化主義という概念は、1970年代以降の多数のエスニック集団を抱えた移民国のカナダ、オーストラリアの国家統合という目的を達成するイデオロギーとして登場し、多言語主義や多文化教育という言葉や概念を背景に1980年代になって盛んに使われるようになった。(関根 1996:41−42)
世界的に、1960年代から人々がアイデンティティを主張し、それぞれのエスニシティを意識するようになり、各エスニック集団の存在が強く現れてきた。現在では、このようなエスニック集団の急激な台頭とあらゆる側面でのグローバル化による人の動きでより各国家の多民族的状況が複雑化している。そんな状況下で多文化主義は、政治的、経済的、文化・言語的不平等をなくして、エスニック集団の多様性をそのまま認めながら調和ある一つの社会を作っていこうとする国民・社会統合イデオロギーとして生みだされた。
各国のエスニシティ状況の違い、各国の経済・政治・国民統合状況でその政策は異なってくるが、多文化主義は、カナダ、オーストラリアで実際に初めて多文化社会の政治統合の手段として具体的に導入された。また、多文化主義は、エスニック集団の多様さから世界の縮図とも言われているアメリカでも近年急速に普及しはじめ、ヨーロッパでも程度の差はあるが移民、難民、外国人労働者の増加対策として用いられ始めているように、世界的に注目されている。ここでは一般的にどのような過程を経て多文化主義が国家統合のイデオロギーとして注目されるようになったかをみていく。
関根は、歴史的に多民族国家内でのエスニック集団関係は人種差別的関係、融合も含めた同化主義的関係、多元主義・多文化主義的関係という傾向で発展してきたと述べている。(関根1994:183−184)また綾部も、多くの近代国民国家を目指した国々が通過する思想として、主流民族文化への少数民族文化の同化政策、より民主的な融合政策、そして国家の基盤が確立し、平等思想が存在してくると多文化主義が生まれてくると言っている。(綾部1993:30−31)いつどの政策が優先され、これらの思想がどのような順序で国家のイデオロギーになっていくかは国情によって異なるが、多くの多民族国家がこれらの概念を統一政策に用いてきた。
人種差別的関係を生む人種主義は、異質な集団が接触したときに支配者集団が圧倒的な政治的、経済的、軍事的優勢をもって被支配者集団を劣等者扱いして差別視し、場合によっては排斥、抹殺しようとする時に用いられる概念である。人種差別的関係は、植民地社会や奴隷社会によく見られマイノリティ集団は肉体的、遺伝的性格をもとにして先祖、出自、言語、生活習慣を基準に区別され、トイレ、生活場所、職業、などあらゆる面で差別された。
同化主義は、1960年代まで一民族一国家という国民国家モデルの形成のために用いられた概念で、支配する側のエスニック集団は自らの文化を国民文化、自らの言語を国語とし、マイノリティの少数民族は、支配集団の文化、言語、宗教、生活習慣を受け入れなければならなかった。同化主義思想は、エスニック集団間の文化的な溝や境界は努力によって越えられるものとし、同化することで少数派のエスニック集団が消滅することを意味した。同化主義のもとでは同化できないものや同化拒否者は差別の標的となった。富田は個人またはエスニック集団が同化するのに次の四つの過程をあげている。まず、言語や生活習慣などの表面的・文化的同化、そして、地域での付き合いや友人関係、学校、企業、医療、議会などでの関係という他集団との相互作用によって起こる社会的同化、三つ目に、他集団間での通婚をとおして身体的特徴の類似性が増して起こる身体的同化、最後に、個人レベルの意識のなかで我々とかれらが同じと感じられるかという心理的同化である。(富田1992:160−167)
同化過程には初めの集団の接触の仕方や接触期間、集団間の文化の類似性、同化意欲など様々な要因が影響してくるが、安定した国家を形成するために支配者集団は同質的で均質な社会を理想とした。特に先進諸国では、同化とは近代化と同一視されており、近代社会の価値や行動規準、都市的生活様式への適応を意味し、同化拒否をするものは非近代的で後進的人間とみなされた。
統合主義は、同化主義の一種であるが、より民主的で理想主義的思想といえる。統合主義も、努力によってエスニック集団の溝を消滅させられると考えられている点では同化主義と同じだが、同化主義が一つのエスニック集団が他のエスニック集団を吸収同化するのに対し、統合主義のもとではエスニック集団が相互に影響し合う中で、どちらもが変化して融合して新しい社会を作り出していくと考えられている。統合主義はアメリカにおける、「人種のるつぼ」が有名でGordonは同化主義と統合主義の差を、A+b+c=A、A+B+C=Dと記号で表している。ここでは、アルファベットは集団を大文字、小文字は文化の影響力の強弱を表している。(関根1994:183−187)
人種主義、同化主義、統合主義を経て、今世界的に多文化主義的傾向にあるのはどうしてだろうか。結局、多民族国家は安定した国民国家を形成するために均質的な社会を作ろうとしてきたがエスニック集団の境界は簡単には越えることができなかったのではないだろうか。同化圧力や自己のアイデンティティを防衛するために、自らの文化を強調し1960年代以降それぞれのエスニシティ主張し、エスニック集団が復興したかのように浮き彫りになり、完全な同化が不可能であったことがわかり多様性のなかでの統一を掲げる多文化主義が生まれてきたといえる。ここではもう少し比較的多文化主義が強く現れている国であるアメリカ、オーストラリア等の歴史的発展についてみていくことにする。
この二カ国は国民統合のために一般的に考えられている上で挙げたような思想を通過してきた国である。オーストラリアとアメリカが、多文化主義を促進してきた共通の特徴として、両国とも移民を基盤に創られた国で、移民をよく受け入れている移民国家である事が挙げられる。たくさんの国から移民を受け入れる事によって多種多様なエスニック集団を抱えた国家が安定するためには国民統合の実現が第一に必要であった。
アメリカはヨーロッパからの白人移民達によって建設された国家だが、初期のヨーロッパ移民の多くは先住民のインディアンを野蛮人とみなし根絶さるべき人種と人種差別し抹殺、または文明開化させようとした。アメリカのフロンティアが西部へ移動するにつれて多くの移民を受け入れ、ヨーロッパから移住するエスニック集団も多様化してきたが20世紀初めになるまでの長い間アメリカでは当初からマジョリティを占めてきたイギリスからの移民WASP(アングロ・サクソンでプロテスタントの白人)的文化が主流を成し他のエスニック集団がこれに同化するのが当然と考えられてきた。
しかし、20世紀初めになると、ヨーロッパの伝統は生かしつつも多様なエスニック集団が溶け合って融和して新しいアメリカ人として統一されていくべきだとするユートピア的な思想が現れる。「人種のるつぼ」という言葉はロシア系のユダヤ人が非ユダヤ系の女性と結婚する劇「ザ・メルティング・ポット」が出て以来広く用いられるようになった。
しかし20世紀の後半になるとアメリカは、エスニック集団の文化や宗教の多様性が残ったままだったという事に気がついた。それぞれのエスニック集団が独自のアイデンティティを保持していたのだ。そこで多様性を認めて調和することによって、アメリカ社会を形成しようと考えられるようになり黒人の公民権運動との関連で多文化主義は現実の政策となってきている。(綾部 1993:92−103、明石・飯野 1997:22−42)
オーストラリアもアメリカと同じような経路で現在多文化主義に至っているが、イギリス系のエスニック集団が8割を占め、すべての公式組織や儀式がイギリス起源であり、移民政策の変化によって国家統合の概念も変化してきたのが特徴的である。
オーストラリアは初めイギリスの流刑植民地として出発し、その後ゴールドラッシュがおきヨーロッパを中心に中国からも移住者が殺到した。イギリス系の移民者は中国人に労働の機会を奪われることに反発し、中国人を行動様式、服装や食事、衛生観念の違いから差別し排斥運動を展開した。移民制限法が1901年に施行されて、英語力のテストによって実質的に英語圏の白人ばかりを受け入れるようになると、オーストラリアではイギリス系の白人だけでなる国であるという人種差別的な白豪主義が政策となっていった。第二次世界大戦後は安全保障と経済開発のため労働力として2%の人口増加が計画されそのうち1%は移民でまかなうことにした。しかし、十分にイギリス系の移民を確保できず、白人でオーストラリアの社会文化に同化できる移民であればいいと同化主義政策に変わっていく。一方で、先住民のアボリジニに対しては、入植当時、彼らを下等で白人の高度な社会に適応する能力がないとして、白人の必要としない土地に隔離し、保護下においた。戦後は、他の移民達と同じように、同化政策が行われ、混血のアボリジニの子供を親から強制的に引き離し、「白人らしく」育てるためのボーディングスクールが1970年代まで行なわれ、彼らの多くは家族と会えずに現在に至っている。(窪田1993:99−109、関根1994:329−349)
1960年代からは、人口増加達成のために、また国際関係でイギリスよりもアジアやアメリカとの関係を密接にする必要から、白人だけでなく有色人種も受け入れるようになってくる。しかし、比較的教育能力も高く同化しやすかったヨーロッパ系移民に比べ、自国の文化、言語、生活習慣を維持しようとしてオーストラリア社会に順応しようとしないアジアなどからのエスニック集団が存在することで、オーストラリアは互いの文化を尊重しながら交流し、新しい文化の創造を目指す統合主義に政策変換していく。そして、アメリカと同じように多言語教育や移民法の改正、人種差別禁止法の制定、国際関係を背景としてオーストラリアは現在多文化主義を社会統合のイデオロギーとしている。(関根1994:350−355)
移民国家である多民族国家以外の地域では現在どのような状況になっているだろうか。ヨーロッパでは、フランス、イギリスなどの国民国家がアメリカなどと同じように同化、統合政策を移民者に対して行ってきた。しかし、一民族一国家という想像の共同体である国民国家の統一は未完成に終わり、結局は1960年代から独自の文化、言語を維持するエスニック集団の存在が浮き彫りになり、また他国からの労働移民者の大量流入により、ヨーロッパはどんどん多民族化している。
そんな中、ヨーロッパでは1992年にEC統合が行われた。経済的・政治的統合だけでなく、文化的・社会的統合も問題になってくるが複数の国家、文化、言語から成り立つ共同体であるため、必然的に文化や言語の多様性を保とうとする、多言語主義や多文化主義が文化政策として導入されようとしている。EC統合によって、国民国家はECにより一定程度の制約を受けることになり、主権が弱体化してきている。そして人々は、ECの多文化主義のもと、エスニック集団のエスニシティを維持できるということになる。ECの政策と同じように、各国も安定を保つため、多文化主義に移行している。(梶田:1991:19−26、107−111、134−135)
多くのアフリカ諸国はしばしば様々なエスニック集団が地域権力機構をもっており、国家機関の十分な統治ができず不安定なバランスのまま統一を維持したり軍事独裁が多いが、ペナン人民共和国のようにエスニック集団の多様性を認めはじめている国もある。ラテンアメリカでは、同化が一般的に受け入れられてき、公用語の習得などを通して移民にも先住民にも同化が期待されてきた。しかし、先住民の自治の尊重やバイリンガル教育をはじめ、少しずつ多様性を認める方向に変わってきている。(スタヴェンハーゲン1995:54−56、205−212)アジアの複合民族国家として有名なマレーシアの場合も、多様性を認める政策に到達した国ではあるがWASPのような優位なエスニック集団が存在しないため、同化主義などはその過程に見られない。マレーシアには先住民のマレー系、移民の中国系、インド系のエスニック集団が存在し明確に出自を違え、宗教、文化も異なっていたためマレーシア民族を想像するのは不可能であった。また、華人は経済的に優位でマレー人は政治的に優位とエスニシティ状況は複雑であるが多様性を維持しながらも独立後の分裂状態から国民国家として統合されてきている。(加藤 1994:108−117、シャムスル 1996:47−59)
以上のように、各国の政治、経済、国民統合状況で多民族国家の政策は異なっているが、世界的に見て多文化主義の方向に向かってきているとみていいのではないだろうか。
(2)多文化主義の目的と多様性
多文化主義は、国民国家が支配しているエスニック集団の言語、文化、生活習慣を国民の共通のものとして他のエスニック集団にも受け入れさせ、均質的な国家を創ろうとする同化主義にもとづく国民統合政策を否定するものである。同化主義は、多様性のある社会を統合するというよりむしろホスト社会に同化できなかったエスニック集団の不満を生みだした。同化圧力に対して自己の文化、言語、アイデンティティを守ろうとして自治、分離、独立を求めて紛争が起こってしまい、国家の統合より分裂を招いてしまう政策となった。そこで、現在多くの国家では多様性を認めながら社会を統一していこうという視点で多文化主義に注目するようになってきた。
現在、多文化主義の概念は多様で曖昧だが多文化主義とはどのようなものなのだろうか。多文化主義とはmulticulturalismの訳語であるが、他にもこの単語の訳語には多元文化主義、多様文化主義、文化多元主義、複合文化主義など様々である。そして、これらが全くの同義語というわけではないようだ。梶田は多文化主義と文化的多元主義を次のように区別している。多文化主義は、それぞれの文化の平等が強調され、圧倒的に強い文化は存在しないが、文化的多元主義の場合には、マジョリティの強い文化が存在するが、それ以外の複数の文化の存在も認められている。よって、アメリカなどのようにWASPの文化や建国からの自由・独立の理念の強い国家ではその優位性は揺るぎにくく文化的多元主義のほうが好まれると述べている。(梶田 1996:69−70)
また、類似した概念に文化相対主義も挙げられる。文化相対主義とは自分自身のもつ文化を最高であると考える自民族中心主義と対立する概念で、すべての文化がそれなりの価値を内在しており、あらゆる社会に共通する単一の価値尺度は存在しないのであり、その理解にはその文化の人々の文化的背景や社会規範に照らし合わせることが必要だという考え方だ。(文化人類学辞典 671−672)つまり、文化相対主義の下ではそれぞれの文化に上下関係はないとされる。よって、ひとつの社会、国家の内部においての複数の文化の共存を課題とする多文化主義と文化相対主義は同義語ではないが、多文化主義を成立させるためにはエスニック集団なり個人なりお互いに他の文化の存在を認めなければならないので、文化相対主義の理解・共有が必要になると筆者は考える。
以上のように多文化主義には他に似た概念があるが、この論文では政治的、社会的、経済的、文化、言語的不平等をなくして複数のエスニック集団の共存を目指すイデオロギーとする。Gordonは、エスニック集団と国家をそれぞれ野菜や楽器に見立て、多様性のなかでの統一をサラダ・ボールやオーケストラとし、A+B+C=A+B+Cと記号化している。(綾部 1993:97−100)国家は多文化主義政策として、各エスニック集団の伝統文化、言語、生活習慣を積極的に保護し、公的援助を行うだけではなく、人種差別、偏見の禁止、教育や就職の場での積極的な差別是正措置を導入してマイノリティになっているエスニック集団の社会参加を促している。多文化主義政策のもとでは、マイノリティのエスニック集団に属している人々が自分達の文化が尊重され、社会参加することによって、社会への適応力を増し、国家に忠誠を抱きはじめ、分離や独立運動が起こらなくなり、最終的には、多様なエスニック集団が調和しながら社会統一される事が期待されている。(関根 1994:199−200)
関根は、多文化主義のもつ目的を六つ挙げている。(関根1994:201−202)
1. エスニック・マイノリティの文化や言語の尊重
2. エスニック・マイノリティの社会参加の機会の平等と、ホスト社会の文化、言語の教育機会の拡大
3. エスニック・マイノリティのホスト社会、そして他のエスニック・マイノリティ集団間の積極的な相互交流の促進
4. 不利な立場におかれやすいエスニック・マイノリティに対する各種援助や優遇措置の実施
5. 支配社会の人々の異文化や異言語に対する寛容性と優遇措置、援助への理解の向上、偏見、ステレオタイプ、差別意識の打破
6. 移住者の文化、言語、母国に対する知識の利用による貿易・投資関係の促進
このように、多文化主義には様々な目的がある、実際にうまく実行されるためには、いくつかの条件がある。
まず、多文化主義政策が、一部の人に対する優遇政策だけにとどまるのではなく、最終的に社会統合という目的を達成するための国民全体に対する政策であることを支配社会のエスニック集団に属する人々にも理解してもらうことが重要である。なぜなら、もし多文化主義が一部の人ための優遇政策であると考えられると、特定の人のために国民の税金を支出していると不満を生むことになる。そして次に、同化主義時代には支配社会の価値や規範をマイノリティのエスニック集団に押し付けて同化するように要求するのみで、特に国家や社会側は何もしなかったが、多文化主義では社会側の積極的な制度や意識の改革が必要である。国民全体の理解を得るためにも、多文化主義の宣伝や教育活動は不可欠だ。三つ目に、支配社会の人々も積極的に多言語を学び、エスニック・マイノリティ集団とお互いに異文化理解と異文化コミュニケーション能力を高めて、相互交流していかなければならない。なぜなら、もしお互いの文化や価値観を理解しあっていても、相互作用がなければそれぞれのエスニック集団は閉鎖的で孤立していき、結果的には分離的で社会も分裂的な傾向になってしまう。(関根 1994:200−201)最後に、多文化主義を成立させるためには、お互いの文化を認め合うということが重要である。(梶田 1996:85)各エスニック集団が自己の文化や価値観を主張するばかりでは文化衝突を起こしてしまう。よって自己の文化を認めてもらうには他者の文化を認めなければならないので、それぞれの文化が価値をもっており文化間に優劣はない文化の相対性をそれぞれ各自が受け入れなければならない。
ところで、多様性を認めたまま社会を統合するのが多文化主義の目的とするところであるが、価値観や規範などどこまで多様性を許容するかによって多文化主義もいくつかに分類できる。Gordonは多文化主義を多様性の許容範囲によってリベラル多元主義とコーポレイト多元主義の二つに分けている。
リベラル多元主義は、差別を禁止して社会参加のための個人を単位とした「機会の平等」を求める概念である。各エスニック集団の存在を認め、私的空間でのエスニック集団の文化や言語の維持は認められるが、公的空間ではホスト社会の価値基準や言語に従わなければならない。つまり、家やエスニック集団のコミュニティではどのような衣装を着ても、どんな食べ物を食べても、どの宗教を信じたり言語を使っても良いが、学校や職場、政治などの公的空間ではホスト社会の言語や生活規則を守らなければいけない。公的空間では人種差別も禁止され同化は差別行為とみなされるが、普遍主義的でリベラルな価値観(自由、平等、個人主義、能力主義、信仰の自由など)にもとづく生活が行われる。リベラル多元主義のもとでは、多様性の許容範囲は私的空間に限られ、支配社会の言語や社会制度に関する教育の援助は積極的に行われるが、マイノリティのエスニック集団に対しての財政的、法的援助はみられず、制約の多いものになっている。(Gordon1988:157−166)
コーポレート多元主義は、エスニック・マイノリティ集団の被差別者は競争上不利であることを認め、社会参加のために積極的に財政的、法的援助を行い、「結果の平等」を求める概念である。ここでは、私的空間、公的空間の区別なく各エスニック集団の文化、言語、価値観などが認められる。よって、公的空間での多言語放送、多言語コミュニケーション文書、多言語・多文化教育がさかんになり、差別禁止だけでなく人種的中傷の言動に対する処罰も加えられた。さらに、政府はマイノリティの不利な立場を克服するために様々な援助を行い、就職や教育に対し積極的な差別是正措置(アファーマティブ・アクション)も実施し、マイノリティも人口比に応じて教育や就職の場で代表されるように配慮される事が期待される。また、社会側の制度改革も行われ、公的機関(行政機関、病院、学校等)での通訳や多言語職員の配置を強制したり、地方選挙の参加や公務員の登用が認められる。(Gordon1988:157−166)コーポレート多元主義はリベラル多元主義より多様性を認める範囲がはるかに広いといえる。
この二つの概念において私的空間と公的空間の区別は重要になってくるのではないだろうか。フランスの場合には、私的空間が個人や家族の内部に限られるので、自己の文化や、アイデンティティは制約を受けてしまうことになる。そして、イスラム教徒にみられるように、文化が社会関係の構成原理になっている場合には多文化の許容範囲が私的空間と公的空間にわけられていると、問題が起こってくる。なぜなら、イスラムは宗教が政治や社会と重なりあっており、生活の規範自体が宗教の価値観や規範に基づいているためである。(梶田 1996:82−84)フランスの公立学校でのイスラム学生の「スカーフ」着用の禁止に関する問題は、公的空間でのマイノリティのエスニック集団とホスト社会側の規範、価値観の衝突を現しているのではないだろうか。
次に、多文化主義がどのように実行されているかオーストラリアの現状を見る事にする。
第3章 オーストラリアの多文化主義
(1)多文化主義政策の変遷
オーストラリアは、カナダと共に現在、多文化主義を国家の統合イデオロギーとして採用してかなりの成功を収めた国と言われている。ここでは、オーストラリアの1960年代以降の急激な多文化主義政策の変化について見ていく。オーストラリアは、移民で成り立つ国家であり、移民の受入れとの関連の中で国の状況も変化してきた。よって、政府の移民政策が実際の多文化主義政策で重要な位置を占める事になる。
オーストラリアの人口は現在、広大な土地を保有しながら、約1800万人である。連邦国家として独立してから、オーストラリアは常に人口増加を移民、難民の受け入れによってまかなってきた。特に、第二次世界大戦後、経済復興と大陸防衛のために導入された大量移民計画と、白豪主義政策からの脱却による非英語圏からの移民、近年のアジア系移民の増大により、オーストラリアは、多様なエスニック集団を抱える多民族国家と言われるようになってきた。それでは、オーストラリアのエスニック集団の人口構成はどのようになっているのだろうか。
まず、図1によると、1986年では人口の約21%が海外出身者の移民という事になる。そのうち、1986年の時点では移民の半分が、非英語系の国々からの人々によって占められている。そして移民供給国は、世界中に広がり、100カ国以上にわたっている。しかし、この統計からするとオーストラリアにおける非英語系の人々は約10%ということになる。表1からアメリカのイギリス・アイルランド系の人々が20%未満で、カナダの場合45%未満であるという状況と比べてみると、オーストラリアは、イギリス文化圏の集団が圧倒的多数であり多民族国家と呼べるのだろうか。
先の生誕地別統計では、移民、難民の子供はオーストラリア生まれになっている。移民第2世代は第1世代より英語に困らず社会に適応していけるかもしれない。しかし、例えば、ギリシア系移民の子供たちは、実際は、文化的、言語的にはギリシア系のエスニック集団に属しているといえる。よって、実際のエスニック集団の人口構成は生誕地別統計ではわからない。図2の言語別統計を見てみると実際には非英語圏の人々が全人口の約20%を占めることがわかる。表2の1990年代の移住者についてみてみると、全体の50%前後がアジア系となっている。華僑・華人は、イタリア・ギリシア系移民についで3番目に大きなエスニック集団になっている。このように、アメリカなどと比べるとイギリス系の集団が多くを占めているが、オーストラリアは多民族国家といえ、またアジアからの急激な移民増加に伴いますます多民族的状況は進行していくと思われる。(関根 1991:8−39)
次に、オーストラリアの多文化主義政策の変化についてみていく。
オーストラリアでは、第二次世界大戦後、経済発展と防衛のために大量の移民政策を実施してきた。英国やアイルランドからの移民に限定せず、南ヨーロッパなどの非英語系移民も受け入れた結果、1960年代後半の統合主義時代から移民に対する英語教育、福祉などの助成が行われてきた。このころの移民対策はまだ、エスニックマイノリティ集団の文化・言語の維持に対して積極的な援助までには至らず、差別についても法的処置は取られておらず、特別で臨時的なものだった。しかし、このころから移民、難民の人々を「問題者」という認識から「不利益を被っている人」とみなすようになった人々の心理的変化は重要である。(関根1991:350−355)「多文化主義」の名称が公式に採用されるようになったのは、ウィットラム政権の時からだが、オーストラリアの多文化主義は、時代とその性質によって3つに分けられると筆者は考える。(関根1991:350−355)
まず、一つ目は1970年代前半のウィットラム労働党政権の時である。オーストラリアは英国の植民地であったため、戦後まで政治・経済的に英国に依存していた。しかし、イギリスの覇権パワーの衰退とEC加盟もあり、オーストラリアは、政治・経済的、軍事的、文化的にもアメリカに依存するようになる。1960年代以降は、日豪貿易もさかんになり、ASEAN諸国などの経済発展を進めるアジアとの貿易を増やす事がオーストラリアの経済発展にも重要になったきた。よって、イギリスよりアジア・太平洋地域との経済・政治関係の強化のため、アジア人も含めた差別的な白豪主義を廃棄しなくてはならなくなった。(関根1997:154−156)1958年に、人種に関する条項の撤廃、英語テストの廃止、1966年には、非ヨーロッパ系移民の一時滞在を認めるなど、戦後、移民審査を規定する移民法の改正が行われてきたが、1972年に政権をとった労働党は、1973年に移住政策における人種差別条件を完廃し、白豪主義を完全に終了させた。また、移民の文化や言語の維持のための援助や差別に対する法的措置にも理解を示した。その態度は、多文化主義という言葉を用いだしたその時の移民大臣グラスビーの声明にも現れている。彼は、「差別をなくすことは、オーストラリアにとって国益となる。」、また、「移民に対して、経済面での機会の平等を確実にするばかりではなく、オーストラリア生まれの人々と同じ条件で競争できるように援助が必要である。」と述べている。(関根1991:355−360、中西1999:36−41)
実際この時代は、差別的条件を是正したものの移民数を制限したり、結局は経済の停滞による財政上の圧迫もあり、援助計画は不十分なものに終わり、制度改革をしようとしたができなかった。しかし、1974年に「雇用、職業上の差別調査委員会」を各州に設置したことと、1975年に、制定された「人種差別禁止法」はこの時代の功績といえる。アボリジニに対しても、「自主決定政策」を打ち出し、アボリジニへの援助を増やし、アボリジニ問題の討論にアボリジニ自身が参加し、自主性と決定権を認めていこうとした。多文化主義を政府の方針としたことや、企業、学校などの公的領域での差別がの全面的な廃止を法律として明文化したことは、多文化主義国オーストラリアとしての大きな一歩だったといえる。(関根 1991:361−362、窪田1993:109)
次に、1975年に政権を引き継いだフレーザー保守連合政権の時代には、より多文化主義の政策が具体化していくことになる。フレーザー政権がとった移民政策には次の4つがある。移民省の分離独立、移民者数の拡大とインドシナ難民の大量受入れ、「ガルバリーレポート」、移民選択方式の変更、である。
まず、先の労働党によって移民に関する教育、福祉などの機能が各省庁に併合されていたのを、再統合して移民の専門機関として「移民、エスニック問題省」を発足させた。ここでは、移民政策だけでなく、移民後の定着にともなう諸問題の解決にも関わっていくことになった。
フレーザー政権は、移民の総数を制限したウィットラム政権と異なり、不景気からの立ち直りのために移民が必要であるとの立場をとり、移民数をひきあげ実質10万人ほどの受入れを勧告した。また、1978年以降、インドシナ難民を中心としたアジア系移民の受入れを決定する。その背景には、東南アジアの安定をはかり、インドシナ難民を受け入れる事によってオーストラリアのイメージアップを計ってアジア・太平洋国家としてのオーストラリアの存在を宣伝できるという利点があった。この移民の増加、特にアジア系の増加対策により、オーストラリアの多民族化は進行し、多文化主義の政策を具体的に考えて本格的に実行していかなければならなくなってきた。(関根1991:368−386)
そこで、登場したのが英語教育のみでなく、多文化・異文化問題にも注目した1978年の「ガルバリーレポート」である。このレポートは、今後移民、難民に対してどのような対応をすべきかの調査、移民対策の原則に関する理念、勧告であり、政府はすべてを受け入れている。よってこのレポートがフレーザー政権の多文化主義政策の要になっている。この報告書の骨組みは以下の4つである。(窪田1993:105)
@ すべての人々にに平等な機会が保証されるとともに、各行政サービスを平等に享受できるようにする。
A 自己の文化を、偏見や不利益を被る事なく維持できるとともに、他の文化への理解と尊重の精神を促進する。
B 移民に対しては特別な行政サービスによって、彼らが一般の人々と同等な生活ができるよう配慮する。
C サービスは、それを受ける人々のあいだの協議のうえで計画され運営されなければならないが、同時に移住者がはやく自立できるように、できるかぎり移住者自身が努力することをすすめる。
政府は、この報告書をうけて、エスニック集団のコミュニティを積極的に評価し、多額の財政支出をして具体的な施策を展開していく。「移民資源センター」を設立し、エスニックコミュニティへの援助を行ったり、非英語系移民と難民のための英語教育、生活と就職に必要な一般知識を提供する「成人移民教育プログラム」への援助を拡大してより彼らが社会に適応していけるような教育をめざした。また、「オーストラリア多文化問題研究所」を設立し、移民、難民に関する問題を研究し政府に勧告する専門機関を設置した。さらに、エスニック集団がそれぞれの言語・文化を学んで維持していこうとするエスニックスクールなどの多文化教育に対する公式な援助が始まり全国的に認知されるようになった。多文化教育に並んで、非英語系エスニック集団のための多言語ラジオ放送局が以前より充実し、テレビ放送も設置されてきた。(関根 1991:368−391)
最後に、英語力や出身国などの文化的属性などに対する移民間の裁量による「入国許可システム」が1979年に改められ、移民希望者の年齢、英語力、熟練度、技能、専門性、親族関係、企業の推薦などの項目の総得点により受け入れが決められる「要因別数量評価システム」が導入された。これにより、何が出来るかという移民の技術や機能が重視されるようになり、文化的属性が問題にされにくくなってきた。(中西 1999:40)
アボリジニに対しても、「自主運営政策」と題し、政府の関与を縮小し、アボリジニ自身による運営、決定を重んじようとした。(窪田1993:109)
以上のように、フレーザー政権は、多文化状況を認識し、積極的援助などを通して政策を具体的に実行していった。
3つめの多文化主義の段階として、フレーザー政権を引き継いだホーク政権は、ガルバリーレポートにあった自助努力に代わり、移民政策をヴォランタリー組織やエスニック集団にまかせっきりにするのでなく政府がさらにプログラムやサービスに介入していく事を強調した。一方で、現在は経済不況から回復するために連邦予算が大幅に削減され、移民政策に関する援助も徐々に削減されてきている。(関根1991:464−468)
オーストラリアでは現在、「主流主義」の考えが展開されてきている。主流主義とは、非英語系移民のためだけに、特別なサービス機関を作るのではなく、従来から機能している福祉、教育、厚生などの諸機関の制度の構造改革を進めていくというものである。理想的に機能すれば、非英語系の移民や難民も不利益を被る事なく、特別扱いされず、平等に一般生活を英語系オーストラリア人と同じように、送れるかもしれないので、主流主義は、多文化主義のいきつく先の一つの形かもしれない。しかし、この考えを実践するのは今の段階ではかなり難しいだろう。(関根 1991:464−468、396−400)
オーストラリアの多文化主義は見てきたように、1970年代前半は、異文化や異言語の存在を認めつつも、その維持のために積極的な公的援助が見られず、また英語と市民社会の価値、規範を公的生活の場では要請された事から、リベラル多元主義であるといえる。しかし、1970年代後半から1980年代にかけては、多言語放送、多文化教育、などの様々な公的援助がされるようになり、コーポレート多元主義の側面が加わってきている。よって、現在はリベラル多元主義にコーポレイと多元主義の要素がたされた状態といえるかもしれない。
(2)多文化主義のサービスとプログラム
この節では、ガルバリーレポートの勧告を受けて、実際に実行されてきた各種の移民のためのプログラム、サービスについて見ていく。
政府が、最も力をいれているのが、「成人移民教育サービス」である。これは、英語を母語としない移民が不利益をおわないで、オーストラリアで働き生活していけるように、言語の習得を援助する事を目的としている。1983、84年度の会計においては、成人移民教育事業に、移民政策における全支出の4分1の3902万ドルが支出され、授業費、教材、教員の給料に費やされてきた。政府は、なぜ非英語圏のからの移民に対する言語教育に積極的なのだろうか。(関根1991:45)
移民は、新しい国で生活していくためには経済的安定が必要となってくる。よってより良い職種に就くためにも、移民先の社会に馴染んで生活し、社会的・文化的地位を向上するためにも英語能力が重要になってくる。英語を全く受け入れなければ、いくら多文化主義政策の下、それぞれのエスニック集団の存在が認められても新しい社会で成功することは難しい。例えば、英語能力がないと、病気の症状を伝えたりするのが困難になる。もちろん、通訳をおけば英語教育は必要ないが、まだまだ不足の状態で、故国と異なった医療制度や保険の利用方法の知識についても不充分になってしまいがちだ。特に、英語能力に欠ける移民労働者の職場でのハンディキャップとしては、業務報告、名簿、退職届などの記入要領が理解できなかったり、説明書などの専門文書を扱えなかったりすることが挙げられ、技術や能力はあってもなかなか実力が発揮できないかもしれない。しかし、英語能力を身につければ、同僚や上司ともコミュニケーションがとれ安全に関する情報も理解でき労働においての不利益は少なくなるだろう。(関根1991:386−387、中西1999:136)
成人移民教育は連邦と州政府が合同で行っている国家的計画で、連邦が計画、基金を調整し、各州がそれぞれのAMES(成人移民教育サービス)を通じて方法を考え運営している。そのため、後述するが州によって運営方法は少しずつ異なってくる。1988年のこの移民教育計画への参加者はおよそ6万人にのぼっている。成人移民教育はあらゆる地域のコミュニティーセンターの他にも、職場、図書館、カレッジなどの各種教育機関で実施されている。(中西1999:91)
中西によると、オーストラリアのESL, English as a second language(成人移民教育)は4つの過程に分ける事ができる。第一段階は、コミュニティーセンターなどで多く行なわれるオーストラリアに到着直後の移民を含めての生活を支えるための英語能力、基本的な会話習得のための教育である。第2の過程として、TAFEカレッジ(技術継続教育)における準備コースがあげられる。これは、TAFEの一般コースや大学の進学準備の英語プログラムで、識字教育と専門的な職業技術訓練を行う継続教育や高等教育に要求される英語のレベルの差を補うという目的を持っている。次に、専門的、技術的な教育訓練を提供するTAFEの一般コースがあげられる。ここでは、職業技術の資格や学位が得られる。最終段階としては、上級教育カレッジや大学などの高等教育機関における教育訓練プログラムがある。この過程では、弁護士、医師、教師、会計士などの国家試験を要する専門職の継続教育が中心となる。(中西1999:103−105)
もう少し、ニュー・サウス・ウェールズ州を例にESLの学習過程を見てみると、まず最初に移民の受講者は、0,0+、−1、1、1+、2、3、4、5の9段階に分けられたオーストラリア第2言語能力評価(ASLPR)のスケールによって英語学習の到達レベルを測られ、ステージ分けされていく。まず、ステージ1は、ASLPRが0、もしくは0+のレベルの初心者用の基本的な日常会話クラスで、学習速度も、3つに分けられている。よって、移民各自の学習ペースに沿って効率よく英語を学ばせるようにしている。ステージ2は、初心者と中級者の間で、ASLPRが−1から1までのレベルが要求され、職業のためや地域社会に参加するための英語の上達が目標で、それぞれのクラスで目標課題や速度を決められるようになっている。ステージ3は、ASLPRが1+から2までの受講者で構成され、より目標別により高度な英語を学ぶ事となる。ここまでの、ステージで前述した過程の2までだいたい終了した事になる。(中西1999:106−110)
また、最近では成人英語教育サービスの一環として、「職業英語教育プログラム」が提供されている。この州では、現在2500から3000名の労働者がこのプログラムを受講している。このプログラムは、職場のなかで教室が開かれるものと、特定の地域のいくつかの企業から希望者を集め、コミュニティー・センターなどで行なわれるものがある。コースの期間は、平均12週間で、講習時間は週4時間から8時間で、そのペースはまちまちで自分で一定期間に集中させる事もできる。クラスの大きさは、10人前後が平均で、一般の英語コースから報告書作成英語コース、安全英語コース、資格取得英語コースと様々である。(関根1991:441−444)
クィーンズランド州のAMESは、事務管理のみで、受講者に対するカウンセリングがされ、語学のみでなく教育経験や資格に対する総合的判断で教育機関の手配がされる。ASLPRが0から1の初心者は、ニュー・サウス・ウェールズ州と同じように、センターで行なわれるが、それ以上のレベルはTAFEに付随する教育部で学び、スムーズに継続してTAFEで職業教育英語などを受講しやすい仕組みになっている。80%の修了生がTAFEの一般コースへ進学し、15%が専門的な職業につき、失業者は受講生のわずか5%にすぎない。(中西1999:110−112)体系的に移民教育を扱う事によって、クィーンズランド州は、より多くの移民に学習の機会を与え、英語学習の成果をあげているといえるのではないだろうか。移民が、知識や技能を習得し、社会的向上をはかるためには、英語教育を後の継続教育につなげていくことが重要なのである。以上見てきたように、オーストラリアの成人移民教育には、様々なプログラムが存在し、社会に適応するために、多くのひとによって利用されている。
英語だけでなく多様なエスニック集団から構成される社会で暮らすには、アングロサクソン系オーストラリア人も含めて、異文化・異言語を持つ集団とのコミュニケーション能力や異文化交流をするための異文化理解力を発達させていかなければならない。よって、オーストラリアでは、ガルバリーレポート以降、エスニック集団間の偏見や自文化中心的態度を取り除き、異文化間コミュニケーション能力を向上させるために、「多文化教育」、「異文化教育」が導入されてきた。
多文化教育は、移民の出身国の歴史や文化、社会について学ぶ事によって、オーストラリア人が、移民、難民の出身国の文化・社会を理解し、文化相対主義的態度と異文化尊重の精神を身につけることを目的としている。また、移民と難民は、多文化教育によって、故国で身につけた文化や言語から突然遮断されることなく、また移民2世以降の人についても、故国の文化学ぶようになっており、自分達の文化や言語が尊重されていることによって、誇りと自尊心を持ち、積極的に社会参加することが期待されている。(関根1991:440)
多文化教育には、一般に非英語系移民と難民のエスニック集団が、土曜日や日曜日に、学校や教会などの施設を利用して、自国の文化や言語を教える「エスニック・スクール」と、一般の学校のカリキュラムに組み込まれたものの2種類がある。成人オーストラリア人はエスニック・スクールで、子供たちは学校で、多様な言語を学び、社会における多様なエスニック集団の存在を認識し、異言語を学ぶことによって移民達の経験する困難さを理解させようとしている。(関根1991:471−472)
実際にどのように多文化教育が学校のなかで行われているか、多文化教育が進んでいるビクトリア州のモーランド小学校のカリキュラムを例に見てみることにする。この学校には、アングロサクソン系のオーストラリア人は18%にすぎず、トルコ、アラブのイスラム系が50%を占めている。また、ギリシア系の生徒も27%と多く、最近ではベトナムやスリランカ、モルディブからの移民の子供も増えてきている。イスラム教徒の生徒は民族衣装であるへジャブ(スカーフ)を身につけているが、フランスの場合と違って着用が認められている。
多文化教育のプログラムは、非英語系児童のための英語授業、コミュニティ言語の維持のための授業、第2語学の授業、異文化理解から成り立っている。モーランド小学校の場合、コミュニティ言語は、多数派のトルコ語とアラビア語で、第2語学は、ギリシア語とイタリア語である。トルコ語の教室では、色紙やプラスチックなどを使って画用紙に色々なデザインの単語を作るという文字の勉強が行なわれていたり、ギリシア語の教室では、紙工作でギリシアの街作りをしたり、イタリア語の教室では、イタリア語で歌を歌ったりダンスをしている。どの授業でも、語学だけでなく、それぞれの言語の背景にある文化、社会などについても学ばせようというカリキュラムになっている。この学校では、第2言語のギリシア語などの授業では、誰でも受講できるので、小さい頃から、多言語だけでなく、異文化理解力を向上させようという試みがある。(永井1996:31−32)
また、この学校では、多文化教育のカリキュラムが全校集会にも現れている。以前は、校庭を行進し、男子生徒が国旗に敬礼して、「国を愛し、国旗に敬礼を表し、女王陛下につかえ、先生、両親、法律にしたがいます」と宣誓し、「ゴッド・セイブ・ザ・クィーン」(女王陛下万歳)を斉唱していた。しかし、今では、移民の存在も内容に含まれる国歌「アドバンス・オーストラリア・フェア」(進め 美しきオーストラリア)を斉唱し、その後には、ダンスなどが行なわれる。オーストラリアの曲から、ギリシアのフォークダンスなど色々な国のダンスが踊られる。プログラムは、ダンスだけでなく、工作の披露や、スポーツ参加者の表彰など、努力をみんなに示して、お互いの文化を学ばせようという仕組みになっている。また、自分達の出身地の童話を劇にして演技を競う「童話の日」や、親達が民族衣装をきて、故国の料理を学校にもちよる「料理の日」などもある。このように、多文化教育は、社会におけるエスニック集団の価値観の多様化に対応していけるよう語学面だけでなく、色々な面で、異文化理解のカリキュラムが行なわれるようになってきた。(永井1996:27−31)
また、各エスニック集団が英語以外の言語を維持する事を奨励する多文化主義の下、政府は、英語以外の言語による行政サービスを提供している。代表的なものとして、電話通訳サービスがある。これは、非英語系移民の人達が、病院、警察、自治体窓口を利用する時にかける電話で、英語を話せない事によって困らないようにできたサービスで、イタリア語、ギリシア語、ベトナム語など、図3のように、利用されている。このサービスは、年中無休、24時間体制であり、通話料も政府が負担している。(細川1990:42、関根1991:352−353)
他には、自治体ガイドや納税申告の案内、社会福祉に関する書類、奨学金募集要項などが、州の住民構成を反映した複数の言語で表示されている。そのほかにも、福祉機関や病院などでの、専門の通訳の設置があげられる。(細川1990:42−44)
新聞・雑誌などの活字メディアやラジオ・テレビにおける放送メディアにおいても多言語サービスがみられる。例えば、新聞に関してみてみると、あるキャンベラの新聞、雑誌、日曜雑貨、文房具などが売っているニュース・エイジェントには、英語紙以外に、14言語25点の新聞が常備されている。また、週刊誌などの雑誌類にいたっては、数え切れない種類の非英語誌がでまわっている。87年の調査では、表3のように、35言語143点の非英語定期刊行物があった。(細川1990:50−52)
ラジオ放送は、1951年にニュー・サウス・ウェールズ州のイタリア語とスペイン語による放送がはじまりだった。1982年では、国営Special Broadcasting Service(略称SBS)のメルボルンの3EA局では、週126時間47言語による番組が、シドニーの2EA局では、126時間52言語の番組が放送されている。この他の、民間放送でも、多言語によるプログラムが提供されており、使用されている言語数は、62言語に及んでいる。しかも、その中には、国外では初のマルタ語放送や世界ではじめてのジプシー語の放送も行う放送局が現れた。
SBSは、1980年に、テレビ放送を開始し、海外で制作された様々な言語による番組を紹介してきた。子供向けのアニメから、音楽番組、連続ドラマ、コメディ、映画まで様々な分野の番組があるが、原則的に吹き替えなしの英語字幕で放送された。特に、映画などは移民だけでなく、アングロサクソン系のオーストラリア人にも好まれてきた。表4のように、87年、88年、89年の3期間の26週間にSBSでは54言語の番組が放送された。多言語放送のテレビ局としては、世界一の多様性をもっているといえる。(細川1990:44−50)
(3)多文化主義の影響と効果
ここでは、オーストラリアが多文化主義を国家統合イデオロギーとし、様々なプログラム・サービスを実施してきたことによって移民の生活にどのような影響、効果をもたらしたかを見ていく。
労働環境では、どのような変化が起こっているのだろうか。移民や難民が異国の地で働く際には、以前から多くの問題が存在してきた。非英語系の移民達は、全般的に英語系の人々より同じ職種でも賃金に格差があり、職種も半熟練、不熟練職種としての工場労働者、建築・土木労働者、飲食店などのサービス業者に集中して職業における分業が生じている。彼らは、産業界の底辺に位置づけられ経済的地位も英語系の人々に比べて低い。その理由は、非英語系の移民の英語能力の不足、または、母国で取得した様々な技術的、専門的な資格がオーストラリアでは十分に認められない結果が考えられる。そのほかにも、英語教育の不備や差別が考えられる。この状況が多文化主義政策を通してどのように改正されようとしているのか。(関根1991:411−418)
まず、移民労働者の英語不足による不利益を避けるために、1990年代から職場英語教育がさかんになってきた。ビクトリア州では、約190ヵ所で移民労働者への英語教育がはじまっている。ごく1部の会社では、移民労働者が就業時間内に英語教育を受講し、受講料も会社が全額負担しようという動きもでてきた。移民が英語を読み書きできるようになれば、作業計画や機械操作の内容も的確に伝わり、作業が効率よく進む。また移民にとっては、より高度な技術の訓練も受けられるようになり、昇進の可能性も拡大してくるという利益がでてきた。多文化主義といっても、まだ職場での差別は残っているが、移民労働者の労働組合活動への参加を奨励することによって、英語系オーストラリア人の同僚や、上司とのコミュニケーションを計って差別やステレオタイプを取り除こうとするようになった。(永井1996:133−148)
次に、最近までは、英語系労働者に比べての職業地位の低さや低賃金は、エスニック集団の帰属性も影響してきた。しかし、多文化主義の発展に伴って、移民労働者の職業技能別賃金制度の改善を目指す「裁定賃金制度改革」案が導入されたことによって、労働における社会的公正が追求されてきた。つまり、同じ職種でもエスニック集団別に賃金格差があったのが、この政策によって職種と経歴年数の2つの要因から賃金が裁定されるシステムになった。この政策は、エスニック集団、人種、年齢、性差によって差別を受けることなく、労働者の技能と経歴だけが問われることから、より社会的公正を目指すようになったといえる。(中西1999:67−70)
多くの移民労働者が半熟練労働者として働いている理由の一つに母国の専門的な技術や知識の資格が認められない事が挙げられるが、これについても改正の試みがされてきている。TAFEなどで導入されている「技能再認定システム」である。まず、連邦の技能再認定局による判定で認定がおりると、資格や免許状がおりる。しかし、技能に対する法的、文化的な捉え方の違いから移民の技能や知識がすぐにオーストラリアに適用できない場合が多い。このような移民に対しては、その技能に関する職場や施設などの関係機関でもう一度判定をうけられるようになってきた。その認定に失敗しても、TAFEや大学で再教育訓練をうければ、持っている技能をいかして新たに資格が取得できるものもいる。(中西1999:153−156)
以上の労働環境における改正の効果として、移民は、社会的・経済的な地位において少しずつ成功してきている。特に、移民第2世代は、表5、6から、移民1世より資格をもっており、職種においても、半熟練、不熟練労働者の割合は減少し、事務などの職種での割合が増えている。
オーストラリアの移民、難民の受入れをみると、1980年代に大きな変化があった。アジア系移民は急激な増加で、1990年代には、1年間に受け入れる移民総数の約半数を占めるようになったのである。イタリア系、ギリシア系につづいて3番目の多数派勢力である華僑・華人系オーストラリア人と近年最も1年における移民数の多いベトナム系オーストラリア人について見てみる事にする。(竹田1996:107、112)
オーストラリアに住む中国系アジア人は、時期によって次の4つのグループに分類する事ができる。@1950年からの東南アジアの中国系留学生移住者、A1970年代後半からのインドシナ半島の中国系難民移住者、B1980年代からの香港・台湾からの企業移民とその家族、C1980年代半ばから移住した中国人留学生である。中国系オーストラリア人は、郊外の大きな館に住む裕福な企業家から、難民のように生活もまだ苦しい人まで様々であるが、近年では、マレーシア、シンガポールからもBなどの「企業家移民」が増加している。(関根1998:306−307)
白豪主義時代には、文化的な違いから差別され、排斥された1番中心のエスニック集団だったため、数も少なく、コミュニティとしての活動も静かであった。しかし、1980年代以降の急激な増加に伴い、現在中国系オーストラリア人、特に企業移民のコミュニティの政治・経済・社会的活動は、大変積極的である。特に彼らの経済活動は、活発に促進されている。
原因の一つに、1980年代以降、アジア・太平洋地域との貿易量が過半を占めるようになると、オーストラリアがアジア・太平洋地域との関係のいっそうの強化を望むようになり、東南アジアや中国など様々な地域から移住した華僑・華人の存在価値が高まっていったの事があげられる。オーストラリアは、依然として英国・ヨーロッパ系の国民が多いため、アジアとの貿易においては、彼らの知識や、多文化主義政策の下、維持されている華僑・華人としての言語や伝統文化を生かしたコネクションが、重要になってくる。そのため、彼らへの政府の期待も大きく、経済においての地位は上昇している。もう1つの原因は、彼らの多くが、企業移民としてやってきたため、英語力や教育水準が高いということである。マレーシアからの華人は、マレー人を優遇して華人を政治・経済的に差別するブミプトラ政策により、ビジネスチャンスと英語による高等教育を求めてオーストラリアにやってきているし、シンガポールからも教育水準の高い華人が職を求めてやってきている。このように、相対的に教育水準が高いのと、多文化主義によってエスニック集団による差別が減り、彼らは経済活動において、自分達の力を十分に発揮しやすくなってきた。(関根1998:311−313、竹田1996:113−114)
また、今までは、現地国の国籍を取らないものが多かったが、最近では、多文化主義政策の下、マイノリティでも生活しやすくなったこともあり、華僑が、国籍をもち定住する華人へ変化するようになった。また、政治運動にも積極的に参加するようになり、1980年代の半ばから、地方自治体の議会への進出が進み、州や連邦議会でも、中国系オーストラリア人の議員が誕生するようになった。彼らは、政治界に進出することによって、アジア移民に対する批判などに反論しようとしている。(関根1998:314−316)
現在では、自分達の言語・文化を維持しながらもよりオーストラリア社会に適応できるように、彼らは、積極的にオーストラリア社会と交流を持とうとしているのが特徴的だ。彼らは、多文化主義に基づく移民に対する各種のサービスに対する知識は豊富で、それらをうまく活用しながら社会的地位を上げ、中国系オーストラリア人の存在をアピールし、理解してもらおうとエスニック・コミュニティ活動に熱心である。(関根1998:316−321)
ベトナム人は主に、ボートピープルの難民としてオーストラリアに移住してきた。以前は、多文化主義の下、自分達の言語・文化を維持しながらエスニック集団の内にこもりがちであった。しかし、近年、徐々に社会的発言を始めるようになってきた。その一つの例として、「ボートピープルの友」がある。ボートピープルの友は1989年に結成され、難民の問題の解決を国内だけでなく、国際社会にも訴えている。実際に、色々なエスニック集団の歌や踊りを披露する「マルチカルチュラル・コンサート」を開き、東南アジアの難民キャンプに収容されているインドシナ難民への救援資金集めたりしている。このような活動ができるようになったのも多文化主義のオーストラリアで徐々にではあるが安定した生活を送れるようになってきたからではないだろうか。また、中国系オーストラリア人ほどではないが、ベトナム人の市議員も誕生し、社会参加に積極的になろうとしている。また、彼らは、ベトナム人商店で働くものが多いが、多くのオーストラリア人と違い、土、日も営業し、貯蓄率が高いため、ベトナム人の持ち家率はオーストラリア平均よりかなり高くなっている。(永井1996:151−167)
以上見てきたように、ほんの一部ではあるが、多文化主義社会で、アジア系移民の社会的・経済的活動がさかんになってきたことがわかった。つぎに、多文化主義が先住民であるアボリジニーにどのような変化をもたらしたか見る事にする。
オーストラリアの先住民であるアボリジニは、1967年に、国民投票の結果、オーストラリア国民としての地位が認められた。1970年代からの多文化主義の下、伝統的居住地やリザーブなどでの生活援助や福祉政策も充実しはじめ、文化・言語の維持活動に対する財政援助もなされるようになってきた。その結果、色々な権利も認められはじめ、アボリジニは、自立性をもつようになり、さらなる権利の拡大運動を展開してきた。
その代表的なものに、土地権運動がある。土地権運動の始まりを象徴する事件は、1966年のノーザンテリトリーに住むグリンジ部族の牧夫たちの給料と労働条件の改善を要求するストライキだった。その要求は、しだいに労働面だけでなく、土地権へと発展していった。次に、1968年には、東部アーネムランドにあるイルカラの町に住むアボリジニが鉱山開発の差し止めを求めて訴訟を起こした。彼らは、聖地が採掘によって破壊されると主張した。判決は、アボリジニの土地との結びつきは認めるものの、土地がアボリジニに属しているわけではなく、先住民としての土地所有権という思想はオーストラリアの法律には含まれていない事から、土地権は拒否された。しかし、敗訴であったが、この訴訟によって土地権運動の焦点が土地権を認める法律の制定要求に絞られた意味で、意義があるといえる。(窪田1993:109−110)
1972年には、アボリジニは国会議事堂の前にテントで「アボリジニ大使館」を設営し、先住民土地権を世界中にスローガンとして訴えた。そして、多文化主義政策を採用したウィットラム政権の時に、アボリジニの伝統領土への権利を回復するための新しい法律の作成が提案され、1976年、フリーザー政権の時に、「北部準州アボリジニ土地権利法」が制定された。この土地権利法によって、北部準州に限っては、従来のアボリジニの居留区はすべて先住民共同体の所有する土地となった。さらに、未利用の国有地に対する先住民からの返還請求権が認められ、今日までに北部準州の49%が先住民領として認定されている。(窪田1993:110−111、細川1997:185−187)
さらに、1993年には、1992年のマボ判決をうけて、「先住権原法」が成立する。マボ判決は、トレス海峡東端の小さな島の所有権をめぐる争いの訴訟の判決だが、今までは、土地権をめぐる争いだけに留まっていたのが、この判決では、先住権が認められた。この法律によって、先住民はその土地の資源を利用する権利、その土地への他者の立ち入りを制限する権利、そこで、固有の宗教的活動を行う権利などの先住権が認められた。先住権は、土地所有権と同義ではなく、所有権より広範囲に権利を主張できるのでアボリジニとってこの法律は大きな意味を持つだろう。また、先の法律と違い、適用範囲が北部準州だけでなく、オーストラリア全体に適用され、アボリジニは多くの土地の返還を求める事ができるようになってきた。(細川1997:187−193)
多文化主義の下、アボリジニに対する教育現場でも、変化が起こってきた。アボリジニは、社会的にも文化的にも近代的な学校教育に適応できない場合が多かった。しかし、多文化主義が採用されたのにともなって、白人主導の学校教育も、アボリジニ生徒の不適応に対する対策を考えはじめるようになった。都市などでは、アボリジニを学校になじませるために、アボリジニの多い学校にアボリジニ生徒の親などを助教師として雇っている学校もある。助教師は、授業についていけない生徒を助けたり、先生を手伝って授業をスムーズに進行させる役割を担っている。また、アボリジニ生徒の家庭と学校の仲介をするアボリジニの連絡官なども設け、学校教育にアボリジニが参加する事によってつながりを深めようとしている。また、白人生徒も含め、アボリジニの言語・伝統文化も教えようとしている学校も現れてきた。
一方、北部や砂漠地帯では、アボリジニ自身によって運営されてる自営アボリジニ地域学校がいくつか設立されている。都市のアボリジニと違い、北部などに住んでいるアボリジニ達は、経済的に白人のなかで自立し、しかも伝統文化を守って自分達の地域集団を維持していこうという強い意識があるようで、この意識が、自営アボリジニ地域学校を生み出したのである。まず、この学校は、学年別でなく、生徒の属している部族の忌避関係に即して分類されている。また、アングロサクソン系とアボリジニの2言語・2文化教育を行っており、白人教師は、地域集団の人々の規範と慣習を尊重する契約に署名しなければならない。また、白人主体の歴史などは、教えず、伝統的な昔話などの絵本等をもちいて、子供たちに、自分達の言語を学ばせようとしている。(青柳・上橋・内藤1993:123−128)
アジア系移民の活躍やアボリジニの権利運動、自営学校の設立などにみられるように、多文化主義は色んな面で影響を及ぼしてきたことがわかる。
第4章 多文化主義の現実と問題点
(1)多文化主義の現実
3章では、オーストラリアが、どのように多文化主義政策を通して、移民や先住民の社会的・経済的不平等をなくそうとしてきたかを見てきた。3章で述べたように、確かに同化主義時代に比べ、多文化主義は移民や先住民に対して一定の効果をあげている。しかし、多文化主義政策のなかにはうまく機能していないプログラムがある事や、オーストラリアに適応できないでいる人々がいるという現実も存在している。
まず、入国許可システムが、「要因別数量評価システム」にかわって、帰属性が問題にならなくなってきたと述べたが、一方で、このシステムは、技術・技能が有るか、無いかが重視される事で、もともと教育水準が高い人だけに制限的に許可が下りるようになってしまったかもしれない。また、帰属性が問題にならない点で、差別をなくすという多文化主義理念にかなっているようだが、技術が有るか無いかという事は結局、英語管理体制の労働環境で働けるかという事を問うので、支配社会に適応、同化できる人求めていることになるのではないだろうか。
1982年には、「カテゴリー別移民選抜システム」が併行され、先に単身移民した人達によって呼び寄せられる「家族移民」、「難民」、「労働および企業家移民」、一度海外へ移動して戻ってきた人などの「特別移民」の4つに分類してバランスを取るためにそれぞれに一定の数が設けられるようになった。(中西1999:40‐41)しかし、家族移民の数は減らされる傾向にあり、この先、技術重視の労働移民が増えていくだろう。移民受入れに対しても、多文化主義の下、各エスニック集団間における差別をなくし、できるだけ偏りをなくすためには、本来なら厳しい受入れ基準は設けるべきではないと筆者は考える。
「成人移民教育サービス」にも多くの問題点がある。3章では、体系的に移民教育を扱って成功しているクィーンズランド州の例を挙げたが、移民人口の多いニュー・サウス・ウェールズ州のように各教育機関が別々に運営されているために、高等教育機関への接続が難しい州もある。社会的地位向上のためには、日常会話程度の英語だけでなく、その後の技能を習得できる継続教育が必要になってくるが、このような州では高等教育への進学率は低く、コミュニティ・センターなどでのESL受講後の就労率も、20%前後と低い。(中西1999:108−109)英語の習得でなく、移民、難民の社会的地位の向上を目的とした体系的な移民教育が必要だ。
成人移民教育を必要としながら、受けられない人々もいる。主に、女性、高齢者、労働者である。女性は、家事の忙しさ、交通手段の不備などにより、高齢者は高齢による身体的問題や教育意欲の欠如により、労働者は、時間的余裕のなさから英語教育を必要としながら、受けられないでいる。(中西1999:134‐136)
彼らは、エスニック集団のコミュニティの中で、母国語である程度生活できるかもしれないが、英語のわかる誰かに依存して生活しなければならない。また、英語能力の不備からオーストラリア社会での様々な情報も入ってこなくなる。生活のあらゆる場に通訳が配置されていれば、問題はないが、実際は不十分なため自立して安定した生活をそれぞれ個人がおくるには、彼らも英語教育を受けられる方法を考えなければならない。実際にはコストがかかって無理かもしれないが、教師が家にやってきて個人的に教えられれば、高齢者もゆっくりとした自分のペースで学べ、主婦も通う必要がなくなり、忙しい労働者も時間を見つけられるかもしれない。
労働面でも、多方面に改善が試みられてきたが、なかなか効果をあげるのは難しい。3章で、「職業英語教育プログラム」を企業内で行う会社も増えてきたと指摘したが、まだまだ大企業に限られているのが実情だ。中小企業では、職業英語教育に資金を費やす余裕がない。しかし、非英語系移民の多くは不熟練か半熟練労働をしているため、中小企業で働くものが多い。また、先程も指摘したが、労働者は、仕事に精一杯で実際の所、英語を勉強する余裕が時間的にも体力的にもない。しかし、英語教育によって、3章で述べたように、企業にとっても将来的には、利益が生まれるのならば、資金を費やし、移民労働者の負担にならないように、できれば労働時間内での受講が可能になればベストである。
また会社側は、差別を取り除くために、移民の労働組合への積極的な参加を奨励してはいるが、非英語系移民の執行部への昇進はほとんどない。多文化主義政策を実行しているといっても、一般の人々の心理には、自分達の地位が移民に取って代わられるという不安があるのではないだろうか。これは、同じ英語系オーストラリア人に対しては抱かない差別意識といえる。「技能再認定システム」において、認定がおりにくい現実も、医者・弁護士などから判定を厳しくするように圧力がかかっているためだ。(関根1998:322)多文化主義の基本でもあるこのような差別の除去を行わない限り、移民の社会進出は難しいだろう。学校教育の中だけでなく、企業内でもお互いを認め合い理解するための多文化・異文化教育が必要だろう。
関根は英語能力が低いとコミュニケーションが取れず、事故に巻き込まれる可能性も多く、昇進も難しいなど、労働面での全ての問題が言語に起因するので英語教育の充実が必要と述べている。(関根1991:436‐437)確かにそうだが、むしろ英語管理体制の労働環境自体に問題があるのではないだろうか。全ての構造を、非英語系の人々が英語を使用せず、働けるように換えることは不可能に近いが、多文化主義を掲げる以上は、英語管理体制に適応させるという同化主義的な考えを当たり前のものとせず、少しでも通訳の確保や、多言語での情報や資料公開をすべきではないだろうか。
援助や各種サービスにおいてのエスニック集団間の格差も問題になってきている。ラジオやテレビの多言語放送では世界でもトップクラスの多様性を持っているが、まだ言語に偏りがある。多言語放送では、番組の本数がエスニック集団の人口構成・言語構成を反映しておらず、フランスからの移民人口は少ないわりに、番組はたくさん放映されている。多言語放送を意味あるものとするためには、人口構成を反映した番組放映をすべきではないだろうか。また、電話通訳サービスや多文化教育でのコミュニティ言語や第2言語は、多数派のエスニック集団に限られている。それ以外の、言語のマイノリティ・集団は多文化主義の恩恵は得られない事になってしまう。現在は、大きなエスニック集団ほど援助を受けているが、関根も述べているように、小さい集団ほど援助が必要なのではないだろうか。なぜならば、多文化主義社会の下では全てのエスニック集団が公平になるべきとされているのに、小さい集団ほど自分達のコミュニティで自立するのが困難だからだ。(細川1990:46‐50、関根1994::220−221)
3章では、多文化主義が中国系、ベトナム系オーストラリア人と先住民であるアボリジニにもたらした効果について述べたが、それらはあくまで一部の例にすぎないということをここでは指摘したい。
3章では、教育水準の高い中国系オーストラリア人の経済活動の活発さや、社会的地位の向上について述べたが、アジア系移民は彼らだけではない。まだ、社会的・経済的地位の向上ができず、社会の底辺に位置する圧倒的多数のインドシナ難民がいるのである。彼らの多くは、長い戦争の結果難民キャンプなどで生活し困難な生活を強いられてきたため、十分な教育も受けていないことが多い。(関根1991:380)よって、先に述べた、社会的達成のために、社会適応にも教育訓練にも意欲的な中国系の人と比べて、多くの難民の人は、教育訓練にも意欲的になれず、専門能力がないため、不熟練的職種にしかつけず、収入も社会的地位も低い。政府が、技能面重視の移民受入れをすればするほど、難民達と教育水準の高い他の移民達との差は開いていくだろう。真に、多様なエスニック集団が結果として公平になるためには、このようなまだ不利な立場にいる人々への援助が優先されるべきではないだろうか。
また、中国系オーストラリア人は経済活動で、力を発揮できていると述べたが、労働面のところでも指摘したように、英語系オーストラリア人に差別意識は残っており、活躍の場が自営でできる医者、弁護士、公認会計士などに限られる場合が多い。(関根1998:322)ベトナム系やイタリア系のような大きなコミュニティができているエスニック集団では、その集団の人で構成される町内で全ての生活要求が満たされるため、社会との交流が少なくなり、社会に適応できない人も多い。多文化主義によってゲットー化したコミュニティを作らないためにもこうした人々に対しても政府が社会参加を呼びかけていくべきだろう。
また、3章では、土地権の回復や自営学校の設立など、多文化主義のあげた効果について述べたが、それらは地方に住んでいるアボリジニに多く見られる現象で、実際70%のアボリジニは都市に住んでいる。1950から1960年にかけて地方から移動してきたものが多く、特徴としては、白人との混交の子孫で、過去のアボリジニ政策により、祖先との文化的つながりから断絶させられ、話す言語も英語であることが挙げられる。アボリジニに対する過去の差別と抑圧の後遺症は今でも残っており、政府による積極的な差別是正のための援助が行われているにもかかわらず、生活水準は低く、貧困ゆえに犯罪も多いのが現実だ。多文化主義は、またアボリジニの新たな動きも引き起こしている。(鈴木1997:201−203)
今までは、差別から逃れるため白人のふりをしてきたアボリジニだったが、多文化主義によって、アボリジニ文化が評価され、財政援助がされるようになると、そうした援助を手にするための文化的独自性の存在を承認してもらうため、アボリジニ達はアボリジニ文化を学習しだした。なぜなら、彼らは先住民としての伝統的文化を維持していなかったからである。彼らは、地方のアボリジニを講師としながら、白人が見て「アボリジニ的」とわかりやすい文化的特性を選んで伝統的文化を自分達のものにしていった。(関根1999:281‐282、鈴木1997:205−208)
しかし、このようにして都市アボリジニが身につけたエスニック集団としての特性を、多文化主義の下、維持されなけらばならない伝統的文化と呼べるだろうか。むしろ、多文化主義によって、伝統文化を復活させる事が出来るようになったというより、都市アボリジニの特性としての新しい文化が創造されたといえるだろう。なぜなら、地方のアボリジニも伝統的文化をそのまま維持してるとは言えず、都市のアボリジニ文化は、援助獲得のために評価されやすい特性が選ばれているため、白人の先住民観を反映したもので、本来の意味を失っている場合も多く、伝統が創造されているからである。
みてきたように、多文化主義は全てにうまく機能しているわけではなく、まだ困難な生活を強いられている人も存在している。しかし、近年の政府の多文化主義政策は、援助面など減退の傾向にある。政府は、ESLや多文化教育の支出を削減し、その分一般教育への支出を増大させ、また、多文化問題研究所を廃止しそれに代わる組織を移民省のなかに設置し、さらに、多言語放送についても経済的理由から、SBSをABC(国営放送局)に併合させようとしている。(関根1991:468−478)確かに、経済不況の時代に、移民政策だけ予算をカットしないわけにはいかないが、予算削減に伴ってESLや多文化教育などの特別教育が一般教育に組み入れられようとしているのは、明らかに主流主義が展開されようとする兆候だ。
3章で述べたように、主流主義は、うまく機能すれば、理想的な姿かもしれない。しかし、今の段階では、非英語系の移民に対して特別な措置や機関があるのにも関わらず、まだ困難を被っている人はたくさんおり、差別も完全になくなったわけではない。また、主流主義の下では、色んな諸機関で非英語系の人々に対応できるように、多言語を使えるスタッフが必要になる。現在でも、通訳の数は全然足りないというのに、そのような理想的姿に諸機関を改革することが可能なのか。現在のように多文化主義政策がまだ効果不十分な時には、差別をなくして、人々に多文化社会である事が理解されるには、特別な措置や機関が必要だ。関根は、オーストラリアの主流主義は、結局は多文化主義を尊重しつつも、以前より英語や英語系の人々の文化が尊重され、同化主義への逆流で「疑似主流主義」と呼んでいる。(関根1991:479)主流主義は、多文化主義の行き着く理想的な一つの姿かもしれないが、オーストラリアは今まだ政策変更する時期ではない。それより、今の多文化主義政策を維持しながら、問題点を改善していく努力が必要なのではないだろうか。
(2)多文化主義の限界と今後
近年、オーストラリアでは、経済不況から失業率も上昇し、人々の生活も不安定になってきているなかで、積極的な移民への援助は一部のマイノリティへの特別な優遇政策だという不満が、支配社会の人々の間で高まっている。多文化主義にもとづく、先住民や移民、難民に対する福祉サービスや補償措置は過剰で、他の国民が逆に差別されているとして支配社会の人々によって多文化主義は批判される傾向にある。
例えば、多文化主義政策が進んでくると、非英語系移民達は、労働時間内に職業英語教育が受けれるようになってきたが、英語系の人々にとっては、その分自分達が彼らの分も働かなければならず、移民達が、不当に優遇されて甘やかされていると主張するかもしれない。また、経済不況で、様々な面で予算が削減され、特に支配社会の下層にいる人々は、困難な生活を強いられている。それにもかかわらず、彼らが中国系の移民などのように、移民の中には、自分たちよりも、ずっと裕福な暮らしをしているものもいる事を知れば、移民や先住民が彼らの不満のはけ口になってしまうのは当然かもしれない。
このような一般国民の不満は、今まで人種・民族差別主義者と見られてしまうため論じる事ができなかった多文化主義批判を公の場でやってのけた1996年のハンソン議員に対する支持によく現れている。彼女は、フィッシュ・アンド・チップスの経営者で政治家としては、初心者で、またもともと自由党の候補で出馬の予定が、アジア移民の移住制限を論じたり、かれらや先住民に対する福祉などの措置は、税金の無駄遣いと論じ、候補から外され、無所属だったにもかかわらず、国民の10%もの支持を得て当選したのだった。(関根1998:329−330)
このような多文化主義批判のなか、マイノリティの文化が尊重されるのなら、支配社会の文化も重視して尊重されるべきだという多文化主義を逆手にとった議論も出てきた。マイノリティばかり優遇されて甘やかされ、全ての国民が平等に扱われず、支配社会の伝統的な文化や自助努力、勤勉、機会均等主義などの伝統的な価値観や規範が軽視され逆に差別をうけているというものである。公然とは人種差別してはいないが実際は、自文化擁護のために、異文化集団の排斥を訴えることから「新人種差別」と呼ばれている。(関根1996:57−58)
しかし、だからといって、マイノリティに対する援助を削減、或いはなくし、同化主義時代に戻る事はできるだろうか。一度、多文化主義の下、様々な援助や補償措置を行ってきた社会で、また同質的な社会に戻す事は、不可能であるし、そうすべきではない。なぜなら、同化主義政策を行ったところで結局は、多様性は社会に残っていくことが歴史的に見て実証されているからである。さらに、今まで援助を受けてきた移民達は、多文化主義政策の予算が大幅に削減されていくと、不満から反対運動や暴動が起こす可能性もある。不況の時代に、多文化主義政策の高いコストは政府にとってきついのは確かだが、将来的にみれば、もしここで昔に逆行するような政策を行えば、エスニック集団間の対立など社会不安というもっと大きな問題に直面するのではないだろうか。よって、今の多文化主義政策を維持していくべきだというのが筆者の考えである。そして、多文化主義は、自己の文化や価値観ばかりを主張して他者に認められ尊重してもらおうとするものではなく、認めてもらうためには、同時に他者の文化や価値観を認めなければならないという文化相対主義の思想も必要だという事を全てのオーストラリア国民にもっと広めなければならない。支配社会の中には、異文化理解の教育は、時間と費用の無駄という人もいるが、多民族化していくオーストラリアにとって、その教育のためにまたコストがかかってしまい、今は試練の時かもしれないが、安定した社会を築くためには、文化相対主義をみんなが共有していくことが重要になってくる。
支配社会側からの批判と同時に、多文化主義は、先住民からも批判されている。なぜなら、多文化主義は、移民などのマイノリティ、マジョリティ、先住民のそれぞれの文化・言語・価値観などの存在を平等に認めるため、オーストラリアの先住民であるアボリジニの文化が他の移民達のものと一緒に相対化されてしまうのはおかしいからだ。(関根1996:59)もし、白人達によって、植民地とされなければ、アボリジニによって一つの国家が形成された可能性もあったことを考えると確かに、他の移民と同等に扱われるのはおかしい。だからといって、先住民に今よりさらに優遇措置を行うと他の国民からの不満が高まるかもしれないので、土地権のような先住民特有の権利を積極的に認めていくしかない。
オーストラリアは、積極的な援助や差別是正措置を行う事によって、コーポレイト多元主義的な政策を行ってきた。しかし、考えてみると政府が行っている政策のなかには、同化主義的要素の政策が多文化主義政策として当然のように行なわれているものがある。オーストラリアは、多様性の強調よりも、移民や難民などのマイノリティの社会参加や地位向上のための政策に力を入れてきた。多文化主義を実際に政策に移すことになった「ガルバリーレポート」以来、オーストラリア政府は、職場や生活環境において、非英語系の人々が不利益を被らないように、そして社会に適応できるように、英語教育や英語による職業訓練教育に一番力を入れてきた。しかし、極端に言えば、社会に適応するというのは、支配社会の価値観や規範に同化するということにはならないだろうか。地位向上のためには英語教育が必要だというが、これも支配社会の言語を話す事を当然と考えられてからであって、同化主義政策の一部とみなす事ができるだろう。コーポレイト多元主義の下では、私的領域だけでなく、公的領域でも、各エスニック集団の言語や価値観が尊重されなければならないので、英語能力がなくても不自由しないように、病院などの諸機関で全て通訳が配置されていなければならない。しかし、今の時点で、生活のあらゆる場に非英語系移民たちが困らないように通訳を配置するのは、不可能に近い。そうなると、理論的には英語教育は、同化主義的な政策になってしまうかもしれないが、実際に生活し、異文化社会の中で、不利益を被らないようにするためには、必要になる。しかし、本来の多文化主義の基本である、多様な文化の尊重と、維持のため、英語教育だけでなく、異文化理解の教育にもっと力を入れるべきだろう。
オーストラリアでは、普遍的と呼ばれている価値観や規範、それにもとづく生活様式への同化は要請されている。(関根1994:211)例えば、オーストラリアの現在の法は、イギリスの法体系で、アングロサクソン的価値が反映されており、移民、難民のエスニック集団や先住民の価値観は法には反映されていない。(永井1996:174−176)しかし、この普遍的というのは、何をもって普遍的といえるのだろうか。イスラム教徒にとっては、普遍的価値観は、単なる西欧諸国の伝統的価値観にすぎないのである。多文化主義における普遍的価値観と各エスニック集団の伝統的価値観の対立は、他の多民族国家でも問題になっているが、普遍主義的価値の押し付けは、同化主義と同じ事になってしまうし、文化相対主義を強調しすぎても、対立は深まるばかりで、社会の統合はできなくなってしまう。普遍的価値を強要しては、それぞれのエスニック集団が文化や価値観を、維持できないし、文化相対主義によって、自己の価値観を主張するばかりでは、多様性のなかでの統一は難しい。しかし、双方の良い点を調和させればどうだろうか。普遍的価値観は、ある程度社会につながりを持たせることができる。関根は、文化相対主義の共有から、多文化主義によって、普遍的価値観までもが否定され、分裂傾向が進み、社会統合が難しくなると述べているが(関根1994:212)、もともと、文化相対主義は異文化を否定するのではなく、認めあうものなので、多様性を維持したまま、お互いを尊重しあい社会を統合するために必要な概念である。
近年、多文化主義の下、法律改正の動きが出てきている。アングロサクソンの価値観にマイノリティの価値観も取り込む形での法律改正だ。また、ビクトリア州では、法廷での黒白決着方式より、非英語系の人になじみの深い調停方式の機関が設けられた。(永井1996:174−178)多様性のなかで、社会統合を達成するためには、ばらばらの状態をつなぎとめる最低限の共通の価値観として、普遍的価値観が必要だし、自己の文化、言語、価値観を維持するためには、文化相対主義も必要だ。結局は、双方のバランスを政策上で保つ事が重要になってくる。
オーストラリアの多文化主義についてみてきたが、今後ますます多民族化していく社会を統合するためには、上で述べたように、普遍的価値がある程度認められる、リベラル多元主義を軸にして、移民、難民の不利益を取り除くために、コーポレイト多元主義の観点から、色んな問題点を改善しながら積極的な援助を引き続き行っていくべきではないだろうか。これが、筆者が考える今の時点でのベストな結論である。
おわりに
グローバル化により、世界中の各国でエスニック集団の多様性が複雑になり、多文化主義は、国家統合イデオロギーとして、注目されるようになってきた。この論文では、多文化主義の政策や問題点について、オーストラリアを例にみてきたが、多文化主義はけっしてエスニック集団の全ての人から不利益や不平等を取り除いて、満足いく生活を送らせる事ができる理想的なものではないことがわかった。多文化主義によって、社会的・経済的地位を上げて、豊かな生活を送れる移民もいれば、一方で、まだ、困難な生活を強いられている人もたくさんいる。多文化主義によって、エスニック集団内の貧富の差が開いたと批判する人もいる。(関根1994:223)しかし、マジョリティ側の人々がみんな裕福な生活を送っているのではなく、マイノリティと同じように貧富の差が存在す事を考えると、多文化主義によって全てが解決されるというのは、楽観的な期待のかけすぎではないだろうか。
多文化主義によってできることは限られている。同化主義時代のように、自分のエスニック集団の帰属性によって差別されたり、不利益を被ったりする事をなくす事は、可能かもしれないが、社会的地位の向上までは、約束できない。しかし、今の時点では、多文化主義に限界があるからといって、それに代わる新しい概念は見つける事ができない。国家という枠組がなくなってしまったら、国家統合イデオロギーも必要なくなるが、国家が消滅するとは、考えられない。多民族国家は結局、同化主義時代にも戻る事はできないので、これからも多文化主義を社会統合のために、実行していくしかない。こう言うと、悲観的に聞こえるが、同化主義時代に比べると、明らかにマイノリティの文化や言語は尊重され、生活しやすくなっているのだから、問題点の改善によって、多文化主義がさらに効果をあげていく可能性にも期待していいのではないだろうか。