民族の枠組みとアイデンティティを考える
〜「タテ」と「ヨコ」のイメージを用いて〜
大浦裕介
1.序論
世界は広い。そして多くの人間がそこに生きている。それら多くの人間は一般的に「民族」という単位に分節されており、今や国際政治はこの「民族」という言葉を抜きに語れないといっても過言ではないだろう。本論はこの「民族」という人間分節について「タテ」と「ヨコ」(これについては序論の最後で述べることとする)をキーワードに考察し、その未来へ向けての可能性を探ることを目的としたものである。
まず日本語の「民族」という言葉の定義を見てみよう。この語は3つの意味を持つ語である。まず国民国家の成員としての民族、つまりネーション(国民)という意味が1つ。2つ目に国民国家内部での下位集団、少数民族としての意味を持ち、これはエスニシティーもしくはエスニック集団とも言われるものだ。最後に国民国家形成以前の集合体という意味を指し、これはエトニーもしくは部族などと呼ばれるものである。「民族」という語はこれら背景の異なる3つの概念を一緒に、包括的に含んだ概念なのである。(小田 1995:14−15)
「民族」という定義の多様さは何を示しているのだろうか。このことを考える上でキーとなるのが国民国家という言葉だ。前の段落を振り返ると、「民族」の3つの概念全てがこの語を用いることで説明されている。もっとよく見れば、国民国家形成以前と以後で「民族」の意味がわけられていることがわかる。「民族」が人間の集団を表す語だ、ということを考えると、国民国家の形成という歴史的事実が集団の成り立ち方を大きく変えた、と言うことができそうだ。では現在の集合体と国民国家形成以前の集合体では具体的には何がどう変わったのだろうか。そしてその変化に国民国家はどう絡んでいるのか。これらのことを中心に、序論では「民族」という概念を整理していく。
中川敏は「民族1、国民、民族2」という三つ組みを提示し、「民族」という1語で表される集団を明確に2つのカテゴリーに峻別している。ここで彼が言う「国民」とは国民、という概念の誕生、もしくはそのルールを人々が獲得したことを示す。つまり彼は国民国家、という規約の誕生を挟んでそれ以前の集団のパターンを民族1、それ以後(つまり現在をも含むわけだが)のパターンを民族2、と呼んでいるのである。これら2つのパターンは現在から振り返ってみれば、似た外観を持っているかもしれない。(それゆえ同じ「民族」という冠をかぶせられているのであろうが。)しかしこの民族1/国民/民族2という三つ組みは、時間的な順序関係だけでなく論理的な順序関係も含意しているのだ。民族1と民族2を決定的に分かつのは国民(もしくは国民国家)、という規約、ルールを知っているか否かである。「国民」概念を知っている人々と知らない人々がそれぞれ形成した集団を一括りに語ることはできない。それらは見た目こそ似ていようとも全く別物なのだ。それゆえ我々はすでに民族2のパターンで集団が形成されている時に民族1についてしゃべることはできるが、まだ民族2のパターンが無かった頃に民族1についてしゃべることはできない。(中川 1996:42−44)
中川の指摘するこの論理的な順序関係は、我々が「民族」という言葉を現在という時点において用いる時、絶対に認識しておかなければならないものだろう。人々が国民国家という規約、ルールを知っているか否かということは、現在から過去を振り返った時表面的に区別するのが難しい事柄であると思われる。しかしその規約は明らかに民族、と呼ばれる集団を変えた。そこにどのような変化があったのか、という点を次の段落以降で見ていこうと思う。
内堀基光は「名」に注目して、国民国家における民族が状況の中でいわば実体化していく傾向を分析している。彼によれば、民族とは上蓋を全体社会、基底を対面的共同社会(小集団)としたその中間に位置づけられる範疇だという。国民国家以前(つまり民族1である)にも、全体社会が3つ以上の小集団からなる場合第3者への「名づけ」の必要があり、土地やトーテム獣などの名が各小集団につけられたと考えられる。しかしそれはあくまで全体社会内、内輪のことに過ぎない。この全体社会を外部から見た者が彼らの考えに基づいてその社会を分類し、いくつかの「名」をつけた時、その「名」の意味は一変する。外部者は彼らが考える全体社会との関連で「名づけ」を行うため、「名」をつけられた人々は外部からその名称で認知される。そのためそうやって名づけられた「民族」範疇はその全体社会の外へ出ることになり、内堀の言葉を借りればいわば「真正」化するのである。そして国民国家形成時において、その外部者とは国家であったのだ。全体社会の体現者としての国家は「名づけ」を行う主体となった。そして国家が民族という中間範疇を「名づけ」た時、これまでなかった共同社会側からの応答、言わば「名乗り」とも言える現象が起こるのである。それは多くの場合共同社会からの受け入れ承認であるが、与えられた「名」を拒否して新たに別の「名」を「名乗る」こともある。どちらにしろ、この「名乗り」を他者に向け、また同じ「名乗り」を用いるものに向け反復し確認することにより、この「名」は少しずつ物質化し、個人にとってはほとんど実体化していくのだ、と彼は言う。なぜ国民国家形成以後の民族(民族2だ)は「名乗る」のか。それは「名」のもとに、過去を備え、未来を語りうる民族が実現できるからだ、と彼は言う。つまり現在あるもの、でしかない共同社会に、超時間性、不死性を持った固有の単位となる可能性が生まれてくるのだ。そしてそれらの時間的持続性という特性は、国民国家の持つ魅力的な属性を模倣したものなのである。(内堀 1989:27−43)これについてはアンダーソンが『想像の共同体』の中で、それまで宗教が担っていた「不条理な死や運命からの救済」という役割を「国民」という観念がこれ以降見事に引き受けた、と述べている。死者とこれから生まれてくる者とが、同じ「国民」というつながりで連続性を持つことによって。(アンダーソン 1997:32−35)ともあれ内堀が述べるこうした過程により、人々は国民国家、という規約を踏まえた集団を形成することとなった。
松田素二が挙げるイギリスによるケニア・マラゴリ支配の例には、「名づけ」「名乗り」により「マラゴリ人」が出来上がる過程が描かれている。まず国家が民族の領域を上から自動的に定めたことにより、それぞれの個人の帰属単位が確定した。その地域では人々はそれまで柔軟な民族意識を持ち、異人を多く取り込んできた。それゆえその元異人たちもマラゴリの血統とは無関係の自己のクランをいわゆるマラゴリ人の中に開設してきたが、国民国家によりマラゴリが民族として固定されると、それらのクランは全てマラゴリの伝説上の始祖との血のつながりを持つという言説が創られ、広まったという。こういった@国民国家という制度の侵入A帰属単位の確定B民族の固定化C神話・儀礼の発明という動きにより、マラゴリ人は絶対化され、自然で所与である堅固な枠組となっていった。(松田 1992:26−28)
この過程を経たことにより「ソフト」だった民族意識が「ハード」な民族へと転換された、と松田は言う。(松田 1992:28)出入り自由で柔軟な枠組みを持っていた「マラゴリ人」が、他者を構造的に排除したり、その「マラゴリ人」という枠組みで他者に対峙し、抵抗や反逆を行うようになったのだ。柔軟で開放的な民族1と、堅固で排他的な民族2。この民族?という枠組みを創った想像は、国民国家という規約が生まれるまでは無かった種類の想像であると思われる。もちろん国民国家形成以前にも、1人の人間の生活範囲を超えていわゆる民族、部族は広がっていた。しかし、その広がりはあくまで親子関係や主従関係といった機能的な関係の延長線上に想像されるものであった。個から民族全体までの連鎖を実際にたどっていくことが可能だった、とも換言できるであろう。それゆえ時の流れと共に起きる関係性の変化によって、その民族、部族の範囲は柔軟に伸縮したのである。そしてそこでは自己は、女に対する男、同世代に対する隔世代、というように二項対立群の束として規定されている。(小田 1996:112)これに対し、個をいきなり全体と結びつけるという想像によって形成されたのが、国民国家形成以後の「ハードな」民族である。例えば前の段落のマラゴリ人を例に取ろう。神話や伝説(その信憑性はどうあれ)に裏打ちされた強固な過去からのつながりを持った彼らは、その単位で他者に対峙して排除したり抵抗したりする。つまり民族分節がハードであるということは、過去の伝説等を基にした、未来永劫不変と想定されるつながりが、現在実際におかれている状況より勝っている(状況に揺るがされない)ことであるといえるだろう。それゆえ人々は単位を崩さないのだ。想像の種類が変わり、そこに実際の機能的な関係性が持ち込まれなくなったことで、枠組みがハードになったのだと考えられる。
ここまででわかったのは、国民国家の形成以前と以後で民族と呼ばれる集団がいかに変容をとげたかである。そして現在我々が住むのは国民国家形成後の世界、現在民族と呼ばれている集団は民族2のパターンで成り立っているものだ。とすると彼らはみんながみんなハードな枠組みを持つ集団なのだろうか。いやいや、そんなことはないのである。国民国家形成以後でもソフトな枠組みを持つ集団(民族、といってもいいだろう)は存在する。それらの民族においては、成員が自らの判断で民族の枠組を再規定し、異民族を取り込んだりする、といったことも起こってくるのである。このような民族の例は、例えば松田がハードな民族観に対するマラゴリ人の「ソフトな抵抗」を描いた記述に見ることができる。それは都市の下層出稼ぎ民の話である。彼らは自らの生活の防衛のために民族、クラン、出身村をベースにした互助講を組織しているが、実際の生活における必要性から便宜的に異民族をも「マラゴリ人」として受け入れ始め、厳しい環境に抗っているという。(松田 1992:33−34)もう1つ例を挙げよう。小泉潤二によると、中米グアテマラではインディオ、ラディーノと呼ばれる人々が国家の2大エスニシティとされるが、インディオがラディーノに「なる」という民族間の越境がしばしば起こる、という。(小泉 1994:62−76)インディオとラディーノについてここで詳述はしないが、彼らの間の民族の境界がソフトであることからこういった越境が起こってくるのは間違いない。両者の間の民族境界は、ハードな壁に対して目の粗いざるに譬えられ、「透過性の高い境界」(小泉 1994:73−78)という風に表現されている。
こういった人々や集団が存在するのはなぜなのか。ハードで排他的な構造を持つはずの現在の民族状況。しかしそれでは説明のつかない集団の例が世界のあちこちで多々見受けられる。ハードになろうとする力とソフトになろうとする力が混在しているように思えるのだ。この状況を私なりに整理してみよう。国民国家が持つ特徴である、内堀がいうところの超時間性、不死性のイメージを持って未来に伸びる力を、本論では「タテ」と呼ぶ。それは神話・伝説などから来る血の系譜のイメージなどを基にし、永遠に変わらないと想定される絶対的で排他的なつながりを持つ軸だ。換言すれば、ある民族がその民族として未来まで続いていく、という想定、そうなろうとする力である。一方、リアルタイムにおける実際の状況、あるいは共時性を、本論では「ヨコ」と呼ぶ。それは生活に即した機能的なつながり(例:マラゴリの互助講)を持つ場だ。そして現在の複雑な状況をこれらの語を用いて考えてみようと思う。民族というものは「タテ」の力と「ヨコ」の場のせめぎあいによって定まっているのではないだろうか。ここで言う「民族」とは、1つには民族の枠組みであり、もう1つには個人個人が持つ民族アイデンティティのことである。前述したように、国民国家の産物である「タテ」とそれ以前から集団の範囲を決める基となっていた「ヨコ」が、国民国家形成後の現在において複雑な関係性を持って混在しているように思われる。もちろん現在は国民国家形成後の世界であり、基本的にはいわゆる「タテ」の力が強いであろう。それゆえ多くの人々が確固とした民族アイデンティティを持ち、確固とした枠組みを持った民族を形成しているように思われる。ハードな民族状況。しかしそんな状況下にあって、「ヨコ」の場が持ちつづけている力を我々は見逃してはならないであろう。その力はおそらくハードな民族状況を柔らかくする力を持ちうるからだ。そこで次章以下では、先ほど「ヨコ」の場、「タテ」の力と定めたものをそれぞれ国民国家形成以前、以後の「民族」の象徴と考え、特にそれらの混在に注目して現在の民族状況を実際に見ていきたい。そして「民族とはタテとヨコ、2本の軸のせめぎあいだ」ということを実証していこうと思う。
そこでとりあげるのが、ハードなラベリングでは白黒つけ難い(色分けをできない)人々である。白黒つけ難いという意味では灰色、また見方や方向によってさまざまな色に見える、という意味で玉虫色、とでも言えようか。その“玉虫色の人々”が実際に同じ地域に住む他の民族と日常的にコミュニケーションを重ねることによりどういう風に理解され、扱われていくのかという問題はすなわちその地域に住む民族の枠組みのソフトさもしくはハードさを示すと私は考える。
2.玉虫色の人々の例
(1)アンゴラ難民
難民とは「難民の地位に関する条約」「難民の地位に関する議定書」で定義されているところによると、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」である。(本間、1990)しかし実際には人々が祖国を離れる理由は迫害だけにとどまらず、内戦などの政治不安や貧困、飢餓といった生活の困窮など多岐にわたる。そういった「広義の難民」(北川 1996:208)と「移民」との連続性を考えた北川文美の論文で、内戦のためアンゴラからザンビアに逃れた人々の例が考察の対象となっている。彼女の論文はアメリカの人類学者、アート・ハンセンが1970年代から80年代にかけザンビアで行った調査を主に基にしたものであるが、そこに描かれている人々の他国への定住化の「2通りの」例は非常に興味深い。国家によるラベリングの有無により定住化のプロセスが全く異なるさまは、序論で述べた「ソフト」と「ハード」、ひいては「ヨコ」と「タテ」の問題を想起せずにはいられないものだからだ。
もともとザンビア・アンゴラの国境地帯には移動耕作を伝統とする人々が住み、ザンビアの独立後も国境を越えた地元の人々の行き来は行われていた。そこへ1961年、アンゴラで独立を争う内戦が勃発する。戦火から逃れるためザンビアに入国したアンゴラ難民には、今後の居住体系についての2通りの選択肢があった。1つは政府の難民キャンプに定住すること。もう1つは身分を隠して農村や都市に自発的に定住することである。そして、ザンビア政府の公式政策は全ての難民がキャンプに居住するよう義務づけていたにもかかわらず、難民キャンプに定住したのは全体のわずか35%だった。彼らがこういった選択をした理由として、北川は自らの脆弱性の克服をあげる。キャンプに定住することにおけるメリットは、農村に自発的に定住した難民やザンビアの農民の平均よりも豊かな生活ができることである。対してデメリットはそうした豊かさが国家や援助団体に依存したものであり、難民になる前の生活様式や移動の自由が失われてしまうこと、あくまで政策上の措置なので内戦が収まり次第強制送還される恐れがあると考えられていたこと、などだ。これらを比較した上で、多くの人々が政府に依らず自力で生きていくという選択をし、また一旦キャンプに定住した人々の中からも非合法的にキャンプから脱走するものが多かった、という。このように身分を隠し都市や農村に定住した人々は、数年をかけて自給自足(キャンプの人々より貧しいながら)を達成していった。そのプロセスは、アンゴラ難民の流入によってザンビア社会にもたらされた変化と密接に関わっている。まずアンゴラ難民は自らの伝統的儀礼、治療を復活させた。彼らがそういった儀礼を復活させたのは、脆弱な立場上、ともすれば揺らぎそうな自らの文化的アイデンティティを維持するためであったと思われる。一方受け入れ社会側のザンビア人には、アンゴラ人に対する「伝統的で洗練されていない」という蔑視があった。しかし「近代化」したという自負があったザンビア人も実は完全に「伝統的なもの」を捨て去っていたわけではなく、ひそかに必要としていた部分があったのである。そこへアンゴラからの難民が「伝統的な」儀礼を運んできた。ザンビア人にとってそのような状況は魅力的であり、彼らに治療を行ってもらったり、儀礼に参加したりするようになった。そして例えばザンビア人が同席した伝統的初潮儀礼に参加することで、アンゴラ人の女性たちは結婚相手としてザンビア人に認められ、彼らと結婚することとなった。これらの積み重ねでアンゴラ難民はザンビア人の農村社会において承認され、自給自足も達成していったのである。(北川 1996:215−223)
アンゴラ難民のザンビア定住化までのこの2通りのプロセスの間の最も大きな違い、それは受け入れた側(ザンビア)の社会の人々と交流があったか、という点であろう。難民は、言わばどの国籍も持たない中間的な存在である。しかし難民キャンプで生活する以上、彼らは「アンゴラ難民」もしくは「(本来は)アンゴラ人」というラベリングから逃れられない。あくまで一時的状況としてその地に住んでいるが違う地に「本来」帰る場所を持っていると認識され、「異人」としてキャンプという特殊に区切られた場所で外部社会から隔離される。それが「強制送還されるのでは」という不安にもつながったのであろう。つまり自力で社会に溶け込む、という選択は、自らを確固たる外部者に仕立ててしまうハードなラベリングから逃れる、という選択だったのである。この作業により、アンゴラ難民は受け入れ社会(ザンビアの農村や都市)の人々と開かれた関係を持つことができるようになった。もちろん最初は「異人」である。しかし生活の場を共にすることで、受け入れ社会の人々にとって難民の「元の」国籍が忘却可能になっていくのである。このことは、農村に定住した農民が、現在「事実上村人として認められ」ている、という記述からわかる。(北川 1996:219)難民キャンプにおいてアンゴラが「本来」難民が住むべき国、という認識なのに対し、ここではアンゴラは難民がかつて住んでいた「元の」国、といった程度の認識しかされていない。難民キャンプにおいては、アンゴラ人が今現在ザンビアにいる、という事実が、「一時的措置」であり無視できるものだった。逆に、アンゴラ難民が自発的に定住した農村においては、彼らがかつてアンゴラの国籍を持った外国人だった、という事実が無視できるものになっているのである。どちらの定住プロセスを選んだ者も、1991年の時点でザンビアに残っている。しかし農村に定住した難民が先ほど述べたように村の一員となり、「彼ら自身もアンゴラに帰国する意思は持っていない」のに対し、キャンプに定住した難民は「定住後約20年経ってもなお、近隣の村人からも『難民』とみなされてい」て、「男性の半数以上、女性場合約半数がアンゴラへの帰国を望んでいる」という。(北川 1996:219)これは農村に自発的に定住したアンゴラ難民が、国民を揺るぎない単位として考える今日の国民国家システムと、それを前提に行われる国家間の政治(「他国」の難民を「一時的に」受け入れる)に取り込まれなかった結果と言えるであろう。彼らの例は、例えば日本へ脱出してきたベトナム難民の多くが祖国ベトナムとの関係を保ち続けているのとは対称的だといえる。日本では彼らは「外国人」とみなされる。さらに、移民社会ではない日本は教育や法などの受け入れシステムが未発達であり、彼らの移民としての円滑な生活も阻害されるのだ。かといってベトナムにも帰れない。彼らはベトナム人でも日本人でもない、両者の中間的な、不安定な立場にある。(川上 1999:374)その点難民キャンプに入らず農村などにもぐりこむことによってハードなラベリングを免れたアンゴラ難民は、ザンビア人とある程度対等な立場で共に生活する権利を得た。そこで自らの文化アイデンティティを表現したことがザンビア人との間の活発な交流につながり、難民たちは生活の場をアンゴラからザンビアへと本当の意味で(主体性や自由を失うことなく)移すことができたのである。越境した側のアンゴラ難民と受け入れ社会側のザンビア農村民の両方が、生活の実態に合わせて集団の枠組みを緩やか(ソフト)に考えたことで両者は開かれた関係を持ちえたのだ。そして相互的な社会関係を密に結ぶ中で、受け入れ社会側が持っていた「彼ら難民はもともと外部者である(未来へ伸びる我々のものとは異なる軸を持っている)」という「タテ」の認識はさらに薄れていき、「今現在生活を共にする仲間」としての「ヨコ」の認識によって、共同体の成員として承認されるに至ったのである。この例では、民族(国民)の永遠性を棄却して変化する生活の実情に対応し、その時々でのよりよい暮らし(経済的な面だけでなく)を模索する人々の知恵を見ることができる。
(2)タイ北部山地民リス
ここでは受け入れ社会側がどういった人々を自民族と認め、取り込んでいくか、という例を見ていきたい。これは?の例ではあまり明らかにされなかったところだ。綾部真雄の調査した、タイ北部山地民リスの異民族取り込みのいくつかの実例を基にして考えていこう。
リスの社会にはクランがあり、人々はそれを基に儀礼などを行う。しかしそのクランは一見堅牢に見えるが、実は頻繁に拡大解釈の行われる柔軟なものだ。これによりリスはクランの原理を持つ雲南系の漢族と歴史的に混交し、彼らを取り込んできた。しかしリスのクランの拡大解釈はクランの原理を持たない周辺諸民族にも適用され、彼らをとりこんでいる、と綾部は言う。彼がこの論文で言う「リスになる」とは、非リス(ここでは父母共にリス以外の出自的背景を持つ人々)が、「日常的に何らかの形でリスを名乗っており、少なくとも表面的には周囲からリスとしての扱いを受け」るようになることであり、そういった具体例を彼は論文の中で挙げている。その中のいくつかを紹介すると、ある者は出自を偽装する努力をしつつリスとして暮らすことで、ある者はリスのクランの儀礼や治療を行うことで、またある者は自ら「私はリスだ」と主張することすらないものの、リス人である夫の妻としての暮らしの中で自然にリス的な立ち居振る舞いを身に着けたことで、それぞれ「リスになった」と周りから承認されている、という。つまりリスにとって「リスである」こととは、その時々でリスとしての生活様式を持っているか、が最も大きな判断基準となるのだ。さらにクランに帰属することにより、『この人は今リスのクランの一員なのだから歴史的にもずっとリスなのだろう』という論理の転換が行われ、通時的にもリスである、という承認が得られるのである。(綾部 1999:76−80)
つまりリスという民族は、他の民族よりも「ヨコ」の関係を重視する民族だ、と言えよう。現在、という場でリスとして認めうる生活様式(それはさすがに今現在だけでなく何年かその生活が積み重ねられてきて、説得力を持った末の現在、という意味だが)を持っている人々に、クランという「タテ」のイメージからなる系譜への帰属を認めうるのであるから。もちろんリスのクランへの所属=リスになるという等号が成り立つかどうかは疑問が残るところだ。おそらく「≒」ニアリーイコール、といったところが彼らの認識に近いところではないだろうか。それでもこのリスという民族の持つ「ヨコ」と「タテ」のバランスには注目すべき点が多いと思う。それは正統性の問題だ。「ヨコ」を重視してクランに異民族を取り込んでいると、「タテ」の想像に基づくクランの系譜の正統性は当然揺らぐであろう。他の地域の例を見てみると、例えばマレーシアサラワク州のマレー人の場合は、インドネシアとの国境付近に住む「マレー人」を、枠組みの外に追いやりこそしないものの周縁化することで、自らの正当性を“守って”いるという。彼らは「海の民」マレー人が一般的に行わないとされる焼畑耕作を行う上、国境を越えて親族関係を維持している、いわば“玉虫色の人々”だ。彼らについて「実はインドネシア人かもしれない」「マレーでなく山の民かもしれない」と語り排除することで、他のマレー人は自らの出自やアイデンティティを一層確固としたものにしている。(石川 1996:150−158)ではリスはこういった正統性をいかに扱っているのだろうか。「本当のリス」(綾部 1999:67)という言葉をリスが使っているように、彼らの間でも正統性には順位があると認識されているようだ。しかし彼らはそういった人々を排除するのでなくむしろゆっくり取り込んでいく。クランは血のつながりのイメージを基にした系譜である。こういったものに国民国家形成以後諸民族が神話や伝説などを付与してハードなものにしたことはすでに序論で述べた。それによって『我々は昔からこういう民族であり続けてきた』という説得力を付与し、『だからこれからも変わらずこういう民族であり続ける!』という想像につなげてきたのである。それなのにこんな風にいわゆる他者をどんどん取り込んでいては、『我々は一体どういう民族なんだ?』ということになって説得力も正統性も、そして未来への永続性という想像も失われそうなものである。しかし、それにもかかわらずクランという原理は崩壊していない。そしてリスという民族も人々の心に実体としてしっかり根付き、致命的な揺らぎを見せているようには思えない。これはどういうことなのだろうか。
おそらくリスの正統性は、枠組みのハードさソフトさにあまり左右されないのだと考えられる。リスがどの程度自民族の枠組みの柔軟さを認識しているかはこの論文からは定かにできない。しかし、出自が他民族である男性にリスのクランの家霊が「せっかくリスにしてやったのに」と語るくだりや、出自を偽装する女性が、自らが純リスであり「少しも混じっていない」と主張するくだりから、少なくとも他民族の取り込みを認識していることはわかる。(綾部 1999:73−74)しかしそういった事実は、それほどリスの民族アイデンティティに抵触しないのであろう。それゆえに異民族の取り込みが起こりうるのだ。リスの場合、「ヨコ」の場が「タテ」の軸に働きかけることにより、その枠組みの不変性の部分を揺るがし、可変的にしている。しかし枠組みが柔軟になろうとも、『われわれリスはずっとリスであり続けるのだ』という力は変わらず未来へ伸び続けるのだ。そしてその力はリスのアイデンティティの基盤として機能し続けるのである。このリスの例は、「ヨコ」の場が民族の枠組みに大きく働きかけ、それを柔軟にしうる例として興味深い。そして同時にそれだけ「ヨコ」の場がいわば強くても、「タテ」の力が未来へ伸び続け人々のアイデンティティの拠り所となりうる、という例としても興味深いと言えよう。
(3)東インドネシア中部フローレス
少し思い返してみよう。序論で国民国家の形成以前、以後での「民族」の違いを見た。「民族」は国民国家形成以前には関係性を基に広がっていたが、国民国家形成以後には人々は主に他者(国家)からつけられた「名」を自ら「名乗る」ことによりどんどん枠組みを堅固にし、それによりその「名」を持った民族としてのイメージが成員の中で言わば実体化していった、というものだ。しかし国民国家形成以後の現在においても、名乗るべき「名」を持たない人々がいる。この項ではそういった「民族」の例を取り上げ、彼らが「名」を持たない理由について考察したい。
東インドネシアのフローレス島中部に住む人々は、他の島からフローレス島にやってきた人々により2つの民族に分類されている。その分類は、主に話す言語の違いを基になされる、リオ語を話す「リオ人」とエンデ語を話す「エンデ人」という区別である。そしてこの区別は現地の人々の間でも採用されている。しかしその『一般的な』分類でいうところの「リオ人」もしくは「エンデ人」と、実際に人々が「リオ人」「エンデ人」という名称を使って呼ぶ対象とは必ずしも一致しない。「誰が、どこで、誰について語るか」によってその対象は異なるのである。例えば「一般に」エンデ人と認識されている人々のうち山岳地帯に住む人は、海岸部に住むイスラム教徒(彼らもエンデ語を話す)を指して「エンデ人」と呼ぶ。この時彼ら山岳民の頭にリオ人はおらず、「我々山岳民とエンデ人」という比較のみを念頭にこの呼称をつかっている。同じような例は、一般的分類における「リオ人」の中にも見受けられる。リオ語圏北海岸に住む人々が「リオ人」という言葉を使う時、その言葉が指し示す対象はリオ語圏の南海岸に住む人々なのである。疑問を持った調査者が『ではあなた方は自分たちをなんと呼ぶのか』と質問すると、北海岸のリオ人の1人はしばし困惑し、『どうやら自分のこともリオ人と呼ぶしかないようだ』と答えたという。(中川 1996:54−55)
この例は内堀が国民国家以前の民族の特徴として挙げていた「関係性の中での名づけ」を想起させる。もしくは小田が言う「二項対立群の中での自己規定」を。ここで出てくる「名」は「名乗る」ためにつけられたものではない。生活を送る上で出会う、自分たちとは違う特徴を持つ人を指して呼ぶ便宜上の「名づけ」なのである。だから自分たちの名称など考慮の外だ。自分たちがどう呼ばれようとそんなことは彼らの実際の生活に影響しないからである。エンデの山岳民は海岸部に住む「エンデ人」に対して自らを「山の民」と呼ぶ。(中川 1996:55)しかしそれは「正式な」名称でなく、相手(海岸に住む人々)に便宜上名づけた名に対応する便宜上の自称であり、よって「山の民とエンデ人」という対立項以外では意味を持たない。リオの北海岸の人々に至っては、「自分たちとリオ人」という対立項において南海岸の人々を「リオ人」と呼ぶため、名づけた名に対応する自称すら持たない。自らを客観視する必要が無いのだ。それは誰かに『われわれはこういう民族だ!』と主張する必要が無いからである。彼らが必要とするのは自分たちが実際に生活を送る範囲内における他者との差異の認知のみであり、そのために他者に「名づけ」を行うのである。もちろん彼らは、他の島から来た人が語る「リオ人」と「エンデ人」の、言語の相違に基づいた分類も認識しているであろう。しかしそれはあくまで認識であり、彼らにとっておそらくそれほど必要なものではないのだ。それゆえそれぞれ二重の意味を持った「リオ人」「エンデ人」という語が、それほど混乱をもたらさずに使用されうるのだろう。そこには必要性に基づく優先順位がある。この論文における私の主張にひきこんでこの例を考察するなら、彼らは「タテ」の軸をほとんど必要としていないように思われるのである。そして同時に民族アイデンティティをも必要としていない。そのために彼らは「ヨコ」の場を何の制約も無く生きているように見える。まるで国民国家以前の「民族」のように。そのため民族の枠組みやその範囲は定かにはできない。彼らが外部からつけられた「名」に対応した「名乗り」を行って枠組みをハード化したりせず、その「名」を認識の域にとどめているからだ。そして彼らは「ヨコ」の場における、実感に基づいた差異を優先的に用いて、他者との直接の関係性に基づいた「われわれ」を捉えているのである。国民国家形成後の現在において、こういった形をとる「民族」は稀有な存在なのかもしれない。しかし彼らはたまたま「不死性」「永遠性」といった、「タテ」の軸の基盤となる特性にさほど魅力や必要性を感じ得なかったのだろう。それゆえ、ともすればハードな民族の枠組みにつながりがちな外部からの「名づけ」をやりすごし、実感を優先させられるのである。「不死性」「超時間性」といったものへの憧れがなければ、現在においても、「ヨコ」の場の関係性を基盤とした「民族」の社会が形成されうるのである。
(4)ネイティブアメリカン(インディアン)
?の例の難民キャンプも国家内の「隔離された特殊な地域」だったが、難民でなくてもこのように国家内で分離され、国内他地域とは一線を画された状況下で生活する人々がいる。その1つの例がネイティブアメリカン、いわゆるインディアンと呼ばれる人々である。ここでは彼らの状況を見ていこうと思う。
まず歴史的な流れを概観してみよう。現在彼らはアメリカ合衆国内の「特別保留地(reservations)」とか「指定地(reserves)」、「植民地(colonies)」と呼ばれる分離された地域に住んでいる。そしてそこで連邦の保護下、「国内独立国」とでも言うべき自治を行っている。こういった状況はこの地にアメリカ合衆国という国民国家が誕生したことにより現れてきたものだ。それまでインディアンは、領土を拡張しようとするイギリスの植民地開拓者に対して団結し、ほぼ互角の力で対抗していた。しかしイギリス軍がアメリカ合衆国軍に敗れたときからインディアンと植民の力の均衡は崩れた。領土割譲と強制移動(時には補償も伴うが)の歴史が始まったのだ。上の「保留地」政策が公式化されてからは、インディアンの主権を剥奪し完全に連邦の保護下に置くための努力がなされた。たとえばインディアンの子供は半ば強制的に(保留地からの誘拐もあったという)寄宿学校に連れてこられ、そこで「文明的」な生活に同化するための強力な教育を受けたのである。結局インディアンの反発でそれら同化への努力は実を結ばなかった。そして20世紀にはインディアンの権利を大幅に認める法律もできてきている。(Strong&Winkle 1993:9−20)
まず注目すべきは、こういったインディアンの存在がアメリカのナショナリズムに大きな影響を与えた、という点である。「文明化」したアメリカ国民にとって、「野蛮」なインディアンは「畏怖と憧れの対象」であり、「自分たちはこうではない、こうなってはダメだ」というものの象徴だった。(Strong&Winkle 1993:19)そしてそんなインディアンの姿と自らの姿を対比しつつ、アメリカ人はナショナル・アイデンティティを確立していったのだ。インディアンを野蛮と蔑視しつつ憧れを感じる、という点において、アメリカ人のインディアンを見る目は?の例のザンビア人がアンゴラ難民を見る視点に似ているようにも思える。しかしこの場合アメリカ人にとってインディアンは厳然とした他者である。彼らに対する憧れも、彼らが「やがて消えゆく民族」と考えられていたことからきている、とも言える。「野蛮な」インディアンは、やがて白人と血が混ざり、教育によって白人と同じように「文明化」する、と考えられていた。また保留地政策に応じないインディアンたちは、武力によって実際にこの世からどんどん抹殺されてもいた。合衆国民の憧れは、消え行く「他者」に対するそれだったと言えるのだ。この場合民族の「タテ」の力は、同じ国内に他民族がいる、という状況に揺るがされない。揺るがされるどころか逆に他者であるインディアンという鏡に『文明化した我々』を映すことで、強固なアメリカ人アイデンティティが形成されたのだ。「分離と同化のアプローチが現在も(合衆国の)インディアン政策を支配している」と彼らは書いている(Strong&Winkle 1993:12)が、このうち「分離」の部分がこういった作用をもたらした、と言える。ではもう1つのアプローチ、「同化」に関してはどうか。前の段落で述べた寄宿学校での教育(これがもっとも強力だったというが)をはじめ、農夫や宣教師の派遣、軍事的リーダーの逮捕、投獄など、合衆国はかつてインディアンを抑制し、アイデンティティを奪うような政策を講じてきた。これがもし成功していて、現在のような国家内国家状態が起こらなかったとしよう。それは上からの力ずくの同化である。合衆国とインディアンの間に力の差がありすぎ、インディアンの側からすれば(小規模な抵抗こそすれ)選択の余地はない。結局インディアンたちは抵抗を続け、合衆国の同化政策は成功しなかった。しかもこの上からの同化政策に加え、保留地政策での白人による土地の搾取と殺戮によって、インディアンたちは彼らに対する敵意を募らせていった。このように同じ国内で生活していながら、彼らはお互いを他者だと考え、敵視していた。このような状況で「生活する上での機能的つながり」が起ころうはずもない。そして、同化が活発に進むこともなかったのである。
3,考察
2章では4つの「民族」の例を見てきた。続いてこの章では、それぞれの例に関してどういった要素がいわゆる「タテ」、「ヨコ」として働いているかを詳しく考察していきたい。4つの例のうち(3)のリオ人とエンデ人の「名づけ」の例以外は、民族の枠組みの変化、さらに言えば他民族の取り込み、取り込まれと、それに対する抵抗に関するものであった。そういった取り込み取り込まれが起こる理由、もしくは逆に取り込まれを拒否する理由にそれぞれどういった意志や力が働いているのだろうか。2章の例を細かく検証することでそれらを明らかにしていきたいと考える。
まず(1)の例、アンゴラ難民がザンビアの農村に取り込まれる例について考えてみよう。この例は生活の基盤を失い、新天地で一から生活を立て直す必要のあるアンゴラ難民の方が、ザンビア社会で生きていこうとする例である。相対的に弱者である側がどちらかと言えば積極的に強者側の受け入れ社会に取り込まれようとしている。その方が今までの生活をそれほど変えず、さらに「難民」という弱い立場を引きずらず生きていけるからである。
さて、まず受け入れ側のザンビア農村について考えてみよう。彼らがアンゴラ人を受け入れたきっかけは、農村内に住みついたアンゴラ人の行う儀礼・治療が彼らの生活にとって魅力的だったからである。そしてアンゴラ人と儀礼・治療を共に行ううちに、彼らを共同体の成員として認めていったことは2章にも書いた。ザンビア人はもちろん国民国家成立後の「民族」、すなわち民族2である。しかしハードな「民族意識」を持つはずの彼らは、越境してきた異民族をさほどの抵抗無く受け入れている。一定期間同じ土地で共に暮らし、儀礼などの生活習慣を共にすることで。つまり彼らにとっての「民族意識」はそれほど排他的でなく、むしろ国民国家以前の民族(民族1)を髣髴とさせるところがあるのだ。なぜならその意識の範囲は、難民の流入による状況の変化により可変的になる。そして民族の起源といった不可視的な側面よりも、今生活を共にしているという可視的な側面が重要視されるようになるからだ。彼らにとっての「タテ」である「民族意識」は、境界内に難民が入ってきたという「ヨコ」の状況に対応してソフトになり、共に暮らすうちにアンゴラ難民たちを自民族に「取り込んだ」と言えるだろう。
では次に受け入れられた側、アンゴラ難民について考えてみる。彼らにとっての「タテ」とは、自らのアイデンティティに関わってくるものだ。ザンビアの農村に受け入れられる、ということはザンビア人として生きていくことであり、自らのそれまでの民族アイデンティティを捨て去ってザンビアに「同化」することになるからである。彼らはこういった複雑な自らのアイデンティティをどう扱っているのか。同化への抵抗はないのだろうか。ザンビアの農村にもぐりこんだ当初、彼らは2章にも記述したとおり自らのアイデンティティを確認するかのようにアンゴラの儀礼・治療を行っている。しかしその儀礼がアンゴラ人としてのアイデンティティの象徴として機能したのは、おそらく立場があまりにも脆弱でまだザンビア農村にも受け入れられていなかった最初の間だけだ。定住後20年経ち、村人として認められた元アンゴラ難民は、もはや帰国の意志を持たず、しかも「何らかの方法でザンビア人の身分証明書を手に入れて」いる、という。(北川 1996:219)そこには「アンゴラ人」としてのアイデンティティが生き続けている様子は微塵も見られない。つまりこういうことであろう。彼らは難民となるまではアンゴラでの「民族アイデンティティ」という「タテ」の意識を持って生きていた。しかし生活基盤を失い弱い立場になったため、その状況に即して自らのアイデンティティにはこだわらず、むしろ「戦略」的にそれを操作してより快適に生きる道を選んだのだ。そしてザンビアの農村で生きるという「ヨコ」の状況に合わせてザンビア人としてのアイデンティティを獲得していったのである。
(2)のリスもよく似た例といえるかもしれない。弱者である他民族の側が、どちらかと言えば積極的にリスに取り込まれていくからである。ただしこの場合の取り込みは難民のように特殊な状況下でのものではなく、通婚などによって長い間行われてきた取り込みだ。受け入れ側であるリスは、2章にもあったように共時性によって民族の枠組みを緩やかにする民族である。「リスである」と認識される人の範囲が常に状況によって変化するのだ。しかし共に生活を送るだけで誰でも簡単に「リスになった」と認められるわけではない。ある程度長期間リスとしての生活(儀礼など)を送らなければならないのはもちろん、例えばリスから少し蔑視されている民族の出自であればなかなか結婚できない、といったことも起こってくる。(綾部 1999:72)誰彼構わず簡単に「リスになれる」わけではなく、そこにはある程度の壁が一応存在しているのだ。しかしそれでもさらに時の流れを経れば、彼らもさらに強く「リスである」と認識されるようになるのである。このように受け入れ社会側のリスにとっての自民族「リス」とは、他民族出自の者とは一線を画すことである程度保たれる正統性を中心として成り立っている。それゆえ民族の枠組みが可変的でもそこにアイデンティティを持つことが可能となるのであろう。それが彼らにとっての「タテ」の軸だ。そしてその一方で、時の流れと共に「リス」の枠組みはどんどん変化し、さらに多くの人々を取り込んでいく。正統性が今後さらにあやふやになっても不思議ではない。そういった取り込みが行われるのが「ヨコ」の場であり、「リスであること」とは常に「タテ」と「ヨコ」のせめぎあいなのである。
この例でも、取り込まれる側にとっては「リスになる」ことは同化されることである。確かにリスの村で生きていくためにはリスであった方が何かと都合がいい。もっともこういった同化される側の人々もかつては「リスになる」以前の民族アイデンティティを持っていたと思われる。例えば「リスになる」他民族として代表的な存在であるラフにも、「ラフ民族」の過去、そして未来を巡る神話があり、彼らは自らの現在の脆弱な立場(特に平地民に対して)を認識しつつも、失った栄光を自民族がいつか回復するという希望をそこに託している、という。(西本 2000:433−435)しかしそれでも彼らにとって自らの民族アイデンティティは操作可能なものだと考えざるを得ない。2章で挙げた出自を偽装する人はもちろん、積極的に「私はリスだ」という主張はせず出自も隠さないものの、リス人夫との暮らしの中でリス的な立ち居振る舞いを身につけた女性も、自らのアイデンティティを「戦略的に」操作している、と言えるだろう。もし後者に関して「戦略」は言い過ぎだったとしても、彼女が状況に合わせて自らのアイデンティティを「適応」させていることは明らかである。「リスになる」側にとっては、結婚などによりリスの村で暮らす、という状況が「ヨコ」であり、その状況にとって自らのかつての民族アイデンティティが不要(むしろ邪魔)なものであれば、彼らはそれを積極的ではないにしろ捨て去りうる。捨て去る、が言い過ぎなら少なくとも忘れ去りうる、のである。そしてリスとして生活していくことで少しずつ周りから承認されたり、新しいアイデンティティを獲得したりする。彼らにとっての「タテ」はアンゴラ難民のそれと似ている、と言えよう。
ではここで(3)の例を飛ばして、同化が活発には進まなかった?の例、インディアンとアメリカ合衆国の例について考察してみよう。この例に関しては、(1),(2)の例と大きく異なる点をいくつか考慮に入れておく必要があるであろう。まず1つ目は同化の起こる方向である。(1)、(2)の例は相対的に弱い立場にある側(アンゴラ難民、周辺諸民族)から強い立場にある側へ向けての積極的な同化、編入であった。しかし?の例は、強い立場にある合衆国側が弱い立場のインディアンを取り込もうとしたものである。ここでは立場の弱いインディアンに選択の余地は無い。居留地への移動か、さもなくば死か。これが1つ目の大きな違いだ。もう1つは両者の関係性である。(1)、(2)の例と違い、合衆国とインディアンは敵同士であった。占領した側、された側である。合衆国側からすればインディアンは自国の発展の障害となる未開の野蛮人であり、インディアン側からすれば合衆国は自らがもともといた土地を力ずくで奪い、生活を破壊する脅威だった。この2つの大きな違いは、インディアンが合衆国に同化しなかった理由に大きく関わってくるものだ。
まず合衆国にとって「タテ」とは何だったのか。これはわかりやすい。アメリカ合衆国という地に生きるものが皆「文明的」に生き、正しく強い国として世界をリードしていくイメージだ。このイメージの中では「未開の」インディアンは土地を明け渡し、教育によって「文明化」するか、または白人と血が混じることで「消滅」するか、もしくは土地を巡る合衆国との争いで「死滅」するか、いずれかの道をたどることとなる。両者は「ヨコ」の場における関係、生活に即した機能的なつながりを持たなかった、といえるだろう。アメリカ大陸の植民の歴史の中で唯一、イギリス人が最初に移民してきた当初は両者がこのような関係を持った。しかし植民たちが広大な土地を求めだすようになり、彼らと生活を守る必要のあるインディアンとは一気に敵同士となったのである。
そしてこういった両者の関係が、インディアンが同化に抵抗し続けた理由でもある。彼らにとって合衆国は、生活のうえでつながりを持つような隣人ではなく、ただ従来の生活を破壊し土地を強奪する敵にすぎなかったのである。合衆国の力の前に屈するしかなかったインディアンであるが、2章にある寄宿学校での教育などの政策を経ても、彼らが完全に合衆国に同化することはなかった。生活を脅かす敵が現れたことで初めて生まれたであろう「アメリカ先住民」としてのアイデンティティを、彼らは持ち続けた。彼らが同化を拒み、インディアンとして生き続ける力となった「タテ」のイメージは、おそらくこのアイデンティティであろう。それらは20世紀も後半になってようやく少しずつ実を結び始めることとなる。彼らは2度にわたる世界大戦での功績から少しずつ市民権を得たが、まだまだ生活は最底辺のまま虐げられていた。しかし清水知久によると、1960年ごろからそれまで従順に合衆国に従っていたインディアンたちが少しずつ自己主張を始めることとなる。その代表格、インディアン若者によるアルカトラズ島占拠は、インディアンとしての文化的な生存を訴える運動であり、また全インディアンに団結することを訴えてもいた。さらにベトナム戦争での米軍による大量虐殺が明るみに出た際、アメリカ国内の白人の間にも過去の同じような過ち、すなわちインディアンの大量虐殺を疑問視する声が高まっていった。こうした風潮の中、1970年にニクソン大統領がインディアンの自決権を認めた。相変わらず生活は苦しい。しかしそれでも団結したインディアンたちは、今も完全な自決と自立へ向けて少しずつ歩んでいるのである。(清水 1992:139−221)圧倒的強者による植民地化に対しての弱者の抵抗戦争が彼らの民族アイデンティティをハードにした例は、例えばアフリカでも見られる。それらの抵抗はその時は何の苦も無く鎮圧されたが、英雄伝として語り継がれ、精神的な支柱として後々の独立運動の際ナショナリズムの母胎として働いた。(松田 1997:294−296)こういった連帯やハードな建前を持った独立運動は、現在世界で多数起こる民族紛争の「主流」とも言える構造をもったものであろう。ここ数年でもこういった建前のもと、いくつかの国が分離独立を果たした。これらの例も敵意などから「ヨコ」の場における交流を持たず、ハードな民族アイデンティティが育った例といえよう。
ここまで(1)、(2),(4)、それぞれにおける「タテ」と「ヨコ」を考察してきた。明らかになったことがいくつかある。まず「ヨコ」の場が発生しないシチュエーションがあることだ。同化が起こらなかった(4)の例では、敵対関係によって、特に征服された側のインディアンの間に同化に抗う強固な民族アイデンティティが育った。逆に(1)と(2)の例においてわかるのが、民族の取り込みは国民国家以前のような共時的なつながりの場、つまり「ヨコ」の場で起こる、ということである。受け入れられる側の人々が自らの過去のアイデンティティ、つまり「タテ」のイメージを捨て(忘れ)去った場において。国民国家形成後の世界においても、かつて集団の形成の基となっていた「ヨコ」の場は力を持っているのである。それがわかるのが?のリオ人とエンデ人の例であろう。彼らが必要としているのは実際に生活する上での他の集団との関係性のみである。自らの呼び名も持たない彼らだから、誰かに向けて主張するような民族アイデンティティももちろん持たない。彼らにとっては「ヨコ」の場が全てであり、「タテ」の軸はいらないのである。
こういったことを踏まえて、「民族とはタテとヨコの軸のせめぎあいだ」と結論付けよう。
序論の繰り返しになるが、この場合の「民族」とは2つのものを指している。1つは民族の「枠組み」だ。本論においては、いわゆる受け入れ側にとっての「民族」がこれであった。自らのアイデンティティに関わる、民族の「タテ」のイメージをそれほど害さない場合に、「ヨコ」の場での他民族との機能的関わりは力を持ちうる。そして「取り込み」という形でその枠組みは変化するのである。逆にサラワク・マレーの例のように、同じ民族として生きながらも「タテ」のイメージを侵害しかねないため周縁化されていく人々もいる。「タテ」のイメージは国民国家形成以後の「民族」にとって非常に重要であることが、この論文で取り上げた民族の例からもわかる。しかし、「取り込み」という形をとることで、その「タテ」の軸に国民国家以前のような「ヨコ」の場による民族の形成が入り込む余地があることも明らかにできたであろう。さらに受け入れられる側に目を向けると、もう1つの「民族」、つまり人間1人1人の民族アイデンティティも、「タテ」と「ヨコ」のせめぎあいだということがわかる。他の民族に取り込まれた人々も、それ以前はそれぞれもともとの民族アイデンティティを持って生きていた。しかしさまざまな事情で越境し、その状況に応じる形の新しい民族アイデンティティを「戦略的に」獲得していくのである。この「戦略」とは、「ヨコ」の場をより生きやすくするための「戦略」だ。国民国家形成後の人々が持つ民族アイデンティティとは、「タテ」のイメージを基にしたものである。しかしそのアイデンティティは、新しい環境、新しい「ヨコ」の場で実際に生活することで(または生活するために)変化しうるのだ。また逆にインディアンのような例もある。他民族との出会いが植民地主義との戦いのように不幸な形だった場合、その力の不均衡から「ヨコ」の場といえるような交流が生まれないことがあるのだ。さらに土地の搾取や虐殺などに対する敵意も加わり、インディアンの場合は新しい環境の中で自らの民族アイデンティティをむしろ堅固なものにしていったのである。
4.結語
本論は「タテ」と「ヨコ」という言葉をキーワードに「民族」というものを考察しようと試みたものだ。主に民族間での「取り込み」「取り込まれ」の例を取り上げ、国民国家形成以前に集団形成の基盤となっていた原理が国民国家形成後の現在においてどのような力を持っているか、ということを中心にいくつかの民族の例を見てきた。ここでもう一度「アイデンティティ」というものについて考え、その未来への展望を示すことで結びとしたいと思う。本論では枠組みとアイデンティティという2つの面から民族について考察してきたが、枠組みの方にも民族アイデンティティは深く関わっていた。同化が活発に進んだアンゴラ難民とリスの例でも、受け入れる側の民族アイデンティティに抵触しない範囲で受け入れが起こっていた、と言える。いくら枠組みがソフトである両者の例でも、誰彼民族の境界を越えられたわけではなかったのである。つまり、受け入れ側の民族アイデンティティが民族の境界を確定していた、ということが本論の例においては言えるのだ。国民国家形成後の現在における民族を考察する上で、このアイデンティティというものが避けては通れないものだということは、本論からも明らかであろう。
今福龍太は境界を越えて生きようとする者のアイデンティティのあり方について、「安定した帰属を放棄すること」によって「自他の強固な差別化のシステムを解除」することを提案している。新しい環境に対してそれを他者だと排除するのでなく、(幻想の)ルーツから自らを切り離すことでその他者性をあるがままに吸収せよ、というのだ。そんな自己の中を他者性が通過していくことにより、当然自らのアイデンティティはどんどん新しい形を持つようになる。人々が自分自身をそんな「十字路」だととらえれば、文化の混交の場は排除と敵意の場ではなく出会いと収斂の場、互いを豊かにしあう場になりうるのではないか、と彼は言う。(今福 1996:198−201)そしてこの「境界を越えようとする者」とは、本論においての受け入れられる側(アンゴラ難民、リス周辺諸民族)だけとは限らない。越境してきた者を受け入れる側(ザンビア農村民、リス)も、境界を越えた出会いをするという意味で「境界を越える者」だといえるはずだ。両者が自らの堅固な民族アイデンティティに固執せず、相違を相違として影響しあい混合しあう場。今福が想定するこういった場は、国民国家形成以前における文化混交の場を髣髴とさせる。これは本論の語でいえば、「タテ」を排した究極の「ヨコ」の場なのかもしれない。しかし国民国家形成後の現在において、異なる民族同士がそのような出会いをすることはまずないであろう。例えばそのような“理想的”出会いは、アメリカ合衆国が自国民の目指すモデルとした「人種のサラダボウル」という言葉を思わせる。モデルとしては、それぞれの具が自らの味を存分に発揮しつつ、料理全体の味としても1つの整ったハーモニーを奏でる、はずだったのである。そのサラダがWASPの味になってしまったことは、そのような出会いの起こり得なさを表しているように思える。民族?は「タテ」の軸に関わるアイデンティティをおそらく廃しえないのではないか。序論でも述べたように、近代のアイデンティティとは個を直接全体に結びつけた、強固なものなのだ。だとしたらハードな枠組みを持った人々がぶつかり合い、争う時代はまだまだ続くのではないか。
そんないわば「悲観」に対して、本論はいくらかの可能性を示してくれるものであるはずだ。ここで取り上げた例は、リオ人とエンデ人を除いては、国民国家形成後の「民族」らしく「タテ」のイメージに基づいた民族アイデンティティを持った人々である。しかしそんな人々の間にさえ、取り込み、取り込まれによる民族枠組みの変化、民族アイデンティティの変化は起こった。そしてその変化の舞台となったのは、国民国家形成前のような「ヨコ」の場だったのである。このような「ヨコ」の場は、越境した側が自らのかつての「ルーツ」と自らのアイデンティティとを切り離し、一時的に「十字路」的なアイデンティティを持ったことから生まれた、といえよう。もちろん「十字路」だったのは一瞬で、彼らはまた新しい環境に応じた新しい民族アイデンティティを「同化」されるという形で獲得していった。それは現在が国民国家形成後の世界であることを考えると当然のことだともいえる。重要なのは、そういう風に「タテ」の力が明らかに民族状況を支配している現在において、「ヨコ」の場がある役割を果たしていることだ。換言すれば、越境した側の人々が新しい「タテ」のアイデンティティを獲得しようとする試みが、「ヨコ」の場が持つ力によって成功した、ということである。これはリオ人やエンデ人のような人々の存在と共に、もしかするとそれ以上に、国民国家成立以後の民族が持つアイデンティティを揺るがしうる事実であろう。自分と同じように「タテ」を必要とする人々が、「ヨコ」の力によって民族の枠組みを広げたり、新しい民族アイデンティティを獲得したりする。そういう風に「ヨコ」の場の力を見直すことは、逆に知らず知らずのうちに必要以上にハードになっていた自らの民族アイデンティティに気づくことにもつながる。そうした時に、わたしたちの前に「境界を越えた交流」の可能性は広がってくるであろう。本論は「ヨコ」という言葉を、国民国家以前に力を持っていた場、共時性の場のイメージとして象徴的に用い、いくつかの民族の事例をイメージ的にわかりやすく提示することで、「タテ」という言葉が象徴的に表すハードな民族アイデンティティの自明性や永遠性を問い直したものである。(それゆえ「タテ」「ヨコ」が示すものはいささか漠然としてしまったかもしれないが。)もちろんこれからも人々にとって、何かに根ざした自己、という意識は不可欠なのかもしれない。例えばインディアンの例のように、かつて植民地化された人々が独立や権利を求めて立ち上がる時、その意識が人々に力を与える、といったこともあるだろう。しかし、ともすれば自明と考えがちな自らのアイデンティティを人々が見つめ直すことで世界は変わりうるかもしれない、という示唆を本論は含んでいる、と言ってもそれは言い過ぎではなかろう。
世界は狭い。そして多くの人間がそこに生きている。人々が「ヨコ」の場の可能性に目を向けることで民族アイデンティティが少し柔軟になれば、民族?であるわたしたちの間に新たな可能性を秘めた文化混交が起こっても、不思議は無いと思われるのである。
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