多文化主義の可能性

村島 智子

要約

 この論文において著者は<多文化主義>についての考察を進めている。まず、さまざまな人種や民族の人びとが一緒に住むようになったことから生じた多文化主義の経緯から述べる。この<多文化主義>は突然見いだされたものではなく人種主義に始まり、同化主義が主流をなすようになった後、エスニシティの台頭と相まって生じた概念である。しかし多文化主義とは1つの固定された概念ではなく、さまざまな解釈の仕方があるのが現状である。移民国家を中心にこの概念を適用している国家はいくつもあるが、なかでも多文化主義が成功を収めていると評価されているカナダに焦点を絞って考えることにする。
 現在のカナダの母体であるカナダ自治領が結成された時、領土は現在のカナダの東側の一部にすぎず、人口はイギリス系とフランス系が約9割を占めていた。ここから数十年の間に、カナダは巨大な大陸横断国家となり、移民の流入により人口構成が多様化していく。この地理的拡大と人口の多様化が、多民族・多文化国家カナダを構成し、そこから多文化主義が生じたと考えられているが、カナダでは常にケベック州のフランス系という要素が強く作用していると思われる。連邦結成の時点から言語的文化的二元性 Dualism が維持され、カナダの言語は公的に1つにはなりえなかった。イギリス系とフランス系はカナダの「二大建国民族」であった。そして多文化主義を生み出す最大の契機を作ったのもまたケベック州のフランス系であった。フランス系の要求に対して主流をなすイギリス系が妥協案として採用した二言語二文化主義が、発言力を持ちつつあった他の移民集団の強い反感をかう結果となった。そこで登場するのが多文化政策である。1つの国家内に複数の文化が共存することを肯定し、それぞれの文化がもたらすプラス面を積極的に評価しようとするもので、具体的には、エスニック集団の支援・社会参加の援助・エスニック集団間の交流の援助・公用語の習得の援助の4つが掲げられた。
 カナダの多文化主義の成立についてをごく簡単に触れておいたが、カナダの多文化主義がどのような点で成功しているのか、隣国アメリカ合衆国を参考にして検証していく。上記のようにカナダでは、ケベック州のフランス系という要素が重要であった。アメリカでその立場にあるのは黒人であろう。言語面においてはヒスパニック系かも知れない。黒人と比べれば、イギリス系より先に入植していた点、集住していた点、公認された民族であった点が複数の民族を考える土台となれたと思われる。また、黒人の場合は人種問題であったのに対して、フランス系の場合はエスニシティの問題であったため、多文化主義への移行が比較的スムーズだったと考えられる。言語面では、アメリカの南部においてスペイン語を使用するヒスパニック系の人口が増加しているが、カナダにおけるフランス語のような公用語とは成りえていない。そして建国時期のエスニック集団においても違いが見られる。カナダはフランス系住民が多数派を占めるケベック州を抱えており、アメリカの全ての州でイギリス系が主流を形成していたのに比べれば、建国理念に単一性が薄かった。しかし、これが後に多民族の主張に対応できる柔軟な姿勢というプラス評価を受けることになったのである。それから、先住民に対しても対応が異なる。フランス系と先住民の混血であるメティスの存在もあって政府は、先住民に対して比較的マイルドな対応をしてきた。曖昧な部分が今になって民族問題にプラス効果をもたらすようになっている。
 以上で見てきた通り、カナダの多文化主義は他の国家より優れている点が多く、参考にすべき点も見受けられる。しかし、全てに成功しているわけではなく「二言語の枠内」で成功しているというのが正しいと思われる。
 多文化主義の母国と評価されるカナダであるが、現在抱えている問題を解消すると同時に、新しい問題にも対応していかなければならない。さまざまなエスニシティの表出を認める多文化主義は、エスニシティが変化すれば当然、対象が変わっていくのである。移民の構成の変化や白人の出生率の低下から、集団の規模に変化が生じている。また、混血の進行も挙げられる。同人種異民族の間の結婚だけでなく異人種間の結婚も確実に増加しているのだ。今後ますますエスニシティは複雑になっていくだろう。様々なエスニック集団の共存をはかる方法を積極的に考え、人びとが助け合う心を持って接せられる社会の統合が望まれる。

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《 目次 》

    はじめに

第1章 多文化主義

    1、人種主義
    2、同化主義
    3、多文化主義
    4、多文化主義・文化多元主義の類型

第2章 カナダの事例

    1、入植から連邦結成へ
    2、多民族国家へ
    3、多文化主義へ
    4、先住民について

第3章 アメリカと比べて

    1、黒人・ヒスパニック系
    2、建国時期のエスニック集団
    3、先住民

まとめ

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はじめに

 ここ数年、情報の伝達手段や交通機関の発達により世界の物理的距離が縮まり、人々の国際交流も盛んになり、“国際化社会"とか“ボーダレス社会"という用語が頻繁に使われるようになっている。しかしその一方で、民族紛争や分離・独立運動といった人々の争いが後を絶たない。ベルリンの壁が崩壊し、EUの統合があり、地域の統合が進みつつも、ソヴィエト連邦崩壊やユーゴスラヴィア紛争、インドネシアの東ティモール分離独立運動などが起こっている。この先、観光・留学・ビジネス等において、国際交流がますます盛んになることは必然であり、異なる文化をもつ人々と接する機会も増えるはずである。今日存在する国家のほぼすべてが、言語・エスニシティ・人種などが複雑にからみあう多民族国家であることは広く認識されている。そのため、多民族的な現実から生じる多様性をどのように扱い国家としての統合を保っていくかは、ほとんど全ての国家における課題となっていると思われる。そこで、多民族社会を統合するために用いられるようになった<多文化主義>についての考察をすすめていく。<多文化主義>とは、1つの社会の内部において複数の文化の共存を是とし、文化の共存がもたらすプラス面を積極的に評価しようとする主張ないしは運動を指す。梶田も指摘するように、多文化主義という概念には曖昧な点が少なくない。それに、多文化主義が政策化しやすい社会と、そうでない社会があることも無視できないものである。
 この論文においては、まず<多文化主義>の意味内容について整理し、それからカナダの事例をとりあげる。そしてアメリカ合衆国を比較の対象としてカナダの多文化主義を考察する。前述したように、多文化主義の概念には曖昧な点が少なくなく、ほぼ単一の定義がありえない、という点ではおそらく誰もが合意できる、と言われるほどのものである。この曖昧さが、多民族社会にどのように作用しているのか。それについての理解を深めるために多文化主義が誕生した社会的・歴史的背景を明示し、現在までの変化を検討していく。そして、今後の多文化主義の可能性を考える。

第1章 多文化主義

 多種多様な人種・民族集団をかかえた国家が新しく成立した場合の急務は、なにをおいても国を構成する多様な人種・民族の国家としての統合を実現することである。民族間の関係の在り方を模索する過程で経験するのは、多くの場合同じプロセスがみられる。綾部はこれを以下のように述べている。一般的に表現すれば、まず国の統合を計るために採用する国内の主流民族文化への少数民族文化の同化assimilation政策であり、次いでより民主的な融合amalgamation政策への転換である。しかし、国の基礎が確立した段階で、同化や融合が必ずしも進んでいない情況が存在している場合、少数民族の権利をも同等にみとめる思想が強化されてくると、多文化主義multiculturalismが台頭してくる。もちろん、同化、融合、多文化主義のいずれが国の政策として優先されるか、またこの3つの考え方がどのような順序で継起し併存するかということは国情によって異なる。(綾部 1993:30ー31)綾部は同化と融合を分けて考え3つに分類しているが、著者は同化と融合がどちらもある人口集団にとっては自己の文化・言語を捨て去り異質な文化・言語集団に属することを強要されるという点で共通しているため、これを1つにまとめ、同化と多文化主義の2つに分類して考えることにする。それぞれの言葉に関しては、後に説明を加える。

1 人種主義
 移民国の典型として挙げられる北アメリカでは、同化から多文化主義へと考え方が移行したが、これらについて論じる前に、先住民とヨーロッパ人との関係について触れておく。いうまでもなく、ヨーロッパからの白人移民が移住先で最初に接触したのは先住民たちである。先住民たちについては、かなり発達した狩猟、漁業、牧畜、農耕を営み、安定した集落を形成していたことはよく知られている。彼らの生活の特徴は、第一に、氏族制度に基づいた共同社会を形成していたことである。土地の共同所有や共同利用が原則であり、私有財産制度はほとんど存在しなかった。第二に、彼らは部族単位で生活していた。各部族は独自の言語・宗教儀式・慣習・政治経済制度を有していたと考えられている。(明石 1997:47)先住民たちがヨーロッパ人と接して受けた大きな影響として、土地に関する考え方の違いによるものが挙げられる。先住民たちは全ての土地は共有されると考えるのに対して、ヨーロッパ人は個人所有を優先させるという考え方を持っていた。(明石 1997:50ー51)そのため先住民たちは、自分たちの土地を守ろうとして彼らと戦うのであるが、最終的にはヨーロッパ人の勝利に終わる。その理由は2つ考えられていて、1つは、武力衝突がどこまでも繰り返され、おびただしい数の先住民が殺されたことである。騎馬、鉄製の刀や槍、鉄砲など、ヨーロッパ人の武器ははるかに先住民のものより優秀だった。もう1つは、ヨーロッパ人の持ち込んだ病気により先住民の人口が激減したことである。天然痘、はしか、チフス、結核、インフルエンザは、あらゆる所で猛威をふるい、先住諸民族の命を奪っていった。(大貫、唐須 1984:12ー13)
 初期のヨーロッパ移民たちの多くは、先住民を野蛮人と見なしていたという。彼らは根絶さるべき人種であって同じ人間のカテゴリーで考えられるべき対象ではなかったとされている。この考え方は「人種主義 Racism」に当てはめられる。人種主義とは、自分が人種的に属する民が人類の運命を指導することは「生物学的」に運命づけられているのであり、また他者を絶滅させる際には、自らは適者生存をなしとげているのだと主張する。さらに、そのように選ばれた民なのかどうかは、身体の計測のよって確認することができるというのである。(R・ベネディクト 1997:118)この時代、ヨーロッパ人の間には白人中心の人種論がまかりとおっていたため、先住民たちに対して排斥や抹殺そして隔離や差別するという態度がとられたのである。

2 同化主義
 その後、旧大陸、とくにヨーロッパから大量の人間が渡ってきたことにより民族も多様化していくにつれて「同化主義」という考え方が主流をなすようになる。関根の定義に基づくと、同化とは、ある人口集団が異質な文化・言語をもつ集団と接し、その結果、異質な文化・言語を習得するとともに自己の文化・言語を捨て去り、異質な文化・言語集団の成員になっていく過程である。同化には、一方的にある集団が文化的に吸収されるような場合、すなわち編入(A+b+c=A)と、双方が歩み寄って新たな普遍的文化を形成する場合、すなわち融合あるいはメルティングポット(A+B+C=D)のパターンがある。しかし、ここにも同化拒否者は差別・排斥されて当然という暗黙の了解や、同化困難な原因をそれぞれの文化の貧困さや、適応能力と意欲不足として非難する面があったことにも言及している。(関根 1994)しかも同化は、近代化が進むとあらゆる社会は多かれ少なかれ西洋化して、伝統文化や生活習慣は廃れ、かつ宗教は世俗化され、人々は合理的なものの考え方を身につけ、自由・平等といった普遍的な価値を身につけるという近代主義がその前提となっていたという。こうした前提に基づいて、少数民族文化は主流をなす文化に吸収されて、その文化は世界全体の近代化と情報通信・交通運輸手段の発達によりその違いをいずれは縮小し、その結果、西洋文化を基盤とした世界文化的統合が実現することが予見されていたと関根は言う。(関根 1994)
 北アメリカに限って言えば、主流の文化を形成していたのはアングロ・サクソン系の人びとであり、同化の対象になっていたのは彼らより遅れて移住してきた移民の集団であった。アイルランド、イギリス、ドイツ、スカンジナビア諸国からの移民は、「旧移民」と呼ばれ、すでにあった生活様式や制度に適応し、同化がスムーズに進んでいった集団とされている。おもに西欧出身者の「旧移民」は、文化的背景の点で、主流の文化を形成していた集団と共通する要素を数多く持っていたのである。(明石 1997:89)その後、西欧からの移民は減少し、他方、東・南ヨーロッパ出身の移民が増え始めており、少数ではあったがアジア・アフリカからの移民も移住し始めていた。この時期に増加し始めた移民を、それ以前に多かった「旧移民」に対し「新移民」と呼んでいる。(飯野 1997:119)新移民に対しても同化主義政策が取られたが、現実の社会の動きを見れば、とくに「新移民」は、それまでの彼らの文化に固執しがちであり、同化が上手く機能しているようには見受けられないのであった。それどころか、限りない多様性が存在する社会となっていたのである。この動きは、エスニシティとの関連で説明できると思われる。
 綾部によると、エスニシティという言葉自体は、1960年代後半に現れたものであり、アメリカやイギリスの主要な英語辞典に収録されたのも1970年代に入ってからのことである。エスニシティという言葉が登場するようになったのは、今日のエスニック集団のおかれている状況が、これまでの古典的な民族概念では説明できなくなってきているためである。(綾部 1984:393、1993:120)まず、民族の定義として、「言語が共通で人間生活にとって不可欠なすべての分野にわたる生活様式すなわち文化が共通・同質的で共同の祖先からの出自を信じ、内婚的で、経済的には独立の単位体であり、元来は同じ地域に住み、同一の集団に帰属するという意識と感情とをもつ人びとの集団」(綾部 1993:46)が使われている。この定義が客観的基準だけでなく、主観的基準にも言及している点を綾部が高く評価しており、これに関しては著者も同感である。しかし、このような概念だと、たとえば在日朝鮮人と呼ばれる人びとはどのように分類されるのか。日本で世代を重ねた彼らの中には朝鮮語を解さない人びとも多くいて、朝鮮半島に住む朝鮮人と同じではないはずである。また、混血の人びとの場合はどうだろうか。彼らは複数の文化を共有していることが多いように見受けられる。これらの人びとをも説明できる概念として登場したのが、エスニシティである。「性や年齢や階級を紐帯原理とする集団ではなく、第2次大戦後の人種、民族、国民などと呼ばれるカテゴリー間の急速な多様化・流動化によって生じた、これらの集団よりは小規模で、そのいずれでもない文化的アイデンティティを分かちもつ人びとの集団」をエスニック集団とよび、そうしたエスニック集団が保持し表出する性格のことをエスニシティと考える。(綾部 1984:394、1993:13、39、69、121)
 「新移民」の人びとはとくに、すでにあった生活習慣や制度へ自分たちの持つ習慣を適応させる必要があり、同じ言語や文化を持つ人びとが互いに助け合うため、集団化する。これがエスニック集団であり、彼らを集団化させるのは、同じエスニシティを持つという考えである。移民の2世代目・3世代目の人びとは、飯野によれば、多くの点で文化変容を経て外見や日常の生活様式では他の国民と見分けがつかなくなっているかもしれないが、意識的にせよ無意識的にせよ、移民が故国から持ち込んだ価値観や行動様式を受け継いでいたという。つまり、エスニック集団の社会は目に見える形で残っており、エスニシティは多くの2世・3世の人びとの生活に重要な役割を果たしていたのである。(飯野1997:196ー197)確かに自分の属する集団で身につけた価値観や行動様式を簡単にぬぐい去ることは、不可能だと思われる。そのため、ここでも彼らを結びつけるのは、エスニシティということになる。その結果、同化が上手く機能した同質的な社会は出来上がらず、限りない多様性が存在する社会になっていたのである。1つ注意しておかなければならないのは、エスニシティが常に固定された性格をさす概念ではなく、変化する点である。第2次世界大戦後に成立したエスニック集団自体が文化変容の過程を経験しているし、これらの集団間の接触により新しいエスニック集団が生じることも考えられるからである。

3 多文化主義
 このような多様化から、それぞれのエスニック集団の文化を尊重し、エスニシティの表出を認める「多文化主義」の概念が生じてくるのである。この概念が生じる背景には、上記のような社会の多様性という現実に加えて世界情勢の変化も影響しているだろう。それは、第2次大戦後しばらくの間世界を支配していた米ソによる二極構造が崩壊し、多様化が進行することによって、これまで善や正義の代名詞であった大国中心の価値観や力がゆらいできたことである。また、現代世界における平等主義の著しい台頭も挙げられる。現代世界では、人口の多少にかかわらず、職業、収入、機会、政治その他あらゆる面についての平等を求める傾向が強くなってきており、この思想がそれまで抑圧されていた少数民族を勇気づけ、民主的平等を主張する運動となって現れてきている。さらに、急速な近代化、都市化、産業化の結果として、それまで人びとが己のアイデンティティの基盤としていた親族、宗教、地域など伝統的なものへのアイデンティティが失われたため、「国家よりは小さく、家族よりは大きい」何ものかへの帰属が求められるようになったためだともいわれている。(綾部 1984:395ー396、1993:9ー10、121ー123)綾部はこれが一般論であり、エスニック集団がおかれている状況を考慮しなければならないことに触れており、現実に様々な状況が存在すると思われるが、著者の扱っている移民国家においてはこのことが当てはまると思われる。
 それでは、「多文化主義」とはどのようなものなのか。研究者の間では、扱う人の数ほど定義があると言われているが、ここでは関根の定義を引用する。多文化主義は、国家は1言語・1文化・1民族によって成立すべきだとする「同化主義」に基づく国民統合政策を否定する。同化主義は多民族・多文化社会の統合には有効ではなく、むしろエスニック紛争の原因になると考える。エスニック集団の文化、言語、生活習慣を政府が積極的に保護し、公的援助を行うばかりではなく、人種差別禁止やアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)を導入してエスニック集団の教育と職業を基軸とした社会参加を促す。要するに政治的、社会的、文化・言語的不平等をなくそうとする一種の国民統合あるいは社会統合イデオロギーであり、具体的な一群の政策を導き出す指導原理である。さらに関根は、言語、文化、宗教の違いは往々にしてエスニック集団の経済的、政治的格差という不平等維持の口実にされやすいと見ている。そのため集団間の不平等を放置すると、差別されているものの間の不満を増大させて社会不安を生みやすく大変危険である。しかし、文化や言語の違いを無理に消去する同化主義には大きな問題がある。人々の文化、言語、生活様式への原初的、本源的な愛着が強いため、同化過程そのものが困難であり、同化の無理強いは不満を惹起させるからである。そこで発想を逆転してむしろ多様性をそのまま認めながら、なんとか社会統合ができないかとの視点から多文化主義は生み出されたものである。この意味で多文化主義は、国内の“異文化、異言語集団の不満を受け入れて”、国家の分裂が生じないようにする国家生き残りのための1つの国民統合政策イデオロギーであるという。(関根 1994:199ー202、1996:41ー42)
 この定義は、それぞれのエスニック集団の文化を尊重し、エスニシティの表出を認めることを説明しているのであるが、著者には関根が主流を形成する支配社会の人びとを特別扱いしているように受け取れる点があるので、その点を指摘しておく。まず、彼は主流社会を形成する集団/エスニック集団(移民、難民、外国人労働者、周辺地域エスニック集団など)というように主流社会を形成する集団をエスニック集団のうちの1つとは見なさない。さらに文中で“異文化、異言語集団の不満を受け入れて”という言葉の使い方をしている。これは、中心となる文化と言語があり、双方を満たす集団が自分たちとは異なる文化や言語をもつ集団の不満を寛容にも受け入れてあげる結果、統合した国家が維持されるかのように解釈できる。ここでいう中心となる文化と言語というのは、主流社会を形成する集団のものと一致すると考えて良いだろう。
 これについては「文化多元主義cultural pluralism」と「多文化主義multiculturalism」の違いによって説明できるのではないだろうか。(注1)文化多元主義は、今世紀半ばから広く使われるようになった大量の移民に対する対応策である。エスニシティが尊重されることが望まれるが、分離あるいは隔離を前提としているものであってはならないとされている。多文化主義は、1970年代後半に新しい種類の文化多元主義を指す用語として用いられるようになった。本来は教育の場における多様性尊重の動きをさす概念であったが、社会生活のすべての面で多元的な見方と少数エスニック集団に属する人びとへの権力の賦与を含むことを強調するものであるとされるようになっている。双方の定義が曖昧で、これらの言葉も言葉のもつ概念も今は論議の的であるため、文化多元主義との区別は明確でない部分もあるとされているが、両者の違いとして指摘されているのは以下の点である。それは、文化多元主義が社会における文化の多元性・多様性を認めながらも、そこにコアとなる文化が存在することを前提としているのに対し、多文化主義に基づく見方では、コアとなる文化が存在しない形で多様な文化が平等に扱われるべきだとされる点である。(明石 1997:329ー331)梶田もこのことに関しては、「多文化主義multiculturalism」が各エスニック集団を平等に同じ資格でみる傾向が強いのに対して、「文化多元主義cultural pluralism」は、主流文化を形成する支配社会を前提とした上で、文化的多元化をはかっていくというニュアンスが感じられるが、大きな違いはないと述べている。(梶田 1993:194)確かに大きな違いはないように見受けられるが、カナダやオーストラリアに関しては多文化主義が、アメリカ合衆国やヨーロッパに関しては文化多元主義が頻繁に使用されていると思われる。関根は後述するように、多文化主義を文化多元主義的関係の一部としているので、上記の定義は、文化多元主義の視点にたった見解が入っていると思われる。

4 多文化主義・文化多元主義の分類
 さて、多様性を認めた上で統合をはかる多文化主義、文化多元主義であるが、どこまで多様性を認めるかによって政策にも多様性が生じる。関根がM・ゴートンの分類を用いながら文化多元主義的関係として6つに類型化して考察しているものを挙げていく。6つの多元主義的関係とは、シンボリック多元主義的関係、リベラル多元主義的関係、コーポレイト多元主義的関係、急進的多元主義的関係、連邦主義多元主義/地域主義多元主義的関係、分離・独立多元主義的関係であり、これを2つずつまとめて説明を加えている。
 リベラル多元主義的関係、シンボリック多元主義的関係 まず、社会統合に際して文化的多様性を許容し、エスニック集団や民族の存在も認めるが、市民生活や公的生活面では支配社会の文化、言語、社会習慣に従うべきだとする考え方を「リベラル多元主義的関係Liberal Pluralist Approach」としている。私的生活領域での文化的多様性は認めるが、公的生活領域ではそれを認めないとする。この集団関係では、公的生活ではリベラルな期待や価値観(自由、平等、個人主義、能力主義、信仰の自由など)に基づく生活が行われ、人種・民族・エスニシティに基づく公的生活空間での差別は禁止されている。しかし、差別を禁止して社会参加のための「機会の平等equality of opportunity」さえ確保すれば、時間とともに集団間の差別や不平等構造はなくなると考えられている。文化維持への公的援助をするのも、支配社会への同化を助けるためで、最低限度に押さえられることが多い。また、多文化主義を文化融合社会形成までの一時的で過度的な政策として政府が考える場合もあり、多文化状況を永続的なものとみる意識が薄いこともある。そうでないとしても、マルチカルチュラル・フェスティバルでの民族舞踊、エスニック料理の促進、民族祭りの奨励という表層的な場合もあり、シンボリック・エスニシティの承認にすぎないこともある。これらの考え方を「シンボリック多元主義的関係 Simbolic Pluralist Approach」としている。
 コーポレイト多元主義的関係、急進的多元主義的関係 多様性の承認をもう少し進めた場合には「コーポレイト多元主義的関係」としている。リベラル多元主義は機会均等を保証するのみだが、この考え方は差別を禁止した上にこれまでの被差別者が競争上不利なことを考慮し、被差別者の社会参加のために積極的な財政的、法的援助を認める。コーポレイト多元主義は「結果の平等equality of results」を求めるのである。多文化を尊重し結果の平等が得られるように、公的領域でも多言語放送、多言語コミュニケーション文書、多文化・多言語教育が発展し、私的領域に属するエスニック・スクールへの援助が拡大されていく。多文化社会を維持しつつ、差別されて不利になる人びとが生じないよう努力が進められる。さらに、就職や教育に対しアファーマティブ・アクションが実地される場合には、少数エスニック集団も人口比に応じて教育や就職の場で代表されるよう配慮される。 なお関根は、「多文化主義」と呼ばれているものは、リベラルおよびコーポレイト多元主義双方の要素を含めた広い意味で使われているとしている。
 もちろん、コーポレイト多元主義であっても、文化、言語、生活様式が平等に扱われる社会はなかなか実現し得ないため、どうしても被差別集団は不満を持ちやすい。この結果、混住型の多民族、多文化社会であれば、まったく主流社会の文化、言語、生活様式を否定し、独自の生き方や生活を追及しようとする動きが出てくることがある。これを「急進的多元主義 Radical Pluralist Approach」としている。この考え方の下では、分裂的で隔離的なエスニック集団の形成が進められやすく、主流社会からの反発も生まれやすくなる。しかし、エスニック集団の地域的な棲み分けがある場合には、連邦制をとって各エスニック集団の自治などで自立性を高めることが可能だし、場合によっては分離や独立という選択肢をとる国家もある。
 連邦主義多元主義/地域主義的多元主義的関係、分離・独立主義多元主義的関係 エスニック集団ごとの棲み分けがある場合には、連邦制が採用されやすい。その場合を「連邦主義多元主義的関係 Ethnic Federalism Pluralist Approach」としている。各地域は建前上全く平等で、政治的・法的権利も平等であり、連邦議会の代表も比例代表で選出される。しかし、多数決ではつねに少数エスニック集団が不利なので、決定に際してエリート間の妥協を重視する「多極共存型デモクラシー」の利用が多いことを述べている。加藤によると「多極共存型デモクラシー」は基本的に4つの要素を持つ。第一の要素は大連合で、多元社会のあらゆる区画の政治指導者たちがその国を統治するのに、大連合に協同することである。第二の要素である拒否権とは、少数派の意見や権利が多数決原理により無視されないよう拒否権を認めるのである。「比例代表制」が第三の要素となる。第四の要素として高いレベルの自治や自立性がある。(加藤 1990:227ー228)エスニック集団が連邦や連合を結成するのは、多くは経済的効率化や対外的脅威への対抗手段と考えられている。しかし連邦制をとっている国家であっても、集団間の関係が不安定になることも十分考えられ、つねに経済的・社会的格差の是正が必要であり、同時に集団ごとの文化や言語の平等性が守られるように注意すべきだとも言っている。
 コーポレイト多元主義は分散混住型多文化社会におけるエスニック集団間の不平等を解消し統合するという考え方であるが、連邦主義は地域偏住型多文化社会のエスニック集団間の不平等を解消し統合するという考え方である。後者の社会の場合、連邦主義を採用せずに、地域分権主義を強化することも考えられ、その場合を「地域主義的多元主義的関係Regional Pluralist Approach」としている。この考えは、地域ごとに文化・言語・生活様式の異質性が強い場合には利用されることがあるが、各地域内では文化・言語・生活様式の同質性が前提となっている。そのため国家は多元主義だが、各地域は同化主義という2重の統合を行うことになる。
 ところで、地域的に少数エスニック集団が多元主義の要求をしても、エスニック集団の文化を尊重したりエスニシティの表出を認める反応が政府から得られない場合には、紛争や対立が激しくなりやすい。その結果、その集団は分離・独立運動を展開することがある。とくに、集団自体が経済的に独立できる能力ありと判断すると分離・独立運動に発展しやすいという。さらに、こうした動きが国家間の地域統合によって促進されることが多いのは、国内の少数エスニック集団が国家への依存を弱め、より大きな地域統合体に依存できるようになるからであると考えている。
 これはもはや、国家の統合を維持するという意味での多文化主義ないし多元主義の範ちゅうを越えた分離であるが、平和的な分離が達成されることもあり、この場合を「分離・独立主義多元主義関係 Secessionist/Separationist Pluralist Approach」としている。この例として、チェコとスロバキアを挙げている。多文化主義的な要求をして分離・独立した集団は、いきおい民族主義的な同化主義に走りやすく、民族紛争を地域内で再生産する傾向が強いが、多文化に基づく平和的な分離では、国内レベルでの民族紛争を防止できるはずであると彼は言う。さらに、分離した単位に多文化社会状況が存在する場合には、社会統合に多かれ少なかれ多文化主義的な要素が取り入れられることによって、安定的な社会統合が可能となるに違いないと考える。(関根 1994:203ー209、1996:45ー51)

 以上のとおり多文化主義は、現実と理論の双方から要請されて1970年代後半から使われるようになった概念であり四半世紀の経過がある。多数のエスニック集団を抱えており、この概念を適用している国家はいくつもある。その中で、多文化主義が成功を収めていると評価されている国家がある。その国家というのは、カナダである。では、カナダの多文化主義はどのような点が優れているといえるのだろうか。次章において、カナダの事例をとりあげ次々章でアメリカ合衆国の多文化主義と比較しながら、詳しく論じていく。

 (1)multiculturalismは、文化多元主義、多元文化主義、文化多   様主義と翻訳されることもあるが、cultural pluralismと区   別するためもあり、多文化主義と翻訳されることが一般的に   なりつつある。

第2章 カナダの事例

1 入植から連邦結成へ
 現在のカナダは1867年7月1日に成立したカナダ自治領Dominion of Canadaを母体としている。領土、人口、経済力のあらゆる面で、今日よりはるかに小規模だった新生カナダは、その後わずか十数年で、巨大な大陸横断国家にまで急成長する。同時に多数の移民が流入し、カナダの人口構成は著しく多様化した。この地理的拡大と人口の多様化が、多民族・多文化国家カナダを形成し、そこから多文化主義が生みだされたと考えられている。(木村 1993:3ー5)その経緯を理解するため、ここではカナダの歴史から考察していく。
 カナダがフランスの植民地として出発したことはよく知られている。カルティエJacque Caltierが内陸部への水路としてセント・ローレンス河を発見した後、毛皮商人などが高級フェルト帽の素材であるビーヴァーの毛皮を求めて次第に内陸部へ進出するようになった。1608年、シャンプランSamuel de Champlainが毛皮貿易のための初の恒久的駐屯地をケベック・シティに建設し、そこから「ヌーベル・フランス」という植民地がスタートしたのである。(田村 1992:222)この地はフランス本国の政府をはじめ多くの人びとの関心を集め、人口が急増して発展を遂げ、フランス系エスニック集団が形成されていった。
 一方イギリス人は、1670年に毛皮貿易のための独占的特許会社であるハドソン湾会社を設立し、同湾に入る河川流域の領有を宣言する。この地での毛皮交易を支配しようとして、ヨーロッパの2つの帝国が競い合っていた。圧倒的な海軍力を誇るイギリスは、1760年にはフランス側の最後の拠点であるモントリオールを陥落させる。そして、1763年のパリ条約以後、ヌーベル・フランスは「ケベック植民地」という名のもとイギリス統治が始まるのである。(加藤 1990:29、田村 1992:224)
 イギリスは当初、他の北アメリカの植民地と同様に、ケベックにおいてもイギリス文化への同化を求めていた。しかし、連邦カナダは、文化上、言語上の二元性を維持したまま結成されたのである。このことは、北アメリカ大陸における東部13植民地の影響が強いと考えられている。アメリカ独立戦争によって、東部13植民地はイギリスの支配から離れて独自の国家を形成するに至った。他方セントローレンス川沿いに成立していた英領の各植民地(英領北アメリカ植民地)は、アメリカの革命に反対する保守的な親英グループを受け入れながら、イギリスへの忠誠を誓う。13植民地は、英領北アメリカ植民地を仲間に加入しようとしたが、1861年の南北戦争を最大の契機として英領北アメリカ植民地は、アメリカに属さずカナダとして団結を試みるのである。(加藤 1990:28-31)イギリス系の人びとは文化的に同質な国家を望んでいたが、1867年に連邦結成が告げられた際にイギリス系が人口の約6割を占めていたのに対して、人口の約3割はフランス系の人びとであった。フランス系のうち80%はケベックに集中していた。こうした状況下で国家としてまとまるために、憲法でカナダにおける英語とフランス語の地位が相互に保証されている。すなわち、英語が多数派言語である連邦政府では、連邦議会および連邦裁判所においてフランス語の地位が保証され、フランス語が多数派言語であるケベック州では、ケベック州議会と州裁判所において英語の地位が保証されるという交換条件が成立している。教育の管轄権を州に与えたので、少なくともケベック州ではフランス語が教育の場で使用される言語として認められることになる。(ラムゼー・クック 1988:7-8、広瀬 1988:228)こうしてカナダは結成時から言語的文化的二元性 Dualism が維持されることになったのである。
 多くの英語系カナダ人は、政府が文化的言語的二元性を打ち出した後も英語が主流であり、フランス語の使用を政治的必要性以上の何ものとしても受け止めたことはなく、それも制限付きであり、できるものなら減少させ排除すべきであると考えていた。(ラムゼー・クック 1988:8)フランス系カナダ人が集中するケベック州では、イギリス系が支配的となるのが確実な連邦政府に強大な権限を認めることに不安を抱いていた。しかし、人口比や経済力で劣るフランス語系はケベック州内において彼らの言語、宗教、民法を保証されたことを受け入れる方針を採った。連邦結成を容認した上でケベック州内での権威を保持しようと考えたのである。(木村 1993:7)

2 多民族国家へ
 ここから約1世紀経って多文化主義が考案されるのであるが、この期間にカナダ社会は大きな変容を遂げていった。カナダの地理的拡大に伴って政府は1896年、広大な西部の開拓を目的に積極的な移民誘致政策を実施したのである。その結果、第一次世界大戦が勃発するまでの20年間に、300万人を超える移民がカナダ各地とくに西部地域に流入する。以前の西部への移民のほとんどがオンタリオからのイギリス系だったのに対し、この時期は「旧移民」が奨励され、やがて十分な数を確保できないと分かると、その対象は東欧系などの「新移民」にまで拡大されていった。(木村 1993:28、田村 1992:235)1945年以前においては、非英語圏から来たヨーロッパ人をイギリス文化に同化し、非ヨーロッパ人を人種主義により排斥することは移民にたいする一般的な姿勢であった。カナダでは常にケベックにフランス語系の領土を抱えていて決して英語一色にはならなかったものの、文化的に同質な国家になろうとしていた。移民はイギリス文化に同化すること、少なくとも英語を学び使うことが期待された。経済用語が英語であったということは、自分たちの物質的環境を改善しようと腐心している人びとにとって英語を学ぶ強力な誘因となった。ケベックは圧倒的にフランス語の社会として留まっていた。(ラムゼー・クック 1988:9-12)
 文化差も少なく比較的短期間でイギリス文化に同化していった旧移民に比べ、新移民の場合、同化は遅々として進まず、彼らはエスニック集団を形成していた。西部大平原の広いスペースがあったため個々の集団がほぼ独立した生活圏を確保でき、固有の文化や言語が存続可能となっていた。プレーリー地域では1920年代初めには人種の「モザイク」という言葉も生まれた。ただし、それはアングロ・サクソン系とそれ以外の白人の混在を意味するにすぎず、この時期の有色人種の入国は厳しく規制されていた。(吉田 1993:41)その後第二次世界大戦まで、新移民の補充が途絶え、さらに公立学校における英語への同化教育が進展した結果、非英仏系ヨーロッパ人の多くが、この間に英語を常用語化していった。他方で彼らのエスニシティは、家庭内や儀式のために辛うじて維持されていたにすぎない。(田村 1992:225)民族的には多様ではあっても、すべての西部農民は共通の不満を持つようになっていた。不当に高い穀物輸送運賃や穀物エレベーター使用料、それに特許銀行による高利の農業貸し付けに対する不満である。西部は、他州と対等な連邦パートナーであるよりも、中央カナダ帝国の植民地におとしめられていることが、農民層にも自覚されはじめたためである。20世紀に入ると、協同組合を結成して中央の独占に抵抗する勢力となっていた。(木村 1993:30)
 第二次大戦後、カナダの労働力需要は再び高まり、すでにカナダ社会に定着していた人びとが、難民を多く抱えるヨーロッパから積極的に家族や親類を受け入れた。60年代に入ると、イタリアなど南欧系の移民が急増し、それぞれの移民社会をつくってカナダに民族的モザイク模様を描いた。(田村 1992:225-226)さらにヨーロッパ地域以外から、西インド諸島、インド及びパキスタン、台湾、香港、日本からの非白人移民も少数でありながら間断なくやってくるようになり、エスニック集団を形成し始めていた。
 戦後になってもカナダは、不本意ながらフランス語系カナダ人に制限付きの権利を認める英語系の国であるとみなされていた。それは英語がカナダのみならず北アメリカにおける支配的な言語であることは確かであり、アメリカ合衆国が超大国の位置にあがったことにより、英語は主要な国際語になったのである。移民が成功するには、英語が必要であることは明らかであって、移民の多くは、よりよい将来を得るにはできるだけイギリス文化に同化することが必要であると考えていた。しかし毎年何万という新しい移民が到着するにつれ、イギリス文化への同化が生み出す文化的同質性の社会の達成は程遠いこと、ますます遠くなることが明かになっていた。(ラムゼー・クック 1988:14)

3 多文化主義へ
 このように人種のモザイクが明らかとなったカナダ社会で、多文化主義を生み出す最大の契機となったのは、60年代ケベックの「静かな革命 La R volution Tranquille」だと言えるだろう。フランス語系カナダ人にとって、カナダ連邦はイギリス系とフランス系の「二大建国民族 Two Founding People」の契約によって誕生したはずであった。2度の大戦ではケベックの主張が連邦政府に無視され、多くの連邦政府機関ではフランス語が通じないという現状があった。戦後のフランス系カナダ人の出生率の低下に加えて、大規模な移民が公用語として英語を選んでいたためカナダ総人口に占めるフランス語系カナダ人の相対比の減少をもたらしていた。憲法で保証されているにもかかわらずフランス語は制限され無視され、フランス系カナダ人は二級市民になってしまったという懸念を抱いたのである。(ラムゼー・クック 1988:15-16、吉田 1993:52)
 連邦政府はこの問題を調査するため1963年に二言語二文化調査委員会を発足させ、調査の結果、フランス語系カナダ人がきわめて不利な立場におかれていることを示した。この結果、調査委員会の勧告により連邦・州憲法会議は英仏両語の同等性の公認を宣言し、1969年に「公用語法Official Languages Act」が採択された。英仏両語を連邦政府の諸機関や、英語圏で多数のフランス語系住民が住み、あるいはフランス語圏で多数の英語系住民が住む地域における公用語と定め、首都オタワのすべての学校では両語で授業を行うことが義務づけられた。(吉田 1993:61)
 これでフランス系住民は、カナダから独立しなくても自分たちのエスニシティを守っていけると確信するだろうーケベックを連邦内に止めておきたい政府はそう期待した。しかし、カナダの統一を促進すると考えられた二言語政策は、逆に英語系住民の反発を招いた。英語圏のカナダ人は、二言語政策はフランス語を話せない自分たちの犠牲によってフランス系住民を不当に優遇するものだ、と抗議したのである。政府がこの政策に膨大な税金を使っていることを非難し、ケベック州が独自の言語法によって英語を締め出そうとしていることも、見逃せなかった。それをフランス語系カナダ人が、英語系カナダ人の不寛容と身勝手の表れだと非難したため、両者の相互不信と対立はさらに深まる結果となった。しかし、フランス系住民が35%を占めるニューブランズウィック州では同じ年に独自の公用語法を制定して州政府内における英仏語の地位を同等にし、オンタリオ州は裁判所のフランス語を増やしたほかフランス系住民が過半数を占める地域ではフランス語における行政サービスを保証した。(吉田 1993:62-63、1999:220-222)
 一方、こうした政策は当然、いままで以上に組織化され発言力をもちつつあったイギリス系でもフランス系でもないカナダ人には、支持されなかった。1960年代に、かつてなく政治参加と自決権への要求を強めていたカナダの先住民は、カナダを二元社会とみなす委員会の基本方針に不満を表明した。“その他のエスニック集団”出身の人びとも強力に二文化主義に反対した。例えば西部に住むウクライナ系カナダ人が、これでは彼らの貢献が認められない、と主張した。イギリス系、フランス系の言語と文化だけが認知され、なぜ他のエスニック集団が否定されるのか、ということがこの政策に対する反対の声であった。それに対して連邦政権は「二言語主義の枠内における多文化主義 Multiculturalism with a Bilingual Framework」を打ち出した。カナダ西部における東欧系やドイツ系カナダ人の存在は無視できないほど大きくなっていたのである。すでに総人口の26%を非英仏系が占め、英語・フランス語以外の言語で200以上の新聞が発行されるほど多民族化が進んでいたカナダでは、必然的な選択であり妥協であったのだ。政策目標としては、「発展の持続を望み、そのために努力しつづけている、カナダに存在するすべての文化集団を支援する」こと、「すべての文化集団のメンバー1人ひとりが、文化的障壁を克服して、全面的にカナダ社会に参加できるようにする」こと、「すべての文化集団の、互いに創造的な出会いと交流を促進する」こと、「カナダ社会への全面的参加のために、カナダの公用語の少なくとも1つを移民が習得できるよう、援助する」ことが掲げられた。(加藤 1990:63、タマラ・パーマー・セイラー 1993:274-276、木村 1997:70)ケベックにおける多文化主義がフランス語を支配的な言語として認めている枠内において存在し、一方その他のカナダでは多文化主義は英語の傘の下に存在している点に留意しておく必要がある。(ラムゼー・クック 1988:17)つまり、フランス語の使用が公的に認められることでケベックは連邦に止まり、しかも多文化主義なる考えを受け入れた。一方人種のモザイク状態にあった西部では、多文化主義により今まで抑えられてきた文化の表出的要求をエスニック集団ごとに公的に認知することで、カナダの統合は維持された。
 カナダにおいて、再び大規模な移民の波が生じるのは、1967年の新移民法後である。高度産業社会に突入しつつあった当時のカナダでは、質の高い労働力を移民によって補う必要があった。他の先進国と同様、国内の出生率減少の悩みを抱えていたのである。62年に人種や国籍条項による差別を撤廃した新しい移民法を制定したカナダは、67年には専門職および技術職の移民を優先的に選択するポイント制を導入する。人権意識が高揚する戦後の国際環境に配慮した上での実利的な選択の結果であった。これらの移民法改正の結果、アジア、アフリカ、中南米からの「有色」の移民が急増する。可視的な異質性は白人に心理的な不安を感じさせ、有色移民の多くが有能であり短期間で主流社会に参入したため、白人には限られた資源を奪う敵手と映る。こうした白人の不安や不満が有色の移民に対する差別や偏見として表面化してきた。1981年、連邦政府は多文化主義局の中に人種関係部門を設置し差別の実態を調査し始めた。調査の結果、有色の移民をカナダ社会に平等に参加させるには、政府が率先して彼らを雇用すべきであると勧告する。この勧告を受けて1986年「雇用均等法Employment Equity Act」が制定された。多文化主義は「エスニシティの維持」から「社会的平等の実現」という目標に向けて、急速に方向転換し始めたのである。文化的多様性の認知と社会的平等の実現という2極化した多文化主義を推進するため1988年にはカナダが「[出身民族にかかわりなく]すべてのカナダ人をカナダ社会の全面的かつ同等の参加者であることを認める」と明記した、多文化主義法が制定され、現在は文化遺産省の一部門として扱われている。(吉田 1993:63、田村 1997:164-173)

4 先住民について
 最後に先住民について考察する。16世紀にヨーロッパ人が上陸し、植民地化が始まる前から大陸にはインディアン、そして北方海岸地域にはイヌイットが生活していた。インディアンとイヌイットはそれぞれ独自の文化をもつが、共に元はアジア大陸にいたのが紀元前10000年頃現在のベーリング海峡を渡り、アメリカ大陸に住むようになったと考えられている。(中原 1988:208)白人移民が少数のころにはインディアンの軍事力は無視し得なかった。そのため、北米での覇権を争っていたヨーロッパ諸国は強力なインディアンを味方にすることにより、自らの領土を確保する方法をとった。最初の入植者であるフランス系の人びとは、貴重な毛皮を運んでくるインディアンと協力・友好関係を結んでいた。この時期に始めて、白人移民とインディアン女性の混血であるメティスがフランス史に記録されている。(奥田1997:17-22、加藤1990:67)しかし、交通手段やコミュニケーションが発達し、インディアンの軍事力が相対的に無力化するころになると、彼らは無用な存在として一種の保護民と化する。連邦政府は、インディアンが固有の土地を放棄する代わりに、彼らを保護し各種のサービスを提供することを約束した。この条約は「インディアン条約」と呼ばれ、1725年から1923年までに約70結ばれた。そしてインディアンは居留地reserveと呼ばれる狭い土地に閉じ込められることになった。こうして連邦政府はインディアンとの対立を極力回避することで、近代的な国家建設が進められたのである。(加藤 1990:68、93-95)
 無力な保護民と化したインディアンが発言力を持つようになるのは、数千人のインディアンが世界大戦に従軍したことで、戦後、英語やカナダの社会慣習に通じ自治権意識をもった新しい先住民指導者が誕生したことによる。また1971年代の多文化政策により、「公的」に文化の多元性を認知するのがこの政策の中心であるため、先住民を無視するわけにはいかなかったことも挙げられる。(注)1960年代に入って先住民は政治や憲法のレベルでも問題を解決すべく、先住民組織の援助を政府に要求していた。それを受けて政府は1971年に、先住民の「政治組織」を公的に支援する政策を打ち出した。そして法的には依然としてイギリスに従属していたカナダが、憲法改正権を確立し人権規約を明文化した自国の憲法を持つ際には、先住民も彼らの独自の存在が法的に認知されることを求めた。その結果、1982年カナダ憲法に加えられた権利と自由の憲章は、「インディアン、イヌイット、メティス」をカナダの先住民と定義し、かれらに「現存する先住民・条約権(先住民としての権利と条約上の権利)」が存在すると明記した。先住民は、他のカナダ市民と同じ権利と自由を享有し同じ公的サービスを受けるほか、先住権や条約権をもつのである。市民権+αであることから、「シティズン・プラス」といわれている。(加藤 1990:83-84、109-110、1996a:247-248、吉田 1999:300、306)
 1993年には、北西準州を分割し実質的にイヌイットが自治権をもつヌブナット準州政府の創設を約束する「ヌブナット協定」が成立した。同地域のイヌイットは、祖先伝来のテリトリーに対する先住権を放棄しそれと引き替えに35万平方キロに対する共同所有権と10億ドルの補償金を手に入れたほか、およそ200万平方キロのヌブナット全域が北西準州から分割された別の準州になることが決まったのである。準州政府は、イヌイットが住民の8割を占めるため、実質的にはイヌイットの自治となる。地域内の治安、地方自治組織、土地や樹木の管理・売却、直接税の徴収、教育など幅広い分野にわたる権限を与えられた準州政府が、1つの先住民グループに認められたことはかつてなかった。このことが先住民の期待を高めることは間違いないだろう。失地回復と自治権を求める動きは、今後ますます激しくなるものと思われる。こうした要求に対して、連邦政府は先住民に自らの文化・伝統・生活環境を守り、独自の価値観に基づいて社会や経済を管理する特別自治体の設置を認める意向だといわれる。かつての条約が守られ、適切に運用されているかどうかを具体的に検討するのは、こうした自治組織が発足してからになるだろう。(吉田 1993:60-61、1999:308-310)
 カナダ政府は先住民に対して特別な政策を提供してきた。もちろん、白人社会にも不満はある。善意から莫大な政府予算をわざわざ彼らのために投入しているのに、少しも感謝されず、逆に文句や不平を言われるのは割が合わない、と考えているからである。基本的に白人社会の価値観から先住民政策を展開しようとするところに、この問題のカギがあるように思われると加藤は言う。(加藤 1990:75-77)

 (2)政府は先住民を英仏以外のヨーロッパからの移民と同列に    扱っているが、公的に彼らを認知した点は評価すべきであ    ろうと思われる。

第3章 アメリカと比べて

 この章では、政府や公的な立場が多文化主義にどのように対応しようとしてきたかに注目して、カナダの多文化主義の成功点をアメリカ合衆国(以下“アメリカ"と表記する)を参考にしながら論じていく。カナダとアメリカはともにかつてイギリスの植民地であり、広大な領土と農業、工業の発展期に導入された多数の移民、そして人口的には少数になったとはいえ固有の歴史をもった先住民をかかえ、しかもかつてはきわめて選別的な移民政策をとりながら、後には多「人種」の移民を許容する多文化主義を標榜するようになったという多くの共通点をもっている。いっぽう、カナダにはケベックのフランス系住民の存在というアメリカにはない要素がある。このことがカナダにおいて多文化主義が導入されやすかった強力な理由の1つであると著者は考える。そこで、ケベック州のフランス系住民(以下“ケベコワ"と表記する)との対比で多文化主義を考えていくことにする。(cf.加藤 1999)

1 黒人、ヒスパニック系
 アメリカでケベコワと同じ立場にある存在を敢えて挙げるならば、黒人になるだろう。また言語面においてはヒスパニック系の住民が挙げられるだろう。
 アメリカの黒人とは、現在“アメリカのアフリカ系住民"、“アフロ・アメリカン"と呼ばれている人びとのことで、その多くはアメリカ大陸「発見」の時期に西アフリカからやってきた黒人の子孫である。具体的な数値はわからないが、非常に大きな人口移動であったことは確実である。しかし、この「移住」が極めて特殊な性格のもの、すなわち、自発的意志に基づくものではなく、奴隷としての強制的な連行であった。そして奴隷制の下で主に南部の綿花プランテーションにおいて黒人の奴隷と白人の主人という関係を保ちつつ生活することとなった。この時期には「人種」の違いがそのまま身分の違いを意味していたのである。膨大な数の黒人が流入されたことに加えて出生率が高かったため、彼らは人数を増やしていた。(古谷 1984:336)
 その後、南北戦争による北軍の勝利で奴隷制が廃止され、彼らの立場は変化を始めた。奴隷制廃止は、解放奴隷に移動の自由を与え都市や北部への移動を促した一方で、黒人を人種で区別して社会の最下層に固定し社会的上昇を阻止しようとする新たな動きが生まれていた。アメリカでは未だに人種主義(参照:1章)的な考えから抜け出せずにいた。黒人といっても、その指し示す対象と意味するところは地域ごとにさまざまであり、共通の母語をもつとは限らなかったが、黒人という枠で隔離されたことで集団が生じ、黒人文化という民族文化が形成された。(cf.古谷 1984:335-370)この集団の起こした公民権運動がアメリカの文化的多元主義を生み出す原動力になったと考えられている。
2章で述べたようにカナダでは、ケベコワによる独立運動が、二言語政策と多文化政策を生み出す契機になったといえる。カナダの場合は、入植がフランスによって行われた後に主流となるイギリス系の支配が始まった。さらにケベック州の住民の80%がフランス語を話すという領域的背景を有している。全体では45%が英語系であり30%がフランス語系であるため、フランス系カナダ人は全体としては少数派なのだが、ケベック州に限っては強力な多数派になる。(綾部 1988:102-103)主流を形成するようになったイギリス系は、フランス系住民の文化やその独自性を認め、統合を維持するため2つの集団の共存をはかるような対応をしてきた。黒人が奴隷として白人社会に組み込まれ同等の人間と見なされていなかったのに対し、フランス系住民は二大建国民族のうちの一民族として公認されていた事実がある。これが多元的・多文化主義的カナダに直接結び付くとは考えにくいが、複数のエスニシティを認める基礎になっているととらえることは可能であろうと思われる。また、黒人は特定の地域に集中していたわけではなくもともと共通の言語や文化の所有もなかったので、フランス語という共通言語を持ちケベック州に集中していたケベコワほどの団結力はなかなか持てないでいた。この点もカナダで多文化主義が導入されやすかった理由に加えられるであろう。カナダの特徴として、さまざまな民族的・文化的グループが、オンタリオ州のイギリス系、ケベック州のフランス系、平原三州の新移民、北部の先住民など、特定の地域や州に集中する傾向が強い。このため地域の人びとは組織化されやすく、連邦政府に対して大きな発言力を持つ場合が多い。カナダ連邦政府は地域ごとに大幅な自治を認めることで統合をはかっている。
 アメリカで1950年代半ば以来南部の黒人を中心として展開された公民権運動は1964年公民権法、翌65年には投票権法の制定を勝ち取った。それまで存在していた奴隷制を解体させたにも拘わらず、経済的な貧困や社会的な差別が存続している現実に強い不満を感じた黒人を中心に発生したエスニック・リバイバルを契機にアメリカの文化多元主義はスタートした。“Black is beautiful”を掲げたこの運動は、黒白の統合の理想を捨ててしまったわけではないにしても、現実的な判断として人種に関係のない社会の到来を望めないのであれば、黒人の文化遺産の再認識と黒人文化の創造をめざし、「黒」に積極的な意味を与えることを目指すべきである、という結論にいたったのである。(綾部 1993:119、柏岡 1996:215-216、油井 1999:3-4)黒人への人種差別に対しては、「積極的差別是正措置 affirmative action」が論議を呼びつつも容認されてきた。これはコーポレイト多元主義(参照:1章)的な考え方である。これは奴隷制など歴史的不正の遺産に根差す社会的差別に対する補償であると同時に、社会的にプレステージのある地位を占める被差別人種の割合の過小さを断ち切るための政策的措置であり、あくまで、このような目的を達成するまでの暫定的な措置であると理解されてきた。これらの措置は暫定的に人種による差別を行うが、その終局的目的は偏見やステレオタイプを解体し、人種隔離を解消すること、すなわち帰属集団の差異を捨象した諸個人の統合の実現である。「カラー・ブラインド」な社会統合をゆくゆくは実現するための手段として、皮膚の色に着目するのである。(井上 1999:89)しかし、これは主流をなすエスニック集団への逆差別だとする批判が強く、この措置が、白人・黒人といった人種的差異を強調し、人種間対立を強めているという意見も少なくない。(梶田 1993b:139-140)
 ここで述べたようにアメリカの文化多元主義の源泉は、黒人に対する人種差別にある。そのため是正措置も人種に基づく対応となっている。カナダのケベコワの場合は主流の英語系住民もケベコワもお互いに白人であるため、人種という観点から区別することはなく異なるエスニック集団の共存の在り方を模索してきている。アメリカでは「人種」の問題であり、カナダでは「エスニシティ」の問題として扱われた面がある。そのため'60年代のエスニックの台頭により白人であるウクライナ系、ドイツ系などのエスニック集団が発言力を強めてきたときに多文化主義を打ち出すことが比較的スムーズに行えたのではないだろうか。
 白人対黒人の対立構図の中で主に理解されていた60年代の文化多元主義論は、90年代に入るとアジア系やヒスパニック系を含んだより複雑な多文化主義論に変わってきている。そもそも60年代の公民権運動でアフリカ系を中心とする少数エスニック集団には十全な人権が認められたはずであった。けれども、選挙に参加する、市場経済に参加するといった自由権ばかりがともすれば合衆国では強調されがちである。そのため万人への機会の平等を保証しさえすれば国民の人権を平等に認めたと評価されることが合衆国では多くなる。
この点でアメリカはカナダと比べてリベラル多元主義(参照:1章)的な傾向が強い。けれども人権にはそうした自由権以外に、教育を受ける権利、精神的抑圧を受けない権利などの、いわゆる社会権も含まれる。もちろんそれらの社会権について公民権運動は一定の保証をしたはずなのだが、それがまだ完全には実現し得ていないと少なくとも少数エスニック集団側の人間は不満を抱き続けていたのである。(遠藤 1999:36-38)
 1章で考察したように、エスニシティの多様性を認めた上で統合をはかる文化多元主義と多文化主義であるが、前者は社会にコアとなる文化が存在していることを前提としている。黒人の公民権運動により文化多元主義が生じ、カナダで新しい種類の文化多元主義として各エスニック集団を平等に同じ資格でみる多文化主義が形成され、再びアメリカに戻った。言葉としてはアメリカの教育関係でカナダより早くから使われていたが社会に適応させたのは、カナダが先であったという。そのためカナダの方が多文化主義を掲げてからは長い歴史をもっているのである。
 現在ではカナダ連邦政府の国務省で多文化政策を、そして公用語委員会が二言語政策を展開している。同じく、オンタリオやサスカチュワンでも州レベルの多文化政策を打ち出している。アメリカでは公的にこうした少数エスニック集団の文化を認知していないので、カナダのこうした動きは大いに評価されうる。(加藤 1990:64)

 では次に言語面からみていく。カナダでは英語とフランス語が憲法で公用語と認められているが、アメリカでは憲法に定められた公用語はなく、WASP文化が国民文化の中心を成してきたのに伴って、英語が慣習的に共通言語として機能してきた。しかし、80年代以降、二言語教育の義務化および英語を話さない新移民の増加という現実に直面して、英語を公用語にしようとする動きが各地で活発化してきた。「イングリッシュ・オンリー」と呼ばれるこうした排外的な言語統一運動に対して、英語を母語としないアメリカ人のあいだでは「イングリッシュ・プラス」運動が推進されている。英語の必要性を前提とした上で、母語の維持の重要性を主張するこの運動の主体は、ヒスパニック系である。(能登路 1994:108-109)ヒスパニック系住民は1990年の調査では総人口の約10%を占め、1980年からの増加率は53%に昇る。ヒスパニック系の増加に伴いスペイン語は、現在アメリカの西部や南部で公用語のごとくに使用されている。しかし今のところ公用語と認められてはいない。スペイン語を使用する人びとはWASPを主流とするアメリカ社会が形成された後に移住してきたし、最初から主流のエスニック集団に対抗できる勢力となれたわけではなかった。カナダのフランス系が、主流のイギリス系より先住しており、建国の時点で総人口の30%を占めケベック州においては多数派を構成していたことは多文化主義の提案に重要な要素である。

2 建国時期のエスニック集団
 アメリカでは植民地の時代からの植民地相互や各植民地内部の多様性が確認されているにもかかわらず、独立革命のころまでにはすでに「アメリカ的」と呼んでもいいような共通の特性が定着しつつあった。共通特性が定着していくうえで決定的だったのは、アメリカの初期の植民地を支配したのが、どこをとっても結局はイギリス人であったことである。アメリカの植民地はWASP文化にならって形成された。そしてそれが最初の13州の統合原理となり、今日にいたるまでの歴史的展開を規定する基本的枠組みとなったのである。(柏岡 1996:204)アメリカは自由と平等の国といわれているが、元来この二つの概念は、イギリスの植民地にいた人びとが、イギリスからの自由とイギリスとの平等を主張したところからはじまったものである。この思想は次第に、アメリカにおける個人のすべてが自由で平等だとする一種の理想主義にすりかえられていった。(綾部 1982:295)
 このように初期の植民地を支配したのが全てイギリス系であり単一の建国理念をもつことに比べれば、カナダにはフランス系住民がいるため理念が曖昧であり連邦結成の際の憲法は各州の主張の妥協案だったとも言われている。建国当初から複数のエスニック集団について考える必要性が生じていた。しかしこの曖昧さが、後の多民族の主張に柔軟に対応できるという点で、多文化主義においては評価される。
 アメリカ合衆国において文化多元主義とは、人々の「多様性」を保ちつつ、国家あるいはなんらかの政治機構が「統一体」として機能していくための、ひとつの理念型をさし示すものである。この場合、「多様性」とは文化的多様性のことであり、人々を「統一体」に駆り立てるのは政治参加である。この考えでは、移民は政治的な側面においてのみアメリカ市民になればよいのであって、文化、宗教、民族的価値体系などの側面においては、自らの出身地をそっくりそのままアメリカの地にもってくることを是とする発想こそが、アメリカ流多元主義の原形である。リベラル多元主義である。建国当時はまだ、これに多元主義なる呼び名はついていなかった。また、このような多元主義が完全なかたちで容認されたことはなく、つねにWASPへの同化の圧力にさらされていた。しかし注目すべきは、移民集団がこの同化圧力に抗しようとするとき、それが「政治は民族性にしたがうべき」だという分離主義を匂わせるかたちではなく、「政治は民族性とは切り離されるべき」だという、あくまでもアメリカ流の多元主義の原形と一貫性を保つかたちの要求としてあらわれたという点である。それでもやはり、人々は文化、風習、言語、宗教などの面でつねに同化することが求められていた。(今田 1996:153-155)
 この議論では文化の差異や多様性については存在を肯定しているが、政治面からみると個別文化よりもアメリカ共通の価値に基づいた文化を強調している点で多様性を認知していないように思われる。独立革命という明確な歴史的体験をへて、ひとつの考えにまとまろうとする傾向が強かったのである。アメリカでは、まさに理念の先行する統合がはかられてきている。そのため、アメリカの多文化主義は理念の単一性と民族の多様性という矛盾をはらんだ複雑な関係をもつため、国家の政策とはなりにくいのであろうと思われる。

3 先住民
 「理念の共和国」を規定したアメリカの連邦憲法は、先住民を共和国の構成メンバーから全面的に排除することを明示してきた。税金を払わないインディアンを市民とみなさない。それ以後の連邦憲法修正も、主に黒人や奴隷黒人の法的地位についてであり、憲法上は「インディアンを市民とみなす」というような変更はまったくみられない。ところで、憲法で「合衆国において出生し、また帰化し、その管轄に服するすべての者は、合衆国およびその居住する州の市民である。」という規定がなされている箇所がある。ここには、アメリカの領土内で生まれた人間については、親の国籍にかかわりなく市民権を付与するという原則のことである。これが適用されれば、インディアンもアメリカ領土内で出生しているかぎり、市民権を自動的に取得できるはずである。しかしインディアンを市民として認めないことも同時に憲法で規定していたので、その原理は不適用となった。ここでも排除の原理が作動したのである。最終的にインディアンが市民権を獲得したのは1924年「インディアン市民権法」によってであった。対外的な戦争を進めるうえで、国内的に差別や法的格差があっては不都合、と認識されたためと考えられている。こうしてインディアンは全面的排除という存在から少なくとも投票権をもつ存在へと変化した。今日でも現実生活での問題は別としても、理論的には先住民を排除する「たてまえ」が強いように思われる。(加藤 1996a:242-243)
 カナダでは先住民にたいする対応もマイルドであったと評価されている。フランス系住民の友好的な交流に始まり、メティスの存在がカギを握っていたと思われる。メティスの多くはフランス系とインディアンの混血であるため、連邦政府はメティスをないがしろすればケベック州を始めとしたフランス系の反発が生じるかもしれないと懸念したのではないだろうか。またカナダでは建国当時の憲法には市民権に対する記載が提示されておらず、民族問題においては連邦政府がケース・バイ・ケースというかたちで「なんとなく」曖昧なかたちを保ってきた。市民権法が成立したのが1977年であったため、発言力をもつようになっていた先住民は憲法に自分たちの権利を明文化することに成功したのである。おそらく原則を明示しなかったことで、新しい対応策をとることが可能となったのあろう。最近になって先住民をとりまく法的曖昧さが、逆に民族問題にはプラスの効果をもたらすようになってきたと言われる。(cf.加藤 1996a:246-251)

 以上、カナダの多文化主義が優れている点を挙げてきた。様々な点でカナダの多文化主義は他の国家と比べればプラスの評価を受けていているし、参考に出来るところも多いと思われる。しかし、カナダの多文化主義は「二言語の枠内における」という条件付きで成功しているのではないだろうか。沿岸諸州(ニューブランズウィック、プリンス・エドワード島、ノヴァスコシア)ではイギリス系住民の文化とフランス系(=アカディアン)の文化がきっ抗して並んで存在するという形態をとっている。言語も法律で保護されており、組織もしっかりはりめぐらされており、経済的に劣位にあるということを除けば、完全とは言えないまでもイギリス系の文化に対抗できるだけの装置を備えている。(太田 1988:90-91、cf.太田 1998)もしこれが二言語ではなく多言語になっても上手く機能する、とは考えられない。また二言語であるため、これらの言語を母語としない人びとからバイリンガル教育への強い要求が出されている。

まとめ

 カナダは多文化主義の母国と評価されるように、多文化主義に関しては他国より先進的な面が多くみられる。「二言語の枠内における」という制限がつくものの、それが実践できている点は評価に値すると思われる。
 しかし多文化主義は1つの固定された概念ではない。それぞれのエスニック集団の文化を尊重し、エスニシティの表出を認める多文化主義は、エスニック集団やエスニシティが変化すれば、それに対応していくべきなのである(参照:1章)。事実、エスニック集団の構成には変化がみられる。著者は移民の変化と混血を考える。カナダにおいては主流をなすイギリス系が既に過半数を割っているし、アメリカにおいても1990年4月の『タイム』誌の予測で1990年には75%を占める白人系(ヒスパニック系を除く)が2056年には過半数を割るという結論を出した。白人に替わって人口比の割合が増えているのはアジア系を中心とした有色移民で、確実にこれまでの北アメリカ社会に変化をもたらしつつある。毎年ポイント制(参照:2章)をくぐりぬけて多数の有色移民がやってくるのに対して、白人系は移民数の減少と出生率の低下により総人口に占める割合が減ってきているのである。人口構成においては、これまでのWASP中心の社会ではなくなりつつあることが明かなのである。
 また、移民の変化に加えて混血の進行も重要な要素であると考えられる。北アメリカでは様々なエスニシティを持つ人びとが一緒に住むようになって混血が生じていた。黒人の血をもつ者は黒人に、先住民の血をもつ者は先住民に分類されて白人という枠から除外されてきた。そのため、混血という分類が構成されておらず、現在でも曖昧な所が多いようである。しかし、混血の割合は増加してきている。19世紀後半から、ほとんど全ての白人グループ間で同一民族同士の結婚が著しく減少している。(パリーロ 1997:41-42)さらにグループ外結婚のパターンも増加してきている。これはアメリカの資料になるが、ヒスパニック系が非ヒスパニック系の人と結婚したのは1993年には120万人を越えており、その増加率は1980年の89、1万人と比べて35%増である。(同:327)人種間結婚のついても、1970年以降増加の傾向にある。黒人と白人の夫婦は6万5千組から24万2千組に、黒人以外の配偶者(大半がアジア系)と結婚した白人の夫婦は23万3千組から92万組に、白人以外の配偶者と結婚した黒人の夫婦は1万2千組から3万3千組に増えた。(同:328)カナダにおいては明確な数字が把握できていないが、少なからず混血は進行している。そのため、いままでの民族概念ではとらえられないエスニシティをもつ人びとが増え、社会が変化している。
 これらのエスニック集団に対応できるような統合方法として多文化主義が掲げられているが、諸エスニック集団の文化の違いを強調することは、国民としてのアイデンティティを損ない、国家を分断することになるのではないかという懸念が常に存在する。ヨーロッパにおいては欧州連合という統合形態がとられているが、バスク地方やカタルーニャ地方で分離独立運動が起こっていて、これをそのままカナダやアメリカに採用するのが良いとは考えられない。加藤が指摘するように、法的あるいは制度的な不公平の改善は、比較的取り組みやすく、その成果をあげるのも、さほど困難ではないだろうと思われる。社会・経済的な意味での「集団間の不公平や格差の是正はかなり難しい。(加藤 1993b:206)カナダの多文化主義は法で規定されている点で先進的であり、変化していくエスニック集団に柔軟に対応していけるという優れた点をもつが、これが最善の方法とは言い難い。しかし、bestではなくても他の方法よりは良いbetterな方法だとは言えるであろう。
 カナダやアメリカ、オーストラリアといった移民国家に限らず、この先世界のグローバル化がますます進むことは必須であり、異なったエスニシティをもつ人びととの接触が増えるのは確実であろうと思われる。そこでエスニック紛争を避けるための方法を考案すべきと考えるよりも、様々なエスニック集団の共存をはかる方法を考案するという積極的な取り組みが必要となっているように思われる。人種や民族、エスニック集団の所属に関係なく、人びとが助け合う心をもって接せられる社会の統合が望まれる。

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