オセアニア近代史の人類学的研究ー接触と変貌、住民と国家ー


まえがき(吉岡政徳、林勲男)
歴史とかかわる人類学(吉岡政徳)

まえがき

 本論集は、1995年度から3年間にわたって行われた国立民族学博物館の共同研究「オセアニア近代史の人類学的研究」(代表者:吉岡政徳、副代表者:林勲男)の成果報告書である。この共同研究は、オセアニア世界が西洋と接触して以来の歴史的過程をオセアニア近代史と位置づけ、その歴史的過程の中で生じてきたキリスト教の布教活動、植民地化、社会変化、開発、国家形成など様々な出来事を、西洋の歴史認識からではなく、オセアニア世界の側から捉え直すことを目指したものである。
 ところで、周知のように、オセアニア近代史を巡っては、トーマスらの歴史人類学が大きな成果を収めている。そこでは、従来の人類学がとってきた「伝統」と「近代」、あるいは「彼ら=非西洋」と「我々=西洋」という二分法が痛烈に批判された。それは、植民地化という現象を、どちらか一方の側からの作用として見るのではなく、歴史的もつれ合いという両者のからみの中から考えようとする立場からの指摘であった。この視点は、従来の人類学的研究に対する重要な批判であり、本論集を構成している論文の多くは、こうした歴史人類学からの提言をどう受け止め、どの様に考えていくのかということと関わっていると言える。
 しかし、3年にわたる共同研究は、オセアニアにおける歴史人類学の整理に汲々としてきたわけではない。人類学だけではなく、社会学、歴史学、国際政治学、国際関係論などの隣接科学を交えながら、いかにしてオセアニア近代史をオセアニア世界の歴史として論じるのかということを考えてきたのである。この立場は、「彼ら」と「我々」の二分法を批判した歴史人類学の視点に逆行し、再び「彼らの世界」を強調する立場に舞い戻っている様に思えるかもしれない。しかしそうではない。歴史人類学で批判されてきたのは、流入してきた西洋的な要素をはぎ取った伝統的島民文化を見いだそうとする立場であり、西洋との絡み合いを考慮にいれた上でのオセアニア世界からの歴史を語ることは、やはり、重要なことなのである。
 さて、本論集は6つの章からなっている。第1章「歴史と人類学」は人類学が歴史とどうかかわるのかという問題を取り上げており、本論集全体の序章にあたる。この章を構成している吉岡論文は、トーマスの歴史人類学を踏まえながらもそれを批判的に検討することによって、歴史と関わる人類学を新たな位置から捉えようと試みている。
 第2章「西洋のオセアニア観」では、オセアニアと接触した西洋世界がオセアニアをいかに捉えたのかという問題が扱われている。オセアニア世界の側から近代史を見直すためにも、西洋世界の側の捉え方の把握が必要なのは言うまでもない。2章を構成する2つの論文のうち最初の中山論文は、アメリカにおける19世紀の新聞記事を題材に、ポリネシアとメラネシアを文明と野蛮という対比で捉えた西洋的視点のからくりを明らかにしている。一方、林論文は、同じく19世紀の「肘掛け椅子人類学者」にとっての情報提供者であると同時に、膨大な収集品を残した宣教師の一人、ジョージ・ブラウンに視点を会わせ、彼の捉えた太平洋について議論している。
 第3章「西洋との接触」では、西洋世界と接触することによってどのような歴史経験がオセアニア世界の側で生じたのかという点に視点を合わせた論考が納められている。最初の窪田論文は、ヨロンゴという特定のアボリジニ社会を対象に、そこにおいて展開された伝道活動を他の地域と対比しながら、それと対処する人々の独自の歴史経験を描こうとしている。続く槌谷論文では、パプアニューギニアにおけるファースト・コンタクトを取り上げ、人々が白人を霊として見たという言説を考察している。そして槌谷は、フォイ社会を例として、この言説は西洋と土着の相互作用の中から生まれてきたものであることを論じていく。最後の田井論文では、西洋と接触する過程で、ソロモン諸島の人々が音楽芸能においてどの様な戦略をとったかについて考察し、外部の音楽芸能を取得し効果的に発揮することは、西欧近代に対峙する人々にとって重要な戦略となっていたと論じる。いずれの論文も、歴史的もつれ合いを念頭に置いた論考である。
 第4章「植民地時代と現在」では、植民地時代に形成されたものが、独立国家として成立している現在、どの様な意味を持っているのかということを検討している。最初の豊田論文は、メラネシア地域において広く使われているピジン語を取り上げ、成立当初は植民地主義的な性格を持っていたが、現在では、メラネシア住民のアイデンティティ形成のよりどころとして反植民地主義的な性格を持つようになった現実を分析している。二つ目の藤川論文は、オーストラリア先住民であるアボリジニを取り上げる(藤川の呼称ではアボリジナル。なお、アボリジニとアボリジナルという異なる呼称の存在については、窪田論文の付記、及び、藤川論文の注1を参照のこと)。藤川は、監獄でのアボリジニの死亡件数の多さに関する調査記録を出発点とし、アボリジニ社会がオーストラリア国家の法体系の中でおかれている状況を、その植民地時代から現在までの歴史的背景を検討しつつ考察している。最後の山路論文は、パプアニューギニアにおける小学校教育を取り上げ、植民地時代に作られた学校が、現在は、植民地時代の影響を残しつつ、国家から要請される近代知と村落レベルにおいて必要な民俗知のせめぎ合いの場ともなっている現状を分析している。
 第5章「開発と住民」では、オセアニア近代史の過程で顕著な現象となってきた開発をめぐる問題が議論されている。5章を構成する4つの論文のうち最初の関根論文はソロモン諸島を取りあげ、同国における「持続可能な開発」という開発言説や都市住民の出身村落との関係のあり方に注目しつつ、ソロモン諸島民が「近代」の産物としての都市と経済開発に対してどのような関係を構築しようとしているのかを考察している。二つ目の宮内論文もソロモン諸島を議論の対象とし、同国マライタ島における出稼ぎや移住の歴史をひもときながら、世界システムに対する住民戦略を考察している。三つ目のアレキサンダー論文では、フィジーにあるマグロ・カツオ缶詰工場に焦点をあて、大型漁業という開発戦略における、環境、開発、ジェンダーという問題を内発的安全という文脈から考察している。本章最後の佐藤論文でもマグロを巡る開発が議論の対象となっているが、ここでは日本の政府開発援助である水産ODAがオセアニアの人々の日常生活にどのような影響を及ぼしているのかを問題としている。
 第6章「近代史の中のオセアニア国家」は本論集の最後の章として、オセアニア国家が近代史の歩みの中で到達した地点とかかえる問題点を考える。最終章を構成する三つの論文のうち最初の小林論文は、かつての国連信託統治領ミクロネシアを取り上げる。同地域は4つに分裂しそれぞれ自治、独立の道を歩んだが、その結果、経済的発展地域と停滞地域との二極分化が出現したという。小林は、この二極分化の背景とその原因を追究している。続く内藤論文では、ニュージーランドを取り上げる。ニュージーランドの近代の幕を開けたワイタンギ条約は英語とマオリ語で書かれており、両者に微妙なズレがあると言われてきたが、近年、マオリ語版ワイタンギ条約が同国で息を吹き返しているという。内藤はこうした状況を踏まえて、条約を巡るヨーロッパ系住民とマオリの駆け引き、及びマオリの戦略を考察している。6章最後の山本論文は、近代史の中で東西に分断されたサモアを取り上げ、東のアメリカ領サモアと西の独立国サモアの対比を通じて見えてくる問題点を論じている。山本は、ともに同じ社会組織と文化を共有していたにもかかわらず、ニュージーランドとアメリカという異なる宗主国をもったという歴史が、両者に与えた影響とその受容のあり方を分析している。
 以上の16編の論文は、オセアニア近代史というものを各人の視点から比較的自由に論じてもらうという編集形式を踏んでいるため、特定の歴史観、あるいは、学説に貫かれたものとはなっていない。しかし、すでに述べたように、歴史人類学からの人類学批判を踏まえた上で、オセアニア世界の側から近代史を見直そうとする姿勢は一貫していると言える。その結果、本論集では、近代史を歩んできたオセアニアが、西洋世界との遭遇をどのように受け止め、それにどのように対処しつつ自らの歴史を作ってきたのか、また、近代史の一つの到達点でもあった独立がどのような意味を持ち、それが現在どんな問題を提起しているのか、というオセアニア世界の側における連続した歴史経験を見据えた議論を展開することができたと考えている。


歴史とかかわる人類学

はじめに

 自文化中心主義という概念がある。様々な意味合いで使われており、特に自民族中心主義の言い換えの様にして用いられることが多い。しかし、この概念をもっとも広く、また、もっとも深く用いるとすれば、それは、「意図的ではなくとも、しらずしらずのうちに、気がついてみると自分の文化的フィルターを通して異文化を見てしまうこと」という意味になろう。人類学は、この意味での自文化中心主義を批判することにより、異文化解読の学として大手を振ってきたと言える。ところが、この自文化中心主義批判そのものの背後に、異文化のあり方を一方的に決めつけてしまう人類学的な思いこみが潜んでいるという批判が行われるようになってきた。特にサイードの『オリエンタリズム』が出版されて以来、この種の批判は堰を切ったように登場し、それは、ポストモダン人類学と称される一連の研究によってさらに助長されることになった。批判の要は、人類学が異文化を本質主義的に規定し、自文化とは異なる純粋な他者として把握してきたその姿勢であった。そして、西洋世界との接触以降の「未開社会」を対象としてきた人類学が、西洋的影響を取り除いた形での異文化性を強調してきた点が、植民地化という近代史の過程を考察しようとしてきた歴史人類学から批判されることになったのである。
 本論の目的は、『オリエンタリズム』以降絶えず行われてきた人類学批判を踏まえて、人類学が歴史とかかわるとしたらどういう視点からであるのかという点を考察することである。出発点として、構造・歴史人類学を打ち出したサーリンズと、それを本質主義的であると批判したトーマスの議論を整理する。トーマスのサーリンズ批判は、新しい歴史人類学を目指す彼自身の旧来の人類学に対する批判でもあり、その意味で歴史とかかわる人類学の新たな方向を示そうとする姿勢がよく現れている。しかし、本論は、トーマスの議論に与するのではない。本論では、本質主義批判という名のもとに行われてきた人類学批判をもう一度洗い直し、最終的には、サーリンズとは異なった地平に立つとしても、彼を擁護する立場から歴史を考えようとしている。その中で、日常生活における変動する真正さに着目し、それを多配列という概念で捉え直すことによって、そこから生まれる原理的客体化を考察する必要性を論じる。

T 構造と歴史

 サーリンズは、その著『歴史の島々』の中で構造・歴史人類学の立場を明確に打ち出している。彼の言う構造とは、「カテゴリー間の正しい関係、それらの組み合わせや組織の過程」であるが、それは「対比や対応の共時的図式ーたとえば、首長対人民は、外来者対土地の民、海対陸地、妻をめとる側対妻を与える側等々に等しい、といったー」ものとして想定されているのではない(サーリンズ 1993:119)。つまり、彼の言う構造とは、レヴィ=ストロース流の二項対立によって成立している固定された体系ではないということなのである。では、どの様な構造か。サーリンズは、続けて次の様に主張する。「神話を語ったり、儀礼を演じたりするのに、時間の移り変わりを欠くことができないように、構造は諸々のカテゴリーとその関係の生成的な発展なのである」(サーリンズ 1993:119)。つまり、サーリンズは変遷していく構造という概念を想定するのである。この、変遷していく構造という概念は、出来事という概念が導入されることによって具体化される。
 サーリンズは、出来事と構造が対立するのではなく(サーリンズ 1993:198)、出来事は、起こったことと構造を結びつける関係であると考えるのである(サーリンズ 1993:10)。そしてこうした意味での出来事は、「それに付与された価値ー起こったにすぎないことを宿命的な状況へと変換していく意味ーなくしては、理解できないのである」という主張に表われているように、構造によって意味を与えられると捉えるのである(サーリンズ 1993:200)。そして、単なる現象が有意味な価値として取り込まれるということから、歴史的な効力が生まれると考える。サーリンズは言う。「その大規模かつ強力な概念作用の中で、構造は変遷していく。それは世界の生成を繰り返すシステムにいたる、文化カテゴリーとその間の関係の動態的な展開となるのである。文化の生命過程のプログラムとして、そのシステムは内的(構造的)通時性をもち、本来的に一時的であり変化する。構造とは基本形態の文化的生命活動である。しかも、この通時性は構造的で反復するものであるがゆえにまさに、偶発的なできごとを取り込む宇宙論的企てとして、歴史的時間との対話に入るのである」(サーリンズ 1993:104)。彼は別のところで次のようにも言い換えている。「システムのない出来事はない。外発的な出来事・・・について言えば、出来事がどんな種類か、それが歴史的にどんな意味をもつのか、ということは、起こったことの“客観的諸属性”からだけでは読み取れない。特定の歴史的結果は、これらの諸属性が当該文化で取り上げられるその方法いかんにかかっている」(Sahlins 1991:43)。
 サーリンズは、この様に、出来事が当該文化の持つ構造によって意味を与えられて始めて歴史的結果として出現すると考えており、それは18世紀に起こったハワイ人によるクック殺害という歴史的出来事を例に論じられる。サーリンズによれば、クックがハワイにやってきたのはちょうど来訪神・ロノを迎えるマカヒキ祭の最中であり、ハワイの人々はこの異邦人をロノ神と見なすことで儀礼的に外部からの出来事を受け入れたという。そして人々はこの来訪神としてのクックをマカヒキ祭の手順に従って送り出したが、クックの側は途中、船のマストが折れたため再び引き返してしまった。ハワイの側からすれば来訪神ロノは、世俗の王・クーが勝利することにより送り出されることになるが、このロノ神=クックが再び戻ってくることは、世俗の王がまだ勝利していないことを意味する。そこで、クックはクーのロノ神に対する勝利を確定する意味で殺されることになった、というのである(サーリンズ 1993)。
  サーリンズは、出来事に対処する様々な行為について、次のようにも述べている。「というのも一方で、人々は自分達の企図を組織し、文化秩序の既存の了解から自分達の企図に意義を付与するからである。その意味で、文化は行為のうちに歴史的に再生産される。・・・しかし他方、行為に付随する状況が、なんらかの集団があてがう意義に従う必要がないように、人間は従来の図式を創造的に見直すことができる。この意味で、文化は行為のうちに歴史的にかわっていく」(サーリンズ 1993:1)。サーリンズは、このことをワグナーの言う文化の発明という概念を援用しつつ、次のようにも述べている。「現在にはいつも過去が、つまり、解釈のア・プリオリなシステムがあるのだとしても、(ニーチェがいうように)《自ら生きんとする生命》もまたあるのだから。これはロイ・ワグナー(1975年)が<文化の発明>と言い表したもののことに違いない。それは、文化概念を個人的企図として実現するとき、それらに付与される特有な、意味の経験的屈折のことだ」(サーリンズ 1993:197)。
 ここでサーリンズは、文化は歴史的に再生産されるという側面と歴史的に変遷するという側面を持つと論じているが、彼にとっては、おそらく両者は同時に発生するものであろう。というのは、当該文化の持つ構造が出来事に意味を与え、文化の枠組みを再生産するのだが、構造それ自体もこうした新たな事態によって変化せざるを得なくなるからである。サーリンズはワグナーを援用しながら個人的な文化の発明を論じているが、それは、“あるものを解釈するときにはア・プリオリなシステムがあるため、既存の文化秩序からの意義づけから逃れることは出来ないが、それと同時に、その既存の文化秩序それ自体も、多少の屈折を伴って変更されることになる”という意味であると考えることが出来よう1)。
 こうしたサーリンズの主張に対して、世界システム論との関連から批判が行われた。フリードマンは、「民族誌的現在というのは、ローカル過程とグローバル過程の相互作用、つまり、ヘゲモニックな中心が拡大することにより後背地の社会を統合的に取り込むことの歴史的産物である」(Friedman:10)と論じることにより、サーリンズが世界システムを考慮していない点をついたのである。これに対してサーリンズは猛然と反論した。彼は、「フリードマンの説明は、初期の西洋の著作に出現する原則、つまり、すべての有色人の背後には白人がいるに違いない、という原則を思い出させる。それは、あたかも現地の人々が自らの行動に対する自らの理由を見いだせなかったかのようである」(Sahlins 1988:48)と主張し、フリードマンを批判するととも、ハワイの人々がクックを見て大喜びしたという歴史的な報告をさして、「この歓喜について、世界システムというより高次の理論的知は我々に何も語ることは出来ない、ただ「それは間違いだ」という以外には」(Sahlins 1989:413)と述べることにより、世界システム論が歴史的な出来事を理解する上で有効ではないと主張した。しかし、リネキンが指摘するように、土着の知識やローカルな意味、そして文化的構造を明らかにしようとしてきた人文主義者的視点と、グローバルな経済システムと不平等性を強調してきた政治経済学的視点は、異なった分析レベルによって生み出されており、ローカルな視点とグローバルな視点は、特定の接触状況を分析する上では、相補的でなければならないというところが正解だろう(Linnekin 1991:206)。
 ところで、サーリンズ自身は、ヘゲモニックな中心と後背地という枠組みをとるフリードマンには反論したが、後に、ローカルな視点とグローバルな視点の相互作用という論点を自ら提示している。彼は、「ジンテーゼの結果、グローバルな力をローカルな活動の用語に移管し、逆に、ローカルな活動をグローバルな意義へと拡大することになる」(Sahlins 1991:81)と論じているのである。しかし、世界システム論からの批判は、結局、サーリンズはグローバルな意義の重要性を口にするが、彼のハワイにおけるクック殺害という歴史的な現実の分析には、それが反映されていないということになるのだろう。
 この世界システム論からの批判とほぼ同じ様なスタンスをもちながら、独自の歴史人類学的な視点から批判を展開したのがトーマスである。彼は、「サーリンズは、彼自身の意図にもかかわらず、外部から導入されたが土着的にオーケストレーションされたような(自分達の楽器で自分達流に演奏できるように編曲された)変化以外のいかなる文化変化をも認めようとしない」(括弧内は筆者の付記)(Thomas 1989a:62)と主張し、サーリンズの文化変化に対する取り組み、引いては、歴史というものの捉え方を批判したのである。トーマスは、サーリンズが土着の文化秩序の枠組みの中でのみ変化が生じると考えているという点を批判したのだが、このことは、実は、サーリンズ自身がジンテーゼの結果生まれるとした二つの現象の一つ、すなわち、「グローバルな力をローカルな活動の用語に移管」するということと関連している。彼は、ハワイにおけるクック殺害という歴史的な事件を、ハワイ人はクック到来というグローバルな力を、クックをロノ神に見立てることによって自らの文化秩序の範囲内で何とか解釈しようとした結果として生じた、という捉え方から論じたのである。しかし、確かに、もう一つの現象、つまり「ローカルな活動がグローバルにどういう意義を持つのか」ということについては何も語っていないと言えるのである。
 トーマスはさらに、こうしたサーリンズの歴史観は「ある種の一貫した体系とそれとは切り離された流れにある出来事」という古典的な二分法に従った議論であると指摘する。そして、サーリンズが描こうとしたのは、いかにハワイの側が伝統的なシステムに従って外来のものを自らのものへと読み替えて行ったのかということにすぎず、クックの到来によってハワイでどのような変化が起こったのかということについては何もわからない、と批判するのである。トーマスに言わせると、結局サーリンズは「・・・システムそのものの内部で生じた出来事や変換について描写していない」(Thomas 1989c:109)のであり、さらには、サーリンズは19世紀後半に起こった出来事、すなわち植民地状況については何も語っていない、ということになるのである(Thomas 1990:150)。
 トーマスの批判は、彼の言う「歴史的もつれ合い」という視点からなされたものである。確かにサーリンズの議論は西洋世界との関わりを「島民の視点から」のみ論じようとしているように思われる。しかし、こうした視点が、なぜ批判の対象となるのだろう。

U 歴史的もつれ合い

 トーマスは、西洋世界と非西洋世界の接触を見る見方としての以下の様な二分法を批判しようとした。それは、「真正で多かれ少なかれ単一の伝統体で、きわめて豊かで文化的複合に満ちているもの」と「宣教師や居住者といった人々による、雑多であまり興味をひかないし問題ともならない介入と西洋技術や換金作物のような革新」という二分法である(Thomas 1989c:11)。彼は、伝統的な人類学はこうした二分法に基づいて民族誌的記述を行ってきたため、前者ばかりが重視され後者が無視されるようなことが正当化されてきたと主張する。サーリンズの論法も、この意味での二分法に基づいているということなのであるが、こうした二分法に基づいた民族誌的記述は、「我々」と「彼ら」の明確な対比に基づいて行われ、「彼ら」の文化を「我々」の文化から全く異なったものとして位置づけ、両者の差異が過度に強調されることになる。その結果、両者の複雑なもつれあいが隠ぺいされると指摘する(Thomas 1991b:309)。しかし現実には、こうした「彼ら」と「我々」の間に生じる複雑な歴史的なもつれ合いによって、既に存在している諸制度は、植民地化する側とされる側両方がどの程度どういうふうにそれに力を注ぐかに応じて、再評価されたり再解釈されたりすると主張する(Thomas 1992a:226)。その例として、フィジーにおけるケレケレという慣習を取り上げている。トーマスによれば、フィジー固有の伝統的慣習と考えられてきたケレケレ(互酬性と再分配に基づく親族間の経済的やりとり)は、1860年代以前にフィジーに存在した証拠はないという。それが登場するのは植民地化の過程であり、植民地行政の中でフィジーの特徴と考えられてきたという。しかし、やがてそれが経済的な発展の阻害要因と考えられるようになり、それは禁止されていく。その過程でフィジー人は、西洋とは違う自らの文化の代表としてケレケレという慣習を客体化してゆき、それがフィジーの固有の伝統的慣習のように考えられるようになったというのである(Thomas 1992a)。
 こうした視点は、従来の人類学が持っていた「彼ら」の視点の重視という姿勢をも厳しく批判することになる。トーマスは言う。「太平洋の歴史は、島々の方に視点を会わせたものでなければならないだけではなく島民の視点から書かれねばならないという姿勢は、@現地の人々の様々な認識には不連続があることを無視し、植民地主義や新植民地主義による発展と様々にもつれ合うことから生じる多様な利害や歴史の間にある矛盾やあつれきを見過ごす。また、そうした視点はA当地のエリート、すなわち、権威のある歴史を構成せねばならない何等かの理由をもった人々との共犯関係によってつくられる」(Thomas 1990:153)。
 トーマスの議論について、いくつかの問題点が見いだせる。彼の著作を詳細に検討した結果、杉島は次のような問題点をかかげる。「トーマスの歴史研究は(特に最近のものほど)現実を提示するナラティヴが貧弱なことを特徴の一つとしており、そこで提示される現実は体系内分析や通文化対置を批判する目的や関心のためだけに奉仕しているといっても過言ではない。」「近代人類学のパラダイムから離脱するための新しいコンセプトを提示しえていない。」(杉島1996:90)。杉島の指摘はまさしく的を得ていると言えるもので、トーマスは全く新しい歴史人類学を提唱しているわりには新しいコンセプトを用意していないし、なによりも、彼の主張を裏付けるような現実の提示が不足している。トーマスの議論で最も顕著なのは、植民地行政府サイドの政策やものの見方が、そのまま「現地人」に反映するという前提に立っている点である。従って、歴史的もつれ合いから生じた出来事といっても、基本的には行政官サイドの記述が列挙されることになる(Thomas 1989b,1991a,1992b)。例えば、彼は、イギリスがフィジーを統治する時念頭に置いていた共同主義と個人主義の二分法(フィジーにおける共同主義が結局は商業発展を阻害している、などの見方)が、今日の発展を巡るフィジー人自身の議論に反映されていると論じているが、それを資料を用いて実証しているわけではない。彼は、確かに、地方のフィジー人が都市部のフィジーインディアンと接触するなどの過程によってこうした見方が浸透していったと述べているが、それの証拠を挙げている訳ではないのである(Thomas 1992b:324)。つまり、トーマスは、文書に出てくる統治者側の論点と、今日観察される事象とが似通っている、あるいは一致すれば、その間に何があったのか実証することなく、「歴史的もつれ合い」の結果生じたと論じる傾向があるのである。
 さて、トーマスは、西洋対非西洋という二分法に基づいた従来の人類学的視点を批判することから議論を始めており、その点こそがサーリンズとトーマスの違いであるという指摘も一般的に受け入れられるかもしれない(宮崎 1994:202)。彼はこうした視点から、植民地化する西洋の側と植民地化される非西洋の側との相互作用を議論しているが、彼がその中から描こうとしているのは、西洋と対峙し、その影響を主体的に客体化しつつ、それを活用する非西洋の側の人々の姿である。彼は「島民の側にたった」視点を批判しているが、それは流入してきた西洋的な要素をはぎ取った伝統的島民文化を見いだそうとする立場を批判しているのであって、結局は、トーマス自身も、西洋との絡み合いを考慮にいれた島民の視点を論じようとしているのである。しかし、そうであれば、白川が言うように、「トーマスは、オセアニアの人々が歴史的もつれあいの末に自らの社会に在来の事象を西洋的事象とは対局に位置づけられるものとして、差異化して捉えているという側面を強調している点で、結果的にオセアニアの人々の他者性を強調する立場に舞い戻ってしまっている」(白川 n.d.:152)という側面が見いだせることを否定することはできない。つまり、西洋の影響にいかに対処するのかという論点を追求すればするほど、議論は西洋と対抗する非西洋という図式にはまっていくことになるのである。しかも、トーマスの言う歴史的もつれ合いとは、結局、西洋=植民地化する側が持ち込む枠組みが変われば植民地化される側の反応、創造が変わるということを前提としている。つまり、植民地化にともなって出現する伝統の発明は被植民地側の受動的な反応を意味しているのであり、トーマスの様に西洋に対抗する現地の人々の主体的な反応を強調する立場は、逆に、西洋世界のゆるぎないヘゲモニーを証明していく立場となるのである。
 さて、トーマスは歴史的もつれ合いを論じる中で、客体化という視点を問題としている。一方サーリンズも、「こうして存在論的にかつてなかったことを、よく知っている概念に取り込むことによって、人々は彼らの現在を過去の中に埋め込んだのである」(サーリンズ 1993:188)という主張に見られるように、まさしく客体化という現象を問題にしていると言える。要するに、出来事によって構造が変化するという視点から歴史を捉えようと、西洋と非西洋のもつれ合いの中に歴史的出来事を捉えようと、歴史は客体化と呼ばれる事象深くかかわっているということになるのである。

V 客体化

 客体化という概念を巡って様々な議論が展開されているが、前川は、原理的客体化と操作的客体化という二つの客体化に区分しそれらを規定している。原理的客体化というのは、「人類学者がフィールドワークを行い、まずカルチュア・ショックを受け、とまどいながらもそれらを制御し、別の文化を持つ人々との相互作用の中で当該社会に受け入れられる過程において、その社会と文化がこういうものであると自分なりに規範化してゆく、つまり文化を創造してゆく過程を指している」(前川 1997a:620)。一方、操作的客体化というのは、意識的に差異性を強調し、自他の境界を顕在化し、過去の選択およびその現在における再文脈化を特徴とする。すなわち、操作的客体化においては、過去は作られ、過去との連続性は現在生きる人々が意図的に作ったものとなる(前川 1997a:621)。
 原理的客体化と操作的客体化は、しかし、それを定義した前川の意図に反して区分することが難しい。例えば、観光という現象の中における観光客の客体化について今福は次のように述べている。「写真のフレームによって切りとられたこの土地の風景や人々が、その時点で、周囲のいかなる社会的・文化的・政治的コンテクストからも切り離されてしまう。」「押し花のようにして保存され凍結された「経験」や「風景」の写真を前にして、故郷に帰還した彼らは喜々として「語り」始める」(今福 1994:68、76)。もし前川流に言えば、意識して差異化していないという点において、これは原理的客体化=すなわち自分の見たもの、体験したものを自分なりに把握しようとするための装置ということになる。しかし、それは意識せずとも、文脈からの切り放しなどの操作的客体化に見いだせる作業を行っているのである。また、トーマスの言う、フィジーの行政官による「フィジー文化の客体化」においても同様のことが見いだせる(Thomas 1989b:52)。この客体化の意味するところは、フィジーが西洋文化に対抗する形で自らの文化に対して行った客体化とは異なったもので、行政官がフィジーの文化の断片を収集し、自分の持っている枠組みで把握しようとしたそのあり方である。それは、異文化の自分なりの把握という点では原理的客体化と呼べるが、その内実は操作的客体化ということになるのである。
 二つの客体化概念が相互に関連しているということは、前川自身のカーゴカルトに関する議論においても見いだせる。前川は、「我々は原住民の荷物や技術や工芸品を見てそれを“文化”と呼び、彼らは我々の文化を見てそれを“カーゴ”と呼ぶ、という点で、二つの言葉(カーゴと文化)はある程度お互いの“鏡像”になっている」(括弧内は筆者の補足)(Wagner 1981:31)というワグナー流の解釈を踏まえて、「カーゴ・カルトに見いだされるカーゴ観(は)・・・異なる文化要素が否応なく与えられた際の、当事者の基本的な理解のあり方を示しているといえよう。すなわち、西洋文化の諸要素がもたらされた際、当事者は意識的・無意識的を問わず、既存の世界観によって、あるいは世界観に適応するように要素を選択して、伝統社会の意味体系に編入するのである。そこでは選択された要素の意味は変更され、新たな文脈の中で新たな意味をもってくる」(括弧内は筆者の補足)と主張する(前川 1997a:628)。彼はこれを原理的客体化の例として考えたいらしい。というのは、カーゴカルトはワグナーの言にそって「反転した人類学」(Wagner 1981:31)であると考えられており、人類学は原理的客体化によってフィールドの文化を把握すると彼が考えているからである。しかし、選択され、意味が変更され、再文脈化されるのであるから、これは明確に操作的客体化を指していることにもなるのである。
 この様に、客体化のあり方という視点からは明確な区分が困難な原理的客体化と操作的客体化ではあるが、ある基準を適用するれば両者が区分されるようである。それは、政治的な力関係という切り口を全面に出すか出さないかという基準である。前川の言う操作的客体化は、圧倒的な強さを持った文化に対し、凝縮した防衛的な意味会い、つまりアイデンティティの保持のための極端にステレオタイプ化された対立のイメージを自らの文化に与えるものであるとされる。そしてそれは、民族意識の主要な担い手や創り手、すなわち、運動家や政治的エリートの操作的ディスコースとして登場する(前川 1997a:622)。とすれば、前川の言う操作的客体化は、まさしく、政治的力関係の不均衡さと密接に関連しているということになるのである。これに対して原理的客体化では、こうした政治的力関係が問題とされていない。それはカーゴカルトの議論に端的に現れている。彼は、カーゴカルトを、圧倒的に優位に立つ西洋世界との接触によって非西洋世界の側に生じた社会宗教運動と見る視点よりも、むしろ、一般的な異文化接触によって生じた反応であるかのように捉えているのである。そもそも、ワグナーの言う文化の発明とは「日常の社会的生産」(Linnekin 1992:252)であると考えられるのだが、ワグナーに基づいた前川の原理的客体化に関する議論は、この様に、政治的力関係という切り口を交えない視点、つまり、押し寄せてくる異文化が政治的な力を背景にしていようといまいと、異文化との接触によって生じる文化変化およびその把握の仕方についての議論であると言うことが出来よう。
 こうした意味での原理的客体化は、サーリンズの視点と共通する。サーリンズが、「イギリスの《キング・ジョージ》を天上界的マナのモデルとするようになったハワイの首長は、もはやもと通りの首長ではないし、その臣民との関係も同じではない」(サーリンズ 1993:186)と主張するとき、彼は強力な力を持ったイギリスと歴史に翻弄されたハワイという対比を行っているのではなく、単に、異なった文化の要素をどの様に受容するのかという「異文化接触」全般についての議論を行っていると考えられるのである。そして、こうした外的な出来事をどのように排除し、受容するのかというところで生じる「存在論的にかつてなかったことを、よく知っている概念に取り込むこと」という作業によって、現在が過去に埋め込まれるのである。つまり、サーリンズの言う歴史は、前川の言う原理的客体化(たとえそのあり方が操作的であっても、政治的力関係を前提にしないという点で)による構造の変遷ということになるであろう。
 これに対してトーマスの想定する歴史は、明確に、圧倒的な政治的強者である西洋世界と弱者である非西洋世界の接触が前提となっている。その歴史的もつれ合いの中で生じるとされる客体化は、フィジーにおける行政官の行ったフィジー文化に対する「客体化」であろうと、フィジー人による自文化の「客体化」(例えばフィジー独自の文化としてのケレケレ)であろうと、ともに、植民地化を政治的力関係が実現される場と捉える視点と不可分の関係にあり、それは、異文化をどの様に受け入れどの様に消化するのかという論点とは異なった地平から登場してくるものである。まさに、前川の言う操作的客体化の例として考えることが出来よう。
 さて、政治的に不均衡な力関係という切り口から想定される客体化は、接触する当事者双方の対立を前提にしており、どちらの側から他方を捉えても、必然的に対抗的な性質を帯びるようになる。その意味で、前川の言う操作的客体化という用語は、対抗的客体化と呼び変える方が適切であろう。そして、様々に議論されてきた客体化という現象の多くは、実は、対抗的客体化としての性格を持つものとして議論されてきたのである(cf. Thomas 1992a,Linnekin 1992)。例えば太田は、「文化の客体化とは、文化を操作できる対象として新たに作り上げることである」という規定の基に、ニューギニアで生じたパリアウ運動について次のように整理している。「パイラウ(パリアウ)は親族関係優先主義から共同体主義へ、婚姻は村落政治優先から個人の選択へというように、独自の平等主義を根底にすえた社会改革運動を開始した。このような平等主義は、親族関係優先の人間関係やポリティカルな動機による婚姻を是認するシステムとして、パイラウが伝統文化を客体化し、それに対抗する価値観によって自己の運動を裏打ちした」(括弧内は筆者の補足)(太田 1993a:391)。まさに対抗的客体化と呼ぶことが出来るような特徴が描かれている。また、トーマスの視点が「対抗・創造」型と呼ばれ、その理論では「潜在的な共通要素が新しい経済の論理に触発されて陰画的に配置しなおされ、対抗的文化を作り上げる」(春日 1995:107-108)と指摘されるのも、彼の客体化概念が対抗的客体化であるということから理解されよう。
 歴史的もつれ合いというトーマスの概念は、「自己」と「他者」の二分法を批判するところから出発しているということをすでに紹介したが、彼の視点は、サイードによって提起されたオリエンタリズム批判を基盤としている。それ故、彼の客体化論はオリエンタリズム批判から生まれているわけであるが、しかし、その客体化が「対抗的」図式とかかわっているということであれば、議論は複雑になる。というのも、異文化を捉えるときに対抗的にそして意識的にそれを客体化することは、必然的にオリエンタリズムに陥ることになるのではないか、という疑問が浮かぶからである。

W オリエンタリズム

 オリエンタリズムとは、基本的に異文化、あるいは他者を見る見方に関するものであるが、その問題点は、強者が弱者に対して支配的な言説を行使することであると言われており、声なきオリエントに代わってオリエントについて語るオリエンタリストの視点こそが批判の対象となってきた(太田1993b:479)。つまり、オリエンタリズムは、支配と被支配という力関係から生み出されるものであり、支配者の側が、真正のものが存在するという確信を持ち他者の他者性を本質主義的に強調する視点として批判されてきた。トーマスが力点を込めて論じた「自己と他者の二分法」批判の議論も、この点を最も強調したものであった。しかし、強者の弱者に対する語りということを主眼としたオリエンタリズム批判には、問題点がないわけではない。その一つが、語りの内容が多様であるという点が見過ごされてしまうということである。
 サイードは、18世紀末から19世紀にかけて登場した近代オリエンタリズムをイスラム世界を主たる議論の対象として論じた(サイード 1993:102,104)。そこでは、西洋にとって脅威にも成りえた存在としてのイスラム世界を西洋側がいかに整理していったかが論じられ、その過程で、西洋世界にはないもの、あるいは、西洋世界から排除されるものをイスラム世界に押し付けることにより、他者性が創り出されていく姿が描かれている。しかし、こうしたイスラム世界への対応は、例えば、19世紀の西洋のブラック・アフリカ世界への対応とは異なっていた点があることを無視することは出来ない。
 レンジャーは次のように述べている。「あれやこれやの新=伝統に属しているヨーロッパ人は、自分達が慣習的なことを重んじていると信じていた。彼らは昔から定まっている特権という考え方を好んだ。・・・ヨーロッパ人たちがアフリカの慣習を考えるとき、彼らは当然そこにも同様の特徴があると考えた。アフリカ社会はまったく保守的である・・・という白人たちの主張は、決していつもアフリカの後進性、あるいは近代化への乗り気でない態度への告発として意図されたものではなかった。たとえそれがまったくお門違いなお世辞であったとしても、しばしばそれは伝統のすばらしい特質についての褒め言葉として意図されたものであった」(レンジャー 1992:377-378)。このレンジャーの指摘は、「他者性」概念を考えさせる。確かに西洋世界は「他者」としてのアフリカを語っているし、物言わぬアフリカに成り変わってアフリカ文化を代弁していると言えるかも知れない。しかし,西洋は、誤解に基づいたものであるとは言え、自らと同じ特質をアフリカに見いだそうとしているのである。彼らは、アフリカを他者として閉じこめるためにアフリカらしい伝統、真正なアフリカ文化を求めたとは言い難いであろう。ここには、ある意味で脅威となり、敵になったイスラム世界への視点とは異なった視点が見いだせるのである。
 こうした西洋側の視点の多様性は、太平洋という西洋にとって全く隣接もしないし脅威でもない「楽園=未開」地域を例にとればさらに鮮明になる。この地域は、クックやブライによって比較的詳しく紹介されたことにより西洋世界に知られるようになり、イギリスおけるエヴァンジェリカル・リヴァイバルによる福音熱によって18世紀末に結成されたロンドン伝道協会の最初の伝道地として選定された。この伝導団は、当時としては最大級の大きさを誇る船、ダフ号でタヒチに向かったが、伝道団の内実は、福音を伝えるという熱意とは多少のズレを見せていた。というのは、30名余りの伝道団のうち牧師はたったの4人で、残りは、大工、建具職人、鍛冶屋、洋裁職人、煉瓦職人、庭師などの平均年齢26才という若い職人達であったからである。この背後には、野蛮人には布教の精神は分からないから、西洋の機械や技術の恩恵を見せることによって改宗させようという視点があったのである(Garret 1982:11-12)。それは、他者の設定であることには違いないが、他者に真正性を認める姿勢はなく、オリエンタリズムで議論になる「代理の思想」からもほど遠い姿なのである。
 以上三つのケースは、確かに強者としての、あるいは支配者としての西洋世界が弱者としての非西洋世界を語ったものであることには違いがないが、その語りの内容、あるいは他者性の設定の仕方は異なっている。もちろん、時代的背景やそれらの語りの主体となった人々の違いも考慮する必要がある。しかし、だからこそ、これらすべてをオリエンタリズムという概念でまとめることは、むしろ語りの中身や語りの主体の多様性を隠ぺいしてしまうことにもつながりかねないのである。
 さらに、オリエンタリズムを強者の弱者に対する見方という点からのみ捉えると、政治的に強者である者の語りは常にオリエンタリズムの批判を受け、逆に、弱者の語りは常に正当化されるという結果を生み出しかねない。つまり、そこでは政治的弱者が勝者となるのだ。しかし、それも単純にはゆかない。というのも、何が政治的弱者であるのかという問題が簡単にはクリア出来ないからである。例えば、植民地化という状況が継続的に進行していた時代には、確かに、被植民地社会は政治的弱者として位置づけることが可能であった。しかし時代は変わって、ポストコロニアル時代を迎えた。ここでは、被支配者とされてきたオリエント世界と支配者の関係、あるいは、オリエント世界の被観察者の位置にあった人々と西洋世界からの観察者との関係は変化してきている。キージングが言うように、「ソロモンの政治家はソロモンにくる他国の研究者より力を持っている」(Keesing 1990:298)のであり、ポストコロニアルな状況では、力関係は植民地化する側と植民地化される側という単純な二項対立的図式を越えて、より複雑な関係を作り出していることが現状であろう2)。そこでは、「ポストコロニアル・エリートによる文化的ナショナリスト言説は、土着性や真正性を外国人や異人や開発者に突きつけつつ、階級的利益や新植民地主義、そして後背の村人達の不法利用や貧窮化という現実を覆い隠すイデオロギー的な煙幕をはっている」とキージングが指摘するような現実さえ生まれているのである(Keesing 1990:298)。後背地の村人達という表現で、キージングはサバルタン概念を念頭に置いており、彼の議論はオリエント国家とサバルタンという対比に置かれることになる。この点は後に取り上げるとして、ここではオリエント国家の側の自文化に対する言説にも批判の目が向けられているという点に留意しておこう。
 こうした状況を見据えてキャリアは、西洋世界が異人(彼の言葉ではエイリアン)を本質主義的に捉えることをオリエンタリズムと考えると同時に、西洋が異人との対比において西洋自身を本質主義的に捉えることをオクシデンタリズムと呼んでいる。そして、こうした視点からさらに二つの概念を提唱している。一つはエスノ・オリエンタリズムであり、他の一つはエスノ・オクシデンタリズムである。前者は、「彼ら=エイリアン」が「彼ら」の社会を本質主義的に捉えることであり、伝統概念(例えばメラネシアのピジン語におけるカストムなど)の創造などがその例であるとされる。一方後者は、「彼ら」が「西洋」を本質主義的に捉えることで、エスノ・オリエンタリズムへの対抗としてエスノ・オクシデンタリズムが出現すると論じている(Carrier 1992:198)。キャリアの議論は、エイリアンという用語を用いて非西洋世界の人々を指している点や、オリエンタリズムという言葉を西洋がエイリアンと見なしている人々の居る地域に対する見方として用いている点、さらには、西洋からの見方には限定詞なしのオリエンタリズム、オクシデンタリズムという用語を用いているのに対して、非西洋(要するに西洋からオリエントと位置づけられた地域)からの見方には「エスノ」という限定詞を用いて表現しているなど、問題がないわけではない。しかし、彼の議論はすべて対抗的客体化とかかわっており、対抗的客体化それ自体が認識論的にはオリエンタリズム(あるいはその倒置形態のオクシデンタリズム)を内包していることを指摘している点は、重要であろう。そしてキージングが、「ソロモンの政治家はソロモンにくる研究者より力を持っている」と言うとき、ソロモンという従来ならば弱者としてのオリエントとして位置づけられていたところの政治家が、現在は、西洋世界からやってくる、弱者の代弁者とされてきたソロモン研究者よりも力を持っているということを意味しているのであり、「ポストコロニアル・エリートの言説は隠蔽のための煙幕をはっている」と言うとき、ソロモンの政治家の側が自文化を本質主義的に見た場合、もはや弱者の論理として放置されるのではなく、やはり、オリエンタリズムとしての批判の対象になるということを言っているのである。
 オリエンタリズムを政治的に読むことは必要だが、それを政治的にだけ読むことは、支配ー非支配の図式から抜け出せなくなる危険を伴う。すなわち、支配ー被支配の関係はとりあげる項の設定の仕方で変化するものであり、ある状況で支配するものに位置づけられていても別の状況で支配されるものに変化するため、オリエンタリズムは結局全ての項に対して批判として投げかけられることになるのである。もちろん、グローバルな規模における西洋世界のゆるぎないヘゲモニーという視点から、支配ー被支配を捉えることは可能ではある。しかし、その場合には、植民地化を経て独立を達成した国家のエリートの論理を、弱者の論理として受け入れざるを得なくなる一方、どんな論理であれ、西洋世界からの語りはすべてオリエンタリズムの批判を免れなくなる。こうして、議論は硬直した状態に陥ってしまうのである。我々は、政治的な読みに加えて、認識のあり方としてのオリエンタリズムを(これまで様々に批判されてきたことを十分承知の上で)あえて再び問題にすべきであろう。そこで問題とすべきなのは、本質主義的なものの見方そのものなのである。本質主義的なものの見方は、単一のリアリティを前提とする。異文化が単一のリアリティとして捉えられた時、そして、自文化を単一のリアリティとして把握した時、そこに本質主義的なものの見方が忍び寄ってくる。歴史的もつれ合いという設定の中で必然的に登場してくる対抗的客体化は、自己および他者を単一のリアリティとして把握するところから生み出されるのであり、トーマスの議論が最終的にオリエンタリズム的であるという批判を免れないと言ったのもこうした視点からなのである。

X 純粋な文化

 オリエンタリズム批判の中で、そしてそれに続く歴史人類学からの人類学批判の中で、「純粋な文化」論批判というものも登場してきた。純粋な文化という捉え方は、「彼ら」と「我々」という二分法において、彼らを「真正で多かれ少なかれ単一の伝統体で、きわめて豊かで文化的複合に満ちているもの」(Thomas 1989c:11)として把握することから生み出される。こうした純粋文化論では、他者の側での変化というものを認めない、あるいは変化が起こってもそうした変化を取り除いたり修復したりした形での他者記述を行うという姿勢が見いだせたが、その点がまさに批判の対象となったのである。人類学が他者として設定した未開社会に関して、清水は「調査地の社会・文化・その現状」は「固有の社会・文化、その衰退」+「外的影響」という図式で捉えられてきたと指摘し、未開文化は外的影響によって変化するのではなく衰退してしまうと捉えられた「永遠の未開文化」論を批判した(清水 1992a:428-438)。同様に太田は「過去に存在した純粋な文化が、外部の影響によって消え去って行くというエントロピックな語りは、多くの人類学者にとり違和感なく受け入れられてきたはずだ」と指摘した後、消え行く純粋な文化というエントロピックな語りは、対象社会にすむ人々の主体性を否定すると論じている(太田 1993a:387-388)。
 太田の「消え行く伝統文化」論批判は、サルベージ人類学として批判された人類学的研究姿勢、つまり、消え行く伝統文化を今のうちに記録しておかなければならない、という姿勢を批判する立場と共通のものであり、消え行く文化に成り変わってそれを代弁しようとする点で、批判の対象になるであろう。しかし、消え行く伝統文化を記録するという姿勢と、外的影響によって伝統文化が消え行くと捉える姿勢とは、微妙に異なっている。というのは、前者は明確に「代理」の視点を持っているが、後者はそれを持っているとは言えないからである。もちろん、清水や太田は、この後者の姿勢は社会・文化というものが外的影響との相互作用の中で不断に生成するものであるということを無視する、という点で批判を行っているのであり、その点は十分了解可能である。しかし、この批判をもって純粋な文化論は一掃されてしまって良いのだろうか。
 こうした疑問を呈するのは、純粋な伝統文化という視点に、本質主義的な見方という烙印を押すことによって、それが持つ別の側面が封印されてしまっているのではないかと考えるからである。一般に、オリエンタリズム批判の様に影響力のある大きな批判が登場すると、その批判がまるで伝家の宝刀であるかのようにしてすべてを切取ってしまう傾向があるが、こうした傾向性をこそ批判の対象に据えなければならない。もちろん、例えば清水の言う永遠の未開文化論批判がこうした傾向にあるというつもりはない(cf.清水 1998)。そうした議論から派生する、あるいはそれを自明のものとして議論する中に、上記の落し穴が潜むことがあると言いたいのである。今の議論で言えば、外的影響を取り除いて純粋な文化を描こうとしてきた従来の記述を批判するあまり、外的影響を受ける以前の状態を設定することを否定し、そのため、その影響で何がどの様に変化していくのかという点を問うことが出来ないとすれば、それは問題にされるべきであろう。要するに、変化のあり方を考察するためには、変化が起こる以前と以後の状態を設定する必要があるのだが、純粋な文化論批判は、ともすると、そうした設定そのものさえも否定してしまうため、不断に変化し生成する文化を論じるにもかかわらず、その変化のあり方については口をつぐんでしまう危険を伴っているのである。
 サーリンズが構造と出来事という概念で歴史を語ろうとした時、彼は外的影響以前の状態である構造を設定していたのであり、それがいかに変化するのかが議論の課題であった。サーリンズを批判し彼とは全く異なる視点から歴史的もつれ合を論じたトーマスではあるが、彼でさえも、西洋世界からの外的影響を受ける以前の島社会の状態と以後の状態との違いを常に念頭に置いた上で、外的影響との相互作用を論じたのである。このことは、両者に対する様々な批判や反論を考慮しても、歴史とかかわろうとしている限りは、外的影響を受ける前の文化という設定をおこなう必要があるということを意味しているように思えるのである。
 さらに、純粋な文化論批判は外的影響との不断の相互作用を問題とするが、相互作用が不断のものであるという点を強調するあまり、どのような外的影響であっても同じ様な相互作用が生じるような錯覚を与えてしまうことがある。しかし、植民地化による影響とそれ以外の要因による外的影響とは、同列で論じられないように考慮せねばならないだろう。植民地化という現象は様々に論じられてきた。当初、圧倒的強者としての植民地化する側の文化と弱者としての植民地化される側の文化という二分法が一般的に流通していたが、それに対する反発として、弱者の側にも受身だけではない積極的な働きかけや対応が存在するという議論が出現してきた。こうした流れの中に、実は、純粋な文化論批判が位置づけられるのである。しかし、松田がアフリカ社会を例に強調するように「植民地の文化は、ヨーロッパが持ち込んだ文化に対してアフリカ人が主体的に対応する過程であると述べるとき、両者が同一の土俵に登っているかのようにも捉えられる。しかしそれは幻想にすぎない。そこには構造的強者と弱者の厳然たる区分がある」のである(松田 1997:281)。
 植民地化とは異なる通常の異文化接触においては、確かに、外的な影響との相互行為であったかもしれないが、植民地化とは、植民地化する社会の文化だけが有利な条件におかれるように仕組まれた、いびつな異文化接触なのであり(吉岡 1988:165-166)、そこでは力関係を背景とした一方通行の作用が生み出されるのである。どの文化も確かに異文化接触を経験し、絶えず外的な影響を受けているという点では常に変化している。しかしその場合には取捨選択の余地を残し、自らの視点からそれらを変形させることも可能である。しかし、植民地化による異文化接触では、外的影響を取捨選択する可能性は制限され、外的な影響は通常の異文化接触による受容とは異なるものとして存在することになる。そもそも、植民地化による異文化接触が特異なものであったという認識が、植民地状況という特殊な空間概念を生み出したのだし、植民地化する側とされる側との優劣の力関係が明確に見えるところから、異文化の捉え方が政治的、対抗的になってきたのである。
 そして何よりも、植民地化による外的影響とそれ以前の外的影響とでは、近代との関わりが異なるという点を認識しておく必要があろう。植民地化以前の接触による外的影響は、近代の生み出したものとの関わりを持たなかったが、植民地化によるいびつな異文化接触は、近代を、あるいは近代の枠組みを取捨選択の余地なく押し付ける外的影響として現れた。そして、この近代の枠組みこそが、客体化を決定的に方向づけることになったのである。レンジャーが正しく認識していたように、西洋と接触する以前のアフリカ社会では「慣習というものは穏やかに定義され、そして非常に融通性のあるものであった」のに対して、ヨーロッパ世界で近代がつくりだした伝統に対する視点は「融通のなさが特徴であった」のである(レンジャー 1992:377-278)。この融通のなさというのが、松田の言う「100%と0%の共感」という性質であり(松田 1992:29)、清水の言う「自己のかかわる換喩関係が提喩関係に変換させられる」ことによって作り出されたものであり(清水 1992b:90)、この視点こそが、リアリティが一つであるという前提により他者を本質主義的に規定する視点をもたらしたのだ。オリエント国家が自文化を本質主義的に規定するエスノ・オリエンタリズムについて既に触れたが、まさしく植民地化がもたらした近代の枠組みの適用ということになろう。
 それ故、植民地化の過程に議論の中心を設定したトーマスがそこで生じる客体化を対抗的なものとして捉えたのは、たとえそれが本質主義的なものに舞い戻ってしまっていると言われようとも、ある意味で正しい把握だったということである。というのも、植民地化の過程で生じた様々な運動体が用いた戦略が、近代の枠組みを用いながら作り出した対抗的客体化だったからである。一方、植民地状況が浸透してしまわない段階での西洋世界との接触を議論の中心においたサーリンズは、人々の反応を原理的客体化として論じようとしたが、それも当然のことであったと言えよう。というのも、植民地化以前の状況での外的影響というのは、受け止める側の構造が、入ってきた外的影響を取捨選択した上で「編曲」して取り入れるというやり方をとっていたからである。それゆえ、近代の枠組みを伴わない客体化は、対抗的ではなかったであろうし、そのやり方自体も本質主義的ではなかったと考えられるのである。サーリンズの議論は、「彼ら」と「我々」という二分法に基づいた議論であり、本質質主義的であると批判されているが、すでに述べたように、変遷を考えるのであれば外的影響を受ける以前の「彼ら」の構造を想定することは不当なことではないし、「彼ら」の原理的客体化のあり方を論じることに、本質主義的というレッテルを貼るべきではないだろう。

Y 真正さとリアリズム

 純粋な文化論批判との関連で、太田は次のように述べている。つまり、伝統や文化は現在生きている人々が不断に築きあげるものであり、過去に行われたものが「真正」で現在復活したものは「真正ではない」というロジックは批判されねばならない。(太田1993b:477)。太田の批判はまさに正当なものであり、それに反論するつもりはないが、しかし、ここで留意しておく必要があるのは、すでに述べたように、批判されるべきは、過去のものを重視し近代の影響を受けたものをつまらないものとして無視、ないしは切り捨ててきた姿勢であって、過去行われたものと現在復活したもの違いを認識するという点ではないということである。過去と現在の違いは、なにも人類学者が独断と偏見で見いだしたものとは限らない。「当該社会の人々」の語りの中に、「これはかつてあったものとは異なる」という解説が含まれることは珍しいことではないのである。
 メラネシアのヴァヌアツ共和国、北部ラガの人々もそうした語りをする人々である。彼らは「かつて」や「昔」という時間設定を行い、そこでは、「昔はこうしたことは認められなかったが、今ではみんなこうしている」という類の台詞がしばしば登場する。そして、こうした台詞と結び付いて登場するのが、「そのやり方は正しいがこちらは間違っている」という認定なのである。北部ラガ社会では、自分達の伝統をシロン・ファヌア(silon vanua)やアレガン・ファヌア(ale@an vanua)という概念で示している。前者は「島の法、あるいは土地の法」と訳せる概念で、昔から続いていると人々が認識している慣習、ルール、規範を意味し、後者は「島の流儀、土地の流儀」と訳せる概念で、シロン・ファヌアに従った営みを意味する。この北部ラガ社会では、「以前と違う」ということは批判を意味し、「以前と変わらず同じである」というのが賞賛の意味になる。そして、人々にとっては、過去にあったとされるものが「正しい」のであり、それから逸脱した形で復活したものは「間違っている」し、変化してきたやり方も「間違っている」と認識されるのである3)。太田は、「換言すれば、文化や伝統はある価値体系によって解釈された結果、はじめて「真正さ」を獲得する」(太田 1993a:391)と述べているが、その意味では、北部ラガにおいて認識される「正しさ」は、ある意味で真正さを獲得していると言えることになるのである。
 しかしここで注意しなければならないのは、この意味での真正さは揺れ動くということである。つまり、北部ラガの人々のとらえる正しいやり方としてのアレガン・ファヌアは、外的影響を受けつつ変動するということである。それは儀礼の説明に端的に現れている。人々は、ボロロリと呼ばれる位階階梯制を具現する儀礼の中で、様々な支払いや交換を行うが、支払いの対象となるものが変遷してきているという。本来北部ラガでは、ダンスをするときにある種の葉を背にさす権利だけが支払いの対象であったが、隣島のアンバエ島から、それ以外のものをも購入する儀礼的やり方が入ってきて、現在は支払い対象が増えたという。人々は現在、こうして変化したものも、アレガン・ファヌアとして意識の中に定着させている。一方、儀礼の中で行われる豚のやり取りに関して、「昔はこうしたことはしてなかったが、今は違う」という解釈を挟むことによって、仕方なしにアレガン・ファヌアとして認めるというものもある(吉岡 1998a:229-230)。そして、現在でも「間違いだ」と批判されるようなやり方も存在するが、それはやがては「黙認」という形態へと変化をとげ、ついには「正しい」という認識に至るのである。つまり、人々の言う「正しさ」は変化するのである。それは外的影響を被りつつそれを受け入れて変化していくのである。しかし、人々はそれでも「正しい」ものと「間違ったもの」をいつの時点でも設定しているという点で、常に変動する真正さが存在すると言えるのである4)。小田は、ポストモダン人類学を批判する中で次の様に主張している。「ポストモダン人類学(ポストコロニアル人類学)が、そこで支払っている代価は、現実の表象すべてを排除する反リアリズム論と同様に、文化の「真正さ」すべてを本質主義として退けることによって、人々が生活の場においてそのつど認めている生活の文化の「真正さ」をも否定してしまうという代価」である(小田 1996:841)。まさに、的を得た指摘であろう。
 生活の場における真正さを認めることは、反リアリズム論を批判するという立場に連なることになる。というのも、本質主義的というラベルのもとに、すべての真正さが否定されてきたように、すべてのリアリティを求める視点は批判されてきたからである。例えば、杉島は民族誌的リアリズムを批判する。彼は、民族誌的リアリズムというのは「民族誌には異文化の現実が正確にしかも全体的に表象されているということである」と規定しつつ、「民族誌を書くことで消滅しつつある文化を救出できるという信念は、前者が後者を「代理=表象」するという発想と同根のものといえる」と批判する(杉島 1995:200)。そして、「民族誌的リアリズムは本質的に「単声的」(monophonic)な権威であり、住民の声に発言の余地をあたえないという点で「植民地主義的な表象の様式」(colonial mode of representation)あるいは「オリエンタリズム」・・・と批判されてもしかたのない性質をもっている」と指摘している(杉島 1995:202)。「単声的」というのは、言うまでもなく、リアリティは単一であるという視点に立った見方であり、その単一のものこそが真正なものであるとする視点である。この視点は批判されるべきだろうが、そうした批判が成立するからといって「多声的」とでも呼べるリアリズムの存在を否定することにはならない。それは、リアリティは単一ではなく複数存在しうるという視点である。
 この点についてもう少し説明しよう。キージングは、次のような問いを発している。つまり、考古学的な発掘によって解明される人々の歴史と、起源神話にもとづく人々の歴史、すなわち学者のディスコースと文化的なディスコースは異なっているが、発掘に基づく人々の歴史を問題にすることは、時、宇宙などに関する西洋的仮説をヘゲモニックに押し付けているだけではないのか、と(Keesing 1990:297)。彼は、西洋的な歴史を唯一のリアリティとして認識することを批判している点で、単声的リアリズム批判の立場に立っている。しかし、その単声的リアリズムを批判するだけではなく、もう一つある声に基づく歴史の存在をも認定しようとしているのである。キージングは、また、ソロモン諸島の植民史におけるベル殺害事件を徹底的に調査した結果、「ベル虐殺とその結果についての“真の”そして権威ある説明というものは、存在しないし、存在し得ない」とも述べている(Keesing 1990:299)。これは、彼が調査した結果判明したベル虐殺事件の解釈も、虐殺に加わった人々の側からの解釈も、虐殺者の征伐に参加した人々の側の解釈も、どれも異なっていたため、どれも「真実ではない」という結論に到達したということなのである。確かに単声的なリアリティを否定する見方ではあるが、これは逆に言えば、それぞれの人々にとってはそれぞれがリアリティを持っているとも言えるのではないか。これが、ここで「多声的」と呼んだリアリズムである5)。
 リアリズムを本質主義と捉えるのは、リアリティは一つであるとする立場である。しかし、リアリティは複数存在し、それは人によって変わると考える立場もある。後者の立場に立てば、思い込みや間違いも含めて、それはリアリティの一つであるということになる。しかし、個々のリアリティは他者に共有されてこそコミュニケーションが成立するのであり、共有されるリアリティがその社会の「真正」の伝統、すなわち人々の考える「正しいやり方」となりうるのである。しかし、共有されるリアリティは複数存在するのであり、その内の一つが全面に出ていてもその次には別のものがとってかわるという具合いに、それは自由に変貌する。その意味では、リアリティはいいかげんな基準で出来上がっていると言えるが、しかし、それはいいかげんなものとして認識されているわけではない点が、リアリティのリアリティらしさを作り出しているのである。

Z 歴史記述の基点としての名もなき人々

 メラネシアにおける自らの伝統に対する評価のあり方に関連して、ジョリは次のように述べている。つまり、伝統に対する否定的評価から再評価への歴史的変遷がメラネシア各地で見いだせるが、ローカルな再評価と国家的再評価の間の違いが重要であり、人類学者は後者を批判し前者に賛意を表明するように成ってきている(Jolly 1992:61)。ジョリがローカルという表現で具体的に念頭に置いているのは、パリアウ運動(あるいは近年のマカサル運動)などの運動であり、その意味では、彼女は、国家ではなく、国家に対抗する、あるいは、国家に何等かのインパクトを与えてきた運動体のほうに視点をあわせるべきであると主張していると言えよう。この立場は、「太平洋の歴史は島民の視点から書かれねばならないという姿勢は、当地のエリート、すなわち、権威のある歴史を構成せねばならない何等かの理由をもった人々との共犯関係によってつくられる」と主張したトーマスの立場と共通するものである。トーマスも、植民地から独立した新たな国家のエリートの言説に荷担することを批判する一方、土着主義運動のリーダー達や伝統の創造に関与した知識人達に焦点をあわせていたからである(Thomas 1990:225)6)。
 彼らに対して、キージングは異なった道を選んだ。彼は、「サバルタンを見つけるためには、現在を代表し過去を要求できるこの“内部者”によってはられた煙幕を突き抜けなければならない」と論じていることから理解できるように、サバルタンという概念を用いることによって国家エリートでもない、運動のリーダーでもない多数の人々を描こうとしているかのようである(Keesing 1990:299)7)。サバルタンとは従属した状態にある人々を指すが、「「エリート」と定義した人々を差し引いて、その後に残った人々」と規定されるように、支配集団を構成するエリートと対立する概念として設定されている(グハ 1998b:22-23)。その意味で、サバルタン概念は反エリートの立場を貫く。
 例えば、サバルタン研究を推進したグハは、サバルタンに視点をおいた歴史記述の意義を論じる中で、従来から行われてきたインド・ナショナリズムについての二種類の歴史記述をエリート主義として批判している。彼が批判したエリート主義のうちの一つは、「インド・ナショナリズムとは、支配されていた民衆を解放に導いた、土着のエリートの理想主義的な大事業だった」というナショナリスト的な捉え方であり、他の一つは植民地主義的と呼ばれたもので、「植民地主義が持ち込んだ制度・機会・資源などの刺激に対応するために、インドのエリートはそれなりに活動し、彼らの思想を残した」という捉え方である(グハ 1998b:12-13)。サバルタン研究は、こうしたエリート主義的な見方によって成立する歴史記述が排除してきた下層民衆=サバルタン階級を主体とした歴史を論じようとしてきた。しかし、「非正統的なものとされてきたサバルタンが、学的言説の内部にその非正統性を認知されることをつうじて主体として位置づけられた瞬間に、その非正統性のゆえに正統な位置を占める」(崎山 1996:168)という矛盾に直面し、サバルタン研究はその対象を、主体性をもった被抑圧者による反乱から、断片性を特徴とした声なき人々による日常的抵抗へと移行させていった。つまり、歴史記述の基点となる場所を、日常を生きる名もなき人々へと設定するようになったということなのである。
 ところで、グハの批判した二つのエリート主義的歴史記述のうち後者の植民地主義的歴史記述は、「植民地化する側がもたらしたものに対処する形で、現地の人々が何かを創り出す」という視点からなされた記述であり、それはまさしく、トーマスの言う歴史的もつれ合いによる客体化と関連することになる。すでに述べたように、トーマスは国家エリートの言説から離れることを主張したが、彼は国家と対抗する「名のある人々」、すなわち、運動のリーダーや伝統文化に関する知識人などの言説を取り上げたことは確かなことである(cf.Thomas 1992a:225)。彼ら「名のある人々」は、「名もなき人々」に比べると、明らかに従属しない立場に立つ。その意味で、彼らも住民側のエリートなのである。サバルタン研究が徹底した反エリート主義を貫くことで名もない人々の研究へと変形したことを考えれば、トーマスの議論も、ある意味でエリート主義として批判されるべき立場ということになるであろう。
 さて、名もなき人々の日常を問題にしようという視点は、近年活発な議論を生み出している。そしてそれらの議論は、互いに関連している三つの捉え方を持っているように思える。一つは、名もなき個人の日常的活動を、支配システムに対する抵抗であると見る捉え方である。例えば松田は、システムの革命や改変には直接結びつかないような日常の抵抗形態を取り上げ、さぼる、ちょろまかす、嘘をつく、逃げるといったとるに足らない非英雄的な実践を行う名もなき個人こそが、世界規模の支配システムに抑圧されながらも、日常の生を能動的に生き抜く創造的主体であると考えるのである(松田 1996:41)。日常における「誰でもない者」が繰り広げる戦術を問題とするセルトーも、少し異なるが似たような視点に立っていると言える。セルトーは、企業や軍隊や都市などの主体が用いる戦略と、名もない一般大衆の用いる戦術を区別する。そして後者を、自分の場所をもたず、他から押しつけられた場所で試行錯誤しながらなんとかやっていくやり方と規定し、「戦術は密猟をやるのだ。意表をつくのである。ここと思えばまたあちらという具合にやってゆく。戦術とは奇略である」と論じるのである(セルトー 1987:100-102)。
 これに対して第二の捉え方は、自らが名もなき人々=サバルタンになるという姿勢に基づいている。崎山は、サバルタン研究が行き着いた「日常における断片性」の探索は、サバルタンのもとに出かける必要を生み出すと言う。しかし、そこに出かけるだけでは、依然としてサバルタンに成り代わってサバルタンを語るという危険を回避することはできない。そこで、彼は、自らをサバルタンに変形させるように試みることが重要な課題となると主張するのである(崎山 1996:166-169)。一方、関根はインドの「不可触民」を論じる中で次のように言う。「・・・「不可触民」と私とが繋がる空間、言い換えると<地続き>の場所とは、中心化する支配言語による翻訳の可能性が潰える限界点、・・・すなわち被差別のイメージを負わされた「物言わぬサバルタン」という日常人の沈黙のプラクティス・・・がその都度その都度戦術的に切り開く空隙である。身を置くアリーナは違っていても、基本的に「他者の歴史」を生きることを余儀なくされ、そのような空隙に生きる点では「不可触民」も私も同行人たりうる」(関根 1997:338)。関根はサバルタンになるとは言わない。彼は、地続きの場所(関根 1995:4)で同行人となることを主張するのである。この点では松田も同じである。彼は、アフリカを論じる中で、生活の必要から生じる伝統に注目すべきだと主張しており、続いて次の様に述べている。「なぜならそのとき私たちは、同じ生活者としてアフリカと同じ立場にたてるからだ」(松田 1990:47)。
 第三の捉え方は、名もなき人々の活動はブリコラージュ的であるという認識に基づくものである。セルトーは戦術を論じる中でこうした視点を披露しているが(セルトー 1987:90)、小田は、セルトーを踏まえながらも、さらに議論をすすめる。彼にとってのブリコラージュとは、「断片をモザイク状にちぐはぐに繋ぐ、そういった斜線を引くこと、すなわち固有の場所なしに、資本主義文化とそれに反する諸文化、国民文化と反国民的な諸文化、そういった複数の文化の断絶をそのままに断言しながら、その間をひとつから他へ飛び移り、斜線を引いていくこと、しかもそれは単なる越境ではなく、その斜線(横断性)を真正な生活の場としながらおこなわれるプラクティークとしての戦術」なのである(小田 1998:475)。小田はレヴィ=ストロースの言う「真正性の水準」を考慮しながら、真正さが出現する生活の場における人々の日常的活動を、ブリコラージュという概念で捉えることの意義を強調するのである8)。そして彼も、関根や松田と同じく、第二の捉え方を披露することになる。小田は、「小さなものや被抑圧者と「獲得された敗北」を共有するために、・・・サバルタンになる方法を探ること」の必要性を説くのである(小田 1998:466)。
 さて、名もなき人々を歴史記述の基点として取り上げる姿勢には、共通して第二の捉え方、つまり、「記述者自らがサバルタンになる、あるいはその立場に立つ」という姿勢が見いだせたが、そもそも、記述をしようとしている者が、いったいどのようにして、自らをサバルタンに変形させることができるのだろうか。「サバルタンになる」必要性を説く崎山は、それに対する答えを用意していない。関根は「同行人たりえる」と言う中で、近代の枠組みから解放されることを目的とすることによって、分析者は「見る者」としての立場から「歩く者」として、より被分析者に近づくことができると主張する(関根 1997:340)。しかし、近づくかもしれないが、同行者にはなれないし、同じ立場にも立てないだろう。というのは、分析者が名も無い人々である被分析者と同じ地平に立つためには、みずから科学的言説を用いる分析者であることをやめ、被分析者の生活空間で誰でもない者になる以外に道はない。そしてそれは不可能なことなのだ。一方、小田は「「斜線を引き、ちぐはぐに繋ぐ」ことで光彩を放つような抗体について/になって語ること」(小田 1998:476)により、サバルタンになる道を探ろうとする。これは、言い換えれば、ブリコラージュを行っているサバルタンになるために、記述者自らもブリコラージュを行おうという提案でもある。しかし、レヴィ=ストロースはブリコラージュを読み解くために構造分析を必要としたのだ。いったい誰が、サバルタンを記述した記述者自身のブリコラージュを解読するのだろう。
 一方第一の捉え方は、日常的なちょっとした活動の中に支配システムに対する抵抗の戦術を読みとるという点で、サバルタン研究から遠い位置にいるわけではない。それ故、あまり主体的な抵抗という側面を強調すると、サバルタン研究が陥った矛盾を引き継ぐことになってしまう。つまり、名もなき個人が主体的に抵抗し、何かを意識して対抗的に行動するならば、その個人はもはや「誰でもない者」でなくなってしまう危険を持つのである9)。もっとも、松田は、人々が意識して行っている活動を問題にしているのではなく、無意識のうちに行っている日常的な実践こそ問題となるのであると言うかもしれない。であるとすれば、それをなぜことさら「支配システムに対する抵抗」と読む必要があるのだろうか。日常を生きる名もなき人々は、ちょろまかしたりさぼったりするかもしれないが、基本的に、それを「抵抗」と意識するわけでもないし、また自らの生活を「世界規模の支配システムに抑圧される」という意識で捉えているわけでもないだろう。そして、こうした意識を持たない点にこそ断片性の特質が現れているのであり、そうした把握のあり方そのものを議論の対象とすべきではないのだろうか。
断片性の問題については、第三の捉え方であるブリコラージュ論がうまく処理しているように思える。例えば小田は、サバルタンの戦術のあり方をブリコラージュとして論じることにより、その断片性を繋ぐあり方を比較的的確に把握していると言える。しかし、彼は名もなき人々の支配システムに対する抵抗としてのブリコラージュを問題にした点で、第一の捉え方をも行っていた。つまり、近代の枠組み、すなわち科学的な言説に抵抗する意味でのブリコラージュ概念を用いようとしたのである。そもそもブリコラージュ概念そのものが、科学的思考を持ったレヴィ=ストロース自身の自己に対するアンチテーゼという側面を持っていたのであり(吉岡 1984:177)、抵抗という意味合いはブリコラージュそのものに含まれていたとも言える。しかし、すでに述べたように、「抵抗」は分析者の側が創り出す枠組みであり、それそのものが本質主義的に他者を規定する見方に舞い戻ってしまう。つまり、そこに「民衆の抵抗的戦術」という物語を作り出してしまうのである。こうした「物語」を作り出さないためにも、名もなき人々の「断片性のあり方=論理のあり方」に視点を合わせる必要がある。それは、ブリコラージュ概念ではなく多配列概念に依拠する必要性をもたらすのである。
 多配列(polythetic)概念は、ヴィットゲンシュタインの「家族的類似」と関連する概念で、単配列(monothetic)概念と対立する(Needham 1975)。後者は、共通の特性を一つでも共有している場合、同一のカテゴリーを構成するという原理によって成立しており、それは科学的定義の根幹をなしている視点でもある。つまり、科学的定義では、共通の特性を定義として描き出し、それを共有するものをまとめて単一の存在と認定するのである。逆に言えば、この共通の特性を持たないものは、まとめられたカテゴリーから排除される。それはまさしく、近代のもたらした概念化、すなわち「あれか、これか」の選択を迫る仕組みなのである。これに対して、多配列概念は、共通の特性を持たないけれども、互いに類似しているということで一つにまとまるという原理に基づいたものである。例えば、目の前に3本の木があるとする。それをとりあえず1,2,3と呼ぶとしよう。多配列とは、1と2は葉が似ているから同じAという木だし、2と3は幹の形態が似ているから同じAという木であるというやり方である。つまり、1と3を2を媒介として別の基準で結びつけるのである。単配列が様々なものに切れ目を入れて不連続性を強調するやり方であるのに対して、多配列は様々に異なったレベルの基準を駆使することによりいろんなものを連続した線上に並べようとする。それ故、単配列に基づいた思考は、明確な境界線を持つ単一のリアリティという想定を創り出すのに対し、多配列に基づいた視点は、リアリティの重なりを認め、なおかつ、それぞれのリアリティの境界線さえあいまいなままにしておくという発想をもたらすのである10)。
 我々が問題としてきた、名もなき人々の日常における活動は、この多配列思考によって成立していると言うことができよう。そしてこの多配列的思考こそ、前節の最後で取り上げた多声的リアリズムを実現しているのである。ここにおけるリアリティは、いい加減な基準でできあがっている。しかし、いい加減である故に臨機応変な対応が生じる。筆者はかつて、ヴァヌアツの国民形成に関して、ヴァヌアツの人々が、国家の側が国民という想像の共同体を創る努力をしようとしまいと、それとは関係のないところで、なくなんとなくまとまっている、と指摘したことがあるが(吉岡 1994:232-233)、その理由は、人々が多配列的な思考に基づいて日常を生きているからである。結局、大勢の名も無い人々は、支配システムの言説を引き受け、国家エリートの言説を聞き、運動の指導者、知識人、人類学者などの言説をも引き受ける。しかし、だからといってそれが単配列的に人々に把握されていくわけではない。人々は、時にはある言説を引き合いに出し、すぐさま別の言説に依存する。そして、結局、どの言説が流通しようと、どの言説が支配的になろうと、人々にとっては、どれにたいしても臨機応変に対処することができるのである。
 彼らにとっては、新しく生成された文化が「捏造」と捉えられようが「創造」とされようが、歴史的もつれあいの産物であるとされようと、どれでもかまわないのだ。彼らにとって重要なのは、その時点で考えられる「正しい」ものと「間違っている」ものであり、それを説明するために様々な文脈が用いられる。しかも、それは自由に変わりうるものだし、容易に捨てられる。そのときそのとき、それぞれの理由がリアリティをもって語られる(あるいはイメージされる)だけである。しかし、彼らにとってはそれが「真正の現実」であろう。彼らとは、サバルタンではない。彼らは「抵抗」を試みるわけではないし、「従属」意識を強烈に持つわけでもない。強いて言えば、「いい加減で、臨機応変」という姿勢を持ちごくありふれた通常の生活を送っている人々である。つまり、抑圧されてきたと言えば抑圧されてきたのかも知れないし、大過なく過ごしてきたといえばそうであるかもしれない人々なのである。我々は、彼らのいい加減さの仕組みをもっと正面から見据えることにより、その仕組みの中に見え隠れする歴史に対処の仕方を論じることができるのだ。

おわりに

 客体化が歴史とかかわっている以上、我々は植民地化する側からの客体化(あるいは、サーリンズが考慮しなかったと批判されたローカルな活動のグローバルに与える意義の読み込みなど)や植民地化される側からの客体化(これは基本的に植民地化に対抗して生み出されるもので、主として独立後の国家主導の客体化、運動主導の客体化)のプロセスを配慮する必要がある。しかし、これらの客体化は、近代の枠組み、すなわち科学的言説の背後にある単配列的思考に基づいて表明されるものであり、基本的に対抗的な性質を持ったものであるという点を認識しておかねばならない。そして、これらがたとえ権力の側に立つ、あるいは、反権力の側に立つ歴史記述を行ったとしても、それはそれで否定されるべきではないであろう。それらは、それらなりのリアリティを伴った歴史記述であると考えるべきなのだ。何度も論じてきたが、これらを否定するれば、再び、唯一の歴史記述しか存在しないという単声的な視点に舞い戻ってしまうのである。しかし、もちろん、それら以外にも別の歴史記述がありうることを、人類学は示さねばならない。それが、名もない人々に基点をおいた歴史記述である。
 彼らは多配列思考が充満する日常を生きている。そこでは、人々は単一のリアリティと関わらない。それ故、異文化接触にあっても、人々はフレクシブルな日常における真正さを武器に、多配列的に臨機応変に対処する。第5節で、植民地化が行われる前と後では全く異なった状況が出現するという点を力説した。確かに、その違いが「通常の異文化接触」と「いびつな異文化接触」として現れた結果、後者では様々な社会宗教運動が出現し、近代の枠組みが忍び寄る結果になった。しかし、近代の枠組み(今や単配列的思考と呼んでもよいだろう)は、国家エリートや国家と対抗する住民エリート(知識人、運動のリーダー等)にとってはきわめて重要な影響を与えたが、国家エリートの主張に従ったり、あるいは運動についていっりした大勢の名もない人々にとっては、そうした枠組みそのものも、多配列的に対処すべき一つの見方、あるいは、一時的によりどころとするに過ぎない視点ということだったのである。「いい加減に、臨機応変に」対応する人々の客体化は、対抗的にはならない。フレクシブルな日常で遭遇する外的影響に対処するそのやり方は、相手との力関係をことさら意識することもなく、抵抗や従属という視点をもたず、思ったまま感じたままに行われるものであり、それこそが、サーリンズとは異なった地平から捉えられたものではあるが、彼が問題にしたものと同じ原理的客体化なのである。我々は、こうした多配列的思考が支配する「真正な」生活の場における原理的客体化を、もっと議論するべきであろう11)。そしておそらく、名もなき人々と同じ立場に立つことは出来なくとも、彼らの多配列思考にもっとも直にコミットできるのが、様々な批判を消化した後の人類学なのである。

                   注

1)トーレンは、「サーリンズはシステムをつくるのは人間の活動であることを認識しているにもかかわらず、彼は、システムに支配されない効果的な構成的活動の場を認めてはいない」と主張し(Toren 1988:114)、サーリンズの議論に矛盾があるように論じているが、サーリンズは当初から一貫してシステムに外在する個人的企図を想定していないように思える。
2)富山は「だが、コロニアリズムとポストコロニアリズムを区分けすることなどできない。すなわちファノンが『地に呪われたる者』で主要なテーマとした暴力は、ポストコロニアルと呼ばれる現在においても継続中なのである」と論じている(富山 1996:93)。彼の指摘はその通りであり、それに疑問の挟む余地はない。しかし、底流にはコロニアル状況が続いているポストコロニアルではあるとしても、現実の状況として、キージングの言う力関係が出現してることも確かなことなのである。
3)これは、今日オセアニアで盛んに議論されているカストム論という問題とかかわった議論である。メラネシアにおけるカストム概念は、必ずしも西洋世界との断絶だけを意味するわけではないという議論も最近出ている。筆者はこうした論点を見据えつつもなおかつカストム概念は西洋世界との対立点を強調する概念であると考えている。この点については稿を改めて議論する。
4)文化は絶えず生成されるとしても、文化生成の主体となるのは、当該社会の伝統文化に関する知識人である。北部ラガ社会でも、長い間行われてこなかった儀礼が復活するという状況がいくつか出現しているが、それを実行にうつしているのは、人々から伝統的なことに関して知識があるとして尊敬されている人達である。しかし、知識を問題とする以上、「正しい知識」と「間違った知識」が存在するという可能性を考慮する必要がある。
5)ここで言う「多声的リアリズム」というのは、人類学の分野で言えば、かつてオスカー・ルイスがその著『サンチェスの子供たち』でとった手法と関連している。彼は、家族をその構成員の自伝を通じて、構成員各自の目から捉えようという試みを行っているが、彼はそれを羅生門式手法と呼んだ。羅生門的手法というのは、黒沢明がその映画『羅生門』でとった手法で、同一の出来事をその出来事に遭遇していた人々それぞれに語らせその食い違いを見せるというやり方である。また、この方法は、よく知られているように、ベケットの戯曲『芝居』において既に見いだせるやり方である。
6)ホブズボウムが「このようにメーデーは、労働運動の指導者たちによって正式に創り出されたものではなく、指導者の追随者が率先して行ったものが、指導者たちによって受け入れられ、制度化されたものなのである」(ホブズボウム 1992:436)と言うときも、同様の視点が見いだせる。ホブズボウムは「指導者」という言葉でカウツキーなどの世界的な著名人を指しており、「追随者」という言葉で、カウツキーにさからって独自のメーデーを主張したアドラーを指しているのである。アドラーは、言うまでもなく、運動体におけるエリートである。
7)キ-ジングは続けて「しかし、サバルタンを見つけ彼らの声を聞いたとしても、彼らの声が一致しているわけではない」と述べている。彼は、サバルタンという概念を用いるが、それが単一のリアリティであるという認識は持っておらず、多声的な状況を的確に把握していたと言えよう。
8)レヴィ=ストロースは真正性の水準に関して次のように述べている。「最近、現代社会に対する人類学者の関心が高まってきましたが、人類学者は、現代社会のなかに「真正性の水準」を見分け、とりだすことに心を砕くのです。・・・二つの社会生活の様式とは、ひとつは当初、伝統的で古代的なものとみなされた「真正性の」社会の生活です。そしてもうひとつは、より新しく出現した生活の形態です」(レヴィ=ストロース 1988:26-27)。そして、レヴィ=ストロースの言う「真正な社会」とは、「個人間の関係が直接的であり」、「個人同士がじかに接しあう」ところであり、「通信手段を介してでないと成り立たない現代社会と対比される」社会のことである(レヴィ=ストロース 1988:137)。つまり、レヴィ=ストロースは、「文書や行政機構などあらゆる媒体を通じて交流」する現代社会には真正でないものが見いだせる一方、個人と個人が直接接する小規模な社会には真正性が見いだせると述べているのである。小田は、これを自らの言う「ブリコラージュの戦術が展開される生活の場」として捉えようとしているようだ。しかし、こうした個人と個人が直接接する場は、必ずしも科学的思考に対立する野生の思考で成立している訳ではない。小田の言うように「真正性にレベルを設ける」ことは必要だろうが、レヴィ=ストロースはそうした意味で「真正性の水準」を用いている訳ではないだろう。
9)サバルタンが被支配階級であり、反乱などが重要な行動であると捉えられていた初期サバルタン研究においてさえ、「サバルタン諸集団は、反抗して立ち上がるときでさえ、支配集団の行動に、常に従う」(グハ 1998a:4)のであり、「辛い世の中をもありがたいと思い、何とか生き延びてきた」(グハ 1998b:27)と考えられていたことを思い出そう。
10)多配列概念の根幹にある「類似」の仕組みを、筆者は典型と周縁という概念に基づいて考察を進めている。つまり、典型的とされるもの(本論に則して言えば2の木)が持つ様々な重要な特徴を、それぞれ別々に利用しながらいくつものものが周縁部を構成する(1の木や3の木)というものである(cf.吉岡 1983,1998b)。
11)その意味で、原理的客体化を全面に据えた前川の議論(1997b)は、評価されるべきであろう。ただし、前川は人々の多配列的思考のあり方については言及していないため、その議論は、単に、接触前の儀礼と接触後の儀礼を比較検討しているに過ぎないように見えるのである。しかし、彼の議論の方向性は大事にすべきだと、筆者は考えている。

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