「カナダのインディアンについて」

 

1.     始めに

2.     先住権

3.     インディアン政策の変遷

@東部カナダ@)フランス領時代

      A)イギリス領時代

A西部カナダ

B自治領カナダ時代

4.     現代のインディアン

@   雇用

A   条約

5.     結論

 

1.    始めに

   先住民と、その土地に後からやってきた者との間の争いは人類の歴史上至る所で繰り返されてきた。南北アメリカ大陸、オーストラリア、ニュージーランド、インドネシア、中国など、こうした争いが起こっている地域を例に挙げるときりがないほどである。

 これらの争いはその内容や、そこで主張されている権利の内容などが多岐にわたっており簡単に述べることは出来ないが、カナダを含む北米のインディアンに関して言えば、彼らは昔植民者達から土地を不当に取り上げられたのであるから、政府が土地を返還するか、もしくは経済的な保障をすべきであるという論争が近年特に盛んである(加藤 1996249)。

 そしてインディアンに対して土地を具体的にどうにかする、というこうした議論のほかにも、インディアンと周辺住民の間には様々な問題が起きている。例えば、ブリティッシュコロンビア州では政府認定インディアンであるマスクィアムの居留地で、インディアンが非インディアンに課している住居の家賃の値上げを巡り、現在周辺住民と論争になっている。他に議論をかもし出しているのは、政府の予算つまり国民の税金が毎年先住民に費やされるという事実であり、199910月から20009月の1年間私がカナダにいた間にも何度か新聞で大きな見出しを飾っていた。

 けれども後で述べるがカナダでは憲法で先住民の権利が保障されている場合があり、上で例に挙げた他の国々に比べると先住民問題に取り組む姿勢は特筆に価するものがある。

 先住民問題については先進国であるカナダの事例を考察することが世界の他の地域で起こっている様々な先住民をめぐる問題の解決の糸口になるのではないか、と仮定してここでは、カナダがインディアンに対して過去にとってきた法的措置やインディアンと白人入植者との関係などを振り返り、現代のインディアンが置かれている状況と併せて、この争いの背景にあるものと今後の方向性を探ることを主な目的とする。しかしここで注意しなければならないのはカナダでは依然としてインディアン(現地で言うところのFirst NationsV.S.カナダ人(その他のカナダ人)という2つの決して交わることのないカテゴリーが存在するということである。この現実の背景を探ることもこの論文の目的の1つであり、そこからどのようにして現在非インディアンのカナダ人とインディアンの間にあるギャップを取り除くことができるか、を見ていくことにしたい。 

 ちなみに、カナダの先住民といった場合、4つのグループに分類される。1つめは政府からインディアンとして認定されているインディアン。2つめはインディアンとフランス系カナダ人、あるいはスコットランド系の混血であるメティス。3つめは文化的・社会的・人種的にはインディアンでありながらインディアンとして認知されていない「インディアン」。そして4つめはイヌイットである。認定インディアンはニューファンドランド州以外の全ての州と準州に、メティスと非認定のインディアンはカナダ全域に、そしてイヌイットはニューファンドランド州のラブラドル地区、ケベック州北部、北西準州に定住している。連邦政府のサービスの対象は認定インディアンとイヌイットだけである(加藤 1984179180)。しかし1867年にインディアン法が成立した当初は、インディアンは連邦政府の管轄で、イヌイットは州の管轄であった。イヌイットが連邦政府の管轄になったのは1939年の最高裁判書判決においてである(スチュアート 1997:114)。

 ここで私が取り上げるのは1つ目の認定インディアンと3つ目の「インディアン」である。認定インディアンが誕生したのは1876年のインディアン法においてであり、それ以前はインディアンに区別はなかった。したがって第4章で述べるインディアンは認定インディアンを指すが、それ以前にインディアンといった場合は認定インディアンと認定されていない「インディアン」両方を指すものとする。

 

2.    先住権

   カナダのインディアンをめぐる問題はその多くが先住権についてのものである。それでは、インディアンが生得権であると政府に主張している先住権とはどのようなものであるのか。先住権という世界共通の定義があるわけではなく、その内容は論じる人によってまちまちである。スチュアート・ヘンリは彼の論文の中で次のように述べている。「先住権とは一般的には、国民一般が享受しない、公民権とは別の、先住民族の構成員のみに認められる特別な権利のことである。その内容には具体的に、自治権、土地権、教育権(民族の状況に対応した、自民族出身の教員による、自民族の言語での教育を受ける権利)、生業権(採集、狩猟、漁労などの伝統的生業活動を行う権利)、そして言語権(裁判、行政サービス、教育などにおいて公的に自民族の言語を使用する権利)などが含まれる。しかし、これら全てが含まれた先住権がある民族に認められた例は今までに存在しない。」(スチュアート 1997243

 1993年の国際先住民年に向けて、1992年末にニューヨークの世界先住民会議で採択された宣言には「先住民には、世界人権宣言に明記されている自決権がある。よって、政治、経済、社会、精神と文化に関する、すべてのことに対処する権利は先住民自らにある。」と書かれている(スチュアート 1997231)。

 前者に関して言えば、言語権と教育権、そして国際条約によって保護されている一部の生物以外を対象にして生業権もカナダの北西準州ではすでに認められている。1990年に修正された北西準州公用語法では英語、フランス語のほかに7つの民族語や方言が公用語とされている。準州議会の討論や、法律、裁判、公的文書は9つの言語を使うことになっているし、民族出身の教員の数も徐々に増加しており、各民族ごとに教材も少しずつではあるが整備されている(スチュアート 1997244)。

 そして、土地に対する先住民による管理と利用権は、北部カナダのイヌイット、同準州のサトゥー、グィッチンなどのインディアンにはある程度認められている。が、これらに共通する特徴は、いずれもマジョリティ社会にとって利用価値が低い土地であり、国家の領土権および、主権が損なわれない範囲において、部分的に権限を先住民に与えていることである(スチュアート 1997242)。

 マジョリティ社会の利用価値が高い土地においては先住民の土地権はまだまだ反対意見が多いのが現状である。こうした反対意見の主なものは、先住民のみに土地権と自治権を与えることは不公平であり、その他大勢のカナダ人に対する逆差別であるというものである。しかしこうした反対意見を唱える人達は重大なことを忘れている。それは先住民が先住民たる所以、すなわち彼らが白人入植者より最初にアメリカ大陸に存在したと言う事実である。彼らの大陸に後からやってきた白人と先住民はその点において確実に立場を異にするのであり、決して同等に扱われるべきではない。しかし、先住民に先住権を与える根拠として次に引き合いに出されている世界人権宣言は、自決権だけでなく全てのひとは平等であるとも述べている(アムネスティ・インターナショナル 199815)。

 全てのひとが平等ならば先住民を特別扱いすることは間違っているのではないだろうか。このように先住民と先住民が持つとされる先住権をめぐる議論が矛盾してしまうのも、この問題の複雑さ、根深さを物語っていると言えよう。さらにこうした従来からの議論に加えて近年アルバータ州のインディアンがシチズンプラスという新しい考え方を提示した。これはすなわち先住民として生きるか、もしくはこれらの権利を受けずにその他のカナダ人と全く同様の扱いを受けて生きていくかどうかを選択する権利は先住民自らにあるとする考え方である(加藤 1996252)。

 ここから言えることは、始めにも述べた通り、先住権の内容はそれを主張する人の考え方や社会的な立場に大きく依存し、一まとめにできるような問題ではないということである。

 

3.インディアン政策の変遷

   カナダの領土は、フランス領時代、イギリス領時代を経て、自治領カナダ、そして現在のカナダに至った。それぞれの時代において、インディアンと白人との関係や、インディアンに対する政策は異なるが、これらはインディアンと白人両者の互いの利益が変化するにつれて徐々に変わってきたものである。以下にそれぞれの時代におけるインディアン政策の変遷を述べるが、伝統的なインディアンの文化は口承であり、文字を用いて記録するということがなかったために、ここで使われている資料は入植者である白人の手によるものである。

@       東部カナダ

@)フランス領時代

   フランスが北アメリカ植民地に入植をはじめたのは1603年であったが、サミュエル・ド・シャンプランが1608年にケベック要塞を設け、ここがその後150年に及ぶフランスの北アメリカ統治のかなめとなった(大原 n.d.)。

 当時のカナダは今日のように広大だったわけではなく、ヌーベルフランスと呼ばれた現在のケベック州を含むフランスの領土の一部であった。当時の北アメリカにおけるフランスの領土は最大時で1713年のユトレヒト条約後のものと言ってよく、セント・ローレンス川、五大湖、ミシシッピ川流域などを含む地域であった(竹中 198421)。大西洋岸にはイギリスの植民地が隣接していた。

 フランス人入植開始直後のインディアンの数は、推測ではあるが北米全体で115万人ぐらい、うちカナダには22万人だったと言われており、フランス人より遥かに多かった(竹中198418)。

 フランス人は森での生活の術を学んだり、地図を作成するのにインディアンの協力が必要であった。一方、インディアンはフランス人との毛皮の貿易がナイフ・クシ・大釜・織物・などをもたらすと知り、お互いの利害の一致した両者の関係は驚くほど友好的なものだった、と言われている。彼らはお互いを対等な貿易のパートナーとして扱ったのである。

 フランスのインディアン政策はシャンプランの、インディアンを文明化すること、すなわちインディアンにフランスの慣習とフランス風のものの考え方を徐々に身に付けさせる、という宣言に基づいて行われた(Surtees 198882)。

 当時のフランスではインディアンは野蛮人であり、自ら文明の恩恵にあずかることができないので、キリスト教の教えによって救済する必要があるという考えが主流だった。シャンプランもこの考えにのっとり、まずインディアンにキリスト教を広めることによって西洋の価値観を植え付けようとした。彼は伝道師を派遣してインディアンのキリスト教への改宗を進めた。

 また、インディアンの村をフランスの植民地の近くに作り、そこにインディアンを住まわせることで、彼らがよりフランスに慣れ親しみ、「文明化」するようにはかった。文献には詳しい理由の説明はないが、インディアンがフランス人の近くに住むようになったことで、ブランデーの取引が始まり、これはインディアン社会に深刻な被害をもたらした。フランス人はブランデーがインディアン社会に及ぼしている悪影響に気付いていたが、ブランデーはインディアンの間では人気商品であり、もし取引を断れば、ラムを取引したがっているイギリスに、インディアンとの貿易を横取りされるという恐れから、こうした状況を見て見ぬふりをする以外になかった(Surtees 19888384)。

 ブランデーのほかにフランス人がインディアンにもたらした悪影響は疫病である。それまで外部の人々と接触することのなかったインディアンはヨーロッパで広まった天然痘や、はしか、インフルエンザ、赤痢などの伝染病に対する免疫性がなく、なすすべがなかった彼らはばたばたと倒れて行った(竹中 198439)。

 しかし、商業的にはフランスはインディアンと終始友好的な関係を築くことに勤め、後にはインディアンとの間に同盟までもを結び、やがてこれがヨーロッパ諸国との植民地の覇権をかけた勢力争いと結びつき軍事的な色合いをおびることとなる。

 ヒューロン族やアルゴンキン族と植民当時から取引をしていたフランスはこれらの民族と同盟を結び、こうした民族の長年の宿敵であったイロコイ族とは次第に対立するようになっていく(竹中 198425)。

 こうして一部のイロコイ族などを除いたインディアンはフランスとより密接な関係を築いて行った。しかし1763年の七年戦争でイギリスがフランスを破ると、フランスは北アメリカから撤退しなければならなくなり、フランスとの友好的な関係にすっかり慣れていたインディアンは、後に述べるがイギリスのまったく異なるインディアンに対する態度に憤りをおぼえ、密かにフランスの復活を心待ちにして武器や弾薬を蓄えるものさえもいたと言われている(Surtees 19888586)。

A)イギリス領時代

   七年戦争で勝利したイギリスは同年二月にパリ条約において正式にヌーベルフランスを獲得した。その後同年10月に国王宣言を布告し、この中で英領植民地間の境界を定め、植民地の運用、先住民政策、そして白人入植者と先住民との関係をまとめた。先住民の土地は国王以外の何者も彼らから得ることはできないし、国王でさえ彼らの土地を得るには条約を通してしか手段がないと定めたのも国王宣言であった。この国王宣言において先住民はその「独自性」を名目上は認められたことになる(加藤 199729)。

 しかしイギリスのインディアンとの関係は、それまでのフランスの友好的なものから一転して険悪なものとなった。ヨーロッパ本土で長く重宝されてきた毛皮の価値が徐々に下がり、また、植民地の交通整備が進むにつれて森林奥地でのインディアンの協力が必要ではなくなった。それとともにインディアンは対等な立場の貿易パートナーではなくなったためである。しかし急激な政策の転換の理由はそれだけではなく、イギリスと敵対するフランスと懇意にしていたインディアンに対する心理的要因もあったのではないだろうか。

 あるいは当時大英帝国としてヨーロッパに君臨していたイギリスの本国と植民地との関係が対等なものではなく、支配と従属の関係に置かれていたことに起因するかもしれない(長島 198963)。

 インディアン関連の問題を一手に引き受けることとなった国王直属のインディアン省は、軍事部門の一部であり、職員は軍事階級を身につけ、軍事的な演習を行うことになっていた。彼らはまた、インディアンを指導してフランスに戦争をけしかけさせる、という役目も担っていた。イギリスの高圧的な態度に憎悪を抱くインディアンは次第に増加し、これに応じたオタワの首長ポンティアックはイギリスに戦争をしかけインディアンの圧倒的なまでの軍事力をまざまざと見せつけた(Surtees 198888)。

 このことに加えて、インディアンがフランスとしばしば同盟を結ぶのはインディアンと土地と貿易に関する一定の制度がないからであると気付いたイギリスはインディアンと友好的な関係を築き、平和に共存する決意をすることになった(Tobias 1991128)。もちろんイギリスがインディアンと友好的な関係を築く理由が、単にこうしたインディアンの軍事力やフランスに対する外交的戦略だけであるとは考え難いが、文献には詳しいことは書かれていない。

 インディアンに対する態度を改めたイギリスは1763年にはインディアンの土地に非インディアンが入ることは貿易を除いては禁じられ、貿易においてもインディアン省が発行する特別なライセンスが必要だった。そしてこのライセンスを持つ者も長官とインディアン省の役人の監視のもとにしか貿易を行うことは不可能だった。しばしば配置換えで新しくインディアンの村にやってくる役人がインディアンとしょっちゅういざこざを起こしていた為に、こうした状況を何とかしようと特別な手引きが作成された。これらは、インディアンの村をたずねる際には、食糧を配給し、適切な贈り物を配り、適切な挨拶をすること、そして徐々に自らの地位と部署にふさわしい作法を身に付けるように指導していた(Surtees 198886)。

 またこの時期、イギリス本国からの移民が北アメリカにどっと押し寄せ、北部カナダの非インディアン人口は1830年までに80000人から220000人に増加した。そして19世紀に入り、ようやく英語圏の布教団体がインディアンの状況に関心を持ち、布教活動を行ったが、こうした団体の中でも特に熱心だったのがメソジスト教徒であった。彼らは、インディアンがキリスト教化、すなわち文明化されるためには、それまでの狩猟、採集生活ではなく、農耕をはじめる必要があると確信していた。1830年に、これをふまえた公式な政策が植民地の長官に認可された。この政策は、インディアンを野蛮な状態から更正させる試みとして、村におけるインディアンの集会、インディアンを援助するための効率的な土地の配給、農耕の指導の手配、配給、種や農具の供給、そしてキリスト教の布教などが含まれていた。イギリスの布教団体もまた、フランスのそれと同様、インディアンに新しい宗教を広めるのみならず、彼らにヨーロッパ的な価値観を植えつけることをもくろんでいた。イギリス政府はインディアンを社会の正式な構成員とするべく、数々の政策を打ち出し、1850年までに、インディアンを「保護する」ためのいくつかの法律を通過させた。それらは、アッパーカナダ(当時の植民地の区分。オタワ川を挟んで東をロワーカナダ、西をアッパーカナダと呼んだ。)の「インディアンの土地を守る」ため、非インディアンによるインディアンの土地への侵入を禁じ、インディアンの借金は帳消しに、そしてインディアンは土地に対する税金を払う必要すらないとする、というものだった(Surtees 198888)。こうして作られた法律は、一見インディアンを保護するように見せかけてはいるが、これらは政府の新政策に強行に反対するインディアンを懐柔して少しでも早くイギリス社会に同化させ、究極的には先住権を奪ってしまうために政府が出した苦肉の策だったのではないだろうか。その後、1857年の法律では「インディアンと他のカナダ人との間にある格差を全て取り除き、インディアンをカナダ社会に完全に適応させる」と述べられていた。この法律も一見、インディアンの差別を取り除くことを意図した重要なもののように見える(Surtees 198889)。しかし、インディアンのために同化政策を進めるようにうたったこの法律もまた、アッパーカナダの法律と同様に、実際はインディアンを特別扱いする先住権を奪うためのものであったといわれている。

 以降、インディアンに参政権を与える動きが見られるようになる。それは、当該地域のインディアン役人、伝道師、政府に選出された人物の三人による委員会にインディアンの審査をさせ、条件にみあったインディアンには参政権を与える、というものだった。その条件とは、21才以上の男性で、読み書きができ、人格的に問題がなく、借金がないことだった。そしてこうして参政権が与えられたインディアンは「もはやインディアンではないので、インディアンとその他の国王陛下の臣民が持つ法的権利や能力をことなったものにする全ての条令は適用されないものとする」と、決められた。委員会はまた、たとえ読み書きが出来なかったとしても2145歳の男性であれば、その人物に参政権を与える資格があるかどうかをとりあえず調べることもできた。その人物が「英語かフランス語を難なく話すことができ、酒におぼれていなくて、勤勉で、借金がなく、自立できるほどに知的である」と見なされれば参政権の申請に推薦することができたのだ。そしてその後3年間の保護観察期間中にその人物が委員会の満足を得られれば、参政権が与えられた(Surtees

 198889)。

 一方植民地でこうした動きが起こっている間にも本国イギリスは産業革命を成し遂げ、安価な工業用原料を輸入する為に、自由貿易政策に踏みきった。1846年の穀物法撤廃によってそれまで高い関税をかけられていた外国穀物の関税が引き下げられ、それまで本国から植民地特恵を受けていたイギリス領北アメリカ植民地は、他国と同じ条件で本国市場で競争しなければならなくなり、経済面は大打撃を受けた(木村 19911819)。加えて隣接するアメリカが独立戦争を経てアメリカ合衆国を建国したことなどが引きがねとなり、植民地ではイギリスから独立しようという風潮が生まれ、1867年には自治領カナダが成立し、インディアンをめぐる政策は新たな展開をむかえることになった。

A       西部カナダ

   今まで述べてきたのは全て現在のニューファンドランドからスペリオル湖より東部のカナダについてであり、それより西部のカナダは独自に発展してきた。

 1760年にイギリス系のハドソン湾会社がチャールズ二世によってハドソン湾一帯の広大な地域における商業上の特権と行政権までも下付された。この植民地支配を兼ねた会社の支配地域は総督であったルパート王子にちなんでルパーツランドと呼ばれた(加勢田 1997178)。

 1779年には北西会社が結成され、ハドソン湾会社と毛皮貿易をめぐりしばしば衝突したが、1821年にハドソン湾会社と合併されて新ハドソン湾会社が成立した。ハドソン湾会社の領地のさらに西部では1778年にはキャプテンクックがバンクーバー島にたどり着き、ヨーロッパと現地のインディアンとの毛皮貿易が始まった。大西洋岸では、イギリスのほかにもスペイン、ロシア、アメリカが先住民との貿易を巡り対立していた。1705年にスペインが撤退すると、アメリカとイギリスが主な植民地経営者となった(Ray 200098)。

 現在のブリティッシュコロンビア州を含むオレゴン一帯はアメリカとイギリスの共同経営がなされたが、1844年のオレゴン協定で合衆国はイギリスとの外交交渉に応じ、境界線は北緯49度線をロッキー山脈から太平洋岸まで延長し、バンクーバー島はその全てをイギリス領とすると定めた。これによってブリティッシュコロンビア王領植民地が作られた(大原 19846667)。

 東部カナダが独立し、新政府が誕生すると、ハドソン湾会社の所有する広大な領地は、毛皮通商の独占、駐屯所の維持、領有地の20分の1の所有、30万ポンドの支払いを条件にハドソン湾から自治領カナダに組み込まれた。続いて、ブリティッシュコロンビア王領植民地も1871年、大陸横断鉄道敷設などの条件を新政府に認めさせて、カナダの1州となった(大原 19848082)。こうして東部西部ともに自治領カナダとなり、ここから新しい時代が始まるのである。

B       自治領カナダ時代

   新しく統合された自治領カナダの基本法となったのは1867年制定の英領北アメリカ法(BNA法)である。これはイギリス議会制定法の形で成立しているため、全面的に改正するにはイギリス議会の立法権の発動を待たなければならなかった。カナダがイギリスの属領と言う立場から解放されて固有の憲法改正手続きができたのは1982年の憲法においてであり、それまではこのBNA法がカナダの基本法であった(長内 199756)。BNA法第91条第24項ではインディアンをめぐる責任は連邦政府にあることを規定されている。1876年にはインディアン法が成立し、個々のインディアン政策をめぐる内容が決められた(加藤 1984185)。

 インディアン法では新しく地券制度が導入された。これはこれまでに「文明化」に積極的に取り組んだと思われるインディアンのグループの構成員にインディアン問題省の最高司令官が仮に保留地を分け与え、3年後そのインディアンが白人の農夫として、立派に土地を切り盛りしていたら、参政権と、地券を与えようというものだった。地券は不動産の譲渡証書なのである。また、教師、聖職者、弁護士、もしくは医者として生計をたてることでヨーロッパの価値観を受け入れ、かつカナダ社会にうまく適応することができるインディアンにはすぐに地券と参政権が与えられる、とあった。この法律の背後には、こうしてインディアンに徐々に土地と参政権を与えれば、保留地やインディアン問題を専門に扱うインディアン省が必要なくなる、という考えがあった(Surtees 198890)。それゆえインディアンをより「文明化」するために、政府はインディアンの政治にまでも介入するようになって行った。具体的にはインディアン省の最高司令官に、選出されたインディアンの代表者を免職する権利などを与えたのである(Tobias 1991134)。

 しかし、地券を含むこうした一連の制度はスペリオル湖より東部のインディアンに対してだけだった。西部のインディアンはインディアン問題省の最高司令官が、彼らが法律を適用できるほどに「文明化」している、と思うときまでは適用されなかった(Tobias  1991133)。西部のインディアンは自らのアイデンティティを断固として維持したために、政府は、古い価値観を根付かせる原因となるとしてこうしたインディアンの伝統的な慣習、すなわち、サンダンスやポトラッチなどを禁止した(Tobias 1991135)。

 また、政府は狩猟に子どもを連れて行くインディアンは子どもに学校を休ませているため、子どもの教育を妨害しているとし、寄宿学校や工業学校にインディアンの子どもを入れるように強要した。政府はインディアンを子どものうちから教育することで、「文明化」をはかろうとしたのである(Tobias 1991136)。政府の一連のインディアンへの政策はしかしどう見てもうまくいったとは言えなかった。例えば、1920年までに参政権を得たインディアンはわずか300名にも満たなかったのである。これは明らかに政府の予測を下回る数字であった(Surtees 198893)。

 そうこうしているうちに第二次世界大戦が始まりカナダに経済危機が訪れ、インディアン問題はしばらく忘れ去られる。この時代、政府と後のインディアン問題省の役人は具体的な政策を持っていなかったようであり、彼らはこの状況を不安定であいまいなままにしておいた(Tobias 1991138)。しかし、こうしたインディアン問題に対する無関心に大きな変化が起こるのは1945年以降で、この時期インディアン問題に対する関心は前例のない高まりを見せる。なぜなら、1940年から1945年の世界大戦にインディアンが大きく貢献したからである。人々はインディアン法の修正を求め、インディアンに対する差別に終止符を打ちたがるようになった(Surtees 1988139)。

 1960年にはインディアンに市民権が与えられ、1964年には土地請求問題に関する調査委員会が設立された(加藤 1984186)。インディアン担当の省庁は、州担当省、内務省、インディアン省、資源・鉱物省、市民権・移民省、北方開発・資源省を経て、1966年に「インディアン問題・北方開発省」が新設された(加藤 1984184)。1968年にトルドー政権が誕生し、翌年に発表された「白書」は、先住民を取り巻く諸問題の原因の1つは、先住民向けの独自な法的・行政的枠組みであると指摘し、先住民をその他大勢のカナダ人と同様に扱うようことを主張した。具体的にはインディアン省やインディアン法の廃止などを提唱した。が、これには先住民から多くの批判が集中した。この後トルドーは憲法改正を進め、先住民の立ち場がより明確に規定されることになった(加藤 1997250)。

 そしてとうとう、1982年カナダはイギリスの許可を得ないでも独自で憲法を改正できる新憲法を作ることに成功する。これによってカナダがイギリスの属領であった時代は終焉を迎え、現在のカナダが成立するわけである。この1982年憲法は、第25条において、先住民の独自性の尊重とその歴史的根拠を明示した。さらに、35条においては先住民が現に有する権利やインディアン条約上の権利が承認された(加藤 1997250)。この後カナダは2度の憲法改正を試みる。2回目の1992年のシャーロットタウン憲法改正合意案には先住民の自治政府を承認する条項も盛りこまれていた。しかしこれは国民投票によって廃案になった(國武 1997104)。現在のカナダではBNA法と82年憲法を合わせて国の基本法とし、インディアンとその先住権をめぐる訴訟にはケース・バイ・ケースで対応するのが一般的である。

 こうして法的な地位は改善されつつあっても、実際にはいまだインディアンに対する差別や偏見は根強く残り、インディアンの日常に様々な影響を投げかけている。インディアンは自ら全国レベルの組織を結成することでこうした状況を改善しようと試みた。こういう全国組織に対して主に、連邦政府の国務省とインディアン問題・北方開発省が財政援助を行っている(加藤 1984191)。

 

4.現代のインディアン 

   これまでは歴史的な観点からインディアンと白人の関係に焦点を置いて論じてきたが、ここからはインディアンが現在置かれている状況により着目して、現在の社会における問題点を論じることとする。

 まず、インディアンについての問題で必ずと言ってもいいほどあがってくるのが雇用関係のデータである。15歳から64歳の先住民(インディアン、メティス、イヌイットを含む)の就労率は同世代の非先住民カナダ人のそれが71%なのに対して、54%しかない(Assembly of First Nations  2001, n.d.)。このことからもわかるようにインディアンは概してその他のカナダ人より失業率が高いのである。また、それだけでなく、統計からはインディアンの収入は国全体の平均のおおよそ1/2から2/3であるとされている(Assembly of First Nations  2001, n.d.)。これは、インディアンがよく就いている職業が低賃金のものであるからだと思われるが、参考までに以下に全業種と先住民の行っているビジネスの業種の配分を示す。なお、パーセンテージはそれぞれの業種に就いている人の割合である。

 

●先住民の業種と全業種の工業的な分配

 

先住民の業種

全業種

第一次産業

25.3%

8.2%

製造業

2.4%

5.9%

建設業

27.9%

15.8%

小売

17.6%

6.1%

卸売

1.9%

15.3%

金融・不動産・サービス業

5.7%

16.3%

公務員

1.2%

8.1%

ホテル・レストラン

6.8%

7.1%

その他

11.2%

17.2%

 

      (Assembly of First Nations 2001,n.d.)

 この表からも明らかなように一般的に高収入の金融・不動産などといった業種には先住民は他のカナダ人と比べるとおよそ1/3ほどしか従事していない。そして建設や第一次産業に圧倒的に多いのが現状である。

 また、カナダ人の平均的な起業率が7.9%なのに対して先住民の起業率は3.9%だけである。これらの先住民ビジネスの73%が有効なビジネスプランを持っていないと申告している(Assembly of First Nations 2001, n.d.)。

 以上のようなデータから、インディアンを含む先住民のビジネスの分布は非インディアンのカナダ人とは明らかに異なることが見て取れる。インディアンの就労率の低さはデータからは原因は不明だが、私見では、非インディアンであるカナダ人の典型的なインディアンのイメージ、すなわち、仕事もせずに昼間から飲んだくれて政府の税金を無駄遣いしている、という最悪のイメージによって、インディアンはまだまだ差別に苦しんでいるのではないかと思われる。就労率と並んで問題になっている収入の違いは、業種や職種などによる賃金の違いに加えて、有効なビジネスプランの欠如、一般に会社勤めしている人より高収入であることの多い起業家が少ない、ということに関連しているのではないだろうか。いずれにしても雇用に関するインディアンの状況は非インディアンのカナダ人と比べると、決していいものとは言えないのが現状である。

 次に教育面を見ることにする。カナダでは教育は一般的に基礎教育(日本で言う小学校)と、二次教育(日本で言う中学校と高校)があり、ともに義務教育である。統計によると、全国平均では75%が二次教育を終了しているが、先住民の平均ではたったの20%しか二次教育を終了していない(Assembly of First Nations  2001 ,n.d.)。先住民がいい条件の仕事に就きたくてもつけないのは、彼らの多くが二次教育を受けていないことに起因するのではないだろうか。

 先住民の教育はカナダ政府の管轄であるので、先住民の教育のレベルが低いのは政府の責任であるとする声は多い。先住民学校以外の州立の教育機関は毎年特定人数の先住民の生徒を教育するために連邦政府から学費を受け取っており、この学費はその教育機関が、実際に先住民の生徒を教育しようがしまいが、自由に設定できるというシステムになっている(Assembly of First Nations  2001, n.d.)。このため、教育機関が学費を受け取る為だけに先住民の子どもを受け入れはするが、教育はしていないのではないかという人もいる。しかし、実際のところ、民族的・文化的な違いから、勉強に対する意識も先住民と非先住民では異なるだろうし、一概には先住民の教育のレベルの低さを政府の責任にすることはできない。

 雇用と教育面以外でも先住民とその他のカナダ人には統計的に多くの違いが見うけられる。例えば、先住民の死亡率は国民平均の2〜4倍であるし、その死因の33%以上を事故・毒物・暴力が占めるが、全国平均ではこうした死因はたったの9%である。先住民の自殺率は全国平均のほぼ3倍にあたるし、平均寿命は、ややデータが古いが、1981年のカナダの平均が男性71歳、女性が79歳だったのに対して、先住民では男性62歳、女性69歳と、10年ほど短いのである。そして先住民の住宅環境も決して良いとは言えない。彼らのうち40%が住宅を他の世帯と共有していて、そうした住宅には水道や下水道がないことも多いのである(Assembly of First Nations  2001 ,n.d.)。

 こうした状況は複雑な原因や事情が絡み合った結果であろうが、先住民の置かれている状況はまだまだその他のカナダ人に比べて劣悪であるのに加えて、目に見えない差別などに苦しんでいる人々も多い、というのが現実である。先住民が置かれているこうした状況を踏まえて、次に、具体例として雇用とブリティッシュコロンビア州において現在も進行中の条約手続きについてどのような措置が取られているのかを見ていくこととする。

 なお、ここからは私が2001年の917日から10日間カナダのバンクーバーに滞在した時に、現地の図書館にあった資料と、実際にインディアン条約委員会のオフィスや、インディアンを援助している組織を尋ねた際に得た資料を参考にした。

@  雇用

   雇用においてもインディアンを含む先住民は長く差別の対象でありつづけた。

 例えば、北部平原に資源の豊富な村があるのだが、そこで195060年代に先住民の雇用に関して調査をしたところ、これらの資源の豊富な共同体には先住民の居場所はないと言う人が多かったといわれている(Peters 1996315)。上のような明らかな差別発言は現代社会においては憲法違反になるので、聞くことはないかもしれないが、それは決して差別がなくなったということではなく、現代においても彼らに対する差別は根強く残っている。

 しかし、最近では伸び悩むカナダ国民の人口に対して、増えつづける先住民人口に着目した企業が、労働力の供給先としてインディアンを含む先住民に着目する、というケースも増えてきている。

 実際、先住民の人口はカナダの全人口のなかで最も急激に増加しており、彼らの平均人口増加率はカナダの平均人口増加率の3倍なのである。先住民の人口が比較的多い州では、先住民は労働力の供給においてますます重要になると見られている(Loizides 20001)。

増えつづける先住民人口によって、失業率が高まり、社会的な危機に陥るのを避ける為には、先住民を積極的に雇用し、現在と同レベルの就労率を維持することが必要であり、具体的には2006年までに160000人の先住民が仕事を見つけなければならないと言われている。これはすなわち先住民の雇用率を50%引き上げるということである(Loizides 20001)。

 とは言うものの、現実にはそれを困難にする様々な要因が存在する。具体的には、先ほども述べたように、15歳から24歳の若い世代の先住民の教育は非先住民の同世代に比べてレベルが低い。特に保留地における教育機関が就職に効果的な教育を施していないと言うことに加えて、職の需要は先住民人口の少ない地域に多くある。また、職があっても、公開されている情報が少ない為に、先住民の応募者が少ない。コンピューター・サイエンス、エレクトロニクス、エンジニアリングや科学といった専門的な職についた先住民は少ない為にノウハウがなく、後に続く人がいない、などといった要因である(Loizides 200012)。

 政府と企業、先住民社会のリーダーが協力して、先住民の雇用・トレーニングなどに対して何らかの行動を起こし、こうした状況に解決策を見つけ出さなければ、国家経済に重大な危機が訪れる、と見られている(Loizides 200023)。

 今日ではかなりの数の企業が、事態の重要性を認識して、先住民をトレーニングし、積極的に雇用する方針を打ち出している。先住民を積極的に雇用・トレーニングしている企業の具体例として、カナダのどの都市にも支店を持つ大手銀行の1つであるCIBCがある。

       具体例―CIBCの場合*

CIBCによると、CIBCにとって先住民の雇用が重要なのは、まず、大手企業としての社会的義務、それに加えて、先住民が銀行の顧客層をなしているという理由による。CIBCは先住民を金融サービス業界で雇用するにあたり数々のプログラムを組んでいる。こうしたプログラムは先住民とCIBCがお互いに適しているかを判断する機会になっている。

 代表的なプログラムの内容は以下のようになっている。

(1)学生インターンプログラム

 ビジネスを専攻している先住民の大学1年生もしくは2年生が、夏季CIBCの支店で顧客サービスに従事する。

(2)共同組合教育プログラム

 CIBCで需要が高まっているオペレーションとテクノロジー部門に焦点を当てた3年間の協同組合教育を援助する。

(3)全国採用プログラム

 これからの5年間で260人の先住民を採用し、彼らの人口比率に基づき、4%が先住民であるようにする。

 以上のようなプログラムを展開することによって、CIBCが先住民に、例えば学生インターンプログラムなどを通じて、自分たちが先住民を積極的に育成、雇用する方針であることを、印象付けることも狙いの1つではある。こう言ってしまうと、いかにも世間体を意識した見せかけだけのプログラムのように聞こえるかもしれないが、CIBCが労働力における先住民の数を確実に増やしてきたのは事実である(loizides 200056)。

 このように、企業をあげて先住民を育成するプログラムを採用し、先住民を積極的に採用している大手企業には他に、サスカチュワン州の主要通信会社であるSaskTelCIBC同様に全国展開している大手銀行Royal Bankなどがある。もちろんこうした企業の努力が数値となって結果に出るにはまだまだ年月がかかるであろうし、その頃までにはまた新たな問題点が生じているかもしれない。企業の一連の先住民育成運動もしくは先住民雇用促進運動とも言うべき動きは、まだ始まったばかりであるが、その効果はカナダ社会に大きな影響を及ぼすのではないだろうか。

A 条約

   次にカナダの1州であるブリティッシュコロンビア州を例にとって、インディアンに対する具体的な政策、すなわち「条約」の仕組みについて考察する。

 しかしその前に、何故外国人でもないインディアンと政府の間で交わされるものが、通常は外国との取り決めを指す条約と呼ばれているかについての説明をする。

 ブリティッシュコロンビア州以外のカナダ全土では、はるか昔、最初にヨーロッパが北アメリカ大陸に上陸した時に、植民者達はこの地に住む先住民の土地の所有権を認め、1763年の国王宣言で、国王のみが条約によってのみ先住民の土地を得ることが出来ると定めた。その後政府はインディアンと徐々に条約を結び、その中で彼らの土地権、漁業権などを明白にしてきた、すなわち、インディアン条約によってインディアンに資源などの少ない土地を居留地としてわずかに分け与えたのであるが、ロッキー山脈西側、ブリティッシュコロンビア州では事情が違った(BC Treaty Commission 2000:1)。

 西部が自治領カナダに組み込まれる以前、ブリティッシュコロンビアではインディアンとの条約は1850年から54年にジェームズ・ダグラスが英国の国王のために土地を購入した時以外には結ばれなかった。条約を結ぶ代わりにダグラスはインディアンに土地を分け与えたのである。しかしダグラスが植民地の経営陣から外れた直後、植民地政府はダグラスの政策を一転し、インディアンに土地を所有する権利はない、とした。この方針は1871年にブリティッシュコロンビアが自治領カナダに入るときにもそのまま引き継がれた(BC Treaty Commission 2000:1)。以降ブリティッシュコロンビア州は長くインディアンの土地に対する権利を無視し続け、インディアンと条約を結び、彼らに土地の所有権を認めることを拒みつづけてきたのである。その結果、何百万エーカーもの土地が法的に誰に属するのか決められないままになった。そしてこの事実によって引き起こされる土地の所有権をめぐる訴訟が、州政府に毎年莫大な経済的負担を与え、インディアンの自律を阻みつづけてきたのである(BC Treaty commission 20001)。

 こうした歴史的いきさつを経て、その他の地域では大昔に結ばれたインディアンとの条約がブリティッシュコロンビア州においては未完成の課題のような状態であり、土地が一体誰のものなのかを決めるために、現在も進行しているのである。

 確かに1982年憲法の35条には先住民の権利と条約の権利は共に保障されているし、実際に、カナダの憲法は先住民の土地権とそれに付随する諸権利は条約があろうがなかろうが存在する、としている。しかし、条約なしでは、どのように、またどこにこうした権利が当てはまるのかははっきりしないままである(BC Treaty Commission 20002)。

 初めてのブリティッシュコロンビアのインディアンの土地権に関する訴訟は1973年のNisga’aというインディアンのグループに対するものであった。この判決では7人の判事のうち6人までが、「先住民の権利は彼らの部族が歴史的に土地を所有してきたことに由来する法的な権利である」としたが、これには次のような大きな疑問が残った。それは、「先住民の権利はブリティッシュコロンビアがイギリスに組み込まれた時に消滅したのか、しなかったのか?」ということである(BC Treaty Commission 20002)。 

 以後もこの疑問はそのまま残ったが、1997年のDelgamuukwというインディアンの訴訟において、とうとうインディアンの権利に対する重大な判決が出された。すなわち、ブリティッシュコロンビア州には先住権は確かに存在する。それは単に狩猟・漁業・採集といった権利ではなく、土地そのものに対する権利である。先住民の権利はその他のカナダ人の権利とは明白に異なる独自のものである。先住民の権利は彼ら独特の土地の共同所有権を含む。先住民の法的な地位は彼らの人種によるものではなく、彼らが北アメリカ大陸に入植者がやってくるはるか前からその土地を所有していた人々の子孫であると、いうことに由来する。先住民の権利は1982年憲法の35章において守られているので、単純な憲法改正によっては消滅させられることはない、ということである(BC Treaty commission 20003)。けれども、裁判所はブリティッシュコロンビア州に先住権は確かに存在するとしたが、その肝心の権利がどこに存在するかは明白にしなかった。よってこの状況を打開するには、政府とインディアンは条約を通じて、土地、資源、政治、統治権といった問題を交渉するか、もしくは訴訟に持ちこんで1つ1つのケースを1つ1つの権利ごとに先住権として認めるかどうかを審査するしかないのである(BC Treaty Commission 20003)。

 インディアンの条約の手続きは、度重なる署名運動、訴訟、バリケードを築いての抗議運動などを経て、1992年カナダ、ブリティッシュコロンビア州、インディアンの3者によるサミットにおいて、条約委員会と共に発足した(BC Treaty Commission 19993/20002)。これによってインディアンの土地に対する所有権、司法権、施政権、そして資源や人々に対する権利は条約を結ぶという一連の手続きに基づいて明らかにされることになる。

 それでは具体的に条約の手続きはどのように進んで行くのだろうか。条約手続きは6つの段階に分かれている。まず第一段階。条約の交渉をしたいインディアンの部族は条約委員会に意志表明書を提出しなければならない。この意志表明書においてインディアンは自らの集団とその構成員を明らかにし、その伝統的な領地を述べ、条約交渉に入ることがその構成員全員の意志であること、そして公式な代表者を述べること、が求められる。第二段階では、交渉への準備がなされる。すなわち、カナダ、ブリティッシュコロンビア州、インディアンの3者がそれぞれ交渉を開始するにあたって十分な権威と資金を持っていることを証明し、それぞれが何を交渉したいのかと言う大まかな内容が決められる。条約委員会がその内容に満足した時点で、交渉は第三段階に入る。何をどのように交渉するのか、ということと、交渉の時間配分がここで決められる。第四段階では骨組みとなるべき交渉が開始される。初めて実質的な条約の交渉が開始するわけである。通常、土地・資源・自治・経済状況などが議題にのぼる。第五段階では条約を完了させる交渉が行われる。この段階では法的・専門的な問題を主に扱う。公式に条約にサインし、批准することで最終の第六段階に進むわけである。第六段階では条約の履行が行われる。ここにおいて条約は実際に効果を発揮する(BC Treaty Commission 20003738)。

 2000515日時点で、ブリティッシュコロンビア州のインディアンの集団は51、うち42の条約が交渉中である(BC Treaty commission 200035)。

 

4.    結論

   今までは、簡単なカナダの歴史に現在のインディアンの状況を事実に即して述べてきたが、それでは、現在非インディアンのカナダ人はインディアンをどのように認識しているのか、ということを次に考察する。 具体的には、Environics Research Group2000424日から30日の間に1032人の成人カナダ人を対象に行ったアンケートの結果を参考に、一般的なインディアンの認識を得ようとするものである。なお、アンケートの形式が途中で変わっているのは、参考にした資料がアンケートそのものではなく、その要約であったことによる。

*インディアンに対するカナダ人の態度に関する国のアンケート(以下抜粋)*

(1)カナダ人の見るインディアンが直面する問題のトップ5

1、  素行の悪さ(19%)2、生活水準(19%)3、失業(13%)4、土地問題(12%)5、教育(12%)

(2)連邦政府はインディアン問題に注意を向けるべきである

1、今までと同じ位(33%)2、今までよりもいくらか多く(22%)3、今までよりもかなり多く(15%)

(3)インディアンの経済的環境は平均的なカナダ人の経済的環境と比べて

1、  かなり/いくらか良い(52%)2、同じくらいである(28%)3、かなり/いくらか悪い(11%)5、わからない(9%)

(4)インディアンが収益の上がるビジネスを維持するのを妨げている最大の要因は

1、    教育の欠如(35%)2、政府のサポートの欠如(24%)3、ない(17%)4、インディアンが政府に依存しすぎていること(11%)

(5)インディアンの共同体が直面する問題は何をもって解決されるか

1、より多くの時間と資金(53%)2、これ以上資金は必要ない/今より少しだけ多くの資金(40%)3、わからない(7%)

(6)政府とインディアンが互いに協力して素早く土地請求問題を解決するのに賛成である(83%)

(7)連邦政府はインディアンの共同体が自律するのをサポートするべきである(72%)

(8)インディアンに関する問題に解決策を見つける為に今投資することが、将来のインディアン問題に関する費用の削減につながる(66%)

(9)連邦政府がインディアンの経済状態を改善させる為に投資するのは税金の無駄使いではない(55%)(Assembly of First Nations  2001 ,n.d.

 まだまだアンケートは続くが、このように見ていくと、尋ねられている質問からインディアン問題は、一般のカナダ人にとっては、政府の資金すなわち自分達が納めた税金の使い道と切っても切り離せない問題だと思われているようである。

また、このアンケートによれば、アンケートに答えたカナダ人の多く(62%)が、自分はインディアンについてほとんど何も知らないと述べている(Assembly of First Nations 2001, n.d.)。

 それにも関わらず、インディアンの経済状況を自分たちよりもよい、と思っている人が多い。これは私がカナダにいたときの経験から言うと、非インディアンは税金を払わずに政府からの経済的な援助で暮らしているインディアンをこころよく思わず、彼らの生活水準の方が税金を払っている自分達の生活水準より高いと思って妬んでいる、ということである。また、インディアン関連の問題で素行の悪さがあがっているなどということから、インディアンに対するネガティブなイメージがあるのではないかと推測される。

 インディアンに投資することが将来の費用の削減につながる、という考え方は、植民地時代の「インディアンを「文明化」し、特別扱いするのをやめてインディアン問題にかかる費用や土地を少しでも減らそう」という政府のインディアンに対するアプローチ法から何ら変わっていない。政府とインディアンが協力して土地請求問題を素早く終わらせようというのも、全く同様である。

 こうして考えると、政府がインディアンをサポートするのに大部分が賛成しているとはいっても、結局のところは、さっさとインディアン問題を片付けて、自分達の税金をそれより他のことに使って欲しいという意志の現れのようである。

 実際、インディアン問題について語る時、人々が常に口にするのは税金であり、政府の予算であったことは私がバンクーバーにいた時にも記憶している。

 こう書いてしまうとカナダの先住民問題の今後は金次第のように思えるかもしれない。しかし、忘れてはならないのは、カナダは多文化主義を国策としている数少ない国の1つであるということである。カナダのインディアンをめぐる問題も多文化主義の枠組みの中で更なる展開を迎えることが可能かもしれない。ここからは多文化主義について、カナダと、同じく先住民問題を抱える多文化主義の国であるオーストラリアの事例を考察し、カナダの今後のインディアン問題がたどるべき方向性を探ることで結びにかえたい。

       多文化主義―カナダの場合*

 1960年代から「多文化主義」という言葉がカナダで使われ始めた背景には、フランス系とイギリス系の対立による二文化主義への反発があった(木村 1997:55)。

 多文化主義への政策に大きな役割を担ったのは1968年に首相に就任したトルドーであった。トルドーは自らフランス系でありながら、フランス系の独立を目指す運動に強く反対し、フランス系カナダ人の独立を含む特定のエスニシティへの優遇政策には反対の立場を取った(加藤 1997:79)。トルドーはフランス系とイギリス系両方にとって開かれた社会を実現するため、二言語二文化主義を進めようとして、ドイツ系・ウクライナ系などの移民が多い政府諸州の猛烈な反対にあい、結果として二言語多文化主義を推進した(加藤 1997:7980)。皮肉なことにあれほど反対していた特定のエスニシティ(先住民)への優遇政策をもりこんだ1982年憲法が後に制定されたのもトルドーが首相の頃であった。

 しかしトルドーが唱えた多文化主義はヨーロッパ系の移民を対象にしており、現在カナダに多くいる中国系や日系などの非白人すなわちヴィジブルマイノリティは対象にはしていなかった。その後1970年代から80年代にかけて非白人の移民が急増して行くにつれて、政府ももはや彼らを無視することができなくなり、多文化主義の枠組みにヴィジブルマイノリティが含まれることとなったのである(加藤 1997:8485)。こうした流れを経て1998年には「多文化主義法」が制定され、カナダはいよいよ多文化主義の国として知られることとなった。

 それではカナダが多文化主義を取る動機は一体何なのか。移民の国であると言うことから来る使命感のようなものももちろんあるであろう。しかし、1つには経済的な理由があげられる。現代のインディアンの項でも書いたが、カナダは現在伸び悩む人口に労働力不足といった問題を抱えており、将来的には納税者が不足すると思われている。このため増加がみこまれるヴィジブルマイノリティをカナダに取りこむことが目下の課題であり、その為に多文化主義を使おうとしているのである、と言われている(加藤 1997:83)。また、カナダではいまだにフランス系の多いケベックがカナダからの独立を目指しているという事実があり、スチュアート・ヘンリのように、多文化主義を掲げることでケベック州内部の非フランス系(すなわち先住民)にアピールし、ケベックの独立運動を牽制するという意図もあると言う人もいる(スチュアート 1997:125)。

 もちろん、ここにあげたことだけが理由でカナダは多文化主義を取っているというつもりはない。現実にはもっと様々な思惑が絡んでいることであろうし、この先の展望もそうした思惑に影響されることはほぼ間違いであろう。それでは、カナダとよく似た状況であるオーストラリアではどうだろうか。オーストラリアの事例を参考にすることで、多文化主義を取るその他の理由を見てみることにする。

*多文化主義―オーストラリアの場合*

 オーストラリアもアボリジニという先住民問題を抱える多文化主義国家であり、その境遇はカナダと似ている。しかし、20年ほど前までは「白豪政策」すなわち人種差別の国として悪名をとどろかしていたオーストラリアにどのようにして多文化主義が定着したのだろうか。

 オーストラリアは1788年にジェームズ・クックによってイギリス領だと宣言された。クックはその地が「テラ・ヌリウス(無主の土地)」であるとして、先住のアボリジニを無視してここから先住民に対する権利の剥奪・様々な形での虐待・虐殺の歴史が始まるのである(パパリナス 1997:245)。その後法律上の手続きを経てオーストラリアがイギリス領からイギリス連邦内の自治国として本国から独立を果たしたのは実に1901年のことである(パパリナス 1997:245)。以降オーストラリアは様々な先住民政策を実施して徐々に多文化主義国家への道を歩み始める。

 1967年、憲法が改正されてアボリジニはオーストラリア国民と言う地位を獲得する。ほぼ同時期に北部準州で土地と先住民に関していくつかの争いが起こり、結果として1977年に北部準州アボリジニ土地法案が可決成立した。これはアボリジニが伝統的に住んでいた領土への権利を回復する為に新しい立法措置が必要である、とした点で、当時においては最も先進的なものであった。この土地の権利法がきっかけとなり北部準州の49%までが今日までに先住民領となった。しかし、その後連邦政府の先住民政策は、鉱物資源や農業に影響が及ぶのを恐れた各州の反対にあい、後退の兆しを見せる(細川 1997:184188)。1992年にトレス海峡の小さな島の所有権を政府と先住民が争っていた裁判の最高裁判所判決(マボ判決と呼ばれる)がでると、しかし先住民問題はまたもや一転することとなる。この判決ではジェームズ・クックがオーストラリアを「発見」した当時のオーストラリアは「テラ・ヌリウス」であったという主張を否定したのである。また、マボ判決は先住民と土地との関係を、具体的な諸権利の発生の根拠となる「先住権原」と言う概念で示した(細川 1997:189)。このマボ判決によって先住権原の法制化が進み、1993年には先住権原法が成立する。先住権原法では先住権原の認定基準・請求手続きなどが決められた(細川 1997:191)。その後1996年にはウィック判決と呼ばれるアボリジニ集団ウィックによる先住権原確認請求への最高裁判諸判決によって、「牧場借地として登記済みの土地に関しても先住権原は存在する」とした。具体的にどういった権原が存在するかは明らかにならなかったものの、これによりアボリジニにより有利な状況が訪れたことは確かである(細川 1997:193194)。この後、先住民政策は明らかに行き過ぎであるとして反対の声も出始めるが、現在のオーストラリアは1989年に発表された「多文化オーストラリアにむけての国家的課題」を掲げる多文化主義を目指す国家なのである(杉原 1997:169)。

 オーストラリアが先住民を含めてそれまでの白豪主義から多文化主義に至った動機をカナダの時と同様ここで考えると、まず、戦後の移民政策が挙がってくる。戦後オーストラリアは経済復興のためにまず大量の非英語系ヨーロッパ人を低賃金労働力として受け入れた。そののち東南アジアの経済安定のために、大量のインドシナ難民を受け入れたことで、多文化主義への下地ができた(関根 1997:152)。また、アジア諸国との関係も無視できない大きな動機となっている。1960年代以降アジアの国々が次々に経済成長を遂げると、オーストラリアにとってアジアと貿易関係を樹立することが死活問題となったのである。アジアと貿易をする上で白豪主義は都合が悪い、というわけで徐々に白豪主義は影を潜め、かわりに多文化主義が進むこととなったのである(関根 1997:156)。

 このようにカナダとオーストラリアの多文化主義を見てみると、ともに言えることは、両国とも多文化主義を「国家の生存本能」として掲げているのではないか、と言うことである。「国家の生存本能」とは、国家の大部分が移民で構成されている場合、特定の文化を優先すると、その他の文化を持つ国民に見放されてしまうため、国家生き残りの道として多文化主義を取らざるを得ない、という国家の政策である。歴史的経過と移民国家であると言うことが多文化主義を支えている、という以上に、そこにはその他の国々と言う第三者との関係を含め、政治的・経済的理由が深く絡んでいるようである。つまりオーストラリアの場合、アジアの国々と付き合う上で白豪主義は都合が悪いと先述したが、具体的には、オーストラリアが東ティモールの人権状況を非難するたびにインドネシアの政府がアボリジニの置かれているひどい状況を持ち出す、というようなことであり、外交的にも多文化主義を国の政策とせざるを得ないのである(細川 1997:183)。しかし、国家の政策として多文化主義を掲げる以上、善意などのきれいごとだけでは多文化主義を扱うことはできないであろう。それならば、むしろ多文化主義を全面的に利用して、経済効果・政治的効果をあげつつ、先住民問題を処理する方法を模索することが先住民問題のベストの解決法なのではないか。その為にはカナダはオーストラリアの取ってきた異なった先住民政策から学ぶ必要があると言えるであろう。例をあげれば、1996年にオーストラリアのクインズランド州北部・ヨーク岬地域で結ばれた「地域協定」がある。これは、州政府も連邦政府も抜きで、先住民土地評議会、牧場経営者組合、環境保護団体が交渉をして、ヨーク地域の土地の利用法についての合意事項を文書化したものである。つまり、アボリジニの先住権を認めたうえで、その土地の牧場経営者の権利も否定せず、共に自然環境保全を掲げ、個別の問題については協議の上決定する、というもので、先住民問題への新しい取り組み方を示している、と言われている(細川 1997:196)。

 同様に、オーストラリアとの共通点からも先住民問題を学ぶことが必要である。例えば、オーストラリアのマボ判決は先住権原という新しい概念を生み出したが、それが具体的に何を指すかはウィック判決の時には明確にはされなかった。したがって、個々の問題にケース・バイ・ケースで対応するしかないのである。これは、先に述べたブリティッシュコロンビア州における条約をめぐるDelgamuukwの訴訟と同様である。ここから言えることは、現段階においては結局、インディアンを含む先住民問題は訴訟を起こして初めてケース・バイ・ケースで対応していくしかないということである。これではどうしても非効率的な感が否めない。実際訴訟が長引けば長引くだけ、費用もかかるし、自分達の税金が使われることをよく思わない非インディアンのカナダ人はこころよく思わないことが明らかである。しかし、ここで例えば、全てのインディアンの訴訟に適応可能な解決策を見つけることがベストの解決策かといえば、それは違うのでないか。何故なら、そうしてしまうことはすなわち、カナダが過去にインディアンに対して取ってきたアプローチ「さっさと片付けてかかる費用を最小限におさえよう」というのと同じだからである。では、どうすればよいのか。個々のケースに付いてはいくら非効率的に思えようがケース・バイ・ケースで対応するしかないであろう。それぞれのインディアンの主張は異なるものであり、一括りにまとめてしまえるものではないのだ。そうすると、問題は非インディアンのカナダ人の税金とインディアン問題に関する捕らえ方ではないだろうか。アンケートでも見て取れたように、彼らの中にはインディアンのことを知らない人がかなり多く、間違った事実認識(例えばインディアンの生活レベルが自分達より高いと思っている人が多いということなど)をしている人も数多い。こうした人々に、カナダの歴史とインディアンについての基本的な事実を教育することが必要である。歴史的な事実とそこから生じる責任を非インディアンのカナダ人が認識することによって、現在彼らとインディアンとの間に存在する大きなギャップも埋まるのでないだろうか。そしてそのことが最初に述べたカナダ人とインディアンというカテゴリーを二つの対立項からカナダ人と言う大きなカテゴリーの中にインディアンが含まれるような形になることにもつながるのではないだろうか。

 

(1)      当時のイロコイ族がどの程度の勢力をほこっていたかは明らかではないが、文献では、イロコイ族と敵対していたフランスととその他のインディアンとの関係を「概して友好的」としていることから、数の上ではイロコイ族の勢力は比較的小さかったと推測される。

(2)      このように書かれているのは、当時の記録が白人の手によるものだったということから、自分達の面子を保つために、インディアンの軍事力を誇張したものではないだろうか。

(3)      一見インディアンのためのように思えるが、実際はインディアンとのわずらわしいイザコザをできるだけ回避するための実用的な手段であるように文献からは見うけられる。

(4)      いくつかのインディアンの集団が共同で条約の交渉をしている場合もあるが、内訳は、第二段階まで進んでいるものが1、第三段階が11、第四段階が37、第五段階が1である(BC Treaty Commission  2000:35)。

(5)      しかし、私自身はインディアンと非インディアンの関係の変遷は、お互いが自らの利益を最優先に、時に妥協した結果であるという感が否めない。もちろん両者の立場は対等ではないから、そこから様々な問題が生じるわけである。けれども、自らに何らかのメリットがなければ、そもそもインディアンと非インディアンの間の関係、そしてそこから発生する問題と、それを解決する交渉は生じなかったのではないだろうか。

 

参考文献

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pp.28-29

木村和男

     1991『連邦結成:カナダの試練』日本放送出版協会
    1997
「多文化主義宣言への道―連邦結成後の移民政策を中心に」
      西川長夫・渡辺公三・ガバン・マコーミック編
     『多文化主義・多言語主義の現在』人文書院、
pp.55-74

國武輝久
   1997「シャーロットタウン憲法改正合意案(1991年)」日本カナダ学会編
     『資料が語るカナダ』有斐閣、
pp.104-105

ジョージ・パパリナス(海寳康臣訳)
    1997「多文化主義への挑戦―作家としての経験から」西川長夫・
     渡辺公三・ガバン・マコーミック編『多文化主義・多言語主義の現在』
     人文書院、
pp.243-270

杉原充志
   1997
「多文化主義と法の役割―オーストラリアにおける多文化主義法
     の制定を巡って」西川長夫・渡辺公三・ガバン・マコーミック編
     『多文化主義・多言語主義の現在』人文書院、
pp.165-176

スチュアート・ヘンリ
  1997「北部ケベックの先住民―二つのマジョリティーに翻弄される
     イヌイットとインディアン」西川長夫・渡辺公三・
     ガバン・マコーミック編『多文化主義・多言語主義の現在』
     人文書院、
pp.109-132
   1997 「先住民運動―その歴史、展開、現状と展望」『岩波文化人類学講座
      第六巻紛争と
運動』岩波書店、pp.229-257

関根政美
  
1997「多文化主義国家オーストラリアの誕生とその現在」
     西川長夫・渡辺公三・ガバン・マコーミック編
     『多文化主義・多言語主義の現在』人文書院、
pp.147-164

竹中豊

  1984「ヌーベルフランス時代」大原祐子・馬場伸也編『概説カナダ史』
     有斐閣、
pp.15-48
長島伸一

  1989『大英帝国』講談社

細川弘明
  
1997「先住権のゆくえ―マボ論争からウィック論争へ」
      西川長夫・渡辺公三・ガバン・マコーミック編
     『多文化主義・多言語主義の現在』人文書院、
pp.177-199

BC Treaty Commission

  1999 Treaty Commission

  2000 Why treaties?
    2000What’s the deal with treaties?:
       A lay person’s guide to treaty making in British Columbia

Loizides,Stelios
  
2000 The best of both worlds: Corporate responsibility and performance
        in aboriginal relations
, The conference board of Canada

Peters, Evelyn
  
1996 Aboriginal peoples in urban areas, in Long and Dickason(ed.),
        Visions of the
 heart: Canadian Aboriginal  issues,pp.305-334,
        Harcourt Brace Canada

Ray, Arthur
  
2000 When two worlds met, in C.Brown(ed.),The illustrated history of Canada,
        pp.17-104,the Canada council for  the arts 
Surtees, Robert
  
1988 Canadian Indian policies, in W.Washburn(ed.),History of Indian
       White relations; Handbook of North American Indhians,vol.4
:81-95,
        Smithsonian Institution

Tobias, John
  
1991a Protection, civilization, assimilation: an outline history of Canada’s
         Indian policy, in J. Miller(ed.), Sweet promises: a reader on Indian-
         White relations in Canada
,pp.127-177,University of Toronto Press

Assembly of First Nations

  2001  A Failed Federal System http://collections.ic.gc.ca/afn/edu6.html

    n.d. Studies and reportshttp://www.afn.ca/Programs/Economic%20Development/Econo…/studies_reports.ht

  n.d.  National survey of Canadian attitudes towards First Nations
      http://www.afn.ca/programs/Economic%20Dev…/national_survey_of_canadian_at ti.ht