ピジン文化としてのカヴァ・バー(研究会発表要旨)
商品としてのオセアニア(オセアニア学会研究大会発表要旨)



ピジン文化としてのカヴァ・バー

(2000年2月12日:国立民族学博物館共同研究会『メラネシアにおける都市と都市文化の人類学的研究』での発表)

[1]ルガンヴィルあるいはサント・タウン(地図

○もともとフランス人居住者が南東部のサンミッシェルをルガンヴィルと命名
○そこに カトリック教会、French Northern District Agency 、診療所、きちん宿、それ以外はココヤシのプランテーション
○アメリカ軍の基地:1943-45年 10万人の居住可能なキャンプ都市建設
     40の映画館、4つの病院、5つの飛行場など
○現在約10000人
○サラカタの奥、マンゴ、シャピなどが広がっていく。

[2]カヴァ・バーあるいはカヴァ・ナカマル(地図参照)

  ○所有者の内訳:ペンテコスト 22(50%), アンバエ 4, バンクス 3,トンゴア 2, タンナ 2
  ○ペンテコストの人口比率 13−14%
  ○1987年に認可。6軒からスタート(表の説明)。
  ○許可制度 ○認可料 7000vt.
        ○建築基準(建物の建て方、トイレの設置など
       ○毎年 10000vt.(ライセンス・フィー)15000vt.(プロパティ・フィー)

-------- ビデオ ---------(0〜9まで:サント・タウンカヴァ・バーまで)

[3]営業としてのカヴァ・バー

3−1:カヴァの価格、カヴァ・バーの賃貸料、カヴァ・バーでの労賃

○島から出す場合の価格。基本的に 100vt/kg, あるいは 110vt/kg
○都市部での販売者:輸送費は販売者が負担。1パック(約60kg)800〜1000vt.港から輸送費がかかる。
○販売者は、都市で、200vt/kg あるいは 220vt/kg で販売。ただし、これはパック単位。キロ売りをする場合は250vt/kg(場合によっては300vt/kg)。
○サントのカヴァ:200vt/kg。輸送費は、どれだけパックを積み込んでも2000vt.(陸路輸送となる)

○賃貸料:月4000vt〜6000vt.

○基本的に月15000vt.(使用人:食事、家付き)

○一般の労賃
    ○女:午前中だけ中国人の店で売り子     月8000vt.
    ○男:会社員:肉体労働(木の伐採) 月12000vt.
       会社員:機会の管理          月27000vt.
    ○男:ヤシ・プランテーション   最大で  月32000vt.
    ○男:カヴァ・プランテーション;ボス  月50000vt(という噂)
    ○男:店員   月75000vt.

3−2:カヴァ・バーの売り上げ

○流行っていないバー:半バックで6000〜7000vt の売り上げ。
     単純計算:1バック60キロとして:カヴァ料金 6000vt.
        輸送料 800vt.+ 200vt(港から)
カヴァ代 1日 3500vt.
賃貸料 1日 160vt.(4000÷25)
利益 1日 3340vt.
○流行っているバー:1日2バック消費。単純計算して1日24000vt. の売り上げ
月300000vt.
       月150000vt.(10人の使用人)
            月 12000vt.(賃貸料x2)

[4]都市特有のカヴァ・バー

---------- ビデオ -----------(9〜13:カヴァの製造

4−1:カヴァの味

○甘く(swit)なく苦く(konkon) なく、水のようなカヴァでしかも強いカヴァが良い(マレクラ、ルガンヴィル生まれ)
○強くなく、弱くない水加減が重要(ルガンヴィル生まれ)
○苦い場合:カヴァの皮の取り除き加減が少ない場合に生じる(ルガンヴィル生まれ)
○甘い場合:日に当てて乾燥しても甘くならない。
      バックに入れたまま1〜2日置くと皮に皺が出てくる(トンガリキ)
○甘い派 :(水の様なカヴァを飲むから)そうしたカヴァを飲んでいる連中の顔は白くなる(トンガリキ)
○水派  :ほとんどの連中は、甘いカヴァを欲しない。甘いカヴァは胃をかき回すから(マレクラ、ペンテコスト、ルガンヴィル生まれ)。
○両派  :どこででも飲む(アンブリュム)

4−2:カヴァ・バーでのカヴァつくり

○ミンチ機、あるいは棒でついてカヴァをつぶす。
○枝に近い部分や根は用いない(これらはパウダーカヴァに回す:250vt/kg)
○マレクラはかんでいる。町のナカマルで噛んで作るのはtabu.噛んだり石で削ったりするのはそれぞれの島のもの(マレクラ)。
○石で削っていて大勢の者がやってきたらどうする。疲れてしまう。多くの人々に供給出来ない。噛んで作っても、多くの人に供給出来ない(マレクラ)。
○石で削っていたが、人が多くなってパイプで潰すようになった。1杯や2杯飲むだけならよいが(ペンテコスト:カヴァ・バーの創始者)。
○サントでは多くの連中はチュ−イングを嫌がるから、チューイングでカヴァを作らない。ワ−タは大変で、買ってもすぐに飲めない。機械でつくったカヴァは、お金を払うとすぐに飲める(トンガリキ)。
○・すべてのカヴァ・ナカマルではビスラマで言うボロンゴロというカヴァを用いる。グリーン・ボロンゴロは水が多く、乾燥しても甘くはならない。イェロー・ボロンゴロ(7年から10年たっている古いカヴァ)、これは水分が抜けて枯れている。水が少ないので甘い。

4−3:カストム

○カストム:伝統的なものを指す。
○シロン・ファヌア:土地の法(カストム)
 アレガン・ファヌア:土地のやり方(ファッシン)
○alengan vanua はもとからそこにあるもので、人によって解釈が異なるからそれぞれ違って見えるが、もとは一つ。変わらず存在し続ける。
○silon vanuaに従うことが alengan vanua
○町での生活を話していて Ni-Vanuatu のkastom では、大勢の家族をかかえる、誰かが頼ってくるとかかえる、何かをせびれば与える。しかし、中国人はそうではない。しかし、今はなしているのは、fasin についてだと説明し直す。

4−4:カヴァ・バーとカストム

○カヴァ・ナカマルはカストムだと思う。しかしおまえは違うと言いたいんだろう(パーマ)。島ではすべてがただ。
○カヴァ・ナカマルでは現金を払ってカヴァを飲むからカストムではない(ペンテコスト)。
○カヴァ・ナカマルは fasin blong taon 又は stael blong taon, しかし
kastom blong taon ではない。taon の kastom というのはないから(ルガンヴィル生まれ)
○カヴァ・バーとカヴァ・ナカマル:お金を出して一杯づつ飲むのだから、カヴァ・バーという名称の方がふさわしい。もし二つを区別するとすれば、kg 単位でカヴァを売る場合、カヴァ・ナカマルと呼べばいいのでは(ルガンヴィル生まれ)。
○カヴァ・ナカマルはカストムではない。西洋流にしたかっただけ。western civilization だ(ペンテコスト)
○カヴァ・ナカマルはアレガンナ(カストム)ではない。あればバーだ(ペンテコスト)。
○ナカマルはこんな建物がなくてもナカマル。ペプシ・のタンナの連中は、バンヤン樹の下でカヴァを飲んでいるが、そこが彼らのナカマル。(ルガンヴィル生まれ)]
○カヴァのアレガンファヌア(カストム)とは、若い者が作り、チーフが「モルメメアが飲め」というとモルメメアが飲んでそしてチーフが飲む。お金を払う必要はない。(ペンテコスト)。
○カヴァ・ナカマルはシロン・ファヌアに反する。バシシを使ってない。水をたくさん入れる。島では2杯で十分なので、町では何倍も飲む。村のガマリと全く違う。お金が介入する。など。ゴナ−タをしても鶏をどこで料理するのか。カヴァ・ナカマルはバ−に過ぎない。シロン・ファヌアではない。カヴァ・ナカマルではゴンゴナイがない。
○「カヴァ・ナカマルは一つの国民文化だという考えがある」と言うと、そんなバカなと吐き捨てる様に言う。彼にとっては、カヴァ・ナカマルはカヴァ・バ−であって、単なるビジネスに過ぎない。
○村のガマリとは全く違う。違いを見つけようとすれば、幾らでも見つけられる。共通点を探すという姿勢よりも、差異を探すという姿勢を選んでいる。
○(マレクラにおけるカヴァ) カヴァを噛んでつぶして、それをこねる。そのあと水を加えて絞り、チーフが名前を呼ぶとカヴァのある場所へいき、ひざをついてそのカヴァを口で飲む。カヴァはチーフ以外の者も植えたが、チーフのもの。昔はそんなに多くはなかった。今はみんなたくさん植えている。チーフだけが飲み、時々それ以外にもまわった。例えば特別の儀礼のおりなど。
○カヴァはカストム。しかしそれぞれの島のもの。カヴァ・バーはは島のカヴァとは違う。ヴァツが入るため、また、水をたくさん入れるため。
カヴァ・バーは、しかし、白人のものとくらべるとブラックマンのカストム。アルコールとは違い、respect がある。喧嘩をしない。しゃべらない。人の前を通るときは静かに通る。これらはブラックマンのカストム(マレクラ)。
○カヴァ・ナカマルはカストムだ(パーマ)。

[5]タウン生活

--------- ビデオ --------(13〜18:プランテーションなど)

5−1:土地

○約600uの土地:10万vt。まず、urban land officeへ行って2000vtで申請書を買い、それに記入。申請が認められたら土地に家を建てることができる。手付けとして26000vt 払うと、登記ができる。そして10万払い終わると、完全に自分の土地となり、そのあとは毎年5000vt支払う。
○パブリック・ランドを勝手に切り開いて畑を作る。許可を取っているわけではない。ガヴァメントが何かをするときに立ち退きを命じ、それに従うだけ。
○パブリック・ランドにナカマルを作っているところもある。豚も飼っている。
○サントは土地が大きいので良いという。都市部を離れたとことでは、家の土地のオ−ナ−の土地をただで畑として許可を得て使っている。
○空港近くに畑を持っている。land owner から無料で借りている。売ったりせずに自分で食べるだけだったら無料で借りられる。

5−2:ヴィラとサント

○大きなタウンは何でも金、金で良くないという。しかし、サントは違う。別に働かなくても良い。
○町よりも村の方が良い。町は何でも買わねばならない。ヴィラよりサントが良い。ヴィラは何でも高い。例えば、マーケットでバスケット一杯のヤムがヴィラでは800vt、サントでは400vt。
○ヴィラはは高い。稼ぎが低いと生活できない。
○働き場を躍起になってさがさない。年5000vt かそこらで、畑を借りることが出来、その産物を売る。これで生計がたつ。
○ヴィラは車、騒音、人が多すぎる。
○ヴィラはすべてが早い。時間が重要。サントは時間に価値を置いていないかのよう。時間にルーズ。ゆっくり流れる。
○サントの唯一良いところは、カヴァ・ナカマルが立派で大きいこと。また、ナカマルの前には小店があって、そこで食事を買えば、帰ってから作る必要がない。
○サントでは、畑を作って自活している者も、自らをSPR(spelem long publik rot)と名乗っていたが、ヴィラのSPRは、本当に、居候生活をしている。

5−3:タウンとカストム

○kastom はそれぞれの島にあるものでタウンにはない。
○taon にはそれぞれの島の人間が集まってきており、(誰でもがそれぞれの島を背景にもつ)タウンで生まれた人間もその所属する島は決まる。つまり、man taon、マン・フィラ、マン・ルガンヴィル というものはない。だから、タウンの人々もそれぞれの島の kastom に従うのであり、町固有のカストムはない。
○ルガンヴィル生まれの者は、マン・サントになる。それがいやなら、自分の系譜から(父方、母方など)自分のアイデンティティのある島を自分で決める。
○タウンに居住している人々は、それぞれの島の人間であり、それぞれのチ−フが居て、問題が起こった時はそのチ−フの指示に従う。
○誰がチ−フになるのかは、サント在住者は知らない。ペンテコスト全島チ−フ評議会が指名してくるらしい。一度カウンシラ−になると任期はない。在住者からクレ−ムが出れば交代することになるらしい。

○Luganvill man island counsil of chiefs

Banks & Torres 2人     Ambrym 1
Paama 2      Raga 2
Ambae 1      Maewo 1
Malekula 2      Tongoa 1
Santo 2      Malo 1
Efate 1      Eromanga 1
Tanna 2 Aneyteum,Aniwa,Futuna もlukaot している

・President は3年任期。もしうまくやればさらに3年続く。
・councilor は任期がないようなもの。人々が「あいつはだめだ」と president に訴えれば、交代することになる。
・ダンス・クラブを作るときは、council の承認が必要。
・カジノはgovernment, kava nakamal はミニシパル

[6]居住区内でのカヴァ

6−1:北部ラガの人々の居住区:ラ・フシ・ヴァトゥ

○20家族:北部ラガ出身夫婦10家族、北部ラガ出身妻  2家族
      他:マレクラ、エピ、パーマ、アンブリュム、アンバエ、バンクスなど
      (市役所2人など)
○職業:市役所、会社員、店員、ドライバー、教員、トラックを持っていて輸送
○無職=定職なし:臨時やとい(借金の取り立て、大工仕事など)

6−2:ラ・フシ・ヴァトゥにおけるカヴァ

------------ ビデオ ----------(18〜:ラ・フシ・ヴァトゥにおけるカヴァ

○村落との違いは、どこにあるか。
○チ−フが取り仕切るのではない点。サイモンが取り仕切っている。
○式次第を作り、カヴァを飲む前に俺に対する質問の時間をつくり、食事が出来て帰る前に、握手するということも、式次第に含まれている。
○しかし、名前を呼ぶときには豚名で呼ぼうとするが、例えばピ−タ−・タヒの豚名が何であるのか知らないため、うまく言えなかったりする。
○多くの連中は、豚を殺してさえいない。
○カヴァは、俺とピ−タ−・タヒが同時に飲む。
○人々は出来るだけ村落の線に沿ったやりかたで暮らそうとする。
○アレガンナは村落のそれそのままだ。シロン・ファヌアはかなり失われているが、アレガン・ファヌアはとりあえず手に入る材料を使って、何とかその線に沿おうとしている。

[7]ピジン文化としてのカヴァ・バー

7−1:ピジン文化

○クレオール化するまでの混成語、母語とは別のものとして存在。
      「ビスラマではうまく言えない」「ビスラマは良くない」

○自らのアイデンティティの場としての島文化。
      :gida ata Raga という言い方、村落とタウンとでの違い。
      :島単位で成立するマン・プレス
      :アレガンナ、カストムの所在地としての島。
○アイデンティティの設定されない都市文化。
      :島アイデンティティの混成した場。
      :島単位のチーフによる管理。
      :都市としてのカストムの不在。
○否定の対象としての都市文化。
      :エリート達による一般的な否定的「都市イメージ」。
      :都市は良いとは言えない理由=アレガンナ、カストムを否定すること。
○ :それを補うための居住区内でのアレガンナの模倣。
:都市生活者のアレガンナは変わった=最大の批判

7−2:カヴァ・バーと国民文化

○「カヴァ・ナカマルはヴァヌアツの国民文化である」という指摘。
      :現象としては正しい。
      :観光宣伝の対象となる。
○「文化」概念のズレ
      :政治家による言説:culture, tradition, custom
      :人々の意識の中における kalja と kastom の同一視
      :人々にとっては、国民文化=Ni-Vanuatu のカストム
政治家にとっては、国民文化=Ni-Vanuatu の culture
      :人々にとっては国民のカストムとは言えない。
○ピジン文化としてのカヴァ・バー
:現地語に対して 批判的 ピジン
       英語に対して  賞賛的 ピジン

村落のカヴァ飲用に対して 批判的 カヴァ・バー
       アルコール・バーに対して 賞賛的 カヴァ・バー

      :村落の「真正なカストム」ではないが、「白人の文化」とは違うもの or
政治的にねつ造されたカストムとは違うもの
○ピジン文化:クレオール文化::カストム概念:ヴァカ系統の伝統概念



商品としてのオセアニア

(2000年3月23日:日本オセアニア学会第17回研究大会シンポジウム『オセアニア研究の市場価値』での発表)


<商品としてのオセアニア発表要旨>

 オセアニア研究が、どの様な市場価値を持つのかということを考える前に、オセアニア(太平洋島嶼部)が世界の市場においてどの様な商品価値を持っていると言えるのかを検討したい。
 オセアニア世界は、一体どの様な「売り」をアピールすることが出来るのだろう。人的資源も乏しく、また、地下資源も豊富とは言えないオセアニアの島嶼国・地域は、旧宗主国などからの援助金を頼りにせざるを得ない状況となり、経済的自立は難しいと言われている。こうした状況の中で、援助のあり方が考え直され、現在注目されているのが信託基金制度である。例えばツバルの場合、ツバルを含めて4つの提携国が拠出した資金の運用をファンドマネージャーに委託し、それによって生まれる運用益をツバル政府が自由に使えるという仕組みを備えている。こうした援助のあり方は、いわば、援助することにより産業をおこし、すべての地域を近代化する方向に向かわせるという従来の援助のあり方に対して、援助される側の視点を取り入れた新しい援助のあり方としての意味を持つと言われている。しかし、その結果何が生まれるのだろう。「すべての国・地域が、同じ様な近代化の道筋をたどって発展するはずで、遅れているところは特別の援助を得て発展させる」とする19世紀進化主義的な従来型のものの見方は反省され、「近代化しないところはしかたがない、世界の流れの中からはずれて、自分たちなりになんとか生きていくための場所をつくってやらねばならない」という見方が登場してきたと言えるが、後者は、いわば、特区の設定であり、それは保護区、ないしは、「みそっかす」としての地位を与えたということに過ぎないのではないだろうか。
 ところで、オセアニアにおける資源として、売り物になると考えられているものがないわけではない。それは観光資源である。では、どのような観光資源が売りになるのか。現在の所、ハワイやグァムの様なマス・ツーリズムに合致するような観光は、他の島嶼地域では難しいと言える。そこで注目されるのがエスニック・ツーリズムとエコ・ツーリズムが合体したような観光であろう。特に、エコ・ツーリズムは、従来型の観光に対するオールタナティヴ・ツーリズムとして注目を浴びている。そしてこうした観光に対する視点の変遷は、援助のあり方の動向と歩調を共にしていると言える。つまり、すべてを“近代文明”の要請に合うような近代的なツーリズムの対象とするのではなく、個別性を重視し、観光される側、つまりホストの側の視点や主体的なかかわりを取り込んだ持続可能な観光への傾斜である。そしてそれは、一面で、信託基金制度の場合と同様、いわば「特区」を設定することになる。ただ、観光を行う側、つまり、ゲストの側が自らの立っている近代文明の視点から見て「一目置く」様な資源を持っているところは、特区としての位置づけが大きな売りになるだろう。しかし、オセアニアの場合はどうであろうか。ゲストは、「近代文明からかけ離れたところ」としてしかオセアニアを見ていないのではないか。とすれば、そこに出現するのは、「未開性」を売り物にするエコ・ツーリズムということになるのである。
 ゲストの側は、こうした観光を通じて、例えば「文明の失ってしまった人間性を、逆に、これら未開の人々に見いだした」と進化主義的に納得したとしても、ホストの側はそれで経済的利益を得るのだから、両者の間にヘゲモニーを行使する側とそれを演出する側という落差はない、という意見がある。そうだろうか?我々は、ホストの側が舌を出して「うまく未開性を演出できたね」と言えば、それで良しとすべきなのだろうか。
 オセアニアは、従来の援助・開発・観光の視点からは、売るべきものはなかったと言える。しかし、オールタナティヴなものの見方が登場してからは、世界市場へ「取り残された未開性」「みそっかす性」を売ることが可能となった。ところがそれは、いくら利益をもたらすものであろうと、いくらホストの側が主体的に取り組んだものであろうと、自文化を誇りを持って語ろうと、ゲストの側には、人間動物園としてのサファリパークで「我々とは違う」人間とふれ合い、自らの意識を高め、満足して帰るという構図が存在するという点を否定することは出来ない。こうした中で、我々は、未開性を個別性へ、みそっかす性を独自性へと変換するものの見方を模索する必要があるのではないだろうか。それは、様々に行われてきた人類学批判言説、特に、「未開社会」を代弁してきた人類学者はオリエンタリストである、という言説をもう一度再考させることになるのではないだろうか。

<商品としてのオセアニア発表メモ>

1 信託基金制度(参照:小林泉『太平洋島嶼国論』)

1−1 難しい産業開発

○理由(1)経済規模が小さい(人口が少なく陸地面積が狭い)
   (2)経済活動が分断される(人と陸地が分散されている)
   (3)人口密集地あるいは主要市場から遠い。
○インフラストラクチャー整備、市場間の輸送などに費用がかさむなど、近代産業化 のためには不利な条件が多い

1−2 経済開発批判

○従来の援助:貨幣経済による自立の達成
       →伝統性の打破、近代化の推進
       →それまで存在していたサブシステンス・システムの崩壊
       →援助が拡大されるほど貧困観が増大。その傾向が完全にサブシステンスの消滅するまで続く

1−3 信託基金制度

○援助のあり方
 (1)最小限の政府維持を可能にする
 (2)サブシステンス経済において自立を成立させていた島嶼的富を維持
 (3)如何に更なる富を蓄積させるか、という援助のあり方を考える
○それを可能とする信託基金制度:
  ○NZ、オー、英、ツバルから各1名の理事を送り、理事会を構成。ツバルの理事が議長を務める。
  ○ファンドマネージャーに財産の運用を委託し、それを監督する監査人を置き、理事会に報告する。
  ○運用益の中から元本繰り入れの再投資額を差し引いた配当額が、ツバル政府に拠出される。
  ○政府はこれを自由に使うが、理事会が承認した2名程度の委員による委員会が設置され、政府の資金使用にアドヴァイスを与える。

●それぞれの島嶼国の内部のあり方を重視し、サブシステンス経済を温存するという方向は、まさしく、これらの地域だけは、世界の流れから隔離された特別区に指定 されるということに他ならないのではないか。

2 もう一つの観光

(参照:石森秀三編『観光の20世紀』、山下晋司編『観光人類学』、橋本和也『観光人類学の戦略』、春日直樹編『オセアニア・オリエンタリズム』)

2−1 エコ・ツーリズム

○(1)生産効率が低いために劣等視されてきた原自然が、人類の価値ある遺産として、人々が学びに行く場所として見直され、文化の流れが変わる可能性も出てきた。(山極 in 山下)
 (2)近代文明に乗り遅れたために一方的に収奪され、世界の経済機構から見放されて貧しさという仮面をかぶらされてきた発展途上国の人々は、自らの伝統社会とそれをはぐくんできた故郷の自然を誇りを持って振り返ることができるようになった。(山極 in 山下)

2−2 エスニック・ツーリズム、スタディ・ツーリズム、エコ・ツーリズム

○異文化の人間を対象とするエコ・ツーリズムは、エスニック・ツーリズムと同じ位 置に立つ。

2−3 のぞき見とエコ・ツーリズム

○「生活文化」の提示方法が練り上げられ、シナリオに沿って演じる一種のパフォー マンスにまでなれば、突然の「のぞき見」されたときのような後味の悪さを感じず に済むであろう。観光では、本来の文脈から離れた観光用の出し物が「ほんの少し」だけ上演・提示される。(橋本)
○観光する側の今日の志向:そのひとつは「見る」だけではなく、「聞く」「味わう」「嗅ぐ」「触れる」など、身体のあらゆる感覚を動員して、観光体験をいっそ う豊かにすることである(高田 in 石森)

2−4 カンニバル・ツアーズ

●ベリーズ、ブータン、モンゴルにおける観光は、しばしば<未開性><後進性>を論点として議論されるが、それらの地域は、「近代文明」の側にいる人々が「一目置く」ものを持っている。マヤ文明であり、ラマ教であり、チンギス・ハンである。
●しかし例えば、メラネシアにはそうした「一目置かれる」ものがない。近代文明が失ってしまったものを探し求めるというパターンは、よく見られる。しかし、それは、<素朴な人々><田舎の人々><汚染されていない人々>という意味で用いられるもので、何もメラネシアに特有のものではない。ヨーロッパの田舎における人情にだってそれを適用することができる。
●ところが、<人食い人種>の場合は、メラネシアの売りとなる。そこでは、単なる「未開性」、つまり「近代文明」の否定形態としての負の価値観というよりも、「常識人としての人間」の否定形態としての負の価値観が設定されることになる。そして「彼らも人間なのだ」「彼らにこそ人間性があるのだ」という方向への話の展開を行うことによって、最終的には「人間はひとつだ」という演出が生きることになる。それは、ベリーズなどにおける未開性とは異なるだろう。

3 オリエンタリスト

3−1 援助・開発・観光における共通の傾向

●持続可能な援助・開発・観光

 近代化の押しつけではなく、援助(開発・観光)される側の人々の主体的な参加、人々の意志の尊重、小規模、最小限の変革、など。、援助観光開発の場合と同様である。→ 特別区、みそっかす区の設定

●こうした「オールタナティヴ何々」は、近代化政策の裏返しに過ぎない。共通するのは、「未開」とされてきたところを「特別視」すること。

→遅れているから追いつかせよう=自分なりの歩みで一歩一歩進めよう

3−2 オセアニアの売り

●「オールタナティヴ何々」の登場によって売りが生まれた。それは、人間動物園。
●こした観光の場合、ゲストとホストの間には、落差が存在するのではないか。

○エコ・ツーリズムを行うアメリカの中産階級は、エコロジー意識を持つことによっ て中産階級となり得るのだし、観光の対象となるところの人々は、それによって経 済的利潤を生む
 →「そこにあるのは、イデオロギーの共有であって、ヘゲモニーを行使する側とそれを演出する側という落差ではない(永渕 in 石森)

●ゲストの側が、「うまく未開人を演じることが出来たね」と言って舌を出せばそれでゲストとホストの落差が解消されるのか?
●「あんな未開人にも人間性があったのだ」「文明人は彼らの持っている人間性を失っている。彼らと出会えてよかった」という言説に対して、人類学は黙るのか?
●「「未開」イメージのために観光が成立しているのだから、それに対して何も言うな」とゲストの側が言えば、人類学は黙るのか?

3−3 ひとつのあり方

●正装して誰かを出迎えるときの儀式は、ティーシャツやズボンをやめて伝統的な出で立ちで行われる。人々は、こうした出で立ちは、伝統であると考えている。それは、しかし、ゲストの側には未開性の現れと写る。ゲストの側から言えば、より未開な姿をすることは、自らとのギャップも大きくなり、「未開というよく知られたイメージ」に合致することになる。ホストの側から言えば、より伝統的な出で立ちをするのであり、これは正装であるということになる。どちらも、具体的に言えば「裸で褌をする」姿を良しとしていることになる。問題は、その姿をどう捉えるのかということであろう。そして、それを未開という概念で捉えることを問題にすべきであろう。

●それでも観光は成立するか。

 新奇性の売り→ホンモノ性の売りへの転換

 「我社の経験豊富な現地スタッフとっておきの」というふれこみによる、ホンモノ性(落合 in 石森)、あるいは、本場性の存在。

●しかし、こうした姿勢は、オリエンタリストへの道ともなるという批判。