ポストモダン人類学の代価について
竹内聖乃
T.オリエンタリズム批判と文化人類学
西洋が東洋という異文化に接触したとき、「未知なるもの」に対する好奇心から、人々は東洋を観察し、描写したいという欲望にかられた。実際に、オリエンタル病とでも言うべきものが詩人、随筆家、哲学者たちを襲った。「オリエンタルなもの」は、異国性、神秘性、深慮さ、生殖力などといった言葉と結びつけられ、東洋がいかなるものかという記述が様々な領域で脚光を浴びた。こうして、オリエンタリズムは生まれたのである。(サイード1993a:123)
しかし、エドワード・サイードは、その著書『オリエンタリズム』で、「オリエンタリズムとはオリエントを支配し、再考し、威圧するための西洋の様式」(サイード1993a:21)であると主張した。つまり、西洋が政治的・社会学的・軍事的・イデオロギー的・科学的に「東洋」を、管理し、生産するという支配の影には、詩や小説、また絵画にいたるまで、東洋に代わって西洋が東洋を代弁するという「東洋に関する言説」がその装置として働いてきたことを指摘したのだ。
オリエンタリズムと同様に、人類学という学問は、異文化に対する好奇心によって成立させられ、支えられてきた。そして、人類学は、フィールドワークを通して、人類文化の多様性を明らかにしたり、異文化をフィルターにして自文化を見つめなおすことができる学問であるといって、その地位を確立してきた。確かに、この限りにおいては人類学は進歩と解放の旗手であったといえる。ところが、サイードのオリエンタリズム以降、こういった「異文化を理解したい」「異なった文化を理解したい」といった精神は、人間の本性どころか、他者支配のための独特な精神様式に他ならないという、人類学に対する衝撃的な批判の声があがるようになってきた。(松田1999:4)今、人類学は伝統的に続いてきた研究の根本を見直さざるをえない、いわば危機的状況にあるといえる。そこで、まずはオリエンタリズム批判を検討することで、この危機的状況を乗り越える糸口となるものを見出せないか探ってみたいと思う。
サイードはオリエンタリズムにおける心象地理の説明をする際に、「自分の土地やその周囲と、その向こう側の領域とのあいだに境界線を設け、向こう側の土地を『野蛮人の土地』と呼ぶというような自/他の区別を『普遍的習慣』と呼び、近代社会においても、原始社会においても、それがアイデンティティーの感覚を引き出してきたように思われる」という言い方をしている。つまり、サイードはエスノセントリズム(自文化中心主義)によく見られるような、自分たちの集団の価値観を基準にして、他集団を自分たちとは違う、劣った集団であるとみなす視点が一般的にいうオリエンタリズムを支えていると、ここでは言っている。(サイード1993a:129-130)これに対して小田は、「サイードの議論には帝国主義的なまなざしによる西洋/東洋という二分法と、どんな社会の生活の場にも見られるエスノセントリズムにおける自/他の二分法とが、連続した同質のものであると読めるような曖昧さがみられる。」と指摘する。(小田1996:820)こういったサイードの文章の曖昧さが、自己と違う存在である他者との境界線付けと、近代のオリエンタリズムにおいて西洋が行った東洋との境界線付けが全く同一の意味のものであるのか、という問題提起を行うきっかけとなった。ではこの問題に答えるために、近代のオリエンタリズムの特徴を『オリエンタリズム』をどう読むかという議論を中心に検討していくことにする。
サイードは、『オリエンタリズム』の中で、「西洋と東洋とのあいだの関係は、権力関係、支配関係、そしてさまざまな度合いの複雑なヘゲモニー関係に他ならない」(サイード1993a:26-27)、または「オリエンタリズムの独特の価値は、オリエントについて真実を語る言説としての一面よりも、オリエントを支配するヨーロッパ的=大西洋的権力の標識としての一面においていっそう大きい」(サイード1993a:28)と述べている。このようなサイードの西洋対東洋の力関係を強調するような言い方から、太田は、オリエンタリズムは「異文化理解をめぐる認識論というよりも、発話をめぐるパワー論である」(太田1998:103)と解釈する。つまり、オリエンタリズムにおいて、力のある西洋が、西洋のために東洋を語ったことを批判すべきだとして、これをエスノセントリズム的な認識論の次元で解釈することを戒め、むしろ政治的な次元で解釈するべきだと述べているのだ。
しかし、西洋には力があったから、他者として東洋を語ることができた、という力関係=政治性だけに着目するような、いわゆる太田の言う「政治的次元での解釈」だけでオリエンタリズムを捉えてしまうことに異議を唱える声があることに注目してみよう。小田は、オリエンタリズムにおける認識論的読みを回避するのではなく、その本質主義的な認識論がそのまま近代特有の政治的テクノロジーに属していることを見逃してはいけないと言う。(小田1996:820)
ここで、小田は酒井直樹の「種的同一性」(酒井1995)という言葉をつかう。酒井は彼の論文の中で、「種的同一性」という語は、はじめは人種のステレオ・タイプ(本質主義的なイメージ)の意味で使われてきたが、(酒井1996:214)現在、人種という枠は国民や民族といった文化主義的枠組みに横滑りしてきているので、ある国民や民族のステレオ・タイプをさして種的同一性と呼ぶことができると言う。(酒井1996:260)この種的同一性という言葉を小田は自分の論文の中で、「ポストモダン人類学が批判する本質主義において暗黙の了解とされてきた、オリエントやイスラームや日本文化や日本人やヌエル族といったカテゴリーにあたかも自然種のような全体的で固定された同一性」と説明している。(小田1996:810)そして、この種的同一性の理論にのっとって、西洋は本質的で均質な「東洋」のイメージを描き出し、またその合わせ鏡として自らにも本質的で均質な「西洋」のイメージを重ねた。このことによって、近代オリエンタリズムにおいて西洋の「東洋という無知な未開社会に、西洋の知識を与えなくてはいけない」といった「文明化の使命」のレトリック、つまり主体性を持つ西洋の植民地主義や帝国主義の支配のレトリックが可能になったことを、「認識論的側面」で読み取る必要があるのだ。太田の言う、政治的な「発話のパワー論」という側面だけでオリエンタリズムを捉えるのでは、近代のオリエンタリズムの特殊性を見落としてしまう。つまり、「それが種的同一性による支配のテクノロジーによるものだということが隠されてしまうのである。」(小田1996:829)
いや、むしろ政治的側面と認識論的側面を切り離して考えることが、すでに近代支配のテクノロジーを見落とす一歩となっているのと小田は言う。(小田1996:825)なぜなら、「オリエンタリズムは、支配と被支配という力関係から生み出されるものであり、支配者の側が、真正のものが存在するという確信をもち他者の他者性を本質主義的に強調する視点」(吉岡2000:14)であると吉岡が言うように、西洋が、東洋と自らを、「優位な自分たち」と「劣った彼ら」という本質的な枠組みに押し込み、その優位さゆえに劣った東洋を文明化に導かなくてはならないという使命のもとで帝国主義を正当化してきたというような、相互に関わる認識論的側面と政治論的側面の絡み合いによって、オリエンタリズムの装置は出来上がっているからである。
U.ポストモダン人類学と民族誌リアリズム
ポストモダンの時代は一言で言えば脱構築の時代であったと言える。ここで、太田はポストモダンをアパイア(Appiah 1991)を引用して簡潔に定義している。それによると、ポストモダンについての議論が建築、芸術から詩まで幅広い領域で存在していることを十分踏まえた上で述べるなら、ポストモダンとは「モダニズムとはある固定的解釈をある社会集団が特権化している立場であるとすれば、他方において、ポストモダンとはまさにそのような特権を否定し、複数の声が主張できるスペースを切り開く立場である」という。(太田1998:176) 文化人類学においては、それまでの「民族」や「伝統」といった本質的なカテゴリーを脱構築することがポストモダン人類学の目指すところであったが、太田流にポストモダンというワードを解釈すれば、それまで文化を語る特権をもっていたとされた(特に西欧の)文化人類学者以外の人々にも発話のスペースが与えられようとしている状況を指して、「ポストモダン人類学」と解釈することも出来るだろう。
異文化を見るときに、人は「意図的ではなくとも、知らず知らずのうちに、気がついてみると自分の文化的フィルターを通して」(吉岡2000:3)しまう。しかし、これまで文化人類学者は「未開文化の専門家」とされ、一般の人が持つような自文化のフィルターを持たずに、(または持っていると認めるとしても、そのフィルターはごく薄いもので)フィールドワークという現地に密着した研究をした結果、未開の文化を客観的かつ全体的に記述できるとされてきた。ところが、サイードの『オリエンタリズム』が出版されて以降、人類学が異文化を本質主義的に規定し、自文化とは異なる純粋な他者として把握してきたその姿勢を自省する動きがみられるようになってきたのだ。(吉岡2000:3)さらに、文化人類学という学問自体が、西洋/非西洋の力の不均衡の上に成り立って発生したということが指摘され、文化人類学者が文化を書く権利があるのかないのかということが問題視されるようになった。
このような以前の人類学に対する批判から、脱構築を目標としたポストモダン人類学は、従来の人類学が問うことなしに前提としていた「文化」や「伝統」や「民族」や「ネイティブ」といった諸概念を疑問視し、特定の他民族〔他者〕の文化の本質を客観的かつ全体的に表象できるとする民族誌的リアリズムを批判することを始めた。(小田1996:810)問題となったのは、文化人類学者はフィールドワークで得た部分的で個人的な経験を全体化し、それをその文化の「本質」であるとみなし、民族誌として客観的に表象できる、とされていたことである。
特に、こういった以前の民族誌に対する批判の声をまとめて、一つの強力な思潮にまで高める契機になったのはクリフォードとマーカスの編集で出版された『Writing Culture』(1986)[邦題『文化を書く』]だったことは間違いない。この本は1984年にニューメキシコ州のサンタフェで開かれたセミナーの中で発表された論文をクリフォードとマーカスがまとめたものである。このセミナーの目的は、書くことを批判的に検証することによって、文化人類学の近い過去を再解釈し、かつ文化人類学の未来の可能性を開くこと両方の追及であった。(マーカス、クリフォード1996:G)彼らは、ここで、以前のフィールドワークによって得られた民族誌記述の手段における、表現の透明性と経験の直載性を主張するイデオロギーの崩壊を高らかと宣言する。(マーカス、クリフォード1996:3)つまり、フィールドワークの中で人類学者が経験した「真実」は、部分的な「真実」に過ぎず、それを全体的で本質的な「真実」として記述することを批判したのである。また、人類学者が民族誌を書く際に持っているとされた、「人間の生活様式を地図に書くような見晴らしのよい場所」(マーカス、クリフォード1996:38)つまり客観的な視点を否定し、民族誌を書く際に働く力関係=政治性を認識することを主張したのである。
こういった民族誌批判の流れのなかで、ポストモダン人類学者は、「他者」を設定し、そこに本質的な文化を見出そうとする本質主義やリアリズムを放棄しなければ、人類学がオリエンタリズムや帝国主義的なまなざしから脱却することは出来ないという共通の認識を持つようになる。例えば、杉島は、「実在が本質と言うアプリオリな分節構造をもっているならば、その姿をあるがままにとらえた唯一の正しい表象があるはずであり、表象の正しさは実在の本質との対応によって判断される」という考え方をリアリズムとよび、(杉島2001:9)リアリズムにもとづく民族誌的研究は、人類学者のとらえた唯一の表象こそ、その文化の本質であるという信念に基づいているがゆえに、調査地の住民に対する絶対的な権威と力の表明になるといって批判する。(杉島1995:207)
しかしこの後、杉島は、民族誌的研究は人類学者の解釈の物語に過ぎないのだから、自分の解釈を政治的言説として提示することが唯一の残された道だという結論を導く。(杉島1995:208)だが、全ての本質主義を追放することが、実際に植民地主義時代の力関係を脱却する有効な手段になりうるのだろうか。個人の解釈としてしか記述できないと言い切るのなら、解釈なのだから「なんでもあり」ということになり、結局、自分の言説を相手に押し付けるような民族誌になってしまう危険性がある。それでは、文化を書く権利を持つものの解釈が民族誌の主流になってしまい、弱者の声が拾い上げられず、やはり植民地時代からの力関係にとらわれてしまう結果になりうるだろう。
先ほどから、オリエンタリズムは、種的同一性に基づく近代支配のテクノロジーを内包しているとして批判してきたが、この種的同一性を利用した語りというのは、何も支配する側だけが用いるわけではない。というのは、植民地時代以降、例えば多くの独立運動の中で本質主義的な「われわれの伝統的な文化」というものが主張され、その独立しようとする社会の構成員たちは均一にその文化というものを背負う部分であるというような語りがしばしば見られた。また、「伝統的な文化」を商業、すなわち観光のために利用することもよくある。つまり、文化や民族という枠組みが、マイノリティ集団の政治的アイデンティティを主張する手段になっているのだ。ここでは、独立を目的とするか否かに関わらず、マイノリティ集団の政治的アイデンティティの主張をナショナリズムと呼ぶことにする。
確かに、オリエンタリズムで批判されたのは「種的同一性に基づいた近代支配のテクノロジー」であり、その根底をなすのは本質主義的な語り口であった。しかし、ここで、福井は以下のような問題提起を行っている。「だがそれまで表象される側だった人々が、その語り口を用い出すことに対して、人類学はどう対処すればいいのだろうか。」(福井 2000:121)
太田は「誰がどのような状況において本質主義を唱えているか」という発話のポジションをめぐる考察を度外視して、すなわち本質主義をひとつのロジックとして批判するわけにはいかない、と言う。(太田1998:145)現地の人々が自分たちの文化を主張する際に、逆に西洋/東洋という二分法を利用することがよく見られるが、これを本質主義であると退けてしまえば、それは新たな植民地主義であると非難されるだろう。(太田 1998:10)つまり、この状況を利用して東洋が自らを語ることまでも否定してしまうと、ようやく東洋が手に入れた発話のスペースを取り上げることになってしまうのではないかと言うのである。
また、これまで西洋/東洋という二項対立を軸に話を進めてきたが、栗田が議論の中で扱う中心/周辺という二項対立をこれと置きかえて考えることができる。栗田は「現代の世界システムの周辺部に位置する人々は、中心部に依存するという形でしか世界システムの中で生きていくことができない。」という状況が現実に存在し、このような状況を一気に改善する方策は今のところ存在しないことも否めないという。そこでは中心への依存が周辺の周縁性をさらに強化してしまうという悪循環に陥る危険性を認めつつも、周辺部は逆にその周縁性を武器にして、中心に抵抗する戦略を採用せざるを得ない。よって「その周縁性を一方的に剥奪することは現代世界からの締め出しを意味する。」と主張する。(栗田 1999:147)
歴史的、時間的にみると、西洋がこの種的同一性に基づくテクノロジーにのっとって東洋を語り、かつ東洋のイメージを利用して帝国主義的抑圧を行ったという過程を通過したことで、現在の文化状況が生み出されたことは明らかである。そういった状況の中で、東洋が本質的な東洋の存在を否定し、かつ東洋という枠組みのもとで自らの文化を語る権利を主張するための選択肢は限りなく少ないように思われる。つまり、彼らが利用したのは西洋がひいた境界線なのだ。西洋/東洋または帝国/植民地の境界線を引くという行為が反省されるポストモダンの時代になっても、この暴力的に引かれた境界線をなかったことにすることはできない。
松田はこういったナショナリズムにおける本質主義的な語りを、「暫定的に本質主義を活用するという戦略的本質主義」(松田 1996:38)と呼ぶ。被植民地側は、まず戦術として敢えてオリエンタリズム的な西洋/非西洋という自己と他者の境界線を設定する。つまり、被植民地の人々が、自らを本質的に文化状況的弱者であると認めるのである。そして、その弱者というまとまりの下で、文化創造を行うのである。
ここで本質的に弱者であるということを認めるというのは、上のような文化状況に置かれた自らのポジションを認め、それに暫定的に依拠するという立場をとる、ということである。(松田1999:14)なぜなら、文化状況的弱者であることを否認することは、現在の文化状況を生み出した植民地化といったこれまでの歴史を否定することにつながってしまう結果に陥るからである。つまり、西洋によって引かれた境界線を消去するのではなく、それをとび越えるほうが有効であるという判断をするのだ。ここで本質主義を暫定的に利用するのは、そのしたほうが都合がいいからであり、それがアプリオリでエッセンシャルだからではない、と松田はいう。(松田1996:39)よって、ナショナリズムにおいて便宜的に使用する本質主義は、ポストモダン人類学が批判してきたような本質主義とは一線を画しているのであると松田は主張するのだ。しかも、この戦略的本質主義における弱者のまとまりは、あらかじめ境界やカテゴリーを想定したものではない。これは便宜的な対応をする中で生まれる暫定的なアイデンティティである。(松田2001:145)すなわち、「民族」や「国民」といったタームも西洋に対抗する戦略として利用しているだけであるというのである。
確かに、松田の戦略的本質主義は、弱者が弱者の立場を利用して、強者に対抗しなければならないような世界システムの前では有効であろう。しかし一方で、戦略的本質主義を主張する松田自身が、文化という概念は、人間を一括りに分節し均等化する、抑圧的な力を秘めていることを認識していることや、(松田2001:125)民族的マイノリティという集合化によって、内部の差異化に歯止めをかけてしまうことは、一種の帝国主義であると述べていることから分かるように、(松田2001:144)ナショナリズムに対しては曖昧な態度をとっているように思われる。それというのも、この戦略的本質主義に基づくナショナリズムには大きな落とし穴があるからであろう。それがマイノリティの対抗的アイデンティティであろうと、その手段の内部にある異質性や多様性の抑圧を招いてしまうという落とし穴である。(小田2001b:302)というのは、あるディスコースに対して、同じ語り口でカウンターディスコースを形成するだけでは何の解決にもなっていないという、サイードが『オリエンタリズム』執筆時に気付いていた問題が、まだそこには存在するのだ。(サイード1993b:286)つまり、ナショナリズムのディスコースでは自らを本質主義的に定義してしまうがために、それがたとえ便宜上の本質主義であっても、種的同一性に基づく近代の支配のテクノロジーを抜け切れられない、と小田は指摘する。(小田1996:827)この小田の指摘をオリエンタリズムとそれに対するオクシデンタリズムを例に検討していきたいと思う。
「オクシデンタリズム」の定義は様々だが、今回はこれを、東洋が自らを語るというナショナリスト的な本質主義に基づいた、東洋からのオリエンタリズムへの対抗というように定義していこうと思う。いいかえれば、「オクシデンタリズム」には常に前提としてオリエンタリズムがあり、オリエンタリズムと同様の種的同一性による支配のテクノロジーが働いている。そこでのオクシデンタリズムは単なる「エスノセントリズムにおける自/他の二分法」という認識論でない。よって、オクシデンタリズムを読む際にはオリエンタリズムと同様に認識論的側面と政治的側面を切り離すことができない。いまこの論文中では以上のような「オクシデンタリズム」の定義を採用したいと思う。
小田も、「オクシデンタリズム」を、東洋人という全体を、悪であり加害者である西洋と言う全体に抵抗させるものであるというとらえ方をしている。(小田1996:827)つまり、小田もやはりオクシデンタリズムにはオリエンタリズムと同様の、種的同一性による全体化の装置が働いているというのだ。よって、本論文中で使う「オリエンタリズム」と小田の言う「オリエンタリズム」が同様のものであると言える。
小田は「種的同一性による国民国家からなる世界システムが閉じられたとき」つまり「国家」や「民族」という枠組みによって、人間がカテゴリー化されているとするような世界観があるとき、「そこでの抵抗は、東洋人自身が東洋を脱しようとするようなオリエンタリズムそのものの内在化であっても、逆に東洋人という全体を悪であり加害者である西洋という全体に対抗させようというオクシデンタリズムでも、結局、アイデンティティの政治学に陥ってしまう。」(小田1996:827)と言う。なぜなら前者の場合は東洋自身が、西洋によって本質的とされた東洋のイメージを抜け出そうとすることであり、後者の場合は東洋自身が、西洋によって本質的とされた東洋のイメージを語ることであり、そこでは近代オリエンタリズムの『優勢に立つ西洋/劣位にある東洋』という境界線が前提となっているからだ。よって「それらの抵抗は、近代の支配テクノロジーを少しも変えることはない。」と言う。(小田1996:827)なぜなら、近代の支配のテクノロジーが強固であるのは、今も続いている帝国主義の認識論に抵抗しようとする被抑圧者の側の抵抗や抗議もまた、それが戦略的に本質主義を利用しているにしても、同じ近代オリエンタリズムの「優勢に立つ西洋/劣位にある東洋」という二分法を使って文化を語る方法に依拠してしまうからなのである。(小田 1996:827)よって、この種的同一性に基づいたオクシデンタリズム的な語りをオリエンタリズムに対する抵抗としてとらえるのでは、結局「近代支配のテクノロジー」を脱却することにはならない。
サイードの批判したようなオリエンタリズムにおいては、強者の西洋/弱者の東洋という二項対立が主な語り口であった。しかし、植民地時代以降においては、東洋が発話のポジションを手に入れたという状況がある。
少々乱暴なくくりをすると、ポストモダン以前では文化を語るのは西洋の側であった。ポストモダンでは、オリエンタリズムの反省からオクシデンタリズムのように非西洋が自らを語るようにもなった。非植民地のエリートたちは自分たちの文化を本質的に定義し、西洋に対抗する戦略としてこれを利用した。戦略的本質主義は、松田の言うように弱者の戦略的なものであるという点で、一般に言われる本質主義と区分した方が良いかもしれない。しかし、それでもやはり、小田が言うような意味では同じ近代のテクノロジーにはまっている。
この章を締めくくるにあたり、福井の問題提起に立ち戻りたいと思う。以上にみてきたようなナショナリズムを人類学はどう扱うべきなのだろうか。人類学者が、現地人の行うことは全て支持するという「現地人の支援」を人類学者の責務とし、土着主義的な民族主義によるナショナリズムを被植民地の人々の主体的なアイデンティティの確立として支持してしまうと、現地からの語りの全ては一元的な政治的抵抗の物語であるという解釈につながってしまう。したがって、被植民地の人々を近代の支配のテクノロジーの次元に押し込めてしまうという結果になるのである。松田の戦略的本質主義の議論も、そこで本質主義的な語り口を利用する意図とオリエンタリズムにおいて本質主義的な語り口が利用された意図とが異なることを指摘した点と、そこでいう弱者のまとまりは便宜的につくられたものであることを指摘した点で興味深いが、結局、戦略にせよ種的同一性の語り口を使って弱者のまとまりを全体化することは、近代支配のテクノロジーを強化するはめになる。
そればかりではない。ナショナリズムという事象においては、民族や部族といった人類学的タームによって、内部の多様性が無視されてきたことも批判されるべきなのだ。例えば、ナショナリズムの指導者的立場にいる現地のエリートという存在を考えてみると、彼らはオクシデンタリズムによって西洋には自分たちの文化を主張したりするが、必ずしも現地の村人たちは現地のエリートと同じポジションに立っているわけではない。(吉岡2000:15)現地の人々全てに、「文化」という枠組みが押し付けられることよって、個人はその集団の文化に拘束され、その文化に沿って振舞うことが期待されてしまう。以上のことから、人類学はナショナリズムとは別の形で現地からの声を聞き取る方法を探して、進まなければならないのではないだろうか。
W.想像の共同体
ネーションや、エスニシティのような近代の民族的アイデンティティは、「種的同一性」ということができる。それは「身分や職業などに基づく個と個の関係を飛び越えて、個人と全体としての共同体を直接に結びつける。」(酒井1996:173)例えば、日本人は日本人であるがゆえに、たとえ直接会ったことも、話をしたことも、噂を聞いたことすらなくとも、他の日本人と「日本人」という種的同一性を媒介にして、同じ共同体に結びつけられている。こういった抽象的な共同体は、ベネディクト・アンダーソン(1987)の、近代の「想像された共同体」と呼べるだろう。「想像の共同体」とは、自分たちという共同体が、目で見たり耳で聞いたりする可能性の範囲を超えているにもかかわらず、明確な境界によって限定されている共同体のことだとアンダーソンは言っている。(アンダーソン1987:17)よって、民族や国家だけが「想像の共同体」であるわけではなく、アンダーソンの定義で言えば、日々顔をつき合わせる原初的な村落より大きい全ての共同体は想像されたものであるといえる。(アンダーソン1987:17)いま、種的同一性を媒介にしたような共同体を敢えて、近代の「想像の共同体」と呼んだのは、種的同一性を媒介にしないような、例えば親族関係や主従関係といった個と個の関係の延長として、社会の網の目の中で想像された共同体と区別するためである。アンダーソンが言うように、「想像の共同体」はそれが想像されるスタイルによって区別されるのだ。(アンダーソン1987:17-18)近代の「想像の共同体」において媒介となっているのは種的同一性である。よってその構成員は一枚岩の文化の共有者であるとみなされ、個は全体の部分に過ぎないとされる。とくに、近代では、この共同体は、言語政策や、「民族史=国民史」という歴史の恣意的な読みなどによる規律を通じて作られるようである。(アンダーソン1987:90-140)これに対し、アンダーソンはそれとは異なる想像のスタイルで出来上がった共同体の例として、王国を挙げている。王国においては、想像の根底をなすのは王と臣民の主従関係である。つまり、一度もであったこともない人々と自分とを結びつける関係は個と個の主従関係の延長であって、その全体はそれらの関係の連鎖をたどって広がる不明瞭な網の目として想像されているというのだ。(アンダーソン1987:37)こういった種的同一性に基づかない、個と個のつながりの延長として想像されるような共同体のあり方に注目することで、近代支配のテクノロジーからの脱却の可能性を見出そうとする試みが、最近注目されるようになった。全世界で国民国家が形成されている今日でも、このような「想像の共同体」が全く過去の物になったわけではない。人々は個と個のつながりに基づいた、いわば〈顔〉の見える「生活の場」においてこのような共同体を想像していると小田は言う。(小田1996:858)ならば、ナショナリズムと異なる語り口で近代支配のテクノロジーに対抗するための鍵が「生活の場の人類学」(小田1996:863)にかくされているのではないだろうか。
X.「生活の場の人類学」
先に述べたような近代の「想像の共同体」の文化に対して、小田は〈顔〉と〈顔〉のつながりによる「生活の場」において、人々が真正としている文化に着目すべきだと言う。「生活の場」において意味や機能の一貫しない断片を臨機応変に組み合わせてちぐはぐな相対を組み立てる民衆文化のあり方を、小田はレヴィ=ストロースの唱えた「ブリコラージュ」の概念と重ね合わせて、「ブリコラージュ戦術」と呼ぶ。(小田1996:848)
ブリコラージュbricolageとはフランス語で「日曜大工」といった意味でつかわれ、素人がありあわせの材料で何とかすることである。また、ブリコラージュを行う者はbricoleur(日本語では器用人)と呼ばれ、くろうととは区別される。(レヴィ=ストロース1976:22)レヴィ=ストロースは、今ある状況に対して、もちあわせの道具と材料で何とかするのが器用人であると言う。そして、そのもちあわせの内容構成は、目下の計画にも、またいかなる特定の計画にも無関係で、偶然の結果出来たものである。(レヴィ=ストロース1976:23)言い換えれば、そのもちあわせの材料と道具は、今ある状況において役に立つが、別の機会には役に立たなかったり、異なる使い方をされたりすることになる。また、そのようにして作り出されたものですら、別の機会には道具や材料として使用されうる。
小田は「生活の場」において、人々はブリコラージュ的活動を行っていると言う。つまり、人々は、全体の計画を考えることなく、文化をその時々の生活の便宜によって作り出したり変えたりしていく。その融通性のある活動が、器用人がありあわせのもので都合のいいようにブリコラージュをする活動と重なると小田は主張する。(小田1996:848)
さらに、器用人に対する存在として、レヴィ=ストロースは技術者ingénieurを挙げる。技術者のやることには、全体を想定した計画と規定があると彼はいう。(レヴィ=ストロース1976:23)つまり、それぞれの材料や道具はその全体を完成させるための部分であると言える。レヴィ=ストロースは技術者を、常に全体を想定する近代知の代表として描いていると思われる。また、小田の議論では種的同一性に基づく西洋や現地のエリートの語りが、常に全体を想定する近代知にあたるだろう。ここで、技術者のやり方とは異なった、器用人のブリコラージュは、脱近代知の可能性を含むものであると言うことができるだろう。
また、レヴィストロースは、直接的なコミュニケ−ションを基礎とするような、顔の見える関係でつながる小規模な社会が真正な社会であり、国家や民族のように、法や貨幣やメディアに媒介された間接的コミュニケーションによって結ばれる大規模な社会は非真正な社会であるという。(レヴィストロース1972:411)この議論は、個と個を結びつけるものが何であるかという視点から、アンダーソンの「想像の共同体」の議論と関連させて考えることができるだろう。すなわち、アンダーソンの言う、近代の想像の共同体は、言語政策や、「民族史=国民史」という歴史の恣意的な読みなどによる全体を貫く規律を通じて作られるので、(アンダーソン1987:90-140)非真正な社会であるといえる。一方、それと異なった想像の仕方によってできる共同体は、全ての共同体の構成員と直接コミュニケーションをできるわけではないが、〈顔〉の見える個と個の関係の連鎖によって広がる網の目のような共同体であるので、真正な社会であるといえる。
確かに、レヴィストロースはコミュニケーションが直接的か、間接的かを真正/非真正の基準としたが、上の議論から、コミュニケーションの形態よりも、その共同体の想像のされ方のほうが、真正/非真正の基準にふさわしいと考えられる。
よって、小田はブリコラージュを行うような真正な社会における文化のありかたに、近代知からの脱却の可能性を見出すのである。(小田1996:855)
いいかえるなら、文化の真正さ/非真正さはその文化の発生の仕方によると言えるのではないだろうか。つまり、種的同一性に基づいた文化の発生の仕方は、共同体の全体の枠組みを想定し、そこに「伝統」といった類の共同の文化を被せることである。このとき、この共同体の構成員は全体に対しての部分であり、一様に共同の文化を持つとされる。いすなわち、全体と個は拡大・縮小の関係にあると言えるだろう。つまり、この発生の仕方において「文化」は与えられるものであり、共同体の共同意識を生み出す装置でもある。よって、これを近代の想像の共同体における「非真正な文化」の発生の仕方ということができる。
これに対して、《顔》と《顔》のつながりの中で発生する文化は、個と個の関係を基礎としているので、その関係に都合のいいようにつなぎ合わせられる。その時点で都合のいい要素をつなぎ合わせることで発生する文化は、よって一貫性がなく、融通の利くものである。共同体は、個と個のつながりの延長であり、不明瞭な網の目としてあらわれる。これを生活の場における「真正な文化」の発生の仕方と呼ぶことができるだろう。
ナショナリズムにみられるような、現地の人々が自らの文化を主張する行為を非真正であると言ってしまうことは、彼らが現在主張する文化は偽物であり、ナショナリズム以前にはあたかも真正な文化があったと想定する本質主義的な主張であるととらえられるかもしれない。しかし、ここで言う真正さとは、決して近代以前の小規模で閉じられた過去のものというわけではない。なぜなら真正な文化が生まれる生活の場というものも植民地時代を経た現在の混沌とした文化状況の中に存在するからである。つまり、ナショナリズムおける非真正さとは、そこで主張される文化が偽物であるということを言いたいのではなく、その「文化」の発生の仕方が、非真正なのだということである。小田は、ポストモダン人類学は、文化の「真正さ」全てを本質主義として退けることによって、人々が生活の場においてその都度認めている生活の文化の「真正さ」をも否定してしまうという代価を払っている、と言う。(小田1996:841)つまり、反本質主義を唱えるだけでは、生活の場における文化の発生の仕方と、ナショナリズムにおける文化の発生の仕方とを同一のレベルで扱うことになり、ブリコラージュによる脱近代支配のテクノロジーの可能性を見えなくしてしまうのだ。
Z.日常抵抗論とブリコラージュ戦術
松田は、被植民地の人々は、文化的に弱者であるという状況の中で、日常の生を能動的に生きぬく創造的主体であるというとらえ方をしなければならないと主張する。(松田1996:41)いいかえれば、被植民地の人々は、今ある日常の状況のなかから、自分の都合のいいように選択し、つなぎ合わせて文化を創造しているといえるだろう。例えば、松田は西ケニアにおける伝統的死霊観念とキリスト教の混交を取り上げている。(松田:298)彼らは、暴力的に強制されたキリスト教に、動物供犠を取り入れることによって、教義を修正し、会衆全員の前での告白や激しいダンスの最中の精霊憑依によって、信仰形式を揺さぶった。(松田:301)植民地支配におけるキリスト教は、疑いもなく、圧倒的強者として立ち現われた。被植民地の人々は、この強者の暴力そのものを、いったんは受容し、そして自分たちに都合のいいように読みかえていったのである。つまり、暴力による強制という必然を、彼らは巧みに範列化し、便宜的に選択するという生活戦略をとったのである。(松田:302-303)こうした日常の生のなかで、被植民地の人々が主体的に創造することを、松田は支配文化のテクノロジーに対する「抵抗」であるととらえる。(松田1998:297)それは、従来の組織的で、原則があり、支配権力と正面から向き合うような抵抗像とは異なった、(松田1998:296−297)普通の人々の示す屈服と受容の中に潜んだソフトな抵抗であり、日常の微細な生活実践の中に盛り込まれたミクロな抵抗であると、松田は言う。(松田1998:297)つまり、この日常的な抵抗は、組織だったナショナリズムとは異なる抵抗の手段だと考えられる。よって、被植民地の人々が、文化的弱者であるという状況のなかで行う主体的創造は、それが明らかな抵抗の形を取っていなくても、全て「日常的抵抗」になるのだ。なぜなら、松田のいう抵抗論においては、彼らの日常の生は常に、近代支配のテクノロジーが生み出した文化状況に包括されていることを前提とするからである。
ここで、戦略的本質主義において、西洋の支配的な言説に対抗するために非植民地側が戦略として本質主義的な語りを利用したことを思い出してみよう。確かにそれは、植民地側にとって「追い詰められた末の苦肉の選択」(松田:38)であったかもしれない。今ある状況を逆手にとってその弱者的立場を暫定的に利用したアイデンティティの確立だということもできるだろう。しかし、種的同一性に基づいたオリエンタリズムに対抗するために、同じ種的同一性の語り口を使うナショナリズムでは、近代支配のテクノロジーを脱却するにいたらなかった。ところが、日常抵抗論では、一方に日常微細なミクロな生活実践を置き、他方に近代の支配のテクノロジーといったマクロな支配の枠組を対置することになる。(松田1999:10)すなわち、被植民地の人々の日常における主体的創造に注目することで、種的同一性に基づいたナショナリズムとは異なる形態による、近代支配のテクノロジーへの抵抗の可能性を見出そうというのである。
この日常的抵抗論に対する最も一般的な批判は、何が抵抗で何が抵抗でないのか、あまりにもあいまいだということである。例えば「ある農民がお金をちょろまかす」という場面を想定してみる。このとき、少なくともその農民には、地主を頂点とする社会秩序に抵抗するという意図はなかったはずだ。それを、単なる生きるための手段ではなく、弱者の強者に対する抵抗であるとみなす必要があるのだろうか。ここで、松田が抵抗ととらえているものは、非植民地の人々による多様な変革の過程への主体的関与である。なぜなら、この変革の過程では、支配秩序とのせめぎあいが必要なので、そこに関与することは支配テクノロジーに対する抵抗となるのである。(松田1999:14)すなわち、圧倒的強者の暴力に屈服しながらも、よりよき生を求めて内部からそれを微細に変質させていく個人の生きかたこそ主体的で創造的な弱者の抵抗だというのだ。よって、本人の抵抗の意思の有無に関わらず、創造的主体として存在することが抵抗になると考えられる。
それでは、本人の意志のないところに「抵抗」を読み取ることに問題はないのだろうか。例えば、初期のサバルタン研究においてグハは「サバルタン」と呼ばれる文化的弱者のいわゆる「声なき人々」も、反乱を起こすにあたって「しっかりと動機を持ち、意識的に起こした」(グハ1998b:28)ことを証明しようとした。つまり、彼らなりの歴史を創出する「意識」や「主体性」があったことを証明しようとしたのである。(グハ1998a:11−21)つまり、グハはサバルタンにも「主体性」があることを強調し、我々と同じ主体性を持った行動を歴史の中から救い出さなくてはならないという立場をとる。これに対して福井はこの姿勢を、当該社会の人々を自分たちと同じような理性的意志をもった行為主体として再構築しようとしているのだと批判する。(福井2000:122)
ここに、松田の日常抵抗論の危険性を見ることができる。それは、日常抵抗論において、被植民地の人々の行動に「抵抗」というラベルを貼ることで、彼らの日常におけるささいな行動を「抵抗」という近代知的なレベルで再構築していると批判される危険性である。「日常に生きる名も無き人は、基本的に『世界規模のシステムに抑圧されている』とか『それに抵抗している』とかいう意識はなく、こうした意識をもたない点にこそ断片性の特質が現われている」(吉岡2000:28)と、吉岡が指摘するように、現地の人々は世界システムのような全体を見通すことができないゆえに、近代知とは異なる思考をするというのが生活の場に注目する人類学の始まりであった。日常抵抗論では、それをどうして世界システムに対する「抵抗」と読む必要があるのか、という批判が考えられる。
この批判に対して回答するために、まず、もう一度松田の「抵抗」の概念を思い出してみよう。支配のテクノロジーに絡めとられた日常の中で、人々が行う主体的創造が「抵抗」であった。ここでいう「主体性」には、現地の人々を自分たちと同じような理性的意志をもった行為主体として近代知のレベルにのせるためのキーワードとしての意味はない。なぜならば、松田の言う主体性とは、「自分たちの都合のいいように選択する」ことであり、それは近代知を指すものではない。よって、このような主体的創造、すなわち「抵抗」の捉え方は、決して現地の人々の断片性を損ねるものではないといえる。彼らの主体的創造が世界システムと対峙するのは、彼らが支配のテクノロジーに包括された日常の中で、そのテクノロジーに基づかないやり方で、アイデンティティを構築しているからである。
さらに、ある行為に対してそれが「抵抗」であると判定・認定するのは観察者の特権であり、観察者の政治性を無視しているという批判も考えられる。このような批判に対して、松田は次のように反論する。
観察者と現地の人たちとのあいだにある不平等な力関係に関して言えば、確かにそれは「現地の人々の視点から」を合言葉にした民族誌研究がバッシングを受ける材料となった。そして、その力関係を暴露することは必要なことだったと言える。そして、その力関係の暴露の結果、対象社会と観察者とのあいだには構造的な不平等と絶対的な断絶が存在するというのが暗黙の了解になった。しかし、その断絶は固定化され、相互の交通を遮断することになってしまう。この権力関係の壁を目の前にして、立ち止まっているのが現在の人類学である。松田は「しかし、そこにとどまっていて何が生み出されるのだろうか。」と言う。彼は人類学はイデオロギー暴露の次のステップに進まなくてはいけないと主張するのである。(松田1999:15)例えば、この断絶の壁の前で、創造的主体の行う好意の全てを抵抗ととらえることは人類学者の願望すぎないと言うとき、「抵抗」は現地の人には閉じられてしまう。つまり、現地の人々の行うことを観察、あるいは分析・記述することで、支配のテクノロジーに抵抗できるのは、観察者である文化人類学者だけということになってしまうのである。(松田1999:16)
松田の議論に対する以上の批判点を乗り越えた上で言うならば、日常抵抗論において松田が言う、弱者であるという今の文化状況における「日常の生」(松田1996:41)とは、小田の言う、決して支配的文化や支配関係の力学から無垢の場ではない「生活の場」(小田1996:849)と置きかえることができるだろう。また、被植民地の人々の、今ある日常の状況のなかから、自分の都合のいいように選択し、つなぎ合わせて文化を創造するという主体性、すなわち「日常的抵抗」(松田1998:297)は、小田の言う、与えられた文化的表象の諸々の断片を、あらかじめ統合的な全体から規定されたもともとの意味など考慮せずに、(あるいは考慮できずに)、臨機応変につないでちぐはぐな総体をつくりあげる「ブリコラージュ戦術」(小田1996:849−850)と通じるものがある。つまり、「日常的抵抗」も「ブリコラージュ戦術」も、支配文化の言説に包括されながらも、それを逆手にとってこの言説を脱構築していくという点で類似している。よって、これらの戦術は「全体化への抵抗」となり、種的同一性そのものの脱構築になりうると言えるだろう。
[.結び
これまで述べてきた近代知に抗する「ブリコラージュ戦術」や「日常抵抗」は決して私たちが失ってしまったものではない。なぜなら、いっけん豊かで自由な社会に生きているように見える私たちも、じつのところ不可視の近代支配の網の目にからみとられて生きている。(松田1999:255)よって、私たちもこのような日常に生きる同じ生活者としてこれらを共有しているのである。(小田1996:864)
松田はこれからの人類学に向けて、人類学者がフィールドワークで得る「実感」を語ることを重視しなければならないと言う。(松田1999:250)なぜならば、その実感の源は、人類学者と現地の「生活者の地平」の共有であるからであり、この視点によって、立場や住む世界の違いはそのままにして、生活を包み込む支配への抵抗と日常の創造に対して、両者が共に関与することが可能になると松田は言う。(松田1999:250)確かに、私たちもいち生活者として、われわれの「生活の場」においてブリコラージュを行っているのかもしれない。しかし、そのわれわれが研究者としてフィールドに乗り込んだときに、そのまま「生活の場」を持ち込むことが可能であろうか。実感の人類学を提唱する松田でさえ、現地の人々が行う主体的創造を世界システムに対する「抵抗」であると捉える。これが意味するところは、松田は研究者として世界的な政治・文化状況を見渡せる「近代知に囚われた存在」であるということである。一方、現地の人々は世界システムという全体を見渡すことなどできず、ただ今ある状況において自分たちの都合のいいように選択し、文化を創造しているだけである。このとき、研究者と現地の人々は同じ生活者であるということはできない。
一方、小田は、われわれが同じ生活者としてそれとは気付かずに実践している「ブリコラージュ戦術」を思い出すために、彼らの「ブリコラージュ戦術」を分析する必要があると述べる。(小田1996:869)その分析を通して、われわれも「生活の場」において、近代知にのっとった自己の首尾一貫した知識や意識から遠ざかることができるというのである。
現在のところ、被植民地の人々の「生活の場」や「日常」を分析することで見直すことができるのは、われわれの「生活の場」や「日常」だけである。研究者が現地の人々と同じ地平に立つためには、みずから科学的言説を用いる研究者であることをやめる以外に方法はない。(吉岡2000:27) フィールドワークを行うもののジレンマは、まさにここにある。ただの生活者として自らがフィールドで実感したことや、現地の人々と共感したことを、いざ研究者の立場として記述しようとしたとき、近代知に囚われる者になってしまうのだ。
「生活の場の人類学」に関わる人類学者にとって、研究者として現地にどのようなポジションをとってコミットしていくかが重要になるだろう。研究者とは近代知に囚われるものであるということと、ただの「生活者」としてなら彼らと同じ地平に立てることは矛盾することではない。「生活の場の人類学」によって、研究者が自らは何者であるかを問い直すことができるなら、それが人類学の新たなスタートになることはまちがいないであろう。
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