人類学における生物学的事実の位置付け
〜その現状と可能性〜
西川 然
-----------------------------------------------------------------------------目次
1、要約
2、女性の普遍的劣位性をめぐって
(T)アードナー
(U)オートナー
(V)ロサルド
3、批判
4、生物学的根拠にたつこと
5、ジェンダーとセックス
6、出産
(T)出産にかかわる事例
@)パプアニューギニア、ナカナイ族の事例
A)インドネシアの事例
B)インドの事例
C)アンデスの事例
D)ヘヤ−・インディアンの事例
(U)考察
7、結論
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T、要約
人類学における世界の捉え方の特徴として、ある物事を文化の作用であるとか、文化的所与の結果であるという見方がある。しかも、それは各文化によって相対的であるという。たとえば、一つの物事に対しての捉え方や概念が文化によって全く異なっていたりするのは、文化というものが多様で、その在り方はお互いに異なりうると説明されるのである。このように相対的に文化を捉えながら今日の人類学は存在しているが、人類学という学問において、あらゆる人間に共通した普遍的な生物学的事実は一体どのように扱われているかを考える。
本論では人類学における生物学的事実の扱いを考えるために、女性の普遍的劣位性をめぐる議論に目を向けてみたい。なぜなら、この問題は特に生物学的事実に関わった議論において決定的な決着がついたとはいえない分野といえるからである。つまり、女性の普遍的劣位性の説明として生物学的事実を挙げることに対して、明確に肯定あるいは否定することができないでいるのである。ここでは、アードナー、オートナー、ロサルドの三者による女性の普遍的劣位性の説明を挙げる。三者はそれぞれ、自然/文化=女性/男性、家庭内的/公的=女性/男性という二項対立の図式をたて、普遍的劣位性の存在を証明することを試みた。しかし、彼、彼女らの説明は特に共通して生物学的事実にその論拠を頼っているという点で激しく批判された。ここに、人類学における生物学的事実の扱われ方が見えてくるだろう。つまり、人類学という学問にとって生物学的事実、または生物学的決定論というものは忌み嫌うべき存在なのである。
このような人類学における生物学的事実に対する姿勢をよく表したものとして、ジェンダー概念があげられる。ジェンダーとは、つまり一言で言うと社会的な性差のことで、社会に存在するさまざまな社会的性差や性役割は、文化・社会・歴史的に生成されるという考え方である。そして、このジェンダーは生物学的な性差であるセックスとは区別されているという特徴をもつ。このジェンダーという概念は人類学という学問にとって多くの貢献をした。たとえば、それ以前の人類学研究の方法は西欧中心主義、男性中心主義になっており、女性を排除していたという自省と、女性の視点の導入という新しい課題を明確にしたのである。それだけでなく、フェミニズムと関係を持つ人類学という点でもジェンダーは貢献した。つまり、女性の解放が目的であるフェミニズムを支持する人類学者にとって、既存の女性像は文化・社会・歴史的な生成物であるというジェンダー概念は有効な手段となったのである。その一方で、生物学的事実は既存の女性像を肯定するという点でジェンダーとは区別して扱われたのである。
私は、本論においてこの人類学における生物学的事実の在り方と、セックスを排除したジェンダー観を問題視する。たとえば、出産という、あらゆる文化において女性に普遍的に関わってくる生物学的事実である。この、女性の生物学的特徴にまつわる女性像というものは、出産を生物学的事実としてのみ捉え、ジェンダーからセックスを排除していたのではうまく説明できない。人類学はその生物学的事実への忌避の性格とジェンダー観によって、自ら問題を招いている。ここに私は、人類学におけるジェンダー観の修正の必要性を主張する。つまり、セックスという生物学的な性差というものを考慮に入れたジェンダー観が求められているのである。
そして、ジェンダーの形成において生物学的な事実が影響を与えるということを証明し、ジェンダー観の修正の必要性を論じるために、出産という生物学的な事実にまつわる五つの文化の事例を提示する。パプアニューギニア、インドネシア、インド、アンデス、カナダの各文化における出産の儀礼や出産に関わる概念である。これらの事例からは、各文化における出産という女性の持つ生物学的特徴の重要性や影響力がうかがえる。そして、さらに出産という生物学的特徴をもつ女性像、つまりセックスに影響を受けたジェンダー形成がそこからはうかがえるのである。人類学において、たしかに生物学的事実の扱い方は難しいものかもしれない。かといって、それがただ生物学的事実であるというだけで議論から排除するやり方や、批判してしまうのでは閉塞的になってしまう。今後の人類学の発展のためにも生物学的事実の扱いは再考されるべき問題ではないだろうか。
2、女性の普遍的劣位性をめぐって
人類学において生物学的事実はいったいどのように扱われているのだろうか。そのことを考えるために人類学において活発に交わされてきた議論のひとつである女性の普遍的劣位性の議論に関して見ていこう。なぜならば、この議論は長い間繰り広げられてきたにもかかわらず、未だに生物学的事実に対して有効な回答が得られておらず、それゆえにまだ議論の余地があるからである。
女性がいかなる既知の社会においても、普遍的に男性に対して劣等な地位に置かれているという確認は多くの人類学者が持っているが、なかでもエドウィン・アードナー、シェリ・B・オートナー、ミシェル・Z・ロサルドらは、レヴィ=ストロースの提唱した自然/文化の二項対立の図式を足がかりとして女性の普遍的な劣位性を説明付けようとしてきた。以下、女性の普遍的劣位性をめぐる問題に注目する。
(T)アードナー
彼は、人類学の研究のあり方から問題にアプローチしてゆく。多くの人類学の研究が男性による社会モデルの抽出のみに集中してしまっていると指摘する。そして、それゆえに女性の持つ社会モデルを取り上げることができずにいるという人類学の技術的な問題を指摘している。つまり、男性は、明瞭にものを語るという性質をもち表に出て語るという経験に富んでいるために、民族誌家(男性女性ともに)もまた理解しやすい男性による社会モデルに耳を傾けるのである。その男性による社会モデルにおいては、女性は自然=野性的なものに結び付けられ、男性=文化と区別されて扱われる。(アードナー1987a:35-37)
その一方で、彼は「女性が提供する社会モデルは、男性や民俗誌家(文化)にとって一見して受け入れがたいもの」(アードナー1987a:37)であり、女性は世界を男性がするようにはように捉えておらず、単に自分たちを自然というカテゴリーに分類するのではなく、そもそも社会を自然から区別するものとすら見ていないと主張する。そんな中で、彼は社会と社会との間に境界をつける行為に「男性性」を見出し、社会あるいは文化的なあらゆるものはすべて男性的な性質を持つとしている。たとえ女性が社会と自然とを区別しないという独自の世界モデルを持っているとはいえ(アードナー1987a:37)、社会や文化は男性のものであり、自然は女性と結び付けられている。そして、男も女も含めた人類全体を捉えようという人類学という行為もそもそも男性的であり、その男性が「語る」というその文化による性格のために支配的な位置に存在し、女性が明瞭に語りえない存在である限り、女性は劣位に置かれ、「無言化」へと追いやられることになる。以上のように彼は、男性と文化、女性と自然を結びつけるという、自然/文化=女/男という二項対立の図式を利用して女性の普遍的劣位性を証明しようとした。(アードナー1987a:33-56)
(U)オートナー
彼女も明確に社会における女性の副次的地位は真に普遍的なものの一つであり、汎文化的事実の一つであると主張している。そして彼女もまた、それら女性の普遍的劣位性という事実を自然/文化=女/男の図式を用いることによって説明付けようとした人物である。彼女が、上記のアードナーと異なる点は、第一に、女性の文化的劣位性をはっきりと普遍的なものだとしたことと、第二に、同様にレヴィ=ストロースを手がかりにしながらも、さらに広く考察の素材を取り上げたことにある。(山崎1987:19)
では彼女はどのように女性の普遍的劣位性を説明していったのか。彼女は、ここで自然/文化=女/男の図式を用いている。彼女によると、文化は自らの存在のために、自らと区別して文化ではない自然なものに対して能動的に行為を行い、いわゆる支配を自然に対して表明していくのである。この、文化の自然に対する弁別性は、ほとんどすべての状況において文化は自然状態を超越し、自然状態を自らの目的にそって変革させることができるという事実に基づいている。さらに、文化は自然との区別にとどまらず、自然より優れたものであると主張する。つまり「文化」とは、文化それ自体が存在するためという根本的な理由から、本質的に「自然」を支配するものとしてみなされているのである。そして、この自然/文化の関係性をもちいて彼女は女性の普遍的劣位性を説明する。すべての文化がその文化自体より低い秩序にあると規定する「何ものか」が存在するとし(文化それ自体が存在するために「何ものか」との区別、序列を設定する必要がある)、その「何ものか」と女性が同一視されているのである。そしてこの「何ものか」こそがもっとも一般的な意味での自然なのである。そうするとおのずと自然/文化=女/男の関係が見えてくる。そう、女性の汎文化的な従属的地位は、男性が文化と同一視されるのに対し、女性が自然と同一視されたり、関連付けられたりすると仮定することで、自然の文化に対する従属的な位置がそのまま女性にスライドされ、その事実が説明付けられるのである。(オートナー1987:90-94)
さて、オートナーは、女性が自然に近いとみなされる理由を女性の出産をはじめとする身体構造においている。女性は種の再生産のために、個体としての健康や体力、一般的な安定を犠牲にせざるを得ない状況にあるとみなされる。そして女性は出産という自然的機能に肉体的に大きくかかわるためより自然に近い存在とされるのである。その一方で男性は出産機能を欠いているために、自らの創造性(種への貢献)を外的に「人為的なもの」とせねばならず、その意味で男性は文化とみなされるのである。さらに、女性の持つ出産機能にかかわる社会的な意味が与える状況についても述べている。つまり女性は授乳過程において否応なく、家庭というコンテクストの中に束縛されることとなる。この「家庭」という単位は社会、文化という、高次なレベルの単位の構成要素であり、自然/文化=家庭内的/公的というレヴィ=ストロースにはじまりロサルドの展開する以下の図式からみて、より自然的なものという位置付けがなされている。(オートナー1987:105-109)
(V)ロサルド
彼女はいう、男性の活動は、文化的価値という点で女性のそれと比較して圧倒的に重要性が付与されている、と(ロサルド1987:139)。それはどのような文化においても、あらゆるところで普遍的にそのような事実が見出せるという。彼女はニューギニアやアフリカ諸社会、ユダヤ人のゲットーなどの多くの実例を挙げつつ女性の普遍的劣位性を実証しようとする。つまりどのような社会であっても、なるほどたしかに一見女性が多くの権力を有している社会もあるかもしれないが、必ずといっていいほど男性には何らかの女性より優れた権威が与えられている(ロサルド1987:142)。彼女はそのことの理由を、何かある必然的な事実の中に求めることは全面的に否定している。つまり、そのことの理由を生物学的な根拠でもって説明することを拒否しているのである(ロサルド1987:144)。彼女は生物学の重要性を認めてはいるものの、生物学的な事実が人類の文化的な側面や、ある事実の文化的解釈といった類の事柄を説明するようなものではないと主張している。ではいったいどのようなことから彼女は説明付けようというのか。
彼女は、「家庭内的領域」と「公的領域」という普遍的・構造的な人間生活の志向の対立のモデルを、男女の関係のモデルに当てはめることで、男性と女性との普遍的な非対称性を示そうとした(ロサルド1987:168)。つまりどのような文化においても、その行動の対象あるいは性質が、家庭内的であるか、または公的であるかという対立の図式が存在し、そのほとんどの場合が前者は女性に、後者は男性にあてはめられているのである。家庭内的/公的=女性/男性という図式がここでは見られると主張する。ここでいう「家庭内的(ドメスティック)」とは、「ひとりないしそれ以上の母親とその子供たちの周囲に直接に組織されている最小限の制度と活動様式」をさし、「公的(パブリック)」とは「個々の母−子集団どうしを結びつけ、等級づけ、組織化し、または抱合するような活動、制度、結合形態」をさしている(ロサルド1987:144)。彼女は、女性が「家庭内的」と必ずといっていいほど結び付けられる理由として女性の出産をはじめとする、育児、家事を指摘している。女性は、その子供を生み育てるという普遍的な事実がゆえに、母親という性役割を負うことになり、必然的に家庭内諸活動に束縛されることになる。ところが男性は、出産、育児から自由であり、より自らの活動を外的世界、「社会」に向けることができるのである(ロサルド1987:145)。つまり「公的」な領域にその活動を展開することが可能となるのである。そして「公的」な活動と「家庭的」な活動の文化的な評価に優劣が存在するのである。したがって、男性は「公」という位置にいることによって文化体系そのものから権威を付与され(ロサルド1987:139)、同時に女性はその「家庭内的」な活動領域がゆえに文化的に低評価されざるを得ないのである(山崎1987:22)。以上、ロサルドは「家庭内的」/「公的」=女性/男性という図式をもとにして女性の普遍的劣位性を説明しようと試みたということを記述した。
3、批判
以上、アードナー、オートナー、ロサルドという三名の人類学者による主要な女性の普遍的劣位性の説明と主張を概観してきた。三名はそれぞれ、自然/文化=女性/男性、家庭内的/公的=女性/男性という二項対立の図式をたて、普遍的劣位性の存在を証明することを試みた。しかし、「女性の普遍的劣位性」が多くの議論を繰り広げたというだけあって(山崎1987:12)、彼、彼女ら三者の主張に対しても多くの批判がなされた。そのおもな批判のポイントは三点が挙げられるといえる(山崎1987:20)。
まずはじめが生物学的根拠という問題である。なぜならば、女性の劣位性を生物学的根拠によって説明することは、女性の劣位は必然的で不可避な事柄であるということを認めてしまい、同時に男性による女性の支配を容認してしまうことに通じてしまうことを意味し、それは一見中立的に見えようとも男中心主義に陥っているのである。したがって人類学では、この生物学的な事柄を根拠に女性の普遍的劣位性を論じるということはもっとも避けられるべきことであるとされている。(山崎1987:17)アードナーやオートナー、ロサルドらももちろん生物学的立場を否定する立場にいるのではあるが、しかしながら、女性の持つ出産をはじめとする「生理機能」にその普遍的劣位性の根拠を見出してしまっているのである。結局のところ彼、彼女らの主張は生物学的決定論に陥ってしまっていると批判されるのである。
次に批判の対象となっているのが、彼、彼女らが持論を展開するときに用いる二項対立図式のモデルの普遍的適用可能性への疑問である(山崎1987:21、23)。つまり、上記で前提として用いられていた自然/文化=女性/男性、家庭内的/公的=女性/男性という二項対立の図式が本当に、全人類を包括した社会に通用するものなのかということである。さらに具体的にいうと、自然と文化という分類法を大前提にしたとしても、その各項にそれぞれ女性と男性を割り振らない文化も存在するという批判があげられる。つまり、山中の考察によれば、マコーマクの研究した西アフリカのシェルブロ人の社会では、子供が成長していない動物のような存在とみなされ、大人である成人は成人儀礼を通して文化的なものとみなされる。そこでは男女が同程度に念入りに儀礼を経験するという。したがって、その社会では自然/文化=女性/男性ではなく、自然/文化=前社会的な子供/成人儀礼を済ませた大人という図式が適応できるといえるのである。またニューブリテンのカウロンの人々は、既婚であるか、未婚であるかということによって、生活の場を村落のうちか外かを区別する(山中1998:5,6)。つまり自然/文化=既婚の男女/未婚の男女という図式が存在する。一方、パプアニューギニアのトロブリアンド社会においては父親が育児に大きく関わり、ミクロネシアのサタワル島の社会でも夫は妻が妊娠中であるか乳幼児を抱えているときは家事や育児を非常によくするという(山中1998:12)。このような事実をみると家庭内的/公的=女性/男性という図式は一概には当てはまるとは言いがたい。
三つ目の批判となっているのが、二つ目のものに大きくかかわるものであるが、そもそも自然/文化という分類法そのものに対する疑問である。つまり、大前提として何の疑いもなく用いてきたレヴィ=ストロースからはじまる自然/文化の対立の図式という概念が実際は、普遍的にどの文化に属する人々にとっても当てはまるとは言いがたいとされ、むしろこの分類は西欧文化による自文化中心主義に陥っているという批判である。ストラザーンによると、オートナーは自然と文化がもつ相互の関係の概念化をすべてのどのような文化でも行われていると強引に仮定しているという(ストラザ−ン1987:232)。ニューギニアのマウントハーゲンに住む人々の間では、ロミ(野性的なもの)とムボ(飼育されたもの)という一見して自然/文化と似た概念が存在するが両者の関係はまったく違うといえる。自然は文化によって変化させられ、行為を受けるが、ロミとムボはそのような位階的な関係にはない。お互いに単なる対置として捉えられている(ストラザ−ン1987:273)。たとえばマウントハーゲンの人々はブタをそれぞれロミとムボに分類するが、彼らはムボのブタを飼育し飼いならそうとするのに対して、ロミのブタに対してはまったくそうしない(ストラザ−ン1987:242)。結局のところ、自然/文化と、ロミとムボはまったくの等値ではないということがいえる。そして自然/文化という概念を誰もが持つであろうという観点こそが西欧文化中心主義と批判されるのである。
4、生物学的根拠にたつこと
さて、このように以上の批判が展開されてきたのであるが、二つ目と三つ目の批判に関しては三者の命題からは逸脱する実例を挙げることによって彼、彼女らの理論が一概に普遍的なものとして認めることはできないとすることは正当である。事実、それらの理論の枠組みからもれる実例を挙げることは、それだけでその普遍性を否定することになるからである。ここで、これら二つ目と三つ目の批判が説得力を持つのは、他でもないただその反証となる実例を挙げることによってであろう。その反証が事実である限りにおいてその批判は、その対象となる命題あるいは理論に対して有効なのであろう。
それでは一つ目の批判に関してはどうか。この「生物学的決定論に陥ってしまっている」という批判は、明らかにこれら三つの批判の中でも異質である。まったく逆の論理とも言えるかもしれない。なぜならば、二つ目と三つ目の批判がある命題に対してそこから逸脱する例を挙げることによってその普遍性を否定するのに対して、この一つ目の批判の論理はまず「生物学的根拠に依ってはいけない」という命題が存在し、そこから逸脱するという点で彼、彼女らの理論を批判しているのである。私がこの批判に他と比べて説得力を感じないのはこの点によるのかもしれない。「生物学的決定論に陥ってしまっている」という批判の形式の性質上、他の批判のように実例の提示という有効な手段をとることができないのは仕方がないことかもしれない。しかしながら、この一つ目の批判は、自己の主張に対してあまりにも自省がなさすぎるのではないだろうか。その生物学的決定論に陥ってはいけないという大いなる前提が議論の展開を妨げてはいないだろうか。生物学的決定論に陥ってはいけないという人類学の持つ偏向性という性格は問題ではないのだろうか。
私は、以下で生物学的な事実にも目を向けるべきという論を展開しようと試みるが、もちろん生物学決定論が絶対であるというのではない。そもそも以上の話は、女性の普遍的な劣位性というものの原因を探る過程の中での話である。そして、私はその原因を女性の出産をはじめとする生理機能に求めるということが批判の対象となることを理解できる。なぜなら、女性の普遍的劣位性を生物学的決定論によって説明することは、“女性はその生理機能、生物学的特徴がゆえに生得的に男性よりも劣る存在であり、男性の優位性を正当化してしまう恐れがある”というからである。この言い分は男性の優位を正当化するわけにはいかない、という戦略的な部分が多少うかがえないわけでもない。しかし、この人類学の観点は、人類学という学問がフェミニズムの運動と強く結びついているという事実がその戦略性という性質を与えてしまっているということを考慮にいれるならば、理解に難いものではない。つまり、フェミニズムの運動には最終的に女性を解放するという目的があり、その目的のための行為に戦略性が見られても不思議ではない。そのうえ、私が以下で論じていきたいことは、生物学的決定論が男女の社会的な優劣を決定するか否かということではないのである。生物学的決定論を扱うとはいえ、それ自体が男女の優劣を決定するという立場をとるわけでは決してない。
では、私が問題としたいのは何か。それは人類学という学問の生物学的決定論を忌み嫌い、“生物学的決定論に陥ってはいけない”という決まりに対して謙虚なまでに殉じているというその性格に対してである。もはや問題は、女性の普遍的劣位性の原因としての生物学的決定論には限らない。むしろ、人類学という学問の中における生物学的決定論の扱いというものを問題視していきたい。たとえば、人類学者たちは、男女両性間における不平等あるいは社会的な優劣の存在を自然的な基礎の中におくことを、「自然的なものの中立性をよそおった男中心主義の言説でしかない」と忌み嫌う(山崎1987:17)。また、生物学的決定論に陥ってしまっているという批判をうけて、アードナーは生物学的な事実にふれたとしても、断固として生物学的決定論にはならないと主張し(アードナー1987b:130-131)、オートナーは依然として女性の劣位は普遍的であるという姿勢は変えないままに女性の「生理構造」への言及は避けながらの理論展開に切り替えている(山崎1987:20)。同様にロサルドも、「すべての人間集団において性差は、生物学的制限にではなく、社会関係、とりわけ社会的不平等の地域的、独自的な諸形態に関連させつつ、政治的社会的な仕方で理解されるべきだ。」と述べながら、母性機能の女性の普遍的劣位性との関連性は強調しなくなったという(山崎1987:24)。この三者のそれぞれの批判への対応は、生物学的なものを排除しようとする人類学(青木1995:80-82)という立場を考えるならば、ごく当然のことかもしれない。しかし、私はそこにこそ問題があるのではないかと考える。生物学的だという批判に対しての反応があまりにも敏感で過激なのである。ではそのような人類学の性格は一体どのようなものなのか。
5、ジェンダーとセックス
人類学において以上のような生物学的決定論を嫌うという性格をよく反映している側面としてジェンダーとセックスの区別が挙げられるのではないだろうか。そもそも人類学者からの注目を集めるこのジェンダーとはいったい何であり、どのような貢献をフェミニスト人類学にもたらしたのか。まずジェンダーとは何かということだが、端的にいってしまえば“社会的な性差”とでもいえるだろうか。ジェンダーの定義は多くの人類学者がおこなっており、そのほとんどの定義の中に見られるジェンダーの特徴は三つあるといえるだろう。@:ジェンダーとは文化的、社会的、歴史的な過程の中で構築される。A:@の特徴がゆえに文化ごとに多様性を見せる。B:ジェンダーは生得的なものでは決してなく、セックス(生物学的な性差)とは区別される。(青木1991:154、宇田川1993:415、中谷1997:239)こういった特徴をもつジェンダー概念の研究はどのような有効性をもつのか。それはやはり女性の可視化をめざす動きをよんだ事と、男性中心主義に陥っていた人類学そのものの理論的枠組みに警鐘を鳴らしたことであろう。つまり、これまでの人類学における研究では、男/女という二項対立のカテゴリーでもって捉えていた初期の人類学の研究の方法に対して、そのカテゴリーの無批判な普遍化や一般化は危険であると批判がなされてきた。そんな中で、ジェンダーという概念によって「男性」「女性」という概念がいかに社会的、文化的に構築されてきたものであるという認識を実現し、男/女のカテゴリー分けすらも文化によって異なるという認識をも達成したのである。そしてなによりも、ジェンダー概念は、いわゆる「女性」という概念が西欧的イメージであったという反省と、研究の対象となる文化のもつ固有のコンテクストの理解に基づいた「女性」という概念を捉えるべきであるという課題を明確なものにしたのである。(青木1991:162-164、1995:89-99、中谷1997:235-240)
さらに、そのようなジェンダー研究が人類学に貢献したのは、なにも上記のような人類学の学問における手法そのものの修正の必要性を明らかにしたということのみにとどまらない。それはフェミニズムと強く結びついた関係を持つ学問としての人類学という文脈においても大きく貢献しているといえよう。1970年代、人類学の学問領域において大きな関心のひとつとなっていた議題は、女性が普遍的に劣位に置かれ手いるということを前提としながら、その状態を形作っているその原因はいったい何であるのか、“女性は何ゆえ劣位にあるのか”ということであった(山崎1987:12-13、宇田川1993:413-414)。そんな中で、多くの議論が展開され、上記で紹介した議論もその一部の例である。そのような流れのなか、1930年代からすでに始まっていたジェンダー研究というものに目が向けられたのである。つまり、“女性は何ゆえ劣位にあるのか”という問いに答えられる概念としてジェンダー概念が注目されたのである。つまりジェンダー概念によると、女性が現在経験しているあらゆる社会的な障害や不平等は、生得的なものではなく、社会的、文化的、歴史的に構築されてきたジェンダーという「女性らしさ」「男性らしさ」というイメージによるものであるということである。そして、このジェンダーによる女性の普遍的劣位性の説明は、女性の解放を目的とするフェミニズムの運動にとって、まさにもっとも最適ともよべる、都合の良いものであったといえよう。なぜならば、ジェンダーという概念は、女性の普遍的劣位性を社会的、文化的、歴史的な構築物として捉えることで、女性を劣位という場所に固定したままとどめておくことをしないからである。つまり、劣位にある現状は人為的に作られた状態であるとみなすことで、女性にとって不平等なそのような状況から脱却するべきであるという主張を可能にしているのである。その意味でジェンダーという概念はフェミニズムにとって歓迎するべきものであったのである。
その一方で、フェミニズムの運動が女性の解放を目的とする以上、“ジェンダーの対極に位置すると捉えられている”生物学的根拠は、フェミニズムを支持する人類学者にとっては都合の悪い、忌み嫌うべき存在であるということも説明がつくであろう。なぜならば、女性の普遍的劣位性を生物学的決定論によって説明することは、女性を劣位というカテゴリーの中に固定したまま、その場にとどめてしまい、さらにはそのことを肯定することにもなってしまうからである。たとえば、「女はやっぱり家に居なくちゃあいけない」というような言葉に対して、ジェンダー概念によるならば、それは文化的に形成された言い分であるとして、その言葉を批判することができる。けれども、それに対して「女が家に居るのは、女なんだから仕方がない」と言わせてしまうのが生物学的根拠による説明が意味するところなのである。
さて、以上のようなフェミニズム運動の最終的には女性を解放する目的の存在を考えたならば、上記の、ジェンダーはセックス(生物学的な性差)とは区別して捉えられるという、ジェンダーの特徴Bは納得がいくであろう。むしろフェミニズム運動とつながりを持ってきた人類学、あるいはフェミニズムを支持する人類学者の立場を考えると、ジェンダーとセックスを区別して考えねばならないのである。しかし、ジェンダーとセックスを区別して考えるというこの人類学の性格をこそ私は問題視する。もちろんジェンダーという観点が人類学にとって多大な貢献をしたということは、認めざるを得ない事実であり、その貢献が革新的で有意義なものであったことは上記のように否定できるものではない。そしてその結果、当然のことながら、ジェンダー概念は人類学の方法論の一翼を担う概念として成長することになる。けれども、そのことは同時に、人類学が、ジェンダー、つまり社会的、文化的な性別としての女性に焦点を置いていることを意味しているのである(宇田川1993:415)。宇田川が示唆するように、この人類学のジェンダーに対しての偏向と、セックスに対しての過敏なまでの忌避の姿勢は、人類学の議論の行き詰まりの原因となってしまっていることを私は問題視している。つまり、フェミニズムを支持する人類学がジェンダーに注目するようになってから、その議論の焦点は常に女性あるいは男性の社会的な部分にあった。そして、そのことは社会的、文化的なもの以外の事柄を議論の場から排除してしまうか、あるいは、たとえば女性の出産という身体的な特徴を排除しきれないという点への批判に対して、充分な説明がなされないでいる現状を創出している。そのような現状を指して彼女は「非生産的な議論の応酬(宇田川1993:415)」と言い、ここに人類学の行き詰まりを見出している。そして、繰り返すことになるがその原因を、人類学が社会的な存在としての女性、ジェンダーにのみ焦点を当てていることに求めている(宇田川1993:415)。この状況を示して宇田川はジェンダーでもセックスでもない、男性と女性の関係性の中から女性に注目していこうとして、セクシャリティへの注目を提言している(宇田川1993:415)。
しかし、宇田川はセクシャリティに目を向けているけれども、私は人類学が傾倒している、そもそものジェンダー観というものにこそ再考の余地があるのではないかと考えるのである。ジェンダーとセックスをまったく区別して考える、その捉え方そのものに対して疑問を抱くのである。そして私が結論として言いたいことを簡単に言うならば、ジェンダーとセックスはまったく区別して考えるべき概念ではなく、セックスという人類学が忌み嫌う生物学的事実がジェンダー概念に影響を与える存在として無視できるものではないということを主張したいのである。そして、そのことを説明するためのキーワードとして出産を取り上げ、いくつかの角度から眺めることで、セックスを考慮に入れたジェンダー観というものの提案を以下でしていきたい。
6、出産
さて、この章から出産をキーワードに、ジェンダーという概念においていかにセックス、つまり生物学的事実が影響力を持つものであるかということを論じていくつもりである。そして、このことがジェンダーとセックスの相互の関係の再考と、新しいジェンダー観の提案につながることを目標としたいと思う。そのためには、まず、なぜ出産が以上の私の目標に対してキーワードとして有効であるのかということから説明せねばならないだろう。人類学のこれまでの議論の中で出産は実に微妙な位置づけがなされてきたといえるかもしれない。たとえば上記の女性の普遍的劣位性をめぐる議論において、その自らの提案の根拠の一部として出産に注目したアードナー、オートナー、ロサルドである(アードナー1987a:43、オートナー1987:94,95、ロサルド1987:145-148)。しかし、彼、彼女らに対する批判として、その根拠を生物学的事実に求めているという点が指摘される(マチウ1987:70-71、山崎1987:19-20,23-24、宇田川1993:414、中谷1997:232-235)ことを考えると、生物学的事実である女性の出産という身体的行為は、動かせない事実であり、否定できないのである(宇田川1993:415、中谷1997:235)。つまり、女性の出産の機能は、人類学においては生物学的事実というだけで説明できないこととされてしまうのである。そうなってくると、ジェンダーはセックスと区別されるというジェンダー観では、“出産する女性”という生物学特徴をもつ女性像に対して充分な説明ができないのである。つまり、出産という事実、あるいは出産の大部分をつかさどるという特徴をもつ女性を、自身のジェンダー観がゆえに説明することを理論上不可能なものにしてしまっているのである。人類学は自らのジェンダー観で自らの行き詰まりを創出しているといる。しかしながら、人類学におけるこのような出産に付与された位置こそが、私が出産に注目する理由である。つまり、現在のジェンダー観では出産は厄介なものかもしれないが、逆に言うならば、出産に注目することで新しいジェンダー観が見えてくるのではないか。たとえば、松岡は、出産にまつわる儀礼など各文化における千差万別のあり方を指して、出産を生物学的な事実でありながら、同時に社会文化的に重要なものであると捉え(松岡1983:358-359)、文化的な文脈から出産を捉える必要を主張している(松岡1983:376-377)。ほとんどの文化において出産は何らかの意味をもち、またそのあり様は文化ごとに異なるということは、出産という生物学的事実の文化に与える影響力を示唆しているといえるだろう。以下では出産に関係するいくつかの実例を取り上げ、出産の持つ力や重要性、影響力を見ていくことで、現在のジェンダー観の修正の必要性とジェンダーとセックスの関係の再考を主張できると考えるのである。
(T)出産にかかわる事例
@)パプアニューギニア、ナカナイ族の事例
まずはナカナイ族の生活の概況から見てみよう。パプアニューギニアのニューブリテン等に居住するナカナイ族は、言語学的にはオーストロネシア語族に属している。しかしながら、この付近一帯に住む人々の言語は複雑であり、ナカナイ族だけに限ってもいくつかの方言集団を有している。ここでは、そのいくつかの方言集団のうちのアウカAukaという方言集団に注目していくこととする。そのナカナイ族、アウカという集団の構成する社会の特徴は、母系社会であるということである。アウカには、それぞれホーンビルとオウムを各々の集団をあらわす動物とする二つのグループが存在する。アウカ内での婚姻関係の締結は、この両グループ間での配偶者の交換が理想的な基本的原則とされている。
さて、以上のようなナカナイ族における生命の再生産という行為である出産にまつわる観念はどのようなものか。ナカナイ族の民俗生理学の見解によると、ナカナイ族の社会では、出産は男性の精液が女性の子宮の中で月経血と交わることで、それが胎児になるという捉え方がなされている。そして、その観念がゆえに精液と月経血は、生命の誕生の原因としてきわめて重要視されており、その扱いにもまた注意が払われている。したがって、ここでは出産と強く関わる女性の生物学的特徴である月経血について見ていくこととする。ナカナイ族には、ムムグmumuguという埃を意味する言葉や、マガガラmagagaraという体に付着する汚れを意味する言葉が存在する。しかし、それらの言葉の他に、ミロロmiroroという言葉が存在する。このミロロが指示する意味内容は、主に?垢そのものを指す場合と、あるいは、A月経血(マパラmapara)B精液(ナヌラnanura)C死体に関する文脈において用いられる。たとえば、「月経血に触れるのはミロロだ。」といった具合に、その状況に対して忌避の感情を表すために用いられる語である。月経血、精液、死体は人間の生死そのものに関わることであるため、ミロロは身体の極限状況に関係する語といえる。そして、このようにナカナイ族の人々にとってミロロと捉えられている月経血は、人々に恐れの感情(マククmakuku)を抱かせる存在である。ナカナイ族の社会では一般的に、月経血との接触は危険なことであり、咳や、息切れを起こし、時には死を引き起こすとさえ考えられている。そして、月経血が禁忌とされるのは男が女の月経血に接触するときであり、その恐ろしい存在である月経血に接触した者は、体や手を水洗いするなどして、身を清める必要がある。(山路1998:330-332)
月経血にかかわる事例をもう少し詳しく見てみよう。月経血に対する負のイメージは男たちの脳裏に強く存在し、月経血にまつわる多くの場面で具体的な禁忌が存在する。たとえば月経中の女は、作物をダメにするので畑に入るべきではないとか、月経中の女は食料、水に触ってはいけないし、男たちに食料を用意してはいけない、などがあげられる。また、月経血だけではなく、出産時における出血も月経血と同様に恐るべき存在と考えられ、それとの関連で禁忌の場面が存在する。たとえば、出産直後の女は男たちに料理を作ってはいけないとか、出産直後の一定期間、父親は子供を抱いてはいけないなどである。これらの禁忌は当然、出産において出血した血液との接触を恐れてのことである。以上がパプアニューギニアのナカナイ族の社会における女性の月経血と出産時の出血に対する観念である。(山路1998:329-334)
A)インドネシアの事例
この国における、女性の立場は日本と比較しても、既婚女性が生き生きしているという。イブ(元々母親をさす言葉だが、既婚の女性全体あるいは未婚でも高位の女性に対して用いられる尊称)と呼ばれる大部分の女性たちのエネルギー、実力は認められており、事実女性は大変敬意を払われている。たとえば、インドネシアの公式の場における挨拶は常に「イブイブ・バパバパ」という風に男性よりも女性のほうが先に呼びかけられる。また、パーティーでもまず女性が先に立って皿に料理をとって食べる。もちろん、この事実だけで女性が優位に立っているとかいないという判断はするべきではない。しかし、インドネシア社会における出産に関わる事柄の観念を見ていくときに、以上のような事実を踏まえておくことは有効であると思われる。
さて、インドネシアは多様な宗教が存在する国として有名である。人口の80%以上がイスラム教を信仰するが、バリ、ロンボック島を中心としてヒンズー仏教も流布しており、キリスト教徒もまた近年増え続けている。また奥地や辺境地帯では土着宗教(アニミズム)の信奉者も多く存在する。しかしながら、インドネシアにおいてもっとも力を持っているのは外来の大宗教ではなく、土地によって異なる慣習法である。たとえば、イスラム教の力が強い地域であってもイスラム教だけでことが運ばれることは殆んどなく、その行動様式は慣習法によって縛られているのである。では、そのように影響力のある慣習法の出産にかかわる側面を見てみよう。
インドネシアの社会でも妊娠中の女性には、食事規制などの様々な禁忌が課せられる。また、妻だけではなく、夫にも禁忌が課せられる。しかしながら、インドネシアの女性が妊娠中に禁忌を犯す以上に恐れるのは、ポンティアナクと呼ばれる悪霊である。このポンティアナクという悪霊は、妊婦と赤児を特に好むと考えられており、妊娠中あるいは出産時の死はこの悪霊の勝利であると考えられている。したがって、母親の妊娠、無事な赤児の誕生は、悪霊の手から逃れたとして、大変な喜びを持って迎えられる。しかしながら、逆に出産時に女性が死んでしまうことは人々に大変恐れられている。なぜなら、死んだ母親や胎児の霊は、健康な母子に災禍をもたらす悪霊になると広くインドネシア全域で考えられているからである。たとえば、母親が死ぬと、その赤児は無事に生まれたとしても、締められて母親と一緒に葬られてしまうことが多い。これは、母親の霊が自分の子供の顔を見るために戻ってくるといけないからである。また、ニアス島では、産死した女性の死体はその霊が戻ってこないように壁の穴を通して家の外に引っ張り出される。メンタウェイ島にいたっては、産死した女性のいた村は完全に放棄される。
また、出産をめぐる慣習として、へその緒、羊水、胎盤などの始末の仕方に注目してみたい。へその緒はきれいに洗われ、壺や箱の中にしまわれ、女の子の場合は結婚のときに婚家に一緒に持っていくものとなる。女の子の胎盤は、家の後ろあるいは女の領域とされている家の入り口の右側に埋められることが多い。これらのものはインドネシア一般にひろく、生まれた赤児の分身であると考えられ、その子供を生涯にわたって守護するものとして大切に扱われるのである。(鍵谷1982:118-122)以上がインドネシアの社会における出産にかかわる観念の一部である。
B)インドの事例
インドもまた、カースト(ヒンドゥー社会における身分制度であり、インドではジャーティと呼ばれる)、宗教、階級、地域などによって人々の暮らしや生き方はさまざまに異なっている。たとえば、同一カーストであっても地域やその集団の背景が異なれば、あまり共通点が見られない場合が多い。通過儀礼などはその地方の土着のものが融合しているからである。そのために、一概に「インド人は、」とか「ヒンドゥー教徒は、」とか「何々カーストは、」と述べることは困難であるので、地域はインド西ベンガル州の中南部に住む、ポトゥア(別名チットロコル「絵師」)と呼ばれる語り絵師たちのカーストに注目していく。さらに、ここではポトゥアでありイスラム教を信仰する、ムスリム・ポトゥアの人々の社会を特に見ていくこととする。
ムスリム・ポトゥアの社会では娘よりも息子のほうが好まれるが、かといって息子をとりわけ大事にするわけでもない。この点でヒンドゥー教の社会と対照的である。そして、子どもは多ければ多いほどよいものとされ、子供の誕生は人々からも祝福される事柄である。しかし、出産は人々に祝福されるめでたいことであるが、同時に一方で出血を伴う不浄なものであると捉えられている。インドでは血は大変に不浄なものとされているからである。そのために、女性は出産後二十一日間は家族の食事を作ってはいけないとされている。そして、出産後の二十一日目に、産婦と新生児の浄化儀礼(エクーシャ)が行われるのである。床屋が産婦と新生児の爪を切り、洗濯屋が二人の服と敷布を洗うことで、産婦は平常の状態に戻り、料理を作ったり儀礼に参加したりすることができるようになるのである。この浄化儀礼によって女性は、出産という行為による異常な、正常ではない状態から戻ってきたといえるが、しかしながら、それでもなお「女性は妊娠中はもちろん、出産後も女性のもつ特有のエネルギーで子供や家を守り続けると信じられている(金1997:149)」のである。(金1997:149-152)
つぎに、さきほど出てきた血に対する不浄の観念について見てみよう。ムスリム・ポトゥアの社会では女性は初潮を迎えると、かつては、三日間家の中の暗いところに隠れて過ごしたという。そしてこの間は塩の入った食べ物を食べることは禁忌とされていた。そして、四日目の朝、身体の全身にウコン(カレー粉の原料であるが、別にウコンの鮮やかな黄色は吉なる色とされる)を塗り、池で沐浴し身を清めるのである。出産のときの出血と同様に、女性の初潮も不浄のものとみなされているのである。(金1997:144-153)以上がインド、ムスリム・ポトゥアの社会における出産にかかわる観念の一部である。
C)アンデスの事例
続いてあげる事例はアンデスの事例である。アンデスの事例と一言で言っても、アンデス地域とは、南アメリカ大陸のコロンビアからチリにかけての南北8000キロにわたって大陸を縦断するアンデス山脈が位置する非常に広大な地域をさす。そのため一概にアンデス地域と言ってもその対象は限りなく多い。しかも、アンデス地域における人種を見ても、白人の流入以前からその地に住むインディオ、現地生まれの白人であるクリオーリョ、白人とインディオの混血であるメスティーソ、奴隷として連れて来られた黒人などさまざまである。ここではペルー、クスコ県の農村部に住むインディオの事例を取り上げ、注目していくこととする。
まず、クスコの農村社会における男女の関係を把握しておきたい。農村部の女性は、仕事の上での分業こそあれ、男性とほぼ対等であるといえる。農作業は男性も女性もともに働くし、料理、育児なども男女はともに助け合って行われる。たとえば、家畜の放牧は女性や子供の重要な仕事である。このような女性の立場をふまえたうえで、クスコの農村社会における出産にかかわる観念を見ていきたい。
妊娠中には特に食事規制の禁忌は存在しないが、妊娠中の女性は、できるだけ重いものは持たないように気をつける。妊娠中に重いものを持つと、ひどい出血をしたり、難産になって生まれるまでに二日間もかかり、さらには死産になると考えられている。女性は、普段はマンタと呼ばれる毛織の布を風呂敷のようにして荷物を入れて背負って山を歩いていることを考えると、妊娠は特別な状態と考えられているようである。また、出産時にのこるへその緒と胎盤は、ともに燃やされ埋められてしまう。しかしながら、へその緒の一部は後述のソカによって引き起こされた病気の治療用に残される。
さて、クスコの農村社会における出産にまつわる観念の中で興味深いのは、ソカという概念である。ソカは我々が生きている時代の前に滅びてしまった人々の生き残りとされているものである。病気や死は、このソカが生きている者をつかまえて引き起こしたものと考えられている。さらに、このソカというものは女性の夫の姿をしてあらわれたり、夢の中で女性と性交をする。そして、このようにして生まれたソカの子供は死産したり、奇形で産まれた後すぐに死んでしまったり、いくら年をとっても身体的にも精神的にも成長しないと考えられている。(細谷1997:196-198、212-213)以上がペルー、クスコ県の農村部社会における出産にかかわる観念の一部である。
D)ヘヤ−・インディアンの事例
さて、最後にあげる事例はカナダ極北の広大な地域に住むヘヤ−・インディアンの事例であるが、この事例は以上に挙げてきたほかの事例に比べて興味深く、おもしろい事例である。それは、ヘヤ−・インディアン社会における出産の観念のあり方を指していえることである。しかし、その前にまずはヘヤ−・インディアン社会における男女関係について見ておくことにする。ヘヤ−・インディアン社会では一言で言うと、男女の間での性別役割分業を極度に極小化している文化を持っているといえるだろう。たとえば狩猟採集作業や日常生活の中での作業における男女の分担を見た場合、どちらかといえば男性がする作業、どちらかといえば女性がする作業という風に分かれてはいるものの、究極的にどちらが絶対にしなければならないといった区分は存在しない。しかも、普段は女性がする作業を男性がしたときや、反対に普段は男性がする作業を女性が行ったときにおかしいといったようなことはない。このことを原は、人は一人で生きているのだという考えが基本にあるからという。つまり、彼らは厳しい自然環境の中で生きており、一人一人が自分で上や寒さと闘い、餓死や寒さから自分のみを守らなければならないと考えている。そして、生き残っていくことは一人一人の責任になっているというのである。したがって、ヘヤ−・インディアンの社会では男も女も関係なく、自分で食べ物をとって生きていく必要があるのである(原1982:17)。
では、このようなヘヤ−・インディアン社会の中で出産にまつわる観念はどのようなものなのか。実はヘヤ−・インディアン社会においては出産、つまり産むということが、母性というものを確立する過程の中でそれほど重要なことではない。もちろん、人々にとって出産が重要ではないというのではない。しかし、母親という存在が、産むという行為によってではなく、むしろ育てる行為によって重要視されるのである。その意味で、ヘヤ−・インディアン社会では出産は他の文化においてあるほどの特別な意味を持たない。
とはいえ、女性の出産をはじめとする生物学的特徴が人々の中で意味を持たないというわけではない。それは、女性の月経にかかわる観念である。ヘヤ−・インディアン社会において女性が一人前とみなされるには、皮をなめす技術をある程度覚え、ウサギなどの猟が一応でき、ベリーを一人前に集めることができる必要がある。このことが期待されるのがだいたい十四、五才である。男女いずれもこの時期までに一人一人に守護霊がつき、この守護霊が日常の各人の行動の方向を指示してくれると考えられている。つまり、一人前の女性になるには守護霊を獲得しなくてはならないのである。この時期が、女性の場合は初潮の時期と重なることが多々ある。初潮がくると月経の期間中女性は自分のテント仲間から離れて過ごす。このときの食事は仲間が少量運んできてはくれるものの、全体として女性は空腹の状態を耐えなくてはならない。これらの、一人前になるための守護霊の観念と女性の初潮の観念が結びついたのであろう、人々の間では「月経の間に眠りすぎると守護霊が出てこないぞ」という言葉がみられる。つまり、女性は初潮をむかえ、テントの隅でじっとしていたり、あるいは別のテントで空腹な時を過ごしたりするようになると一人前の女性になったと認識されるのである。(原1982:10−18,23−26)以上がヘヤ−・インディアンの社会における出産にかかわる観念の一部である。
(U)考察
以上、世界のいくつかの文化における出産に対する観念と出産にまつわる月経血の観念を、ざっとではあるが見てきたわけである。ここで出産と言う行為には直接は関係しない月経血を扱ったことは無意味ではないことに留意したい。なぜならば、上記のパプアニューギニアにおけるナカナイ社会では、出産は精液と月経血との混交によって起こるとされることからも、月経血は出産に大きく関わるものであると認識されているからである。さて、私は、これら五つの事例を通して出産をはじめとする女性の生物学的特徴が、各文化における女性像、つまりジェンダーという概念に対して、影響を与える無視できない存在であるということを示したいと考える。これらの事例を挙げたのは当然そのためである。では以上の五つの事例からどのようなことが考察されるのか。
まず、出産をはじめとする女性の生物学的特徴が如何に捉えられているのかということに関してである。以上の事例からは、人々にとって女性の妊娠という状況や出産という事柄は、特別なものであるとされていることがよくわかる。たとえば、多くの事例で見られるような禁忌の存在を見てもわかるように、妊娠、出産の状況が人々にとって普段は行わない禁忌がともなう状況であるといえるのである。それだけではない。B)のインドの事例におけるエクーシャという浄化儀礼を見てみよう。女性は妊娠・出産という異常な状態から、儀礼を経ることによって正常な状態にもどったとみなされる。さらに、出産後も女性は特別なエネルギーを保持すると考えられていることを考えると、その意味では出産というその時期だけが特殊というわけでもないようである。さらに、出産にかかわる女性の月経という生物学的特徴もまた特別なものとして捉えられている。たとえば、D)のヘヤ−・インディアンの事例にあるように、月経期間中は仲間の集団のテントから離れたテントで過ごすし、上ではあげなかったけれどもミクロネシアのサタワル島の社会では、月経中の女性は期間中をネー・イムァ・ニ・カット(「子どもの家のある場所」)という禁域に建てられた月経小屋にてすごす。(須藤1989:59)またB)のインドの事例では、初潮を迎えた女性は食事規制の禁忌のあと、吉なる色であるウコンを体に塗り身を清める。これらを見ると、たしかに、ほとんどの文化において月経という状況にある女性には負のイメージがつきまとうが、これらの事例ではそれよりも月経を迎える女性が、その特徴がゆえに特別なものとみなされる点を念頭に起きたい。
では、次に出産時あるいは月経時に女性の身体から排出される血液やへその緒、胎盤などはどうであろうか。まず、@)のパプアニューギニア、ナカナイ族の事例をみてみると。月経血に触れないためのさまざまな禁忌が存在する。たとえば畑には入れなかったり、食事を作ってはいけない。この文化において月経血は負のイメージでもって見られているが、この事例に関しては、それと同時に月経血が死を招くほどの力を持つとされているという点に注目したい。続いて、A)のインドネシアの事例とC)アンデスの事例の事例におけるへその緒や胎盤の扱いを見てみる。インドネシアではへその緒や胎盤は子供を生涯にわたって守護するものである。そして、その扱いは箱や壺にしまうという大変に丁寧なものである。また、アンデスではへその緒の一部は病気を治療するために残される。このように、月経血に対しては死を招くほどの力をもつという捉え方がなされ、一方へその緒や胎盤は生命を守護する力を持つと捉えられている。このことは、人間を生かす力と死に追いやる力という点で相反する性質のものではあるが、しかし、どちらも生命の極限状況である生と死に作用する強大な力を持つものとして捉えられているという共通している。したがって、ここでは女性の身体から出てきた、女性の身体の一部であった月経血やへその緒、胎盤が人々にとって何らかの強大な力を持っているということが重要である。
さて、それでは以上のような異質な状況と正常とを行き来する、あるいは出産以後なにか特別なエネルギーを持つとされる女性の存在は、どのように捉えられているかを考察する。まず、A)のインドネシアの事例を見てみよう。ここでは女性は、妊娠中は特に、悪霊ポンティアクにその身を狙われる存在である。また、自身も出産時に死んだ場合霊となってしまうと考えられている。そして、このとき彼女が持ちうるとされる力は、人々にムラを完全に放棄させるほど強力なものである。次に、C)のアンデスの事例におけるソカという概念に注目しよう。前時代の者・ソカは生きている者をつかまえて病気や死を引き起こす得体の知れないものである。ここでの女性はそのソカによって難産や死産をさせられる存在である。これらの事例から言えることは、出産という生物学的特徴をもつ女性が、その特徴がゆえに霊的な存在または得体の知れないものに非常に近い者、あるいは霊的な力を持つ、また持ち得る者として捉えられているということである。これは出産・妊娠という状況そのもののみが特別なものではないということである。出産・妊娠という生物学的特徴が彼女らを特別なものにしているといえるかもしれない。
結局のところ何が言えるのだろうか。やはり、これら五つの事例から言えることは、女性のもつ出産をはじめとする生物学的特徴は人々に何らかの大きな力を感じさせるような事実であるということではないだろうか。そして、この生物学的特徴はそれ自身が特別な事実とみなされるだけでなく、この特徴を備える女性をも“出産をはじめとする生物学的特徴を持つ女性”という女性像でもって捉えることを支えていると言えるのではなかろうか。つまり、ジェンダーという社会的な女性像の形成において生物学的な事実が少なからず影響していると言いたいのである。
6、結論
さて以上の事例とそれに対する考察からも分かるように、女性の持つ出産に代表される生物学的特徴は、人々によって、ある特別な意味を持つものとして捉えられていることが十分に示されたといえる。そして、そのような生物学的特徴がそれぞれの文化における女性像の形成の中で反映されているということもまたうかがえるのではないか。
しかしながら、ここではまず結論に飛びついてしまう前に触れておかねばならない問題が存在する。その問題に対して一言でも触れておかないことには、わたしの主張は誤解を生み、フェミニズムを支持する立場からの批判を無防備に受けてしまうことになるだろう。その問題とは、前章で挙げた事例や、その考察において女性の生物学的特徴の事実を何らかの形で捉えている主体であるところの“人々”と表現されたものが誰を指すのかという問題である。つまり、ここで生物学的特徴をもつ女性を捉え意味づける人々が男性と女性の両方であるのか、あるいは男性のみを指すのか、または女性のみであったりするのかという疑問が生じるのである。人類学の研究の手法としては、男の視点のみではなく等しく女性の視点もまたその研究に取り上げられることが、最も理想的なかたちであるといえるが、しかし、現在のところはその女の視点の導入は未だに模索中であり、完全には達成されてはいないというのが現状ではないだろうか。したがって、たとえば、以上に挙がっている事例の場合は、そのほとんどにおいて、インフォーマントである“人々”が指示するものは、やはり男性であろうことは否定できないことなのではないだろうか。そうなってくると批判として指摘されるであろうことは概ね予測が出来るものであろう。たとえば、以下のようにである。上記のように女性を捉えているのは結局男性のみであり、たとえ女性が一見それを納得して受け入れているように見えても、それは男性が女性イメージのコントロールをして、女性を縛っているにすぎないではないか。そして、出産をはじめとする女性のもつ生物学的特徴もまた、男性が女性を抑圧するために利用されているのである(青木1991:162)。だからこそジェンダーとセックスは区別して考えねばならないのだ、と。あるいは、女性に限らず男性も含む全ての人間はジェンダーという社会・歴史的に構築された性役割のイメージによって縛られており(江原1989:11-14、中谷1999:49-55、長谷川1989:56-57)、生物学的事実にその原因を求めることは、やはりそれらの理不尽を肯定し、人々に現状を正当視させてしまうのではないか、と指摘されるだろう。
さて、以上のようになされるであろう私の主張への批判、指摘と、先の生物学的特徴を持つ女性を捉える主体の問題について私は以下のように考えている。これらは、わたしの主張の内容にとって、実はそれほど問題ではないのかもしれない。もちろん女の視点の導入が重要な課題であることも認識しているし、その必要性も十分に自覚している。しかし、今ここでは、主体が誰であるのか、あるいは女性を縛っているジェンダーが男性による社会的な所与の結果であるというフェミニズムの立場からの指摘は、わたしの主張をそれほど左右するものではないことを繰り返したい。なぜならば、わたしが主張しようとしているのは、そのように社会・歴史的に創られるジェンダーというイメージが、セックスという生物学的事実から影響を受けているということであって、ジェンダー概念を用いて女性を開放することを目指すというフェミニズムの運動とは立場を異にするからである。したがって、私の主張にとって、ジェンダーの創造の担い手が誰であるかという点の重要度は高いものではない。
つぎに、やはりフェミニズムを支持する立場からは批判されるであろう、生物学的事実によって説明を展開することは最終的に男性による支配を肯定することにつながるという批判や(長谷川1989:61)、文化がセックスを利用してジェンダーを形成しているという指摘(青木1991:162)に関してである。私が提案したいのは生物学的事実を排除する姿勢を反省して、それを検討することが重要ではないかということであって、何も生物学的決定論を支持しているのではない。その意味においてはフェミニズムの立場と共通していることを認める。しかしながら、かえってフェミニズム的観点でジェンダー概念を見た場合、しばしばそれは戦略的な文脈から用いられることが多いのではないかと指摘したい。現状の女性が体験しているさまざまな不平等な状況を、修正の必要性を示しながら、それを文化・社会・歴史的な創造物であると述べることで女性を解放に導こうとしているのがフェミニズムの立場である。たとえば、以上に挙げた事例のなかで見られた、女性に課せられた禁忌や儀礼を指して、あるいはそれにまつわる女性像というものは文化・社会・歴史的に作られたものと指摘して突破口を見出すのである。そうなると、そのように戦略的にジェンダー概念が用いられるとき、生物学的事実は排除するべき対象となる。しかし、それはフェミニズムの戦略上、不都合であるからこその排除であり、事実がどの様であるかという以前に目的の達成のために批判の対象となっている。
ところが、そのようなセックスを排除したジェンダー観では、出産をはじめとする生物学的特徴を持つ女性像は説明がつかないということであったはずである。そして、以上の事例でみてきたように、出産という生物学的事実の影響力は無視できるものではない。多くの場合が男性かもしれないが、人々に対して恐れの感情や守護してくれるものという認識を抱かせる何らかの力を持っているという事実は動かせない。つまり、ただ生物学的というだけで排除するにはその存在は大きすぎるのである。あるいは、フェミニズムの立場から言うように、生物学的事実の持つ力の存在の結果として、文化・社会・歴史的な規範が設定され、既存の女性像というものが創造されているかもしれない。そして、そのことの説明として生物学的事実が利用され、女性を抑圧するかもしれない。もちろん私はこの現象を支持するつもりはないし、修正するべきことであるとも思う。一方の存在がもう一方の存在によって不当に扱われることはとても肯定できることではない。しかし、だからといってそれがジェンダーからセックスを排除する理由になるべきではない。むしろ、文化が生物学的事実を利用するような現象は、生物学的事実による何らかの影響力に対する反応の表れと捉えられるべきではないか。つまり、生物学的事実に何らかの力を認め抑圧の必要を感じ、またその説明付けに生物学的事実を用いていることにこそ、生物学的事実の持つジェンダー形成における影響力を見出すことが出来るのである。人類学はセックスを排除したジェンダー観によって行き詰まりを指摘されていたが、それを解決するためにはやはりセックスを考慮に入れたジェンダー観の検討が求められるのではないだろうか。いや、以上のような文化における出産をはじめとする女性の持つ生物学的特徴の影響力を見たときに、その必要性は明らかである。いきなり生物学的事実をジェンダー観に導入するのではなくとも、少なくともその事実を再考することが重要ではないか。そして最後に、生物学的事実をただ単に排除するのではなく再度その必要性を議論することで、人類学が更なる発展を遂げることを祈って結びにかえたいと思う。
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